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氏素性の解らぬ作品 越後江山浅絳山水図 釧雲泉筆 文化8年(1811年)頃

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遺しておく作品には遺し方というものがあるように思います。



陶磁器、掛け軸、洋画(日本画)、漆器、刀剣、木彫も同じですね。



壊れないように、伝来が解るように、使いやすい(扱いやすいよう)に・・・。



遺し方に姿、形も重要な要素ですが、あまり費用もかけないように・・。



さて本日は筆致、すなわち作品の出来から「伝釧雲泉」の参考資料とすべく購入した作品です。釧雲泉の作品には贋作が多く、贋作よりも高度な模写というものもあり、かなり面倒な選択をせまられる画家の作品のひとつです。



越後江山浅絳山水図 伝釧雲泉筆 文化8年(1811年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1985*横423 画サイズ:縦*横

 

真作とするなら筆致から文化年間の作か? さらに推測すると1810年前後の最晩年の作と推定され、その当時の居住地は越後と推定されますね。



釧雲泉は「大胆な作風の若書きの寛政年間の作品」、「文化年間への以降期の享和年間の作」、そしてさらに「文化年間の晩年の釧雲泉の作」は「重苦しい」と評されています。ただ、最晩年は「重苦しい」というマイナス評価ではなく、ある一定の境地に至った作品を描きあげていますので、作風から文化年間はさらに最初の時期と最晩年の時期に大別されるかもしれません。



さて筆致は釧雲泉の作行に適っており、かなり出来の良い作品で、絵の出来そのものは釧雲泉の真作に相違ないでしょう。落款は晩年の書体に問題ないと判断しています。

印章は「磊磊」の朱文と白文の累印が押印され、晩年の号の「六石居士」、「磊磊道人」らからきているものと推察されますが、かなり珍しい印章となり、当方の少ない資料では同一印章は確認できていません。

「磊々道人(就)」及びそれに近い落款は数多くの作品に記されており、一般的に思われているより多くの作品で使用されていると推定しています。年代は、1805年以降の概ね晩年近くの文化年間です。ただ作品の数は少ないのですが、作品の筆致から岡山時代だろうと思われる作品にも使われています。当方の所蔵作品である「秋渓覚句」(文化5年 1808年頃 対の作品)に「六石居士」という落款があります。

*磊々:「心が広く、小事にこだわらないさま。磊落(らいらく)」と言う意味で「小事にこだわらないさま」という意図で多くの作品に釧雲泉は落款として用いたのでしょう。「六石居士」なども同等の意味でしょう。「六石」、「磊々」という落款の贋作も当然存在しています。

なお「秋渓覚句」、「寒江独釣」、「夏山聴雨」らの四幅の四季を描いた作品は各々、かなりの数で同図、同題の作品が存在します。渡辺華石の鑑定箱書まである作品がありますが、その多くが出来の良い?模写と推定されます。当方ではどれが本作なのかさえよく分からない状態です。

**当方の投稿作品「秋渓覚句」(文化5年 1808年頃 対の作品)などの作品については真贋のコメントがありましたが、当方では最終的に釧雲泉の作品に造詣の深い「すぎぴい」さんのコメントが正しく、他の方の意見は一般的な意見であり、根拠は希薄と判断しています。



この時期に多いのは当然当時旅していた越後の江山を描いた作品ですね。

  

作品は出来の良しあしの筋で真贋を見極めることを当方では信条としたいと思っています。



ここを見失わず、落款、印章の資料を参考にしています。資料の定型的な条件ばかり気にすると作品を楽しめなくなるように思います。



所詮、骨董蒐集は審美眼を磨くもので、それは時として真贋の見極めとはイコールではないときもあるようです。



いずれにしても飾って観て飽きがくるかどうかですね。表具も当時のままで、健全な状態なのがいいです。



とはいえそろそろ200年を超える年数が経っていますので、締め直しくらいのメンテは必要かもしれませんね。遺し方に姿、形も重要な要素ですが、費用もかけないように・・





姥ヶ餅焼 はじき香合

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先週末は最後の玉葱の収穫です。息子や家内と・・・。



息子は一輪車も使えるようになり、力もついてきたようです。でもすぐに力尽き「充電が必要!」だと・・。



さて本日は形、風情から興味本位で購入した香合の作品です。どうも「姥ヶ餅焼」というもののようです。

姥ヶ餅焼 はじき香合
古箱
幅57*奥行55*高さ44



「はじき」とは香合などの蓋の甲に 弦形の摘みのついている物で水指の替蓋にも必ず付いている。形状と蓋の部分の緑釉薬から織部の影響が見られます。



姥ヶ餅焼(うばがもちやき)という焼き物は正直なところ当方でも知りませんでした。「姥ヶ餅焼」については下記の記事(抜粋)を紹介します。

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姥ヶ餅焼(うばがもちやき):東海道五十三次の一つ、滋賀県草津の名物に乳首を象ったといわれる姥ヶ餅という餅があり、その餅を盛る皿として焼かれたのが姥ヶ餅焼である。



姥ヶ餅焼がいつ頃作られ始めたかは諸説(応永説、慶長説、寛永説)ある。



当初は店で出す食器として焼かれていたが、寛政年間頃(1789-1801)、茶道を趣味としていた姥ヶ餅屋八代目主人である瀬川都義が、矢倉町の馬池ノ上、姥ヶ懐(草津市矢橋町)に窯を築き、店の餅皿、湯呑のほか、茶碗、水指、香合、菓子器などの茶道具を焼かせた。また楽了入や、京都や信楽の陶工に依頼し、「姥餅」の印を与え、作陶させたという。
文化(1804-1824)の頃、都義が罪に問われ、店は営業停止となり、姥ヶ餅焼もその頃閉窯した。



その後、経営が好調だった姥ヶ餅屋を巡る経営権争いが数十年続いたという。安政3年(1856)、十代目主人金沢好澄は、都義の故地に窯を再興し、諸国の名陶写しの茶陶を焼かせた。ようやく騒動が治まったのは元治元年(1864)頃のことだという。明治~昭和頃に幾度か姥ヶ餅焼は再興され、名陶の写し、そして了入を偲び、楽茶碗も焼かれた。



印銘は、初期の頃は釘彫り銘、都義の頃になって小判枠「姥餅」、丸枠「姥餅」が捺され、再興されたものには都義の頃とは若干字形が異なる丸枠「姥餅」が捺された。



一部の古書に楽左入(1739年没)に作陶を依頼したとあるが、”了入”の誤植だと思われる。黒楽と交趾写の二種があるうち、黒楽は主として楽左入に託して焼かれたといわれ、交趾写はそれより少し時代が下るとみられています。



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内部の縁は金繕いされています。



底の形状は下記の写真のとおりです。



彫銘から初期の頃の作品でしょうか? あきらかに前述のように織部の影響がみられますね。



保管箱は下記のとおりです。



紐が切れていたので当方で直しておきました。



ともかく日本の焼き物だけでも懐が深いもので、まだ知らない焼き物がたくさんありそうです。



日本の陶磁器はともかく面白い・・・・  本日は「玉葱形香合」、もとい「はじき香合」の紹介でした。

郷土の画家 双鶴之図 藤森江岸筆 その3

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本日紹介する作品は亡くなった家内の実家にて所蔵する作品で、りんご台風(平成3年 1991年)で屋根が吹き飛ばされた際に実家の屋根裏から出てきた作品です。箱の中にいくつかの作品が納められており、たいした作品はなかったのですが、平福穂庵の若い頃の作品(本ブログで紹介されています)などがありました。すでに多くの作品において表具の状態は非常に悪くなっており、後日、当方にて「月日と費用をかけて」?あらかたの作品が修復されております。



この作品はその後は「男の隠れ家」の蔵に収納していましたが、昨年の蔵の改修を契機に少しづつ郷土の画家の作品の整理をしています。蒐集の基本は必ず地元にちなむものを対象とすることでしょう。地元の画家や縁のある芸術家、郷土作品を知らずして、何のための蒐集なのだろうかと思います。

双鶴之図 藤森江岸筆 その3
紙本水墨軸装 軸先 誂箱+タトウ
全体サイズ:縦1894*横530 作品サイズ:縦997*横404

 

藤森江岸は享和2年生まれ、明治2年1月10日没。別号芦月、陸曜。大館市花岡の目名家鳥潟一族に生まれています。又右衛門の長男で、本名は徳右衛門といい、長じて姉の養子となり藤森姓を名乗りました。



さらにそこを離れて44歳で大館市の伊藤徳右衛門家に入籍しましたが、画号は藤森姓を名乗っています。なお花岡の鳥潟一族からは優れた人物が出ています。なお当方の同僚にも鳥潟一族の出の方がいます。



藤森江岸14歳で江戸や京都で青年時代修行し、文晁の弟子の清水曲河(江戸、文政2年5月、73歳で没)に就いて学んでいます。秋田県内に遺作が多く、文晁派というより四条派に近いダイナミックな絵が遺されています。



多くの作品が地元に残されていますが、状態の良い作品は少なく、地元でも知っている人が少なくなり、蒐集する人もいなくなったようで、最近は骨董店でも作品は見かけなくなりました。

以前は地元在住の骨董愛好家らが集まって展覧会などを実施していたのですが、最近はそのような催し物が少なくなりましたね。

 

郷土出身の画家の中でも画力に優れた画家のひとりでしょう。

*表具を改装したのが平成10年より前の頃でしょうか? 久方ぶりに展示室に飾りましたが、風帯の跡が表具に付いているの見た際に、男の隠れ家の寝室の床に正月などに飾っていたことを思い出しました。郷里において亡くなった家内や義父との思い出の作品です。また元の場所に戻しておきましょう・・・・。






花咲く平原 奥村厚一筆 その13

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最近の展示室の展示作品の紹介です。すべてすでに本ブログにて紹介されている作品です。

月岡芳年の2枚つづりの浮世絵。



はやり月岡芳年は縦2枚つづりの浮世絵作品がいいですね。本作品は当方で2作品目です。(本ブログにて紹介済)



藤田嗣治の墨絵。



小生のお気に入りの作品です。こちらも2作品目で、両方とも真作で、本ブログに紹介されています。



2作品とも掘り出し物で、真作なりのタトウを誂えました。



原精一の油絵。



この作品は小品ながら好きな作品です。



大野麥風の版画。



まだシリーズ72作品中、〇〇番目・・、先は長い。



さて本日は久方ぶりに奥村厚一の作品の紹介です。奥村厚一の作品では13作品目の紹介です。



花咲く平原 奥村厚一筆 その13
紙本着色額装 誂タトウ+黄袋
全体サイズ:縦615*横735 画サイズ:縦400*横520(P10号)



