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Channel: 夜噺骨董談義
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舞子之帰帆図 寺崎廣業筆 その22

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先週末は長男のお宮参りでした。家内の実家に保存されていた着物から選んだのは富士に鷹の柄・・。



羽織は鯉の図柄・・・。



いずれも本ブログで幾つも取り上げた画題です。

お宮参りの後は写真撮影ですが、泣き出して撮影終了に一時間以上かかりました。その後お祝いを戴いた近所の親戚に挨拶回りです。郷里の秋田以上に古いしきたりが残っています。骨董が好きな方とほんの少し骨董談義・・・。

あとはゆっくり休養・・・。元気な男の子が生まれたのは、実家の床の間に鐘馗様や鯉の作品を飾ったからという・・




着物の柄に共通して思い起こすのはわが郷里出身の画家である寺崎廣業です。秋田出身の画家で、小生の好きな画家です。郷里でお世話になった人に差し上げる際、喜ばれるであろうと思い幾つか購入しているうちに22作品目となりました。

本作品は晩年の作とのことですが53歳で若くして亡くなっています。

舞子之帰帆図 寺崎廣業筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定二重箱 
全体サイズ:横495*縦2070 画サイズ:横357*縦1095



舞子は神戸近くで淡路島と本土の間を通る海上運航の要の地域のことでしょうか?



箱書には「舞子之帰帆 寺崎廣業先生晩年作」とあり、裏には「昭和八年初秋幡山道人承題 押印」と記されています。鳥谷幡山が56歳の時の鑑定となります。



作品には「天龍軒印」の白文朱方印と「天籟」の朱文白方印の累印が押印されています。



寺崎廣業は存命当時、横山大観と同等以上の評価であり、評価が高かったことから残念ながら贋作が横行しています。たとえ鳥谷幡山の鑑定があっても信用してはいけません。秋田県内での鑑定書があるようですが、平福父子と同じく信用に値しません。慎重を期して真贋の判断が必要です。


お世話になった方に差し上げるものですから、よけいにきちんと真贋を見極めてからにしなくてはいけません。

落款の同時期の真作との比較。

 

資料の印章との検証。

 

本作品はよさそうです。ネットオークションに出品されている寺崎廣業の作品のほとんどが贋作ですので、落札する場合はその中から真作を見極めることができないと贋作をつかむことになります。

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寺崎廣業:慶応2年生まれ。廣業の父は佐竹家に仕えた家老職でしたが維新後の生活は貧しく、廣業が15歳の頃には横手市で氷水を売って親の手助けをしていたという話もある。

はじめ狩野派の小室怡々斎に、のちに四条派の平福穂庵、南画家の菅原白龍に出会い、3つの伝統的な画法を学ぶ。さらには明治22年 (1889) 東陽堂への入社。廣業は穂庵の後任として中国や日本の古名画や浮世絵などの版下縮図に取り組み、各派の特徴を学び取りながらめきめきと腕を上げていった

。明治23年、第3回内国勧業博覧会に出品した「東遊図」が褒状を受けた。翌年には日本青年絵画協会 (会頭岡倉天心)の創立へ参加した。

上京後わずか数年にして目覚しい活躍をし、明治30年には東京美術学校助教授となったが、翌年には東京美術学校騒動により共に辞職した橋本雅邦や横山大観らとともに日本美術院を創立した。

大観や菱田春草らが朦朧体を試みて保守的な画壇から非難を浴びる中、廣業は伝統的な画法を生かした作品を発表、各方面からの賞賛を得た。その後廣業は東京美術学校へ教授として復職、さらに日本最初の官設美術展である文展で審査委員をつとめ、自らの天籟画塾では門弟が300人にもなるなど、日本画壇を支える太い柱となった。

好きな信州に別荘をかまえて絵を描き、いよいよこれからの日本画壇を先導するかに見えたが、帝室技芸員に任命された2年後の大正8年(1919)、53年の短い生涯を閉じた。

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箱の誂えも鑑賞や鑑定のポイントにはなります。




鳥谷幡山:(とや-ばんざん) 1876−1966。明治-昭和時代の日本画家。明治9年1月18日生まれ。寺崎広業,橋本雅邦にまなぶ。明治35年美術研精会の創立に加わり,のち独立絵画会主幹をつとめる。十和田湖を好んで描いた。昭和41年2月20日死去。90歳。青森県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「十和田湖大観」など。

郷里の作品を蒐集していますが、郷里がどんどん遠のいているような気がします。今年は一度は帰省しようかと思います。



南蛮備前焼締花入 江戸期

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昨夜は元会社の同僚と痛飲・・、服は脱ぎっぱなし・・・、かなり酔いました。

5時には家内からのいつものモーニングコールで起こされました。本日は朝立ち寄りのため、のんびりと出勤予定なのに・・・、ま〜こうしてブログを投稿する時間できるし、毎日遅刻をせず助かります。

家内から「富士と鷹」の着物の写真が送られてきました。それと挨拶回りで戴いたお菓子と・・。



本日は南蛮焼・・・、南蛮焼締という種類の焼き物をご存知の方は少ないかと思いますし、備前焼と見間違うことが多く、備前焼と判別は難しい焼き物です。古い作品の数も少なく、現代の作家による作品は星の数ほどありますので、その見極めも難しいように思います。

南蛮焼締花入 江戸期
杉古箱
口径90〜75*胴径120*高さ285



本作品の説明には「南蛮備前 焼締 二筋花瓶」とあり、杉の古い箱に収めらていました。一見して日本国内の備前焼のようですが、少し感触的に違うように思われ売主の意見をも尊重して「南蛮焼締花入」と判断しています。



古い杉箱が収納用の箱としてありましたが、鼠の糞まで収納されていました。久しぶりに鼠の糞を見ました。田舎では神棚の掃除や蔵の掃除でよく掃除したものです。

この器はひと目見るなり、「気に入った!」という感想です。備前だろうと、南蛮焼だろうとこの器はいい作品と直感しました。素人判断ですので、誤りがあるかもしれませんが・・・。




形もいびつで、一見とても売り物のなるようなものではありません。これがまたいい・・。



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南蛮焼
南蛮焼というのは、中国南部・ルソン・安南などから輸入された?器(せつき)のことで、紫黒色で無釉(むゆう)のものが多く、日本では茶入れ・茶壺・水指・建水などに用いられてきました。各国産のものが混在しており、作風は一定していません。


南蛮島物はほとんど呂宋(フィリピン)と阿嬬港(マカオ)との製品とすることがありますが、これらの地はただ陶磁の集散地であっただけで産地ではないようです。

中国明代の広東窯はフィリピン、ボルネオその他南洋諸島に大小各種の陶器を輸出したので、南蛮焼といわれるものの大部分は中国南方の生産と思われ、南蛮芋頭水指という伝世品に万暦(1573-1619)の年款のあるものがあります。そのほか安南(ヴェトナム)・迢羅(タイ)あたりの粗製品も混在しているようで、またインド文のあるものもあるのでインド産の一部も南蛮焼と呼ばれていたことがわかります。

南蛮焼と呼ばれるものを通観してみると、一定の作風がなくまた窯印もほとんどなく、多くは紫黒色の妬器質で、無釉の作品に頑健味があるようで、また施釉の作品もあります。

『万宝全書』は「南蛮焼は下品なり日本の備前焼物を見るが如し」といいます。備前焼と南蛮焼は無釉の焼締という似たような器とみなされていたようです。国内の南蛮写しは備前・伊賀・京都・信楽・常滑・瀬戸・丹波・萩・唐津・高取などにあります。

