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佐伯祐三について 「A PARISU 伝佐伯祐三画」

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著名な佐伯祐三について、当方にある作品から考察してみましたので投稿します。冒頭にお断りしておきますが、本作品の真贋についてはおそらく贋作だろうという判断ですので、ご了解ください。週末なので気軽にお楽しみいただければと思います。



A PARISU 伝佐伯祐三画
油彩額装 右下サイン 裏面サイン 1928年作 誂タトウ+黄袋
画サイズP2号:横*縦 全体サイズ:横230*縦155



油彩には素人ですが、筆致がおとなしすぎるように思われます。



サインも違う??



額や描かれた板は古いようです。本作品はサインにある年号から佐伯祐三が亡くなった年の作とされるでしょうが、前述のようにサインも違い、画風も異なることから贋作と判断している作品です。



佐伯祐三は1928年3月に描かれた「黄色いレストラン」を最後にして戸外では作品を描いていません。よって本作品が1928年ならそれ以前の寒い頃になりますが・・。

 

せっかくですので、授業料として佐伯祐三の画歴は調べてみました。

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佐伯 祐三(さえき ゆうぞう):1898年4月28日 ~1928年8月16日。大正・昭和初期の洋画家。大阪府大阪市出身。

佐伯は画家としての短い活動期間の大部分をパリのモンパルナス等で過ごし、フランスで客死した。佐伯の作品はパリの街角、店先などを独特の荒々しいタッチで描いたものが多い。佐伯の風景画にはモチーフとして文字の登場するものが多く、街角のポスター、看板等の文字を造形要素の一部として取り入れている点が特色である。作品の大半は都市風景だが、人物画、静物画等もある。



佐伯は1898年(明治31年)、大阪府西成郡中津村(現大阪市北区中津二丁目)にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれた。1917年(大正6年)東京の小石川(現・文京区)にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事する。

旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)を卒業した後、1918年(大正7年)には吉薗周蔵の斡旋で東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し、引き続き藤島武二に師事、1923年(大正12年)に同校を卒業した。東京美術学校では、卒業に際し自画像を描いて母校に寄付することがならわしになっており、佐伯の自画像も現存している。




鋭い眼光が印象的なこの自画像は、作風の面では印象派風の穏やかなもので、後のパリ滞在中の佐伯の作風とはかなり異なっている。なお、在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き、二科展などにも入選していた。



佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し、代表作の多くはパリで描かれている。第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。1924年のある時(初夏とされる)、佐伯はパリ郊外のオーヴェル=シュル=オワーズ(ゴッホの終焉の地として知られる)に、フォーヴィスムの画家モーリス・ド・ヴラマンクを訪ねた。佐伯は持参した自作『裸婦』を見せたところ、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と一蹴され、強いショックを受けたとされる(その後、何度かヴラマンクの下に足を運んでいる)。事実、この頃から佐伯の画風は変化し始める。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかである。佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが、佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ、1926年にいったん日本へ帰国した。パリでの友人である前田寛治、里見勝蔵、小島善太郎らと「1930年協会」を結成する。



2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかった。佐伯は旺盛に制作を続けていたが、1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となった。




下記の作品「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で佐伯祐三が「描ききった」と家族に説明していたようです。この「黄色いレストラン」は冒頭に記述のように1928年3月に描いている戸外制作最後の作品とされています。病床にあった佐伯祐三が山田新一に「この絵は『扉』とともに最高に自信のある作品だから、絶対に売ったりしないように。」と言い残した作品です。



この扉という作品は下記の作品で、同じく1928年に描かれています。ドアの向こうには暗闇を想像させ、すぐ近くに迫っている死に直面しつつ、それでも絵を描いていく強い意志というものをこの扉に感じるのです。



屋内ではその後も偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描く(この郵便配達夫は後にも先にもこの時にしか姿を見せなかったことから、佐伯の妻はあの人は神様だったのではないか、と語っている)。



自殺未遂を経て、ヌイイ=シュル=マルヌのセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院。一切の食事を拒み、同年8月16日、妻が娘の看病をしていたので妻に看取られることなく衰弱死した。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺。
山発産業創業者の山本発次郎が佐伯の画を熱心に収集し、戦時中にはコレクションの疎開を行った。しかしそれでも空襲により収集作品8割は灰となり失われた。現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されている。

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佐伯祐三の生涯は30年と4ヶ月たらずという短いものであり、さらに芸術家としての活動は5年にみたない一瞬の光芒に過ぎませんでした。アカデミックなものを放棄してフォーヴィズムへ向かおうとする芸術家の苦闘は、時に闘病しつつ画業にむかい、この短時日に描いた作品数は意外に多くあったものと推定されています。



確かに、佐伯祐三の画に対する妻「米子加筆、創作」であるという疑義、そして贋作事件があるようですが、こうした疑義は佐伯の画業をおとしめるものではないと現在では評価されているようです。

興味深いのは「米子加筆、創作であるという疑義」と「贋作事件」ですね。

まずは「妻の米子加筆疑惑」です。

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妻米子による加筆疑惑

夫より上手かった?と言われる米子夫人が佐伯の絵に筆を加えていたのではないかという疑惑がありました。

妻の米子夫人については「....米子夫人がこの人の傍で、哀しいまでに美しいことが、心を揺すった。この人は若い画家らしく、無造作に粗末な黒い服を着て疲れた労働者そっくりだが、米子は貴婦人のように絹物の和服に美しい被服を着て、白足袋に草履をはき、左足が少し不自由なためか、黒塗りの杖で左脇を支えて歩いていた。それにエロチックな美がこぼれるようで、往きこうフランス人が目を見張り、必ず振り返って見たものだ。」と芹沢光治良が著しているように美しい人であったようです。

 

米子夫人の手紙には「秀丸(佐伯の幼名)そのままの絵では誰も買って下さらないので私が手をいれておりますのよ。秀丸もそれをのぞんでおりましたし。 あなたもそのことをよくご存知でしょう。秀丸そのままの絵に一寸手をくわえるだけのことですのよ。こつがありますから私、苦労致しましたがのみこみましたのよ。それは見違えるほどになりますから。画づらの絵の具や下地が厚いものにはガッシュというものをつかい画づらをととのへ、また秀丸の絵の具で書き加えますでしょう。すこしもかわりなく、よくなりますのよ。.....秀丸(佐伯の幼名)はほとんど仕上げまで出来なかったのです。.....私が仕上げればすぐに売れる画になりますのよ。すべての絵を手直ししてきちんと画会をしたいのです。...。」という画家でもあった米子夫人本人が自分が加筆したことを何回も書いた手紙があるという情報もあり、この手紙については筆跡鑑定では米子夫人の真筆とされるという記事もありますが、真実かは不明です。



彼女は佐伯が屋外で描いて来た作品をアトリエで仕上げていたということで、特に建物の太く黒い線や輪郭は彼女の手によるものとし、関東大震災で彼女の実家の商売も不調になり絵を売る必要があったために、佐伯の絵が売れないことに不満で加筆したともいわれています。さらには米子は生活のために、佐伯君の死後も残った描きかけの絵に加筆を続けていたという記事もあります。

贋作事件と合い絡めるとこれが事実なら、売れるように妻の加筆した絵が真作で、米子と別居中に米子に知らせずに日本に送られ、70年以上も放置され、額装も修復されていない汚れた祐三自身の描いた絵が贋作とされている可能性があります。

この妻米子の加筆問題が明白となれば今まで佐伯作品として各地の美術館に収められていたものが疑惑品として美術館から画商に返却を求められる可能性があり、画商にとってこれは死活問題となりかねません。

なお佐伯祐三の新たな恋人である千代子への置き手紙には「今日朝、俺は離別を決めました。米子サンに リベツの事 云いました。俺のリベツは、俺の画をもっと良くするためです。米子サンから タブローのこと、口出しされないためです。荻須と千代子サンともへだてた 俺の仕事のためです。俺の命のためです。」とあるともされますが、真実は不明です。

米子と別居し死期の近づいた佐伯祐三は、薩摩治郎八の妻であり、パリ社交界のアイドルであった千代子に恋をします。モンパルナスの同じアパートに住んでいた佐伯は、米子と暮らす三階から二階にある千代子のアトリエへ降りて独自の画風を模索していました。

「荻須の事は心配ないと思います。前にパリに来たころの俺の画に良く似た タブロー描くのは米子サンが描いてはるからやけど心配ないです。荻須は頭のええ男やから、その内はっきりさせるでしょう。自分のもの 描かねばいかん事に 気が付くやろから、そしたら米子サンに 自分でしらすと思う。それ迄 俺は気がつかん事がいいのです。荻須がええもん描いても、心配しないで下さい。荻須に負けたら、それは仕方ない事と思うています。」この記述はそのころ、米子は弥智子を新居に置いたまま、モンマルトルの荻須高徳のアパートへ行ってしまっており佐伯は幼い智弥子の世話を千代子に頼む事になっていた状況によると思われませんでしたすがこの手紙も真実かどうかは不明です。ただ最後は佐伯祐三は米子の食事を拒み衰弱し、愛するパリで天国に逝きました

「郵便配達人」は、佐伯が病身をおしてブールヴアールの二階アトリエに行った時、たまたま郵便を届けに来た、髭の美しい配達夫に出会い、モデルを頼むことができたそうです。この「郵便配達夫」が米子によって絶筆とされていますが、実際は愛する薩摩千代子の肖像画であったというか考察もあるそうです。佐伯、米子夫人、薩摩治郎八、千代子夫人、荻須高徳、藤田嗣治などなど、そうそうたる面々の人間模様というか佐伯祐三をとりまく人の相関はかなり複雑だったのでしょう。

*洋画家の女性関係を含めた経歴にはびっくりすることが多いですね。

「米子加筆説」についての否定意見では「下層が濡れている間の上層の線描は単独者でなくては不可能な仕上がりであること、その濡れている下層の色面を引きずりながら引かれているその筆跡が画面で明確に見られること、すなわち一気呵成に仕上げられた、加筆の余地のない画面であり、加筆はまったく根拠のないものである。」とあります。

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「米子加筆説」はスキャンダルとしては面白いのでしょうが、否定的な意見が多いと思われますし、現在では佐伯祐三の作品への評価にはなんら影響していないようです。。

一方で佐伯祐三の絵には、美術史上に残る「贋作事件」がありました。概略は下記のとおりのようです。

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岩手県で、佐伯祐三の未発見の絵が出てきたことからこの事件は始まります。これらは、仕上げられた絵ではなく、初期の段階あるいは未完成の絵と見られる油絵でしたが、佐伯祐三は元来速筆の人で作画が非常に早く、いわゆる素描やデッサン、下絵といったものが今まで少なく不思議がられていました。今回がそれにあたる物ではないかともされる意見もありまいしたが、一方で今までの佐伯作品とは全く印象が異なるもの、出来の劣る作品?であるという疑惑があがります。

事件の経過は次のとおりのようです。

平成6年、岩手県遠野市に住む主婦(吉薗明子氏)が福井県武生市に未公開の佐伯祐三の作品38点を寄贈することになりました。寄贈を受ける武生市は美術界の大御所、河北倫明氏を座長とした選定委員会を設置して調査した結果、12月18日寄贈作品は真作であると判断されたそうです。