奥村厚一の作品は日本人であれば、いつかどこかで見た風景と感じさせる一作となっていますね。生涯一貫して風景画にこだわった厚一らしい一作だと思います。



秋野不矩は奥村厚一の風景画について、次のように述べている。「奥村さんその人にあるような気がする作品である。」と・・。



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奥村厚一:明治37年7月1日生まれ。晨鳥社の日本画家、西村五雲に師事。



昭和21年「浄晨」が第2回日展で特選、政府買上げ。昭和23年福田豊四郎、山本丘人、秋野不矩、上村松篁らと創造美術を結成(現在、創画会)。

昭和24年、京都市立芸大の前進である京都市立美術専門学校(昭和35年から京都市立芸術大学)

昭和46年、嵯峨美術短期大学それぞれで教鞭を執る。

昭和49年京都市立芸術大学名誉教授。



主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。伝統工芸や文化財的雰囲気のなかで育ちながらも、関心はもっぱら近隣の自然風物であり、幼少の頃から手製の画板を携え野山を駆けめぐり、ひたすら画家になることを夢みていたという。絵画で身をたてることへの周囲の無理解と反対は当然多かった中で、指導者としてふさわしい技量を身につけ、そういった立場になり絵描きを続けるならばと強く進言、励まし続けた祖母の心強い応援を後ろ盾に、恵まれた才能というよりも、努力と熱意で思いを通し、念願の絵描きとして、また指導者として一生を終えた。



【前列右から】秋野不矩、沢宏靭、広田多津(間)上村松篁、向井久万(間)、奥村厚一
※昭和23年頃、創造美術のメンバーと(丹前姿)(沓野・玉村本店にて)



【最前列】真ん中に奥村厚一、その左側、山口華楊【後列右がわの二人】右から福田平八郎、小野竹喬  ※昭和22年頃、日展のメンバーとともに。(志賀高原・熊の湯にて)

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生涯一貫して風景画にこだわった画家であり、晩年は水墨調の画風を展開しています。



福田豊四郎と共に当方の好みの作風です。



近代絵画が幅を利かせている現代ではかえって貴重な画風といえるでしょう。



それほど目立たない>画家ですが、福田豊四郎、田中以知庵らと共に当方の蒐集対象となっている画家の一人です。




粟田焼 湯飲み  暁山焼

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月初めは神棚に仏様・・、ともかく拝むものが多い。

展示室の片隅には仏壇。



茶室には観音様を置きました。



廊下の展示室には神様が鎮座しています。





展示品も少し模様替え・・。







さて本日の作品の紹介です。

京焼の粟田焼系統と思われる作風の作品は本ブログで幾点か紹介しています。正直なところ、当方ではこの系統の陶器がいつの時代のもので、京焼においてどのように分類されるものかは詳しくありません。



ただ上記写真の右奥の「帯山」の銘のある湯飲みは当家に古くから伝わる作品です。当方で洗っているときに割ってしまい、金繕いで補修しています。



この系統の作品は、他にも下記の作品があります。



ちょっと作風の違う作品では下記の作品があります。



このような作行を「堆朱手」と呼ぶのでしょうか? 

本日は上記写真の湯飲みを破損したこともあり、同手の作品を入手したので紹介します。下地の色が今回の作品のほうが黒く、印銘は「暁山」で、割れた補修の跡のある作品は「帯山」とされています。



本日紹介する作品は右の作品です。

粟田焼 湯飲み 暁山焼
暁山銘 誂箱
口径90*高台径45*高さ65



「古清水」という名称は、制作年代が、京都で磁器が開発される江戸後期以前のまた、江戸後期であっても、磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として用いられています。

一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの無銘の色絵陶器を総称します。なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。したがって、色絵ばかりでなく染付・銹絵・焼締め陶を含む、磁器誕生以前の京焼を指して「古清水」の名が使われる場合もあります。



野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造した。その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されました。 
 
近現代の釉薬は大変透明感が強くさらさらしている。文様が緑色の下に生地の貫入が透けて見えている。古いものはそのようなことはなく、ねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤。土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものです。高台の裏などに窯印はない。窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別できます。

粟田口の窯にはじまる京都の焼物は,金森宗和(1584~1656)の指導のもと,御室(おむろ)仁和寺門前で窯(御室焼)を開いた野々村仁清(ののむらにんせい,生没年未詳)によって大きく開花します。仁清は,粟田口で焼物の基礎を,瀬戸に赴いて茶器製作の伝統的な陶法を学びました。また当時の京都の焼物に見られた新しい技法である色絵陶器の完成者とも言われています。その後,寛永期(1624~44)に入ると,赤褐色の銹絵が多かった初期の清水・音羽焼などは,仁清風を学んで華やかな色絵の陶器を作りはじめ,これらの作品は後に「古清水」と呼ばれるようになります。



それまで,大名や有名寺社等に買い取られていた粟田焼などの京都の焼物は,万治年間(1658~61)ごろから町売りがはじめられ,尾形乾山(おがたけんざん,1663~1743)の出現によって画期をむかえることとなります。乾山は,正徳2(1712)年より二条丁字屋町(中京区二条通寺町西入丁子屋町)に窯を設けて焼物商売をはじめており,その清新なデザインを持つ食器類は,「乾山焼」として,世上の好評を博しました。しかし,この乾山焼は,まだまだ庶民の手が届くものではなく,多くは公家や豪商などの間で売買されていました。

町売りが主流となりつつあった明和年間(1764~72),粟田口や清水坂・五条坂近辺の町内では,ほとんどの者が陶業に関わるようになり,陶工達は同業者団体である「焼屋中」を結成して,本格的な量産体制を整備していきます。

これによって五条坂のように新しく勃興してきた焼物は,その大衆性によって力を伸ばし,京都の焼物の中でも老舗で高級陶器を生産していた粟田焼にとっては大きな脅威となりました。そんな中,五条坂において粟田焼に似たものを低価格で産するようになったため,文政7(1824)年,焼物の独占権を巡って,粟田焼と五条坂との間で争論が起こりました。

江戸初期には,肥前有田(ありた,佐賀県西松浦郡有田地方)などにおいて,磁器の生産が盛んに行われ,それが多少のことでは割れないものだと評判を受けて以降,文化・文政期(1804~30)には,京都でも磁器の需要が一段と増加し,作風も仁清風のものから有田磁器の影響を受けた新しい意匠へと展開します。

京都において最初に完全な磁器製造を成し遂げた先駆者が奥田頴川(おくだえいせん,1753~1811)です。頴川の門人には青木木米を筆頭に仁阿弥道八,青磁に独自の手腕をみせた欽古堂亀祐(きんこどうきすけ,1765~1837)ら俊秀が多く,この後,京都の焼物界は最盛期を迎えることになります。しかし,幕末の動乱や明治2(1869)年の東京遷都によって,有力なパトロンであった公家・大名家・豪商などを失い,京都の焼物の需要は一挙に低下することになります。



幕末・明治の変革期において,粟田焼では輸出用の陶磁器の製作が行われ,明治3(1870)年には六代目錦光山宗兵衛(きんこうざんそうべえ,1824~84)によって制作された「京薩摩」(きょうさつま)が海外で大きく評価されました。

しかし,昭和初期の不況によって,工場機能はほとんど停止してしまい,その後,粟田焼は衰退へとむかいます。一方,清水五条坂でも輸出用製品を生産しますが,これも成功を見ることが出来ませんでした。



暁山焼は1711年(正徳元年)粟田に一文字屋が開窯。

1805年(文化2年)青蓮院宮粟田口御所御用焼物師として出入りを許され「暁山」銘を拝領する。 暁山本家が1877年(明治10年)絶家となるにあたり、親交のあった近江屋長兵衛に「暁山」の号を託し以来岡田暁山として受け継ぎます。



近江屋長兵衛は近江の出身で清水・五条に窯を開き、1798年(寛政10年)には焼物問屋も創業し屋号を近江屋と称しておりました。1886年(明治19年)には五条地区に巽組合を設立、五条坂に陶磁器の蒐集場を設立。1902年(明治35年)錦窯を築き上絵付け加工販売も始め海外にも輸出を始めました。第二次大戦後には、7代暁山が特に輸出に力を入れ海外に暁山銘の京薩摩焼を広めましたが、上記同様衰退していきます。



さて本作品が上記の中でどの時期に属する作品なのかはこれから小生の課題です。








信楽喜久(菊)銘々皿五枚 大野鈍阿作

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息子の小学校への登校初日は一人で・・・。帰りは皆が父兄が迎えに来ていたようで泣いてしまって先生に同伴されてきたくしたようです。ひとつの旅立ちが始まりましたね。



さて本日は銘々皿の紹介です。

よく使われる銘々皿、銘々皿とは要は取り皿のようなもの。料理用、茶菓子用などによって漆器や陶磁器がありますが、粋な気の利いた器がいいでしょうね。向付とともにいつもどれを使うか迷う用途の器ですね。

本日は大野鈍阿の銘々皿の作品の紹介です。

信楽喜久(菊)銘々皿五枚 大野鈍阿作
共箱 
作品サイズ:径211*高さ33



益田鈍翁に関連する大野鈍阿の作品は人気が高い作品ですが、ご存知の方は少ないようです。



銘々皿にしてはかなり大ぶりな皿です。



見込みは備前でよく使われる「牡丹餅」の跡が見られます。



信楽の土味がよく出ていますが、釉薬のない分だけ脆さが気になりますね。



茶事での銘々皿だと古染付が無難なのでしょうか? 古染付で揃いで誂えるのもよし、各々文様が違うもので誂えるのもよし。個人の趣向の質が問われる器のひとつです。



高台内には下記の刻銘があります。



益田鈍翁のお抱え陶芸家といってもいい大野鈍阿・・、話題に尽きない陶芸家ですが、その基本的な知識がない方が最近多いようです。



5客揃いのうち4枚が刻銘「鈍阿」、1枚が窯銘?(どこの窯かは不明)となっています。

 

箱はまぎれもなく大野鈍阿の共箱になっています。

 

本ブログにて紹介された作品には下記の作品があります。

菊透鉢 大野鈍阿作
大野宗恵識箱 
作品サイズ:径251*高さ106



大野鈍阿の古志野を模した作品は300万の高値を「なんでも鑑定団」では付けています。本作品もじつに堂々とした大振りの鉢でその作品を上回る出来といえましょう。大野鈍阿はそれほど著名な陶芸家ではないのでご存知ない方が多いと思いますが、知る人ぞ知る陶芸家と言えましょう。

さらに「なんでも鑑定団」に下記の作品も出品されたことがあります。

参考作品 なんでも鑑定団出品作品
黒楽茶碗「鈍太郎」写
2012年10月17日 評価金額200万円



評:依頼品は三井物産初代社長益田孝の愛蔵品で、表千家六代原叟作「鈍太郎」を大野鈍阿が写したもの。本家の口径が12センチほどあるのに対し、依頼品は9センチ余りとやや小さいが、非常に本家とそっくりに作ってある。

