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Channel: 夜噺骨董談義
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リメイク 改装 春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 明治40年(1907年) その2

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愛媛における最後の南画家といわれる三好藍石・野田青石らの活躍は昭和初期まで続き、主流の座は容易にゆるがないものでしたが、今では地元でも知る人の少ない「忘れ去られた画家」の一人でしょう。それでも今でもその作品により、数は少ないであろうけれどのファンである郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風靡しているのではないのでしょうか。
そのような作品は掛け軸の人気がないこともあって、巷に多くの作品が痛んだまま放置されています。本作品もインターネットオークションにて入手し、しばらく手元においてあった作品ですが、痛みがひどいので改装した作品です、以前に紹介していますので「リメイク」の作品となります。

春夏冬山水図 三幅対 三好藍石筆 明治40年(1907年) その2紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 誂箱+タトウ全体サイズ:縦1885*横535 画サイズ:縦1270*横415改装後寸法 全体サイズ:縦1903*横545 画サイズ:縦1258*横411


明治初頭は日本美術の暗黒時代であり、極度な衰微・荒廃の時とされますが、その暗黒といわれる時代に、意外にもただ一つの例外として南画の隆盛がああります。幕末から明治にかけ、日本南画は全盛期を迎えることとなり、俳聖正岡子規は、同郷の洋画家下村為山に、「南画にあらずんば絵にあらず」と主張し、南画礼賛論で為山と激しい論争を展開しています。その論争は結局子規の負けとなり、彼もやがて洋画礼賛論者となりますが、幕末・明治の南画全盛期には、絵心あるものはだれもがそれを習い、子規のいう「南画にあらずんば絵にあらず」の風潮は、単に正岡子規の地元の愛媛県下だけでなく、全国津々浦々に普及していた時代思潮といえよう。
 一体、なぜ南画がそれほど普及し、一般に親しまれてきたのであろうか。中国における北宗・院体、日本の狩野・大和絵が常に支配階層の専有であるに対し、南画はあくまで在野の絵、その清新自由なアマチュア精神、庶民感覚の大衆性によるといえよう。明治維新を成し遂げた憂国の志士たち、また新政の要路にたった顕官たちは、みな漢詩・漢文により育てられた悲憤懐慨の士であり、いわば体制への反逆者です。したがって、伝統絵画の優美華麗さより、彼等の感懐を端的に表す豪放洒脱な南画を歓迎したのも至極当然なのでしょう。そうした新政顕官たちの支援も得て爆発的な盛況を呈すのが、南画隆盛の要因でもあろう。
 ところが、明治も中ごろになると、文明開化の波に乗り、西欧リアリズムの洗礼を受けた新日本画の台頭や洋画の進出が目立ち、これまで時流に乗ってきた南画も、次第に画壇の表舞台から姿を消していきます。従来の床の間芸術をそのままに公開の会場に持ち込んだ南画は、新時代の覚醒に乏しく、近代絵画としての脆弱さも目立ち、旧派といわれ次第に主流の座から追い落とされます。南画・文人画は、元来素人の絵である。その大衆性が基盤となり大発展をとげることとなったのですが、やがてそれが裏目に出て、いわゆる「つぐねいも山水」の汚名とともに凋落の一途をたどることとなります。だが、それは日本南画の一般傾向であり、愛媛県における根強さはまた格別といえました。
*この作品は「春」、「夏」、「冬」の三幅を同時に入手していますが、まったく別々に入手しており、もしかしたら「秋」の作品があったのかもしれません。