選定委員は、以下のメンバーです。
座長:河北倫明(美術館連絡協議会理事長)
委員:富山秀男(京都国立近代美術館館長)
陰里鉄郎(横浜市立美術館長)
西川新次(慶応大学名誉教授)
三輪英夫(東京国立文化財研究所美術部第二研究所長)

メンバーのうち西川氏は仏教美術が専門であり武生市出身ということで館長就任が予定されていました。しかし、それ以外のメンバーはいずれも日本近代美術史研究を代表する方ばかりです。特に座長の河北氏は東京美術倶楽部の顧問でもあり美術界、画商の両方に大きな影響力を持っていました。



ところが、12月25日画商の団体である東京美術倶楽部がこの佐伯作品を贋作であると発表した所からこの事件が始まります。

東京美術倶楽部は、贋作の根拠として、
1) キャンバスがテトロンを含んでいる
2) 絵の具が酸化していない
3) 画布に打ち付けたくぎは顕微鏡検査ではさびていない
の三点をあげました。

この贋作発表の翌日である12月26日、東京美術倶楽部の三谷会長、鑑定委員の長谷川徳七氏、美津島徳蔵氏の3人は選定委員座長である河北氏を訪れ、会談を行いました。会談後、河北氏は次の2点を提案します。
1)美術市場を混乱させないため、寄贈絵画と資料を市場に出さず、凍結する
2)寄贈絵画38点から数点を選び、第3者機関で科学的な調査をする

その後、武生市が平成7年2月に贋作の根拠の1つであるテトロンの混入の調査を行い、キャンバスの材質は麻との検査結果が出て「テトロン説」は崩壊します。それにも関わらず、河北氏が病床に倒れたことをきっかけとして贋作の意見が盛り返し、選定委員までもが贋作よりに傾いていきます(河北氏は、平成7年10月に逝去)。結局、武生市も選定委員の流れに乗ってしまい「贋作」と判断して寄贈話はご破算になってしまいました。

なお贋作とする意見には「武生市に提示された佐伯作品とされる38点は、誠に出来の悪いお粗末なもので、ちょっと絵を知っている人が見たら、たちどころに贋作と見破られるようなものであったようだ。しかし、現実に真作を主張したその筋の専門家と言われる人が何人かいた。東京美術倶楽部からの異議が出てこなかったなら、そのまま美術館に収まったかもしれない。それはそれで問題だが、市場側が贋作を主張したのも、その立場での思惑によるものだろう。」という意見があります。

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現在は大筋で武生市に提示された佐伯作品とされる38点は贋作と考えられてるものと思われます。

ともかく著名な画家、高価な作品群には贋作疑惑が常につきまといますね。画家には女性関係のスキャンダルも・・・。人間の生き様は常に欲との戦いなのかもしれません。私利私欲ほど見苦しいものはないのでしょう。反省・・・

作品整理 再考 菅井梅関

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菅井梅関は江戸後期における南画の画家ですが、南画最盛期でもあり、おそらく戦後まで贋作が横行し、本ブログにも投稿されている釧雲泉らとともに真贋の難しい画家でもあります。

当方での蒐集作品を整理したリストには下記の作品があります。明らかに出来の悪い作品(NO91)はすでに破棄か売却処分されているのか記憶になく、当方の手元にはないようです。

整理した「菅井梅関 所蔵作品リスト」は現在下記の写真のとおりです。



整理も兼ねて作品を紹介します。

真作
1.墨梅竹図 菅井梅関筆
紙本水墨 軸先木製 杉箱入 
全体サイズ:縦2030*横944 画サイズ:縦1690*横870



2.秋景山水図 菅井梅関筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2215*横717 画サイズ:縦1195*横563



3.冬景獨釣図 菅井梅関筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
古美術鑑定事務取扱日本美術親交會発行鑑定書高畑翆石鑑定書付
全体サイズ:縦2230*横692 画サイズ:縦1340*横555



4.寒山積雪 菅井梅関筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱 高畑翆石鑑定書付
全体サイズ:縦1990*横410 画サイズ:縦1312*横265



5.秋山訪友之図 菅井梅関筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦2000*横750 画サイズ:縦1240*横540



6.墨梅図 菅井梅関筆
絹本水墨 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1932*横477 画サイズ:縦1162*横365



7.秋窓晩翆 菅井梅関筆 →真作
絹本水墨 軸先木製 犀東庵箱書 杉箱二重箱
全体サイズ:縦1290*横510 画サイズ:縦1880*横630



91.青緑山水図 菅井梅関筆                      処分?
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦*横

最後まで判断に躊躇したのが作品NO7「秋窓晩翆 菅井梅関筆」です。

秋窓晩翆 菅井梅関筆
絹本水墨 軸先木製 犀東庵箱書 杉箱二重箱
全体サイズ:縦1290*横510 画サイズ:縦1880*横630

賛には「秋窓晩翆 □宋人筆意味於板鼻僑居 梅関筆意 印」とあり、印章は「菅井兵輔」の白方印、「仙台東斎」の朱方印が押印されている。



箱書は「梅関居士秋窓晩翆絹本竪幅」とあり、箱裏には「昭和二十一壬戊(昭和二十一年は丙戊)林鐘(林鐘:陰暦六月)犀東庵主人鑑題」とあります。「犀東庵主人」とは詩人の「国府犀東」のことでしょう。
 
*国府犀東: こくぶ-さいとう 1873-1950 明治-昭和時代の詩人。明治6年2月生まれ。博文館の「太陽」編集部や内務省,宮内省などにつとめ,のち慶大,東京高校でおしえる。歴史,地誌,有職(ゆうそく)故実にくわしく,漢詩を主に新体詩もつくった。昭和25年2月27日死去。77歳。石川県出身。東京帝大中退。名は種徳(たねのり)。詩文集に「花柘榴(はなざくろ)」,著作に「佐渡と新潟」など。

  

本作品の判断に躊躇した理由は本作品のブログにあったコメントに凝縮されています。

本作品に関するブログへのコメント 「印」          2013/04/15 02:16:24
「贋作とは本当に精巧なものもあり蒐集する立場から見れば恐ろしいものです。この梅関の印も思文閣掲載の印と比べると菅の中のつくりが左右の冠の縦棒より下に突き出している、井の字の横棒の膨らみ方が思文閣と違って上下に膨らんでいる、下の印も多くの文字の横線が思文閣のものより太くなっているなど、偽造印である可能性が高いのです。そういう目で絵を見れば、一番最後に掲載された真作と比べると質が著しくおとり、構図などがよく似ていることからそういうのを参考にした贋作である疑いが濃厚となります。いろんなことがあると思いますが、これからも蒐集頑張ってください。」

贋作の疑いのひとつが下記の印章の比較の写真です。

 

上記写真の左の写真が本作の印章ですが、絹本への押印では多様の変形があり、左上に変形しています。また右の資料はページがゆがんだ状態で撮影されています。資料を拡大すると下記のようになります。

 

ちなみに資料の元は下記の写真です。他の作品群や資料と比較しても本作品の印章を偽印とするには早計のようです。



この印章の資料は上記作品群の照合の大いに役に立つものとなっています。



一方でこの作品の出来からの判断ですが、資料の作品は名品ですので、本作品との比較での優劣には無理があります。



菅井梅関は母の死、家業を継いだ弟の失明で帰郷しています。涌谷領主の伊達桂園に仕えますが、失明した弟家族を養う生活は苦しく、しかも大飢饉。そこに追い打ちをかけたのが、桂園、南山、東洋の相次ぐ理解者、支援者の死去です。借金に苦しむ梅関は、還暦を迎えて間もない天保15年(1844年)1月11日62歳で没していますが、これらの状況に心折れ、自ら井戸に身を投げています。



菅井梅関の最晩年の作品は、亡失感に包まれた山水を多作し、その「生」を終えてしまったという作品の画面に、見ていてやりきれなさを感じてしまうものです。一般に「帰郷した後の菅井梅関の作品の画は、甘くなる」という評価がありますが、こういう理由もあるのかもしれません。

さらに賛の書体からも本作品は真作であると当方ではジャッジし、この作品は遺すこととなりました。

虫の音 伊東深水筆 その6

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先週末はちょっとお出かけ・・。



さて伊東深水は美人画家として著名ですが、花鳥画にも優れた画家でもあったようです。深水は美人画家の枠から脱皮すべく種々の葛藤から優れた作品を遺しており、そのひとつに花鳥画が挙げられますが、美人画の背景によく花草の絵が描かかれるなど、脇役的な画として伊東深水の植物を描いた作品は、それほど評価は高くなく市場では評価されているようです。



ただ花草を描いた作品の品格の高さは他の画家と一線を画すものですね。



虫の音 伊東深水筆 その5
絹本着色絹装軸 軸先象牙 太巻共箱二重箱
全体サイズ:横630*縦1350 画サイズ:横470*縦440



草花を描いた作品は、お値段が手頃ということもあり、美人画よりも花を描いた作品のほうが当方では美人画よりも作品数が多くなっています。



独特の筆致で描かれています。



伊東深水は草花を描いた作品には賛や句を添えることが多いようです。



いい作品を飾ると他の作品はどうでもよくなるとい怖さが蒐集にはありますね。



そういう作品は表具もそれなりの作品が多いようです。



「虫乃音を □□て嬉しき 庭づたい」という俳句の添えられた伊東深水の佳作だと思います。

 

共箱付であり、落款から晩年の作か?

 

当方には伊東深水の花を描いた作品は他に下記の作品があります。

今朝の晴れ 伊東深水筆
絹本着色絹装軸 軸先象牙 太巻共箱二重箱
画サイズ:横557*縦410



太巻で保存されている作品です。



花 伊東深水筆
紙本淡彩額装 270*400

本作品は画帖から外した作品とのこと。落款から同じ画帖から外したと思わ、昭和14年(1939年)4月9日京都大球院にて42歳のときに描かれたものと思われるが詳細は不明です。



清元小唄と花 伊東深水筆
紙本淡彩額装 タトウ 
画サイズ:縦270*横400

「花」と同時に入手した作品です。

賛にある「清元」とは清元節のことで、浄瑠璃節の一派。延寿太夫を祖とし、文化(1804年~1818年)頃に始まる。曲節は大衆的です。

賛は「清元小唄 桟橋や船は屋根ぶね 佃節 是非に御見とかいた文 まだ後舟の日和下駄 うれしい首尾の仲町で 一声聞いたき時鳥(きつつき)」とあります。

*佃節とは下座音楽の1つで、隅田川や深川付近の場面に、歌とともに船のさわぎに用いられました。



菖蒲図(カレンダー原画) 伊東深水筆 
紙本水墨軸装 伊藤竹香堂京表具 軸先象牙 合箱二重箱
全体サイズ:横393*縦1200. 画サイズ:横236*縦262



陶磁器への絵付けでは下記の作品を所蔵しています。

秋花絵付湯呑 伊東深水筆
共箱
口径96*胴径*高台径57*高さ119



下記の作品は資金調達のために売却処分した作品です。

素描花 伊東深水筆
紙本淡彩 額装 濱田台児シール 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:300*290



多方面からのいろんな作品から情報を仕入れていますが、まだまだ・・・ 

今まで基本的に日曜日を除く毎日作品を投稿してきましたが、来週からは不定期の「心の赴くまま」の投稿とさせていただきます。そろそろ投稿する作品の数が少なくなってきたことと原稿作成のための時間が思うようにとれなくなったことに起因します。読まれている方には申し訳ありませんが、不定期ながら時間の許す限りでご付き合いください。