托鉢僧が手にする鉄鉢の形をしており、高台が極端に小さい。最大の特徴は胴に釉禿げがあること。これはおそらく原叟が作る時に野趣豊かに自分の豪快さを見せた作風。完璧に本家を写していながら、大野鈍阿の個性が包み込まれている。

益田の号「鈍翁」や大野に与えた号「鈍阿」はこの「鈍太郎」に由来するのですが、この写しの茶碗はかなりの数が製作されています。このことはかなり有名な話ですが・・・。

大野鈍阿の略歴は下記の通りです。

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大野 鈍阿(おおの どんな、1885年(明治18年)- 1951年(昭和26年))は岐阜県出身の陶芸家である。本名は大野 準一(おおの じゅんいち)。



略歴
1885年(明治18年)、美濃焼の産地、岐阜県の土岐郡(現、土岐市)に生まれる。子どもの頃からやきもの作りの見習いをし、20歳頃までには轆轤を挽き、窯を焚く職人となる。

1909年(明治42年)、上京して品川の大横町に移り住み、水焜炉(みずこんろ)、行平(ゆきひら)などの雑器を造る。
1913年(大正2年)、大横町から数百メートル離れた御殿山に邸宅を構えていた益田鈍翁(益田孝)により、その働きぶりを見出され、益田家のお抱え職人として迎え入れられる。邸宅内に住居を与えられて、陶磁器窯(鈍阿焼)を築窯する。稀代の茶人として名高い益田の所有する楽焼の茶碗や鉢などのコレクションを預けられ、その指導のもと写しをつくるように命じられる。

なかでも益田が号した「鈍翁」の由来となった、表千家6世家元、原叟宗左 覚々斎(かくかくさい)による茶碗「鈍太郎」の写しを繰り返し造った。「鈍阿」はこのころ益田鈍翁から号の一字「鈍」をとって、名付けられたものである。

1914年(大正3年)鈍翁により、鈍阿焼の器だけを用いた茶会が催される。この時供された茶碗は絶賛を受け、五千円(現在の価値で5,000万円程度)で譲って欲しいという客まで現れた。

1917年(大正6年)、鈍翁が実質的に小田原に居を移したのをきっかけに、益田邸を去り、上目黒の根津嘉一郎所有の土地に本焼の本窯を築き、自主的に陶技を磨き始める。一方で、その後も鈍翁との関係は切れることはなく、鈍翁は上目黒の鈍阿の元にやってきては、上出来の作を持っていったという。

1929年(昭和5年)、鈍翁に命名を仰いで茶席「鈍庵」をつくる。

1934年(昭和9年)、等々力に移窯。

かつての住まいは根庵、鈍庵として池上の松涛園に移築され現存。

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「1914年(大正3年)鈍翁により、鈍阿焼の器だけを用いた茶会が催される。この時供された茶碗は絶賛を受け、五千円(現在の価値で5,000万円程度)で譲って欲しいという客まで現れた。」・・・、当時は実業家の間で茶事盛んなりし頃、今とは隔世の感がありますね。

茶事もある意味でひとりの世界・・、己の趣向が試される場かもしれなせん。


氏素性の解らぬ作品 小代焼?  朝鮮唐津手 薄端式時代花器

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すでに整理されて、屋根裏に放置されていた作品ですが、ひょんなところから見直してみようということになりました。きっかけは家内の書庫にあった下記の図録です。



小代焼に関してはもともと資料が当方にはあまりないので、インターネットなどからの資料からの知識しかありませんでした。そこで下記の作品は割れて補修されているし、形も歪なので打ち捨てられていました。

氏素性の解らぬ作品 小代焼?  朝鮮唐津手 薄端形花器
誂箱
径227*高さ256



収納する箱のなかったので、そもそも保存が難しい・・。陶磁器は必ず保存箱が必要です。決して所狭しと並べておいたり、新聞紙にくるめて段ボール箱に入れて置いてはいけません。蒐集する者として失格であり、人間としての品格が疑われます。



とくにこのような複雑な形の陶磁器は保存箱がないと保存が難しい。



ただ収納する箱を作るだけの作品か否かの見極めが重要で、解らないときはじっくり勉強する、調べる必要があります。



このような形が傾いでいる作品は判断が余計に難しい



図録には、本作品と似通った作品は下記の作品が掲載されていました。四六時中、作品を図録や博物館、美術館で観る必要があります。何気ない作品が意外なところでこの範疇の作品かと気が付くことがあります。



まだ本作品がこの図録の作品と同じ範疇の作品かどうかは断定できていません。



要は本作品が美的感性から存続すべき作品かどうかを当方が判断するかどうかでしょう。最終的には存続すべき作品と判断しました。



同じように価値を見直したのが下記の作品です。

呉州餅花手 藍釉草花文鉢
誂箱
口径280*高台径*高さ93




明末における呉州餅花手と形などが異なる作品であり、製作年代は不詳の作品ですが、やはり明末の呉州餅花手に類する作品と見直しています。




近代の模倣作品だろうと放置しておいてのですが、下記の記事から再度調べてみようかと思いました。実は普段使いにした後、破損してしまって屋根裏に放置したのですが、補修しております。急遽この作品にも箱を誂えました。


参考となったのは下記に参考作品と記事です。

参考作品
餅花手柿釉煎茶碗




餅花手柿釉煎茶碗 <明末>については秦秀雄氏著「暮らしに生きる骨董の美」に同手の作品が掲載されています。



外は柿釉、内は白のツートンカラーの汲出で、とても洒落ている感じのする作品です。現存する数が少ないようで、この煎茶碗はやはり薄手だからでしょうか、コンディションが悪かったり、割れてしまったりしていると思われます。



「餅花手」の作品は明末の漳州窯のおける大皿の作品が一般的ですが、他の形、用途の作品が数は少ないものの製作されていたと思われます。当方の所蔵作品は鉢の作品のため、分厚く製作されたものと思われます。



「氏素性の解らぬ作品」は手早く処分するのは禁物です。当方も売却した作品がどうもあとで貴重な作品であったと気づくことなど苦い思いが幾つかあります。

こういう作品が投稿されるということは本ブログもそろそろ終焉ということです。













暁聲 福田豊四郎筆 その110 昭和25年頃

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息子の登校には最近、近所の年上の友達が同行してくれています。少し安心かな?



福田豊四郎は昭和20年代に軍鶏の作品を描いており、福田豊四郎と交流のあった父はこの時期に福田豊四郎と連絡取り合いながら軍鶏の作品を描いています。



図録に掲載されている福田豊四郎が「軍鶏」を描いた作品です。一般的にはこの作品が福田豊四郎が描いた「軍鶏」の作品として知られています。図録には昭和29年の作とされています。

福田豊四郎筆 軍鶏 昭和29年筆



父は療養中に東京に居る福田豊四郎氏の指導を受けながら日本画を描いおり、父の遺品に下記の作品があります。姉によると父が描いた作品に福田豊四郎氏に郵送し、福田豊四郎氏が筆を入れて作品を送り返すという指導であったようです。

父が描いた作品



本日は「暁聲」と題された作品で、箱の裏には我が郷里特産の「声良鶏」の記事が貼り付けられており、「声良鶏」を描いた作品と以前の所蔵者は勘違いされていたようです。本作品は上記の代表作より前の昭和25年頃の作と推定されます。

暁聲 福田豊四郎筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1254*横572 画サイズ:縦343*横415



この時期から福田豊四郎は抽象的な画風に移行する時期と思われ、色使いも試行錯誤しているように感じられます。



補色関係にある色彩を意識的に用いており、これが「軍鶏」を題材にした大きな理由かもしれません。



最初に紹介した「軍鶏」の作品のように、戦後の福田豊四郎の作品は抽象的な画風とともに太めの輪郭線を意識した作品が多くなっています。



この作品中の印章と落款は当方所蔵の「竹林」や「湖畔の冬」らと同一印章です。とくに「竹林」は共箱の印章も同一印章です。

  

共箱の誂えとなっています。「軍鶏」を描いた福田豊四郎の作品は少なく、画集以外では当方では見たことがありませんでした。

下記のように共箱の裏には「声良鶏」の記事が貼り付けられています。「声良鶏」特産の地元出身の画家であること、「暁聲」という題名から「声良鶏」を描いた作品と勘違いされたのでしょう。

 

本作品に押印されている印章と同一の印章が押印された作品数は少なく、同時期の作品に多いと推察されます、当方の所蔵作品で押印されている作品は下記の二作品が本ブログにて紹介されています。

竹林 福田豊四郎筆
P8号 絹本着色額装 共板入タトウ
全体サイズ:縦545*横615 画サイズ:縦355*横425



湖畔の冬 福田豊四郎筆
紙本着色軸装 軸先象牙 共箱太巻二重箱
全体サイズ:縦1344*横660 画サイズ:縦404*横509



この時期以降は福田豊四郎の作品は抽象的な作品になっていきます。ただ抽象的な作風と同時に在来の日本画風の作品も描いているので、一概に抽象的な作品ばかりとは言えません。

なお前述のように前の所蔵者は秋田の「声良鶏」を描いた作品だと思っていたようですが、この作品は「軍鶏」を描いた作品です。

実物の写真:「声良鶏」(下左写真)と「軍鶏」(下右写真)は下記の通りですが、明らかな違いは足にとげのような突起があるかないかです。

 

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声良鶏:江戸時代に秋田県北部の米代川流域(現在の大館市、鹿角市など)で飼育されるようになり、現在は北東北で飼育されている。

「越後の唐丸」と地鶏との交配によって作り出され、のち(明治20年頃以降)にプリマス・ロック種との交配が行われた。体重が3.5kg-5kgある大型鶏である。 長鳴き鶏としても有名で、調子をつけながら厳かに「ゴッゴ、ゴーオ」(国光郷王)と鳴く声に特徴がある。

1937年(昭和12年)12月21日 - 国の天然記念物に指定。
1982年 (昭和57年)- 秋田県鹿角市の「市の鳥」に選定。

秋田県声良鶏比内鶏金八鶏保存会(三鶏保存会、大館市)や、天然記念物全日本声良鶏保存会(鹿角市)などが、飼育や繁殖および血統種の保存活動などを行っている。

秋田県北部に生息する声良鶏・比内鶏・金八鶏(きんぱどり)を特に秋田三鶏(あきたさんけい)とよび、声良鶏と比内鶏は国の天然記念物に、金八鶏は秋田県の天然記念物に指定される。 また、秋田県大館市には大館市郷土博物館に隣接して秋田三鶏記念館がある。

