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陰刻雲龍紋花入 沖縄壷屋焼

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沖縄の陶磁器は出来不出来が大きく、近代になっては見るべき作品はほとんど無いと思われます。小橋川仁王、金城次郎、新垣栄三郎の後を継ぐ陶芸家がいないことが大きな原因でしょう。

陰刻雲龍紋花入 沖縄壷屋焼
合箱
口径70*胴径110*底径*高さ305



本作品は底には「琉球」との刻銘があり、本作品は幕末から明治期の作品と推察されます。



沖縄では江戸期には幕府の庇護のもとで古琉球の焼き物は栄えました。明治期になりその庇護がなくなり、衰退の一途をたどり、再興の機運が高まるも戦争により絶滅の危機となりました。民藝運動の高まりで復興するのですが、衰退時期の作品は極端に少なくなり、とくに本作品のような佳品は貴重なもののようです。



沖縄の焼き物は数は少ないのですが、本ブログでも幾つか投稿されています。

ちょっと沖縄の焼き物を整理してみましょう。

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沖縄の壷屋焼の焼成による大分類
壺屋焼は大きく分けて、「荒焼」と呼ばれる南蛮焼の系統を汲むものと、「上焼」と呼ばれる大陸渡来系の絵付があります。

1.上焼(沖縄方言でジョウヤチ)・・本作品

17世紀以降、朝鮮陶工らによって始められた絵付陶器で、陶土に白土をかぶせて化粧し、それから色彩鮮やかな絵付や彫刻紋様を施し、釉薬を掛けて焼成した作品です。用途は抱瓶(携帯用の酒器)やカラカラ(沖縄独特の注ぎ口のついた酒器)、茶碗、皿、鉢などの日用品。荒焼に対して装飾性は強いが、上流階級だけでなく庶民向けでもあったため、民芸運動家らは驚き絶賛したといいます。




2.荒焼(沖縄方言でアラヤチ)
14世紀~16世紀頃、ベトナム方面から伝わった焼き物。釉薬を掛けずに、1000度の温度で焼き締める。鉄分を含んだ陶土の風合いをそのまま生かしたもので、見た目は荒い作品です。当初は水や酒を貯蔵する甕が中心でしたが、近年は日用食器も多く焼かれています。また魔除けで知られるシーサーもこの荒焼に分類されます。

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本ブログでは下記の作品が「荒焼」に分類されそうです。

琉球南蛮焼花生 荒磯徳利(鬼の腕)   
合箱
口径44*最大胴径80*底径60*高さ258

似たような作品として下記の作品もあげられると思います。

南蛮焼締花入 江戸期杉古箱
口径90~75*胴径120*高さ285

さらには下記の作品もその可能性があります。

南蛮手焼締四耳花入 江戸前期 
合箱
口径55*胴径130*底径75*高さ275

さらに時代による分類では下記のようになるようです。

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時代による分類
1.古琉球:琉球の焼き物の歴史は、縄文時代の土器の出土例などが知られているが、より本格化するのは高麗瓦が出現する12、3世紀以降である。浦添城などから、「癸酉年高麗瓦匠造」の銘のある高麗瓦が出土しているが、この「癸酉(みずのととり)」は1153年か1273年かのいずれかを指すという説が有力である(他にも説がある)。ただし、この高麗瓦が沖縄で焼かれたのか朝鮮半島で焼かれたのかはまだ明らかでない。近年では浦添ようどれの発掘現場から、高麗系瓦の窯跡らしきものが発見されたとの報道がなされた。時期は14世紀後半から15世紀前半と見られ、これが事実なら当時から琉球では独自に高麗系瓦を造られていたことになる。16世紀には、中国からの帰化人で、琉球最初の瓦工ともいわれる渡嘉敷三良( ? - 1604年、阮氏照喜納家の祖)の活躍が知られている。また、『球陽』には、尚永王時代(在位1573年 - 1589年)の万暦年間(すなわち、1573年から1589年の間)に、唐名・汪永沢、小橋川親雲上孝韶(汪氏宇良家元祖)が初代瓦奉行に任命され、「陶瓦並ニ焼瓷等ノ項ヲ総管ス」という記述がある。焼瓷(やきがめ)とは今日の荒焼(あらやき、方言でアラヤチ)による甕(かめ)のことと考えられ、当時首里王府によって屋根瓦並びに荒焼が生産・管理されていたようである。荒焼の起源は不明な点も多いが、別名「南蛮焼」「琉球南蛮焼」と呼ばれるように、一般には14世紀後半以降、中国との進貢貿易が始まり次第に東南アジア方面との交易も活発になる中で、進貢貿易の見返り品を求めて、南方より酒甕や壺、碗類が琉球に大量にもたらされるようになり、そのとき同時に荒焼のもととなる製法も伝来したのではないかと考えられている。また、12世紀以降、中国の焼き物や徳之島のカムイ焼が輸入されるようになり、それらがグスク跡等から発掘され、沖縄で広く使われていたことが明らかになっている。ただしカムイ焼の窯跡のようなものは見つかっていない。

この時期の作品は上記で取り上げた作品群が重複するようです。

2.近世琉球:1609年、琉球は薩摩島津藩の支配下に入る。1616年、尚寧王は世子尚豊を通して、朝鮮陶工、一六(いちろく、? - 1638年。唐名・張献功、仲地麗伸。張氏崎間家元祖)、一官(いっかん)、三官(さんかん)の3名を薩摩より招聘して、湧田(現・那覇市泉崎付近)で陶器を作らせた。これが湧田焼の始まりである。また読谷村喜名でも、今日「喜名焼」と呼ばれる古窯があり、1670年頃、荒焼を主体とした陶器が盛んに生産されていた。康煕9年(1670年)の銘の入った喜名焼の厨子甕が発掘されている。喜名焼では水甕、酒甕といった大型のものから油壺までいろいろな陶器が作られていた。一説には南蛮焼はここから始まったという。他に知花窯(現・沖縄市知花)や宝口窯(現・那覇市首里)といった古窯も知られている。1670年には、平田典通を清に派遣して赤絵を学ばせるなど、現在の中国方面からの技術導入も行われた。1682年、尚貞王の時代に、湧田窯、知花窯、宝口窯の三カ所の窯を牧志村の南(現・壺屋)に統合して、新しい窯場が誕生した。これが現在の壺屋(つぼや、琉球方言でチブヤ)焼の草創である。その後、壺屋焼は琉球随一の窯場となり、その製品は国内消費や交易に利用された。また、琉球使節の「江戸上り」の際、将軍や幕府首脳への献上品である泡盛を入れる容器としても用いられた。江戸時代に大名の江戸屋敷が密集していた汐留遺跡の発掘の際に、伊達氏の屋敷跡と推定される地区から壺屋焼の徳利が出土している。また、幕末の風俗を記した『守貞謾稿』にも江戸や京都・大坂で荒焼徳利に入った泡盛が市中で売られていたことが記されており、それを裏付けるように各地の近世遺跡で壺屋焼が出土している。ただし、研究者の間でも「壺屋焼」の存在自体が知られておらず、「備前焼」「南蛮焼」として博物館などに展示されている例があるとの指摘(小田静雄)もある。

本ブログでは下記の作品がこの時期の作品かと思われます。

呉須絵線条文花入 古琉球壺屋焼合箱
口径20*胴径75*高さ135*高台径約55

下記のような作品がインターネット上にありましたが、製作年代は不詳です。
琉球焼 搔落人物文 双耳壺



本作品と同じような印が高台内にあります。



3.明治以降:明治から大正に掛けて壺屋焼は低迷期を迎える。琉球王府の廃止を含む幕藩体制の解消で流通の制限が無くなり、有田などから安価な焼き物が大量に流入してきた。再生の転機は、大正の終わり頃から柳宗悦によって起こされた民芸運動に陶工達が触発されてからである。柳は、沖縄での作陶経験のある濱田庄司らとともに1938年初めて沖縄を訪問し、1940年までに4回来島した。金城次郎や新垣栄三郎ら陶工に直接指導や助言を行い、また壺屋焼を東京や京阪神などで広く紹介したため、生産も上向きになった。今日、壺屋焼があるのはこの民芸運動家らによるところが大きい。彼らは日本国内で生産される日用雑器の「用の美」と呼ばれる実用性と芸術性に光を照らした。そして壺屋焼を、本土にない鮮やかな彩色が目を惹き、庶民の日用品でこれほどまでに装飾性を兼ね揃えたものは珍しいと評価している。壺屋やちむん通りにある南窯太平洋戦争(沖縄戦)で沖縄本島全土が焦土と化す中、壺屋地区は比較的軽微な被害で済んだ。しかし、一帯の都市化の進行とともに薪窯の使用が規制されると、伝統的な技法を失った当地では再度、存続の危機を迎えた。そのため、今日では薪窯を認可した読谷を始め、壺屋地区以外にも窯元が分散することとなり、およそ100ほどの窯元が県内に見られる。

この時期の作品は浜田庄司、河井寛次郎、小橋川仁王、金城次郎、新垣栄三郎など特定の個人による作品が多い。本ブログでも僅かながらその作品が投稿されているので参考になれば幸いです。

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沖縄の焼き物は本ブログでは本流とするところではありませんので、専門の書物を参考にしていただければと思います。いずれにしても中国を含む東南アジア、朝鮮半島、そして日本の影響を受け続けた沖縄の焼き物ですが、茶味のある作品は探すと結構たくさんありそうです。そう「茶味のある作品」が当ブログの追い求めるところの陶磁器蒐集の目的のように思います。



龍の釘彫りは実におおらかでいい。この絵付けは作品は下記の作品に通じます。

伝古九谷青手波ニ雲龍合箱
口径245*高台径90*高さ57

釘に荒々しさは胎土を突き抜けそうなほどの勢いがあります。



釉薬と土の味が渾然一体となり、雲龍と雰囲気をより一層醸し出しています。



波の表現も並じゃない・・・。



ずっしりとした重い作品です。



さて、このような作品が骨董市で陳列されていたら、読書の皆さんは買われますか? 

