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青緑秋冬山水図双幅 その1 秋図 真野暁亭筆 

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まだ一人では立って歩けない息子とお買い物・・、日曜大工の店で骨董の修理用の材料を買いに・・。のんびりとゆっくりと歩きます。親子は足が短いゆえに??  

人生は「対」というものが常に大切。



「真野暁亭」という画家を知っている人はわりと多いと思いますが、かの河鍋暁斎の弟子として認識している人がほとんどのように思います。河鍋暁斎とは画風がかなり違いますので、弟子であることは事実ですが、絵の内容についてはまったく違うと思っていいでしょう。

青緑秋冬山水図双幅 真野暁亭筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1820*横336  画サイズ:縦1064*横241



この作品の愉しみはなんといっても双幅を並べての構図と色彩の対比でしょうね




双幅の山水画ですが、本日は「秋図」です。「秋図」、「冬図」ともに賛があります。

「秋図 「遊印押印 両岸楓林黄□□ 一渓□□舞秋風 写千碧雲楼仲 暁亭 押印」→「遊印押印 両岸楓林黄□□ 一渓落葉舞秋風 写千碧雲楼仲 暁亭 押印」というコメントあり(2015年5月18日)




青緑山水画ですね。



共箱仕立てです。



遊印があります。



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真野 暁亭(まの きょうてい、):明治7年(1874年)2月11日~昭和9年(1934年)8月10日)は、明治時代の浮世絵師、日本画家。河鍋暁斎及び久保田米僊の門人。ただし、暁斎死後に米僊に入門したというのは飯島虚心『河鍋暁斎翁伝』が出典であるが、真野家の資料や伝承にその事実は見られない。姓は真野、名は八十五郎。父の真野暁柳(八十吉)も暁斎の弟子。日本画家の真野松司は長男、真野満は次男である。江戸川橋に生まれる。江戸時代より実家は質屋をしていた。



暁斎画塾での修行時代:幼少時から絵を好み、明治17年(1884年)3月、10歳で父に連れられ暁斎に入門。暁斎に入門して暫く後、暁亭は暁斎の内弟子となり、河鍋家に寝泊りしていたといわれる。『河鍋暁斎絵日記』の明治17年8月14日の絵に、河鍋暁翠らとともに枕を並べている様子も描かれている。狩野派の技法を修め、山水画、人物画を能くした。明治20年(1887年)から明治22年(1889年)頃には、暁亭15歳ほどにして、辻暁夢や浪野東助や鹿嶋清兵衛、和田維四郎の書画会に暁斎、暁翠と一緒に出席、一回あたり「20銭」という画料を得るほどになっていた。明治22年4月、暁亭15歳の時に師暁斎が亡くなった後も、河鍋暁雲・暁翠・土屋暁春ら先輩が内国勧業博覧会や日本美術展覧会で活躍するのとは対照的に、絵画修行に励む。明治26年(1893年)には京阪方面へ旅行し、西方寺(茨木市)や九品寺、月照寺などに参拝、スケッチを残している。暁亭は終業熱心で、鹿嶋清兵衛は「暁亭は勉強家なり」と評している。



美術展覧会への出品活動:明治27年(1894年)の日本青年絵画協会第3回絵画共進会に「虎図」を出品し三等褒状を受賞する。明治34年(1901年)11月の絵画研究会に「塔図」を出品、三等賞銅印を得ている。翌明治35年(1902年)4月には「布袋図」を出品し、褒状一等を受賞した。また、明治34年の美術展覧会に、自らの出品ではなかったが藤井祐敬という人が出品した暁亭の「謡曲百萬図」が二等銀賞を受賞している。また、日月会、大東絵画協会、巽画会会員になっている。明治40年(1907年)、東京勧業博覧会に「愛児」を出品、三等賞牌受賞。文展開設では正派同志会(旧派)結成に評議員として参加した。この後の約20年間は何故か美術展覧会の出品を控えているが、昭和3年(1928年)から昭和8年(1933年)にかけて計5回の美術展覧会にも5点の屏風ものと1点の軸装と思われる作品を出品、そのうち2回入賞を果たしている。昭和4年(1929年)の第81回美術展覧会の時、「杉」6曲1双屏風が三等賞銅牌を、昭和6年(1931年)の第87回美術展覧会の時、「猿」6曲1双が同じく三等賞を受賞している。暁亭は昭和6年に日本美術協会の会員となっていた。



暁亭の遊歴:暁亭は前述のように20歳の時に京阪へ旅行した他、30歳以降晩年まで、北は青森から西は京都、大正時代には朝鮮、中国にも旅行している。特に東北地方は縁が深い。明治38年(1905年)岩手県盛岡で催された四条派の絵師藤島静邨の画会に特別参加し、当地に長逗留したため、盛岡には多くの作品が残っているという。青森県五所川原市の太宰治記念館 「斜陽館」には来歴不明の「四季図襖絵」8面が所蔵され、福島県河沼郡柳津町の円蔵寺山門にある二枚の龍図天井画も暁亭の筆である。東北地方にはまだ多くの作品が眠っていると見られる。



暁亭も暁斎同様に無類の酒好きであったとみられ、昭和8年に栃木県日光市の金谷旅館に泊まりこみ、輪王寺の襖絵を描いていたが、体調を崩してしまい、翌昭和9年に東京へ戻り、8月11日に食道癌で没した。享年61。なお、暁亭も絵日記をつけていたといわれる。墓所は文京区関口の大泉寺。法名は天徳院真誉暁亭居士。門人に山本暁邦がいる。
暁亭の次女が日光山輪王寺の末寺である足尾宝蔵寺に嫁いだ関係もあり、栃木県とはゆかりの深い日本画家である。2001年小杉放庵記念日光美術館で、「河鍋暁斎と門人たちー真野暁亭を中心に」と題する展覧会が開かれたが、今後詳細な調査研究がなされれば、師暁斎に近い評価を受けるに足る本格派の画家であると思われる。

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東北に縁の画家で、小生の叔父も下記の作品を所蔵していました。



叔父が亡くなってから子息が手放されたようです。いい出来の作品でしたのでいつか機会があれば入手したい作品です。



「竹林七賢人」についてはまた後日・・。



河鍋暁斎とは趣の違う作品でありながら、非常に魅力的な作品を描く画家ということがお分かりいただけたらと思います。河鍋暁斎との共通項は「師暁斎に近い評価を受けるに足る本格派の画家であると思われる。」点と「無類の酒好き」・・・



青緑秋冬山水図双幅 その2 「冬図」 真野暁亭筆

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掛け軸の楽しみには双幅や三幅対、さらには四幅対というものもあります。そのような作品をすでに幾つか紹介しましたが、また機会がありましたら投稿したいと思います。いずれにしても日本画はさらには屏風などの多くの視覚的に多様な鑑賞、創作の楽しみ方を持っている世界に類を見ない芸術ジャンルです。

青緑秋冬山水図双幅 その2 「冬図」 真野暁亭筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1820*横336  画サイズ:縦1064*横241



通常は墨だけで描く冬景色の彩色を効かせるという点も卓越しています。真野暁亭・・・もっと評価されるべき画家の一人であることは間違いないようです。水墨山水の極致は冬景色にあるといっても過言ではないでしょうね。双幅でも単幅でも愉しめる作品です。



墨の世界でもっとも魅力的な作品のひとつは雪景色であろう。山水画でもっとも人気のある範疇です。「冬」だけの山水画を蒐集するのも非常に魅力的です。



いつ頃の作品かは浅学ゆえに後学とします。



賛の読みは・・・??

冬図 「遊印押印 山近朔風吹積雪 天寒落日□孤村 写千碧雲楼仲 暁亭 押印」・・判読中・・・???



下記のような作品も真野暁亭は描いています。



真野暁亭・・・もっと評価されるべき画家の一人であることは間違いないようです。



私の役目は都合できるちょっとした時間と資金で過去のものを整理しながら伝えることだけ・・。



休日は久しぶりでレストランで食事。

贋作考 伊万里赤絵山水染付紋様尺皿

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古伊万里は恐ろしき分野となっているようです。当方では「普段使いとしての器」としての扱いですが、藍九谷や蛸唐草などコレクターにとっては高値で売買されている作品群です。普段使いの器が希少価値という作品に化けると怖い見本のような分野です。

伊万里赤絵山水染付紋様尺皿
合箱 
口径310*高台径*高さ40



本作品は伊万里の幕末頃から明治にかけての赤絵の尺皿と推察します。本作品が贋作ということではありません。



赤、緑、黄、紫、青のガラス質の透明上絵具で上絵付けをされており、中国の影響を受け、日本では天保年間(1644~1648)に柿右衛門が取り入れた様式に端を発しています。



幕末から明治にかけては伊万里焼も大量生産の時代となり、製作も緻密さより生産性を重んじて印判手やプリントといったものに移っていったようです。



本作品もまた窓絵のバランスなど細かい点は乱雑になっています。



本作品を古伊万里というには時代が下がった作品なので「古」という冠称は省略しました。この頃の器のほうが古伊万里よりも魅力的になってきていると感じるのは小生だけでしょうか?



