*本ブログは2025年の9月25日頃にて終了となる予定です。他のサービスで続けるかどうかはまだ決めていません。まずはそれまではよろしくお願いいたします。
当方の蒐集の師とも崇める叔父は「焼き物の最後は備前。」と言っていました。主に茶碗ではなく陶磁器全体への言葉であったと思われますが、釉のない作品への強い執着であったようにも思えます。その叔父は金重陶陽、藤原啓、藤原健、藤原雄らの作品を好んで蒐集していました。
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備前緋襷茶碗 その3 藤原雄作 その5共箱・共布口径127*高さ84*高台径
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藤原雄(1932-2001)は藤原啓の長男として生まれています。右目は0.03、左目は全く見えないというハンディの持ち主ですが、このことはあまり知られていません。
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健常者同様に進学する事に父親はこだわり続けたことから、青年時代は文学や音楽に熱中していたようです。1951年 明治大学 文学部 日本文学科に進学。
1955年 みすず書房に就職。しかし同年9月に父親の看病の為に休職し帰郷。この頃、小山富士夫に備前焼を勧められ父に師事し技法を学びはじめます。
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備前焼の伝統を重んじながらも、新しい感性に溢れた作品作りを追求しています。世界各地で作陶や個展を続け,伝統に近代的な感覚をとりいれた作品で知られていきます。
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1964年 アメリカ現代陶芸美術館やカナダのポイントクレーヤーでは海外初の個展を開催。同年以降、アメリカ、カナダ、メキシコ、スペインの大学などで備前焼についての講義をたびたび行っています。
1965年 棟方志功と共にアメリカ・ダートマス大学の客員教授を務めます。以後国内外で多くの作品を発表しその評価が高まっていき、後にメトロポリタン美術館や大英博物館にも作品が収蔵されます。
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1985年 紺綬褒章受章。
1988年 社団法人日本工芸会理事に就任。同年、日本人として初めて韓国国立現代美術館にて「備前一千年、そして今、藤原雄の世界展」を開催します。
1991年 「焼き締め陶公募展」開催。実行委員長を務めます。
1996年 倉敷芸術科学大学芸術学部教授に就任。5月10日、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定。2代に亘っての人間国宝となります。
1999年 倉敷芸術科学大学教授を退任。
2001年 多臓器不全のため69歳で逝去。
なお息子は同じく陶芸家であり陶心会会長・備前陶友会理事を務める藤原和です。
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藤原雄というとその丸くて穏やかな器形がその人間性を表すとされて、高く評価されています。大きめの壺がもてはやされて、個展などで高値で飛びように売れていました。備前焼を世界的に広めた藤原雄は「壺の雄」 と称されました。
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現在ではそれほどの人気はなくなり、手頃なお値段にて売買されています。
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ところで備前の人間国宝というと作家の中から5人もの人間国宝を輩出していることで有名です。 金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢崎淳らですが、彼らは 一度は衰退しかけた備前焼を再興したと言っても過言ではないでしょう。
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茶席の茶碗には備前は不向きとされましたが、金重陶陽、藤原啓らは茶器としての備前焼の地位を確立し、さらに火襷、牡丹餅などの技法も広めていきます。
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備前国の窯場の中心が邑久郡から現在の伊部の山麓へと異動したのは、12世紀後半のことです。理由には諸説ありますが、燃料となる赤松を求めていたためだと言われています。鎌倉時代中期から後期の頃に、須恵器は酸化炎焼成により赤褐色に焼き上げられるようになり、今日につながる備前焼へと改良されていきました。そして硬くて丈夫で水が漏れにくい備前焼は、やがて壺やすり鉢、甕に限定して生産されるようになっていきます。農業の発達により陶器への需要がますます高まり、室町時代には備前焼が大量に生産・消費されるようになりました。すると窯場は再び平地へと下り、今度は赤松を山から窯場まで運搬する形が取られました。こうして作られた備前焼は、山陽道の陸運や片上湾の水運などにより、西日本各地へと移出されていきます。やがて大型陶器としての評価が高まると、「東日本の常滑焼、西日本の備前焼」と言われるようになりました。
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千利休や古田織部などの茶人から、茶の湯の道具としても愛されていた備前焼ですが、備前焼の愛好家として知られる豊臣秀吉は、過度な大量生産を防ぐため、窯場を1箇所に統一するよう指示したという逸話が残されています。
しかし、備前焼は明治から昭和初期にかけて、一時衰退の危機を迎えました。有田や瀬戸、京都などで磁器の生産が盛んになり、その人気に押されたことが理由です。
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復興のきっかけを作ったのは、無釉の古備前の技法を復興した金重陶陽だと言われています。その功績と芸術性が高く評価され、昭和31年には、備前の陶工として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されました。そして現代では、侘び寂びのある佇まいが評価され、海外でも備前焼の評価が高まっています。
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その流れを藤原雄が引き継いでいます。
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ただ、現在の備前は・・??? 新たなことに挑戦しないと文化も技術も経済も廃れますが、備前焼も同じ道を辿らないように祈るばかりです。
当方の蒐集の師とも崇める叔父は「焼き物の最後は備前。」と言っていました。主に茶碗ではなく陶磁器全体への言葉であったと思われますが、釉のない作品への強い執着であったようにも思えます。その叔父は金重陶陽、藤原啓、藤原健、藤原雄らの作品を好んで蒐集していました。