三好藍石は天保九年(1838)徳島県池田町に生まれ、川之江の素封家三好家に迎えられ養子となっています。名は信、字は小貞、通称を旦三といい、藍石は号であり、金江・螺翁・河江翁ともいいます。三好家は、代々酒造業を営む近郷きっての素封家であり、彼も詩文・書画を好む学識高い文化人であったとされ、三好家は文人墨客の出入りが絶えず、当地における文化交流の一大サロンの役を果たしていたようです。
近くに住む続木君樵もその常連であり、三好藍石の画業に大きい影響を及ぼすこととなります。そうした環境で悠々と文人気どりの彼は、明治初年の激動期、郷党に推され県会議員となり政界に乗り出します。さらに時代の要請で産業開発にも関心を示し、製陶・海運・養豚にまで手を出しますが、元来は無欲恬淡の文人ゆえ、政治や実業が性に合わずすべてが失敗に終わって、さしもの名家も破産という破局を迎えることとなっていまいます。
彼が、いわゆる文人画家から脱却、専門画人としての道を選ぶのはそのころのようである。先祖から受け継いだ栄誉・資財の一切を失い、人の世のはかなさ、みにくさをつぶさに味わい、彼は60歳を過ぎ一流浪の画人として大阪へ出て行きます。その大阪行きをすすめ、奔走したのは当時宇摩郡長を勤める門人の手島石泉ら多くの門弟たちのようです。以後、彼は在阪20年、各地の画人と交流、研鑽を深め、多くの名作を残し、当地南画界の雄として、彼の生涯で最も充実した画人生活を送ります。
*春と思われる幅の賛は「柳市桃源 藍石居士写於小画禅堂 押印」とあるようですが、詳細は不明です。
 
大阪南画壇で盛名をはせた彼は、80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境を過ごし、大正12年(1923)10月20日、86歳で没しています。
三好藍石の筆法はあくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出し、その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも郷土人士の心をとらえて離さないものがあります。藍石の影響を受けた同郷の画人には大西黙堂・安藤正楽がおり、また東の藍石、西の青石と称された八幡浜の野田青石がいます。
本ブログでも何点か投稿している天野方壷や、続木君樵は明治初頭における愛媛画壇の双璧といわれていますが、君樵は、帰朝後郷里に落ちつき、作画を楽しみながら画塾を開き後進を指導、そこに育った三好藍石ら多くの門弟たちは、やがて以後の愛媛画壇を風靡するに至ります。
一方、天野方壷は、郷土を離れ全国各地を歴遊、中央画壇で華々しい活躍を染ますが、一人の門弟ももたず、専らおのが画業に専念しています。その間、どれほど郷里に滞在し、どれだけの影響力を持ち得たのかは、その点についての資料が乏しく推測の域を出ませんが、彼は専ら作品により郷土人士の心をとらえ、その作風で愛媛画壇を風靡しています。
*夏と思われる幅の賛は「層密雲樹 倣宋□岳藍石居士 押印」とあり、宋時代の画家を倣った作品のようでありますが、この画家が誰なのかは当方では不明です。米 芾かな・・・???? 
 
*冬と思われる作品の幅には「寒渓雪暮 丁未(ひのとひつじ、ていび)□夏写於小画禅堂 □□□藍石居士 押印」とあります。明治40年(1907年)、三好藍石が69歳頃の作品と推察されます。「80歳を過ぎ、郷党や門人に迎えられ郷里川之江に帰り、城山山麓の小画禅堂(清風明月草堂)に落ちつき、画禅三昧の老境」と資料に記載がありますが、69歳頃に一時的に帰郷していたこともあったと推測されます。
印章は「信□小貞」の白文朱方印、「金江」の朱文白方印の累印が押印されています。
この冬の作品は在阪時代であり、春の作品は帰郷後の作品となるとこの三幅は同時期に描かれたかどうかも不明ですね。
 
彼の遺墨は、川之江地方を中心に各地に散在し、その数は随分多いとされます。


それらのうち、54歳作シカゴにおけるコロンブス記念博覧会出品の「寒霞渓秋景之図」翌年作「祖谷山蔓橋真景」、大正天皇御大典記念に献納の「老松亀鶴之図」、同じく天覧の栄に浴した「一品当朝之図」などがよく知られ、代表作といわれます。


彼の描く山水は、あくまで南画の伝統描法にのっとり、一筆一筆を誠実に、また巧みな雲姻による緊密な構成で生々しい現実感をもりながら超現実の神仙境を描出しています。


その卓抜の画技は、長年にわたる彼の厳しい求道・修練の賜物であり、いつまでも一部の根強いファンである郷土人士の心をとらえて離さないもののようです。
*三幅には印章は共通しています。下記の印は遊印として押印されています。


保存箱を誂えての保存。このようなことに資金や労力を費やす人はもういないのだろう・・・。


痛んだ作品をメンテするにはそれなりの費用がかかります。蒐集するのとほぼ同等の費用となっていると思われますが、蒐集する側の責務と考えていいでしょう。蒐集・メンテナンス・調査(情報収集)の三本立てて作品の整理が成り立ちますね。









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