達磨図 その2 下村観山筆 その4 

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先週末は「鬼滅の刃」の映画へ・・・。最近の民放のドラマは「24時・・」、「科捜研」、「相棒」とマンネリ化と暴力的で面白くなく、NHK製作ドラマより数段劣るものばかり・・。アニメにも完全に負けているかも・・。



さて本日は下村観山が描いた「達磨 その2」(「達磨 その1」は投稿済)の作品です。下村観山が描いた「達磨」については当方に父方の祖父の代から「共箱」のみあります。母になぜ「共箱」だけ存在するのかを尋ねたところ「祖父の長男(つまり父の兄)が、よく蔵から箱をそのままにして中身の掛け軸だけを売りはらって遊興代金にしたことがあったので、その箱だけ別の作品保管用に遺したのではないか?」とのことでした。つまり中身を売り払い、箱のみを遺して売り払った事実がばれるのを防いだということか・・。



よって当方には箱のみ(上記写真:左)、「その1」(合箱 上記写真:左)、「その2」(上記写真:中央)と作品があることになります。

共箱の箱書きは下記のとおりです。箱のみ(下記写真:左)、「その2」(下記写真:右)ですが、両方とも時代に差こそあれ、真作の共箱です。

 

下村観山の「達磨図」には一種独特の迫力がありますね。



本日は「達磨図 その2 下村観山筆」の紹介です。 



達磨図 その2 下村観山筆 その4
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱二重箱 
全体サイズ:横561*縦2130 画サイズ:横542*縦1280

 

達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされていますが、これは彼の「壁観」を誤解してできた伝説であると言う説もあるようです。「壁観」は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」の意味です。

これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されているもので、このことから達磨が面壁九年の座禅によって手足が腐ってしまったという伝説が起こり、玩具としてのだるまができたそうです。これは縁起物として現在も親しまれていますね。



永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされますが、一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたともいう。



箱書はしっかりしています。この時点で真作と判断できますね。

 

落款と印章の照合では前に投稿している「達磨図 その1」は落款がほぼ同じ、ただし印章が違う印章を用いているため、真贋不詳と現時点では判断した作品ですが、本作品「達磨図 その2」は印章が一致し、落款や出来から真作と断定できる作品です。

 

参考にした作品は「苦行」という作品で、思文閣墨蹟資料目録「和の美」第456号 作品NO27に掲載されています。価格は45万円・・。本作品の入手金額は2万円・・。今はこの程度の値段かもしれませんが、いずれにしても贋作が多い下村観山の作品です。審美眼だけが頼りですね。


松ニ鷹図 平福穂庵筆 明治11年(1878年)

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息子は英会話の塾へ・・・・、家内が作った洋装でバットマン~~。



現在では我が郷里出身の画家である平福穂庵が描いた出来の良い真作を入手することは困難です。早く亡くなっていることから出来の良い作品数がもともと少ないこと、作品が大切に保管されていることが稀であることや贋作も多く存在することもその一因にあげられます。

当方では平福父子(平福穂庵・百穂)の作品を蒐集対象にしていますが、おそらくインターネットオークションがなかったら現在では平福穂庵の作品蒐集は不可能であったでしょう。地元の骨董店でも作品にお目にかかること少なくなり、あっても出来の良い作品はとんでもなく高いものになっています。



本日の作品は席画のよう描かれたと推測され、それほどの力作ではありませんが、平福穂庵の特徴が良く出たよい作品だと思いますので投稿します。

松ニ鷹図 平福穂庵筆 明治11年(1878年)
紙本水墨軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:横554*縦2090 画サイズ:横414*縦1165
*分類第2期:職業画家をめざして(明治1年~10年)



前述のように本日の作品は力作ではありませんが、穂庵としては出来の良い作品でしょう。



落款には「明治戌寅(明治11年 1878年)初冬恭?祝 一之朝惟?節 穂庵冩 押印」とあり、この賛から明治11年の年賀?に描かれたのではないかと推定されます。分類としては第2期から第3期にかけての作品であり、文献にある分類第2期である「職業画家をめざして(明治1年~10年)」に分類しておきます。

*平福穂庵の作品はその落款と印章からある程度の制作時期は推定できますが、年季の記載のある作品は貴重ですね。



参考にした作品は、思文閣墨蹟資料目録 第427号 作品NO72「白梅文鳥図」であり、同時期に描かれた作品と推定され、印章と同印、白文朱二重方印「穂庵」(朱文白方印「平芸画印」)が押印されています。

また落款の「庵」の最後のハネが極端に上がり返っていることから落款書体のこの時期の特徴がうかがえます。また平福穂庵にしては珍しい画題の作品です。

*印章は白文朱方二重印「穂庵」でしょうが、外の輪郭部分は欠如しています。



本作品は現在、天地交換の修理依頼をしていますが、本紙は改装された跡があり、作品本紙自体に多少のシミが発生しているものの現状の状態のままで保存できる状態であり、痛んでいる天地交換の処置のみを選択しています。



全体的には四条派的な作風ですが、鷹の部分は平福穂庵らしい独特の描き方です。



ほんのちょっとした淡彩の使い方が絵全体を引き締めています。



このような画題、描き方は当時流行していたのでしょうか?



当方では同じような題材の作品を幾つか投稿していますが、その代表的な作品が下記の作品です。

松鷹之図 狩野芳崖筆
紙本水墨淡彩絹装上表具 本多天城鑑定箱 布装カバー二重箱 軸先本象牙
全体サイズ:縦2300*横760 画サイズ:縦1282*横612



上記作品は狩野芳崖が絵師として職した島津家関係に伝わったとされる作品で、この構図で「鶴」を最初描いたら、あまりのみ鶴が弱々しいので、同図に「鷹」を描く要望があったので「白鷹」を描いたとされます。本作品は祖父の代から当方に伝来している作品です。



この作品はおそらく幕末・・。同時期の明治10年頃に描いた平福穂庵の作品には下記の作品があります。

参考作品 思文閣 墨蹟資料目録第427号 作品NO72
白梅文鳥図 平福穂庵筆
紙本着色絹装軸 平福百穂鑑定箱 二重箱入 
全体サイズ:縦2350*横670 作品サイズ:縦1330*横520
販売価格 200万円



天才と称された平福穂庵の絶妙の筆使いの逸品ですが、さすがに200万円は高いですね。

*本作品のように平福穂庵の作品に子息である平福百穂が鑑定している作品はあります。当方でも何点か紹介したように思います。



ところで本日の作品の入手値段は一万円、これはさすがに安すぎかな?



ともかく目利き勝負の骨董世界であることには相違なく・・、バットマン~~


横顔(小:仮題) 伊勢正義画 制作年不詳 その19

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小生の衣服のボタンがとれると、その取り付けは息子の役目になっているようです。



さて郷里出身の画家である伊勢正義が女性を描いた作品は品格があっていいものです。本日はF0号という小さな作品の紹介です。



横顔(小:仮題) 伊勢正義画 制作年不詳 その19
油彩額装 誂タトウ+黄袋
F0号 額サイズ:横270*縦310 画サイズ:横140*縦180



製作年代は基本的に不詳ですが、サインと出来から昭和35年頃と推定しています。



伊勢正義の女性を描いた作品は市場ではほとんど見かけなくなりました。



板に描かれ、手の持つと実に小さな作品であることが実感できます。



さてどこに飾ろうかな? 今はとりあえず展示室に飾っています。たとえ小さな作品でも品格のある作品はいい・・。人もかくありたい・・・。



額は裏面などを補修しています。



ガラスの清掃、紐の直しや固定のがたつきなど額装もそれなりのメンテは必要です。


再検証 平福百穂の怪しき作品群 

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4200日以上、作品数2500以上、本日の投稿まで日曜などの休日を除く毎日投稿してきた本ブログは、来週からは気の向くままの不定期な投稿になりますので、ご了解ください。

一昨日は月見・・・。



月見をするには段取りが要る・・。





さて本日は平福百穂の作品整理についてです。わが郷里出身の平福百穂の作品は真贋、模写とくに印刷か否かの判断が非常に難しいです。紛らわしい作品を贋作や模写、印刷と決めるのはかなりの決断が要ります。それらを真作とするのは売買しないかぎり罪はないのですが、真作を贋作と決めつけるのは逆に大いに罪深いことだからです。



それゆえ「贋作だよ。」と所蔵者以外の他人が判断するようなことは当方では慎んでいます。このことを認識しているのとしていないのでは、作品に向かい合う姿勢が大きく違うことになります。作品の真贋は通常考えているよりもっと奥の深いもののようです。

今回は今一度、一度は贋作や模写、印刷と分類した平福百穂の作品を見直しています。本ブログでは一度は印刷や贋作として紹介している作品です。

まずは「淡彩松図 平福百穂筆  大正10年頃」の作品です。

淡彩松図 平福百穂筆  大正10年頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 平福一郎鑑定二重箱 
全体サイズ:縦1370*横705 画サイズ:縦*横



真作ならかなり出来の良い平福百穂の作品となります。描いている生地が特殊ですが、古来より羽織の裏地にするために描いた作品が多いのでこのような生地に描くことには違和感はありません。



落款と印章は間違いなく本物です。



問題は印刷か否か、そして平福一郎の鑑定が本物かどうかが焦点ですね。印刷ドットは見られませんが、最終的に印刷かどうかは正直には素人ではまったく判断できません。ドットが見られる、滲みで解るような幼稚な印刷は簡単に見分けられるものです。

印刷作品に対する考察は下記のとおりです。

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印刷作品

精巧な作品は写真やスキャンした画像では判別できない。「滲み」や「色」からは素人での判別はまず無理であろう
印刷作品の特徴は

1.紙本の作品なら表面がつるつるしている

2.印刷の作品の場合はドットが目視できる場合がある。これはことに書の作品に多い。ドットが確認できる場合は印刷の可能性が高い。

3.著名な画家の作品には印刷作品が多い。現在ではほとんどが値段はつかない。

印刷や手彩色の工藝作品は印章にて区別している場合が多い。いわゆる「工藝印」だが、真印を使用している作品も少なくない。さらにプロでも「工藝印」のある作品を肉筆を思い込んでいる人がいます。

*贋作や模写に騙されるより、印刷を入手するほうが筋がいいといいます。作品自体は本物だからのようです。

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当方では正直なところ真作(肉筆)に近いが確証は得られないということです。平福一郎の鑑定箱書きの書体は真ですが、印章が確認できていません。今回の再検証では、捨て置かないで遺すことにした作品です。

 

次は「癸酉山水図 平福百穂筆 昭和8年」という作品です。この作品は入手時に印刷と決め込んでいた作品です。



癸酉山水図 平福百穂筆 昭和8年
紙本水墨 絹装軸 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横680*縦1360 画サイズ:横480*横400



こちらの作品は合箱ですので、共箱や鑑定箱はありませんので、作品自体のみからの判断となります。こちらの作品も落款と印章は真です。やはり印刷か否かが焦点となります。



「紙本の作品なら表面がつるつるしている」という点から一度は印刷と判断しましたが、再表具の跡があり、どうも印刷決めにくい点が幾つかありました。

癸酉は昭和8年のことで、この年の10月に平福百穂が亡くなっており、亡くなる直前の夏に描かれた作品となります。脳溢血で急死していますので、この時期に描かれた可能性は高い作品です。この点からはたとえ印刷でも遺しておく価値はあります。

