本日はずいぶん前に購入した作品で、また以前に本ブログにて紹介した作品です。一部に補修跡があるので、あらためて補修しようかと思い、男の隠れ家から持ち出してきた作品です。改めていろいろと考察してみましたので投稿します。
リメイク 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135
「柿本人麻呂」は古くから歌聖と称され、多くの画家が描き、また塑像も多くの陶工が製作していますが、本作品は塑像で有名な仁阿弥道八の作と銘が入っています。有名が故に真贋は不明ですので「伝」としておりますので、ご了解ください。
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柿本人麻呂についてはあまりに有名ですが、下記に記事を記述しておきます。
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柿本人麻呂:(かきのもとのひとまろ、660年頃~720年頃)。飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。
彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれていないため万葉集が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地転々とし最後に石見国でなくなったとされている。
彼は万葉集第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
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ご存知のように「仁阿弥道八」は「二代 高橋道八」のことですが、歴代の高橋道八については下記の記事のとおりです。
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高橋道八:京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。江戸時代後期より作陶に携わり、特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。
初代 道八(元文5年(1740年)- 文化元年4月26日(1804年6月4日)) 伊勢亀山藩出身。字「周平」名「光重」。号は「松風亭空中」とも称する。次男のため士分を離れ、京に出て陶器職人となる。後独立し粟田口に開窯。活躍期は煎茶隆盛期でもあり、数多くの煎茶器の名品を制作した。自らも池大雅、上田秋成、売茶翁らの文人と交際。南画を趣味とする。
初代 尾形周平(1788年?1800年?-1829年?1830年?) 初代三男、仁阿弥道八の弟。幼名「熊蔵」名「光吉」。奥田頴川や兄・仁阿弥道八の元で修行の後独立した。尾形乾山にあやかり「尾形」姓を名乗る。青華、色絵、青磁を得意とし、煎茶器(特に急須、湯沸、茶碗)に名品が多い。
二代 道八(天明3年(1783年) - 安政2年5月26日(1855年7月9日)) 初代の次男。「仁阿弥道八」の名で著名である。
奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られる。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼(偕楽園焼)立ち上げに参画、以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げに参画、京焼技法の全国頒布に助力。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯、作陶を続けた。
同時代の同じ京焼の名手である青木木米とは全く対照的な作風で、多種多彩で癖がない作品を大量に製作した。作品の中には全く対照的な焼き物である楽焼も色絵もある。特に色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称された名手であった。また茶碗などの食器や容器ばかりではなく、人物や動物などの陶像や磁器像の製作も行い、名品が多いと言われる。更に李朝磁器や青花磁器の製作も行っている。
それらの作品に共通する特徴を挙げると品の良い「高貴性」が感じられる点である。それ故に日本各地の名家から招かれ、御庭焼の師として仰がれたと考えられる。
三代 道八(文化8年(1811年) - 明治12年(1879年)8月2日) 二代の長男。幼名「道三」、名「光英(みちふさ)」。号「華中亭」「道翁」。嘉永3年(1850年)、高松藩に招かれ「讃岐窯」を開窯した。明治2年(1869年)、佐賀藩の招聘により伊万里焼技術指導。仁和寺宮より法橋に任じられる。青花、白磁の製作にも成功。晩年は祖父の桃山窯に引退。技法としては青磁、雲鶴模様、三島手、刷毛目を得意とし、煎茶器の名品を多数製作した。
四代 道八(弘化2年(1845年)5月 - 明治30年(1897年)7月26日) 三代の息子。名「光頼」号「華中亭」。明治7年(1874年)襲名。京都府勧業場の御用係として活躍。青花磁・彫刻・白磁を得意とする。
五代 道八(明治2年(1869年)- 大正4年(1914年)) 本名「小川勇之助」。滋賀県甲賀郡出身。四代死去時に子息幼少のため、一時的に名跡を嗣ぐ。
六代 道八(明治14年(1881年)- 昭和16年(1941年)) 四代次男。本名「英光」、号「華中亭」。先代、及び四代の陶法をつぎ、染付煎茶器に名品がある。
七代 道八(明治43年(1910年)11月21日 - 昭和58年(1983年)) 本名「光一」。
八代 道八(昭和13年(1938年)12月6日 - 平成23年(2011年)9月16日) 七代長男。京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科卒業、京都府訓練校にて轆轤成形、京都市工業試験場にて釉薬を学ぶ。父・七代道八に師事。昭和58年(1983年)に襲名。京都市出身。2011年9月16日肝臓ガンのため、京都市内の病院にて逝去。73歳。
九代 道八(昭和48年(1973年)12月 - ) 八代次女。京都文教短期大学服飾意匠学科デザイン専攻卒。京都府立陶工高等技術専門校成形科、研究科卒。京都工業試験場本科卒。平成元年(1989年)、父・八代道八に師事。平成24年(2012年)、九代 高橋道八を襲名。
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道八については他の作品でも紹介しています。
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仁阿弥道八は塑像を得意としておりますが、贋作も多く存在します。なんでも鑑定団にも稚拙な贋作が出品されたことがあります。また「道八」がブランド名になっていて、一般の京焼において色絵にも染付の香炉などにも「道八」と記された作品は星の数ほどあります。
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一般的には「道八」という銘は京焼の代名詞? 京焼でないものにも銘が記されていることが多いので話はややこしくなります。
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本作品は出来の良いほうでしょうが、仁阿弥道八の作とすると物議を醸し出すことになるでしょう。
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冊子を持っていますが、この冊子部分が破損しており、稚拙な補修がされています。この部分は京都の人形などの専門店に補修を依頼中ですので、仕上がったらまた投稿してみたいと思っています。
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底から中が空洞となっており、その内側に銘が記されています。
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この銘がいいかどうかは後学とします。
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仁阿弥道八の作品は塑像では下記のような作品が知られています。
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この狸の像はかなりの数が模倣されています。
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陶磁器にはやたらと「仁清」、「道八」、「潁川」などの大家の銘を入れた作品が多くありますが、一番多いのが「道八」の銘の作品です。一種のブランド名だと思ったほうが無難なようです。
当方では八代高橋道八の茶碗の作品を友人から譲り受けています。友人は八代高橋道八から指導を受けており、直接本人から頂いた作品だそうです。友人から小生に持っていて欲しいと頼まれた作品ですが、機会がありましたら本ブログでも紹介したいと思っていますが、なにかと縁のある道八の作品です。
リメイク 柿本人麻呂像 伝仁阿弥道八造
塗古保存箱
幅230*高さ250*奥行き135
「柿本人麻呂」は古くから歌聖と称され、多くの画家が描き、また塑像も多くの陶工が製作していますが、本作品は塑像で有名な仁阿弥道八の作と銘が入っています。有名が故に真贋は不明ですので「伝」としておりますので、ご了解ください。

