息子は遊ぶときに真剣な眼になりますが、この眼は嫌いではありません。
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一緒に仕事をする人を見るなら、このような真剣な眼付になる人間を信用することにしています。
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さて現時点での釧雲泉の作品を整理してみました。
骨董の三原則「自分のお金で買うこと」、「蒐集を休んで勉強すること」、「売ってみて第三者的価値を知ること」のうちの2番目の「蒐集を休んで勉強すること」の釧雲泉の第2段階でしたが、これが結構労力に要る作業で今まで集めた資料と見比べても1週間以上かかりました。
好みで?分類すると大雑把に下記のようになりました。
所蔵作品 寛政年間 真作 7作品
享和年間 真作 4作品
文化年間 真作12作品 以上真作23作品(1,2点はまだ確証がありません。)
真贋不詳 4作品
贋作 4作品
釧雲泉に詳しい「すぎぴい」さんの本ブログへのコメントが非常の的を得ていて参考になりました。他に「Shozo]さんのコメントがありましたが印章が複数あったという点を見落としているようで早計なコメントして参考にしました。
平福穂庵に始まり、大橋翆石らを整理してみると今まで気が付かなかった点が多々あって面白くて夜中まで夢中になりました。現代はパソコンを駆駆使して資料の整理ができますが、さすがにインターネトではまったくの資料不足です。インターネット以外の少ない資料の中から読み取る執念みたいなものが必要となりました。ふ~・・・。
さて久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介です。真贋はまだ判断がつきかねている作品となりますが、おそらく真作だろうと推察しています。分類上は「真贋不詳」です。
大州浅絳訪友山水図 釧雲泉筆 寛政元年年(1789年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2180*横740 画サイズ:縦1300*横580
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「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在していたと考えられる。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃、釧雲泉30歳頃の若い頃の作と思われます。
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「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在して描いたと考えられます。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃の四国に在していた頃の作と思われます。「岱就」の落款の書体から推察すると寛政4年(1792年)の作とも判断されますが、当方の所蔵作品の中で最も製作時期の早い作品のようです。
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掛軸の印は、「岱就 仲孚」で一般的な「釧就 仲孚」とは異なります。この印と同一ではありませんが、同様のものは下記の作品にも押印されています。
雲泉寫意 浅絳山水図 釧雲泉筆 寛政8年(1796年)頃
水墨淡彩紙本軸装 軸先骨細工 合箱
全体サイズ:縦1990*横417 画サイズ:縦1370*横28
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釧雲泉:この頃の来歴
雲泉の30歳以前の経歴はその墓碑銘にわずかに伝わるのみである。これによると宝暦9年(1759年)に島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県千々石町)付近に生まれ、幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという。10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。その後、理由は明らかでなく期間も不明であるが、父に同行し長崎に遊学し、清国人について学問と南画の画法を学び華音にも通じた。このときの師は明らかではない。以来、董源や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。また来舶した清人画家 張秋谷にも影響された。
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父が没すると、一人万里の旅に向い山陽道から紀伊、淡路、四国の諸国を巡り歩いた。この間に讃岐で長町竹石と知りあい交友を深めた。その後、江戸に下向し居を構える。
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寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねている。その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中(黄微 黄備)に赴き森岡邸に身を寄せる。同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流した。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流。同年6月には再び蒹葭堂を訪ねている。寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。寛政10年(1798年)、蒹葭堂を訪ねる。
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正直なところ現在釧雲泉の作品は整理途中で中現在断した状態です。資料がまだまだ足りません。
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いろんな角度から作品を分析するにはもう少し時間がかかるようです。確信の得られた作品が思いのほかあったのはよかったと思っています。