次は「墨松老幹 平福百穂筆 大正11年(1922年)頃」の作品です。



墨松老幹 平福百穂筆 大正11年(1922年)頃 
絹本水墨軸装 軸先骨 合箱(所蔵印有) 
全体サイズ:縦1220*横425 画サイズ:縦*横



所蔵印のある箱に収納されていますが、共箱や鑑定箱ではありません。焦点はやはり印刷か否かでしょう。



印章は横幅が短いようです。これは絹本生地に押印した縮みの関係があるのかもしれないので、一概にこれで贋作とは断定できません。横に写真を伸ばすと真印に一致します。



描いている生地が粗い絹本で特殊ですが、古来より羽織の裏地にするために描いた作品が多いので違和感はありません。どうみても肉筆・・・・???  やはり印刷か否かは素人では難しい・・・・。

肉筆の作品については、ほどんどの作品についてその真贋は筆致、落款、印章でけりがつきます。ネットオークションのある作品は99%はこれらで除外されます。

ただ下記の2作品のように微妙な作品はときして判断に迷うものです。

色紙 葡萄図 平福百穂筆 大正6年(1917年)頃 贋作 
紙本水墨淡彩 色紙 布タトウ  
画サイズ:縦270*横240



高級感のあるしっかりとしたタトウに収められ、出来も印章もそれなりにいいのですが、印影に違いがあります。

 

荒磯 平福百穂筆 大正15年(1926年)頃 真贋不詳
絹本水墨淡彩 絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横663*縦2340 画サイズ:横1380*横511

 

画風は平福百穂にかなり近いですが、残念ながら印影が違うものです。最初の作品とよく比べないと解らないくらいの出来です。箱書きも書体、印影は見違えるほどよくできています。

 

平福百穂に限らず贋作と判断された作品は屋根裏に収納しておき、いずれ処分します。だいぶ貯まってきており、置く場所に苦労しています

蒐集家は真作が半分あれば、さらにそのうちに画家一人につき気に入った作品がひとつあればいいといいます。だいぶ贅沢な話ですがこれは意外に真実のようです。

大津絵 その19 女虚無僧 その2   

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現在、展覧会が東京ステーションギャラリーで「もうひとつの江戸絵画 大津絵」と題されて9月19日(土)から11月8日(日)まで開催されており、当方にも家内の友人からチケットが届ていていますが、未だに時間の都合がとれずに行けていません。今週末にでも行こうかと思っています。



その展覧会の案内には「これまで大津絵の展覧会は、博物館や資料館で開催されることが多く、美術館で開かれたことはほとんどありませんでした。それは大津絵が、主として歴史資料、民俗資料として扱われてきたからですが、本展では、大津絵を美術としてとらえ直し、狩野派でも琳派でもなく、若冲など奇想の系譜や浮世絵でもない、もうひとつの江戸絵画としての大津絵の魅力に迫ります。

大津絵は江戸時代初期より、東海道の宿場大津周辺で量産された手軽な土産物でした。わかりやすく面白みのある絵柄が特徴で、全国に広まりましたが、安価な実用品として扱われたためか、現在残されている数は多くありません。

近代になり、街道の名物土産としての使命を終えた大津絵は、多くの文化人たちを惹きつけるようになります。文人画家の富岡鉄斎、洋画家の浅井忠、民藝運動の創始者である柳宗悦など、当代きっての審美眼の持主たちが、おもに古い大津絵の価値を認め、所蔵したのです。こうした傾向は太平洋戦争後も続き、洋画家の小絲源太郎や染色家の芹沢銈介らが多くの大津絵を収集しました。

本展は、こうした近代日本の名だたる目利きたちによる旧蔵歴が明らかな、いわば名品ぞろいの大津絵約150点をご覧いただこうというものです。」と記されています。観に行くの楽しみですね。



そういえば男の隠れ家にあった掛け軸に古いぼろぼろの版画のような作品がありました。どうしようもなく痛んでいた作品は破棄したのですが、極力作品を遺すようにして何点の作品は額装にして飾って祀っています。

上記写真では左から「庚申様」、「天神様」、「不動明王」・・、写真にはありませんが、白隠禅師のような書(肉筆)まであります。これらの版画類はいつからあるのかは知りませんが、明治期にこのような版画はあちこちで売っていたのではないのでしょうか? 大津絵との関連性は不明です。

当方では展覧会に出品されているような立派な作品ではありませんし、本日紹介する作品もそれほど古い作品ではないでしょう。大津絵には贋作もあるそうですが、大津絵については製作時期、真贋は当方は一向にお構いなし・・。

大津絵 その19 女虚無僧 その2   
紙本着色軸装 軸先陶製 合箱 
全体サイズ:縦1500*横340  画サイズ:縦700*横240

 

顔を完全に隠した虚無僧の図ですが、その華奢な指先や少しだけ覗かせる足先から美人画とわかります。春画のようなジャンルには決して筆を染めなかった大津絵ですが、美人画自体は非常に多種多様に渡って存在し、中にはこういった一風変わった絵もあります。



「藤娘」、「太夫」その他の大津絵には女姿の美しい数々の画題があります。「虚無僧」は元来、普化宗の行脚僧で、深編笠をかぶり尺八を吹いて布施を乞う僧を指します。ところがいつしかこれにならって、いつしか女が身を隠して町々に色を売ることが行なわれたと見え、これを画題にしたのが「女虚無僧」であると云われています。この図はごく古い文献には現われてきませんが、遺品から推すると古い風俗画の一図として描かれた事は、残る優品で明らかです。



江戸初期から現代まで描き継がれている定番の図柄です。尺八を吹く姿から、「芸事上達のお守り」として飾られる方もおられるようです。ただ「女が身を隠して町々に色を売ることが行なわれた」ことを題材にしていたので人気はいまひとつであったのかみしれません。

本作品はそれほど古い作品ではありませんが、表具は新装されて気持ちのよいほどにきちんとされています。



ところでそもそも虚無僧とはなんなのでしょうか?  下記の記述が参考になれば幸いです。

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虚無僧(こむそう):禅宗の一派である普化宗の僧のこと。普化宗は中国(唐)の普化を祖とし、日本には臨済宗の僧心地覚心が中国に渡り、普化の法系の張参に竹管吹簫の奥義を受け、張参の弟子「宝伏」ら4人の居士を伴い、建長6年(1254年)に帰国し紀伊由良の興国寺に普化庵を設けて住まわせたことに始まる。古くは、「こもそう(薦僧)」ということが多く、もと坐臥用のこもを腰に巻いていたところからという。

虚無僧は「僧」と称していながら剃髪しない半僧半俗の存在である。この宗派は尺八を吹くことで悟りを得ることを目指し、武家の出でなければ入門できません。尺八を吹き喜捨を請いながら諸国を行脚修行した有髪の僧とされており、多く小袖に袈裟を掛け、深編笠をかぶり刀を帯した。はじめは普通の編笠をかぶり、白衣を着ていたが、江戸時代になると徳川幕府によって以下のように規定された。

托鉢の際には藍色または鼠色の無紋の服に、
男帯を前に結び、
腰に袋にいれた予備の尺八をつける。
首には袋を、背中には袈裟を掛け、
頭には「天蓋」と呼ばれる深編笠をかぶる。
足には5枚重ねの草履を履き、手に尺八を持つ。
旅行時には藍色の綿服、脚袢、甲掛、わらじ履きとされた。



浮世絵でも女虚無僧は題材とされています。

勝川春章画 女虚無僧



鈴木春信画 女虚無僧



なお、よく時代劇で用いられる「明暗」と書かれた偈箱(げばこ)は、明治末頃から見受けられるようになったもので、虚無僧の姿を真似た門付芸人が用いたものである(因みに「明暗」に宗教的な意味合いはなく、「私は明暗寺(みょうあんじ)の所属である」という程度の意味である)。江戸時代には、皇室の裏紋である円に五三の桐の紋が入っており、「明暗」などと書かれてはいなかった。江戸期においても偽の虚無僧が横行していたが、偽虚無僧も皇室の裏紋を用いていたようである。

慶長19年(1614年)に成立したという『慶長掟書』(けいちょうじょうしょ)には「武者修行の宗門と心得て全国を自由に往来することが徳川家康により許された。」との記述があるが、原本は徳川幕府や普化宗本山である一月寺、鈴法寺にも存在しないため、偽書ではないかと疑問視されている。ただ慶長掟書に、「宗門の者の帯刀を許す。同じく武者修行、敵討ちのための旅行を許す。天蓋は誰の前でもとらなくともよい。幕府からの不逞者などの探索の要請があった場合は協力する...」といった項目があり、還俗するのも比較的容易であったので、武士が身を隠す、敵討ちの旅に出るなどの際の格好の隠れ蓑となったともされる。罪を犯した武士が普化宗の僧となれば、刑をまぬがれ保護されたことから、江戸時代中期以降には、遊蕩無頼の徒が虚無僧姿になって横行するようになり、幕府は虚無僧を規制するようになった。

明治4年(1871年)、明治政府は幕府との関係が深い普化宗を廃止する太政官布告を出し、虚無僧は僧侶の資格を失い、民籍に編入されたが、明治21年(1888年)に京都東福寺の塔頭の一つ善慧院を明暗寺として明暗教会が設立されて虚無僧行脚が復活した。

自宅に訪れた虚無僧への喜捨を断わるときには「手の内ご無用」と言って断わるが、これは歌舞伎からきている。歌舞伎のセリフに「虚無僧の尺八か、ただしまた、こう振り上げた刀の手の内か(お布施は出さないから虚無僧の尺八は無用だと言っているのか、または娘を斬ろうと振り上げた刀の手並みが無用、斬らずともよいと言っているのか)」というものがあることからのようです。

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この作品入手後に調べたら、当方の所蔵作品の中に他の大津絵での「女虚無僧」の作品がありました。たいした作品でないと収納したままになっていたようです。重複して入手することとなり、反省・・・。

左が「その1」、右が「その2」ですが、まったく同じ時期に同じ版木で作ったようです。

*大津絵は輪郭線は版画です。



他の所蔵作品解説                   
大津絵 その17 女虚無僧 その1 
紙本着色軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横330*縦1530 画サイズ:横245*縦700

 

この女虚無僧の作品は江戸末期から明治期にかけてのわりと新しい作品群と推察しています。本当の古い大津絵はまず市場には滅多にでてきません。江戸期の大津絵最盛期の作品は実は意外に高値で取引され、とくに初期の仏画は数が少なく非常に高価です。

冒頭の写真にあります男の隠れ家に額装にて飾られたような作品群もおそらくどんどん少なくなっています。もともと囲炉裏のあった神棚や仏壇に飾られていたので、現状遺っている作品も強烈に痛んでいる作品が殆どでしょう。

古い作品例は文献に掲載されています。

お気に入りの作品 婦人像 伊東深水筆

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週末の土曜日は息子はプログラミングの教室へ・・。そのためか日曜日は大津絵の展覧会に出かけるつもりが家でお休みの予定でしがが、教室は一時間で終了し、内容も思いのほか簡単だったようです。そこで家内の段取りで急遽近場へドライブ・・。