柿本人麻呂についてはあまりに有名ですが、下記に記事を記述しておきます。
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柿本人麻呂:(かきのもとのひとまろ、660年頃~720年頃)。飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。
彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれていないため万葉集が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地転々とし最後に石見国でなくなったとされている。
彼は万葉集第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在現在に至るまで歴史学上の通説となっている。
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ご存知のように「仁阿弥道八」は「二代 高橋道八」のことですが、歴代の高橋道八については下記の記事のとおりです。
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高橋道八:京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。江戸時代後期より作陶に携わり、特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。
初代 道八(元文5年(1740年)- 文化元年4月26日(1804年6月4日)) 伊勢亀山藩出身。字「周平」名「光重」。号は「松風亭空中」とも称する。次男のため士分を離れ、京に出て陶器職人となる。後独立し粟田口に開窯。活躍期は煎茶隆盛期でもあり、数多くの煎茶器の名品を制作した。自らも池大雅、上田秋成、売茶翁らの文人と交際。南画を趣味とする。
初代 尾形周平(1788年?1800年?-1829年?1830年?) 初代三男、仁阿弥道八の弟。幼名「熊蔵」名「光吉」。奥田頴川や兄・仁阿弥道八の元で修行の後独立した。尾形乾山にあやかり「尾形」姓を名乗る。青華、色絵、青磁を得意とし、煎茶器(特に急須、湯沸、茶碗)に名品が多い。
二代 道八(天明3年(1783年) - 安政2年5月26日(1855年7月9日)) 初代の次男。「仁阿弥道八」の名で著名である。
奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られる。仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼(偕楽園焼)立ち上げに参画、以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げに参画、京焼技法の全国頒布に助力。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯、作陶を続けた。
同時代の同じ京焼の名手である青木木米とは全く対照的な作風で、多種多彩で癖がない作品を大量に製作した。作品の中には全く対照的な焼き物である楽焼も色絵もある。特に色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称された名手であった。また茶碗などの食器や容器ばかりではなく、人物や動物などの陶像や磁器像の製作も行い、名品が多いと言われる。更に李朝磁器や青花磁器の製作も行っている。
それらの作品に共通する特徴を挙げると品の良い「高貴性」が感じられる点である。それ故に日本各地の名家から招かれ、御庭焼の師として仰がれたと考えられる。
三代 道八(文化8年(1811年) - 明治12年(1879年)8月2日) 二代の長男。幼名「道三」、名「光英(みちふさ)」。号「華中亭」「道翁」。嘉永3年(1850年)、高松藩に招かれ「讃岐窯」を開窯した。明治2年(1869年)、佐賀藩の招聘により伊万里焼技術指導。仁和寺宮より法橋に任じられる。青花、白磁の製作にも成功。晩年は祖父の桃山窯に引退。技法としては青磁、雲鶴模様、三島手、刷毛目を得意とし、煎茶器の名品を多数製作した。
四代 道八(弘化2年(1845年)5月 - 明治30年(1897年)7月26日) 三代の息子。名「光頼」号「華中亭」。明治7年(1874年)襲名。京都府勧業場の御用係として活躍。青花磁・彫刻・白磁を得意とする。
五代 道八(明治2年(1869年)- 大正4年(1914年)) 本名「小川勇之助」。滋賀県甲賀郡出身。四代死去時に子息幼少のため、一時的に名跡を嗣ぐ。
六代 道八(明治14年(1881年)- 昭和16年(1941年)) 四代次男。本名「英光」、号「華中亭」。先代、及び四代の陶法をつぎ、染付煎茶器に名品がある。
七代 道八(明治43年(1910年)11月21日 - 昭和58年(1983年)) 本名「光一」。
八代 道八(昭和13年(1938年)12月6日 - 平成23年(2011年)9月16日) 七代長男。京都市立日吉ヶ丘高等学校美術科卒業、京都府訓練校にて轆轤成形、京都市工業試験場にて釉薬を学ぶ。父・七代道八に師事。昭和58年(1983年)に襲名。京都市出身。2011年9月16日肝臓ガンのため、京都市内の病院にて逝去。73歳。
九代 道八(昭和48年(1973年)12月 - ) 八代次女。京都文教短期大学服飾意匠学科デザイン専攻卒。京都府立陶工高等技術専門校成形科、研究科卒。京都工業試験場本科卒。平成元年(1989年)、父・八代道八に師事。平成24年(2012年)、九代 高橋道八を襲名。
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道八については他の作品でも紹介しています。