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画面全体を薄い赤とし、色彩については冒険的な試みのように感じられます。画集に掲載された作品は構図もさらに冒険的になっていますが、本作品は予想よりも画集に掲載された作品を描いた時期に近い時期に描いたかもしれません。



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軍鶏:闘鶏用、観賞用、食肉用のニワトリの一品種。 本来は江戸期のタイからの輸入種と伝えられるが、伝来以来、日本国内で独自の改良育種を施され、1941年(昭和16年)「日本に特有な畜養動物」として国の天然記念物に指定された。日本農林規格における鶏の在来種ともされる。

本来は闘鶏専用の品種で、そのため「軍鶏」の字が当てられた。オスは非常に闘争心が強い。 三枚冠もしくは胡桃冠で首が長く、頑強な体躯を持つ。羽色は赤笹、白、黒等多様。身体の大きさにより大型種、中型種、小型種に分類されるが、系統はさらに細分化される。

シャモの名は、当時のタイの旧名・シャムに由来する。日本には江戸時代初期にタイから伝わったとされるが、正確な時期は不明。

闘鶏の隆盛とともに各地で飼育され、多様な系統が生み出された。闘鶏は多く賭博の手段とされたため、賭博が禁止されるとともに闘鶏としての飼育は下火になったが、食味に優れるためそれ以後も飼育は続けられた。現在は各地で食用として飼育されている(天然記念物でも、飼育や食肉消費は合法)。

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父の色紙は郷里の男の隠れ家にありますので、今回は並べての展示はできませんでした。



展示室に廊下に祖父の家訓と共に飾って愉しんでいます。父は家業と同業の仕事より、画家になりたかったのかもしれません。

人生は同じ道を目指す友がいると心強いもの、同じ道でなくても友を大切に・・・。



自作の大きめの皿

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小生が30代の頃、仕事で赴任した地で陶芸を習い始め、週に一回の休みを利用して近くにある窯元に通っていました。主に盛岡市と秋田市で5年くらい通ったでしょうか? 

きっかけは日本画を趣味で習っていた亡くなった家内が、趣味の仲間と窯元で茶碗を作ったことが契機です。家内が茶碗を作ったようですが、小生が「どう見ても漬物入れだ!」と酷評すると、家内が「そんなことを言うなら自分で作ってみなさいよ!」と反論・・。そこで窯元で自ら茶碗を作ってみたのが始まりです。案の定、いくら作ってもうまくいかず、漬物入れの作品の山ができてしまいまいした。しまいに母から「真ん中に穴を開けて植木鉢にしてよ。」と言われる始末・・。実際にガラス屋さんに頼んで穴を開けて植木鉢にした作品も多々あります。これが意外に評判がよかった・・・

意地のなった小生は自宅に轆轤を持ち込んでまで没頭し、ようやく少しづつまともな?作品ができるようになり、茶碗から「たたらつくり」の皿へと幾つかのバリエーションも増え、現在はすこしはまともな作品だけを手元に置いてあります。

本日は休日の土曜日ということもあり、恥ずかしながら自作の作品から大きめの皿のまともそうな?作品を紹介します。

鉄釉呉須蕗文萩手角皿
幅287*奥行247*高さ45

平成元年頃、秋田市保戸野窯にて製作。



秋田市の平野庫太郎氏が作る保戸野窯での作品で、保戸野窯の庭にあった蕗を貼り付けて鉄釉と呉須を吹き付け、全体に灰釉を掛けた作品です。



胎土は萩の土で、網目の文様を付けています。



鉄と呉須の吹き付けと萩の胎土で春から初夏にかけての雰囲気を・・。



作品保存用の袱紗は母が作ってくれたものです。。



次は同じような技法で胎土を変えて作った作品です。

紅葉文様俎板皿 一対
幅310*奥行170*高さ45

平成元年頃、同じく平野庫太郎氏の窯である秋田市保戸野窯にて製作した作品です。



保戸野窯の庭にあった紅葉の葉を貼り付けて鉄釉を吹き付け、その部分に蝋を塗って灰釉を掛けた作品。すべては作りながらその場での思いつきです。



胎土には網目の文様が付けてあります。



蝋抜きと釉薬の掛け具合、そして吹き付けた鉄分、胎土の赤土で変化を付けて、秋の風情・・・、そして料理が映えるように・・・・。蝋抜きの技法も確かこの時が初めてかもしれません。



こちらも作品保存用の袱紗は母が作ってくれたものです。



次はこれらの作品より前に作った作品です。窯元の先生は俎板皿のような作品は嫌がります。窯での場所をとることかのようです。焼成には自分の作品も焼きますから・・・。

鉄釉掛け合わせ角皿
幅293*奥行206*高さ42

昭和60年頃、盛岡市南部窯にて製作したものです。



鉄釉に海鼠釉か灰釉を掛けたもの。釉薬は窯元の木村捨次郎氏にしていただいています。



どうしても素人が大きな俎板皿状のものを作ると、焼成時に割れが入ること多いようです。



この頃から割れを直す金繕いに興味を持ち始めました。



いい茶碗は高い、良き陶磁器は手が届かない、補修も費用が嵩む。すべてお金がなかった頃にいいものを使いたいという欲望から始まり、そしてその欲望は骨董蒐集へとつながっています。人間は欲をエネルギーに変えてまっとうなことを続けなくてはいけませんね・・・??? 

コロナ禍で家ですることがない? うらやましい限りです。小生はまた陶芸をやりたくなっています。時間が足りない?時間がない??



氏素性の解らぬ作品 李朝面取壷と椿 椿貞雄筆

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本ブログではおそらく初めての洋画家「椿貞雄」の作品の紹介です。まだまだ当方では知らないことが多い画家ですので、真贋などの判断はできかねています。李朝の面取の花入れを描いている点から興味を抱いての入手ですので、画家の名前くらいは知っていましたが、実は画家その人に興味があっての入手ではありません。

*有名な女優が頂いたり、受賞の際の記念の作品を片っ端から処分していた際に、その中に有名な彫刻家の作品や椿貞雄の作品があったので、とおりががりで見ていた方が慌ててもらってきたという話を聞いたことがあります。

知らない人は知らない、興味ない人は興味がない、ただ世の中には最低知っておくべきことがありますが、そのひとつが美的知識・・・・???

氏素性の解らぬ作品 李朝面取壷と椿 伝椿貞雄筆
紙本水墨淡彩額装 誂タトウ入
色紙サイズ 3号 画サイズ:縦265*横235



ひと時代前の知識人は本作品に描かれている李朝や中国陶磁器の知識は一通り持っていたのですが、現代の人はどうなんでしょうか? 絵に描かれている器の種類を言い当てる人は少なくなったように思われます。

本作品は色紙の大きさですが、額装にする際に張り直しているのでしょうか?



椿貞雄の画歴は下記の通りです。

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椿 貞雄:(つばき さだお)1896年2月10日 ~1957年12月29日。大正~昭和の洋画家。

1896年(明治29年)、山形県米沢市に生まれる。医師を目指し早逝した長兄の影響で画家を志すようになりました。

1914年(大正3年)に上京し、岸田劉生の個展を見て衝撃を受け、彼に会いに行こうと決意し、自作の油絵を携えて劉生の自宅に向かい、ここで自画像を褒められたことから、劉生との交流が始まります。椿は生涯劉生に師事し、劉生の画風に強く影響されながら作品を制作しました。

武者小路実篤をはじめとする白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いていました。

椿はその理想に共鳴し、1915年、劉生とともに草土社の結成に参加することになります。この頃の椿の代表作に『冬枯れの道』があります。この後も春陽会、大調和会と画壇ではつねに劉生と行動をともにしました。

1917年劉生が結核の療養目的で神奈川県鵠沼に転居すると自らもそこに移り住み、頻繁に互いの家を往き来しました。



白樺派のヒューマニズムに影響を受けた劉生は「油絵という西欧伝来の画法を用いて日本人の心を描く」という理想を抱いており、椿はその理想に共鳴し、ともに草土社の創立に参加しています。草土社の画家たちは草や土までを克明に描き出すことで「内なる美」を描くことを目指しており独自の美術運動を展開しました

1920年頃より劉生は東洋絵画に強い関心を抱き、日本画の制作も行っています。椿も日本画制作を開始し、代表作には『冬瓜図』があります。また、劉生の『麗子像』に影響されて幼女をデロリの表現を取り入れながら描く『童女像 (毛糸の肩掛をした菊子)』などの作品を発表しました。

1926年、船橋尋常高等小学校の図画教師として採用されたことで千葉県船橋市に転居。

1927年、慶応義塾幼稚舎の図画教師として勤務。

1929年に劉生が亡くなると椿はひどく悲しみ、制作に行き詰まるほどの状態となります。心配した周囲のものに洋行を勧められ、パリで個展を開催。帰国後は劉生の影響を感じさせないのびのびとした作風となり、日本の雄大な自然を明るくおおらかな作品に仕上げた『桜島』などの作品を描いています。

劉生亡き後、椿はその理念の正当な継承者となります。自らの言葉「画道精進(がどうしょうじん)」に象徴されているように、生涯を閉じるまで、日本人の油絵を描き、写実の道を追及し続けました。

戦後、孫に囲まれた平和な暮らしが訪れると、それまでの重厚な色調に明るい大らかさが加わるようになりました。家族への愛情の中に新しい表現を見出したのでしょう。『祖母と孫』に代表される孫を温かい眼差しで描いた作品も多く残しており、義兄である白樺派同人、長與善郎は、椿が描いた愛情あふれる家族の肖像に対し、「愛情の画家・椿」という一文を草しました。そうした椿の暮らしぶりは彼の日記にも遺されています

1957年、千葉県船橋市で亡くなる。享年61歳。

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この作品には日本画における岸田劉生の影響が見られ、写実を通して精神的な「内なる美」の表現を目指すという趣向がうかがえます。

*岸田劉生はかなり気難しい性格だったとなにかの記事で読んだことがあります。



小品ながら李朝の釉薬や椿の表現には並々ならぬ力量がうかがえます。



本作品は印章のみに作品で、右側はインターネット上での参考作品からの印章と比較してみました。

 

上記の印章ではインターネット上に下記の作品がありましたので参考にしました。

参考作品

紙・水彩・額装 3号 落款 鑑定登録証書
画寸(縦x横): 27.2 x 24.2 cm



椿貞雄の作品には下記の鑑定証が必要だろうと思われますが、当方の及ぶところではありません。。



李朝の面取り壺にあこがれてしまうのは蒐集する者の性・・・・。

改装完了 松鶴亀図 狩野了承筆 天保8年(1837年)

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休日は掛け軸を変えながら息子と掛け軸鑑賞・・???   作品は「軍鶏図」田中一村筆。(後日投稿予定)