ところで近年、古伊万里に中国を中心とした贋作が横行していることをご存知でしょうか?



中国はコピー商品ならなんでもござれの世界ですが、かなり精巧にできているようで素人では見分けできないようです。

当方では古伊万里は蒐集対象外ですが、これは贋作が多いことにも起因しています。

藍染付、初期伊万里、鍋島、柿右衛門様式となんにでも精巧な贋作ありの分野ですね。

普段使いの器が高い値段で売買されるようになったために起きた現象ですが、何事も需要と供給のバランスが崩れると脱法的なことや違法行為、仁義を省みない行為が横行するのは世の常ですね。

当方の伊万里焼にも混在している可能性があり、再チェックする必要がありそうです。疑わしきは破壊あるのみ・・。

むろん日本人が加担しているのでしょうが、古伊万里という日本古来の陶磁器に贋作を大量に持ち込んだ中国は油断できない国です。中国には道徳という観念がないのでどうしようもないです。ともかく古伊万里の分野は当分手を出さないほうがいいでしょう。

贋作により古伊万里という分野が侵食されて衰退していく事例です。掛け軸もほぼ同じことが起きました。浮世絵も同じですが、自然淘汰されるまではかなりの時間を要するようです。

かえって幕末から明治にかけての器のほうが面白い・・、ここにも贋作があるかもしれません。本作品は薄汚いので洗ってみました。



とくに裏面は綺麗になりました。



洗った古さがなくなるのでやめたほうがいいという方がいますが、それは違うと思います。



大きさが不均一な窓絵、なにを書いているのやらという稚拙さが実によく、明末赤絵に通じるものがあります。



蓬莱山・・??



とにもかくにも古伊万里の代表格で高値の藍九谷、柿右衛門様式、初期伊万里、鍋島、古九谷様式には要注意です。悪貨は良貨を駆逐する・・。

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悪貨は良貨を駆逐する
【読み】 あっかはりょうかをくちくする
【意味】 悪貨は良貨を駆逐するとは、一つの社会で名目上の価値が等しく、実質上の価値が異なる貨幣が同時に流通すると、良貨はしまい込まれて市場から姿を消し、悪貨だけが流通するという「グレシャムの法則」のこと。転じて、悪がはびこると善が滅びるというたとえにも使われる。

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中国の観光客がやたらと日本を駆逐しているようですが、その理由のひとつに日本の品は信用できる? 贋作はない? ということらしいです。

中国には染まらないことが大切・・・・。古伊万里・古鍋島の世界はまさにそのもののようです。昨日のなんでも鑑定団の官窯の贋作も然り・・、官窯は見分けできない。




羽根突き少女図 河崎蘭香筆

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本ブログはほぼ5年以上続いていることとなりました。家内からの勧めではじめてから1300点を超える作品を紹介してきました。我ながらよく続いていると思います。おかげさまでほぼ整理が出来てきております。拙文なこともありブログの内容が難しいという方がおられたら誠に申し訳ありませんが、当ブログは当方の個人的整理ボックスですのでご了解願います。また文章も拙い部分は取り急ぎでの整理中の文章もありますのでご容赦願います。残り少ない蒐集作品ですが、いま少しは続けられるかと思います。

さて本日は37歳で無くなった女流画家の作品ですが、非常に興味深い画家の一人です。

少女図 河崎蘭香筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1750*横505 画サイズ:縦1075*横410



本ブログでお馴染みの寺崎廣業を師とする女流画家です。



結ばれぬ恋のお相手の金森徳次郎は日本国憲法の生みの親です。国会審議にあたって、金森が、天皇を「国民憧れの象徴」と説明したことが、「象徴天皇」を中心とする新たな皇室のありかたを規定することになったことは有名な話ですね。新憲法誕生の産みの親として「憲法大臣」といわれています。



金森徳次郎は河崎蘭香が亡くなった後、蘭香の弟子の晴蘭と結婚しています。インターネット上の検索でその生涯を詳しく知ることができます。

寺崎廣業の弟子で、新憲法の生みの親と結ばれぬ恋人、・・ここまでくると入手に食指を動かすには十分な動機のある画家の一人ですね。



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河崎 蘭香:明治・大正期の日本画家 。生年明治15(1882)年11月9日~没年大正7(1918)年3月13日。出生地愛媛県西宇和郡八幡浜。本名河崎 菊子 旧姓(旧名)神山 別名通称=きく。経歴父・奨、母・郁の子として愛媛に生まれる。32年京都に出て、菊池芳文に師事し四条派を学び、36年上京して寺崎広業に師事する。絵画共進会などで入選を重ね、40年東京勧業博覧会で「冷美」が3等賞碑を受賞、第1回文展に「夕雲」が入選する。以後、文展に「姉妹」「たわむれ」「歌のぬし」「夏の夕」が入選、大正3年第8回文展に「広間へ」が褒状、4年第9回文展に「霜月十五日」が3等賞を受賞する。巽画会会員。美人画・花鳥画を得意とした。



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本日は内容は簡単にしましたが、この画家は以外に人気のある画家です。

この画家や金森徳次郎などは機会が時間があったら調べてみるといいでしょう。

達磨画賛 狩野探信画 小堀宗中賛

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聖人は聖人にしか解らないものらしい。凡人は凡人にしか、変人は変人にしか・・・・。



あまりの急な暑さのため玄関の板の間でごろ寝の二人・・。

さて本日の作品はお茶の稽古のときに掛けてもいいし、お世話になった方に贈り物としてもいいもの・・。はてその意図は・・。

達磨画賛 狩野探信画 小堀宗中賛
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1680*横230 画サイズ:縦800*横210

小堀宗中と狩野派のコラボは狩野探道のほかに狩野勝川院(文政6年2月14日(1823年3月26日) ~ 明治12年(1879年)8月8日))の作品などが伝わっています。狩野勝川院は狩野芳崖や橋本雅邦の師として名高いことは本ブログにて作品共々で紹介されています。

小堀宗中は井伊直弼の信を得たばかりでなく多くの大名・商人に茶風が慕われ、遠州流中興の祖と言われています。

また狩野探信は鍛冶橋狩野家の名手と言われています。狩野探信は狩野探幽の子息と同名であり、そのことも本ブログにて作品共々紹介されています

本ブログの内容についての多くが各々リンクしていることに投稿している当方でも改めて気がついて驚くことばかりです。



達磨が描かれた上に下記の賛がされています。



賛は「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」と詠むようです。

この作品の画賛は「何を描いて、どのような賛をしているのか」については下記の説話を知っている必要があります。

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画賛について

聖徳太子飢人説話

皇太子が斑鳩の岡本の宮に居られたとき、外出され片岡村にさしかかると、道端に毛深い「かたゐ」(とくにライ病を得て追放放浪の乞食)が病気で臥せっていました。太子はそれに気付かれて輿から下り、しばらく語り問われて、やがてお召しになっていた衣を脱いで病人におかけになり、そのまま行幸(みゆき)を続けられました。

帰り路、かたゐは消えあの衣だけがが木の枝にかかっていました。太子はこれを取ってお召しになりました。お付の家来が「賎しいひとにふれ穢れた衣を、何のご不自由があってか、お召しになるのですか」と尋ねましたが、太子は「言わぬが良い、汝にはわかるまい」とおっしゃっただけでした。

しばらくして、かたゐが他の場所で亡くなりました。お聞きになった太子は人を遣(や)り殯(もがり)して、岡本村法林寺の東北(うしとら)のすみの守部山に墓を作って、入木(あるいは八木)墓と名づけられました。後に使いの人に見させたところ、墓の入り口は開いていないのに入れたはずの人はなく、ただ和歌がかかれて入り口に立ててありました。

その歌というのは
「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」
(いかるがの富の小川の流れが絶えてしまうようなことがあれば、皇太子のお名も忘れられてしまうこともありましょう・・・が、わたくしはけっして皇太子のお名前は忘れません)

使いはこの旨報告したところ、太子は黙ったまま何もおっしゃいませんでした。お亡くなりになられました乞食が生き返り歌を残したのでした。実はこの乞食は聖人で、聖徳太子様にはそれが分かっておられたということです。

まことに、聖人は聖人を知る、凡人にはわからない;「凡夫の眼には賎しい人としか見えなかったのですが、聖人のものを見通す目には高貴な方の隠れ身、と見抜かれたということ」

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賛の意味はわかりましたが、「達磨」の絵との関連は・・・。



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聖徳太子飢人説話と達磨大師

聖徳太子伝説の一つに「片岡飢人説話=片岡尸解仙(しかいせん)説話」があります。もとになったのは、『日本書紀』(720年)の613(推古天皇21)年の記事です。「太子が遊行中に片岡で飢人に会います。太子は飲み物、食べ物、衣服を与えましたが、飢人は亡くなります。そのことを悲しみ墓をつくり埋葬しました。後日、その墓を確認すると、埋葬したはずの遺体はなくなり、棺の上に太子が与えた衣服が畳んで置かれていました。」

(上記に同じ説話)

