昨夜から長男が自宅マンションにやってきました。小生の骨董部屋をほぼ占領・・。書斎に全面撤退。作品もかなり減らしました。調べの終了したものや疑わしきものはもはや手もとに置かず・・・。常に新しいことにチャレンジです。
長男を風呂に入れるのは未だうまくいかず、毎回ないてわめいての大騒動・・。そのうちどちらかが慣れるだろう・・。いたって健康で寝るか、飲むか、きょろきょろしてニコニコしてる長男坊です。
本日の作品も新しいものへのチャレンジ・・・、何気なくといえば聞こえが良いのですが、要するに衝動買い。プロなら許せないことでも、素人は反省するまもなくやってしまうことです。
唐唐獅子紋染付花瓶 南紀男山焼
合箱
口径105*胴径130*高さ270*底径110
本作品は印銘で「南紀男山」と刻印されていますが、南紀男山焼の銘は書かれたものがほとんどで、刻印があるかどうかは後学にします。
以前に投稿しました「偕楽園焼」と同じように紀州藩御用窯のようですが、当方は全くもってこの窯については詳しくありません。
作品が面白そうのなので、購入したように覚えています。いいものやら、悪いものなのやら検討のつかない作品です。
南紀男山という焼き物群はいずれにしてもあまり上等な部類ではなさそうには思います。
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南紀男山焼:文政10年(1827)頃から、明治11年(1878)にかけて、和歌山県有田郡広川町男山において焼かれたもので、紀州で最大の規模を持っていた。
当初、男山焼は紀州徳川家10代藩主治宝公の、殖産興業政策の一つとして生まれ、藩の御用窯であったが、安政3年(1856)頃から明治維新にかけての時期に、藩の手を離れ、開窯者「崎山利兵衛」の個人経営となり、途中一時開物局時代に藩との共同経営となったが、明治8年(1875)、利兵衛の没後、男山 嘉兵衛、土屋 政吉、など五人の共同経営となったが、製品の売れ行きが悪く、廃窯となった。明治11年(1878)までの50年余りにわたり焼き継がれた紀州焼物の代表的な陶磁器です。
窯場は、広八幡神社の東の小高い丘(男山)の南面に当り、その敷地内に入る相当広い窯器場でありました。そして大規模な登窯などもそなえ、陶磁器の生産量は紀州一を誇りました。原料の陶石は広川町山本の庚申山から、陶土は広川町周辺から採ったといわれ、販売は有田市の宮崎(箕島)陶器商人によって江戸、大阪をはじめ全国各地に船で積み出されました。
製品は主に庶民の日用雑器が多く、今も素朴な美しさと作った人のぬくもりを伝えていますが、なかには陶工のひたむきな美の追求の結果生れた、すばらしい作品もあり、高い評価とともに紀州の名品と、いまも人々に愛されています。そこには陶工として、また経営者として卓越した手腕を発揮した崎山利兵衛を中心に、名人気質の陶工 土屋政吉(光川亭仙馬)や、その他たくさんの陶工たちの優れた技と情熱によって花ひらいた窯であり、紀州の名産と、いまも人々にいわれる由縁でもあります。
あらゆる物が焼かれたと言っても過言ではなく、交趾写、青磁写、色絵写、等々が制作されたが、染付けの物が最も多く、一般大衆向けの製品を数多く作り、伊万里焼きに習って、紀州簑島の陶器商人の手により、藩、県の内外に販売されました。
製品には、在銘のものと、無銘のものが有り、割合から言えば、無銘の物が圧倒的に多く、在銘品は最初から念を入れて作られたようで、技術的にも非常に優秀であり、嗜好的な製品が多いようです。
銘の種類としては、「南紀男山」の染付け銘が大半を占めますが、作者の名前が入った物もあります。その他、窯跡からは、「偕楽園製」「三楽園製」「南紀高松」の銘の入った物も出土しています。
無銘品は、技術的にも在銘品に比べ低級な物が多く、これらは伊万里焼に混ぜて売りさばいた例が多くあげられています。在銘品は藩の御用品であったとも言われていますが、長い間焼かれたわりには、土取場、原材料の供給源、職人の問題等々、不明な点が多いようです。