小生は日曜日は骨董品の整理のつもりでしたが、ブログの投稿記事を慌ててまとめる必要もなくなり、さらには義母も一緒に出かけるというので、一人で昼食も寂しいし、留守番は心細いと皆で出かけることにしました。もちろん運転は小生・・・



湖畔の公園の芝上でのんびり・・。「パパ、シーツの上では靴を脱いでよ。」、「今日は一緒に来てくれてありがとう。」などを会話・・

 

飾って鑑賞するためには作品の大きさが各種要るものです。小さ目の作品ばかりでも困るし、大きい作品ばかりでも困るものです。骨董品には質と量、そして大きさのバランスが大切ですね。

所蔵作品を整理していくなかで取捨選択していますが、当方する日にちは不定期になりますが、これからはお気に入りの作品を中心にして投稿しようと考えています。



婦人像 伊東深水筆
東京美術倶楽部鑑定書付 紙本水彩額装 共シール 誂タトウ+黄袋
P15号 全体サイズ:横680*縦820 画サイズ:横507*縦665



本作品は岩絵の具ではなく、伊東深水にしては珍しい水彩にて描かれた本格的な作品です。本妻の好子をモデルに大作を数多く発表していますので、本作品も「本妻の好子をモデル」にした作品ではないかと思われます。本妻の好子は相当に美人だったようですが、残念ながら若い頃の写真は見当たりません。

本人には色々な画題を描きたいという願望がありましたが、美人画への反響があまりにも大きく、他の作品の注文が全く来なかったといいます。これには深水自身も、画家として戸惑いを見せていたそうです。



*伊東深水は多くの女性たちと噂になったといいますが、伊東深水の娘さんである朝丘雪路は芸者であった亭「勝田」女将の勝田麻起子の娘です。妾腹(非嫡出子)ではありましたが父の伊東深水に溺愛され、モデルにもなっています。

朝丘雪路に対する愛情は他の者へのそれを遥かに超えており、周りから「このままでは娘さんがだめになる」と注意を受けたほどでした。例えば、小学校への通学に人力車を用意し、下校時間まで教養係と車屋を学校で待たせていたそう。さらには、傘を開くことさえ、指が怪我してはいけないからという理由でやらせてもらえなかったほどです。そのため、娘は一般常識すら分からぬまま育ち、女優・朝丘雪路として有名になった現在でも、切符の購入さえ一人では出来ないそうです。度を超えた愛情は時に狂気とも受け取られますが、朝丘雪路本人は「父親が間違ったことをするはずがない」と、特に疑問に思わなかったそうです。女性らに対する愛情が作品に溢れ出ているのでしょう。

そういう点では当方の息子へも接し方は、少なくても義母と家内はスパルタ的ですね。小生は怒ると怖いらしい・・

 

作品の裏には多聞堂の共シールが付いています。このようなシールは痛んできますので透明なフィルムで保護する必要があります。本作品はシールが剥げてきていますので、直そうと思っています。この仕事も専門家に頼んだ方がいいでしょう。

 

気が付くと東京美術倶楽部の鑑定書が付いていました。おっとこれは無くさないほうがいいでしょう。

 

本ブログにて紹介した同様な作品には下記の作品があります。両作品が同一人物のモデルのようの思われます。下記の作品は版画にもなっていますが、当方ではその原画という判断です。

爽涼 伊東深水筆
絹本着色額装 浜田台児鑑定シール タトウ+誂黄袋
全体サイズ:横830*縦735 画サイズ:横600*縦500



岩絵の具の作品に対しては過剰なまで神経質で、埃などから守るためにカバーに気を使ったようですが、この作品は水彩にて勢いよく描かれているある意味で特異な作品です。当方ではこのような作品は嫌いではありません。というか本作品は型通りの美人画とは違い小生のお気に入り・・、ところが家内は「わざわざ買うほどのものではない。」という感想・・ 見解の相違というやつ。



入手金額は30万ほど、高いのか安いのかは小生には皆目見当がつきません。安っぽい段ボールタトウは総布貼、黄袋付きにします。額の作品で黄袋は意外に重要ですね。作品を出し入れする際には必需品です。



本作品の手前は家内の実家の物置にあった江戸時代の机と訳の分からないお気に入りの壺・・・。

磁州窯? 白地鉄絵兎文壺
13世紀~14世紀? 誂箱
口径178*胴幅270*高さ270



壺の関しても家内いわく「なんだかわけのわからない作品が増えたわね~」だと・・。



わけがわかろうとわかるまいと、真作であろうとなかろうと、そして誰が何と言おうとお気に入りはお気に入り、そしてこれが今の小生の感性の実力、上記作品の鉄絵の人物がごとく頑固なり・・  

お気に入りの作品 臥乕之図 大橋翠石筆 

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本日の作品は遺すべき作品かどうか迷いぬいた挙句に遺すことにした作品です。



臥乕之図 大橋翠石筆 
絹本着色軸装 軸先本象牙 自署鑑定共箱 
全体サイズ:横640*縦2140 画サイズ:横490*縦1246

 

印章にとらわれ過ぎて危うく贋作に分類してしまいそうになった作品です。印影の比較は完全ではありません。朱肉がつまったり、印影が薄くなると印を直したりしますので、あくまでも作品本体で作品の良し悪しを判断する癖をつけるようにしています。



私のような怠け者はこのような作品が好きですね。当方で所蔵する「正面之乕」とともに大橋翆石の作品でのお気に入りの作品のひとつになっています。大橋翆石のいかにも虎でございの作品はあまた多くあり、当方でも数点を所蔵していますが、それはそれでいい作品ですがどうも動物園のポスターのよう・・・。

本ブログで何度か紹介している大橋翆石の「正面之虎」の作品は下記の作品(部分)です。本作品は展覧会への出品の話があったのですが、コロナで流れてしまいました。

この作品は養蜂業を営む支援者が病弱な大橋翆石に滋養のための蜂蜜を提供したという渡辺某氏が絡んだ作品でもあります。(大橋翆石研究者より 大学准教授 今年の岐阜における展覧会開催担当)

正面之虎 大橋翠石筆 明治40年代(1907年)頃
絹本着色軸装収納箱二重箱 所蔵箱書 軸先本象牙 
全体サイズ:横552*縦2070 画サイズ:横410*縦1205
分類A.青年期から初期 :1910年(明治43年)夏まで  ~46歳



冒頭の作品である「臥乕之図」のおける落款の「翠石」が二文字とも同じ大きさであり、大橋翠石の製作時代の区分によると
B.中間期における第1期:1910年(明治43年)~1922年(大正11年)46歳~58歳
       から第2期:1922年(大正11年)~1940年(昭和15年)58歳~66歳かけての頃の作と推定されます。

  

画風(1期)では墨で縞を描くのは変わらりませんいが、地肌に黄色と金で毛書きをし、腹の部分は胡粉で白い毛書きがしてあるという特徴があります。全体には黄色っぽく見えて、背景は少ないものです。

*本作品は大正元年、須磨に移住した頃で、この頃の一時期に初期とはまた別に「翆石生」と落款に「生」の一文字が入っています。病気(病弱)をしてブランクがあったことによるのかもしれません。短い期間のみの落款です。

なお箱書には「旧作」とされており、時間を経た大正期の後半のものと思われます。

なおインターネットオークション上に同時期に描かれたと思われる「乳乕図」という母虎(仰向け)と子虎がじゃれているところを描いた作品があり、ひと目で気に入り入手したかったのですが、入札金額が60万を超えたので諦めました・・。


資料的価値 感恩講図巻 平福百穂筆 明治38年(1905年)11月発刊

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今週は名古屋に日帰り出張でしたが、帰りの新幹線まで時間があったので敦井美術館を観てきました。楠部弥一の作品展を開催中でしたが、観ている時間が僅かでしたので所蔵作品の図録を購入してきました。日本画や堆朱などかなりレベルの高い所蔵作品には驚きました。



さて骨董の蒐集には美的観点からの蒐集意外に、稀にですが資料として重要な価値のある作品を入手することがあります。本日はそのような作品の作品の紹介です。

版画の作品ですが、当方で地元の画家として蒐集対象にしている平福百穂の作品です。

感恩講図巻 平福百穂筆 明治38年(1905年)11月発刊
紙本着色版画 図巻 14枚綴り 
サイズ:縦205*横270



資料には複数巻があるように記載されていますが、詳細は不明です。



概略
「感恩講図巻」(ALBUM DE L'ASSOCIATION "KAN-ON-KO~" (Association de Bienfaisance D'Akita)
印刷年時 :明治38.11.21
出版年時 :明治38.11.25
価格 :非売品
奥付・著者名 :加賀谷長兵衛 ※発行兼編輯者 感恩講年番
発行元 :感恩講
発行元所在地 :秋田市本町六丁目三十三番地
印刷者 :竹村虎太郎
印刷所 :紅葉堂
印刷所所在地 :秋田市室町三番地

平福百穂による感恩講に関する事柄の画が主体で、版画には彩色、空刷りなどの技法を用いています。



平福百穂の描いたのは明治36年(1903年)秋となり、26歳の時です。発刊されたのは明治38年(1905年)11月25日です。

 

平福百穂のこの当時の略歴

1894年(明治27年)に上京し、四条派の第一人者川端玉章の内弟子となり、1897年(明治30年)に川端塾の先輩だった結城素明の勧めにより東京美術学校に入学しています。1899年(明治32年)に卒業後、翌1900年(明治33年)に素明らと无声会を結成、日本美術院のロマン主義的歴史画とは対照的な自然主義的写生画を目指しいてました。まだまだ新進気鋭の画家の一人であったであろうと思われます。

一方で1903年(明治36年)頃からは伊藤左千夫と親しくなりアララギ派の歌人としても活動し、歌集「寒竹」を残す。島木赤彦は百穂の絵画頒布会を開催することで、「アララギ」の経営を助けました。また、秋田蘭画の紹介にも努めることにもなります。

本作品発刊の背景と概略

日露戦争終了の年、1905(明治38)年11月に平福百穂の筆になる『感恩講図巻』がフランス語と英語の説明も加えて、木版で部分的にカラー版画で出版されています。対象を海外を含めての「感恩講」の活動内容の説明が目的でしょうが、どのような状況で発刊されたかは不明です。



この図説ではまず、1837(天保8)年当時の感恩講の創始者である祐生の座像が紹介され、ついで、講田収穀、窮状審査、鰥(こん)夫孤孫(やもめの男と孤児である孫)、貧婦臥病、困苦生活、済飢給米、禦冬施炭、賑物運搬、防寒贈衣、頒餅式場といった活動内容を台とした絵が描かれています。こうした表題から当時の活動の様子をうかがうことができる資料的な価値があります。



*当時の秋田市内の地図も巻末にあります。



*酒田市立光丘文庫蔵に同様の作品があるようです。それは「本間光弥氏寄贈 大正十四年十二月二十日 裏見返し奥付:明治三十六年秋日 百穂写生 感恩講蔵版 救恤の講の活動を顕彰あるいは紹介するものか? 仏語英語のタイトルを各頁下段に付す。」とあるという記事がありました。