ここでは、聖徳太子が飢人に姿になって現れた神仙(しんせん)を見抜くほどの力を持っていたことが強調されています。聖徳太子信仰の高まりととともにさまざまな伝承がつくられ、それに付加されていきます。この片岡飢人伝承も後世、この飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。

四天王寺僧敬明(教明)の『七代記』771(宝亀2)年の片岡飢人説話の注記に「彼飢者盖達磨歟」とあり、後世、「達磨歟」は「達磨也」となったと思われます。これは、6世紀中国の孝荘帝の時代にすでにあつた「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という説話が下敷きになったのかもしれません。
(このことは他の作品で本ブログでも記述しております)

もう一説は、奈良末期の『上宮太子伝』の注記にある太子が隋の南岳慧思の生まれ変わりという説から、慧思の生まれ変わりを奨めたのが達磨であったとする説などと結びついて達磨が登場することになったとも思われます。

聖徳太子の多くの伝承は様々なかたちで膨らみ、太子の死後約300年後の『聖徳太子伝暦』(917年ヵ)に集大成されます。この『伝暦』には飢人伝承は載っていますが、達磨の記述はなく、鎌倉前期1238年の「古今目録抄」(顕真)は、達磨和尚の名をあげています。なお、9世紀初期の『日本霊異記』(第四縁) の飢人伝承は、場所を三井の法輪寺東北の守部山とし、注記に神仙は文殊菩薩と記述しています。飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。

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「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という逸話は以前に本ブログで紹介しました。伝下村観山「達磨図」の内容を参考に強いてください

このような逸話を知っているといないとでは骨董の世界では大違い・・。この作品はこのような裏づけで製作され画賛されているものです。真贋ばかりで作品を見て、それ以上の世界に入り込めない人には理解できないでしょう。

もうひとつは狩野探信と小堀宗中の関連です。両者ともに廃れていた、もしくは廃れてきた伝統の有る家系を引き継いで盛り立ていかなければならないという宿命を背負った同志のようなものでした。

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狩野探信:江戸後期の画家。天明5年(1785年)~天保6年(1835年)。狩野守邦の長男。本名守道、字名は清夫。探信、別号に與斎と号する。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれる。江戸に鍛冶屋橋狩野派7代目として生まれる。狩野探牧守邦を師とする。同家7代目を襲名した後、文政11年に幕府奥絵師として出仕、幕府絵師として法眼に叙せられ、画風は大和絵の技法を好み狩野派的な作品は余りなかったといわれ、名手として世に聞こえた。享年51才。



小堀宗中:江戸後期の幕臣・茶人(遠州流八世。政峰の孫。六世政寿の子)。天明6年(1786年)~慶応3年(1867)。小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として近江の小室に生まれた。幼名は梅之助。 天明8年(1788)5月6日、小室領地が没収(小堀家が改易)されてからは、京都孤篷庵で育った。40年という長い浪々の身から、文政11年(1828年)に300俵小普請組の旗本として迎えられ、親族へ引き渡されていた遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来され本家を再興した。茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、多くの弟子を育てる。名は政優、通称を大膳、別号に和翁・大建庵。茶家小堀家中興と称された。門下には、橋本抱鶴、田中孝逸、渡辺玄敬、竹腰篷月、土方篷雨、川路善八、横井瓢翁、秩父宗波、田村尭中、赤塚宗観、和田晋兵衛など。尾張徳川家第12代・徳川斉荘に招かれて目利きを行い、その城代家老竹腰篷月に相伝するなど、大名旗本、公家などに幅広く茶道教授を行い遠州流中興と称せられる。茶器の鑑定に長じ、茶道を通じて狩野派(狩野三家)など芸術分野の人との交流も多く、合作で各種の作品を残している。慶応3年6月24日、82才の長寿を全うし、江戸屋敷で没した。



遠州流:武家茶道の代表とも言える流儀で、紹鴎・利休と発展した質素で内省的な「わび」「さび」の茶道に、織部を経て遠州独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風を特徴とする。織部を武家らしい華やかさとすれば、遠州は茶の湯の心を用いて自然な雅やかさを加えたものと言える。小堀遠州は羽柴秀長の家老を務めた小堀正次の子で名は正一といい、若い頃から古田織部のもとで茶の湯を学んだ。慶長9年(1604年)26歳のときに父正次が急死し、家督を継いで松山城を預かり、その後元和2年(1617年)に朱印状を得て大名となり2年後近江小室藩に移封される。遠州の通り名は慶長13年(1608年)駿府城修築の功績によって遠江守に任ぜられたことによるが、これ以外に後陽成院御所造営、名古屋城天守閣の修築、松山城の再建など、各地で建物の新造・修繕を務め建築家・造園家として名を馳せた。冷泉為満・為頼父子、木下長嘯子に和歌を学び、藤原定家風の書を身につける文人でもあった。茶人としては生涯で400回ほどの茶会を催し、茶入、茶碗、花入などを多く作製したほか、審美眼に優れ東山御物などから優品を選定しこれらは後に中興名物と呼ばれるようになる。利休・織部の茶風に桃山時代の気風を取り入れた「綺麗さび」と呼ばれる茶風に達し、3代将軍家光の茶道師範を務めた他、諸大名、公卿、僧侶などに茶道を指導した。

小堀家改易:5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人である。しかし7世正方は田沼意次のもとで大番頭や伏見奉行の要職を務めたが、伏見騒動によって天明8年(1788年)改易されることになる。ここに大名家としての小堀家は断絶することになった。
その後:10世宗有のとき、明治維新により士族となり、遠州流の茶道を広く一般に教授することになる。

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長々と資料を羅列した内容ですが、さて真贋云々よりも味が濃いものが、骨董の醍醐味としてご理解いただけれが幸いです。作品自体は真面目なもので、時代のあるきちんとした表具がされています。



本作品の入手金額は3000円也。本作品の真贋は? 野暮な質問はやめましょう。達磨と歌との関連を理解していないと本作品の内容は図りかねるものです。誰も買う人がいなかったらしいです。購入費用分以上に学ぶことが多い作品であることは間違いありません 

同じようなコラボの作品があることを知っておく必要もあります。

 参考作品
(中)夕立 (右)白鷺 (左)水入鵜 三幅対
狩野探信画 小堀宗中賛 思文閣墨蹟資料目録「和の美」第490号 作品NO24掲載



印章や落款ばかり気にして作品を見ていてはいけませんが、印章などの確認は後学とします。



茶室が完成したら飾って聖徳太子に思いを馳せて一服と洒落こむか・・・

パラソル&朝陽松ニ鶴図 寺崎廣業筆 その35

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先週末は久方ぶりで倉庫改修の打ち合わせでした。大工仕事は最終段階となり、妥協を許さぬ?設計や大工と打ち合わせです。



炉のセット・・、今は近代的になっています。天井もあらかた張り終わりました。



水屋への通路も・・・。



茶室の裏方も・・・。



収納も・・・。



2階も・・・・。



あらかた問題解決と思いきや次々と問題が発生するのが昨今・・。TKスーパーからずいぶん前に譲り受けたパラソル。もう捨てるものと思いきや、摂っておきたいと・・。そこで広げてみると・・。



いける! 庭での野点用・・・・。



支持する部品が見当たらない・・。これは庭に隠れ基礎をつくろうか? しかも二つある・・。

アイデアは尽きないもの・・。

さて本日は先日に投稿した作品の女流画家の師であり、本ブログでおなじみの小生の郷里出身の画家である寺崎廣業の作品です。

箱などなく軸本体のみで売られていた作品です。通常であれば贋作の多い寺崎廣業の作品としては入手の食指を動かすべきでない作品ですが、年号が記してあったので購入した作品です。

朝陽松ニ鶴図 寺崎廣業筆 その35
絹本着色軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦2130*横815 画サイズ:縦1385*横670



賛には「明治甲辰正月八日於白井□□ 廣業写 押印」とあり、明治37年(1904年)の制作の大幅の作品です。明治37年は廣業が39歳の頃で各種展覧会で入選を果たすなど活発に制作活動を始めた頃です。

  

新年を迎えて興にのって描いた作品ではなかろうかと思われます。席画程度の作品ですが、描いた年号まで記した作品は意外に珍しいようです。



落款は「二本廣業」の最初の字体から次の字体に移る頃です。印章は「秀斎廣業」と落款を押印していた頃の作品にも押印されている印章です。

他の所蔵作品と比較すると下記の作品があげられます。

勿来の関 寺崎廣業筆
絹本着色軸装 合箱入
全体サイズ:縦2010*横560 画サイズ:縦1130*横430



この参考作品の画題は八幡太郎と称された源義家(1039年~1106年)です。「天下第一武勇の士」と賞讃され、源氏武士の鑑とされた人ですが、歌人でもあった。前九年・後三年の役あたりで奥州に向かうときに詠んだとされる、千載集に掲載された一首、「陸奥国にまかりける時、勿来の関にて花の散りければよめる。吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」をイメージした作品です。