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日本では南蛮焼の多くが茶器として珍重されています。その飾り気のない趣が評価されているのでしょう。備前焼と同じように飾る時には表面にスプレーで水を吹き掛けると味わいが出るようです。




いびつなものに惹かれるというのは日本人独特の感性のように思います。その感性が最近の日本人には乏しくなり、常に西洋風や中国官窯の作品のような冷たい完全性を求める骨董趣味人が多くなりました。お茶の世界においても残念ながらその傾向にあり、つまらないう器ばかりで閉口します。




仕事の世界でもしかりで、人間味のある人、本当に必要な人材を見極めていくことが必要です。

和を保ち、判断力があり、自らの革新性もある人材を登用していくことが必要ですが、自らそうあるように常に自己研鑽が必要です。



浅絳山水図 浦上春琴筆 その3

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家内が緊急入院して以来、単身赴任のような生活が3ヶ月以上続いている。掃除、洗濯、炊事とたいしたことはしていないが、毎日がなんやかんやと忙しいものです。おまけに週末は長男の子守をしていますので、ブログの原稿を書く閑もなく、夜遅くなってからブログに原稿を書いて過ごしています。時間が少なく、調べものが中途半端になっていないかが気がかりです。

岡山県の画家として本ブログに取り上げた画家は浦上玉堂父子、古市金蛾、そして石井金稜ですが、その3人は指定関係でつながっています。

浦上玉堂は川端康成が借金してまで購入し、のちに国宝となった「凍雲篩雪図」の作者ですが、その浦上玉堂の子息である浦上春琴は精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作と評されています。本日はその評に違わぬ作行きの作品を紹介します。


浅絳山水図 浦上春琴筆 その3
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1918*横533 画サイズ:縦1307*横412



款文は「保午春晩 春琴紀選」とあり款印は「紀選之印」の白文朱方印と「春琴居士」の朱文白方印が押印されています。天保の午年と推察され、天保5年(1835年)の作品で浦上春琴が56歳の作と思われます。



淡い色彩で独特な本のある作品を描いたが、その特徴がよく出ている作品です。




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浦上春琴:安永8年(1779年)〜 弘化3年5月23日(1846年6月16日))は、江戸時代後期の日本の文人画家。当時、鴨方藩士だった浦上玉堂の長子として備前国(現岡山県)に生まれる。浦上秋琴は実弟。諱は選、字を伯挙・十千、号は春琴のほかに睡菴・文鏡亭・二卿。通称は紀一郎もしくは喜一郎。戦国大名浦上氏の末裔という。



幼少の頃より父玉堂より書画の手ほどきを受ける。寛政4年(1792年)ころより如意道人によって父玉堂とともに春琴の作品が買い上げられている(如意道人蒐集書画帖)。14歳のころ母が死去。寛政6年(1794年)父玉堂が脱藩。父子で諸国を歴遊する。江戸、長崎では画塾に通い古書画を研鑽する。




遊歴を終え20代で京都に定住し、頼山陽や田能村竹田、岡田米山人、半江、篠崎小竹、貫名海屋、柏木如亭ら著名な文人との交わりを深める。文化8年(1811年)藤木氏瀧と結婚。文化10年(1813年)父玉堂と同居(柳馬場二条北)し夫婦で世話をする。



文政3年(1820年)玉堂歿。山水画、花鳥画に優れ精彩で巧みでありながら透き通るような気品のある作風であった。中林竹洞や山本梅逸らと名声を競った。当時は父玉堂の作品よりよく売れたという。また書道・詩文・平曲・七絃琴に優れ、器物、書画の鑑定にも秀でていた。紀春琴の名で画論『論画詩』を著している。弘化3年5月歿、享年68。


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表具もよく似合っています。



九州、広島・岡山、秋田は京都や江戸以外で日本画が花開いた地域です。

落葉満庭図 石井金稜筆 その2

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仙台にいる同僚から絵本をお祝いに戴きました。50才の独身男性からの意外な、いや素敵な贈り物に感激しました




さて本ブログに掲載される日本画家たちはかなりの多くがその師弟関係でつながっています。本日、2回目の投稿となる石井金稜は岡山県の代表的な画家ですが、意外な師弟関係です。

本ブログにも投稿された浦上春琴に最初師事し、その後に古市金蛾、そして岡本秋暉に師事しています。

落葉満庭図 石井金稜筆
絹本水墨着色 軸先 共箱
全体サイズ:縦1820*横390 画サイズ:縦1340*横280



賛には「落葉満庭□ 壬戌□秋八十一金稜」とあり、大正11年(1922年)の作であることが推察されます。石井金稜が81歳の時です。



箱書には「大正十一年壬戌十二月十五日於像除幕式之日□□□自題画畫 金稜□俊 押印」とあります。岡山県上道郡にある金稜山西大寺町観音院の境内に石井金陵像の座像と記載があり、1922年 に井上直伍(仰山)作?のようです。詳細は不明です。

大阪南画を代表する長老と称されるほど名声は高まり、大阪府で活躍された素晴らしい南画家とされて居ます。晩年は兵庫県神戸市須磨の屋敷に住み昭和3年11月19日に死亡、享年85歳でした。




石井金陵の作品は岡山県では素晴らしい作品として評価を得ており、中々入手しづらい作家の作品となっているそうです。他の所蔵品「李白観瀑図」は壮年期の迫力ある作品であり、本作品は晩年の秀作といえます。



晩秋の落ち葉舞う山間に隠遁生活をしている者を訪ねてきた友人に煎茶を振舞っているときを描いた作品でしょう。

いつかはこのように田舎にて隠遁生活をする望みを持つ人は多いのですが、その望みはなかなか叶えられずに人生の終焉を迎えてしまうものです。人はいつかはひとり・・、心を自由に自然の中で飛ばせたそんな生活をしてみたい・・、そんな願いを込めた作品が南画です。願いや祈りがあるのが絵の世界・・、それは絵本も同じようです。


左下に「無事水袖仙」の白文朱方印の遊印が押印されています。




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石井金陵:1842−1926 明治-大正時代の日本画家。天保(てんぽう)13年9月生まれ。初め浦上春琴のち、古市金峨、岡本秋暉に師事。各地を遊歴して故郷岡山に帰り,門人に教えた。明治36年大阪にうつり,画房桃谷山荘をかまえ,大阪文人画壇の長老といわれた。大正15年11月19日死去。85歳。名は俊。字(あざな)は君明。

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備前角皿 隠崎隆一作 

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トラブルや事故は必ず同じことの繰り返しで起きてきます。起きた当初はいろんな対策や反省を踏まえて乗り越えるのですが、繰り返すことを予防する処置をとっていないと残念ながら再発するものです。

技術は開発することもさりながら、おなじ過ちをしないことも技術者の大きな役割です。大きく評価されることは少ないですが、とても重要なことで、そのためにはトラブルや事故をオープンにし、真の原因を突き止めないといけません。オープンにし隠ぺいしない体質づくりも技術系幹部の大きな使命です。