お値段は5万前後、値切って3万円ちょい・・。お値段はそれなりにしますが、現代の沖縄焼よりはお安いかも・・・。

当方は琉球焼については詳しくないので、高いか安いかはよく解りませんが、飾っておきたくなる作品だと思います。










鎧飾之図 狩野永暉筆

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鎧飾之図 狩野永暉筆
絹本着色軸装 軸先蒔絵 共箱
全体サイズ:縦2070*横660 画サイズ:縦1200*横510



5月の節句に飾る作品として依頼して描かれた作品と推察されます。戦場で身を守ってくれる甲冑(鎧や兜)は、武家にとって、特に男子にとって、とても大事なものでした。端午の節句では、鎧兜は子どもに災いがふりかからず、無事に逞しく成長するようにとの願いを込めて飾られています。



ただし節句に飾る鎧や兜は戦いの時の鎧や兜とは異なり実践的な甲冑武具ではありません。甲冑 鎧 兜は儀式や式典の正装であり晴れ着です。五月人形や鎧・兜を飾るという風習は、五月の節句になると外には旗幟や吹流しを立て座敷には鎧や兜、武具を飾っていた武家社会の風習が基になっています。

梅雨になる前にそれぞれの手入れを行うためのもので鎌倉・室町時代にすでに行われていました。また身の安全を祈願して神社にお参りする際に鎧や兜を奉納するというしきたりがあり、その武家社会の風習が庶民の間に広がり、江戸時代の庶民達が、武家社会の風習をまねて家の前に棚を作り、鎧・兜(作り物)や槍、幟などを飾った事がはじまりです。



この時に、神様が降りてくる目印になるようにと兜の頂の部分に、勇ましい人形の細工物を乗せたのです。その後、兜から人形が独立して飾られるようになりました。



本作品は家紋に「土佐柏」の定紋があることから土佐山之内の有能果敢な武将山之内一豊公を讃えたデザインの鎧飾りを描いた作品です。



箱書他:昭和四十八年五月吉祥 為田中氏 十二世狩野永睴 八十翁」とありります。

 

領収書が収められており、その内容には「記 弐拾萬円也 右正 受領いたしました 五月二日 狩野永睴 大阪市住吉区黒江中一丁目六二番地 狩野永睴 昭和四十八年(1973年)五月二日 田中三郎 買上日」とあります。

昭和48年の20万円というのはちょっとした金額ですね。



また作品中の落款には「金門画史 十二世狩野永睴 行年八十歳 押印」京とあり、京狩野の第九代の狩野永岳が禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあったのでそれに習っており、京狩野派の末裔一派と関連があると思われます。



狩野の12代に狩野永暉なる画家が知られており、その画家と推察されますが第十二代とは記載されていません。1893年頃の生まれとすると、第12代とされる「狩野永証」(1909年~1983年)との関連は不詳ですが、幕末から明治期にかけて京狩野派が衰退する中で、何代というのが混濁していったようです。

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京狩野派:安土桃山時代末から明治期まで京都で活躍した画家の流派。豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、京狩野と呼ばれるようになった。初代狩野山楽、2代狩野山雪を輩出。また3代狩野永納は日本初の画伝書『本朝画史』を著した。4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。

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京狩野派の系譜は一般的には下記のようになっています。

当主一覧 (13代の記載はない )

初代 狩野山楽=2代 狩野山雪=3代 狩野永納=4代 狩野永敬=5代 狩野永伯=6代 狩野永良=7代 狩野永常=8代 狩野永俊
=9代 狩野永岳=10代 狩野永祥=11代 狩野永譲=12代 狩野永証

作品に添付されている系譜は下記のようになっており、11代が狩野永信となっています。



しかし、この狩野永信を調べると

狩野永信 : 画家。字は交遊。山陽と号した。京都の人、狩野派の画師で四条派風の筆意を巧みにした京狩野派9代狩野永岳の義子である。「狩野永信画名高し」と伝えられていますが生没年未詳。因みに父の永岳は慶應三年に七十八歳で没しています。

この狩野永信の子ということが推察できますが、詳細は不明です。狩野派は奥が深い・・。



狩野永暉の記載
①狩野永暉:幕末から大正期までを生きたが、生没年は不詳。その渕源と言われる永徳に学んだ山楽が祖の京狩野家十二世。本図には、右下方に落款(署名)「狩野永暉」と朱文方印「永暉」とがある。ま
②狩野永暉: (明治=1868~1912年頃?) 甲子大黒図. 狩野永暉。伝不詳――号(?)に永の一文字が含まれていることからすれば、京狩野家の流れにかかわる画家か。 本図には、右下方に落款――狩野永暉と白文方印――狩野氏とがある。
③狩野永暉: 1907年(明治40年)蓬莱山飛鶴図≫ 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
④狩野永暉(山本永暉):(慶応元・1865~昭和27・1952)は大坂出身、旧姓沖田、名増次郎、準。慶応元年(1865)9月8日、沖田太郎兵衛・イトの二男として、大阪府西区新町南通1丁目に生まれました。本名は山本増次郎で、永暉・準・悟雪洞・大機等などと号しました。幼少より絵を好み、明治10年四条派の西山完瑛に絵を学びました。明治15年、東京の山本重僖と養子縁組をし、山本姓を名乗ります。狩野探美門から、後に橋本雅邦を師友として研鑽。明治22年皇居豊明殿の格天井画の制作に加わったといい、明治35年頃から北陸路や中国・四国地方を中心に各地を遊歴しました。永暉は、明治30年頃から昭和初年頃にかけて、大津や宝塚・広島のほか、福井県の武生・大野・勝山・三国、石川県の小松・金沢、富山県では新湊や伏木・城端を訪れて彩管をふるっていますが、氷見へも幾度か足を運んで氷見の風物を中心に作品を残しています。大正2年、氷見の灘浦海岸から雨晴(現 高岡市太田雨晴)を訪れて「有磯勝地撰寫」を写生し、これを元に氷見の景勝地を選んで「有磯八景」として作品に仕上げています。昭和27年2月12日、逝去。享年87歳。
⑤狩野永暉 :1907年(明治40年) 一幅いわゆる吉祥の画題。明治40年といえば、江戸幕府が瓦解し狩野派も失職するなど氷河期を迎えた筈。永暉は、狩野山楽につながる京狩野13代目。
⑥阿部永暉:秋田県由利本荘出身の永暉は、文化4年(1807)葛法の阿部和右衛門家に生れました。幼少の頃から絵が好きで、青年になると家を弟にまかせて江戸に上り、絵師狩野隆則の門人となって10数年の修行をします。帰郷後は姉の嫁ぎ先である宮下村の阿部与五左衛門家に住んで絵を描きました。晩年には生家にもどり、明治2年(1869)63歳で亡くなりました。
⑦京狩野派十三代狩野永暉:師とした人物の記載から「大阪大谷女子短期大学時代では河合達海先生に、また昭和43年京狩野派13代狩野永暉先生にも指導を受け、栄川の号を受けました

①から⑤は同一人物の可能性があります。本作品は①~⑥ではなく⑦の記載の画人に該当すると思われます。



いずれ、系譜からは断定できない画家のようです。

息子の初節句飾りも用意しました。武者人形もいただきました。



こちらは徳川家康、この鎧を着用して後は負け知らずらしい。



昔は座敷に本物の鎧が飾ってあり、とても不気味だったのを覚えています。



鯉上りも一緒・・。



武者人形は愛らしい。



本人は自転車で犬とお散歩・・。



鯉幟にご機嫌・・。



無事の成長を祈るばかり・・。


和蘭デルフト藍画花瓶手皿

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西洋の陶磁器は精巧な作りが主流で日本で言う「わび さび」に乏しい気がします。一部例外がるとすれば、そのひとつに古いデルフト焼があるようです。

本日はそのデルフト焼と思われる作品です。

和蘭デルフト藍画花瓶手皿
古杉箱 
口径231*底径90*高さ40



箱に在中の「大」という商号の札には「第二号 和蘭デルフト藍画花瓶手皿 十八世紀 代金六拾円也」とあります。詳細は不明ですが、札は大丸のもののようで1913年(大正2年)に、縁起のよい七五三の髭文字を商標登録したそうです。六拾円は現在の5万程度? 