寺崎廣業がまだ「秀齋」と号していた頃の作品で「秀齋廣業」の落款が記されおり、印章が「廣業」の二重丸白印ですが、この印章が本作品と同一印章です。



掛け軸の廉価さとともに打ち捨てられるように寺崎廣業などの秋田県出身の画家の作品が葬り去られていようとしています。地方の衰退の象徴でしょうが、その作品を少しでも保存しようという一助になれば・・。

掛け軸も建物も同じ・・、いかに保存しいくのかは命題としてある。おおいにリサイクルしましょう。

呉須赤絵 花鳥文皿 その2

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呉赤絵の作品は日本の犬山焼、京焼など古くから写しがたくさんあり、その判別は小生の力の及ぶところではないようですが、絵柄のおもしろさはなかなか模倣できないようです。

呉須赤絵 五彩牡丹鳳凰文皿 その2
合箱入
全体サイズ:口径225*高台径128*高さ45




本作品と似た構図では下記の作品が投稿されています。下記の作品は呉須赤絵の作品としては佳品と思っています。

呉須赤絵 五彩牡丹鳳凰文皿
合箱入
全体サイズ:口径209*高台径123*高さ36



元々は同じ図柄で揃いで製作されたと思われる作品群です。今となって再び揃いや対で使ってみるのも面白いでしょう。



呉須赤絵とは明時代末期を中心に福建省南部の漳州窯で焼成された色絵磁器です。その様式は景徳鎮民窯の系譜を引いており、そこから展開されたものと捉えられています。



基本的に染付は下地に用いられず、乳白色の失透釉が内外に厚く施されています。



上絵付けは赤色を基調に緑や青色が加えられ、自由放胆で荒々しいまでの伸び伸びとした描写は一種の風格さえ感じられます。中国本土には作品がほとんど残っておらず、日本から精緻な官窯の作品を高値で買い漁る中国人を尻目に日本独特の優れた美的感性の賜物を遺したいものです。



鉄分が強い粒子の大きな砂を匣鉢の中に敷いて器物を焼成していた為、底部には砂が付着しているものも多いです。


主に東南アジアへ輸出され、中国よりも日本、南洋、欧米等に伝世しています。中でも呉須赤絵を好んで珍重したのは日本であり、特に茶人間で愛玩されました。



本作品は花鳥文が伸び伸びと描かれた呉須赤絵の優品といえるでしょう。



日本古来の美的センスがどんどん失われている現代、そのことに気がついているのはいったい何人いるのだろうか?



このひょうきんな紋様がこの作品群の命ですね。この絵が無しではこの作品は語れませんが、「おいおい、しっかりしろよ。」と紋様もいっているように思います。



本ブログの作品はガラクタ、真贋混合と思いの方も多かろうと思いますが、少しは日本の文化の今後を心配してのブログです。



さてこのお皿でカレーライスでも食おうか。ちょっとした贅沢・・・。



呉須赤絵・・・、本ブログには下に掲載した作品以外にもたくさんありますので参考にしてください。

丼に・・。



あでやかに・・。



刺身の盛り合わせの大皿に・・。



色の対比で・・・。



日本や中国でいろんな作品を製作していますが、ユーモラスなそして趣のある作品を選ぶことが肝要なようです。ユーモラスさでの出来不出来は意外に大きいようです。



我が家のユーモラスな顔、「おい、カレーを食いながら作品の鳥を真似するなよ。」

(月下)山水図 その3 双幅 天龍道人筆 その22

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もはや本ブログでなんども投稿されている天龍道人の作品ですが、代表的な「葡萄図」や「鷹之図」ではなく、希少な山水画のしかもさらに珍しい双幅の作品です。

(月下)山水図 その3 双幅 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1740*横346 画サイズ:縦995*横278



落款には「鵞湖王瑾写 押印 」とあり、印章は「吊ニ山房」の白文方印と「公瑜氏」の朱文方印が押印されています。以上より60歳前後の作品と推察されます。



なんとも言えない?? 作品ですね。



水墨によるみずみずしい作品ですが、粗末な紙表具で軸先も取れてなくなっています。



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天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。

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そこいらにある山水画のように思われるでしょうが、鑑賞していると飽きのこない作品です。



月のある風景、煙の出ている家屋・・・。



製作年代の推測は下記の資料によります。

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号について:天龍道人の絵画制作は明和8年(1771年)54 歳頃 から死去する93 歳近くまでおよそ 40 年間 です。初期には「虚庵」、「虚庵道人」のほか「草龍子」や「源義教」という署名がみられます。晩年、足を折って不自由になった時期から「折脚仙」という号を使っています。名の「瑾」については、「固くて美しい玉」という意味で「瑾瑜」も同じような意味で使われているようです。

「王瑾」というのは、ひっくり返すと「瑾王」で、勤王思想の「勤王」と音通するところから、天皇親政を理想としていた道人が自らの名前にしたのではないかと想像されます。ほかに「長門」や「錦水」、「錦水漁叟」の文字を添えた署名をもつ作品が残されています。「錦水」は安永2年(1773)56歳作「梅花寒月図」や同じく安永5年(1776)59歳作「鷹鶉図」にみられ、「錦水」から岩国の錦帯橋が架かる「錦川」が連想され、長門や周防岩国あたりに滞在していた時期があった可能性が考えられています。

この後に、「鵞湖(がこ)」、「鵞湖漁叟」、「鵞湖逸士」などが出てきます。鵞湖というのは諏訪湖の別称で、61歳で下諏訪に家屋敷を購入すると年譜にあり、それ以降の作品に、たとえば「鵞湖王瑾」という組み合わせの署名がみられます。「天龍道人」という署名は、70歳頃からのようです。諏訪湖を源流とするのが天龍(竜)川で、浜松辺りに流れ下って太平洋に注ぐのですが、この天龍川にちなんで「天龍道人」と称したわけです。「天龍道人」と署名をした作品で、制作時期が判明する一番早い作品は「天龍道人王瑾七十三歳筆」と署名されています。

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朝早く息子と玄関前で打ち合わせ・・、「天気もいいし、今日は何をしようか?」と・・。



子供の頃を思い出すと「沢にカニを採りにいこうか。」、「川にカジカをを採りに行こうか」、さらには「材木場にカブトムシを採りに行こうか」など田舎にはたくさんの愉しみがあったので悪友達との事前会議は喧々諤々であった。おまけに日が暮れても帰宅せず、こっぴどく怒られた

山中の自然の生活はそれはそれで愉しいもの。さて打ち捨てるべき作品か、再表具する作品か・・・資金不足につき悩ましい







源内焼 その57 三彩獅子香炉文硯屏

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まだ手をつながないと一人では歩けませんが散歩は大好きなようです。外に行こうとせがむのは獅子なみ・・もとい犬なみ。「お~い、それはパパのけり(秋田弁で靴のこと)だぞ。」



という下原稿を書いていて投稿する前に、昨日からわが息子は本格的に一人で歩き始めました。

さて、本日は変わった源内焼の紹介です。

源内焼は江戸中期18世紀に平賀源内の指導によって源内の故郷香川県志度(現さぬき)で焼かれた三彩のやきものですが、作品は大名家や幕府高官に収められたため、近年になるまであまり世に知られていません。それゆえに作品は実用よりも鑑賞を主眼に制作されており、実用性のある皿や鉢よりも装飾性のある作品に面白味のある作品が多いようです。

源内焼 その57 三彩獅子香炉文硯屏
合箱
幅125*高さ135*脚幅



緑釉を基調とした三彩の源内焼で、獅子と香炉をかたどった源内焼きの作品はいくつかの種類があり、中型の皿や鉢に用いられています。



「香気が立ち上がる香炉と獅子の図」ですが、釉薬以外の種類に獅子の右向きと左向きの作品が存在します。



周りの紋様に違いなどいくつかのパターンの数種類の作品がありますが、硯屏の本作品はとくに足元部分が人物や動物、本作品のように唐草紋様など多彩です。マニアックな蒐集の方にはお勧め??



ただしこの硯屏の作品は珍しく、またできの良い作品は少ないので蒐集はたいへんでしょう。幾つか市場で見かけるのですが、型や釉薬がきちんとしてる作品はなかなかありません。



さらには裏面の山水の図柄がきちんとしている作品はとくに希少なようです。本作品は緑釉だけすが、山水が色分けしている作品はさらに貴重です。



源内焼の硯屏はこのほかに鬼を描いた作(節分会図)が知られていますが、まだお目にかかったことはありません。明治時代に博覧会の企画で源内の子孫によって一時再興された源内焼ですが、質的にもデザイン的にもオリジナルには及びませんでした。精巧な贋作がほとんど存在しないのは製作が難しいからのようです。



源内は博物学者として長崎に遊学した折にオランダからもたらされた新しい釉薬の技術を学び、その技術を用いてふるさと讃岐・志度の産業を振興させるため、新しい三彩軟陶質のやきものを指導しましたが、江戸で親しかった浮世絵の鈴木春信の工房で木型を作らせ、それを志度に送って型をとって焼かせたと言われています。源内焼は型起こしによって制作されたもので、同笵の作品が見られますが、釉薬は真似できてもこの精巧な型が真似できないし、すっきりした型を焼成するのは至難の業です。やってみるとわかりますよ。



この作品は思いのほか小さめの作品で鵜、非常に薄くできており、手取りが軽いものです。ちょっと小粋な源内焼を入手して贅沢してみませんか?