さて、本日は陶芸の技術に触れる作品の紹介です。


本日の作品は隠崎隆一の作品です。隠崎隆一といえば皿の作品ですが、現在最も人気が高い陶芸作家のひとりに間違いなくあげられるのが隠崎隆一であると言われています。残念ながら私はあまり縁がなく、個展を観たこともなくのはむろんのこと、作品も写真以外は観たこともありません。

たままた面白い作品だなと思い、本作品は気軽な気持ちで購入しました。値段はそこそこはするもののサラリーで手の届く範囲のものでした。真贋などもむろん解りませんが、面白い作品であることには相違ないと思っています。

備前角皿 隠崎隆一作 
共箱
縦270*縦300*高さ42



実に豪快な作りですが、重いので女性には扱いづらい作品です。



窯割れがあろうが委細構わず作られていますが、どこか計算されたバランスの良さもまた魅力的です。




共箱もきれいに保存されております。




隠崎隆一:1950年 長崎県に生まれる。1973年 大阪芸術大学を卒業、1988年 田部美術館「茶の湯の造形展」大賞受賞。1995年第8回MOA岡田茂吉賞優秀賞受賞。1996年 日本陶磁協会賞受賞。2004年 「備前焼の魅力―伝統と創造―展」出品

どうしても比較したくなるのが金重陶陽との比較です。

備前角切鉢 金重陶陽作(非公開作品)
共箱 共布
縦260*横258*高さ30



こちらもきちんとした共箱です。




金重陶陽の作品はいくつか投稿しましたが、現在は非公開にしています。参考までの下記の作品を再登場させてみました。

備前 蓮葉盆 金重陶陽造
共箱 
344*244*高さ44

縁は極薄のつくりになっています。この薄さは備前焼では再現不可能とさえ言われています。



裏には表の同じに葉脈が施されているという凝ったつくりになり、豪快さとともに技が光ります。技術を磨きに磨いたうえでの豪放さが金重陶陽にはあります。



むろん共箱ですが写真は省力します。

隠崎隆一の作品は銀座の陶々庵などで陳列され、資金に余裕のある若い人に人気のようですが、まだ隠崎隆一は金重陶陽の足元にも及ばないと思います。隠崎隆一と金重陶陽を比較するのはどうかという意見はあるでしょうが、はてさて、備前の名人、金重陶陽に隠崎隆一は今後、どこまで迫れるのか楽しみです。

古伊万里梅紋油壷 その1

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夫婦別姓が国会で討議される予定が、政権が交代し棚上げにって久しい。実際、姓を変えることがいかに大変かは経験しないとわからない。社会的に認知度の低下、貯蓄・保険・クレジット・公共料金の手順の変更の煩雑さなどマイナス面は多大で、すべて解消するのに仕事の合間に行っていくと2年近くかかります。早く夫婦別姓への移行を検討するようにすべきだと思います。

さて本日は昭和40年代にはコレクターの間で大人気だったという油壺です。今ではそれほど人気があるわけではありませんが、コレクターが多くいるようです。

江戸から明治にかけて使われたようですが、当時は使い捨てのようなものだったのでしょう。小さな口からはそれほど多くの量が出ず、少しずつ手を当てて容器を逆さにしてとって、髪につけたのでしょう。

通常、中には油の残骸があり、なかなか取れません。「とくとく」といい音がしますが、決して徳利などには使ってはいけません。中に入っていたのは油ですので、こびりついていて完全には除去しにくく、なんらかの方法で中をきれいにできたとしても、その使用方法を知っている御仁からみると徳利では気持ちがよくありません。ちょっとした花瓶に用いるのが無難でしょう。

古伊万里染付梅図油壷 その1
合箱
口径43*胴径80*高台径*高さ80



本作品は髪油壺として使用された壺で江戸初期から中期にかけての作品だと思われます。油壷は伊万里では 江戸前期頃より幕末明治頃まで作られていたようです。この手の壺は素朴さと愛らしさで昭和40年代競って収集されたようですが、市場には完品は少なくなってきているようです。九谷など色絵の作品もありますが、色絵の作品は時代も若く味気がありませんので、やはり染付が一番いいものでしょう。




完品か否か、景色の良しあしによって評価が決まるようです。こういうものに石はぜが少しでもあると風情がありると感じますね。

本作品は完品ではなく口縁の一部に直しがあります。



手慣れた草花紋、染付の色の変化が魅力的で、野の花を活けて洗面所などの棚に飾っておくと粋ですね。



たくさん集める必要はありません。お猪口などと同様にたくさん集める御仁がいるようですが、用途が限られるものですので、数多く集める必要はありません。




根付、お猪口、油壷といったものをたくさん集めるのはどうも私は理解できません。数多く集めるより、油壷は伊万里の染付が一番ですので、一個か二個、染付の普段使いがあれば十分でしょう。




本作品は実際に使われていたようで、中に残留物があり、熱湯で熱くしたり、中を串刺しで突っついたり、中の残留物を除去するのに悪戦苦闘。最後には縄の細いもののようなものが出てきました。江戸期の残留物・・


江山暮雪図 伝桑山玉洲筆 その2

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東京で久方ぶりの降雪・・、雪国育ちの私には雪が降ったというほどのこともないものです。わが郷里の雪はこちらのリンク先でご覧ください。

ここのところ単身赴任生活のようなものなので、週末は食糧難のため雪の中を仕方なく買出しに出かけました。東京の方々は雪の日は傘をさすようですが、あれは危ないです。フード付の防寒服で歩いたほうがいいですね。傘をさしていたらより転倒しやすいし、傘をさして転倒したら危ないですね。秋田では降雪時には滅多に傘はさしません。

雪ということで、本日は真贋不明のため投稿する予定ではなかった雪の山水画を投稿します。

以前に投稿した内容に記載のように、「釧雲泉」とともに入手の難しい桑山玉洲の作品です。

真贋は調査中ですので、本作品は「伝」としておきます。

江山暮雪図 伝桑山玉洲筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1970*横670 画サイズ:縦1310*横465



落款には「?嗣燐」と記されており、落款などから50歳代の作品ではないかと推察されます。印章は「?嗣燐」と「明夫」の白文朱方印の累印が押印されています。また、右下には「游戯絵事」の遊印が押印されています。これらの印章は検証の必要があり、和歌山県立美術館発刊の「桑山玉洲」に記載の資料では桑山玉洲の作品とは断定できず、それゆえ「伝」としておきます。




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和歌山県立美術館の発刊「桑山玉洲」からの抜粋
「桑山玉洲の佳作は50歳代に集中し、筆致は柔軟であり、線は屈曲しあるいは重複して大胆なデフォルメをみせる。点墨でアクセントを効かせ、濃淡のコントラストや暈淡による面の効果も巧みに駆使する手法が作画の基本となっている。



青緑山水画が多く描かれているが、青緑を基調に点景人物の着衣等に朱や青、黄などを点じ、樹葉に薄い紫や臙脂(赤色染料)などをアクセントとして用いる独特の彩色法を行う。こういった彼の色彩感覚は、初期の南蘋風の草花図に見られた彩色法が消化されて、南画様式の中に現れているように思われる。

晩年の画境は、もはや自在の境地に達したという風で、作調は明快で温雅である。峨々たる山水を描いてもそこにみられるのは、自然の厳しさよりも人間と自然の親和関係である。玉洲の画から受ける印象は、古色よりも近代的とさえいえる一種の感覚的な新しさである場合が多い。




