九州の武雄で焼かれた焼き物、その作品を最初に本ブログにて紹介したのは弓野焼。「弓野の松絵」と「なんでも鑑定団」にもなんどか登場した作品群です。松絵の作品の次に本ブログで紹介したので櫛目の作品。そして今回は三島手の作品となります。
いつの時代の作かは現在調査中ですが、大きさが45センチと大きく、傷も少ないことから稀有な作品と判断しています。ただともかくデカイ、重たい・・。この点も稀有!
三島唐津象嵌大鉢
藤谷陶軒鑑定箱入
口径445*高台径 *高さ155
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生渇き状態で文様が押印される作りで、例にもれず歪みが生じています。
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三島唐津:朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
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高台の作りは力強いというより、周囲が面とられ丁寧な意図が感じられます。
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絵付けはない作品ですが、透明釉薬が白く垂れいい景色となっています。
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象嵌は口縁に向けて五段あり丁寧な作りですね。
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見込みには目跡のような跡があります。意匠的なものか重ね焼きのものか調べています。
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象嵌や高台の作りが丁寧に作られており、上手手の作と思われますが・・。
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箱は杉箱に収められています。
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「藤谷陶軒鑑定箱入」となりますが、「藤谷陶軒」なる人物については詳細は解っていません。時代は500年前? 桃山時代となると唐津焼の創成期になりますが、それはいくらなんでも遡り過ぎであろうと思います。遡っても1600年以降・・。
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この作品と比較して興味深い作品に下記の作品があります。
参考作品
三島唐津象嵌 雲鶴文大皿
2013年08月23日 なんでも鑑定団出品作
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評価金額:180万円
江戸前期から中期にかけて、現在の佐賀県武雄市で焼成された三島唐津。ほとんどが発掘品か破片で無傷でみつかることは希少。土を成型し、半乾きのうちに木型で文様や鶴の一部を押す。それから乾燥を経て白泥を埋めて象嵌にする。鉄絵で鶴の足や葦を描き焼成する。
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うしろの高台をみると力強い削りだしが現れる。日常品として生産されたことが見て取れる。この皿と全く同じものが佐賀県立博物館に収蔵されている。(下の写真)
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これらの作品は象嵌に鉄絵が施されており、一工夫為されている作品ですが、象嵌のみの作品には下記の参考作品があります。
三島唐津象嵌大鉢
江戸中期 寸法(径)34.5cm*寸法(高)10.5cm
販売価格25万円
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この作品は補修跡があり、象嵌も精巧には出来てません。
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本作品よりサイズがワンサイズダウンしており評価は一桁違いますが、「なんでも鑑定団」の評価の方が高すぎるのでしょう。
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唐津焼:近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。
古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、2005年の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。
伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。
文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。
古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。
文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。
草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたり、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
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ところで武雄で江戸中期以降に作られた作品は「弓野の松絵」以外の櫛目の作品では下記の作品が本ブログで紹介されています。
古武雄焼 その4 緑褐打釉櫛目文大平鉢
古杉合箱
口径365*高台径*高さ105
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上記の作品と比較して興味深いのは下記の参考作品ですが、同時期の上手手の作品と思われます。
参考作品
櫛刷毛目文大皿 二彩手
佐賀県立磁器文化館蔵(九州の古陶磁 館蔵名品撰)
肥前武雄産 17世紀中葉~後半
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本日紹介した作品は武雄で焼成された作品は相違ないでしょうが、二彩手と同時期(江戸後期頃)かもしれませんね。
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決して上手手の作品群ではないものの民芸としての力強さが魅力です。そしてともかく重い!
いつの時代の作かは現在調査中ですが、大きさが45センチと大きく、傷も少ないことから稀有な作品と判断しています。ただともかくデカイ、重たい・・。この点も稀有!
