掛け軸の紐の巻き方には種々ありますが、いろいろとやってみると下記の写真のやり方が一番美しいように思います。
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ただ紐の長さ、紐の痛み具合、撚れの癖、ほどけやすさによっては通常の単純な巻き方のほうが便利かと思います。
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この結び方を知っている人は少ないと思いますし、慣れていないと紐を痛ませないとも限りませんが、紐の結び方を乱暴に行なう人もいるので、単純な基本的に結び方くらいは知っておいたほうがいいでしょう。この状態で必ず和紙で掛け軸は包んでください。この和紙が湿気対策には非常に有効なようです。
本日は小生が蒐集を始めたばかりの頃に入手した作品です。むろん「伝:」ですが・・。なんどかブログには「鯉」の作品の一部として投稿されていますが、きちんとした投稿としては未投稿の作品です。むろん大家の作品ゆえ、真作とは考えていませんが、真作でなくてもいろんな意味で所蔵してもためになる作品があるものです。
鯉 伝徳岡神泉筆
絹本着色絹装軸供箱二重箱
画サイズ:横435*縦352
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徳岡神泉の「鯉」はこのような淡白な作品ではないと思います。ただ蒐集を始めたばかりの頃には良いものも悪いものの思い出がたくさん詰まっています。まったく意味の無い贋作は処分しましたが、飾って愉しめるものは少し遺しておきたいもののあります。
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徳岡神泉:(とくおか しんせん 1896年2月14日 ~1972年6月9日)明治29年生まれ、昭和47年没。享年77歳。名は時次郎。京都に生まれ、
京都絵画専門学校を卒業後、竹内栖鳳塾に遊び、「菖蒲」、「鯉」等の作が著名であり、京都写生派の流れに立った写実を発展させ、自らの鋭利な感覚を包み、模糊としたやわらかい雰囲気を描出する神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。
作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。
日展委員を務め、1966年(昭和41年)文化勲章受章。
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背景の地塗りがもっとたしかに繊細で深みのあるのが徳岡神泉の作品の特徴ですね。この作品にはそのへんが乏しい。
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補足
1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。
1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。その後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)へ進学する。しかし、ここまで順調であった神泉だが、思わぬ挫折を味わうことになる。当時の京都画壇では、官展に入選することが画家としての第一歩と考えられていた為、当然神泉も学校在籍時から文展へ出品するが、ことごとく落選。
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1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。
1918年(大正7年)、自身会心の作として『魚市場』を出品するが、これも落選してしまい、大きな衝撃を受ける。同級生などが次々と入選し画家としての人生の第一歩を歩むなか、神泉は芸術に対する煩悶から孤独になり、人に会うことすら嫌いになってしまう。この頃妙心寺などの寺を転々とした。
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1919年(大正8年)第1回日本無名展に『雲の流れ』を出品。見事に褒章を受けるも、自信の回復には至らなかった。その後、京都を離れ富士山麓の岩淵に逃避。この頃、俊成の号を用いる。
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1920年(大正9年)に結婚。この頃、号を神泉と改める。号の由来は名園として知られる神泉苑によっている。その後現在の静岡県富士市に移り住むも、初めからやり直すことを決心し、京都に戻る。そして、再び竹杖会に入塾する。
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1925年(大正14年)第6回帝展に『罌粟(けし)』が初入選。初出品から約12年も経ってのことだった。その後、第7回、第8回とそれぞれ『蓮池』、『鯉』が帝展特選を受賞。1930年(昭和5年)には帝国美術院無鑑査の資格を得るなど、自信を取り戻した。しかし、本人は「展覧会に入選してから絵らしい絵を描くようになってしまった」と、この頃の画と自分を省みている。
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1938年(昭和13年)新文展審査委員。 1939年(昭和14年)第3回新文展に『菖蒲』を出品。絶賛され文部省買い上げとなった。また、この頃の作品から神泉様式とも呼ばれる独自の画風の確立が見え出し、戦後の飛躍へとつながる。
1947年(昭和22年)に『赤松』を出品。当時は、その日本画の花鳥諷詠さが省略され、赤松の幹が二本描かれているだけの作品に、「これが本当に日本画なのか」と疑問の声も挙がった。しかし、この作品は神泉様式を決定づける戦後初期の傑作であり、また、この頃の作品から神泉の代名詞とも言える繊細な地塗りの効果が現れ始めた。その後、日展を中心に作品を出品。対象の内観まで入り込んだ写生とも言われる、独自の画風を確立させた。
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1951年(昭和26年)『鯉』で日本芸術院賞を受賞。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員となる。
1961年(昭和36年)代表作『仔鹿』を出品。その極力単純化されたフォルムと、重厚かつ幽玄な雰囲気は、神泉様式の一つの到達点を示した。1963年(昭和38年)には東京、大阪で初の自薦展を開催する。
1966年(昭和41年)文化勲章を受章。この頃から体調の不安を訴えるようになるも、画業を続ける。しかし、1971年(昭和46年)には体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまう。
1972年(昭和47年)6月9日、腎不全よる尿毒症により死去。76歳。従三位銀杯を賜った。
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手前の大きな硝子の瓶は岩田藤七の作品です。こちらは真作・・。
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マンション住まいの頃、窓辺に飾っておいた家内との思い出の作品です。
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「真作とは思えない作品」の掛け軸の作品の紹介でしたので、ちょっと口直し。