参考作品
三彩獅子香炉文硯屏
五島美術館発刊「源内焼」に掲載(作品番号106・107)
幅137*高さ128*脚幅41



本作品を売却する側の方は源内焼とは自信がなかったようです。



まだまだ世に知られていない源内焼・・・

まだまだ世を知らない我が息子・・。


柳下鳥追図 舘岡栗山筆 その3

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一人で歩き始めた息子は歩くのがおもしろくて仕方がないようで・・。歩き出したらあっという間の進歩にはびっくり・・。



なにやら嬉しいようで・・。




さて、本日は郷土の画家の作品です。生前に母の実家である秋田県五城目町の叔父の蒐集品にはたくさんの舘岡栗山の作品がありました。濫作気味の画家ですが、駄作といい作品と見極めて蒐集する必要があります。

柳下鳥追図 舘岡栗山筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1118*横442 画サイズ:縦333*横385



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「鳥追い」は、正月の祝い芸として各戸を回って鳥追い唄を歌う門付芸人のことも指す。新年に門口で、扇で手をたたきながら祝言を述べ、米銭の施しを得たもの。江戸初期、京都悲田院の与次郎が始めたという。江戸中期以降、新年に女太夫たちが、新しい着物に日和下駄・編み笠姿で三味線などを弾きながら、鳥追い歌を歌って家々を回ったもの。

近世には三味線の伴奏で門付しながら踊る者が現れ、これも鳥追いという。正月元日から中旬まで、粋な編笠に縞の着物、水色脚絆に日和下駄の2人連れの女が、艶歌を三味線の伴奏で門付をした。中旬以後は菅笠にかえ、女太夫と称したともいう。京坂では早く絶え、江戸では明治初年まであった。阿波踊りの女性の衣装阿波踊りの女性の扮装はこの鳥追い女の風俗がもとになっている。

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舘岡栗山:本名は館岡豊治。明治30(1899)年9月9日、秋田県南秋田郡馬川村高崎(現在は五城目町)生まれ。秋田師範学校を中退し、京都にて勉学。院展の近藤浩一路に師事。昭和8年、「台温泉」が院展で初入選。安田靭彦の指導を受ける。昭和12年春展、「雨後」が横山大観賞受賞。昭和40年、院展ニ20回入選をはたす。昭和42年、院展特待、無鑑査。秋田県にて日本画研究グループ「新樹社」設立。大正期、俳句雑誌「山彦」を主宰。昭和20年台初め、一日市町(現在は八郎潟町一日市)にて湖畔時報社設立。昭和27年、秋田県文化功労賞受賞。昭和45年、勲五等双光旭日章受賞。昭和53年10月16日死去。81歳。



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補足説明
館岡 栗山(たておか りつざん、1897年9月9日 - 1978年10月16日)は、日本画家である。院展の無鑑査となり、俳句や短歌にも親しんで、地域新聞の発行も続けた。

秋田県馬川村高崎(後の秋田県五城目町高崎)の生まれ。本名は豊治。小学校を卒業後、1911年に秋田師範学校講習科に進学したものの肋膜炎のため1年で中退、以後独学で絵を描き続け、五城目町の落合病院で事務員として就職してからも折りをみては季節の風物をスケッチしていた。

1919年、22歳のときに家出同然に上京し、絵の修行をしようとしたものの、病を得て半年ほどで帰郷。健康を回復して25歳のときに改めて上京、アルバイトをして生活費を稼ぎながら絵の修行に励んだ。その頃、画号を長春から栗山に改めた。郷里の五城目町のシンボル的な里山である森山が、栗のような形にも見えたのが号の由来。栗山は郷里秋田への思い入れが強く、のちには秋田の風物が主要な題材となった。1925年1月からは48回にわたって秋田の県内紙秋田魁新報に「秋田百景」を連載している。

1926年、日本画の世界でさらに研鑽を積むため京都に移り住んだ。1928年、日本美術院の近藤浩一路に師事し、1933年、36歳で「台温泉」という作品で院展に初入選を果たした。1936年に近藤浩一路は日本美術院を脱退するが、栗山は師と行動を共にせず、美術院研究会員となって院展に出品を続け、入選を繰り返した。

翌年の研究会展作品『雨後』が大観賞を獲得、それを契機に安田靫彦に師事、昭和14年には院友に推された。院展には初入選以来連続入選30回を数え、1968年には特待・無鑑査となった。

1945年4月に48歳で京都から郷里五城目町に疎開、翌年には隣町である一日市町(後の八郎潟町)に移り住む。ここにアトリエを構え、秋田の風景や行事、伝承芸能などを好んで描いた。地方色豊かなマニエリスム風の微細な描写が作風。

俳句や短歌にも親しみ、若いころには同郷の俳人北嶋南五や草皆五沼などとも親交があった。大正期には俳誌『山彦』を主宰している。五城目町の雀館公園には栗山の句碑がある。短歌では同郷の歌人中村徳也とともに学び、夫人とともに短歌会「歌瀬歌会」をつくっている。

1951年には地域新聞「湖畔時報」を創刊し社主になった。日本画研究グループ「新樹社」を1958年に設立、秋田の代表的展覧会である「県展」の審査員も務めた。1962年に秋田県文化功労者、1970年に勲五等双光旭日章を受章。著書に『銀婚』、『栗山画談』がある。

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雪の降る夜の柳の下にたたずむ遊女ではないようですが・・。



一風変わった描写ですが、楯岡栗山の佳作と言えます。



隠れファン?が意外に多い画家のようです。

なんでも自分でやろうとする息子・・。人ごみの中も一人で押す・・。



これは見ていてかわいい・・、周囲には大うけだが、右に左にでこちらはひやひや・・。

赤絵羊歯紋三足香炉 

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昨夜は仙台にて元同僚らと還暦壮行会。40年近い前の職場の同僚らが十数名集まりましたが、皆さん元気そうで安心しました。

さて本日の作品は「正体不明のものはこの世にはつきもの・・。」

赤絵羊歯紋三足香炉 
銀火舎 金繕 合箱
口径65*胴径65*高台径34*高さ69



「江戸(1603年~)初期 古伊万里(1640年以降)」という触れ込みの作品でしたが、明末から清初め頃(1644年頃~)の天啓赤絵・南京赤絵からの影響の見られる作品と推察されます。



古伊万里か中国の陶磁器かは当方では判断できかねますが、小ぶりで味のある作品と思います。

銀製の火舎がついて、下手ながら金繕いもされています。それなりに大切にされていたことがうがかえます。



もともとは火入れで作られた作品に火舎をあつらえて香炉に使っていた作品かと推察されます。



底には足がありますが、底が付かないように高台形状になっています。



どうともとれる「赤絵香炉」・・・・やはり伊万里か、この世には知らなくてもいいこともある?



後絵付も疑わなくてはいけませんが、その痕跡はないように思います。


源内焼 その58 三彩菊文皿

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人生は何が起きるかはさっぱり検討がつかないものですが、人生にとって一番大切なものは永遠に変わりはないようです。さてそれは何なのか各々・・。

命(健康)、家族、礼節、お金、仕事、・・・、小生にとっては骨董でないことは確かなようです。団塊の世代以降は人間の価値観が多様化しており答えを出すのは難しくなってきたようで・・。

源内焼 その58 三彩菊文皿
合箱
口径148*高台径*高さ20



「凝った型の多い源内焼の中にこのようなシンプルな作品があるのだろうか?」と思いますが、実用的な器としてシンプルな作品は実際には存在するようです。一見すると源内焼に見えないのですが、これは釉薬の掛けが少ないため、特に緑釉が淡白なためと思われます。よく見ると釉薬が源内焼そのものであり、江戸期の源内焼に相違ないと思われます。



四国には源内焼の流れをもつ焼き物群があり、現在も讃岐焼などは源内焼と混同されているがゆえに、源内焼としては紛らわしい作品が存在するようです。それが源内焼への評価があがってこない要因のひとつではあるようです。前にも述べましたようにさらに再興した作品群があまりにも出来が悪いのも人気を下げている要因のひとつです。



本来の源内焼の気高さを保つにはきちんと源内焼はこのようなものと一線を画す必要があります。精巧な贋作が少ないのはいいことなのですが、技術の劣る作品を含めて源内焼とするにはやめたほうがいいように思います。

そうそう、もうひとつ不自然なのが褐釉・・。このような釉薬は源内焼に存在しますので意匠的に使われたかと思いましたが、これは単なる汚れのようです。洗い落とすとご覧のとおり・・。



緑が濃くなる季節に緑がかった小皿を使うのも愉しみですね。



ところでよき皿立てを揃えるのも蒐集には必要なこと、人の世も同じく。


倉庫改修 5月31日

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当初の工程では引越しが完了しているはず・・。通常は後期が延びると施主が遅延金をもらえるはずですが、どうも逆に追加になるらしい

母屋への通路は取り外しができるように細工・・・、目的は裏の資材を庭の手入れのときに運ぶため、庭から外部トイレへの通路の確保など。さ~それではやってみましょう。



「板目が揃っていない」とクレーム。取り外しはOK。片側だけ、中央だけという使い方もあり。風通しのよいところ・・。

茶室の格子状の天井、継ぎ目がうまくいかない。さて竹で竿縁・・、否ありきたりはおもしろくない。「透明のアクリルでどうだ?」「ん? どうやって付ける?」



「針際のボルトが見えるけど?」 「ありゃ、失敗。回り縁で隠す?」 「いや、このままがいい。」 「???」 家内の常識外の申し出に山形の大工も友人の設計者もびっくり。



空調の吹き出しは天井内に納まらず、壁からの吹き出し・・。これはあきらめ。



渡り廊下は勾配によってアプローチに変化をつけました。これは既存と床のレベルがあわず、倉庫の階高さが足りない苦肉の策。これがいい効果を生み出しています。



子供の遊び場???おもちゃの自動車にスロープはもってこいさ。突き当たりは水屋ではなく、水屋箪笥。水屋はさらに奥でまだ未着工・・。



1,2階の棚の工事も進んできましたが天板が予算が合わず未決定・・。徹底したコストダウンもとうとう資金枯渇・・、水屋も将来工事???



