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花文香炉 河井寛次郎作 その5

先日NHKの日曜美術館で「美は喜び 河井寬次郎 住める哲学」(初回放送日: 2024年1月28日)と題されて旧河井寛次郎邸を紹介した番組を放映していました。
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云わずと知れた日本を代表する陶工・河井寬次郎ですが、柳宗悦と共に民藝運動を進め、人間国宝も文化勲章も辞退し、自らを“生涯一陶工”として独自の造形を生み出した陶工です。
自ら設計した自宅は、没後「河井寬次郎記念館」となり半世紀にわたって家族の手で大切に守り伝えられています。「暮しが仕事 仕事が暮し」と語った寬次郎の日々の創作を支えた「住める哲学」とは何だったのか? 記念館を慈しむ寬次郎の家族の案内で、その秘密に迫って番組の内容で、非常に愉しく拝見しました。
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この河井寛次郎と親交が深く、番組中にも河井寛次郎邸を訪れていた写真が幾度か登場した人物が棟方志功でした。上記写真のように縁の深かった二人の作品を並べて撮影してみました。
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母の実家の床の間には河井寛次郎の本作品よりひと回り大きな香炉が飾られていました。おそらく当方が初めて触れた河井寛次郎の作品です。
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その感動が忘れられず、浜田庄司や金城次郎、バーナードリーチらと共に民芸運動に携わった陶芸家の作品を蒐集するようになりました。
花文香炉 河井寛次郎作 その5縁補修跡有 河井敏孝識箱 高さ79*幅95*奥行
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河井寛次郎は釉薬を徹底して研究した陶芸家でもあります。東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科へ入学しましたが、寛次郎には師と仰ぐ者がなく、師弟関係を重んじる陶工の世界にあって、学校という教育機関にて指導を受けた新しい世代の陶工となります。
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東京高等工業学校では、陶芸家の板谷波山の指導を受けたほか、窯業の科学的研究を行いました。1914年、東京高等工業学校卒業後は、京都市陶磁器試験場に入所し、東京高等工業学校の後輩でもある濱田庄司とともに1万種以上の釉薬の研究や、中国陶磁など過去の陶磁の模倣や研究も行っています。 
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若い頃に板谷波山や浜田庄司との関連性ができています。このような研究を経た陶芸家は今はいませんね。現在は目新しい小手先の技術の陶芸家ばかりで根底にあるべき技術と教養、知識のない陶芸家ばかりになっているように感じます。
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1920年、五代清水六兵衛の技術的顧問を務めていた縁で京都・五条坂にあった彼の窯を譲り受け、「鐘渓窯」と名づけ自らの作品制作を開始しました。同年、京都の宮大工の娘・つねと結婚していますが、このことは河井寛次郎にとって生涯最高の縁になります。
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高島屋での陶磁展では、中国・朝鮮の陶磁の名作に倣い、科学的研究の成果を取り入れた超絶技巧の華やかな作品を発表、新人にして名人と一躍注目を浴びます。しかしやがて世評に反し、自身の制作に悩むようになります。創作陶磁展覧会と同時期に柳宗悦の集めた李朝の陶磁展「朝鮮民族美術展」を展観し、無名の陶工が作り出す簡素で美しい作品に感銘を受けます。
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“自分の作品は衣装であり化粧であり、中身の体はどうしたのか、心がけはどうしたのか”と、自らの作品制作を中断してしまいます。1924年、イギリスから帰国した濱田庄司に現地で収集した雑器・スリップウェアを見せられ、濱田から柳を紹介されその民芸理論に深く共感し実用的な陶器制作を新たな目標とすることになります。
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1926年、柳、濱田とともに日本民芸美術館設立趣意書を発表。古い日用品を発掘しその制作のための技術を復活させ、無名職人による日用の美を世に広め、新しい日用品を制作し普及しようとした「民藝運動」に深く関わるようになります。

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富本憲吉、黒田辰秋、バーナード・リーチらとも合流し、1929年に長い沈黙を破って開いた高島屋の個展では、古典から日用の器へと路線を変更。寛次郎は各地を訪れ、手仕事の制作現場や、日本や朝鮮やイギリスの器から受けた影響をもとに、実用的で簡素な造形に釉薬の技術を生かし、美しい発色の器を次々と生み出して再び注目を浴びます。この時期以降、寛次郎は作家としての銘を作品に入れないようになりました。
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室戸台風で五条坂の自宅が損壊したことを契機に、故郷の民家の形をもとに、登り窯の形に対応するかのような構造をした新しい自宅兼仕事場を自ら設計し、大工である実家とも協力して1937年に完成。この自宅兼仕事場が現在の河井寬次郎記念館になったものです。
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同じ年、川勝堅一(東京高島屋の宣伝部長であった) の計らいで「鉄辰砂草花図壷」(上記写真の作品)がパリ万国博覧会でグランプリを受賞します。
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第二次世界大戦後、世界の民族芸術に関心を深めた寛次郎は木彫の制作も開始。陶の造形も日用の器から簡素ながら奔放な造形へと変化を遂げます。材料の入手が困難であった戦時中より詩、詞の創作を始め、1947年には寛次郎の詞「火の誓い」を棟方志功の板画で制作しています。随筆「いのちの窓」を陶土に刻んだ陶板を完成。
*下記写真は1950年(昭和25年)頃のもののようです。
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老境にいたり深い思慮を重ねた文章を多数残した時期でしたが、壷や皿などの陶の作品は、荒々しい素地で用途にとらわれない自在な形状に、アクション・ペインティングのように釉薬を刷毛で打ちつけるような作品を残しています。またあらゆる釉薬や造形を試し、その創作意欲が生涯枯れることはありませんでした。
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この作品は13万円であったらしい・・。
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娘婿で記念館の館長である河井敏孝氏の鑑定箱に収められています。
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