そもそも「感恩講」とは何ぞや?という疑問があると思いますが、記事がありましたので下記に記します。

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感恩講:1829年(文政12年)に久保田藩久保田町で発祥した有志らの寄付による備荒組織であり多くの窮民や孤児を救った慈善団体。日本におけるNPO活動の先駆け的存在にあたる。

久保田藩の御用達商人であった那波家は代々那波三郎右衛門を襲名し、転封以前の常陸国の時代から佐竹家とは縁が深い商家であった。この九代目那波三郎右衛門である那波祐生は、1819年(文政2年)に藩の絹方支配人に登用され、さらに那波家でも絹織業を興し低迷していた家業を立て直し、財を築くことに成功する。



この頃度重なる凶作と領民の飢餓に悩んでいた藩主佐竹義厚は貧民救済とその資金運用を民間に委託することができないかと考え、1827年(文政10年)にその計画を祐生に要請した。これを受けて祐生は「三郎右衛門は幼いころ困窮にあったため生涯を窮民の為に尽くしたい」と伝え自ら10年で400両の献金をすることを宣言した。



さらに後日にはこの400両を一括で献金し、この金で農地を購入しそこから得られた収入を、窮民救済をしながら飢饉や災害の年に備えて貯蓄をするという運用計画を提出した。さらに町人たちに働きかけて191名の加入者による金2000両銀10貫目を集め、これを財政基盤とした。藩は献金から230石の知行地を購入、1829年(文政12年)に講名を「感恩講」と名付け「花散里」の紋章を下賜し、感恩講の運営が始まった。



1830年(天保元年)には備蓄米を保存する蔵の建築を本町(現在の秋田市大町)で開始するが、その際にも町民たちは献金や資材などを寄付し、あるいは進んで労力奉仕をした。また藩も土地や資材を提供し、これによって翌年に当初の予算の半分で二棟の蔵が完成させることができ籾米の貯蔵が始まった。このとき感恩講を藩に寄付しようとする動きもあったが、町奉行江間郡兵衛の「上下の関係なく平等の立場で、町民相互が助け合い、守り合っていく形に」という助言があり、町民による財産管理と運営が改めて決められた。



この直後の1833年(天保4年)、天保の大飢饉がおこり東北地方では飢餓が蔓延した。発足間もない感恩講では祐生たちが藩からの支援も受けながらさらなる私財を投じて救済活動にあたり、2年間で延べ43万人に対して施米をし多くの人命を救い、衣類や薬代、葬式代を与えた。救恤対象地区では,餓死者は0人と記録さ れている。また同時期疫病(腸チフス)によって多くの孤児が発生したため感恩講は孤児を保護して里親を探し給付金を与えるなどの活動も行った。藩は感恩講の功績を讃え、今後も活動に励むようにと感恩講の知行地を歩合なしとすることを決めた。



1837年(天保8年)、祐生は最後まで救民活動に勤め感恩講が領内に広まることを願いながら66歳で没する。那波家の事業と感恩講は子の祐章に引継がれた。1830年(天保元年)に土崎で土崎感恩講が発足したのを皮切りにこの活動は藩内の各地に広まり、各地で町人や豪農が寄付金を出し合い、明治期までに秋田県内の感恩講の数は19箇所にも増えていった。各感恩講はその土地の地名を付けた名前になり、祐生が作り出した感恩講は「秋田感恩講」とも呼ばれる。



1873年(明治6年)の地租改正では感恩講の知行地は藩の財産とみなされ没収されてしまう。しかし新政府に事業について訴えることで数年後には明治政府から資金を得て新たな田地を購入して救済事業が無事継続された。秋田感恩講が救済した人員は、1909年(明治42年)の時点で403万人を超える。



感恩講は明治から大正にかけて皇族や役人などが視察に訪れるなど国にも高く評価され。また明治時代に帝国法律顧問だったボアソナードがその活動を賞賛するなど国際的にも画期的な組織として評価を受けた。非営利組織研究者であるジョンズ・ホプキンス大学のレスター・サラモンは日本最古の近代的な非営利組織として感恩講を挙げている。

*本作品が発刊されたのはこの評価を受けてではないかと推定されます。

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明治以降の感恩講は時代の変化に伴い各地で一般財団法人や社会福祉法人として児童保育園を設立し、児童福祉活動を展開するなどした。秋田市出身の体操選手にして金メダリストの遠藤幸雄は母親を亡くしたあと、秋田感恩講の施設で支援を受けたことから感謝の気持ちを忘れず、晩年まで感恩講への寄付を続けた。

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歴史
1772年(安永元年):那波祐生誕生
1827年(文政10年):祐生が藩に救民計画を伝える。
1829年(文政12年):感恩講の運営を開始。初の施米が実施される
1830年(天保元年):備蓄蔵の建設に着手
1833年(天保4年):天保の大飢饉で多数の窮民を救済する
1837年(天保8年):祐生66歳で死去
1873年(明治6年):地租改正で農地が没収される
1947年(昭和22年):農地改革により保有農地が解放される
1952年(昭和27年):秋田感恩講が社会福祉法人になる
1976年(昭和51年):感恩講街区公園に感恩講発祥之地碑が完成

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感恩講の農地は昭和の農地改革によって失われ、籾貯蔵倉庫も多くは取り壊されたが、そのうち3棟を地元秋田市大町の酒蔵である新政酒造が購入し、「新政酒造旧感恩講西籾蔵」「新政酒造旧感恩講東籾蔵及び米蔵」として国の登録有形文化財になっている。

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また隣接する土地は感恩講街区公園という名の公園になり、源氏香「花散里」をモチーフにした感恩講発祥之地碑が建てられている。これは初代藩主であった佐竹義宣が香道を好んだことから佐竹家の別紋として花散里を使用していたものを、感恩講設立の際に下賜したことに由来する。 この他にも県内各地に広がった感恩講の活動の記念碑などが残されている。

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平福百穂の生誕の地である角館では、明治18年角館町の有志が集まり、秋田感恩講那波氏を招き、角館感恩講の設立を協議したのが始まりです。那波氏は大いに賛助、尽力し、まもなく角館感恩講が設立された。さらに、明治31年、民法による財団法人となり、基盤の強化が図られた。運営の財源は出資金による公債二千八百円の利子が主たるもので、町内篤志家からの寄付金品とで約200円が年間経費に当てられた。当時としてはかなりの金額であった。

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部分を拡大すると平福百穂の確かな描写力には感心します。それと共に東北において日本におけるNPO活動の先駆け的存在があり、さらには多くの窮民や孤児を救った慈善事業には驚きを感じえませんね。



平福百穂の出身地の特産である角館樺細工に保管することにしました。

気軽に楽しめる作品 水墨瀬戸風景 藤井達吉筆

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息子と小生との最近の会話には「鬼滅の刃」の用語が飛び交っていますが、息子はズボンにベルトを回し刀を差すことに夢中のようです。とうとう着物を着たいと言い出しました。



気分は「善逸」のようです。

当然小生は鬼・・、とくに無残・・・、ともかく切れられ役。



家の中で飽き足らない息子はとうとう外へ。



買い物へ・・。二本差しのとはいかないまでも・・。小生の真剣の刀にはまだ興味がないらしい



さて蒐集作品を調べていくといつも幾つか不明な点にあたります。真贋はともかく箱書きや作品の題名など様々です。ともかく難解な作品が読みには多い藤井達吉の作品ですが、今回の作品は気軽に楽しめるものでありながら、題名など幾つか不明な点があります。

藤井達吉の水墨画などは本ブログでは何度も登場している作品であり、家内も好みの作品です。

水墨瀬石?→瀬戸風景 藤井達吉筆
紙本水墨軸装 軸先木製 栗木伎茶夫鑑定箱+タトウ
全体サイズ:縦1475*横342 画サイズ:縦640*横247

 

鑑定箱書は「栗木伎茶夫」です。箱書きなどから真筆に相違ありません。

  

栗木伎茶夫:陶芸家。明治41年(1908)生。藤井達吉に師事する。半世紀を超える陶歴で瀬戸陶芸界の長老と呼ばれ、土ものの赤絵の技法を用いた。文展・日展等入選多数。

箱書には「藤井達吉翁筆 水墨 瀬た?(石)風景」とありますが、「瀬た」なら「瀬田」で唐橋があるはず? 「た」は急に平仮名はおかしいので、実は「石」だとすると北海道の羅臼の「瀬石」ということか? 藤井達吉が北海道を訪れたという記録は今のところ見当たりません。

*本ブログへのコメントにあるように「瀬戸」らしい。ただしこの「瀬戸」は藤井達吉が四国巡礼に際して接した四国の瀬戸なのか、郷里に近い愛知県の瀬戸なのかは不明です。



作品中に押印されている印章も今までにない印章です。「月に花に山人?」・・???? 



この作品は藤井達吉の水墨作品でも秀逸な作品だと思います。



表具も粋ですね。こういう作品をさらりと床に飾られると「おっ」と思います。家の主のセンスの良さが際立つ作品ですね。



息子に刀で切られないようにしておく必要がありそうです。

平野庫太郎との思い出の作品 

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週末は息子と家内の自作のシャボン玉・・。



本を参考にして材料から作ったらしい。



途中からシャボン玉の中に入りたくなったらしい。ともかくただ買う者より自分で作ったものが面白いもののようです。



さて手桶花入の作品はもともと若い頃から欲しいと思っていました。特に*魯山人の作品が欲しいと思っていたわけではありませんが、有名な作品ゆえイメージは持っていたと思います。

*後日お気に入りの作品として魯山人の作品を紹介する予定です。

当然、若い頃は高嶺の花のような作品でしたので、それでは自分で作ってみようと平野庫太郎氏の保戸野窯にてチャレンジしたことがあります。



素人、もしくは陶芸の初心者の私がうまく作れるはずもなく、それでも四苦八苦で形まで作り上げたのですが窯入れに失敗・・。平野先生曰く窯に入れる際に自分が失敗したのだと責任を感じたようで、先生が小生が作った形をベースにあらたに形を作ってくれました。



形さえ作ればあとは釉薬の問題だけ・・。釉薬は伊羅保釉、ただ釉薬すら自分で掛けたという記憶がありません。



出来上がったのが写真の作品です。これはどうみても平野庫太郎氏が作ってもの。



今では亡くなった平野先生との思い出の作品となりました。



平野庫太郎氏は、その人柄といい、妥協を許さぬ陶芸への姿勢といい、尊敬すべき友人です。



この釉薬の掛け方はおそらく平野庫太郎氏によるものでしょう。形は先生らしからぬ作品ですが、鉋の跡、釉薬の掛け方などには熟練の技が要るのがよくわかりますね。

茶碗などもお値段の高いものは手が届かないので、それならと自分で何度も茶碗にも挑戦したものです。出来た時は我ながらいいと思っていましたが、しばらくすると割って毀したくなるものです。平野先生にそう話したら「いいから毀さずに持っていなさい。」と言われたことがありました。その理由を尋ねると「美的感覚は時間と共に変化するものだから・・・。」ということでした。



茶碗は数多くが見込みに穴を開けて母の植木鉢になりました。上記の一輪挿しもまた毀そうとした作品です。



皿を作るがごとく「たたら作り」で板状の粘土を組み合わせて作ったものです。窯割れも自分で補修・・。



ともかく素人の自由な発想でしたが、平野先生は材料も釉薬も自由に使わせてくれました。



自分で作ったのは週末の数時間でしたので、転勤族の小生には作りあげた作品は少なく、美的感覚は別として自作の作品を遺しておいてよかった思います。これらは平野先生との思い出の作品です。

ともかく自分で作るということは、少なくても作っている時は時間を忘れて没頭するのがいいものです。美術品は高いお金を出して買うだけのものでは決してないということです。ものはシャボン玉と同じ・・・壊れて消えた・・思い出は消えない。

転勤によって窯に通えなくなってからも平野先生とのおつきあいは最後まで続きました。先生の作品やら譲って頂いたもの、預かったものがたくさんありますが、さてどうしようかな。


お気に入りの作品 山水清音 不染鉄筆

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最近東京ステーションギャラリーで展覧会もあり、今人気の不染鉄の珍しい水墨画らしい水墨画です。



山水清音 不染鉄筆
和紙水墨軸装 軸先象牙 共箱太巻二重箱
全体サイズ:縦1765*横590 画サイズ:縦950*横450

本ブログに紹介したように一度染み抜きして再表具しています。



再表具では絞め直しを指示していたのですが、表具師の勘違いで全面的に再表具してしまい、既存の表具布で再表具し直しています。



不染鉄の本格的な水墨画は珍しいですね。



元の表具布が足りなかったのでしょう。四隅をデザインしながら長さを調整しています。



仕様がないのですが、このくらいは我慢かな?