茶室はあとは壁塗り・・。さて何にする??? 資金不足・・このままもおもしろいか???



やはり塗るか・・。



入り口は建具で一変・・。乞うご期待。やったこのないことはどうも時間がかかるらしい。



物置は大胆に・・・。要はお金をかけない。



2階の渡り廊下は素朴に・・。?? 壁から外の明かりが・・、垂木の間がふさがっていないらしい・・、冬は寒い・・、至急手直し。



10度目の引越はいつのことやら・・・

旅路 伊藤小坡筆 その2

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企業の当然の責務のひとつに社会への寄与ということがありますが、その前提は株主や社員への利益の還元というものあります。企業に属する人はそのことの意義の大きさを深く認識する必要があります。当然還元される側も・・・。

さて本日は小生の苦手な美人画です。苦手とはいえ、それまでの幕末頃から明治初期の歌川派のような美人画はとるに足らないものですが、明治期の女流画家の美人画には見るべきものがありますね。

投稿後に家内からのメールにて・・。
着物の紋様は「海松」 さらには「市女笠」 または 「虫垂れ衣」
相変わらず詳しい

旅路 伊藤小坡筆 
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2090*横541 画サイズ:縦1215*横410



品の良い美人画を得意とする伊藤小坡においても、本作品は大和絵風の平安美人を優雅に描いた透明性のある大変きれいな軸で逸品中の一品。伊藤小坡は三重県出身の女性画家で、歴史風俗の女性の絵を得意とし、衣装や調度品などをきちんと調べて描いている。




色使いのきれいさと線の美しさ、非常にすっきりとした印象があるのと、衣装がブルーというのがとても美しい顔をひきたてている。透けた布で風を表現し、風に向かう姿勢がよく表現されています。そうした細やかなこころづかいが素晴らしい作品です。



若々しい女性の色気がハートに響いてきます。



このようなうら若き女性が旅をする・・、いったいどういう理由なのでしょうか?



下記の作品は当家に伝わる作品です。

他の所蔵作品
早春 伊藤小坡筆
絹本着色絹装軸共箱



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伊藤 小坡(いとう しょう):本名:佐登(さと)、旧姓:宇治土公(うじとこ)、1877年(明治10年)4月24日 - 1968年(昭和43年)1月7日)は、三重県宇治山田(現在の伊勢市)に生まれ、京都を中心に風俗画、美人画を描いた日本画家。

伊藤小坡は伊勢にある猿田彦神社の宮司の長女として生まれている。幼少の頃より古典文学、茶の湯、柔術を習い、明治24年頃から新聞小説の挿絵を竹紙に模写し始める。明治28年頃には四条派の流れをくむ郷土の画家、磯部百鱗に師事し歴史人物を好んで描いた。



明治31年には画家になることを決意し京都に出て、磯部百鱗の紹介により森川曽文に師事し「文耕」の雅号をもらうが、曽文が病に倒れたため歴史画を得意とする谷口香嶠に師事し、「小坡」の雅号を受けている。この頃、京都市立美術工芸学校教授の荒木矩から漢字と国語を、漢学者の巖本範治から漢字を学んでいる。昭和に入ると小坡の美人画は当時の風俗を主題にしたものから、歴史や故事に想を得たものが多くなるが、その変化を可能にしたのはこの頃の研鑽があったからに他ならない。

明治38年に同門の伊藤鷺城と結婚し、翌年には長女知子、明治43年には次女芳子、大正3年には三女正子が誕生している。大正4年には第9回文展にて「制作の前」が初入選で三等賞を受賞。上村松園に次ぐ女性画家として一躍脚光を浴び、大正6年には貞明皇后の御前で揮毫を行なうなど画家として、また妻としても充実した生活を送る。



この頃の作品では、第10回文展入選の「つづきもの」や第12回文展入選の「ふたば」のような、普段の何気ない生活の一場面を女性として、また妻としての視点から描いた作品が見て取れる。大正という時代にあって、家庭に入り家事や子育てに勤しみながら絵を描き続けることには大変な苦労があったと思われる。しかしながら小坡はそれをものともせず、逆に男性作家や家庭を持たない女性では気付くことのできない視点を取り上げることによって、現代に生きる我々が見ても親しみを感じることができる日常風俗を描写することができたのである。


箱の印章は「旅路」と「早春」は同一印章です。



反官展を掲げて渡辺公観らが集まり日本自由画壇が大正8年に結成されると小坡も創立同人として参加するが竹内栖鳳のすすめもあり翌年には脱退する。大正10年の第3回帝展には、これまでの当時の風俗を主題をとした作品でなく、中国元代に高明によって創作された戯文である『琵琶記』を主題にした作品、「琵琶記」を出品している。この作品は翌年開催された日仏交換美術展にも出品され、フランス政府買い上げとなっている。

また、大正4年に師である谷口香嶠が没して以降、誰のもとにもつかず創作活動を行なっていた小坡であるが、昭和3年にかねてより尊敬していた竹内栖鳳が主催する画塾である竹杖会の一員となり、第9回帝展に「秋草と宮仕へせる女達」を出品している。この作品は平安時代の風俗をもとに、7人の女性の周りに沢山の秋草が配されており、古典的な表現を用いて描かれている。「琵琶記」を制作した頃から続けられてきた日常風俗を主題として描く画家から、歴史・物語を主題とした女性像を描く画家への転換がこの作品により完成する。
このような歴史風俗や人物から取材した作品は、晩年の小坡作品の多くを占めるようになり、描かれた凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出している。



小坡は昭和43年に90歳という長寿を全うし、この世を去った。小坡の画業を語るとき、明治大正期の日常風俗を主題にした作品と、昭和期の歴史風俗や物語を主題にした作品とに大別することができるが、それはあくまでも表面的な表現方法の違いでしかない。全ての作品の中にある小坡の人間に対する視線はいつの時代でも一貫しており、その視線を通じて描き出された人物像の存在感こそが小坡作品の魅力である。

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「凛とした美しい女性は見る者を引き込む強い世界観を画面の中に作り出している」・・、いなくなりましたね、「凛とした美しい女性」・・・

昨日はホテルでの安全大会・・。かなりの人数を集めての会、そのわりには企画がお粗末。下請けを集めていったいなにを伝えたいのか。旧態依然とした企画には皆、辟易の思いでした。





空也念佛図 近藤浩一路筆 その2

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規定には無くても社会人として守るべき規範というものがあります。「就業中のスリッパ履、首もとの服の乱れ、袖ボタンのはずれ、口ひげ、机上の乱雑さ」などは社会人として似つかわしくないものは「駄目なものはダメ」なのです。少なくとも部下の見本となる部署長には引き上げできない社員という評価になります。「駄目なものはダメ」という上司がいなくなりましたね。

「いくら諭しても解らない」、「親の顔が見てみたい」などという不愉快な話はやめにして、本日は実に愉しい作品にしましょう。

空也念佛図 近藤浩一路筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2070*横380 画サイズ:縦1230*横360



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空也念仏:(くうやねんぶつ)空也の始めた念仏と伝えられる。空也が弟子平定盛に教えたといわれる。ひょうたんや鉦 (かね) をたたきつつ,踊りながら称える念仏で,のちの一遍の念仏の源流ともみられる。比叡山の「山の念仏」に対し,広く一般民衆に受入れられ,『日本往生極楽記』の記述などによると広く行われたとみられる。



空也:(くうや)は、平安時代中期の僧。阿弥陀聖(あみだひじり)、市聖(いちのひじり)、市上人と称される。口称念仏の祖、民間における浄土教の先駆者と評価される。俗に天台宗空也派と称する一派において祖と仰がれるが、空也自身は複数宗派と関わりを持つ超宗派的立場を保ち、没後も空也の法統を直接伝える宗派は組織されなかった。よって、空也を開山とする寺院は天台宗に限らず、在世中の活動拠点であった六波羅蜜寺は現在真言宗智山派に属する(空也の没後中興した中信以降、桃山時代までは天台宗であった)。踊念仏、六斎念仏の開祖とも仰がれるが、空也自身がいわゆる踊念仏を修したという確証はない。門弟は、高野聖など中世以降に広まった民間浄土教行者「念仏聖」の先駆となり、鎌倉時代の一遍に多大な影響を与えた。 