玉洲の作品は、時としてあくの強さを感じさせたり様式化に傾く場合もあるが過不足のない表現によって成功している代表的な例は「明光浦十覧冊」、「雪渓訪隠図」、「雪山唫客図」等の作品であろう。これらの作品は、画品の高さにおいても、玉洲芸術の頂点を示すものといえよう。」


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本作品は「雪渓訪隠図」、「雪山唫客図」らと同じ冬の図であり、50歳代の晩年の作行きです。


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桑山 玉洲:延享3年(1746年)〜寛政11年4月13日(1799年5月17日))。江戸中期の南画家。名は嗣幹,のち嗣燦(嗣粲)。通称茂平次,のち左内。名は政近をはじめに嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号は玉洲の他に明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。

紀州和歌浦(和歌山市)の人。家業の廻船業を継ぐ。明和年間(1764〜72),開墾事業に従事して地主となる。幼年より古書画を好み,同郷の野呂介石と交友。明和〜安永のころ,江戸に遊学。はじめは南蘋系統の花鳥画を描いていたが,安永年間(1772〜81),京坂で池大雅,高芙蓉,細合半斎,木村蒹葭堂などと交わり,南画を志す。遺作には南蘋系の花鳥画と南画山水とがあり,柔らかい筆線と濃い色彩に特色がある。『玉洲画趣』『絵事鄙言』を著し,後者で「近衛公(信尹あるいは家煕),惺々翁(松花堂昭乗),宗達,光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ云ハンカ」と述べるなど,独自の日本南画論を展開。真景図の重要性を主張する点とあわせて,大雅の影響と考えられる。自らも「若浦図巻」「明光浦十覧冊」(いずれも個人蔵),「那智山・橋柱巌図屏風」(和歌山・念誓寺蔵)など,真景図に秀作を残す。

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題は「江山暮雪図」と仮にしておきました。庵に訪ねてきた友人と談笑し、鬨の経つのも忘れ冬の日が暮れようとしている。泊まるのは奥に見える東屋か??



真贋は別として、「自然の厳しさよりも人間と自然の親和関係である」ということが伝わる作品といえます。

真贋をとやかくいうことも大切ですが、一番大切なのは作品を愉しむ心です。そのことを忘れて真贋ばかり問題にするのは、浅ましい気がしますね

天龍青磁源氏香紋三足香炉 明時代

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週末は雪のおかげで長男に会いに行けませんでした。明日が休日なので、用事が入らない限り本日の夜には会えそうです。家内の実家のほうはだいぶ雪が降ったようです

そう雪が屋根に積もると重みで下にずり落ちる音がまるで屋根の上を人が歩いているように聞こえるのをご存知ですか? 二階に寝ていると幽霊の足音のように聞こえるのですよ・・ズシ、ズシとね

週末は趣味に没頭していました。ガラクタの整理に追われながら、ガラクタの処分を本当にそろそろ考えようと思います。子孫に美田を残さずと言いますが、子孫にガラクタも残すなかな。

たしかに財産など子孫に遺さないほうがいいかもしれません。自分の食い扶持は自分で稼ぐのが一番ですね。もし遺されたら、換金などのお金を当てにせず、大事に子孫に残すのみを考えたほうがいい。換金すると碌なことにならないものです。必ずや財産争いになるという・・、そして全てがなくなるらしい。

さて本日はまた「がらくた」のひとつの紹介です。

なかなか青磁の器はこれといったものが手に入らないものですが、この作品は気に入っている作品のひとつです。似たような形の作品はほかにもいくつかあるようです。リンク先の作品は「青磁三足盤」と題され、佐賀県立九州陶磁文化館の所蔵ですが、龍泉窯の青磁で、本作品はその模倣品かもしれません。ほかにもいくつか似た作品はあるようですが、胴の部分の紋様がこのようなものは解りません。


天龍青磁源氏香紋三足鉢 明時代
古箱入
口径215*胴径235*高さ70



源氏香紋というのはご存知ですね? 詳しくはリンク先を参考にしてください。とかく骨董の世界は多くの分野の知識と関わることが多いようです。



日本の紋様が刻されているから本作品が日本製がというと、そうではないように思います。源氏紋に似た紋様と解釈しています。




青磁にはいくつかの種類があって、その種類の特徴を覚えておく必要があるようです。



青磁における真贋の見極めは素人の手におえるものではなく、それゆえか、なかなか手を出しづらく、青磁の作品はあまり持っていません。



奥の深い青磁には数多くのファンがおり、透き通った青い磁器は人の心を惹きつけて止まないものです。ほんの少しその世界をこの器を通して感じられればと思います。



ただ、この器が明の頃の天龍青磁と記録にはありますが、当方では自信はありません。鎹で補修され大切にされてきたことは事実なようです。今回、鎹が黒くなっていたので、磨いておきました。



落としてしまったか、なんらかの理由でヒビが入ってしまったので、鎹で補修したようです。鎹の補修は珍しいことではなく、実家にある幕末から明治期の伊万里の器にしてあるものもあります。専門に鎹補修をしている人がいるのでしょう。


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天龍寺青磁(てんりゅじせいじ):元代(1271〜1368)から明代(1368〜1644)初期にかけて龍泉窯で作られた青磁で、釉色が黄味のある沈んだ青緑色のものを呼びます。 天竜寺の名の由来は、南北朝時代、天龍寺造営を名目とする貿易船・天龍寺船によって舶載されたからとも、夢窓国師が天龍寺に伝えたといわれる浮牡丹の香炉からともいわれます。

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貫入の入り具合が汚かったり、貫入から白い粉が吹いたようなものなどは、よく解りませんが古く見せた近代の贋作と言われています。



女性のように誘惑的な青磁や白磁の世界・・、深入りすると痛い目にあいますよ。クワバラ、クワバラ
ところで、一般的には骨董そのものは女性に心動かすよりはリスクの少ない趣味と言われています




古伊万里梅紋油壷 その2

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こちらの油壷は前回投稿した作品よりさらに中に古い油の残骸がいっぱい入っており、少しでもきれいにしようと悪戦苦闘中しました。

古伊万里梅紋油壷 その2
合箱
口径23*胴径97*高台径48*高さ93



髪油壺として使用されたふっくら立ち上がった古伊万里の油壺で、おそらく江戸期初期から中期にかけての作品と思われます。この手の壺は素朴さと愛らしさで、昭和40年代にブームとなり、競って収集されたようですが、市場には完品は少なくなってきているかもしれません。



完品か否か、景色の良しあしによって評価が決まるようです。本作品は完品ではなく胴の一部に窯傷状のシミと磁質が見えていますが、これがかえって景色となっていて面白いと思います。




上部からみたデザインされて手慣れた草花紋、染付の変化が魅力的です。この手の油壷としては大きめで親壺と呼ばれるものかも知れません。



高台も素朴で魅力的です。このように幾つか見所のある作品を手に入れることが骨董の楽しみのひとつです。

自然にできる変化が陶磁器で珍重されますが、それがなんでもよいということではなく、趣を持つものに限定されるもので、審美眼を磨くとは大げさですが、下手のものと見分ける眼が必要です。