「この軍鶏はママだね」と小生、息子が興味があるのは風鎮・・・・「これおさかな?」



さて本日紹介する作品は、入手時には収納されている箱もなく、表具も虫に食われた跡が多く、扱いにも難儀する状態でした。それほど著名な画家ではありませんが、絵の出来が良いので改装することにしていた作品です。このたび、改装と箱の誂えが完了したので投稿することにしました。

ちなみに下の写真は改装前のものです。



松鶴亀図 狩野了承筆 天保8年(1837年)
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱→二重箱
全体サイズ:縦1570*横470 画サイズ:縦840*横350
改装後 全体サイズ:縦1743*横481 画サイズ:縦846*横354



改装は全面改装で箱がなあったので「上箱+塗二重箱+タトウ」としました。費用は全部で3万円強です。   

 

狩野了承(かのうりょうしょう)は「1768~1846。享年78歳。山形県酒田市に生まれ、江戸に出て狩野派に所属した絵師。」ですから、小生と同じく東北の出身で、境遇も同じく上京した経歴です。



実力を認められ、狩野派の最上位である「奥絵師」4家に次ぐ15家の「表絵師」のうちの1つ、深川水場狩野家の当主となります。正式には「了承賢信」と言います。

「将軍姫君の御用絵師として活躍」という一文がインターネット上に見受けられ、年代的には第11代~12代将軍ということになりますので、残念ながら篤姫とは縁がなさそうです。



推測ですが第12代将軍家慶は第11代将軍父家斉の死後に庄内藩などに対する三方領知替えの中止を決断していますので、この件に関しては彼の出身地酒田であることから、徳川家慶に感謝していたのではないかと思われます。



日本の題材をやわらかな線で描いたやまと絵を得意とし、他の流派との交流がきびしく禁じられた狩野派の「表絵師」にありながら、華やかでデザイン性のある琳派の影響を強く受けた絵画も制作しているとのことです。



「祝寿図」は松、鶴、亀などを用いて吉祥を表すことが多く、良く描かれるのは松と鶴、鶴と亀の組み合わせですね。例えば「松鶴延年図」「松齢鶴寿図」「亀鶴斉齢図」などは、長寿や気品の高さを表している作品です。

鶴は双鶴、亀は親子亀・・・、本作品は吉祥図として誰かに依頼されて描いた作品かもしれません。



落款には69歳の作と記されており天保8年(1837年)の作と推定されます。

狩野了承賢信の作品は実力はありながら、マイナーな画家のせいかよく分かりませんが、市場には作品は少ないように思います。貴重な作品と判断し、二重箱を誂えてあります。

ちなみに贋作はまだ見たことがありません。 

 

狩野了承の作品は実はこの作品が2作品目の紹介となっています。

最初の作品は下記の作品です。

三保の松原富嶽図 狩野了承筆 その1
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 誂箱二重箱 2013年改装 
全体サイズ:縦1362*横695 画サイズ:縦468*横670



落款に「狩野了承行年七十六歳筆 印(「賢」「信」の朱文白方印の累印)」とあり、1844年(天保15年、弘化元年)の頃の作品です。この落款により、本日の作品は「三保の松原富嶽図」の作品の7年前に描いた作と推定されます。

実は「三保の松原富嶽図」も入手時は本作品と同様で表具が傷んであり、収納箱もなく、表具もかなり傷んでいたので、同様に改装して箱を誂えています。



「三保の松原富嶽図」は、本ブログが縁で静岡富士山世界遺産センターにて展示されたことがあります。



上記はその際に発刊された図録の説明文です。葛飾北斎との関連にも示唆された記述があります。

改装をした甲斐がありましたし、狩野了承も喜んでいるでしょう。息子は子亀を観て「これボク???」




         

改装完了 二美人図 三木翆山筆 大正6年

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本日はお気に入りの作品を改装したので紹介します。本ブログでは2018年8月に下記の写真の状況で紹介した作品です。軸先は片方が欠損し、箱はない状態でした。



軸先は古い作品は膠?で接着されており、掛け軸を巻きあげる際に軸先を回すので取れてくることはままあります。時には象牙などの高級な軸先を他の作品に転用することもあります。

本作品は美人画ですので、絵の具の剥落や折れシワが発生すると台無しなので、太巻きの誂にしました。

二美人図 三木翆山筆 大正6年
絹本水墨着色軸装 軸先蒔絵 太巻き二重箱
全体サイズ:縦1750*横570 画サイズ:縦1095*横435
2020年4月改装出来上がり
改装後 全体サイズ:縦1905*横547 画サイズ:縦1087*横430



気に入った作品は気に入ったスペースで・・・。



掛け軸を掛ける場所は極力高くします。大きな掛け軸も掛けれるようにするためですが、掛ける際に脚立に乗りますので必ず手でつかむ場所を工夫しておきます。梁や手摺(床柱)があると転落を防止できます。これは普段から掛け軸を扱っていないと思いつかない工夫でしょう。



手前の皿は取り替えるのが面倒なので、そのままの古伊万里(幕末?)の大皿です。

 

親子? 姉妹かを描いた作品でしょうか? さわやかな色香が漂います。



出かける前の身支度でしょうか?



下唇に緑色が見られます。これは江戸時代の文化・文政期(1804-30)頃に流行した口紅化粧、「笹色紅(ささいろべに)」をあらわしていますね。 上方の肉筆浮世絵によく見られた表現ですが、三木翆山は京都の画家ですので少なからず影響を受けているのかもしれませんね。



二人の着物を対照的に描いています。秋の季節感も十分です。



大正ロマン期の作品とは別の伝統的な女性美を描いています。



款記に描いた年が記してある作品は珍しいですね。これは資料としても貴重な作品となります。

 

大正6年、三木翆山が35歳頃の若い時の作品と解ります。



美人画の名手と言われた三木翆山の若いながらも卓越した技量がうかがえる作品だと思います。またひとつ遺すべき作品の誂えが完了しました。

観音像 伝高村光雲刀

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「商売」と書いて「あきない」と読むそうですが、さらに「飽きない」と解釈するそうです。たとえ失敗しても失敗をチャンスとしてとらえ、改善してさらにチャレンジする精神が「商売」成功のエキスだそうです。そこには「三方よし」が常に座標としてあるそうです。つまり「売る側」、「買う側」、「世間側」が「よし」としなくてはならないということですね。どうも自分だけがよいという発想ばかりが身の回りには多いですね。独立採算制などの組織にその意向が強く感じますが、本人たちはまったく気がついていないで論理武装してくるから怖くなります。これではいくらチャレンジしても必ず失敗するそうです。

さらに「商売」にはもうひとつ肝心なポイントがあって、「収入より支出はつねに控え目にする必要もある」とか・・。これは当方の蒐集には不向きな格言なようです。本日の作品も「不向きな例」でしょう。

さて、本日の作品の紹介です。以前はそうでもなかったのですが、最近は年齢を重ねたせいでしょうか、仏像になんらかの興味を示すようになっています。



若い頃に仏像を入手したのですが、亡くなった家内が不気味がり、結局手放しています。仏像は作った人、もしくは依頼した人からのなんらかの祈りや念があり、それを感じとる感覚の鋭い方にはどうしても仏像からは腰がひけるところがあるのかもしれません。よって当方の仏像蒐集はそのような念から離れた観点にある作品を蒐集しており、祈りという漠然としたものに集中できる近代彫刻家の作品が蒐集対象となります。



当方において仏像の作品への原点は、知り合いが所蔵していた「高村光雲作の観音像」なのでしょう。その美しさに感動したのですが、知り合いが手放そうとした際に、当方に資金がなく入手する機会を失ってしまいました。その無念さからの蒐集への意欲が強いのかもしれません。

その時の作品が下記の作品です。

観音像 高村光雲刀
木彫共箱 
高さ320*幅62*奥行き60*台150(六角)

 

上記の作品は、依頼されて思文閣へ売却するために当方で買取価格を打診していましたが、その時は所蔵者の意向により売却を保留しました。その際に痛んでいた部分については当方の負担にて、思文閣を通して修理を依頼し作品を補修して所蔵している方に戻しています。

なお本作品の共箱には「昭和五年三月吉辰 帝室技藝員 従三位高村光雲刻之」とあり、1930年、77歳頃のの作であると判断されます。入手を打診していたのですが、そののち所蔵されていた方は本作品を手放されており、その売却値段は不明です。

上記の作品の美しさは格別でしたが、後年いろいろと調べていくと「高村光雲作と思われる作品はほとんどが工房作品」と推定されていることが解ってきました。それでも市場ではそれらを高村光雲作として売買しているようです。

*署名に通常の「村」ではなく「邨」の字を使っている作品は、これは工房作ではなく、すべて光雲が手掛けで完成させたということを示していますが、この刻銘の作品は稀有です。

上記の作品がトラウマとなり、本ブログでも投稿しているように、当方では恐れ多くも高村光雲の作品を探し回っています。もちろん工房作品といえども、おいそれとは入手できる作品ではありません。

そうこうしてあがいているうちに、数年前に下記の作品を入手しました。この作品の詳細は本ブログにて紹介済です。

管公像 高村光雲作
台座前田南斎作 木彫共箱 
木像サイズ:高さ323*幅395*奥行き240
台座サイズ:高さ33*横425*奥行き272  箱サイズ:横470*縦480*奥行き47



この作品の箱書には「大正十二年(1923年)癸亥(みずのとい、きがい)年十一月吉日 帝室技芸員(押印) 正四位高村光雲刻之 押印(白文朱方印「高村」 黒文白方印「高村光雲刻印」)」とあり、本体には「光雲 押印(朱文白方印「高村光雲」)」とあります。高村光雲が70歳頃の作品ということらしいです。当方ではこの作品は工房作品と判断しています。

*上記に記載のとおり、署名に通常の「村」ではなく「邨」の字を使っている作品がこれは工房作ではなく、すべて光雲が手掛けで完成させたということです。大正末年頃のこの時期、光雲は非常に緻密に、細部に至るまで写実的に作った名品をいくつか残しています。本人作の作品は口元だけでなく、髪の生え際なども細かく彫られているし、どの位置からみても動きのある表現の作品となります。

なお作品の台座には「大正十二年初夏 指物師 南斎作 押印」とあります。台座は間違いなく前田南斎本人の正真作のようですが、当方は指物には全く知識がないので最終的な判断はできていません。前田南斎の作品は数が少なく貴重であると聞いています。

そのような前哨戦を踏まえてというか、まだまだ真作入手の前哨戦と言えるのですが、下記の作品を入手しましたので、本日の紹介となります。

観音像 伝高村光雲刀
木彫 合箱 
高さ320*幅*奥行き*台径



大きさは前述の作品とは光背の有無がありますが、上記の真作の「観音像」とほぼ同じ大きさです。



残念ながら、共箱ではありませんので、真贋の判断は難しくなっています。贋作に多いのは背面の刻銘ですが、本作品は台座の下に彫銘があります。なお緑などで刻銘を着色の作品には真作にはありえません。



彫銘を上記の2作品と比較してみました。下の写真の左が本作品で、中央が上記「観音像」(真作)の彫銘、右が「菅公像」の彫銘です。ま~、なんともといえませんが、いい線ではないかと思われます。贋作は字体が完全に違うものが多いようです。工房作品と本人作でも違うかもしれません。

なお本人作か工房作品かを見分ける「高村」の「村(邨)」がないのは逆に意味深ですね。本人作を期待させる・・・??? それはないね!