備前緋襷茶碗 その3 藤原雄作 その5共箱・共布口径127*高さ84*高台径

藤原雄(1932-2001)は藤原啓の長男として生まれています。右目は0.03、左目は全く見えないというハンディの持ち主ですが、このことはあまり知られていません。

健常者同様に進学する事に父親はこだわり続けたことから、青年時代は文学や音楽に熱中していたようです。1951年 明治大学 文学部 日本文学科に進学。
1955年 みすず書房に就職。しかし同年9月に父親の看病の為に休職し帰郷。この頃、小山富士夫に備前焼を勧められ父に師事し技法を学びはじめます。

備前焼の伝統を重んじながらも、新しい感性に溢れた作品作りを追求しています。世界各地で作陶や個展を続け,伝統に近代的な感覚をとりいれた作品で知られていきます。

1964年 アメリカ現代陶芸美術館やカナダのポイントクレーヤーでは海外初の個展を開催。同年以降、アメリカ、カナダ、メキシコ、スペインの大学などで備前焼についての講義をたびたび行っています。
1965年 棟方志功と共にアメリカ・ダートマス大学の客員教授を務めます。以後国内外で多くの作品を発表しその評価が高まっていき、後にメトロポリタン美術館や大英博物館にも作品が収蔵されます。

1985年 紺綬褒章受章。
1988年 社団法人日本工芸会理事に就任。同年、日本人として初めて韓国国立現代美術館にて「備前一千年、そして今、藤原雄の世界展」を開催します。
1991年 「焼き締め陶公募展」開催。実行委員長を務めます。
1996年 倉敷芸術科学大学芸術学部教授に就任。5月10日、重要無形文化財「備前焼」保持者に認定。2代に亘っての人間国宝となります。
1999年 倉敷芸術科学大学教授を退任。
2001年 多臓器不全のため69歳で逝去。
なお息子は同じく陶芸家であり陶心会会長・備前陶友会理事を務める藤原和です。

藤原雄というとその丸くて穏やかな器形がその人間性を表すとされて、高く評価されています。大きめの壺がもてはやされて、個展などで高値で飛びように売れていました。備前焼を世界的に広めた藤原雄は「壺の雄」 と称されました。

現在ではそれほどの人気はなくなり、手頃なお値段にて売買されています。

ところで備前の人間国宝というと作家の中から5人もの人間国宝を輩出していることで有名です。 金重陶陽、藤原啓、山本陶秀、藤原雄、伊勢崎淳らですが、彼らは 一度は衰退しかけた備前焼を再興したと言っても過言ではないでしょう。

茶席の茶碗には備前は不向きとされましたが、金重陶陽、藤原啓らは茶器としての備前焼の地位を確立し、さらに火襷、牡丹餅などの技法も広めていきます。

備前国の窯場の中心が邑久郡から現在の伊部の山麓へと異動したのは、12世紀後半のことです。理由には諸説ありますが、燃料となる赤松を求めていたためだと言われています。鎌倉時代中期から後期の頃に、須恵器は酸化炎焼成により赤褐色に焼き上げられるようになり、今日につながる備前焼へと改良されていきました。そして硬くて丈夫で水が漏れにくい備前焼は、やがて壺やすり鉢、甕に限定して生産されるようになっていきます。農業の発達により陶器への需要がますます高まり、室町時代には備前焼が大量に生産・消費されるようになりました。すると窯場は再び平地へと下り、今度は赤松を山から窯場まで運搬する形が取られました。こうして作られた備前焼は、山陽道の陸運や片上湾の水運などにより、西日本各地へと移出されていきます。やがて大型陶器としての評価が高まると、「東日本の常滑焼、西日本の備前焼」と言われるようになりました。

千利休や古田織部などの茶人から、茶の湯の道具としても愛されていた備前焼ですが、備前焼の愛好家として知られる豊臣秀吉は、過度な大量生産を防ぐため、窯場を1箇所に統一するよう指示したという逸話が残されています。
しかし、備前焼は明治から昭和初期にかけて、一時衰退の危機を迎えました。有田や瀬戸、京都などで磁器の生産が盛んになり、その人気に押されたことが理由です。

復興のきっかけを作ったのは、無釉の古備前の技法を復興した金重陶陽だと言われています。その功績と芸術性が高く評価され、昭和31年には、備前の陶工として初めて重要無形文化財保持者(人間国宝)に指定されました。そして現代では、侘び寂びのある佇まいが評価され、海外でも備前焼の評価が高まっています。

その流れを藤原雄が引き継いでいます。

ただ、現在の備前は・・??? 新たなことに挑戦しないと文化も技術も経済も廃れますが、備前焼も同じ道を辿らないように祈るばかりです。