流行が去った小さな器と侮ってはいけません。色絵の油壺は魅力が失せてきましたが、この染付の油壺は意外とまだ人気が高いものです。1万、2万円では買えないらしいです 

本作品らはついでに買ったような値段でしたが、中の油の残留物除去にかかる手間はたいへんなものです

瀬戸麦藁手盃

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昨日は元同僚らと10年近く続いている「フグの会」、退職後、みなさん各々の道を歩んでいますが集まると昔のままですね。

さて、麦藁手という器をご存知でしょうか?陶磁器にはいろんな用語が使われます。私もすべてを知っている訳ではなく、その都度新しい用語を知ることとなります。本日は「麦藁手」という作品群のひとつの紹介です。

瀬戸麦藁手盃
合箱
口径60〜80*高台径45*高さ50



麦藁手という器は、本作品のように縦にいくつかの色彩で描いた縦縞紋様を麦藁と呼ぶことからこの紋様のある器を麦藁手と称し、古来より珍重されてきた器で、現代まで瀬戸で引き継がれています。



基本的に端正に作られた作品が多く、織部のごとく歪んだ造形は見られず、高台もきっちりと削られるもので、本作品のように茶碗のような高台の作は珍しいです。



本作品は趣のある造形で大き目の盃としてちょうどよい。古瀬として入手した作品ですが、一般的な瀬戸のものとは違うように思われ、製作年代、時代は不詳です。



沓茶碗のような形ですが、盃の大きさなので手に持ちやすい器です。



おそらく産地が近い織部の徳利にて一献・・。



盃というのを作ったことのある人は解ると思いますが、非常に失敗作の少ないものです。

我ながらうまくできたものだと思い、これを大きくするといいお茶碗ができるとお茶碗に挑戦すると、そうは問屋が卸さないものでうまくできません。

同じように口まで持っていく器ですが基本的な違いは大きさです。口まで持っていく器ほど難しいと言われますが、その理由は、形のバランス、手持ちの感覚、熱伝導率、唇の感触など評価するポイントが多くなることです。器が大きくなることで、それらがかなりの難しさとなり、そこに趣という厄介なものがクローズアップされてくるのです。

盃とお茶碗の製作の難しさは雲泥の差です。盃は窯元で余った土で余技のように我々のような素人でも製作できるものですが、お茶碗は何度作っても納得のいくものはできませんでした。

それではいくつかの名工の茶碗のような形の盃を見てみましょう。ますは浜田庄司の盃と比べてみましょう。



次は鈴木蔵の志野焼です。



赤と白のペアです。お茶のサイズだとすると名碗のような形ですがこれがなかなか・・・。名工はこれができるのです。彼らのお茶碗と比べてみると面白いでしょう。



盃も集めだすと際限がありません。酒の量が少なくなった酒のみの御仁ほど、器に凝ってくるようです。ブログをご覧の皆様はいかがですか? 

李朝雨漏手の徳利に古唐津の盃、古黄瀬戸向付の料理を肴に秋田の銘酒を一献・・、そうお盆は根来・・、夢のような至福の時です。飲むなら今の季節・・、縁側の雪景色を眺めながら・・。

この文章の器がすべて思い浮かぶ方はかなりの骨董マニアです。日本酒の酒器・・、ワインや中国酒のものよりずっと奥の深いもののように思います。ワインはきっとワインそのものが奥が深いのでしょうが・・。

染付蝶紋ガリポット薬瓶

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本日は早朝から大阪へ出張です。また雪が降りそうなので、早々の用事を済まして今夜は家内とバレンタイン。

さてガリポットという作品群をご存知でしょうか? 知っている方はかなりの通ですね。コンブラ瓶というのは知っている人は多いでしょうが・・。

染付蝶紋ガリポット薬瓶
口径32*胴径195*高台径*高さ255



少し青味のある白磁胎に圏線で胴上部と下部を仕切り、濃淡を使い分けた蝶の紋様が施され、釉薬が流れ落ちており、高台には二本の線が引かれています。



胴に口部を二重にした首の長い瓶で薬瓶として用いられたといわれている作品群で「VOC」のマークのある作品がよく見かけます。




肥前で製作された輸出用の古伊万里として扱われますが、オランダのデルフト窯の作もあると思われ、本作品も伊万里ではなくオランダの作の可能性もあります。その場合はオランダ東インド株式会社は1799年に解散しているので本品はそれ以前の作の可能性もありますが、製作年代は不詳です。



蘭法医が液体の薬を入れて使用していたものと思われ、陶器の薬壺と考えられています。ガリポットの名前はガレー船( Galley)でヨーロッパに輸入されたことからgalley + pot→gallipotという名前になったということのようです。




牡丹などの草花文様の作品が知られていますが、本作品のように蝶の紋様は珍しいものです。


また染付コンブラ瓶とも呼ばれる作品群があり、こちらは波佐見で製作された日本製のみで、簡素な染付白磁を用いた徳利型の容器のことです。蘭瓶とも呼ばれ、専ら輸出用に作られた酒瓶のことです。


名前の由来はポルトガル語で仲買人を意味する『コンプラドール』(comprador)に由来します。中には酒や醤油を詰め込み、東インド会社を経由して遠くへ運ばれました。


当初は輸入品の容器として持ち込まれたガラス瓶にこれらの商品を詰め替えていましたが、輸入頼みのガラス瓶だと不足するので陶磁器の瓶に置き換えたものです。意匠は至って単純で、ずっしりした印象のフォルムで、口の栓の覆いを紐で縛るために口の部分に輪が二つ嵌ったようなくびれがあるもが特徴です。ガラス瓶と違って見えない中身を示すためにオランダ語で「日本の醤油」(JAPANSCHZOYA)、「日本の酒」(JAPANSCHZAKY)と書かれていますが、横文字の字体がデザイン化されている磁器は他に類を見ないもので、多くの歴史上人物に愛されたといわれています。


染付牡丹紋ガリポット薬大瓶
栗田美術館所蔵





形は一様ではないようです。時代によるのか、産地によるのか、詳細は後学とさせていただきます。

染付牡丹ガリポット・白磁ガリポット 
江戸時代前期 17世紀後半 H.27.8? 肥前窯



清涼美人舟遊図 作者不詳

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金曜日の大阪出張は早めに切り上げて15時の新幹線には乗車したものの、雪で電車が遅れ、新横浜から車に乗り換えて、家内に実家に向かったのですが、吹雪に中の走行となりました。

雪道に不慣れな運転手さんを雪道に慣れた小生が指導し、無事到着。翌朝にはすっかり秋田のような雪景色です  秋田ではこの程度の雪は日常茶飯事のこと。



夜遅くなりましたが、金曜日の夜は義父・母と幸紀と家内の5人でバレンタインのチョコレートを食べました。

週末に除雪と子守の合間に読んだのは「下町のロケット」。200人ほどの中小企業と大企業のお話です。当社の社員には是非読んでもらいたい小説です。

読む本がなくなったので、帰りに大宮の本屋に立ち寄ってみたら、「みをつくし料理帖」の新刊が店頭に並んでいましたので、早速購入。

はてさて自宅に帰宅すると、炊事、洗濯、風呂掃除、ボタン付け、掃除、・・・しこたま忙しい ブログの原稿を作成する時間が少なくなってきた今日この頃です。

本日は美人画です。

骨董を集めていると、ついつい悪戯したくなることがあります。箱は本物で中の作品が贋作の作品や、落款とは違う絵、古唐津風の現代唐津など面白くて購入することがあります。別に贋作作りのために購入するのではありません。出来心というものですが、いつのまにか処分してどこかに消えてしまことが往々にしてあります。