伏せて焼かれたものか口縁には虫喰のような釉薬の剥がれがあります。花瓶をあしらった西洋風と中国風が混合したような染付皿で、デルフト焼には伊万里風が多い中でなかなかの佳品です。



伊万里に比べて軽く、非常に脆そうな感じの器です。



明治期はありそうな杉の木箱に納められています。このような杉木箱に掘り出し物が多いといいますが、それを逆手に古い木箱に新しい贋作を入れる輩もいるとのこと。



デルフト焼も千差万別・・、コレクトするにはたいへんな労力のようです。



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デルフト焼:オランダのデルフトおよびその近辺で、16世紀から生産されている陶器で、白色の釉薬を下地にして、スズ釉薬を用いて彩色、絵付けされる。陶都デルフトでは、高価な舶来品である東洋磁器の形や装飾を陶器で模倣することに着目した。

中国明時代の染付や柿右衛門などを模倣した陶器は、ヨーロッパ各地で絶大な人気を博し、近隣の他の窯でもこれを実践するようになると、以後オランダで焼かれる陶器はすべてデルフト焼と呼ばれるようになる。

デルフト焼は、1640年~1740年に生産がもっとも盛んだった。17世紀初頭の中国磁器がオランダ東インド会社によってオランダに大量に輸入されていたが、1620年に明の万暦帝が死去すると、中国磁器のヨーロッパへの輸入が途絶える。その後、オランダでは、中国磁器の優れた品質と精密な絵付けを模倣する。

1654年のデルフトで、弾薬庫に保管されていた火薬が大爆発を起こし、多数の醸造所が甚大な被害を被ったようです。これによりデルフトの醸造産業は衰退し、広い醸造所跡地を広い工房が必要だった陶芸職人が買い取った。

1750年以降のデルフト陶器は衰退するが、その原因は「巧妙だが繊弱な絵付けがなされていることや、風合いにも独創性にも欠けている」とされ、18世紀終わりからのデルフト陶器産業は、残念なことに衰退の一途をたどった。

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参考作品
デルフト染付皿 十八世紀
口径:約220*底径:約95*高さ20



縁全体に釉薬の剥離などが見られますが割れは無く、比較的状態の良い品です。



私の所感では材質、絵柄ともに伊万里のほうが上、西洋食器は残念ながら日本古陶磁器・中国古陶磁器の足元にも及ばない。現代では別次元ですが・・。

倉庫改修 納まり

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倉庫改修は骨組みが完了して仕上げ段階に入りました。

リフォームなので既存の建物の制約を受けて考えなくてはいけません。

渡り廊下に扉をつけると木枠が必要となり、そこに茶室への入り口が重なり、通常だと変な納まりになりますが・・。



戸当たり部分の木枠をアールに切り取りました。茶室の扉が閉じていると見えませんが、開けると変化にとんだ納まりになります。ここをアールにしたことにより扉へ手をかけるときにも支障にならなくなる。



直線と円とアール・・。実は渡り廊下の扉を閉めていると茶室の入り口を開けるとどうなる・・・?? ふふっ・・まず滅多にないこと。



茶室のエアコンは天井に納まらず、通常のように壁にスリット・・。そこでリターンは棚の上の下がり壁の後ろに・・。スイッチ類も下がり壁の後ろに・・。要は見えないようにすること。



曲がった床柱と扉の枠の納まりは・・。



茶室の前室兼展示スペースの床の間は地板は古材・・。框などは不要・・。床柱は竹・・、屋根に使ったもので縄の跡がある。



さて何を飾るスペースにしようかな・・。



余った古材はあちこちに使う。ただし、大工さんが縄の跡を後ろに使用している。これは逆。縄の跡が面白いのだが、これは日の当たるほうで表にしたい。今から直るのかな?
下の階はどうなっている? こういうことを知っていないと男の隠れ家は作れない。



2階は物置・・。収納優先だが掛け軸の最大長さに合わせて収納を考えるため、へんてこな棚となる。



展示棚の上の梁と柱と下がり壁・・、さらには天井、障子枠。



梁の割れを見せる高さに・・。



既存の銅版葺きの庇を転用・・。ここの床は取り外せるのさ。風のとおりは抜群で夏はここで昼寝、トイレは近い。茶室専用のトイレの予定・・・?? 



さて洗濯物を干すときはそうしようか??



既存の屋根裏にウォークインクローゼット、さて床の段差は・・。



茶室の入り口前のフルオープン。



茶室の前を閉鎖・・。縁側だけを開放などいろんな使い方ができます。



男の隠れ家はいろんなものが詰まっている。この倉庫もいずれ満杯になるだろうな。さて、次はなにを作ろうか・・・。



外観もそれなりに・・、リフォームの収まりは面白い。お金をかけず、既存のものを生かしてその場のアイデア勝負。お金をかけてつまらないものばかりつくる輩が多い。

人の登用というものもそうかもしれません。優秀な人材を他からスカウトするのもひとつの方法ですが、スカウトされた側はマイナスとなりそれは安易すぎるかもしれません。使えなかった人、使いきれなかった人を使うのが真の人の使い方・・。どのようなポストでどういうことをできるか・・、企業はその納め方にアイデアが必要、難しいものです。

遅々として進まない工事だが、誰も文句を言わないのが不思議・・。

贋作考 雍正年製粉彩四喜小壷

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当方ではまず手を出さない中国清朝の官窯の作品ですが、学習のための資料として購入しましたが、意外に高かった作品です。

伝雍正年製粉彩四喜小壷
合箱
口径152*胴径140*高台径*高さ170



器に有る詩は「枝生無限月 花滿自然秋」と読み、全唐詩、李嶠の「桂」という詩の一部です。十二月のうち八月の「桂花(モクセイ):」を詠み、その前後は「七月蘭花:廣殿軽発香 高臺遠吹吟、八月桂花(モクセイ):枝生無限月 花満自然秋、九月菊花:千載白衣酒 一生青女香。」です。



さて底には「雍正年製」と記され、なかなか絵付もきれいですが、本物ならかなりの高値の作品? 「粉彩」というもの資料として購入した作品です。



印章が不確かなものであることなどから、彩色でうまく描かれていますが「写し」とし「伝」としましょう。



近代のコピー?? この手のものはたくさんあるようです。 非常に手持ちの軽い作品です。中国でも高値で取引されているこの手の作品はほとんど贋作と判断していいようです。



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粉彩(ふんさい):18世紀に始まった陶磁器の上絵付技法の一つ。別名:琺瑯彩。



ヨーロッパの七宝(銅胎七宝)の技術を陶磁器に応用したものとのこと。



琺瑯質の白粉に顔料を重ねて描いていくもので、それまでの五彩の技法では困難だったグラデーションや絵画的な表現が可能になったらしい。



洋絵具を用いたので洋彩、または軟彩とも呼ばれる。(これに対し、五彩は、硬彩とよばれる。)この技法を用いたもののなかに「古月軒」と呼ばれるものがあり、これは宮廷画家などが絵付けをしたものといわれています。



「古月軒」については最近「なんでも鑑定団」に贋作が出品されていましたね

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「太湖いし」の描き方が本物はうまいものです。



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雍正年製:雍正帝は雍正五年(1727)に命を下し、「内廷恭造式様」を発布し、宮廷の文物は須く宮廷外で生産される「外造の気」と区別し、宮廷特有の風格様式を打ち建てた。清朝宮廷資料の記載によると、雍正帝は「精細」に装飾を施した「優雅」な文様の琺瑯彩瓷送を、古くから往き来のあった蒙古とチベットの王侯貴族に贈る同時に、蓋付きの小箱に入れて典蔵品として永遠に世に伝えていくように命じたとのこと。



胎土はこれでいいのかな?

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内廷恭造式様:琺瑯彩瓷の装飾文様について言えば、詩、書、画、印の四つの要素は、宮廷外では見かけない造作であったため、「内廷恭造式様」と称されました。起源を遡ると、康熙帝時期に、たまにこうした先例が見られましたが、装飾は雍正琺瑯彩瓷上の図画、題句と印文、或いは器底の款識など、全て豊富で多様な組み合わせと格式であったため、一挙に康熙帝時代の風格を変え、更に絵師と字を書く人の息のあった連携により、詩、画、印三者の意義が相通じ、互いに映り映えているのです。

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詩書画印:「詩」は隋、唐、宋、元、明歴代の詩人の名句より選び採用したもの。「書」は,皇帝が勅命で指名した字を書く職人の書法。「畫」は画琺瑯の人が執筆或いは院の画家の手書き草稿を転写したもの。「印」は裝飾文様に照らし合わせて、一組三字の詞を集めて刻した縁起の良い詩文の句です。

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花香:梅、蘭、竹、菊、玉蘭、カイドウ、ボタン、コウシンバラ、フヨウ、モクセイ、ザクロ、 天竺、水仙、カンゾウ、サザン、アンズハナ、桃花、ベニナツメと霊芝など色とりどりで、枝はしなやかに伸び、種類は康熙帝時期より勝っており、同時に四季長春を象徴しています。



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非常の手に持った感じが軽く感じます。



徳利には大きいし、さて何に使いましょうか?

ちなみに本物の例は下記の作品。

粉彩梅樹文皿(ふんさいばいじゅもんさら)

「雍正年製」銘 景徳鎮窯 高さ44*口径173*底径108
清時代 雍正年間(1723-35年)
重文 横河民輔氏寄贈 東京国立博物館所蔵



寸評:「粉彩はヨーロッパで流行していた無線七宝の技術を取り入れて康煕末年に始まった新しい上絵付法である。この作品は粉彩の技法が完成に達した雍正年間(1723-35年)に宮廷用に特別に作られた精品で,「琺瑯彩」あるいは「古月軒」とも呼ばれる。素地を景徳鎮窯で作り,北京の宮廷内の工房において,選ばれた名工によって絵付けされたといわれている。画風は精巧細緻をきわめ,きわめて格調高く,清朝官窯を代表する傑作の一つに数えられる。」

やっぱり本物は違うね。描き方が丁寧でうまい    親爺のがらくたに呆れ果てて息子は熟睡・・。



子にすぐる宝はなしか、いい勉強になった。



奥多摩風景 小松均筆 その2

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大学時代に山登りを始めた契機となった最初の登山が奥多摩でした。都会の喧騒から逃れて田舎の空気を味わえてのがとても新鮮でした。奥多摩から丹沢、奥秩父、そして北アルプスへと登山していくこととなりましたが、登山道は行く時や帰りに歩く田舎道はとてものどかでいいところばかりでした。