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近藤 浩一路:(こんどう こういちろ)本名:浩(こう)、明治17年(1884年)3月20日 ~ 昭和37年(1962年)4月27日)。日本の水墨画家・漫画家。明治初期の実業家・教育者である近藤喜則は祖父にあたる。



補足説明
出生から美術学校・漫画記者時代:山梨県南巨摩郡睦合村(現南部町)に生まれる。近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は浩一路の幼少時に病没しているが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育つ。父の療養のため幼少時には静岡県庵原郡岩渕村で過ごし、富士川小学校を経て1902年(明治35年)に韮山中学(静岡県立韮山高校)を卒業すると上京する。祖父からは医者になることを期待され英語学校や予備校へも通うが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、1904年(明治37年)には画家を志して洋画家の和田英作の白馬会研究所に所属し、同年9月には東京美術学校西洋画科へ入学する。在学中には白馬会へ出展しており、この頃の画風には外光派の影響が見られる。同級生の影響で水墨画をはじめたほか、文芸活動も行っている。また、同級生には親友となった藤田嗣治らがいる。



美術学校では一年落第し、1910年(明治43年)に卒業する。卒業制作は連作「五十三駅」。卒業後は白馬会や文展への出展を行い入選もしており、京都で女子の絵画指導も行っているほか、藤田らと水墨画や漫画の展覧会を主催している。この頃には結婚もしていたため、1915年(大正4年)に読売新聞社に入社して漫画記者となり、政治漫画や挿絵を担当する。漫画記者としては美術学校時代の同級生で朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と評され、漫画記者の団結のため結成された東京漫画会へも所属し作品を出展しているほか、赤甕会や珊瑚会などの活動にも参加し日本画家としても注目される。



日本美術院時代と洋行:大正前期の美術界では珊瑚会を中心に新南画が流行していたが、近藤も1919年(大正8年)に日本美術院第6回展で初入選を果たし、翌年の第七回以降でも入選し、本格的に日本画へ転向する。近藤の画風は第六回入選作では浦上玉堂や川端龍子の色彩表現、群青派などの影響を受けており、同時代に流行していた写実主義的手法や光線表現など洋画手法取り入れ、「カラリスト浩一路」と評された。1921年(大正10年)には日本美術院(院展)に入会し、横山大観らに評価される。1922年(大正11年)には岡本や小寺健吉や鈴木良治らの画家友人とヨーロッパ各国を旅行する。この旅ではフランスを拠点にスペインやイタリアへも足を伸ばし和田や藤田らを訪ね、各国の名所や美術サロン、美術館を訪ねる物見遊山的なものであるが、帰国後には旅行記を美術誌に寄稿し後に『異国膝栗毛』としてまとめている。『膝栗毛』ではスペインでのゴヤやエル・グレゴの作品観賞が一番の目的であったとし、最も印象深いものとして記している。浩一路はこの旅で伝統的な西洋美術を絶賛する一方で、同時代の前衛美術に対しては批判的見解を示しており、日本画壇が同時代の西洋美術に強い影響を受ける中で、自身の日本人意識を強めるものであったと記している。同年には中国へも旅行しているが、ヨーロッパ旅行が作品に反映されていなのに対し、中国旅行では帰国後に中国風景を描いており、近藤がこの時期に日本人や東洋人としての意識を強めていたと指摘されている。




1923年(大正12年)の第10回院展では「鵜飼六題」を出展し、これは近藤の代表作と評されている。同年には関東大震災で自宅を失い、一時静岡へ滞在したのちに妻の故郷であった京都市へ移住する。京都時代には「炭心庵」と名付けたアトリエで「京洛十題」「京洛百題」などの風景画を手がけている。また、茨木衫風ら門弟たちの育成にも務め、山本有三や吉川英治、芥川龍之介らの文人や俳人らとも交遊している。画風は大正から昭和初期にかけて、墨の濃淡による面的表現から描線による線的表現へと変遷していることが指摘されている。1931年(昭和6年)には個展開催のためフランスのパリへ渡る。パリでは小松清の助力を得て個展を開催し、小松を通じて美術批評家であるアンドレ・マルローと親交を結ぶ。




美術院脱退から晩年:1936年(昭和11年)には日本美術院を脱退。東京府下久留米村(東久留米市)で「土筆居」と名付けたアトリエで捜索を続け、百貨店での個展開催や画集の刊行などを行っている。戦時中には静岡県や故郷山梨の山中湖の別荘などに疎開している。戦後は再び東京都豊島区巣鴨(北大塚)でアトリエを構え、墨心会に所属しながら日展に出展するなど創作活動を行い、院展脱退後の戦前から戦後にかけても画風の変化が指摘されている。晩年は俳句や三味線などの趣味やゴルフ、スキーなどのスポーツも嗜み余生を過しており、脳炎により78歳で死去。墓所は上野寛永寺。



漫画や新南画、水墨画など日本美術史における浩一路の画業に対する位置づけは未だ不確定であるが、「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価がなされている。

作品は東京国立近代美術館、山梨県立美術館、近藤浩一路記念南部町立美術館などに所蔵されている。


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本ブログは米吉さんの仰られているとおり、気が付いたら本年ではや5年が経過しました。家内が亡くなって、気落ちしているときに今の家内に勧められて始めたのがきっかけですが、投稿数も公開数で約1350件となり、訪問者数が延べで約45万人、閲覧数が延べで約250万となりました。多いか少ないかは当方にはよく解りませんが、マイナーな話題、ガラクタ蒐集、拙速な文を拝読していただいる方々には改めて感謝申し上げます。今後ともよろしくお願いします。






夏景山水図双幅 狩野栄信(伊川院)筆 その2

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本日は木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師の作品です。双幅の作日ですが、双幅、三幅対、さらには四幅対、さらには十二幅対というのまで掛け軸にはありますが、このような文化は日本特有のもののように思います。このような対の軸の愉しみ方をブログの画面では伝え切れないのが残念です。

夏景山水図双幅 狩野伊川院筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363

右幅



狩野 栄信は安永4年8月30日(1775年9月24日) ~文政11年7月4日(1828年8月14日)。江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師です。本ブログでも他の紹介した作品がありますので、経歴はそちらを参考にして頂くこととし、詳細は省略します。

左幅



号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多いようです。本作品の落款は「伊川法眼」となっており、法眼時代の作品となります。他の投稿作品は「伊川院法印」となっていますので区別できます。



木挽町家狩野派は狩野探幽の兄弟の狩野内尚信から始まり、狩野派中興の狩野常信がその跡を継ぎ、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)、晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 - 1908)がいました。

芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身です。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えましたが、木挽町狩野派は日本絵画史にとっては非常に大きなウエートを閉める画派です。



特に狩野伊川院の息子である晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮し、障壁画そのものは現存しませんが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されています。

晴川院は古画の模写や収集にも尽力しました。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くありませんが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがあります。

本ブログでもこれら木挽町狩野派に関わる作品が数点紹介されいます




栄川院の父は狩野惟信(養川院)、子に木挽町を継いだ長男狩野養信(晴川院)、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいます。



文化13年(1816年)に法印となっていますので、本作品は1810年前後、35歳頃の作品かと推察されます。



茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたそうです。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されています。



一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。




中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功していると評されています。



更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言えます。



本作品は双幅のなかなか出来の良い作品だと思います。倉庫改修完了後に飾るのが愉しみ・・、田舎親爺の些細なガラクタ趣味の道楽です。

所蔵作品解説  (瀧見)観音図 寺崎廣業筆 その36

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歩き始めて楽しくて仕方がない息子、この感覚?はもう味わえないのか思うととさみしい。初めて泳げた時、自転車に乗れたとき、スキーで急斜面を滑降できたとき・・・・。



寺崎廣業は決して天才肌の画家ではない。狩野派の粉本以上に古画の写しに日々努力を重ね、一流の画家の仲間入りをした画家です。

(瀧見)観音図 寺崎廣業筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:縦2060*横349 画サイズ:縦1340*横312



観音図はたくさんの画家によって描かれいますので、自分独自の観音像というものが描けないと認めてくれない画題かもしれません。寺崎廣業の観音像には独特の顔の表情があるように思います。



誰からか依頼されて描くことが多かった寺崎廣業の作品は、それゆえ水墨一色の作品などは共箱でないことが多いのですが、本作品は珍しく共箱となっています。



「二本廣業」と称される落款の寺崎廣業の初期の頃の作品ですが、この辺の年代のことはすでに「その36」となんども投稿されている画家ですので、説明は省略します。

 

当時は墨を扱うことに長けているのは一流の画家の必須でした。武家から明治維新となり、喰うことに必死だった一人のプライド高き秋田の画家の思いが伝わります。



観音像に何を祈念して描いたのであろうか?