清涼美人舟遊図 作者不詳
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1650*横430 画サイズ:縦830*横328



三畠上龍や吉原真龍などの幕末の京都美人画の特徴は、笹紅色という「下唇は笹紅の緑色に、上唇を輪郭は紅色で内側は白っぽく描き、笹紅を描かなかったとしても、上唇の真ん中に紅の線を入れたり、濃淡を入れて描く」という描法ですただし例外もあるようで、必ずしもすべての作品がそうだということでもないようです。

本ブログ掲載の参考作品

美人図 祇園井特筆絹装軸絹本着色
画サイズ:305*960

蛍狩 吉原真龍筆 その2紙本着色軸装 軸先陶製
全体サイズ:縦1835*横590 画サイズ:縦1095*横461






「上龍」と落款がありますが、あとで「三畠上龍」の落款に書き換えた可能性があります。




されど舟の上で袖を水面に入れ涼んで遊ぶ美人はなんとも楽しそうで、描法もしっかりしており、渡辺南岳に近い描法です。

本ブログ掲載の参考作品

遊婦人之図 伝渡辺南岳筆絹本着色軸装 軸先骨 識合箱入
全体サイズ:縦1630*横432 画サイズ:縦763*横327



絵自体は三畠上龍より上手かもしれません  渡辺南岳に近い描き方のように感じます。


源内焼 その40 三彩親子鷹図皿

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本日は大宮に立ち寄りで、朝はのんびりと出勤です。2日続けて家内からバレンタインで戴いた新品の二本のネクタイ

久方ぶりの源内焼の登場です。売り先と当方で「源内焼の写し」ではないかと揉めた作品です。

双方ともに「写し」と認めましたが、結局当方への返金額が少なく、作品を当方で引き取ることとなった「揉めた作品」です。

源内焼 その40 三彩親子鷹図皿
合箱
口径270*高台径152*高さ45

金額支払い後、作品を受け取る前に「写し」と思われ、売り主に尋ねたところ「写し」との回答でしたので、作品を受け取らずに返金を申し入れたのですが、ようやく戻った金額も半分以下なので仕方なく全額支払い作品を引き取った次第です。



ところが汚れを落としてみると、源内焼の胎土特有の匂い・・、そう源内焼には特有の匂いがあるのです。江戸期の正真正銘の源内焼と判断しました。



明治期の再興源内焼や「写し」を「時代のある源内焼」と称して、販売している輩が多いので要注意です。



源内焼と古伊万里を比べて、幕末から明治期の伊万里を「古伊万里」と称していることと同じであると主張している人もいますが、まったく評価や出来が違うことを考慮すれば、きちんと分けて説明すべきものだ思います。




傷のない完品ですが、型からの抜けが悪く、残念ながら紋様が不鮮明です。巣の様子(子鷹)がよく解りませんね。




この皿の特徴は縁の紋様が四種類とも違うことです。下記の写真の図録のように色違いのほうが面白いですね。





本作品の色違いが「さぬきの源内焼」(平賀源内先生遺作館 企画展 財団法人 平賀源内先生顕彰会)に作品NO10として掲載されています。源内焼には珍しい完品です。




匂いから時代がある程度断定できたというのも、幾つかの作品に触れたことから解ることです。運よく江戸期の作品であったからよかったのですが、時代が下がればお払い箱の作品でした。

いろんな種類のある源内焼・・、非常に魅力のある作品群のように思います。



柿本人麻呂像 松村景文筆 その4

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昨日は銀行にて投諸手続き。資金運用は大切なことですが、日本人は貯金が命のようなところがあり、運用には疎いようです。現況では運用先が難しい局面ですが、そこをなんとか退職金の運用金利で確実に投資しているのですが、「そろそろですね」という銀行員の微妙なる弁

その後税務署に申告なる手続きに行きましたが、税務署ではなく埼玉ス―パーアリーナが手続き会場とのこと。いやはや人がたくさん並んでいました。今やパソコンで手続きする時代。お年寄りには付き添いが多くいました。身寄りのない人はたいへんだな〜

さて、本ブログをご覧の方々は絵画に興味ある人が多いのか、陶磁器に興味ある方が多いのかよくわかりませんが、陶磁器のほうがアクセス件数が少ないようです。そこで本日も掛け軸を投稿します。

松村景文についてはすでに本ブログで4作品目ですので、松村景文についての説明は省力させていただきます。

柿本人麻呂像 松村景文筆 その4
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 合箱入二重箱 
全体サイズ:横509*縦1218 画サイズ:横386*縦507



柿本人麻呂についてもまた何度か本ブログに登場していますので、説明は省力させていただきます。

表具はそれなりにいい表具にされています。



柿本人麻呂を簡便に解りやすく描いています。



それが松村景文、呉春に代表される四条派の持ち味でした。



松村景文の作品は印章は弟子が用いたりしていますので、最終的は真贋の判断はその作品の持つ雰囲気のように思われます。



箱は杉箱ですが、古い杉箱は侮っていけないと言われています。



柿本を描いた作品は未公開にも下記のような土佐派の作品もありました。(売却済)

柿本人麻呂像 常廣(度)筆
絹本着色額装 
額サイズ:横370*縦445 画サイズ:横290*縦390



陶磁器では道八の銘のある下記の作品があります。こちらも未公開のように思います。

柿本人麻呂像 伝高橋道八造
幅230*高さ250*奥行き135




さて、この作品は仙台に赴任していた頃には玄関に飾っていいましたが、今は何処

骨董は投資??? 骨董の趣味は決しての投資ではありません。投資と考えると絶対に得しないですから、これは投資ではありません。敷いて言うなら、投資で稼いだ金額を貢ぐ「道楽」です。買った金額よりほとんど高く売れることはありません。

絵瀬戸向付

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今週のなんでも鑑定団には黄瀬戸のお茶碗が出品されていましたが、残念がら意図的な贋作でした。本ブログにもお茶碗というよりも向付を目的に製作された黄瀬戸を投稿したことがあります

鑑定団の中島先生の寸評には「新しい工芸品の黄瀬戸の茶碗に加工して汚し、偽物に仕立てたもの。肌がまったく違う。本物は砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、依頼品のようにざらついていない。胆礬(たんぱん)釉も本物はもっとほのかに染み込んでいる。依頼品は絵具で描いたようにべたついている。最大の欠陥は高台で、本物には高台まですべて釉薬がかけてある。依頼品のように土が丸出しということはありえない。また、その高台の中にヤスリで印を消した形跡がある。」とあります。

ほんもののポイントは
1.しっとりとした照り
2.たんぱん釉のしみこみ具合
3.高台内までの釉薬のしみこみ
のようです。勉強になります。基本は大切ですね。あらためてブログの作品を見てみてください。はたして如何

さて本日は黄瀬戸ではありません。黄瀬戸は瀬戸の産地ではありませんが、瀬戸焼とはよく似ていまが、本日はその瀬戸焼の向付です。ただし、産地、製作年代は不詳です。

うち捨てられたようにあった作品ですが、窯割れをちょっと金繕いし、普段使いの向付に使おうと思います。そうするともうひとつ・・、否もう二つ同じような器が必要かな・・・・