そんなまだ戦後間もない?頃の田舎の風景尾を独特の描法で描いた作品です。

奥多摩風景 小松均筆
紙本着色軸装 軸先樹脂 共箱
全体サイズ:縦1270*横654 画サイズ:縦358*横505



小松均の作品は稚拙なような描き方ながら人の心を惹きつける作品を作ります。



いいではありませんか・・。山村ののどかな風景・・。霞たなびく遠くの山々・・・。



こんな木々の絵が描き方もある・・。



存分に小松均の世界をお楽しみいただければ幸いですね。









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小松均:1902年1月19日~1989年8月23日。日本画家。山形県北村山郡大石田町生まれ。川端画学校卒業。土田麦僊に師事。新樹社に参加。主に最上川を題材にした作品が多い。1986年文化功労者。晩年は京都市左京区大原井出町に居を構え、大原の風景を題材にした作品を多数残した。「大原の画仙人」と称せられた。若くして血のにじむような苦学をしながら絵の道を志し、87歳で亡くなるまで貧窮と闘いながら厳しい絵の修業一筋に過ごしました。

 

 

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箱にある印章には「翁」と記されていますので、箱書きは明らかに晩年ですが、製作時期もまた熟年を迎えての作品と推察されます。

綺麗な花鳥画だけが日本画ではありません。さて、このような作品を一幅、飾ってみたいと思いませんか? ちなみにお値段は数万円、かなりの贅沢ですね。




贋作考 五彩写 龍鳳凰紋阿古陀薄茶器

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このような形を「阿古陀薄茶器」と言います。

五彩写 龍鳳凰紋阿古陀薄茶器
底「大明万暦年製」銘 合箱
口径38*胴径*高台径50*高さ90



本作品はカボチャの一種の阿古陀瓜(金冬瓜)に似せた形の薄茶器です。口が少し落ち込んで蓋掛かりがあります。明らかに日本にて使うもので中国にはなく、日本が中国に注文して作らせた形です。



底には「「大明万暦年製」という銘がありますが、清朝時代まで時代が下がった民窯の作品の写しのようにも見えます。また天啓赤絵や南京赤絵と共通した様式がうかがえます。一見だれでも目が引かれるほどの色合いで、絵付は簡筆だけど、生き生きとしています。



本作作品は「中華民国期の万暦写」と思われます。この時代の写しは高台足裏の窯砂は汚く、足削りは万暦のように出来ていますが、地土は明のものらしくなく黒ずんでいるものですが、本作品は高台のつくりはよく出来ています。



中国骨董業界では、五彩器(日本では赤絵とよばれる)の鑑識についての言葉があります。”明看緑、清看紅”(明の五彩の特徴は緑色にある、清の五彩の特徴は紅色にある。)そのほか、黄色も明は濃重であるが、清や近代いくと黄色は淡いです。



絵付の釉薬から判断すると上彩と青花の発色はまったくの民国もののように思われます。



象牙の蓋を付けていますが、これは持っていた方があつらえたものかもしれません。



箱は最近のもの・・。



凝った贋作? は下の写真・・。あつらえものにごまかされる・・。



さても恐ろしきコピー・・・。しかしいつかは中華民国期のコピーも価値が出るかも・・・・。2万円程度の勉強代金・・、高いかな

リメイク再投稿 伝寺崎廣業 その5 寿嶽 

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もう4年ほど前の原稿となりますね。振り返ると本ブログを投稿し始めてもうすぐ5年になろうとしています。延べで約45万人、閲覧数が240万という数字が多いのかどうかはわかりませんが、作品数が1200を数え5年続いたということはよく続いていると我ながら感心します。

投稿する作品に苦労することもしばしばですが、なんやかんやとあるものでまだ整理が追いつかない状況です。原稿が土日や夜遅くが多く最近は子守でますます時間がなく、不十分な検討のまま投稿することもしばしばです。

このブログにいいところは日記代わりに作品が整理されることと過去に渡って訂正や判明事項が追加できることです。読者本位でない点ですがいい整理場所で、処分したものも記録として残ります。

さて本日は蒐集対象となっている我が郷土の画家の寺崎廣業の作品のリメイクです。本作品は寺崎廣業が亡くなる前年に描かれたと思われる作品ですが、同時期に大作「杜甫」の大作の制作に打ち込んでいる時期でもあります。

寺崎廣業は大正7年の夏頃より体調を崩し、療養に専念したがそれでも信州の上林温泉の別宅にて大作「杜甫」の制作に打ち込んだ。上林温泉の別宅については下記のとおりです。

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明治40年(1907年)寺崎廣業画伯の天藾塾の塾頭をしていた鳥谷幡山が、小林館訪れてここの主、民作との出会いが上林温泉の発端であり、表閣の現在あるを期したともいえる。幡山は、寺崎廣業の門下生であり、町田曲江も寺崎廣業の塾生であった。曲江の兄町田浜之助が幡山を気に入り是非とも、平穏来遊するように奨めいた。幡山は越後に来る事になり、その帰途、地獄谷に案内され、その帰り路小林館に立ち寄った。上林温泉は当時小林館が一軒しかなく、静閑そのものが幡山を引きつけるものがあり、周囲の景観の素晴らしさに魅せられて、それから毎年上林を訪れ四方の風景を画帳収めている。

寺崎廣業は、明治41年(1908年)初めて来ているが、その後上林の風景にすっかり魅せられて、毎年夏には来るようになった。寺崎廣業と気の合った民作は喜んで画室を提供した。翌明治42年(1909年)寺崎廣業は塾生多数ともなって来ている。寺崎廣業は夏には上林で絵を描くのが楽しみにしていた。民作はその寺崎廣業に対して喜んで画室を提供したり、寺崎廣業が別荘がほしいというので別荘を建ててやった、又、温泉がほしいというので地獄谷から大正6年(年)引湯工事を始めた。翌7年7月浴場の工事も終わりかけたが、廣業は病となってしまい、その工事の完成も見ないで東京に引き上げてしまった。東京に帰った廣業は、病にはとうとう勝てず翌8年2月に将来を惜しまれつつ、数多くの名作を残し54才をもって不帰の客となった。

寺崎廣業の友人で、曹洞宗本山、永平寺住職の日置黙仙大和尚と廣業は、肝胆照し合う仲であった( 永平寺66世「維室黙仙(いしつもくせん)」禅師 )。寺崎廣業が生前に一度上林温泉に来るようにと、度々さそっていたが、黙仙もついぞその機に恵まれなかった。廣業の死を知り、その年の8月上林を訪れ、生前の約束を果たした。11月に浴室の開眼の儀を行って長寿温泉と命名することになった。黙仙は廣業が「別荘を寺にしてほしい」と家族の夢枕にたったという事を聞き、民作とも相談した。
民作も廣業の事とあって、すぐその準備にとりかかった。寺崎一門と関係者の寄進を得て、埼玉県にあった長寿院を移して建て、廣業の別荘は長寿山広業寺として開山がなり、本尊には広業の念仏でもあった薬師如来をまつり、永平寺の直末として寄進された。昔から、禅林より画家が出ている例が少なくないが、画家が寺を開基をした例は無くはないが、極めてまれなここといえるだろう。

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「杜甫」の作品については廣業の意図は左右風景の三連作であったらしいが、中央の人物だけで絶筆となったようです。諸流派を総合した画格をもち、制作意欲が旺盛で、画壇の主導的存在であった広業は、江戸時代の谷文晃に擬せられことがあります。しかし、七十八歳という長寿に恵まれた文晃より二十年以上も若くして広業は人生に幕を下ろさねばならりませんでした。

大正八年二月二十一日、最期まで意識のしっかりしていた広業は、家人、知人、門人たちにそれぞれ別れのことばや訓戒を与え、大勢の絵画ファンに惜しまれながら不帰の客となりましたが、まだ五十三歳でした

なお上林温泉と赤倉温泉は20KMほどの距離であり、大正7年9月に赤倉温泉に寺崎廣業が訪れた可能性はあります。

以下は2011年7月23日投稿した原稿のままです。投稿後に弟子であった高橋万年の「杜甫「の写しの作品を入手でき、寺崎廣業の作品がより身近なものとなりました。この高橋万年の作品は新たな発見としておおいに意義の有る作品だと思います。

木曜日の夜、北浦和の二木屋にてお客様の社長交代にてお祝いの食事会・・。話が弾みつい日本酒を痛飲してしまいました。金曜日は同僚と水戸で鰻を食べながら盛り上がり、土曜日は大洗でゴルフ・・鈍っていた体もだいぶ調子がいいですが、あまり調子に乗るとなにが起こるかわかりませんので、少し自重しないと。

ということで少し時間が遅れての投稿です。

さて、「骨董が趣味でない方」は真贋ということになると、一般的な知識でしか話をせず、腰が引けてしまうようですが、それでは作品の表面しかみていないことになります。

美術館でのみ鑑している御仁に真贋の解る方はいません。買うこと、売ること、勉強することのみが美術鑑賞の極意です。そういう観点から「学芸員」という肩書きのつく御仁にまず真贋は見極められません。

さて本作品の真贋や如何。

寿嶽 寺崎廣業筆
紙本水墨淡彩軸装由来書箱入
全体サイズ:縦2190*横438 画サイズ:横308*縦1250



大正7年9月に咽頭癌で箱根、信州別荘で静養中に赤倉温泉

(妙高山の中腹に広がる妙高高原の温泉のなかでも最大の規模を誇る赤倉温泉は、文化13(1816)年に高田藩の事業として、地獄谷から引き湯をしたのがはじまり。明治時代以降は、文化人や芸術家、財界人の別荘地として栄え、日本近代美術の祖・岡倉天心はこの地で没した。近代的なホテルも多いが、静かで昔ながらの湯治場の雰囲気は今も健在)