手前は室町期の備前の壺、こちらも我ながら気に入っている作品です。収納する箱がなくて長い間展示室に展示したままでしたが、この度収納箱を誂えました。

敷台は自宅の庭にあったという欅の根を採っておいたもの。



日本画家の行きつくところは本格的な水墨画なのでしょう。

お気に入りの作品 ガレナ釉筒山羊文大皿 伝バーナード・リーチ作

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先週末の土曜日は息子の小学校の作品公開日・・。我が家の愛犬がモデルかな? よく特徴をとらえている・・??



絵の才能は遺伝・・・

さて本日投稿する作品であるバーナードリーチの「ガレナ釉筒山羊文大皿」とえいば、有名なのは日本民藝館蔵の1952年作の作品です。

参考作品  ガレナ釉筒山羊文大皿
日本民藝館蔵 1952年 セントアイヴス



日本の美術館でリーチの作品を沢山所蔵しているのは日本民藝館、大原美術館、大山崎山荘美らしいです。民藝館に常時展示してあるのはそう多くないようですが、大原美術館と大山崎山荘は結構あるからリーチ芸術を満喫できるとのことです。

そのような名品とな比べることはできない作品でしょうが、当方ではおそらくセントアイヴス窯で焼成されたとされる大皿が二作品あります。



ひとつの下記の作品は以前に本ブログで紹介されています。

ガレナ釉蛸文大皿 バーナード・リーチ作
口径485*高台径*高さ114



本日紹介する「ガレナ釉筒山羊文大皿」は初めての投稿となりますが、これらの2作品には共通点があります。

ガレナ釉筒山羊文大皿 バーナード・リーチ作
誂箱
口径458~463*高台径225*高さ124



*後方の額装の洋画はポールアイズピリの油彩画です。



絵付け、掛けられた釉薬共々同じものです。



大皿の轆轤成型、焼成は難しいのですが、同じ轆轤成型のものでしょう。



口縁のデザインの癖も同一です。



高台の作りも全く同じです。これらは無くて七癖のごとく、癖が出るものですが、当方の4作品ともほぼ同じ癖です。



釉薬の掛け方も同じでしょう。



ここからは「ガレナ釉蛸文大皿」の写真です。



口縁の鉋の当て方も同様な癖が見られます。



釉は同じでしょう。



大皿の高台の削も同じ・・。



違うのは胎土の色具合と刻銘でしょう。幾つかの種類があってこの判断は難しくなっています。刻銘でのみ判断するのは危険です。なお日本国内での制作した作品は「BL」印のみか書き銘が多く、一般的にセントアイヴスの窯作は「BL印」と「セントアイヴスの窯印」の組み合わせのようです。

 

ま~、バーナードリーチに詳しい方がどう判断するかは分かりませんが、両作品とも小生が気に入っている作品です。



気に入ってる作品のコラボは観ていて楽しくなります。



あとの大皿の2作品がありますが、こちらは少なくても国内で製作されたものでしょうが、こちらはこちらで違う共通点があります。いずれまた・・。

小生にとっては「どちらも?」大事な作品ですが、いずれにしろ巨匠の作品と息子の作品は比べるつもりは毛頭ありませんのでご了解ください。

お気に入りの作品 墨竹叭々鳥図 榊原紫峰筆

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今週の月曜日は息子の土曜日の代休日・・。登山に詳しい小生を除いた家族で登山に出掛けたらしい・・。



市内で一番高い山? 標高300メートル程度・・、小生が学生時代の登山と一桁違う・・ それでも息子は達成感に浸っているようでした。スマホで「おばあちゃんの面倒も見るんだよ!」と伝えたら「了解!!」だと・・。返事だけはいつもいい・・



後で聞いたら膝の悪い祖母の面倒をちゃんとみていたらしい。「おばあちゃん、ここ通りやすいよ!」とか・・。



無事に下山したようです。登山は下山のほうが危険、そしてトップが大切 

息子は12月末の誕生日には欲しいものがあるらしく、お手伝いやらの良き行いのポイントが5000ポイントまで貯まらないと買えない約束になっていて、今回の膝の悪い祖母の面倒をみた?ことに対しての「ポイント幾つ?」と早速連絡がありました。教育上いいのやら悪いのやら悩むところですが、本人は小生に言えずに祖母に言わせるあたりがかわいい・・・。



さて多少痛んだ作品でも気に入ったなら廉価で入手できるので食指が動きます。資金力のない当方としては好都合なのですが、修復するのにもそれなりに費用がかかるのでどちらが得かはその都度の購入金額によって様々です。



*手前は新垣栄三郎の赤絵壺です。

本日紹介する作品もまた軸先がなく、表具の折れなどの痛みもひどいのでさすがにこのままでは飾るに飾れない作品でした。しばらく放置していたのですが、整理の際に思い切って表具をし直しました。

*このような痛みの作品は当方に数多くあります

墨竹叭々鳥図 榊原紫峰筆
紙本水墨軸装 軸先木製 共箱+誂タトウ
全体サイズ:縦1450*横455 画サイズ:縦270*横235



共箱もあり、しっかりした作品です。手前は魯山人作の備前手持桶です。

 

大きさは色紙の大きさなので色紙に描かれた作品を表具したのかもしれません。



表具はほぼ表具師に任せています。



古くから水墨画の題材として描かれる「叭々鳥」を描いた作品ですが、本作品は梢に叭々鳥が止まり、羽を休める姿を描き、静寂な感じを水墨の濃淡のみで表すなど絶妙な筆致で描かれている作品です。



榊原紫峰の晩年は色彩を離れ、水墨画に独自の画境を築いていますが、小点の作品ながらその画趣を伝える佳作と言えるでしょう。榊原紫峰が描いた「叭々鳥」の作品は多くあるようです。

*手前は李朝花入。

当方には他に榊原紫峰が描いた「叭々鳥」については下記の作品もあります。

孟宗叭々鳥之図 榊原紫峰筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1950*横560 画サイズ:縦1390*横420

 

本日の作品より若い頃の作品だと思われます。ところで息子の登山した山にはまず叭々鳥はいなかったでしょう。

*ただ「日本でも輸入され、籠抜けした個体が目撃され」ているという記録や台湾からの「迷い鳥」ということもありうるそうです。基本的には中国、アジア南部に生息するムクドリの仲間ですね。日本では中国古画に多く描かれていることから古くから画題にされています。若冲も探幽もしかりですが、その表情がおもしろいことも画題に取り上げられる理由のひとつでしょう。



どちらの作品が好みかは意見の分かれるところでしょうが、本日の作品のような小点の作品は茶室などの床に飾って置くと愉しいですね。作品には各々飾るにふさわしい場というものがあるようです。額装の絵などを壁に所狭しとばかりにたくさん飾る方がいますが、閉口してしまいますね。作品を飾るのは少ないほうがいい・・・・

そういえばテレビドラマの「相棒」で立派な座敷に似つかわしくない掛け軸が飾られていましたね。NHKでは決してしない不用意な小道具・・・。そういえばドラマの内容もNHKに比べて民放は数段劣っていると感じるのは小生だけではないでしょう。



お気に入りの作品 備前手桶花入 魯山人作

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北大路魯山人の作品は今でも人気の的のようです。椿文の鉢、備前手桶花入、信楽の壺などが代表作でしょうが、その代表的な作品のひとつは古信楽の壺を模した作品があり、実際に古信楽の壺を石膏で型を取り作っているのは有名な話です。その作品の佳作を当方では所蔵しており、本ブログにも何度か投稿されています。

信楽灰被桧垣紋壺 北大路魯山人作
火土火土美房より購入品 共箱
高さ300*胴径235*口径135*底径135



*「信楽灰被桧垣紋壺」の作品は思文閣を通して黒田陶々庵にて見てもらっており、真作であり肩にロの字があります。

本日はもうひとつの代表作と言える「備前手桶花入」の作品を紹介します。



備前手桶花入 魯山人作
荒川豊蔵鑑定箱
全体サイズ:幅220*胴径約170*桶深158*高さ284



外箱を作ろうかとも思いましたが、余計なコストをかけるより風呂敷が似合う



佳作と言えるこの作品の価値をさらに高めているのはその箱書きです。

 

箱書きには「昭和甲寅春 斗出庵識」とあり、1974年(昭和49年)の春に荒川豊蔵(80歳)による箱書きされている作品です。昭和49年の新聞が養生紙として入っています。



魯山人の手桶花入というと「京都国立近代美術館所蔵:備前手桶花入」、「世田谷美術館所蔵:織部手桶花入」、「有名飲食店所蔵:絵瀬戸手桶花入」と上げられますがいずれもが名品中の名品でしょう。



この作品はそれらに比してもそれらを超える作品であり、備前の発色が魯山人先生の理想といえるものであろうと思います。本作品は魯山人の代表作ともいえる作品と判断しています。



もはやこれを超える魯山人の作品は市場には見当たらないといっても過言ではないでしょう。これぞという作品に汗水たらして貯めた資金を投入することができるか否かが蒐集するものの胆力が試されるとき・・。



最近、茶室の床に飾って愉しんでしたら家内が「子供が大勢で遊びに来ているので仕舞ってください。」だと・・・



作品は愉しめや楽しめ・・・



さてまた仕舞い込むか・・。



最近はあらためて「お気に入りの作品」と題してリメイクの原稿を投稿していますが、意外にお気に入りの作品が多いことに気が付きました。欲深いものです・・・

お気に入りの画家 中野山浅絳山水図 その2 蓑虫山人筆 

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2017年にインターネットオークションにてまくりの状態にて約2万円で落札した作品です。入手先は郷里の付近からです。本ブログでかなりの数の蓑虫山人の作品を紹介してきましたが、今ではインターネットオークションや郷里の骨董店でも作品は見かけなくなりました。作品の入手困難な画家の一人でしょう。

中野山浅絳山水図 その2 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装 軸先陶製 誂箱+タトウ 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横310*縦980

 