三島唐津象嵌大鉢
藤谷陶軒鑑定箱入
口径445*高台径 *高さ155
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生渇き状態で文様が押印される作りで、例にもれず歪みが生じています。
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三島唐津:朝鮮の陶器、三島手の技法を受け継ぎ、日本風にアレンジしたもの。象嵌の一種で、器が生乾きのうちに雲鶴や印花紋などの紋様を施し、化粧土を塗って、仕上げ作業を施し、その上に長石釉、木炭釉を掛けて焼成したもの。
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高台の作りは力強いというより、周囲が面とられ丁寧な意図が感じられます。
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絵付けはない作品ですが、透明釉薬が白く垂れいい景色となっています。
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象嵌は口縁に向けて五段あり丁寧な作りですね。
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見込みには目跡のような跡があります。意匠的なものか重ね焼きのものか調べています。
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象嵌や高台の作りが丁寧に作られており、上手手の作と思われますが・・。
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箱は杉箱に収められています。
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「藤谷陶軒鑑定箱入」となりますが、「藤谷陶軒」なる人物については詳細は解っていません。時代は500年前? 桃山時代となると唐津焼の創成期になりますが、それはいくらなんでも遡り過ぎであろうと思います。遡っても1600年以降・・。
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この作品と比較して興味深い作品に下記の作品があります。
参考作品
三島唐津象嵌 雲鶴文大皿
2013年08月23日 なんでも鑑定団出品作
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評価金額:180万円
江戸前期から中期にかけて、現在の佐賀県武雄市で焼成された三島唐津。ほとんどが発掘品か破片で無傷でみつかることは希少。土を成型し、半乾きのうちに木型で文様や鶴の一部を押す。それから乾燥を経て白泥を埋めて象嵌にする。鉄絵で鶴の足や葦を描き焼成する。
Image may be NSFW.
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うしろの高台をみると力強い削りだしが現れる。日常品として生産されたことが見て取れる。この皿と全く同じものが佐賀県立博物館に収蔵されている。(下の写真)
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これらの作品は象嵌に鉄絵が施されており、一工夫為されている作品ですが、象嵌のみの作品には下記の参考作品があります。
三島唐津象嵌大鉢
江戸中期 寸法(径)34.5cm*寸法(高)10.5cm
販売価格25万円
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この作品は補修跡があり、象嵌も精巧には出来てません。
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本作品よりサイズがワンサイズダウンしており評価は一桁違いますが、「なんでも鑑定団」の評価の方が高すぎるのでしょう。
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唐津焼:近世初頭から肥前国(現在の佐賀県および長崎県)に散在する諸窯で生産された陶器の総称である。唐津焼の名称は、製品が唐津の港から積み出されたことに由来するともいわれるが、定かではない。
古唐津の窯跡は、現行の唐津市域のみならず佐賀県武雄市・伊万里市・有田町、長崎県佐世保市・平戸市などを含む広範囲に分布している。唐津市南部の旧・北波多村、旧相知町の区域には初期の古唐津の窯跡が残っているが、2005年の市町村合併以前の旧・唐津市の区域には古唐津の窯跡はほとんど残っていない。