にて描いた作品とあります。

箱書きに「此紙本半切富嶽ハ大正7年9月 先生赤倉温泉来遊揮毫ス」とあることからの判断です。



所有者の名は、所有者の希望により箱書から消されていました。

入手先は長野県諏訪市です。

落款、印章、出来から真贋は判断しなくてはなりません。

本作品の落款には力強さが欠けています。鑑定した場合は鑑定立会の全員のオーケー?が出ないとだめですから、おそらく本作品は真作とは万人には認められないでしょう。

でも、でもですよ・・という思いがあります




下の写真は大正7年の作品の落款です。大正8年2月21日に、全盛期の廣業は惜しまれながら亡くなってます。病気がかなり進んでいますので落款の多少力強さは・・とは思います。

真作と断定できないの本作品以降の月日の作品の落款の力強さだと思われます。
またしかしですが・・病気による体調は波がある。

む~、迷うほどの作品でもないか




寺崎廣業の作品の佳作はまだ郷土の個人収集家に残っています。

お口直しに・・、所有者の許可が出ればいずれそのうち紹介したいと思っています。

寺崎廣業:慶応2年生まれ、大正8年没、享年54歳。秋田藩の家老の家に生まれる。幼名は忠太郎、字は徳郷。初め秀齋、後に宗山、騰竜軒・天籟散人等と号した。初め郷土の小室秀俊に狩野派を学び、のちに上京して刻苦精励、諸派を摂取して晩年には、倪雲林、王蒙に私淑し、新南画の開拓に努めた。東京美術学校教授、文展開設以来審査員、帝室技芸員に任ぜられ東都画壇の重鎮となり、交友広くその生活は頗る華やかであった。

青手九谷 楼閣山水図小皿 & 万暦赤絵写 結文香合

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ちょっとした小物の器にも気を使いたい・・。

青手九谷 楼閣山水図小皿
口径110*高台径70*高さ21



幕末から明治にかけての九谷の小皿。



使っていたのでしょう。口縁の欠けは小生が急拵えで金繕い。



無造作な絵付、釉薬は虹彩になっているのがいい。



再興九谷になるのかどうかはどうでもいいこと。



モノはその本質はいいモノであること、そしていいモノを手に入れること、そして使い切ること。



むろん高けりゃいい、本物ならいい、という短絡的なものでない気がします。


万暦赤絵写結文香合
幅74*奥行45*高さ22



「結び文」とは「細く巻きたたんだ書状の上端または中央を折り結んで,結び目に一筋墨を引いたもの。



古くは艶書(えんしよ)に,のちには正式の書状にも用いた結び状」とあります。「縁を結ぶもの、永遠をつむぐもの、時々はお便りを」という意味がありますが、結文香合は平安時代に書状を長く折り畳み、結び目を作り渡した結び文(結び文は、平安時代以来恋文によく用いられた封式)を模した香合のことで「色絵結文香合(仁清作)」などが有名です。



本作品はおそらく京焼の作品かと思われますが、明末赤絵を模した染付の作品です。



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万暦赤絵(ばんれきあかえ):中国の明の万暦年間に景徳鎮で作られた陶磁器で、色絵の白磁のことである。日本での用語であり、中国では万暦五彩という。景徳鎮で万暦年間に制作された白磁に染付(釉下コバルトによる藍の発色)と赤絵(白磁の釉上に焼き付ける赤・緑・黄・紫の釉薬)を併用した陶磁器である。中国では五彩と呼ばれる色絵陶磁器は明時代に盛行したが、万暦時代の製品は特に華美である。官窯としても多量に製造されたが、輸出品も多く特に日本に多く残っている。日本では『万暦赤絵』と呼ばれて尊重された。志賀直哉が1933年(昭和8年)に発表した短編小説「万暦赤絵」では、展覧会に展示された万暦の陶磁器に当時の値段で1万円や8千円といった値段が付けられ、主人公は「とにかく高価すぎる。この価が一ト桁下であっても買う能力があるかどうかわからない」と慨嘆している。



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家内が買ってきたクッキー・・。



骨董品なんざ、このクッキーの足元にも及ぶまい。骨董品は人生の主役ではない。脇役も脇役・・・端役程度。


月下観瀑図 靖庵(作者不詳)賛画

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このような山水画を鑑賞するあたってはある程度の実体験が必要だと思います。むろん中国の実景などは無理にしても、北アルプスのような堂々たる冬景色を実際に近くで見ていないとこのような山水画の感動は解らないものと思っています。登山は絵画鑑賞には必須・・・。

月下観瀑図 靖庵(作者不詳)賛画
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2110*横835 画サイズ:縦1513*横683



賛には「風送清□曳杖遅 応泉□下雪晴吋 □□不可□伴 杉□僕糾□月枝 文久紀元(1861年)仲秋 六十二翁靖庵画并題 押印」とあります。残念ながら当方では判読不能・・。



軸裏には「矢尾板靖庵」とありますが詳細は不明です。絵も賛も同一人物によるものらしいですが・・。



印章も読めるのですが、作者については残念ながら当方では断定できません。

 

ちなみに「仲秋」とは、秋を初秋(旧暦7月)、仲秋(同8月)、晩秋(同9月)の3つに区分した場合、旧暦8月全体を指すのに対して「中秋」とは「秋の中日」は陰暦8月15日のみを指すので意味が違います。



琴と梅を背にした童を従え、まだ雪のある山々、雪解けの瀧、そして月を愛でている高士を描いた作品と思われます。



描き方は独特ですね。雪舟のような狩野派のような・・。



松、梅・・・。



うち捨てられるようは箱・・・、崩壊寸前。このような軸や箱を修理するのも小生の役目。日曜大工のお店に行って、適当な板を選んで切断して補完します。むろん正式な指物師に依頼するのがいいのでしょうが、お金がかかりますね。



見上げるようにしてみる作品は上高地から登山道に入るときに見える圧倒的な穂高の山並みを彷彿とさせます。



作者の解らぬ、飾るに困るような大きな掛け軸・・、さて貴方なら大枚をはたいて買いますか?







修正投稿 贋作考 聖僧遊里酔狂之図 伝宮川長春筆

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*********2015年5月8日追記*********

コメントにあるように本作品は「宮川長春」の作品ではないと現在は断定しています。落款を切り落とし小品に仕立てるも良し、処分してしまうもよしといった作品としています。

以下は投稿は投稿当時のままの文章です。

丁寧な説明でコメントをくださった方に感謝いたします。

*************2010年6月30日

聖僧遊里酔狂之図 宮川長春筆
絹装軸絹本着色鑑定箱入 
画サイズ:横550*縦320

本作品も仙台にある骨董品店、汲古堂さんより譲っていただいた作品です。

人物は全体に小さく描かれていますが、全体に品があり購入欲を駆り立てる魅力がありました。




肉筆浮世絵は特に好きなわけではありませんが、構図、題材が気に入りました。

達磨と花魁が衣服を逆転させたユーモラスな画題です。

 


小松正衛の箱書きがされてますが詳細は不明です。

   

落款・印章・出来から宮川長春と思われますが、真贋は後学といたします。

  

肉筆の浮世絵には贋作が多く、またガラクタが増えたような気がしましたが、結構楽しめた作品のひとつです。

宮川長春:天保2年生まれ、宝暦2年没(1682年~1752年)、享年71歳。

浮世絵師、俗称喜平次、または長左衛門。宮川流の祖、尾張の宮川村の生まれで、はじめに土佐派を学び、柔軟なる描線と美しい彩色を以って気品豊な肉筆美人画を描いたが、版画の作品は存在していない。

懐月堂安度とその工房によって肉筆美人画の支持層が拡大されたが、同様に肉筆画に専念し、作品の質をより深く探求したのが宮川長春である。

流麗な描線に良質な絵の具による丁寧な彩色がなされ、大胆で豪快な印象の懐月堂派の作品とはまた一味違う手作りの温かみがある。

長春の作品には狩野派学習の成果が見られ、晩年には一介の町絵師でありながら、狩野春賀の求めに応じて日光東照宮の彩色修理に携わるという名誉を受けている。しかし、その際に狩野春賀と争い新島に流罪となっている。

この頃に肉筆画は工房化しており、ある一定の構図から顧客に選択させたものを制作していたものと思われる。

小松正衛:1917年5月17日 山形県白鷹町に生まれる。文芸春秋取締役営業局長を経て、社友。東京良寛会会長。著書は「骨董入門」、「うれしい骨董」、「古美術巡礼」がある。

菖蒲図 伊東深水筆 その5

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端午の節句はお風呂に菖蒲を入れます。早速息子と入浴・・・、風呂は毎日小生と一緒。



息子の初節句で購入したのは人形と鎧兜以外に、「鎧兜図」とこの「菖蒲図」です。なぜ「菖蒲図」を購入するか解らない人が多いようですね。

菖蒲図 伊東深水筆 
紙本水墨軸装 伊藤竹香堂京表具 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横393*縦1200. 画サイズ:横236*縦262



本作品は1961年日本漁網船具株式会社のカレンダーで5月1日の日めくりの原画のようです。



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「菖蒲について
中国では古来より、ショウブの形が刀に似ていること、邪気を祓うような爽やかな香りを持つことから、男子にとって縁起の良い植物とされ、家屋の外壁から張り出した軒(のき)に吊るしたり、枕の下に置いて寝たりしていた。



日本でも、奈良時代の聖武天皇の頃より端午の節句に使われ始め、武士が台頭してからは「しょうぶ」の音に通じるので「尚武」という字が当てられるようになる(勝負にも通じる)。また、芳香のある根茎を風呂に入れ、菖蒲湯として用いたりする。」

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このように初節句には「菖蒲」は欠かせないもので、こういう知識が骨董を愛好するには必要です。



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菖蒲と花菖蒲、あやめ、杜若の違い
(1)菖蒲湯の菖蒲は(2)花菖蒲・(3)あやめ・(4)杜若の3つとは別
植物学的には(2)「花菖蒲」(3)「あやめ」(4)「かきつばた」はすべてアヤメ科アヤメ属だから皆同じ仲間で極めて近い関係。