作品に押印されている印章は当方の資料と一致します。同時に他に「虎図」もまくりの状態での入手しています。

蓑虫山人の名の由来:放浪の絵師として知られる蓑虫山人、本名は土岐源吾。虫の蓑虫が家を背負うように折りたたみ式の幌(テントのようなもの)を背負い、嘉永2年(1849)14歳のときに郷里を出て以来、幕末から明治期の48年間にわたって全国を放浪し、その足跡は全国各地に残されている。その姿から蓑虫山人と称せられている。
ある野宿の夜、梢にぶら下がる蓑虫を見た源吾(蓑虫山人)は、虫ですらキチンとした家を持っているのに人間の自分がこんな状態なのはまったく情けない。と、ひらめき、工夫を凝らして折りたたみ式のテントを兼ねた笈を自作することとなった。これさえあれば宿に困ることがない。それどころかどこでも好きなところに居を構えることができるというものだ。家を背負った放浪の絵師、“蓑虫山人”の誕生である。蓑虫には出身地である“美濃”もかかっているのは言うまでもないことかもしれないが、漂泊の先達である松尾芭蕉が、門人の服部土芳の庵につけた“蓑虫庵”も頭の片隅にはあっただろうと想像する。自身が芭蕉の弟子であるかのような気分に蓑虫は浸っていたのかもしれない。



西郷隆盛救出:晩年、蓑虫は名古屋で甥の光孝に昔を振り返りこう語っていたという。「あの西郷南洲(西郷隆盛)と月照和尚が、薩摩の海に船を浮かべ、相抱き合い入水自殺をしたときに、その船に乗り合わせ、両人を救助した寺男の重助と伝えられておるのは、実はこの俺であった」と・・・。

月照の薩摩入りに同行し、西郷と月照が入水した屋形船にも同船していた平野国臣は、蓑虫と旧知の間柄といわれている。月照と平野国臣が薩摩に向かっている時期に、その動線上でもある肥後熊本に蓑虫が滞在していたことは、不退寺に残された絵日記で確認されている。月照は罪人として幕府に追われている存在で、薩摩入りは危険の伴う隠密行動だったことを考えると、志士でもなく政治活動とは関係のない寺男の重助を連れていくだろうかという疑問も浮かぶ。

これは想像の話だが、蓑虫は平野国臣と知らぬ仲ではない志士、しかも藩や家柄に縛られていない自由な存在。14歳からの旅で鍛えられた蓑虫はこのとき23歳、少し変わり者だがこの危険な道中にうってつけの人物だったのではないだろうか。

西郷はこの事件の後、仲間の手引きもあり、月照とともに死んだこととして奄美大島に3年間身を隠すこととなる。実はそのときに西郷の使っていた変名が「菊池源吾」という。菊池は西郷の出身の村のルーツの名前、そして源吾は蓑虫の本名だ。ほかにこの名前を使う理由も見当たらず漢字も同じ。これを偶然と片づけるのは少し無理があるのではないかと思う。たとえ蓑虫が重助でなかったとしても、この道中のどこかでか、西郷の活動のどこかで、西郷と蓑虫はつながり、その使われていない「源吾」を西郷はいっとき拝借したのではないのだろうか



遮光土器の発見:明治20年の蓑虫山人は亀ヶ岡遺跡を二度目の発掘をしている。発掘の様子を蓑虫は手紙で送り、それが明治20年6月に発行された東京人類学会誌第2巻16号に掲載されている。この寄稿は日本の考古学の中でも実はものすごく重要な文なので、ここで原文を(少し読みやすくして)紹介しておく。

「陸奥瓶岡(亀ヶ岡)ニテ未曾有ノ発見——四月上旬、西津軽郡瓶岡において古今無双の珍物を発見いたし申候。当日迂生自身(自分のこと)鍬をとり土人(原文ママ)とともに労力をかけ、土中一尺ばかりを掘り出したところ忽然と瓶十個、石剣五本、曲玉四個、人形一対、玉質磐石(磐石の意味不明、翡翠の大珠のことか)及び菅玉無数を封したる壺一個を発見せり(中略)、人形は男女二人を模したる者にして、一個は乳を具し胸に角玉様のものを飾り頭後に結髪せり、一個は冠を被り左右の腕に大礼服に似たる模様を彫り、想うに古代首長を模擬したる者か、兎に角無類に御座候。
古物発見に付き三日間を費やし土人の騒動一方ならず、迂生は種々説法を聴かし曲玉四顆、磐石一、石剣若干を手に入れたり但し人形は毀損したる分を購ひ申候。この珍物を毀損せしは掘得たる際土人等所有権を争ひ一場の争闘を起し罵声の声と共に数個に砕け申候。此人形一対考古学者にとりて無上の佳品と存じ候。瓶及人形(完全なる者)は非常の高値にて迂生等の及ぶ所にあらず(中略)図は後便に託し差上申す可く候」(中略・一部( )書きは筆者による)

数個に砕け申候——最後のくだりはいかにも蓑虫らしい話ではある。そもそも亀ヶ岡遺跡は掘ると瀬戸物が出ることから、瓶ヶ岡、などと呼ばれ、戦国時代から地元では有名な場所であったのだが、この蓑虫の寄稿が亀ヶ岡遺跡を中央に紹介したはじめての文となる。この寄稿から2年後には初の学術調査、さらに明治28年と29年にはもっと大規模な調査が行われたことを考えれば、この遺跡が縄文晩期を代表する文化の名前になるほど有名になったのは、蓑虫山人の功績といってもいいだろう。



遮光器土偶の中でも最も有名な片足の遮光器土偶(右ページ、東京国立博物館、この土偶も亀ヶ岡遺跡出土)のスケッチが残されている。そのスケッチにはこう書かれている。「大ノ人形図、西津軽郡舘岡村加藤氏ノ蔵、堀得タル時ハ明治二十年四月ナリト云」。蓑虫の発掘した時期とこの土偶の発掘された時期はほとんど一致している。まさか蓑虫が人類学会誌に投稿した2体の土偶のうちのひとつがこの遮光器土偶なのか?

蓑虫山人の研究をしている方はこう言う。「そのまさかの可能性はあると思っています。実はかねてから一部ではそうささやかれていたことではあるのですが……、ただこれ以上のことはわかっていないのです」

当時の亀ヶ岡の様子がどんなものだったのかははっきりとはわからない。しかし、ひと月に何度も発掘されたりするような賑わいがあったとはとても思えない。可能性のひとつであっても、有力なひとつに違いない。

もしあの土偶を蓑虫山人が掘ったのであればこれは驚くような発見だ。片足の遮光器土偶はあれだけの優品かつ縄文時代全体の象徴的な存在であるのにいまだに国宝ではない。そういう点では現在国宝に指定されている5体の土偶の後塵を拝していることになる。その理由として発掘時の状況がよくわかっていないということがこの土偶には挙げられているのだろう。蓑虫山人のいかんともし難い胡散臭さが邪魔をしている可能性もあるのだが。

調べれば調べるほど面白い人物・・・???

気になる画家 芙蓉双鴨之図 菊田伊徳筆

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先週は庭に植木屋さんが来られて、3日間で庭木を剪定されていきました。ところが敷地境にある柚子の木はそのまま・・・。柚子の木には棘があり、また剪定しすぎると枯れてしまうので植木屋さんには厄介なしろもの。そこで自分でまずは道路側に実が落ちないようない切り取りました。



本日は仙台に出張ですが、本日の作品は仙台の画家である菊田伊徳の作品のリメイク記事です。ちょっと改装したので取り上げましたが、菊田伊徳という画家をご存知の方はかなりの日本画通でしょう。それほどマイナーな画家です。

芙蓉双鴨之図 菊田伊徳筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1900*横500 画サイズ:縦1000*横360



菊田伊徳は仙台藩のお抱え絵師(1785~1851)代表作は「駱駝図」(仙台市博物館蔵)、「維摩居士図」(福福島美術館蔵)があるようです。

 

天明5年生まれであり、仙台藩御用絵師です。名は栄茂、通称は伊徳。清静と号したそうです。木挽町狩野家伊川院栄信の門人で、菊田栄羽の二男・栄行の子と思われます。仙台四大画家のひとりである菊田伊洲と同時代の人で、十二代藩主斎邦、十三代藩主慶邦の時代には御用絵師が菊田家から2人出ていたと思われ、嘉永4年、66歳で死去しています。



姻戚関係には前述の菊田 伊洲(きくた いしゅう、寛政3年(1791年) ~ 嘉永5年12月1日(1853年1月10日))がおり、江戸時代後期に活躍した狩野派の絵師です。 仙台藩御用絵師を勤めた近世の仙台を代表する絵師の一人で、小池曲江、菅井梅関、東東洋らと共に仙台四大画家の一人に数えられる画家です。菊田伊洲を知っている方は多いかもしれませんね。



菊田家は、代々江戸幕府奥絵師を勤める木挽町狩野家に弟子入りする慣わしだったため、菊田伊洲は14歳で時の当主・狩野栄信に入門しており、その同門に6歳年長の従兄弟で、共に仙台画壇を賑わした菊田伊徳がいました。



菊田伊洲や小池曲江の作品は本ブログではまだ投稿されていませんが、菅井梅関、東東洋については複数の作品が本ブログで紹介されています。



当方は仙台に勤務していた期間が長いので、第二の故郷のように思っています。そこで仙台出身の画家にも興味があるのですが、菊田伊徳についてはあまりにもマイナーなので当方でもしばらくは知りませんでした。



本作品は出来の良さで購入し、菊田伊徳を知ることになりました。ただ本作品はながらく床の間にでも飾れていたのでしょう。あまりにも天地が痛んでいたのでこの度改修しました。



掛け軸は長い間飾って置くことは厳禁です。飾るには長くてもひと月くらいで作品を変えていくのが原則ですね。







老松図 その2 平福百穂筆 大正年間

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九州、四国、広島と日帰りで出張が続き 先週の最後はは仙台へ・・。さすがに札幌は取りやめましたが、どうも平常時に近い状態に乗り物は混んできています。細心のコロナ予防を心がける必要がありそうです。

平福百穂が松を描いた作品は本ブログで幾点になったのだろうか? 工藝品の疑いのあるものまで含めると5点は超えているのは確かでしょう。観る作品を増やしていくと自然にこちらも観る眼が肥えてっくるものです。本作品は共箱も無く打ち捨てられているようなお値段で入手したものですが、当方では肉筆で真作と判断できる作品と思っています。

老松図 その2 平福百穂筆 大正年間
紙本水墨淡彩軸装 軸先 誂箱
全体サイズ:横420*縦1900 画サイズ:横328*縦1275

 

おそらく依頼されて席画のように運筆がはやく描かれた作品でしょう。



思い切った筆の運びと滲みが作品により一層の深みを持たせています。



改装したのかも知れませんし、あまりの筆の運びと水分の多さかで紙が破けた後もあります。



下部には板のような下地のもとで描いていないせいで、段差と跡があります。このようなことは贋作ではないことでしょう。



印影には多少違いはあるように感じられますが、許容範囲ですね。印影にこだわりすぎる方が多いですが、あくまでも作品の出来の本質で見抜かないといけないと思います。印影の頼りすぎる人は決して眼力のある方ではないと当方では考えています。

さてこの表具・・、なんとも安っぽい。いかにすべきや・・・・

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