息子にご飯を食べさせて、風呂に入れて、気持ちよく股の間で眠りにつく・・・。これ以上を何を望むものか・・・。

倉庫改修&孟宗竹叭々鳥之図 榊原紫峰筆 その2

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先週の木曜日から羽田~岩国~広島~博多~北九州~羽田の出張で各現場や支店に挨拶。出発の飛行機が整備トラブルで飛び立たず、2時間のロス。それでもあちこちで暖かく迎えていただきありがたい訪問となりました。

さて倉庫改修は最終段階?? 週末には仕上げの打ち合わせです。



茶室の天井の押さえ縁・・、木や竹では面白くないということで、やはりアクリルか?



左官工事に入りました。



最終仕上げのパターンは? こて跡の仕上げはわざとらしい?? 藁を入れようと・・。



さて塗りの仕上げ具合は? はたまた襖は?



土間の洗い出しは? 最近の樹脂はつまらない・・。



掛け軸の掛け金物も付きました。周り縁が二重? ま~いいか。こだわりと実用性の境目でのジャッジが難しい。



家具の置き場も寸法どおりかな?



まともに話せる職人が少なくなりましたね。

さて本日は榊原紫峰の大正期の作品かと推察されますが、「叭々鳥」の表情がおもしろい作品です。

孟宗竹叭々鳥之図 榊原紫峰筆
絹本着色軸装 共箱
全体サイズ:縦1950*横560 画サイズ:縦1390*横420



本作品は当方では詳細はよく解りませんが、落款から榊原紫峰の大正期から昭和初期にかけての40歳前後の作と推察されます。

  

写実性には西洋絵画の影響が感じられますが、構図上は、中国絵画からの影響がうかがえます。東洋と西洋、それらのエッセンスを取り入れようとしていた、当時の紫峰の制作意欲がうかがえる作品のように思います。



紫峰は1887年(明治20)京都に生まれ、京都市絵画専門学校で日本画を学び、在学中より文展に入選するなど、早くから頭角を現わしましたが、当時の多くの日本画の旧態然とした作風に飽き足らず、西洋絵画の写実性や桃山期障屏画の装飾性などを研究して新しい日本画を目指していました。



こうした新しい試みは、然し、保守的な当時の文展では容れられず、紫峰はより自由な発表の場を求めて、1918年(大正7)に、絵画専門学校同期の土田麥僊、小野竹喬、村上華岳らと国画創作協会を結成、その展覧会に「青梅」「赤松」「奈良の森」などの意欲作を、また、宋元花鳥画への憧憬を示す「雪柳白鷺図」「蓮」、動物のリアリティーを内面的に深く掘り下げた「獅子」、澄んで高遠な画境を示す「冬朝」などを発表しました。



本作品はこの当時の作と推察されますが、1928年、国画創作協会解散後は、特定の美術団体に属することなく、自然との交感、自然との合一をひたすら求める孤高の生活を守りつづけます。本作品はこの孤高さを「叭々鳥」に込めた紫峰の思いが伝わるような作品です。

途中で割れた孟宗竹は果たして何の象徴であろうか? このような背景の下に作品を鑑賞するといろんな想像ができますね。



紫峰は初期から晩年まで花鳥画一筋の生涯でしたが、最晩年には、古典的水墨画の世界に通じる、ほとんど墨一色による森厳な境地を拓いた孤高の画家です。


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榊原紫峰:明治20年(1887)~昭和46年(1971)京都市中京区に京友禅の染織家の次男として生まれる。明治36年、京都市立美術工芸学校に入学し、竹内栖鳳、山元春挙から伝統的な円山四条派の写生画を学ぶ。42年には新設の京都市立絵画専門学校に編入学し、卒業制作は文展で受賞となる。大正に入ってからは、日本画の革新に情熱を燃やしたが、文展では受け入れられず、土田麦僊らと国画創作協会を結成。その頃、形式よりも内面を追求しはじめ、国展解散以降は自然に深い愛情を表し、清澄にして崇高な画風を創り上げた。晩年は色彩を離れ、水墨画に独自の画境を築いた。

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「叭々鳥」のとぼけた表情がいいですね。「叭々鳥」は中国で吉祥鳥として花鳥図の一主題となっているムクドリ科の鳥ですが、なんどか本ブログに登場していますので、説明は省略します。



こちらは初めてのいろんな味をお試し中です。どんな想像をしているのやら・・。



「オーナーさん、このお味でいかかでしょうか?」、「ん、いいじゃないか。」なんてね。

鉄繪花瓶 浜田庄司作 その25

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本日は浜田庄司としては目新しい作品ではなく、よく見かける鉄絵花瓶です。

鉄繪花瓶 浜田庄司作 その25
共箱
最大胴径130*高さ276*口径106*底径105

使われている釉薬の味わいがいいですね。絵付けが「赤絵」になると評価が格段に上がります。



この釉薬が浜田庄司の魅力のひとつだと思います。



また鉄絵の味わいが違います。隙がない、熟練した筆捌き・・、修羅場をくぐった剣豪に出会ったよう・・・。



堂々としたフォルム・・。



媚びたところが一切ない。沖縄やヨーロッパなどいろんな窯で様々な修行した人格のようなものが現れています。



作品には銘がないので共箱は一応重要・・、ただ経験を積んで作品を見慣れてくると箱書きなどは不要・・。



底や口のつくりにも勢いがあり、こちらも隙がありません。うっすらと指の跡。この跡にしたがった持ってみるとかなりの握力が必要です。



このような美を理解できるのは、侘びさびを理解してきた日本人だけかもしれません。



河井寛次郎と浜田庄司・・、この二人は日本が生んだ偉大な民芸家であることは間違いありません。

最近よく見かけるネットオーク上の贋作、骨董店での窯作品の作品とは一線を画すことが未来へのこの二人の遺産をきちんと引き渡すことになります。




古伊万里柿右衛門様式 色絵梅下人物文輪花七寸皿

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柿右衛門手の作品が「なんでも鑑定団」に出品され、なんと高額の1000万円なり・・。そのような金額では売り買いされたことは聞いたこともありませんね。

さて、そのようなばかげた値段はさておいて、本日はおもしろい図柄ゆえ入手した柿右衛門手の作品を紹介します。

古伊万里柿右衛門様式 
色絵梅下人物文輪花七寸皿
合箱
口径205*高台径125*高さ38

柿右衛門手・・、正式には古伊万里柿右衛門様式というらしい。



17世紀、江戸時代の古伊万里柿右衛門様式の皿などは、有田で焼かれて、長崎の出島からオランダに運ばれるという輸出目的で作られました。近代になってから日本に里帰りした作品がかなりの数あるといいます。



白磁の肌がすごく柔らかい純白で、これを「濁手(にごしで)」と呼び、柿右衛門様式の絶対の特徴の一つらしいです。ただし、これは全部の柿右衛門手の共通かというとそうでもないとのこと。柿右衛門様式の中でも特に手の良い最高級品にのみあるもの。



「柿右衛門といえば濁手であるか否かが真贋判定のポイントのように言われますが、実際に江戸期の柿右衛門作品の大半は一般的な釉調で、濁手素地のものは非常に数が少ないです。おそらく柿右衛門窯の技術をもってしても、相当に難しく歩留まりの悪いものだったと考えられ、ごく限られた高級品にのみ用いられた特殊な技法であったのではないかと思います。柿右衛門手の特徴は青と緑の上絵付けの色調にありこののほうが見極めのポイントとなります。」ということらしい。骨董というものは杓子定規に考えてはいけないようです。

白を活かすように余白を大きくとり、明るい朱色を主体で絵を描いています。



柿右衛門様式はヨーロッパで“シノワズリー”といって中国趣味が流行っていた時代の作品なので、描かれる絵はみな中国風とのこと。ただしこれもすべてではない。



梅を観賞する高士に竿を持つ童子という非常に中国的な絵で、人物の表情が実に面白いですね。形状の輪花はよくある形態で、状態が非常によい作品です。



ただし日中を問わず贋作も多いし、コピー作品も多い。

中国産の贋作に多い特徴は・・。
「八角皿(直径約20.5cm/高さ約3cm) S字型のしのぎ(線状の陽刻)あり) 「十角皿(直径約22cm/高さ約3cm  しのぎあり)」
「ザラザラした感じの口紅」
「造りの甘い柿右衛門(角がピシッとしていない)」
「柿右衛門のどぎつい黄色」
「黒の輪郭線をわざと途切れとぎれに描いている(本物は擦れて消えている)」「黒の輪郭線が全く消えていないのも、更に不自然」
「高台畳付きが茶色くて汚い。(中国製贋物は顕著)」
「台形状の高台削り」
ということらしい。



さて、本作品が柿右衛門かどうかはさておいて、使うのが一番・・。「なんでも鑑定団」のような値段に心惑わされてはいけませんね。このようなばかげた値段を公にするので、また贋作が横行することになります。コピーでも面白ければそれでよいという当方のような楽しみ方もあります。



家内が買ってきたクッキーを載せて一服・・。

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