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長男を風呂に入れるのは未だうまくいかず、毎回ないてわめいての大騒動・・。そのうちどちらかが慣れるだろう・・。いたって健康で寝るか、飲むか、きょろきょろしてニコニコしてる長男坊です。
本日の作品も新しいものへのチャレンジ・・・、何気なくといえば聞こえが良いのですが、要するに衝動買い。プロなら許せないことでも、素人は反省するまもなくやってしまうことです。
唐唐獅子紋染付花瓶 南紀男山焼
合箱
口径105*胴径130*高さ270*底径110
本作品は印銘で「南紀男山」と刻印されていますが、南紀男山焼の銘は書かれたものがほとんどで、刻印があるかどうかは後学にします。
以前に投稿しました「偕楽園焼」と同じように紀州藩御用窯のようですが、当方は全くもってこの窯については詳しくありません。
作品が面白そうのなので、購入したように覚えています。いいものやら、悪いものなのやら検討のつかない作品です。
南紀男山という焼き物群はいずれにしてもあまり上等な部類ではなさそうには思います。
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南紀男山焼:文政10年(1827)頃から、明治11年(1878)にかけて、和歌山県有田郡広川町男山において焼かれたもので、紀州で最大の規模を持っていた。
当初、男山焼は紀州徳川家10代藩主治宝公の、殖産興業政策の一つとして生まれ、藩の御用窯であったが、安政3年(1856)頃から明治維新にかけての時期に、藩の手を離れ、開窯者「崎山利兵衛」の個人経営となり、途中一時開物局時代に藩との共同経営となったが、明治8年(1875)、利兵衛の没後、男山 嘉兵衛、土屋 政吉、など五人の共同経営となったが、製品の売れ行きが悪く、廃窯となった。明治11年(1878)までの50年余りにわたり焼き継がれた紀州焼物の代表的な陶磁器です。
窯場は、広八幡神社の東の小高い丘(男山)の南面に当り、その敷地内に入る相当広い窯器場でありました。そして大規模な登窯などもそなえ、陶磁器の生産量は紀州一を誇りました。原料の陶石は広川町山本の庚申山から、陶土は広川町周辺から採ったといわれ、販売は有田市の宮崎(箕島)陶器商人によって江戸、大阪をはじめ全国各地に船で積み出されました。
製品は主に庶民の日用雑器が多く、今も素朴な美しさと作った人のぬくもりを伝えていますが、なかには陶工のひたむきな美の追求の結果生れた、すばらしい作品もあり、高い評価とともに紀州の名品と、いまも人々に愛されています。そこには陶工として、また経営者として卓越した手腕を発揮した崎山利兵衛を中心に、名人気質の陶工 土屋政吉(光川亭仙馬)や、その他たくさんの陶工たちの優れた技と情熱によって花ひらいた窯であり、紀州の名産と、いまも人々にいわれる由縁でもあります。
あらゆる物が焼かれたと言っても過言ではなく、交趾写、青磁写、色絵写、等々が制作されたが、染付けの物が最も多く、一般大衆向けの製品を数多く作り、伊万里焼きに習って、紀州簑島の陶器商人の手により、藩、県の内外に販売されました。
製品には、在銘のものと、無銘のものが有り、割合から言えば、無銘の物が圧倒的に多く、在銘品は最初から念を入れて作られたようで、技術的にも非常に優秀であり、嗜好的な製品が多いようです。
銘の種類としては、「南紀男山」の染付け銘が大半を占めますが、作者の名前が入った物もあります。その他、窯跡からは、「偕楽園製」「三楽園製」「南紀高松」の銘の入った物も出土しています。
無銘品は、技術的にも在銘品に比べ低級な物が多く、これらは伊万里焼に混ぜて売りさばいた例が多くあげられています。在銘品は藩の御用品であったとも言われていますが、長い間焼かれたわりには、土取場、原材料の供給源、職人の問題等々、不明な点が多いようです。
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