  

高村光雲の鋳物の作品はそれこそ市場にあふれるばかりにあります。当方でも父が亡くなった際に叔父から頂いた鋳物の作品があります。今でも新聞紙上で頒布会の広告があるくらいですから、その数は尋常ではないでしょうが、お値段は意外に高く、数十万円と法外なものです。ただし不要になって売る際は買取価格は数千円でしょう。



観音像は拝むもの、その姿に崇拝する美しさや神々しさがあるや否や・・。



造りはそれほど丁寧ではありませんが、贋作のような粗雑さはありません。



なお台座部分と仏像部分は接合されています。捩じると外れなくなる微妙な作りになっています。



さてこの観音像には当然のごとく贋作が存在します。下記の作品は「なんでも鑑定団」に出品された作品です

参考作品
観音像 高村光雲刀 贋作
なんでも鑑定団 2020年1月7日放送



鑑定団評:5000円
評:偽物。ぱっと見た時、顔立ちは美しく見えるが細部の彫りが粗い。指先がまるで鉈で切り落としたように直角のようになっている。光雲がするはずがない。足の指もひど過ぎる。裏の刻銘の「光雲」の字がまったく違う。箱書きの文字も字が違う。

箱書まできちんと模倣した贋作は数が少ないようです。箱書きがある場合はその多くが書体で一目瞭然で真贋が解ります。このような明らかな贋作は幾つかの真作を手にすることで避けることができるようですが、実際は、言われればその通りなのですが、私も含めて欲目にみる素人の判断ではなかなか難しいものです。

さて当方にも(聖)観音像が増えてきました。下記の写真がその作品らです。木彫は左右のみです。

左:聖観音 平櫛田中作 共箱 高さ327*幅113*奥行115
中央:聖観世音菩薩 澤田政廣作 頒布品 共箱 高さ518*幅147*奥行125
右:楠木彫聖観音菩薩尊像 市川鉄琅作  楠木 金彩色 共箱  幅136*高さ315



はて、たとえ贋作でも仏像は粗末にできないのが悩みですね。仏壇がデカくなる、賑やかになる、密になる・・・・ 前述のように何らかの理由で所蔵する意思のなくなった幾つかの作品はお寺さんに寄贈しています。本作品もそうなるかも・・・。

ところで仏像に付きものなのが、「厨子」です。30センチを超え、かつ台座まで収納できる大きさの厨子は稀有です。現在既存の厨子を増築中・・・。常にチャレンジか・・・

氏素性の解らぬ作品 呉須染付梅ニ小禽図馬蹄形陶板 

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骨董という作品は飾るだけが目的では決してなく、基本的には使うためのものであろうと思います。筆立てに小さな李朝の壺を使ってみたり、盃洗を花入れにしたり、香合を珍味入れにしたり、醤油差に大きめの水滴を転用したりと人様々な使い方をし、そのセンスの良さに度々驚かされることが多いものです。



その使用目的から入手するのか、入手してからそのような使い方になったかはその作品によって動機もまた様々なのでしょう。本日の作品はその図柄の面白さから購入し、入手してらさて何に使おうかと思案している作品ですが、そもそもこれはなに?という作品の紹介でもあります。

呉須染付梅ニ小禽図馬蹄形陶板 
誂箱
最大幅255*最大奥行*厚さ20



本作品の説明には「李朝前期」とあり、さらにメールにて「古い箱は破棄したが、その箱には李朝前期と記されていた。」という連絡がありました。ただ李朝前期にこれほど豊富に呉須(コバルト顔料)を使用するとは考えられないので、図柄から日本で製作されたか、李朝後期の作かと推察するのが無難かもしれません。もしかしたらデルフト焼のタイル・・・???の可能性もありますね。



「李朝前期にこれほど豊富に呉須(コバルト顔料)を使用するとは考えられない」というのは、李朝と呉須(コバルト)には下記の歴史があるからです。

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李朝の染付

14世紀、元時代の中国で、焼きものの表面にかけられた釉薬の下に、コバルトを用いて青い模様を描く方法が確立されます。この染付と呼ばれる手法を用いた焼きものは、量産されるようになった15・16世紀以降、中国国内にとどまらず、朝鮮半島や日本へもかなりの量が輸出され、大変な人気を博します。

それだけ需要のある作品となったことから、朝鮮の国王やその側近の人たちが、輸入に頼るだけではなく、何とか自分の国でも作れないかと考えたのは、ある意味で自然な発想だったと言えるでしょう。『朝鮮王朝実録』という朝鮮時代(李朝)の歴史を記録した書物には、15世紀に朝鮮国内で染付磁器を作ろうとして努力していたことが克明に記されており、実際に韓国の京畿道広州にある15世紀の窯跡からは、手本にされたと見られる中国製の染付と、焼き損じて歪んでしまった朝鮮製の染付の破片がみつかっています。

しかし、染付を作るのに欠かせない原料のコバルトは、その頃の朝鮮国内では採取されていないものであったため、僅かな輸入品に頼らなければならないのが実情でした。しかも、当時コバルトはかなり高価で、それほどたくさん手に入るものではなかったようです。そのため、17世紀まで朝鮮半島での染付磁器の量産は行われることなく、「染付磁器はぜいたく品だから王宮以外では使ってはいけない」として使用が禁止されることまであったどうです。

ところが、18世紀に入ると、徐々にコバルトがまとまった量輸入されるようになり、だんだんと染付が量産されるようになっていきます。それでも初期には、まだコバルトの輸入量がそれほど多くなかったためか、器全面に染付で模様が描かれることはほとんどありませんでした。また、コバルトが貴重品であったため、薄めて使っていたらしく、染付の青の発色は全体にくすんでいて、あまり色鮮やかではありません。

これに対して、19世紀の染付は青の色あいがかなり鮮やかとなります。また、コバルトの輸入量が増加したらしく、ふんだんに使われるようになり、器のほぼ全体をコバルトで青く染め上げた瑠璃地と呼ばれるものまで出現します。この瑠璃地は、一見すると青い釉薬がかけられた焼きもののようにも見えますが、実際には器のほぼ全面を染付で青く染め上げているだけで、釉薬自体は透明です。瑠璃地のものをよく見ると、青い色にずいぶんムラがあることが分かりますが、これは釉薬の下に塗ったコバルトの塗りムラです。

なお18世紀の朝鮮の染付はいかにもケチで、貧乏臭い貧相なもののような印象を持たれるかもしれませんが、むしろ大きな余白を残しつつ、簡素な模様を効果的に配置しているところなど、「余白の美」とも言うべきセンスの良さが感じられます。またコバルトの鈍い発色も派手さはありませんが、味わいのある渋い色となっています。作り手にとっては単に原料を少なくした結果だったのかもしれませんが、それがまた違った面での良さとなっているのは李朝染付の味わいになっています。

李朝時代を時期区分
初期(1392‐1469)=支配体制の確立期,
中期(1470‐1607)=支配体制の動揺期,
後期(1608‐1860)=支配体制の解体期(再編期),
末期(1860‐1910)=朝鮮近代

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単純に考えると、以上の考察より本作品が李朝ならば李朝後期以降の作と推定されます。ただし、李朝前期の14世紀から15世紀にかけての「実際に韓国の京畿道広州にある15世紀の窯跡からは、手本にされたと見られる中国製の染付と、焼き損じて歪んでしまった朝鮮製の染付の破片がみつかっています。」、「17世紀まで朝鮮半島での染付磁器の量産は行われることなく、染付磁器はぜいたく品だから王宮以外では使ってはいけない。」ということにロマンを見出そうとしているのは、一概に否定できないかもしれません。



「梅ニ小禽図」はどうみても日本的? 絵はうまい。



左の書き銘は古染付風? 古伊万里風?・・・李朝なら後期? デルフト焼などの欧州のタイルの可能性もたしかに捨てきれない・・。周囲の縁の状態からはやはりタイルであったのではないか?というのが当方の現時点の推測です。



当方で入手に至った理由は3点。
1.安かったこと
2.絵がうまいこと
3.馬蹄型というよりハート形



裏面に貼られた紙には何やら書いていましたが判読不能でした。



さて、何に使おうかな? また3点候補があがりました。
1.縁を補修して飾る
2.風炉用敷板
3.鍋敷

飾るのは意外につまらない。風炉用敷板だと炉をどけないと肝心の絵が見えない。鍋を載せるまで見える鍋敷かな・・・。その場合の問題は熱の伝導率・・・。

とにもかくにもハート形・・・、愛情の証に贈り物にもいいかもね

本日は亡くなった家内の命日です。郷里に日帰りですが、行の飛行機はあるが、帰りの飛行機は欠航で、帰りは新幹線・・・。







郷土の画家 雪中帰家之図 石井百畝筆 その2

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あまり知られてない郷土の画家の作品を紹介し始めると、ブログがいつになったら終わるやらということになることと、興味のない方には飽きが来るでしょうという二つの理由からから、あまり知られてない郷土の画家の作品については当方の資料の整理のみにしておりますが、当方の所蔵作品の中でいくつかの面白そうな作品だけを紹介しようかと思っています。

本日は当方の郷里の隣町出身の画家「石井百畝」の紹介です。本日の作品で2作品目の紹介となります。



郷土の画家 雪中帰家之図 石井百畝筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱+タトウ
全体サイズ:縦1813*横400 画サイズ:縦1141*横293

この作品も痛みがあることから改装され、他の郷土出身の画家と同じく男の隠れ家にて大切に保管されています。

 

石井百畝は明治36年2月16日生まれ、昭和18年10月2日没。秋田県能代市出身。比内町扇田で死去。本名岩太郎。

 

父母とともに20歳から扇田の市川に住み、独学で画筆をふるったそうです。花鳥、山水、仏画と画域が広く、扇田、大館市、鷹巣町、二ツ井町などに多くの作品が残っていましたが、今はどうなっているかは解りません。骨董店に持ち込んでも買い取ってくるでしょうか?