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ともかくこの時期の著名な南画家の作品は難しいですが、「真剣な眼付き」で臨み「開眼」してみたいもの、かなりの情報と知識と胆力が要りますね。
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さて現時点での釧雲泉の作品を整理してみました。
骨董の三原則「自分のお金で買うこと」、「蒐集を休んで勉強すること」、「売ってみて第三者的価値を知ること」のうちの2番目の「蒐集を休んで勉強すること」の釧雲泉の第2段階でしたが、これが結構労力に要る作業で今まで集めた資料と見比べても1週間以上かかりました。
好みで?分類すると大雑把に下記のようになりました。
所蔵作品 寛政年間 真作 7作品
享和年間 真作 4作品
文化年間 真作12作品 以上真作23作品(1,2点はまだ確証がありません。)
真贋不詳 4作品
贋作 4作品
釧雲泉に詳しい「すぎぴい」さんの本ブログへのコメントが非常の的を得ていて参考になりました。他に「Shozo]さんのコメントがありましたが印章が複数あったという点を見落としているようで早計なコメントして参考にしました。
平福穂庵に始まり、大橋翆石らを整理してみると今まで気が付かなかった点が多々あって面白くて夜中まで夢中になりました。現代はパソコンを駆駆使して資料の整理ができますが、さすがにインターネトではまったくの資料不足です。インターネット以外の少ない資料の中から読み取る執念みたいなものが必要となりました。ふ~・・・。
さて久方ぶりに釧雲泉の作品の紹介です。真贋はまだ判断がつきかねている作品となりますが、おそらく真作だろうと推察しています。分類上は「真贋不詳」です。
大州浅絳訪友山水図 釧雲泉筆 寛政元年年(1789年)頃
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2180*横740 画サイズ:縦1300*横580
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「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在していたと考えられる。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃、釧雲泉30歳頃の若い頃の作と思われます。
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「大洲岱就 押印」と落款にあり、愛媛県の大洲地方に滞在して描いたと考えられます。釧雲泉の来歴から察すると寛政年間初めの頃の四国に在していた頃の作と思われます。「岱就」の落款の書体から推察すると寛政4年(1792年)の作とも判断されますが、当方の所蔵作品の中で最も製作時期の早い作品のようです。
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掛軸の印は、「岱就 仲孚」で一般的な「釧就 仲孚」とは異なります。この印と同一ではありませんが、同様のものは下記の作品にも押印されています。
雲泉寫意 浅絳山水図 釧雲泉筆 寛政8年(1796年)頃
水墨淡彩紙本軸装 軸先骨細工 合箱
全体サイズ:縦1990*横417 画サイズ:縦1370*横28
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釧雲泉:この頃の来歴
雲泉の30歳以前の経歴はその墓碑銘にわずかに伝わるのみである。これによると宝暦9年(1759年)に島原藩藩士の子として肥前島原野田名(長崎県千々石町)付近に生まれ、幼少より絵を好み、いつも神社の大きな石(雲泉の手習い石)に泥を塗って竹箆で絵を描いては衣服を汚して帰ったという。10歳の頃、雲仙一乗院の小僧となるが、ここでも暇さえあれば絵を描いていたという。その後、理由は明らかでなく期間も不明であるが、父に同行し長崎に遊学し、清国人について学問と南画の画法を学び華音にも通じた。このときの師は明らかではない。以来、董源や倪雲林・王麓台に私淑するようになる。また来舶した清人画家 張秋谷にも影響された。
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父が没すると、一人万里の旅に向い山陽道から紀伊、淡路、四国の諸国を巡り歩いた。この間に讃岐で長町竹石と知りあい交友を深めた。その後、江戸に下向し居を構える。
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寛政3年3月(1791年)、32歳のとき十時梅厓の紹介で伊勢長島に流謫中の木村蒹葭堂を訪ねている。その後、また江戸に戻ると、予てより親交のあった備中庭瀬藩江戸家老海野蠖斎の計らいで、蠖斎の実兄で同藩家老森岡延璋(松蔭)に紹介され、備中(黄微 黄備)に赴き森岡邸に身を寄せる。同年、脱藩前の浦上玉堂や淵上旭江、梶原藍渠、後藤漆谷、長町竹石らと松林寺で賀宴を催して交流した。その後、約3年間は倉敷を中心に旺盛な創作活動を行う。備中長尾の小野泉蔵とも交流をもった。寛政4年(1792年)頃から、備州と京都、大坂をたびたび往来し、儒学者の頼山陽、菅茶山、皆川淇園、画家の浦上春琴、浜田杏堂らと交流。同年6月には再び蒹葭堂を訪ねている。寛政8年以降は主に備前東部を拠点としたとみられる。寛政10年(1798年)、蒹葭堂を訪ねる。
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正直なところ現在釧雲泉の作品は整理途中で中現在断した状態です。資料がまだまだ足りません。
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いろんな角度から作品を分析するにはもう少し時間がかかるようです。確信の得られた作品が思いのほかあったのはよかったと思っています。
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ともかくこの時期の著名な南画家の作品は難しいですが、「真剣な眼付き」で臨み「開眼」してみたいもの、かなりの情報と知識と胆力が要りますね。