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現代の硝子工芸は格段の技術の進歩でいろんな作品が出回っていますが、近代硝子工芸の作品のほうが魅力的だと思うのは小生だけではなかろうと思います。
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ただ紐の長さ、紐の痛み具合、撚れの癖、ほどけやすさによっては通常の単純な巻き方のほうが便利かと思います。
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本日は小生が蒐集を始めたばかりの頃に入手した作品です。むろん「伝:」ですが・・。なんどかブログには「鯉」の作品の一部として投稿されていますが、きちんとした投稿としては未投稿の作品です。むろん大家の作品ゆえ、真作とは考えていませんが、真作でなくてもいろんな意味で所蔵してもためになる作品があるものです。
鯉 伝徳岡神泉筆
絹本着色絹装軸供箱二重箱
画サイズ:横435*縦352
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徳岡神泉の「鯉」はこのような淡白な作品ではないと思います。ただ蒐集を始めたばかりの頃には良いものも悪いものの思い出がたくさん詰まっています。まったく意味の無い贋作は処分しましたが、飾って愉しめるものは少し遺しておきたいもののあります。
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徳岡神泉:(とくおか しんせん 1896年2月14日 ~1972年6月9日)明治29年生まれ、昭和47年没。享年77歳。名は時次郎。京都に生まれ、
京都絵画専門学校を卒業後、竹内栖鳳塾に遊び、「菖蒲」、「鯉」等の作が著名であり、京都写生派の流れに立った写実を発展させ、自らの鋭利な感覚を包み、模糊としたやわらかい雰囲気を描出する神泉様式とも表現される幽玄かつ象徴的な独自の日本画は、戦後の日本画に大きな影響を与えた。
作品全体に深い印象を与える繊細な地塗りも有名。
日展委員を務め、1966年(昭和41年)文化勲章受章。
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背景の地塗りがもっとたしかに繊細で深みのあるのが徳岡神泉の作品の特徴ですね。この作品にはそのへんが乏しい。
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1896年(明治29年)2月14日、京都市上京区に生まれる。
1909年(明治42年)に土田麦僊の紹介で竹内栖鳳の画塾竹杖会に入り、本格的に画を学ぶ。翌年には京都市立美術工芸学校絵画科に入学。卒業までの4年間に、金牌、銀牌を獲得するなど優秀な成績を修め、卒業制作の『寒汀』は学校買い上げの栄誉を受けた。その後、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)へ進学する。しかし、ここまで順調であった神泉だが、思わぬ挫折を味わうことになる。当時の京都画壇では、官展に入選することが画家としての第一歩と考えられていた為、当然神泉も学校在籍時から文展へ出品するが、ことごとく落選。
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1917年(大正6年)京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)別科修了。
1918年(大正7年)、自身会心の作として『魚市場』を出品するが、これも落選してしまい、大きな衝撃を受ける。同級生などが次々と入選し画家としての人生の第一歩を歩むなか、神泉は芸術に対する煩悶から孤独になり、人に会うことすら嫌いになってしまう。この頃妙心寺などの寺を転々とした。
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1919年(大正8年)第1回日本無名展に『雲の流れ』を出品。見事に褒章を受けるも、自信の回復には至らなかった。その後、京都を離れ富士山麓の岩淵に逃避。この頃、俊成の号を用いる。
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1920年(大正9年)に結婚。この頃、号を神泉と改める。号の由来は名園として知られる神泉苑によっている。その後現在の静岡県富士市に移り住むも、初めからやり直すことを決心し、京都に戻る。そして、再び竹杖会に入塾する。
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1925年(大正14年)第6回帝展に『罌粟(けし)』が初入選。初出品から約12年も経ってのことだった。その後、第7回、第8回とそれぞれ『蓮池』、『鯉』が帝展特選を受賞。1930年(昭和5年)には帝国美術院無鑑査の資格を得るなど、自信を取り戻した。しかし、本人は「展覧会に入選してから絵らしい絵を描くようになってしまった」と、この頃の画と自分を省みている。
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1938年(昭和13年)新文展審査委員。 1939年(昭和14年)第3回新文展に『菖蒲』を出品。絶賛され文部省買い上げとなった。また、この頃の作品から神泉様式とも呼ばれる独自の画風の確立が見え出し、戦後の飛躍へとつながる。
1947年(昭和22年)に『赤松』を出品。当時は、その日本画の花鳥諷詠さが省略され、赤松の幹が二本描かれているだけの作品に、「これが本当に日本画なのか」と疑問の声も挙がった。しかし、この作品は神泉様式を決定づける戦後初期の傑作であり、また、この頃の作品から神泉の代名詞とも言える繊細な地塗りの効果が現れ始めた。その後、日展を中心に作品を出品。対象の内観まで入り込んだ写生とも言われる、独自の画風を確立させた。
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1951年(昭和26年)『鯉』で日本芸術院賞を受賞。1957年(昭和32年)には日本芸術院会員となる。
1961年(昭和36年)代表作『仔鹿』を出品。その極力単純化されたフォルムと、重厚かつ幽玄な雰囲気は、神泉様式の一つの到達点を示した。1963年(昭和38年)には東京、大阪で初の自薦展を開催する。
1966年(昭和41年)文化勲章を受章。この頃から体調の不安を訴えるようになるも、画業を続ける。しかし、1971年(昭和46年)には体調がすぐれず、画業がまったく捗らなくなってしまう。
1972年(昭和47年)6月9日、腎不全よる尿毒症により死去。76歳。従三位銀杯を賜った。
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手前の大きな硝子の瓶は岩田藤七の作品です。こちらは真作・・。
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マンション住まいの頃、窓辺に飾っておいた家内との思い出の作品です。
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「真作とは思えない作品」の掛け軸の作品の紹介でしたので、ちょっと口直し。
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