絵瀬戸向付
合箱
口径95*胴径106*高台径65*高さ85



備えてあった箱には「絵瀬戸筒茶碗」とありましたが、「向付」という膳にそえられる器だと思われます。鉄絵に青い釉薬が掛けられていますが、織部の釉薬も温度のよっては青色に発色をしますので、織部釉薬の可能性があります。



絵瀬戸は「瀬戸系の陶窯で作られた釉下に主に簡素な鉄絵模様の施されている陶器」と説明されています。

本作品は口縁に鉄釉が掛けられ、俗にいう「皮鯨手」(皮鯨手は本ブログの読書にはもうお分かりですよね)の様相を呈しながら、柳や竹の葉のような紋様を鉄釉で描き、たっぷりと青釉を掛けています。このような技法は瀬戸焼にはよく見られるようですし、織部にもあります。




向付は「日本料理で膳の向こう側につける料理,また,それを盛りつける器」をいいます。

江戸時代半ばには使われていたことばで,なますか刺身を用いることが多かったようです。向,向詰(むこうづめ)とも呼ばれましたが,向詰は焼物をいう場合もります。

懐石では,初めに亭主が持ち出す折敷(おしき)に飯,汁とともに向付が配され,陶磁器の皿に刺身を盛るのがふつうです。



底は「ごけ底高台」が大きな特徴です。「後家」ではありません。「碁笥」ですよ。

瀬戸の向付には碁笥底高台(ごけそここうだい)であることが多く、碁笥底高台は略して碁笥底と言いますが、高台のつくりかたの一種です。碁石を入れる碁笥の底に似ていることからこの名がついています。

底を削り上げ底風になっており、高台にあたるものがついていないというか、削りあげたものそのものが高台になっています。

この手の高台は底の胎土が薄くなり、熱いお湯を注ぐとお茶碗の場合は手で持てない場合があります。それを承知していないとちょっとたいへんなことになりかねません。

とくに冬などの寒い季節に使うこの作品のように筒茶碗などは要注意です。



試しに大阪出張の時に女性の同僚から頂いた小倉山荘のチョコレート(六色がさね)を呼び継ぎされた唐津刷毛小皿の載せてお薄を一服。

飲む時はそれほどでもありませんが、お茶を点てる時に胎土が薄くなって底に手をかける時に、やはり熱いので要注意です。致命傷ではないにしろ、黄瀬戸にしてもまた向付をお茶碗に使う時は同じことに注意が必要です。



最近投稿しました「織部沢瀉紋徳利」と本日の「絵瀬戸向付」は一見するとまったく無関係のようにみえますが、胎土と釉薬はほぼ同じものと言えそうです。「麦藁手盃」も同じようです。



手元に揃った瀬戸の焼き物で何を肴に、何のお酒を今宵は愉しもう・・。

サラリーマンで揃えたガラクタでも、少しずつ揃うとだんだん楽しくなりますね。これにお盆はなに?とかね。

お茶席用に揃えるたり、会席用に揃えたりするのではなく、自分の小遣い程度で、楽しみで揃えるのが私は一番面白いと思います。この三点で数万程度ですが高いのやら安いのやら。

酒好きの貴方も器にすこしだけ凝ってみたらいかがかな? 割と奥が深いので無理にとは言いませんが・・。

バレンタインのチョコレートが年をとるとともに少なくなってきました

源内焼 その39 三彩蘭図角皿

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ブログの投稿数が1000回を超え、訪問者が150万人になろうとしています。

さて、先日投稿した天龍道人の作品にある賛の読みを家内が四苦八苦してある程度は読めたようです。賛は「天地一庵□ 今右揮毛□ □性組道妙 分明是揖糊 天龍道人□□八十八筆畫 併題書」のようです。ただし、いまだに意味は不明です。

さて、本日も難解は読みのある作品です。

源内焼 その39 三彩蘭図角皿
合箱
縦205*横202*高台(125*123)*高さ32




購入後に洗浄するとある程度の汚れは落ちてきれいになります。

洗浄前



釉薬や胎土のよって汚れやすいのかよく解りませんが、共通して江戸期の源内焼には汚れがあります。



釉薬や胎土が軟らかいので、強くこすって汚れを落とすと傷になりますので、強く表面をこすってはいけません。



本作品の色違いが「さぬきの源内焼」(平賀源内先生遺作館 企画展 財団法人 平賀源内先生顕彰会)に作品NO48として掲載されています。



掲載された作品より型からの抜けは良く、短冊には「一様吹?栖□□写□亦題 □□子□□□□」とおぼろげに見えます。           

 

意味は不明です。どなたか解る方がおられると助かります。



左上には遊印が「□□遠」とあり、右下には累印で「禎?」「霞」とあります。蘭の右には「半□□印?」とあります。この印章についても詳細は不明です。

  

またまた家内を悩ますような難解な読みのような気がします。

忘れ去られた画家 怒涛躍鯉之図 松永天章筆

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週末は家内の実家へ・・、家内は退院後まだ生まれた長男と実家に滞在中。
さて、来週はひな祭りということで、土佐光孚の作品を家内の実家の床の間に飾りました。

立雛之繪 土佐光孚筆 改装完了
絹本水墨着色軸装 軸先塗 太巻二重箱タトウ
全体サイズ:縦1770*横468 画サイズ:縦947*横343



昼寝をしている間に家内は物置からお雛様を飾ったようです。



一人で飾ったらしいです。子どもの頃、雛壇の飾りつけに際しては、小さな刀で遊んだりしたものですが、今も自宅のどこかにあるはず・・・。



長男は男の子なので・・・、本日は鯉の作品です。長男はお風呂が大好きなようで、風呂に入りながら「ふ〜」とは言っています。



長男は男の子なので、本日は鯉の作品です。鯉を描いたことで著名な画家ですが、今はあまり知られてはいません。長男の誕生もあって購入した作品です。

怒涛躍鯉之図 松永天章筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 共箱
全体サイズ:縦2090*横620 画サイズ:縦1280*横420




鐘馗様や鯉の絵を床の間に飾ったので、男の誕生という縁起を担いでまたまた鯉の絵です。




一般的な作品ですが、鯉の作品の一幅くらいは所持していたいものです。



手頃な値段で、勢いのある、描写の優れた作品の典型のような作品です。



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松永天章:日本画家。岐阜県生。字は実次、別号に応文・膽吹山人。

  

明治12年飛騨国(岐阜県)不破郡に生れる。別号:応文・樹鳳・正信。字は實次。



初めは河村光文に師事し四条派を学び、後に上京して川端玉章に師事し円山派を修めた。花鳥を能くし特に鯉や魚の絵を得意とし、鯉の画家とも呼ばれています。




諸種の画会に入選を重ね受賞し、帝国絵画協会 美術研精会 日本画会 日本美術協会 巽画会 天真会などの会員となって活躍した。また皇室の御用絵も務め茶道にも通じた。昭和20年(1945)歿、66才。



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昨日の日曜美術館d値は河鍋暁斎の鯉の描き方を再放送ですが、NHKで放映さしていました。本作品もかなり高度な描き方のように思われます。




人形 伊勢正義画

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家内の昨日のブログは雛人形・・・、そこで私は本日は「人形」・・。

伊勢正義という画家をご存知でしょうか? わが郷里の秋田県大館市に生まれ、小坂町で育った画家です。旧制大館中学校、現在の大館鳳鳴高校出身で私の高校の先輩になります。

本ブログにもよく投稿されている父と親交のあった福田豊四朗と同郷です。ところで福田豊四郎の作品はなかなか東京にいると市場に出てきません。郷里に行くと何点かにいつもお目にかかれるのに??