ところが(1)菖蒲湯の菖蒲はサトイモ科で別物。葉っぱがにているだけ。花も咲くことは咲くけどきれいな花ではなく、蒲(がま)の穂みたいな黄色い花である。

5月5日端午の節句の菖蒲湯に入れるあの菖蒲に花が咲くと、菖蒲園なんかに咲いている菖蒲(花菖蒲)なのかな(つまり、菖蒲の花=花菖蒲)と思っていたらこれが全く違う。では「花菖蒲」、「あやめ」、「かきつばた」の違いはというとこれがなかなか難しい。3つとも“アヤメ科”アヤメ属に属しています。だからとてもよく似ていて見分けにくい。

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京都伊藤竹香堂の表具とのこと。



落款も無く、共箱でもなく、氏素性は中途半端な作品かもしれませんが、息子の初節句祝いに購入した作品です。伊東深水についての詳細は不要と思いますので省略します。

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日本漁網船具株式会社:1910.年4月に礎となる高津商店漁業部が下関市で創業。その後、漁網部として分離・独立。 1919年8月に株式会社に改組し、日本漁網船具株式会社となる。船具類の供給も本格的にスタート。 1961年大手水産会社の食品加工工場に食品加工機械と資材を納入。1962年.東京証券取引所第二部(繊維)に上場。 1967.年東京証券取引所第一部(商業)に指定。2010年に創業100周年を迎える。現在の社名はニチモウ株式会社。

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未来に遺すのは願い、託すのも願い。

深林避暑 横井金谷筆 その6

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紀楳亭と横井金谷はともに近江蕪村と呼ばれた人気の画家で、贋作も多かったのですが、今では一部の愛好家にしか知れれていない画家となりました。真作でもそれほど評価は高くないようです。

「近江蕪村」としての画家というより、その実態は大きく違うことを知る人はますます少ないようです。

深林避暑 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先塗 合箱
全体サイズ:縦1850*横383 画サイズ:縦1062*横272



画家というよりは僧侶でありながら、若くして遊郭に通う、博打は打つ、喧嘩はする。どうしようもない輩ですね。

一所にとどまっていられない性格で行動範囲は広く、9歳で大阪の寺に修行に出されるや、江戸、京都、長崎、赤穂、名古屋と、全国各地を転々とします。仏道修行もそれなりにこなし、頭がよくて説教上手、人々に慕われるタイプの人物でもあったようですが、扱いにくい人物そうです。



旅先で妻帯、子供が出来てからしばらくは名古屋に落ち着きますが、山伏になって大峰山に登り、あげくの果ては子供を連れて、無謀ともいえる季節外れの富士登山という荒唐無稽なところもあるようです。



よく表現すると「闊達で、おもしろおかしく、周囲をさんざんヤキモキさせたり、迷惑をかけながらも、憎めない人柄で、常に周囲に人が寄ってくる人物」となるようです。

その愛すべきキャラクターは、彼の書状に一番よく現れているとのこと。作品は、非常に奔放に筆を走らすダイナミックな山水を描く一方、マンガチックな略筆で、当時の市井の風俗や人物を描いており、好奇心の旺盛ぶりを作画にも発揮しています。



そんな彼は晩年、坂本に庵を構え、米櫃の米が少なくなると、地元の人々に絵を描いては米をわけてもらっていたことが、書状から判明しています。

大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」に掲載の作品NO150、156の作品が描いた時期が落款と印章から近いように思われます。下記の作品はNO156の作品です。

作品NO156「寒江漁者図」(個人蔵)
大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」掲載



文化10年(1813年)頃の作でないかと推察されます。横井金谷が52歳頃となります。下記の落款と印章はNO156の作品のものです。



1790年代に現在の名古屋市に居し、張月樵から絵を学んびましたが、1804年頃からは四条派の影響が見られた作品から蕪村の影響のある南画にに変化していきます。この後、横井金谷の特徴として高く評価させる力強い筆使いが見られる作品となります。金谷が文人画に惹かれたのは、明らかに、その線と質感が作り出す筆使いに表現の可能性を認めたためでしょう。

大津市歴史博物館出版「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」掲載より



金谷は蕪村の静寂で牧歌的な作風に対して実に肉体的でエネルギーに満ち溢れています。1819年には名古屋の大宝院から三河の太山寺に移住し、その後愛知、静岡、兵庫、岡山を旅し、1823年に近江に落ち着きます。この当時に大いに人気を博し「近江蕪村」と呼ばれるようになりました。この地で人気が高かったゆえに、この地には贋作も多く存在するそうです。

紀楳亭と横井金谷は面識は無く、紀楳亭が亡くなった時には横井金谷はまだ名古屋に在住していました。横井金谷の作品は紀楳亭の成熟した画風から影響を受けたように見受けられるものもあります。

晩年の近江における横井金谷の名声は、絵による蕪村というより、彼自身の山伏としての地位によるものでしょう。山伏の絵師が彼の真の姿です。

骨董は真贋云々よりもっと興味深いことがあるのに真贋にばかり目を向ける輩が多いのは煩わしいことです。もともと贋作があるのがいけないことですが・・・。

本作品もまた紙表具で箱もなく売られていた作品です。真贋はいずれ後学とするところ・・。



息子よ、自由に生きよ! 決まりごとだけでは真を極められない・・・。

春雲波 川端龍子筆 その2

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母の日を前に練馬の母を家内と息子で表敬訪問です。



息子と母仲良く遊びました。母曰く「いつから一緒に住んでいるの?」「???」どう息子もらってきたと思い込んでいるらしい。



ときおり施設にいることとなる母だ元気そうで少しほっとしました。息子は早速施設の中で人気者になりました。まだ歩けないのに車椅子を押そうと必死です。

さて本日は本ブログでときおり投稿している福田豊四郎とも縁が深い川端龍子に初期の作品と思われます。

春雲波 川端龍子筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2330*横670  画サイズ:縦1410*横520



下記の参考作品(思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」)とほぼ同時期の作品と考えられます。



参考作品は大正七年十二月の作です。川端龍子は大正二年に洋画を学ぶ目的で単身で渡米しています。



この渡米を機に洋画よりも日本画の魅力を強く意識することとなり、帰国後の大正三年には初めての日本画を展覧会に出品している。翌大正四年には日本画一本で生きていくことを決心しています。



川端龍子の日本画最初期の珍しい作品のひとつです。誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが、初期の作品として大切にしたい作品のひとつです。

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川端龍子:(1885―1966) 日本画家。明治18年6月6日和歌山市に生まれる。本名昇太郎。11歳のとき上京。1904年(明治37)中学校を中退し、葵橋洋画研究所、太平洋画会研究所で洋画を学んだ。国民新聞社などに勤め、挿絵を描いて名を知られるようになったが、13年(大正2)にアメリカを旅行し帰国すると日本画に転じた。



初め无声(むせい)会に加わったが、15年、平福百穂らと珊瑚会を結成した。またこの年、再興日本美術院展に『狐の径』が入選、翌年には『霊泉由来』が樗牛(ちょぎゅう)賞を受賞するなど、院展で頭角を現し、17年には同人に推された。

しかしやがて大胆な表現が異端視されるようになり、28年(昭和3)に美術院を脱退、翌年、主宰する御形塾を母胎として青龍社を創立し、会場芸術を唱えて豪放で動感に富む作風を打ち出した。35年帝国美術院会員に任命されたが翌年辞退、37年には帝国芸術院会員にあげられたがこれも辞退した。

59年に文化勲章を受章。62年、青龍社創立35周年を記念して自邸に龍子記念館(社団法人青龍社龍子記念館・東京都大田区中央4丁目2-1)を建設し、自作を公開した。『鳴門(なると)』『真珠』『新樹の曲』『潮騒』などが代表作。また俳句に親しみ、句集がある。昭和41年4月10日没。なお、青龍社は龍子の死とともに解散した。



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表具がいいものを使っています。軸先はずっしりくる象牙の軸先です。



箱はニ重箱です。初期の作品ですのでこの程度ですが、最盛期の作品はより高級な仕立てとなります。



誰も川端龍子の真作と思わずにいたのでしょうね。軸の痛みも出てきている作品ですが・・・。

印章・落款の比較
参考作品「思文閣墨蹟資料目録 第469号 作品NO23「佐渡も見えず」より」との比較











他の幾つかの参考作品や所蔵作品を紹介します。

東海第一日 川端龍子筆
紙本着色絹装軸装軸先象牙太巻箱二重箱
全体サイズ:横745*縦1795 画サイズ:縦473*横575
第62回鑑賞会出品作品 須磨家旧蔵品



胡蝶花 川端龍子筆紙本着色絹装 上表具太巻共箱二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2315*横740 画サイズ:縦1485*横565



親孝行したいと思ったときには既に親は居ず・・という言葉がありますが、親に限らず大切な人を失った後に「ああしてあげればよかった。」とか「あんなふうに言わなくてもよかった」と後悔することが多いものですが、後悔することのないように日々努力するのが人としての日々の努めです。




南京赤絵 牡丹紋茶入

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いったい幾つほど明末から清朝時代?の赤絵を当方で集めたか解らなくなりましたが、民窯の自由奔放な絵付けには大いなる魅力を感じます。中国自体には現在はまったく残存していない作品群らしく、むろん現代の中国においては蒐集対象とはなっていないようです。日本ではこの赤絵の作品のコピー作品や写しが京都などで数多く作られたようです。

南京赤絵 牡丹紋小壷
木蓋付 合箱
口径28*胴径85*高台径*高さ95



胴に描かれた鮮やかな牡丹図、中国原産の「牡丹」は中国で「花王」を意味する富貴の象徴です。獅子と牡丹は組み合わせて描かれることが多いようです。



唐獅子に牡丹・・その謂れは以前に投稿したとおりです。



合箱がついており箱には「南京赤絵 小壷」と記されています。



茶入? 蓋が付いており、象牙ではなく木(桑?)の蓋です。このような作品は時折見受けます。口周りに釉薬が掛けられていないことから煎茶道具の茶入の用途などとして注文して作られた作品と推察されます。さて煎茶のたしなみがないので何に使いましょうか?



