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Channel: 夜噺骨董談義
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歌舞伎絵「暫図」 双福 寺崎廣業筆 その155

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歌舞伎座の緞帳の文様の表具、市川団十郎の文様・・・というのにまず目が行く作品の紹介です。
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市川 団十郎(いちかわ だんじゅうろう、旧字体:市川 團十郎):歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。定紋は三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょうよう ぼたん)。役者文様は鎌輪ぬ(かまわぬ)。江戸時代の元禄より、当代まで
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歌舞伎絵「暫図」 双福 寺崎廣業筆 その155絹本水墨着色軸装 軸先骨 合箱各全体サイズ:縦1910*横450 画サイズ:縦1010*横340


寺崎廣業は1888年(明治21年)春、23歳の頃に上京すると平福穂庵、ついで菅原白龍の門をたたいています。しかし4か月でまた放浪の旅に出ますが、穂庵のくれた三つの印形を懐中にしていたそうです。このように初期のこの頃の寺崎廣業は少なからず平福穂庵の影響を受けていたと予想され、後述する平福穂庵の角館押絵「暫図」(所蔵作品)のような作品を見ていたかもしれません。もしくは二人で歌舞伎を観たかも・・・??
*明治40年代に落款は「三本廣業」となりますので、本作品は明治30年前後の作と推定されます。
 
市川團十郎家は歌舞伎の市川流の家元であり、歌舞伎の市川一門の宗家ですが、その長い歴史と数々の事績から、市川團十郎は歌舞伎役者の名跡のなかでも最も権威のある名とみなされています。團十郎と関わりの深い名跡に市川海老蔵がありますが、前期の市川團十郎には團十郎 → 海老蔵と襲名する例が目立ち、後期にはこれが逆転して海老蔵 → 團十郎と襲名する例が目立つようになったようです。
先代の十二代目團十郎が最初に襲名したのが市川新之助、その子で当代の海老蔵が最初に襲名したのも市川新之助だったため、市川宗家では新之助 → 海老蔵 → 團十郎と襲名するのが通例だと誤解されがちですが、実際にかつて新之助を名乗った者がのちに團十郎を襲名したのは、この十二代目の他には七代目と八代目があるのみであるだそうです。
その圧倒的な存在感の一方、團十郎の名跡は代々のうち半数が下記のように何らかの形で非業の最期を遂げていることでも知られています。
初代は舞台上で共演の役者によって刺殺され(満44歳)、三代目は公演先の大坂で病を得て江戸には戻ったものの2か月後に死去(満21歳)。六代目は風邪をこじらせて急死(満21歳)、八代目は公演先の大坂で謎の自殺を遂げ(満31歳)、十一代目は團十郎襲名後わずか3年半で病死(満56歳)。十二代目は白血病を患い、9年間におよぶ闘病の末死去した(満66歳)。
下記の左幅の作品は凧絵? 否、アイマスクでしょうか? 明治の頃に歌舞伎とアイマスク・・??? これはちと調べてみましたが不明です。


放浪の画家といわれた寺崎広業は慶応2年(1866年)久保田古川堀反(秋田市千秋明徳町)の母の実家久保田藩疋田家老邸で生まれ、寺崎家も藩の重臣であったのですが、父の職業上の失敗もあって横手市に移って祖母に育てられています。 放浪記の寺崎廣業は横手に近い角館のお祭りの凧絵を見たことがあるかもしれませんね。
*市川団十郎の「三升」の文様ですね。


印章の検証は資料や他の所蔵作品「瀑布夏景山水図」などですが、印影が明確でないためにはっきりは断定できません。
*この印章は「二本廣業時代」(明治30年頃)~「三本廣業」時代(没年まで)の長きにわたり押印されています。
 
この作品を観た時に思い浮かんだのは下記の当方で所蔵する平福穂庵の作品です。
角館押絵「暫図」 平福穂庵筆 明治10年(1877年)頃絹本水墨着色軸装 軸先蒔絵 合箱全体サイズ:縦1900*横520 画サイズ:縦970*横400*北海道渡航時代:画壇へのデビュー(明治11年~17年)
北海道のアイヌを取材した新たなモチーフの作品の画中に、署名の先に「羽陰」と書かれた作品が多くあります。平福穂庵の北海道への渡航歴は明治5年から始まり、明治14年から頻繁となり、明治16年まで続いたようです。
落款の「庵」の最終画のハネは第2期に近いですが、第1画目と第2画目の離れは第3期以降の特徴ですね。決定的なの北海道で描かれた作品を中心に「羽陰」と記されている点です。印章は朱文白方印の「穂庵」が押印されています。


この作品は「角館押絵」と関連があるかもしれません。「角館押絵」は幕末から明治にかけて、郷里の画人「武村文海」が作った歌舞伎人形を角館のお祭りの山に飾るようになりました。その弟子の平福穂庵がさらに歌舞伎人形を華美にし「平福人形」といわれる歌舞伎人形の創始者となるのです。それと同時に押絵の下絵や面相を描いたといわれ、押絵も作ったともいわれています。





























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