伊万里、唐津などの肥前の陶磁器は、文禄元年から慶長3年(1592年から1598年)に至る豊臣秀吉による朝鮮半島への出兵,いわゆる文禄・慶長の役(壬申倭乱)の際に、朝鮮半島から同行してきた陶工たちが祖国の技術を伝え、開窯したというのが通説になっていた。しかし、窯跡の調査、堺など消費地での陶片の出土状況などから、唐津焼の創始は文禄・慶長の役よりはやや早く、1580年代に開始されたとみられている。
天正19年(1591年)に没した千利休が所持していた道具の中には奥高麗茶碗(唐津焼の一種)の「子のこ餅」(ねのこもち)があったことが知られている。また、長崎県壱岐市の聖母宮(しょうもぐう)には天正20年(1592年)銘のある黒釉四耳壺があり、これが唐津の在銘最古遺品とされている。以上のことから、唐津焼の生産開始は遅くとも1591年以前であることがわかる。
文献上は、古田織部の慶長8年(1603年)の茶会記に、「唐津足有御水指」「唐津焼すじ水指」とあるのが、唐津焼の記録上の初見とされている。寛永15年(1638年)成立の松江重頼の俳論書『毛吹草』には「唐津今利ノ焼物」という文言があり、「唐津」が土もの(陶器)、「今利」(伊万里)が石もの(磁器)を意味すると解されている。瀬戸内海沿岸や山陰、北陸などの日本海沿岸の地域では、他地方で「せともの」と呼ぶ陶器質のうつわのことを「からつもの」と呼称することがあり、「唐津」は肥前産の陶器の代名詞であった。
古唐津の初期の窯跡は、波多氏の居城があった岸岳山麓(唐津市の旧・北波多村・相知町の区域)に点在している。岸岳古唐津の古窯群は飯洞甕窯(はんどうがめがま)系と帆柱窯系に二分され、藁灰釉を用いた「斑唐津」は後者で生産された。窯は朝鮮式の割竹形登窯で、特に飯洞甕下窯跡(佐賀県指定史跡)には窯床と窯壁の一部が残存し、貴重である。
文禄・慶長の役以降になると、肥前陶器の産地は広がり、窯の所在地によって、松浦系古唐津(佐賀県伊万里市など)、武雄系古唐津(佐賀県武雄市など)、平戸系古唐津(長崎県平戸市)などと称される。中でも藤の川内窯(佐賀県伊万里市松浦町)、市ノ瀬高麗神窯(伊万里市大川内町)、甕屋の谷窯(伊万里市大川町川原)などが、絵唐津の名品を焼いた窯として知られる。
草創期は食器や甕(大型の甕が多く肥前の大甕と呼ばれる)など日用雑器が中心であったが、この頃になると唐津焼の特徴であった質朴さと侘びの精神が相俟って茶の湯道具、皿、鉢、向付(むこうづけ)などが好まれるようになった。また、唐津の焼き物は京都、大坂などに販路を拡げたため、西日本では一般に「からつもの」と言えば、焼き物のことを指すまでになった。とりわけ桃山時代には茶の湯の名品として知られ、一井戸二楽三唐津(又は一楽二萩三唐津)などと格付けされた。
だが江戸時代に入って窯場が林立したために、燃料の薪の濫伐による山野の荒廃が深刻な問題となった。それ故に鍋島藩は藩内の窯場の整理、統合を断行、それによって窯場は有田に集約されたため、唐津も甚大な影響を被り、多くの窯元が取り壊された。しかし、唐津の茶器は全国でも評判が高かったため、茶陶を焼くための御用窯として存続した。その間の焼き物は幕府にも多数献上品が作られたため、献上唐津と呼ばれる。
明治維新によって藩の庇護を失った唐津焼は急速に衰退、有田を中心とした磁器の台頭もあって、多くの窯元が廃窯となった。だが後の人間国宝、中里無庵が「叩き作り」など伝統的な古唐津の技法を復活させ、再興に成功させた。現在は約50の窯元があり、伝統的な技法を継承する一方で、新たな作品を試みたり、時代の移り変わりの中で、着実な歩みを遂げている。
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ところで武雄で江戸中期以降に作られた作品は「弓野の松絵」以外の櫛目の作品では下記の作品が本ブログで紹介されています。
古武雄焼 その4 緑褐打釉櫛目文大平鉢
古杉合箱
口径365*高台径*高さ105
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上記の作品と比較して興味深いのは下記の参考作品ですが、同時期の上手手の作品と思われます。
参考作品
櫛刷毛目文大皿 二彩手
佐賀県立磁器文化館蔵(九州の古陶磁 館蔵名品撰)
肥前武雄産 17世紀中葉~後半
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本日紹介した作品は武雄で焼成された作品は相違ないでしょうが、二彩手と同時期(江戸後期頃)かもしれませんね。
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決して上手手の作品群ではないものの民芸としての力強さが魅力です。そしてともかく重い!