中国では金代(南宋代)の磁州窯で牡丹が赤絵ではじめて描かれていますが、本作品は清朝まで時代が下がった五彩の南京赤絵と推察されます。



南京赤絵は明末清初に景徳鎮で焼かれた輸出用の赤絵磁器で呉須赤絵よりは透明感のある釉を使っており、赤絵南京ともいっています。350年くらい前の中国明時代末期から清王朝初期に掛けて景徳鎮の民窯で作られたものです。

中国では17世紀に入ると各地で農民の反乱が相次ぎ明王朝は衰退しその結果景徳鎮の官窯は消滅しましたが、民窯はしたたかに生き残りむしろ自由闊達な赤絵を作りはじめました。これらを南京赤絵と称するものです。



南京赤絵の生地の多くは従来の青味が強い白ではなく乳白色を帯びていて、これは色彩を一層際立たせる効果があります。絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。



その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。色絵だけで彩色されるのが南京赤絵の特徴です。



当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多いものですが、ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多く小さめの作品が多いとのことです。

高台内には年号の銘記がなく砂付もありませんが、皿などとは違って砂付高台にならないものも多いようです。



デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の輸出用としての手法です。虫喰いや砂が少ないものにになると清朝に時代が下がってきます。時代が明末や清朝初期ほど評価が高く絵付けが奔放です。

これらの赤絵は時代が下がると絵付に面白味がなくなります。



皿などの評価は寸法、大きさによって大いに違い、辺20センチ程度のものはかなり高価ですが、辺12センチ程度の小さな作品は数多く残存しており、評価は低くなります。

本作品のような小品は数多く日本に残されており、まだまだたくさん市場に出回っている作品ですので蒐集する側にとっては廉価で入手機会が多い作品群のひとつです。

豪華な腕時計などを買う価値観で綺麗な官窯の作品を蒐集する中国人が見向きもしない作品を日本人が好むというのもいいですね。

源内焼 その56 三彩陽刻桐鳳凰図皿

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仙台、横浜についで本日は名古屋へ・・、今年も全国行脚の開始です。

さて本日は源内焼の佳作のひとつ?です。もう「その56」ですね。本ブログを開始のちに蒐集を始めた分野ですが、時の経つのは早いものです。

縁の紋様が額縁の役割を果たしており、見込みはまるで絵画を見るよう。計算されつくした源内焼の紋様は西欧とも和洋ともとれる独特の趣を醸し出しています。

源内焼 その56 三彩陽刻桐二鳳凰図皿 その2
合箱
口径255*高台径*高さ50



緑釉を基調とした三彩の源内焼。桐二鳳凰の紋様の作品は三作品目となります。



「桐竹鳳凰文は中国からの伝えで、鳳凰は桐の木に棲み、竹の実を食べたとのことから桐と竹、想像上の瑞鳥である鳳凰を組み合わせた文様をいいます。



桐竹鳳凰文は、天皇の夏冬の御袍(ごほう)に用いられた高貴な文様で有職文様の一つでもあります。また桐竹鳳凰文に麒麟を組み合わせた桐竹鳳麟文(きりたけほうりんもん)も同様に扱われ、格調高い文様です。」という説明のように格調高い吉祥紋様の作品です。



一部に釉薬の禿がありますが、型の抜け、釉薬の発色がよい佳品ですね。このような出来や保存状態の良い作品は少なくなります。



源内焼はその側面、裏面も綺麗な作品は珍しいです、



軟陶のため傷つきやすいので、完全な状態で残っている作品が少ないのでしょう。



本作品と同じ図柄もまた五島美術館の「源内焼」という展覧会を開催した時に作成された刊行本に掲載されています(作品番号71)。
こちらに掲載の作品は大きさが一尺もある大きなものです。



源内焼の復習は下記のとおりです。

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源内焼とは香川県大川郡志度町で焼成された陶器です。別名を志度焼、舜民といいます。赤松弥右衛門と子・清兵衛は1738(元文3)年に筑前国須恵村の陶工・権平を雇い、製陶業を営んでいたとされます。その後、清兵衛の子である赤松光信(号:松山)、忠左衛門、新七によって陶業は受け継がれ、1755(宝暦5)年に松山が平賀源内の指導を受けて源内焼を創始しました。

源内焼は交趾釉法に基づいた陶器で万国地図皿を始めとした斬新な意匠に特徴があり、長崎遊学を通して修得した源内の新奇な知識によるものとされています。源内自身は作陶に携わらず、松山を中心に焼成されたと考えられています

1771(明和8)年に天草代官所に源内が提出した『陶器工夫書』の「取立候職人共」には、「器用なる者」として松山、源吾、舜民、山が記されています。松山は1781(天明元)年の家屋焼失により富田村に居を移して富田焼に携わりますが、1788(天明8)年に志度に戻った後、1791(寛政3)年に再び富田で独立します。

松山や脇田舜民が独立した後は堺屋源吾が源内焼の中心的存在となっていきます。明治時代の博覧会で源内の子孫が一時再興しましたが、質的にもデザイン的にもオリジナルには遠く及ばずに衰退しました。

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当方の所蔵している源内焼は残念ながら一流品とは言えないでしょう。一流品は地図皿に多く下記の写真のような作品群で、大き目の作品となります。いつかは入手したいものですが、市販されている作品を見たことは一度もありません。






いつかは・・・、いつかはと向上心を持つことは常に必要ですね。



曹次郎像自賛 魚屋北渓筆

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「あつくなく寒くなく又うえもせず憂き事しらぬ身こそ安けれ」という願いを込めて・・・、息子には伝えたいことがたくさんある。



本日の作品はかの葛飾北斎の高弟「魚屋北渓」の作品です。

魚屋北渓と蹄斎北馬は葛飾北斎の双璧の弟子とされています。葛飾北斎はあまりにも有名ですが、この二人も浮世絵画家としては著名で、一応贋作もかなり多いようです。

曹次郎像自賛 魚屋北渓筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1250*横650 画サイズ:縦400*横560



「曹次郎」なる人物は詳細はわかりません。箱は虫食いなどでボロボロ・・。よく掛け軸本体が無事であったと思われるほど・・。



箱表に「曹次之像自讃 北渓筆」とあり、裏には「曹次□石川五代目俗名□□門之五拾三歳之時江戸□像を北渓に画し自ら讃して□□のへり 曹平誌」とあります。巻止めには「天保土子年(1840年 天保11年 庚子)□□石川曽江門行年五拾三歳之像お江戸赤坂食生町北渓□□セル曹次之」とあります。



賛についても判読できていません。賛には「おきふしに □□乃誓を ワすれぬと 浮世の人の 福禄寿なり 霞吸亭 二泊 花押」とありますが・・。



なにやらサインのような花押、それなりの人物かと・・。



肖像画のようですが、北渓が肖像画を描いていたかどうか?



よく描けていることとこのままでは朽ち果てるという理由で入手に踏み切りました。いつも出来心というもの。



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魚屋北渓:(ととや ほっけい)安永9年〈1780年〉~ 嘉永3年4月9日〈1850年5月20日〉江戸時代後期の浮世絵師。葛飾北斎の門人。北斎門人の中では、蹄斎北馬とともに双璧とされる。姓岩窪、名は初五郎。後に金右衛門と改めた。諱は辰行。拱斎、葵岡(あおいがおか)、葵園などと号す。四谷鮫ヶ橋で母里藩主松平家御用達の魚屋を営んでいたので、魚屋と称している。

本作品の印章は「葵岡」の朱文白二重方印が押印されています。



初めは狩野養川院惟信に学び、後に北斎門人となった。その後画業一筋の生活に入り、赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。寛政12年(1800年)頃の狂歌本の挿絵が初作で、以降50年に及ぶ長い作画期の大半は狂歌本、狂歌摺物の制作であった。これらは狂歌を趣味とする人たちの集まりが自作を発表するという自費出版であり、市販のものとは異なり印刷に金をかけ、巧妙な彫り、摺りを施した贅沢な作りのものが多かった。



錦絵は少ないが、肉筆画、摺物、狂歌絵本の挿絵などに数多く秀作を残している。特に代表作として横長判の揃物「諸国名所」シリーズや、「北里十二時」、『北渓漫画』などは著名である。滝沢馬琴作の『近世説美少年録』の挿絵なども知られている。また杉並区堀ノ内にある妙法寺には、北渓の描いた大絵馬「お題目図」があり、これは南無妙法蓮華経の題目を子供も含めて15人の人々が礼拝している図で、師の北斎の画法と良く似た特色を持つ大作かつ傑作である。この「お題目図」は板地4枚に金、胡粉を塗り、金泥を引いたもので、「文政四年巳歳五月吉旦 願主神田龍閑橋餅屋安兵衛」と記されている。嘉永元年(1848年)頃まで作画をしていた。享年71。

墓所は、杉並区和田の立法寺(りゅうほうじ)である。葵園老人北渓君之墓とある。辞世の句は「あつくなく寒くなく又うえもせず憂き事しらぬ身こそ安けれ」。門人には岳亭春信のほか、岸本渓雪、渓里、渓由、葵岡(あおいがおか)渓月、岡田渓松、葵岡渓栖、渓林がいる。何れも文政期に活躍、渓里は拱一とも号し、渓林は鶴屋といったという。渓由の作品には錦絵「梅花」があり、渓月、渓松には摺物の作品があるという。