胡粉の使用がうまく、同じ地元の画家である福田豊四郎に比肩しうるものと評価されています。



この作品もリンゴ台風の時に天井裏から持ち出した箱から出来てきた作品ですが、非常に痛みがあり、たしか青森の表具店で改装してもらったように覚えています。



晩年の号が「柏峰」で、遺っている作品が少ないと聞いたことがあります。

 

本ブログでは他に下記の作品も紹介されています。

瀧登鯉 石井百畝筆
絹本着色軸装箱入 
全体サイズ:横642*縦2025 画サイズ:横517*縦1291



地元の新聞社である北鹿新聞で発刊された「北秋の画家」の画集に掲載された作品です。本作品と同じく晩年の作と思われ「柏峰」の号が使われています。



月並みな画題とはいえ、石井百畝の傑作のひとつといえよう。



この作品も改装され、男の隠れ家にて今後は保管されます。両作品とも地元で所蔵されることが重要なファクターでしょう。






清潭香魚図 川合玉堂筆 明治33年頃

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先週は中盤より腹痛・・・。とうとう木曜日に発熱もあり、ダウン。金曜日には病院にて検査を受けてきました。どうも腸炎のようです。即入院はなんとか避けられましたが、復調までには日曜日までかかりました。その間、子どもは小生と遊べず、つまらなそうにしていましたが、日曜に体力が回復してパソコンの前で小生が資料を整理していると、息子曰く「パパは遊びの本(資料のことらしい)はものすごくたくさんあるね!」だと。どうもパパをライバル視しているきらいがある??

さて本作品の巻止には「庚子(かのえね、こうし)六月為諭吉 欸冬鮎図 玉堂筆 小湖誌」とあります。明治33年に描いたことでしょうか? 以前にこの作品を本ブログに掲載した記事にあるとおり、印章と落款は明治33年の作品と一致します。川合玉堂が27歳と若い時に描いた作品ということなります。これはほぼ間違いないでしょう。



清潭香魚図 川合玉堂筆 明治33年頃
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 共箱 旧作題
全体サイズ:縦2030*横535 画サイズ:縦1140*横408
改装後 全体サイズ:縦1838*横535 画サイズ:縦1135*横407



古今、日本画において描かれた魚は圧倒的に鯉と鮎が多い。鯉を描いた画家は黒田稲皐が名人とされ、また円山応挙、福田平八郎らが有名ですね。

 

鮎では小泉檀山(斐)が名人とされ、多くの画家が描いています。鯉にしても鮎にしても、この淡水魚は食する者と同時期季節感のあるものです。鯉は5月の節句に、鮎は初夏にと・・。



ありふれた題材ながら、画家の技量が見隠れする画題でもあるでしょう。この作品の功zには明らかに小泉檀山の影響が見られます。



川合玉堂の最盛期以降の作品は人気が高く、小生の資金力では入手は不可能です。たまたま、若い頃の作品ゆえ入手できたのでしょう。



当方には画家の若い頃の作品が意外に多いのは、入手時のお値段ゆえなのと、調べているので若い頃の作と判断がついているからでしょうね。



本来骨董や美術品はそれなりの出費をして入手するのが王道です。安く買ったことを自慢してはいけません。安く買ったことを恥じるのが蒐集する者の本来の姿だと最近感じるようになりました。



法外に高く売るつけるのはいけませんが、値切るのも品性がありませんね。売り先には「これはこのくらいの値段が今は相場(仕入れ値段)だよ。」というのが一番の嫌味らしい。



なにはともあれ、今作品もまた愉しんでいる作品です。

ところで展示室では小生は調べ物はしません。作品や気になったことを頭に叩き込んでから書斎で調べます。作品に出会ったときに気になったことを記憶として頭に叩き込むことに慣れるためです。骨董店に印譜の資料などを持ち込む輩は蒐集家としてマナー違反ですね。展示室では小説でも読んだ方が健康的です。

  

問題はこの巻止にあった書付の意味です。

まず「小湖」からこの書付は「金応元」によるものではないかと推察されます。

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金応元:朝鮮の書画家。小湖と号する。画は蘭を得意とし、書は隷行を能くする。墨蘭は独歩の筆致で、穏健・端雅・軟美である。檀紀4254年(大正10)歿、66才。

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記事から明治33年には金応元は44歳ということになります。落款の書体は金応元のものと一致するようですが、確証はありませんし、川合玉堂、金応元、福沢諭吉がどう関わったのかは当方の資料からは不明です。

 

この作品を描いたとされる明治33年の翌年(明治34年)に福沢諭吉が亡くなっています。なんらかの二人の縁のある作品というロマンが・・、そこまでは「まさか」でしょうか? 

*実際には「小湖誌」の詳細は不明ですのでご了解ください。。



骨董や美術作品はロマンさ・・。ロマンにお金を支払うようなもの。それが息子にはうらやましいらしいのだが、思わぬライバル出現・・・。

李朝後期 染付寿文字草花文壺 

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腸内炎で寝込んでいるうちに、植木屋さんがきて庭のサツキをメインに刈り込んでいったようです。ここに梅雨の雨が降り注ぐとまさしく奥村厚一の「緑雨」という作品のの世界です。



さて本日は李朝の作品。陶磁器は「古信楽と李朝で終わる」というほど、李朝の器は陶磁器のファンには垂涎の的の陶磁器群となっています。価格もおいそれと手の出せるお値段ではないので、当方では骨董店に並んでいる李朝の作品を横目で見るしかない状況ですが、少し価格が低下してきたように感じます。李朝の作品でも白磁、雨漏手、染付など各種ありますが、その作品も時代が後期になると多少こちらでも手の出る価格帯になるようです。



恨めしい価格帯の作品ですが、ちょっと無理して本日の作品を入手したのは、染付で書かれた「寿」の字が理由です。「亡くなった家内の名前の一文字」で、この字のある作品は古伊万里にしろ衝動的に購入に踏み切るきらいが当方にはあります。

李朝後期 染付寿文字草花文壺 
古箱
口径125*最大胴径220*高台径105*高さ195



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李朝の染付

14世紀、元時代の中国で、焼きものの表面にかけられた釉薬の下に、コバルトを用いて青い模様を描く方法が確立されます。この染付と呼ばれる手法を用いた焼きものは、量産されるようになった15・16世紀以降、中国国内にとどまらず、朝鮮半島や日本へもかなりの量が輸出され、大変な人気を博したようです。

それだけ需要のある作品となったことから、朝鮮の国王やその側近の人たちが、輸入に頼るだけではなく、何とか自分の国でも作れないかと考えたのは、ある意味で自然な発想だったと言えるでしょう。『朝鮮王朝実録』という朝鮮時代(李朝)の歴史を記録した書物には、15世紀に朝鮮国内で染付磁器を作ろうとして努力していたことが克明に記されており、実際に韓国の京畿道広州にある15世紀の窯跡からは、手本にされたと見られる中国製の染付と、焼き損じて歪んでしまった朝鮮製の染付の破片がみつかっています。

しかし、染付を作るのに欠かせない原料のコバルトは、その頃の朝鮮国内では採取されていないものであったため、僅かな輸入品に頼らなければならないのが実情でした。しかも、当時コバルトはかなり高価で、それほどたくさん手に入るものではなかったようです。そのため、17世紀まで朝鮮半島での染付磁器の量産は行われることなく、「染付磁器はぜいたく品だから王宮以外では使ってはいけない」として使用が禁止されることまであったようです。

ところが、18世紀に入ると、徐々にコバルトがまとまった量輸入されるようになり、だんだんと染付が量産されるようになっていきます。それでも初期には、まだコバルトの輸入量がそれほど多くなかったためか、器全面に染付で模様が描かれることはほとんどありませんでした。また、コバルトが貴重品であったため、薄めて使っていたらしく、染付の青の発色は全体にくすんでいて、あまり色鮮やかではありません。

これに対して、19世紀の染付は青の色あいがかなり鮮やかとなります。また、コバルトの輸入量が増加したらしく、ふんだんに使われるようになり、器のほぼ全体をコバルトで青く染め上げた瑠璃地と呼ばれるものまで出現します。

瑠璃地は、一見すると青い釉薬がかけられた焼きもののようにも見えますが、実際には器のほぼ全面を染付で青く染め上げているだけで、釉薬自体は透明です。瑠璃地のものをよく見ると、青い色にずいぶんムラがあることが分かりますが、これは釉薬の下に塗ったコバルトの塗りムラです。



18世紀の朝鮮の染付はいかにもケチで、貧乏臭い貧相なもののような印象を持たれるかもしれませんが、むしろ大きな余白を残しつつ、簡素な模様を効果的に配置しているところなど、「余白の美」とも言うべきセンスの良さが感じられます。またコバルトの鈍い発色も派手さはありませんが、味わいのある渋い色となっています。作り手にとっては単に原料を少なくした結果だったのかもしれませんが、それがまた違った面での良さとなっているのは李朝染付の味わいになっています。



李朝時代を時期区分
初期(1392‐1469)=支配体制の確立期,
中期(1470‐1607)=支配体制の動揺期,
後期(1608‐1860)=支配体制の解体期(再編期),
末期(1860‐1910)=朝鮮近代

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以上の考察から本作品は李朝後期初期の18世紀頃の作と推定されます。



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李朝全体の変遷

白磁は高麗白磁を受継いで初期には作られ、中国・明初様式を写した純白のものから、堅手と言われる灰白白磁。金沙里窯を中心に焼かれ厚い釉が施された乳白白磁、そして分院窯における薄い青緑色の白磁へと変遷しています。李朝500年を通じて高く評価され続けたその背景には、儒教精神が深く人々の中に生きづき、清浄な白に対する特別な思いがあったのではないかと考えられています。

15世紀中頃から中国・明初の影響を受けて始まった青花白磁は、壬辰・丁酉の乱を経て大きく姿を変え、李朝独自の様式を確立されます。

銅系の顔料を使い紅色を呈する辰砂は、青花同様、中国の釉裏紅の影響からつくられたようです。中期から末期にかけてよく作られ、特に末期の分院窯が多いと考えられています。

鉄砂は15世紀より白磁を下地とした白磁鉄砂が生まれたといわれていますが、その遺例は極めて少なく、17世紀頃が最も盛んであったとされます。文様は官窯の画員が描いた写実的なものや、陶工による大胆かつ力強い筆致のものなど変化に富んでいます。

その他、器表全面に青花を施した瑠璃釉や鉄釉を全面に掛けた総鉄絵,辰砂による総辰砂などがみられます。

なお雨漏手のような不完全な白もそのまま市場に流れたのは、これもうわべを取り繕うことを嫌う儒教の影響とされ、園は完全さもまた魅力となっています。

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李朝陶磁は柳宗悦らの民芸運動によりその魅力をわが国に紹介され、数多くの愛好家を生みました。特に中国陶磁にはない柔らかさや優しさ,人の温もりを感じさせる李朝陶磁は、手元において使ってみたいと思わせる心安らぐ作品が多く、美しさとともにあるその日常性に最大の魅力を感じさせてくるのでしょう。



