仕事中の小生をさておいて、春の陽気に浮かれた我が家はウイークデイに花見にでかけたようです。いつもは張り合っている?義父とも息子は仲良くしていたようです。
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息子は大はしゃぎであったらしく、小生が帰宅すると「お弁当おいしかったよ!」と報告がありました。スマホで池で自分が転んだ動画を見せては自分で大笑い!
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昨日から新しい年度になります。いつものことですが会社の業績としては今年はとくに厳しい年度になりそうですが、今年度は縁起を担いでいきましょう
転んでも大笑いできるような気概が必要ですね。
さて本日は郷里出身の画家である寺崎廣業の作品ですが、本作品は共箱もなく判定は難しいように思われますが、筆致、落款、印章から真作と判断される作品です。
布袋図 寺崎廣業筆 その62
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2180*横525 画サイズ:縦1200*横390
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布袋:(ほてい、生年不詳 - 917年(?))は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では室町時代後期に成立した七福神に組み入れられ、七福神の一柱として信仰されている。真言三宝宗大本山清荒神清澄寺では三宝荒神の眷属とされる。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった。
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特筆すべきは布袋様は実在したとされる人物ということですが、これについては後述の補足を読んでください。富貴繁栄を司る七福神とされながら、所持品の袋は宝が入っているのではなく「堪忍袋」という点は意味深ですね。
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補足
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。
謎めいた公案のような問答も残されている。偈や歌も残しており、歌の中では、心の真実の大切さや、閑たる心境を求めることを説く。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり(貞明3年(917)に嶽林寺で遷化したという説もある)埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。
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布袋が死の間際に残した偈文が、
彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)
布袋和尚、景徳傳燈録
と言われる。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智顗、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。
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「贈呈 下田愛子女 □本半水 押印」と巻き止めに記されており、箱書きには「□本半水画 押印」とありますが、下田愛子なる女性に□本半水なる人が贈呈した作品としか推定できず、残念ながら詳細は不明です。
女性に布袋様の作品を贈るというのはどのような意図なのだろうか? と考えてしまいますね。
他の真作(「月下竹図」寺崎廣業筆 その60)の落款と印章の比較です。この印章は明治末40年頃から大正初期にかけての作品に多用されています。
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印章、落款もさることながら筆致がいいですね。寺崎廣業の作品としてはそれほどの力作でもないので評価はそれほど高くはありませんが、なんといっても縁起物です。
昨日は新入社員の入社式でした。辞令を渡しながら初々しい顔を見ていると「頑張らねば」という闘志が沸いてきます。

息子は大はしゃぎであったらしく、小生が帰宅すると「お弁当おいしかったよ!」と報告がありました。スマホで池で自分が転んだ動画を見せては自分で大笑い!

昨日から新しい年度になります。いつものことですが会社の業績としては今年はとくに厳しい年度になりそうですが、今年度は縁起を担いでいきましょう

転んでも大笑いできるような気概が必要ですね。
さて本日は郷里出身の画家である寺崎廣業の作品ですが、本作品は共箱もなく判定は難しいように思われますが、筆致、落款、印章から真作と判断される作品です。
布袋図 寺崎廣業筆 その62
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2180*横525 画サイズ:縦1200*横390


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布袋:(ほてい、生年不詳 - 917年(?))は、唐末の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したとされる伝説的な仏僧。水墨画の好画題とされ、大きな袋を背負った太鼓腹の僧侶の姿で描かれる。日本では室町時代後期に成立した七福神に組み入れられ、七福神の一柱として信仰されている。真言三宝宗大本山清荒神清澄寺では三宝荒神の眷属とされる。肥満体の布袋は広い度量や円満な人格、また富貴繁栄をつかさどるものと考えられ、所持品である袋は「堪忍袋」とも見なされるようになった。
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特筆すべきは布袋様は実在したとされる人物ということですが、これについては後述の補足を読んでください。富貴繁栄を司る七福神とされながら、所持品の袋は宝が入っているのではなく「堪忍袋」という点は意味深ですね。

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補足
本来の名は釈契此(しゃくかいし)であるが、常に袋を背負っていたことから布袋という俗称がつけられた。四明県の出身という説もあるが、出身地も俗姓も不明である。図像に描かれるような太鼓腹の姿で、寺に住む訳でもなく、処処を泊まり歩いたという。また、そのトレードマークである大きな袋を常に背負っており、生臭ものであっても構わず施しを受け、その幾らかを袋に入れていたという。
雪の中で横になっていても布袋の身体の上だけには雪が積もっていなかった、あるいは人の吉凶を言い当てたなどという類の逸話が伝えられる。
謎めいた公案のような問答も残されている。偈や歌も残しており、歌の中では、心の真実の大切さや、閑たる心境を求めることを説く。
その最期についても不思議な逸話が伝えられており、仙人の尸解に類している。天復年間(9世紀末)に奉川県で亡くなり(貞明3年(917)に嶽林寺で遷化したという説もある)埋葬されたにもかかわらず、後日、他の州で見かけられたというのである。その没後あまり時を経ないうちから、布袋の図像を描く習慣が江南地方で行われていたという記録がある。

布袋が死の間際に残した偈文が、
彌勒真彌勒 分身千百億(弥勒は真の弥勒にして分身千百億なり)
時時示時分 時人自不識(時時に時人に示すも時人は自ら識らず)
布袋和尚、景徳傳燈録
と言われる。このことから、実は布袋は弥勒菩薩の垂迹、つまり化身なのだという伝聞が広まったという。
なお、布袋を禅僧と見る向きもあるが、これは後世の付会である。10世紀後半に記された『宋高僧伝』巻21「感通篇」に立てられた「唐明州奉化県釈契此」(布袋)の伝には、彼と禅との関係について一切触れていない。布袋と禅宗の関係が見られるのは、時代が下がって11世紀初頭、『景徳傳燈録』巻27に「禅門達者雖不出世有名於時者」として、梁の宝誌や、天台智顗、寒山拾得らの異僧・高僧たちと共に、「明州布袋和尚」として立伝される頃からのことである。
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「贈呈 下田愛子女 □本半水 押印」と巻き止めに記されており、箱書きには「□本半水画 押印」とありますが、下田愛子なる女性に□本半水なる人が贈呈した作品としか推定できず、残念ながら詳細は不明です。
女性に布袋様の作品を贈るというのはどのような意図なのだろうか? と考えてしまいますね。


他の真作(「月下竹図」寺崎廣業筆 その60)の落款と印章の比較です。この印章は明治末40年頃から大正初期にかけての作品に多用されています。


印章、落款もさることながら筆致がいいですね。寺崎廣業の作品としてはそれほどの力作でもないので評価はそれほど高くはありませんが、なんといっても縁起物です。
昨日は新入社員の入社式でした。辞令を渡しながら初々しい顔を見ていると「頑張らねば」という闘志が沸いてきます。