人形 伊勢正義画
油彩額装 右下サイン 黄袋段ボール箱 
画サイズ 6号:横318*縦410 全体サイズ:縦595*横505



小坂にありました伊勢正義に関わりのあった建物を解体する際に「山の風景画」と「裸婦」の油絵が出てきました。「山の風景画(非公開)」にはサインがありましたが、「裸婦(非公開)」にはサインがありませんでした。今は当方で大切に?保存されいます。



本作品は東京に赴任してきたからの入手ですが、なかなか気に入っています。



伊勢正義 :1907−1985 昭和時代の洋画家。明治40年2月28日生まれ。藤島武二に師事。光風会展や帝展,第二部会展で受賞。昭和11年猪熊弦一郎,小磯良平らと新制作派協会(現新制作協会)を結成。戦後も同協会で活躍。昭和60年11月18日死去。78歳。



秋田県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。作品に「バルコン」「キャバレー」など。

漢緑釉銀化皿

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漢以降の緑釉の作品は大量の出土品の登場により、値段が大暴落し、今や値段がつかないほど値を下げているようです。

本作品についてもただの小汚いがらくたとするのか、美しい小皿とするのかは人によって意見の分かれるところでしょうね。

日本の山茶碗もそういう器の部類に入ります。まだ投稿していない「山茶碗」はどこかに一つあったはずですが、作品はどうやら行方不明のようです

漢時代前後の緑釉の壷などの作品群には私はあまり魅力を感じませんが、ほんの一部には魅力的な造形のものもあるようです。ただ緑釉が銀化した作品が魅力的で、銀化の具合が評価のポイントになるようです。

銀化についてはすでになんどか本ブログで触れていますので、ご存知の方も多いと思います。

漢緑釉銀化皿
合塗箱
口径150*底径100*高さ22



緑釉陶器は中国の戦国時代(紀元前4世紀頃)に生まれ、漢時代に流行しました。日本には7世紀後半、新羅から技術が導入された可能性が強く,平安京から新羅の緑釉壷の破片が出土しています。



銀化は釉に含まれている鉛が長い年月を経て風化し銀色に発色するようになるものです。

意外にありそうで見ないのが、状態の良い漢の緑釉の皿と言われています。

本作品は発掘品でしょうが、長い年月を経ての銀化している部分は非常に魅力的です。写真では今一つ伝えきれませんが、送られてきた本作品の梱包を開封したときには、「お〜、なかなかきれい」という感想でした。

なお本作品の底には釉薬が掛けられてはいません。



釉銀化の作品はなんでも鑑定団にも出品されていました

ブログにも「麒麟像」が投稿されています

1980年代後半になると、中国の経済開放政策によって、鉄道や道路など国中のいたる所でインフラ開発が行われ、その工事中に多くの漢代や唐代の墳墓が発見される事になりました。

埋められていた緑釉や三彩の陶器が大量に出土され、これらの作品群は大暴落し、お値段もお手頃になったと言われています。ただし、小生には詳しいマーケット情報は解りません。

欧米では鮮やかな緑釉が高く評価されますが、日本ではやはり銀化した緑釉の美しさが、緑釉の作品のポイントになるでしょうね。そういう観点からは緑釉の作品は出土品でなくてはならないということになります。



一二湖のようなきれいな緑で、写真では解りにくいでしょうが、虹色の発色もあります。



緑釉の作品は粗雑な造形、低温度の焼成のよるものがほとんどです。乱暴に扱うと壊れてしましますが、皿のようなものは実用ですね。壷などを飾っておくのはいいのですが、造形的に優れたものは以外と少ないと思います。

番雉 吉岡堅二筆 その2

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朝の電車はどうして皆が殺気立っているのだろうか? 階段やホームを小走りに行き、人を押しのけるようにしていく。このような殺伐な風景は見飽きたようであるが、じっくり眺めていると異常である。

都会で育ったからということでもなく、都会にいるとそうなるのだろう。通勤の状況はそのまま都会の生活そのもので、人を押しのけて生きていく習性そのものが顕著になっていくように思える。名誉欲や地位欲や物欲があるものが偉いような思いから、そろそろ脱却したいと改めて思うことがある。さて、私の子育てはどこにしようか?

さて、本日は郷里の秋田の自宅の庭を恐る恐る、かつ大胆に歩き回る雉の絵です。常に番でいるのがなんとも愛おしい。

父と親交のあった秋田出身の画家「福田豊四朗」といくつかの団体を結成した画家に「吉岡堅二」がいます。本日はその吉岡堅二が描いた雉を描いた作品です。

郷里の自宅はここ一年近く帰宅できず、雅な表現?でいうと自宅が「別荘」のようになってきました。自宅の庭を縦横無尽に歩くのは番(つがい)の雉です。

3月の3連休の時には中学の同窓会で「還暦を祝う会」なるものを催されるらしいので、出席のため一人で帰省しようかと思いますが、自宅でのんびりできるかそうか・・・。

5月の連休には休みがとれると帰省でき、自宅の庭で雉に逢うことがことができるかもしれません。

本作品の題名は本ブログで投稿した「番シリーズ」にちなみ「番雉」としました。

番雉 吉岡堅二筆
紙本岩彩着色 額装 タトウ 
全体サイズ:縦711*横908 画サイズ:縦528*横728(20号)



この絵を見て思い出すのは「雉も鳴かずば撃たれまい」という言葉です。「雉は鳴かなければ居所を知られず、撃たれることもなかった。」という意味から、無用な発言をしたために、自ら災いを招くことを表した言葉です。田舎では家の近くでもしょっちゅう雉の鳴く声が聞こえますので、居場所はすぐにわかります。



雉は国鳥ですが、国鳥でありながら狩猟が許可されているなんとも不幸な鳥??



ところで雉は地震の予知能力が高いことをご存知でしょうか?、足の裏に震動を敏感に察知する感覚細胞があり、人間よりは数秒以上も早く地震を知ることができるようです。これ本当のようです。



番の仲の良さもあり、そばにても脅かしたりせず、じっくり観察しているのがいいでしょう。




本作品は額装です。



吉岡堅二の作品は2作品目です。1作品目も番でしたね。

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吉岡 堅二:1906年10月27日 〜 1990年7月15日)。日本画家。東京・本郷の生まれ。父は日本画家である吉岡華堂。野田九浦に師事する。

藤田嗣治の友人の洋画家高崎剛の留守宅を借りて住んだ際に制作した「小憩」でわずか24才にして帝展特選となる。

福田豊四郎・小松均と山樹社、豊四郎・岩橋英遠らと新日本画研究会を、さらに新美術人協会を結成し日本画の革新運動を展開、大胆なフォルムの豪快な作風で画壇に新風を送り込んだ。

戦後は、山本丘人・上村松篁・豊四郎・高橋周桑らと創造美術を結成、西洋と東洋を融合させた常に新傾向の日本画を追求し続けた。芸術院賞受賞。東京芸術大学教授(1969年退官)。


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子育ては田舎でのんびりが良いと思うのですが、思うに任せないのが世の常・・、「雉も鳴かずば撃たれまい」。
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