仁阿弥道八は塑像を得意としておりますが、贋作も多く存在します。なんでも鑑定団にも稚拙な贋作が出品されたことがあります。また「道八」がブランド名になっていて、一般の京焼において色絵にも染付の香炉などにも「道八」と記された作品は星の数ほどあります。

一般的には「道八」という銘は京焼の代名詞? 京焼でないものにも銘が記されていることが多いので話はややこしくなります。

本作品は出来の良いほうでしょうが、仁阿弥道八の作とすると物議を醸し出すことになるでしょう。

冊子を持っていますが、この冊子部分が破損しており、稚拙な補修がされています。この部分は京都の人形などの専門店に補修を依頼中ですので、仕上がったらまた投稿してみたいと思っています。

底から中が空洞となっており、その内側に銘が記されています。

この銘がいいかどうかは後学とします。

仁阿弥道八の作品は塑像では下記のような作品が知られています。


この狸の像はかなりの数が模倣されています。


陶磁器にはやたらと「仁清」、「道八」、「潁川」などの大家の銘を入れた作品が多くありますが、一番多いのが「道八」の銘の作品です。一種のブランド名だと思ったほうが無難なようです。
当方では八代高橋道八の茶碗の作品を友人から譲り受けています。友人は八代高橋道八から指導を受けており、直接本人から頂いた作品だそうです。友人から小生に持っていて欲しいと頼まれた作品ですが、機会がありましたら本ブログでも紹介したいと思っていますが、なにかと縁のある道八の作品です。