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初めは狩野養川院惟信に学んだということは狩野派に属していたということになります。


「赤坂桐畑へ転居して葵岡と号した。」とあますが、「赤坂桐畑」で有名なのは広重の『名所江戸百景』シリーズの中の「赤坂桐畑」という作品があり、現在の赤坂溜池の景色を描いた作品です。描かれた水面は、今も赤坂に地名として残っている溜池であり、往時には、その周囲に桐が多く植えられ赤坂桐畑といわれていたそうです。



この作品は安政3年(1856)4月に出版されており、本作品の16年後のことです。赤坂食生?町については不詳ですが後学とします。

東京での現在の勤務地が近いことと縁のあるのも嬉しいものです。

表具は多少痛んではいますが、箱の状態から考えると奇跡的に当時のままの残っています。



浮世絵の型にはまった、たとえば顕著な歌川派、菊川派などの美人画よりこういう作品のほうが私は好きです。というよりはこの手の美人画には嫌悪さえ抱くのは私だけではないでしょうね。



人生にはそれほど役に立たないが未来に伝えるもの、そのなかのほんの少しに骨董がある。このブログはそのひとつ・・・。





倉庫改修 五月連休

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5月の連休に引越し予定でしたが、倉庫改修工事が完了せず、どうも6月以降になりそうです。床の間の明り取りも材料ができるのに1ヶ月経過し、今から取り付けです。



既製品ですが、どうも依頼があってからの製作のようです。取り付けの狙いは通常は陽や照明によって床の間にこの小窓からの明かりが床の間の掛け花を照らすというもの・・わざとらしいので今回はその狙いはなし・・。

さて茶室の隣では茶室のエアコン器具の取り付けです。天井高さ、天井の懐深さが足りないため壁からの吹き出しですが、吸気は見えないところから・・。



茶室の縁側の仕切りは6本引きの障子・・・???? お楽しみは完成時に・・・・。



そのせいで縁側の壁はかなりの「ふかし」となり、ちょっと狭くなりました。



茶室前室の天井を張り始めました。梁の曲がりや直線など一様でないのはそのまま・・。梁が途中でなくなるのもそのまま・・。



階段もそれなりに格好がつきました。



二階の床の間も・・。



掛け軸を飾る床の間は4箇所・・。



床の間は四幅対まで掛けられる大きなものが欲しいですが、滅多にそのような掛け軸はありません。そこで三幅対(せめて二幅)まで掛けられものとし、四幅対の場合は左右に飾れるという工夫です。高さも大き目の作品が掛けられるように設定しました。



外も内もあとはほとんど左官工事・・。



5月の連休の合間には元同僚も心配で見に来てくれたようですが、会うことは出来ませんでした。外見は普通の家・???が狙い。

人は住むところは一定でないほうがいいというのが私の考えです。同じところにばかりいては人生がつまらない。いろんなところを棲み渡ることが人生を豊かにします。男の隠れ家はその仮の住まいです。骨董品などはその極み



赤絵輪花華紋皿 五枚揃

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五客ですが揃いで入手できたのは嬉しい作品です。

赤絵輪花華紋皿 五枚揃
合箱
口径152*高台径80*高さ27



高台内には「大明成化年製」とあり、砂付高台となっており、虫喰もあり、高台内にはうすく鉋の削りの跡が見えます。約束事は明末から清朝にかけての赤絵の条件を満たしていますが、写しも多いので断定はできません。

天啓で使われていた陶土は決して上質のものではなく、そのため焼成時に胎土と釉薬の収縮率の違い、特に口縁部は釉が薄く掛かるために気孔が生じて空洞となり、冷却時にその気孔がはじけて素地をみせるめくれが残ってしまいます。

本来、技術的には問題となるところを当時の茶人は、虫に食われた跡と見立て鑑賞の対象としました。このことが「虫喰い」と称して、古染付・天啓赤絵・南京赤絵に特有の特徴であることも知られています。ただこれは近代では意図的に作ること可能ですが、わざとらしくなります。

高台は、当時の通例の如く、細砂の付着した砂高台で、高台内には鉋の跡が見られるのが特徴ですが、必ずしもそうでない作品もあるようです。むろんこれも意図的に可能です。



「大明成化年製」銘にある年号は、もともとは中国明中期の成化年間(1465~1487)を示します。景徳鎮に成化という窯があって、明の官窯(国営の窯)であり、成化窯の製品に年款(大明成化年製)が書かれていました。明末から清朝の古染付や赤絵には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあり、優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつもそれまでの様式にとらわれることはなかったようです。

これら款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、款記と同じく比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えていたようにも思えます。この影響を日本の伊万里が受け、同じように年号銘が記され、製作年代とはまったく無関係なものになっています。真贋の決め手にはなりません。

天啓赤絵もまた同様と考えられますが、一般的には「天啓年製」などの銘を伴うものが多く、無銘であれば清朝初期の品であると言われています。



絵付には輪郭があり、染付が用いられています。明末から清朝時代の赤絵の代表格である天啓赤絵と南京赤絵の区別は、天啓赤絵は古染付の上に色釉を施し、南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されていますが、例外は勿論有る様です。

絵付けからは南京赤絵ではなく希少価値の高い天啓赤絵ですが、当方では断定できません。南京赤絵は清朝まで続きますが、天啓赤絵は清初までであり、清朝に本格的には入らず、他の赤絵の南京赤絵等、明末窯の注文作品よりも製作期間が短く、圧倒的に数が少なく貴重な作品群となっています。無論、古染付と比してもその生産量はかなり少ないようです。

その分類は基本的に当方にとってはどうでもよいことです。



魯山人は「食器が最も発達したのは中国の明代だ。」と言っています。その中でも日本人の心が宿る明代末期の古染付と色絵の器はとくに珍重されていました。日本からの注文で10客揃いどころか30、50人揃いで注文されたようです。数多く日本にの残っています。中国などの蒐集家の対象外ですので、現在は廉価なため市場に数多く出回っています。



揃いものでしたが、破損や売却のために揃って売られるより、バラやペアで売られているものが多くなりました。



いずれにしても実用的な器群です。ただし赤絵は華麗な意匠のものが多く、口縁には鉄砂で口紅が施されるもの、金彩を加えた豪華なものもあります。同時期の作品群は色絵祥瑞等も含め、少しややこしいですが、それぞれの作風を持っています。



日本古来の古伊万里が贋作で満ち溢れている状況下では実用的な陶磁器としての蒐集でさえかなりの困難が予想されます。

春日 山本倉丘筆 その4 クマガイソウ ウラシマソウ ボタン ツツジ

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それほど高い金額で売買されている画家ではありませんが、根強い人気のある画家のようです。当方では三作品目の投稿ですが、もう一作品は短冊がありますが、未投稿のようです。

春日 山本倉丘筆 その4
紙本着色軸装 軸先樹脂 共箱二重箱
全体サイズ:*横  画サイズ:縦*横



倉丘の画風は、戦前と戦後で大きくふたつに分かれるようです。

1.戦前期において伝統的な花鳥画をきびしく追求した本作品のような作品です。

2.戦後は油絵を中心とする西洋的な方法を取り入れ、華麗な世界を展開し、なおかつ毅然たる品格が漂っていると称されている作品群です。
この例は本ブログに投稿されている「二匹の魚(仮題)」や「緑泉」のような例のように思います。もっと評価されて良い素晴らしい作品だと思います。



本日の作品は花鳥画です。



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山本倉丘:本名伝三郎。明治26年(1893)10月12日、大方町伊田に生まれる。伊田尋常小学校、入野高等小学校を卒業後、高知市の呉服店の店員として働いたが、絵が好きで独学を続け、大正7年(1918)京都に出て山元春挙の画僕となり、画塾早苗会に入って本格的に日本画を学ぶようになった。

大正15年、第7回帝展に「麗日」が初入選、その後も帝展に続けて入選、花鳥画(動物を含む)を次々に発表して日本画壇に揺るぎない地歩を固めていった。この間、京都市立絵画専門学校に入学、昭和8年(1933)に卒業した。



第14回帝展では「菜園の黎明」が特選を受賞、昭和11年京都在住の画家池田遙邨・上村松篁その他と水明会を結成。昭和18年師の山元春挙没後は早苗会も解散し、翌年義兄堂本印象主宰の東丘会に入塾。戦後は日展をはじめ東丘社展・京展・関西展等に次々と力作を発表し、注目を浴びた。



昭和28年の第9回日展で初めて審査員となり、以来度々審査員をつとめ、33年に日展が組織替えして社団法人となると、評議員に就任して日展の発展に尽くした。36年には紺綬褒章を、41年には前年の日展出品作「たそがれ」により日本芸術院賞受賞、49年には日展の参与に推挙され、勲四等旭日章を受賞、55年には日展参事に就任、名実ともに日本画壇の重鎮と目されるようになった。



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家内に呼ばれて庭に出てみると「浦島草」が咲いていました。



和名の起源は「浦島太郎が持っている釣り竿の釣り糸に見立てたか?」とされているとか・・・。



しかも「性転換」する植物らしい。



君子欄も咲いていました。名前の由来は元々クンシランと呼ばれていたノビリスの名前から来ているらしく、ノビリスとは「高貴な」という意味で、それに「君子」という言葉を当てたとか・・。



先日割いていた牡丹は散り、別の牡丹が咲いていました。



「花の命は短くて・・。」



色とりどり。



華やかな華ですね。



クマガイソウは意外に開花時間は長い。関東の二箇所しか自生していないらしい。



ツツジも咲いています。



花木検定を立ち上げた設計の友人がテキストを持ってきてくれました。途中で頓挫したのでもう発売していないらしいです。







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