李朝の染付の魅力は上記の説明にあるように、淡い染付を勢いよく描いて、簡素な模様を効果的に配置している点で、大きな余白を残しつつ、「余白の美」とも言うべきセンスの良さが感じられます。これは日本の水墨画に共通する美意識です。



日本においその美は見出されたといっても過言ではないでしょう。



これ以降の染付の作品はコバルトの色が濃すぎて観るべき作品は少なくなります。



面取りの花入れなど、李朝の染付には観るべき作品は多いのですが、人気ゆえの価格の高さと紛い物の多さには閉口するのも事実ですね。



とりあえず手頃なお値段で入手した本作品、字をみているだけでいろんな思いが蘇ります。雨音と共に・・・・。



砂濱漁撈図 橋本雅邦筆

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橋本雅邦の作品は前から好きで、贋作が多いことを承知しながら、食指が動くので始末に悪いものです。本日の作品は経験上から真作と判断しています。

砂濱漁撈図 橋本雅邦筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 勝田蕉琴昭和32年5月23日鑑定箱入
全体サイズ:横410*縦1160 画サイズ:横260*縦190



なぜ私は橋本雅邦が好きなのだろうか? それは近代日本画の先陣をきった気概のある画風もさることながら、子供の頃から寝床の脇に狩野芳崖の作品が飾ってあり、その盟友たる橋本雅邦にも当然、後年になってから興味が湧いてきたのであろうと私は考えています。



叔父のところには橋本雅邦の屏風などの数点の作品があり、よく見せていただきました。屏風の作品は画集に掲載されておりましたが、誠に残念ながら、小生の中継ぎで思文閣に〇〇〇万円で買い取られていきました。

寝床に飾れていた狩野芳崖の作品は、当方の本家からの伝世品で、本家の叔父からは「子供の寝床に飾るものではない」と母が叱られたそうです。この作品は母が事業の関係で一度手放しましたが、入手先の好意により今は当方の所蔵となっています。



当方の蒐集対象には橋本雅邦と並んで狩野芳崖も含まれていますが、この両名は高名ゆえもあり、いい作品の入手は当方の資金では到底及ぶものではありませんが、なんとか小品程度ならと手の届く範囲で蒐集しています。



「好きこそものの上手なれ」とは言わないまでも、遅々とではありますが、作品への判断が可能となってきました。



少しづつ両画家の判別が解ってきていますが、両名の作品は贋作が多く、両者の作品は、骨董界では極端に言うと生存中もしくは没後のあたりに刊行された画集にでも掲載されていないと真作と認めないほどです。



とはいえ、当方ではビジネスにしているのではないので、好きな作品を対象に蒐集しており、その中でも本作品はとても好きな作品のひとつです。

なお鑑定箱書は門下生の勝田蕉琴によるものです。

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勝田蕉琴:日本画家。明治12年(1879)福島県生。本名良雄。橋本雅邦門下。東美校卒業後、岡倉天心の推薦により渡印し、仏画制作と仏教美術研究に従事。またシャンチニケタン学園で東洋画を教授した。帰国後は国画玉成会に属し、官展で活躍。狩野派の筆法を伝える花鳥山水をよくした。帝展委員・日本画会鑑査員。昭和38年(1963)歿、83才。

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よくある橋本雅邦の子息の橋本秀邦の鑑定箱が一般的ですが、もう一人の子息の橋本永邦の鑑定を含めて信頼度はどの程度なのかはよく分かりません。贋の鑑定も多く、あまり信用しない方が無難です。現在は東京美術倶楽部の鑑定書が一般的です。



本作品は小点の作品ですが、よく描かれており、作品に品位があります。飾っていて楽しめる作品でしょう。

落款と印章は下記左写真が本作品、右の印章が他の真作の印章です。

 

同一印章では、当方の所蔵作品では下写真左が「椿鶯図」(印章のみ)、右は「夏景山水図」ですが、印章が違いますし、右の「夏景山水図」の作品はよくある贋作の印章のひとつではないかと判断していた作品です。

 

最初の頃は迷路に入り込んだ感のある橋本雅邦の作品ですが、恐れ多くも自分の道先案内ができるようになってきたように感じています。



実に品格のある一品です。



展示室の茶室に飾って愉しんでいます。



清水焼 絵巻物形香炉台

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とかくちょっと時代のある京焼の明治期に入った頃に作られた作品を「古清水」と呼びたがるようですが、基本的に「古清水焼」は、制作年代が京都で磁器が開発される江戸後期以前のまた、江戸後期であっても磁器とは異なる京焼色絵陶器の総称として明治期の作品とは明確に区分して用いられています。

さて本日の作品はいつ頃の作品やら・・・。

清水焼 絵巻物形香炉台
「清水焼 吉川藤太郎(印銘) さく」銘入 合箱
幅365*奥行130*高さ70



なんとも奇異な形をした作品です。家内曰く「陶枕?」・・、基本的には色絵陶器です。



これは絵巻物の形をした花台か香炉を置く台でしょうか?



購入時は一部の写真のように汚い感じでしたが、洗うと少し汚れが落ちました。洗うことを嫌がる方もいますが、いい作品というものは洗ってきれいにしておくもので、故意付けた、もしくは汚れた古色を尊ぶのは邪道です。



一体何の絵を描いているのでしょうか? 



絵の上部にはなにやら文字が記されています。



問題は裏面です。写真では解り軸いのですが、「清水焼 吉川藤太郎(印銘) さく」とあります。



他は刻銘ですが、印銘があります。清水焼とあることから少なくとも明治以降・・??? 印銘の「吉川藤太郎」なる人物は不明です。

  

詳細に記述すると「古清水焼」は一般的には、野々村仁清以後 奥田穎川(1753~1811年)以前のもので、仁清の作風に影響されて粟田口、八坂、清水、音羽などの東山山麓や洛北御菩薩池の各窯京焼諸窯が「写しもの」を主流とする茶器製造から「色絵もの」へと転換し、奥田穎川によって磁器が焼造され青花(染付)磁器や五彩(色絵)磁器が京焼の主流となっていく江戸後期頃までの「無銘の色絵陶器」を総称します。

なお、京都に磁器が誕生すると、五条坂・清水地域が主流生産地となり、幕末にこの地域のやきものを「清水焼」と呼び始め、それ以前のやきものを総称して「古清水」の呼称を使う場合もあります。

よってこの作品は幕末から明治期と推定するのが妥当かと・・。なんだかんだいってもっと時代が下がるかも???



野々村仁清(1656~57年 明暦2‐3年)が本格的な色絵陶器を焼造しましたが、その典雅で純日本的な意匠と作風の陶胎色絵は,粟田口,御菩薩池(みぞろがいけ),音羽,清水,八坂,清閑寺など東山山麓の諸窯にも影響を及ぼし,後世〈古清水(こきよみず)〉と総称される色絵陶器が量産され,その結果,京焼を色絵陶器とするイメージが形成されました。

古清水焼のように江戸期の作品は、ねっとりとした不透明で盛り上がり感があります。特徴は古い赤はもっとどす黒さに近い濃い赤、土は硬くてすべすべしているが、本来古清水の土というのは卵色で、そこに時代の錆び・汚れがついてなんとなくぬくもりがするものです。ともかく下の釉薬が透けて見えるような作品は明治以降の清水焼と分類して方がよさそうです。

本作品は色絵の釉薬は近代の清水焼とは違い、色合いが濃く、胎土も「古清水焼」の特徴を備えていますが、「古清水焼」には、高台の裏などに窯印はなく、窯印のあるものは古清水焼より若い物と区別しています。この条件からは、本作品は「清水焼」と分類される可能性があるのでしょうが、「古清水焼」の可能性は捨てきれません。



購入先では「江戸末期から明治期」という説明でしたが、真偽のほどは解りかねています。ともかく珍しい趣向の作品で、使い道も台としてなどいろいろとありそうです。



現在は展示室に藤田喬平の時計を置いて愉しんでいます。



*掛け軸は川合玉堂の若年の作です。天地改装しております。
*壺は古備前の壺で当方に伝来している作品です。

源内焼? 緑釉菱形文三足八角皿 五客揃

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本日の作品は元来の源内焼とは趣を異としますが、釉薬や胎土から源内焼と当方では判断して投稿します。ただ源内焼のほかに、四国にて源内焼から派生した焼き物類、瀬戸関連、さらには交趾焼の可能性もるかもしれません。



源内焼? 緑釉菱形文三足八角皿 五客揃
補修跡有 古箱
奥行157*奥行131*高さ38 



食卓に重宝な食器の条件は一般的には「最低五客程度の揃いであること、重ねてコンパクトに収納できること、壊れにくい(丈夫であること)、料理が映えること、大きさが15センチ程度であること」なのでしょう。もちろん長皿、鉢といったものは大きさ的には条件や用途が違います。



本作品は五客程度の揃いであることと料理が映えること以外は条件にそぐわないものです。破損して補修されている作品がほとんどですが、実際に扱ってみると解りますが、非常に脆い器です。源内焼の胎土は楽焼に近いものがありますので、吸水性が高く、軽めあり、非常に破損しやすいものです。



でも「それでも使ってみたい」という気にさせるのが、いい器だと私は思っています。



小粋なもの、色彩に魅力のあるもの、絵付けがうまいものなど。



ちなみに小生は洋食器は好みでありません。使いたいとも思わないし、美的にも美しいと思ったことは極端に言うと一度もありません。釉薬の濃淡、貫入まで味わう趣向という点では日本の食器はおそらく世界一でしょう。染付、赤絵をはじめとする明末の民窯の作品も今では中国はむろん日本以外には全く無く、日本で評価されているのは日本の注文で作った、日本人好みの意向の強い作品だからなのでしょう。



陶磁器に限らず漆器、木器、どれをとっても超一流です、とくに古いものは・・・。



ただし、古ければなんでもいいというものでもありませんね。先人の遺したものを、今のセンスでふるいにかけて遺していくべきなのでしょう。過去がそうであったように・・。



さて本日のこの器、源内焼かどうかは解りません。源内焼から派生した焼き物群にはあまりいいものがないのですが、この作品はデザインが織部風で形もチャーミングです。



デザインも優れていると思いませんか? これに料理を盛りつけたらいいだろうな~



使ってみたいと思うか、壊れやすくて嫌だというか、意見の別れそうな作品です。家内は嫌だと言うだろうな・・・



とりあえず展示室に展示しています。ちなみに掛け軸は天龍道人の作品、敷板は家内の実家の敷地にあったという欅です。









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