過去の震災や現在の台風の災害に向き合いながら、世界が互いに友好を図るスポーツの世界大会が日本で行われている脇で、そういう状況でも日本に冷や水を浴びせる隣国はいかなる国か? 本ブログにて再三述べているように、擁護はすでに無用で冷静な判断にてどう付き合うかを考えざる得ないであろう。
さて本日紹介する作品は「盃洗」なのか「馬上杯(茶碗)」なのかよくわかっていません。一応、盃洗なら下手物?なので、欲目にみて茶碗に分類しておきましょう。
三彩馬上茶碗 長与三彩
杉古箱
口径120*底径*高さ107~112
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大きさは盃としては大きいのでやはり茶碗か盃洗として作られた作品でしょうが、盃ならかなり大きめのものとなります。ただ実際の馬上杯は大きめに作られたようです。
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器を下から支える高台と呼ばれる部分が高くなっているこのお茶碗は「馬上杯(ばしょうはい)」といいます。もともとはモンゴルの騎馬民族の人たちが馬に乗りながらお酒を飲むために使った器からきたもので、高台の所に穴を開けてひもを通し、腰に下げて持ち歩いた騎馬民族のマイカップのようなものだったそうです。
馬上でお酒を飲むときは片手で馬の手綱を持ち、もう片方の手で高台の部分をわしづかみにして飲む器です。それが日本に渡って酒杯として以外に抹茶碗として作られて使われることになりました。
どうも茶道における馬上杯は期間限定のお茶碗のようで、今は2月最初の午(うま)の日の頃の趣向としてだいたい2月限定で使われるのが決まりのようです。
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長与焼は寛文7年(1667)の開窯から安政6年(1859)の渡辺窯の終焉までのおよそ200年の間に存在しましたが、次のように三つの操業時期があるとされています。
<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃
<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)
<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)
ただこれらの時期の製作技法や製品についてはまだ不明な部分が多いとのことです。
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この作品が幻の焼き物と称される「長与三彩」なのかどうなのかも、長与焼に詳しくない当方にはよくわかっていませんが、幻の焼き物かどうかは別として長与三彩の作品には相違ないものと思っています。
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長与三彩の製品は同領内の波佐見焼とよく似た日用品の白磁染付の碗・皿類がほとんどですが、わずかに煎茶道具や上絵製品、あるいは長与焼を代表する三彩製品など特注品と思われるものがあります。
三彩焼には成型された生地にそのまま鉛を媒溶剤として色釉を施して低火度で焼いた軟質陶器と、素焼した生地を半強火釉で彩色して2度焼きしたものがあります。
前者は中国の唐三彩に代表される技法で、日本でも古く奈良時代にその技法を学んで三彩の作品(奈良三彩)が作られたことがありますが、その技法は伝承されないまま途絶えてしまっています。
一方中国では明時代になって2度焼きをする技法が著しく発達し、白色の磁器質の器に直接に透明性の色釉を掛けた三彩(明三彩)が生み出されました。清時代の康煕年間には器に低火度の無色白釉を薄く施し、その上から色釉を掛けるという磁器三彩(素三彩)が作られるようになっています。
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伝世品の長与三彩を見ると、三彩の施釉方法には流し掛けのものと、色釉の場所を指定したいわゆる迷彩式のものがありますが、しかし作品によってこれらを使い分けているようには見られません。
また三彩によって器面を装飾する方法には、ただ三彩釉だけが器面に施されたものと、染付と三彩が一体になったものや、あるいは三彩・染付・漆が併用されたものがあります。
そのうちで漆には金箔を散らしているが(金砂子)、これらは蒔絵に用いられる白檀塗りと同様であり、梨子地の漆器を連想させる意図があるようです。
<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃
このように17世紀末に長与皿山で始まった三彩作品の出現は、明らかに日本の伝統的な文化である漆器をヒントに製作されており、それらを他の材質での製作を試みる写象技法に成功した京焼を手本としたものであろうと考察されています。
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<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)
18世紀中頃には窯の経営も順調となり盛んに藩外にも売りさばかれるようになりましたが、19世紀に入ると焼物の値段が下がったために窯の経営は苦しくなり、文政3年(1820)に生産を中止しました。この時期には大阪で人気があった「お笹紅」の容器を注文で作ったり、安永4年(1775)には伊予大洲藩領の砥部に白磁焼成の指導のために陶工を派遣しています。また長与焼を代表する「長与三彩」の製品もこの時期に作られたとされています。
長与三彩についてはこれまで『郷村記』に寛政4年(1792)に長与村の市次郎が珍しい焼物を焼いたという記載から、これが長与三彩の始まりであると言われてきましたが、平成3年(1991)に熊本県天草の上田家に保管されていた古文書の、『近国焼物大概帳』が紹介されてこのことを裏付けることになったようです。
これは寛政8年(1796)に天草郡高浜村焼物師伝九郎と同村庄屋の上田源作から、島原大横目の大原甚五左衛門に提出されたものの写しですが、その中で長与皿山についての文中に「此所チャンパン焼物師壱人大村より御扶持頂戴帯刀御免之仁有之』とあります。チャンパンとはチャンパあるいはチャボと呼ばれて現在のヴェトナム地方を指す言葉で、そこは16世紀後半から17世紀前半にかけて朱印船貿易で日本にもたらされた「交趾三彩」と呼ばれる焼物と深い関わりがあるところです。この三彩の焼物は日本で好き者に珍重されたため、京焼や四国の源内焼で盛んに模した三彩の製品が作られました。
古文書の年号は『大村郷村記』に記された寛政4年(1792)からわずか4年後に書かれたものであり、これらのことから推察すると長与三彩は、交趾三彩の技術をもとにして出現したことが十分に考えられます。
<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)
弘化2年(1845)には再興窯を開いた太郎兵衛の子孫になる渡辺作兵衛によって再再興が行われましたが、その操業は小規模で安政6年(1859)には閉窯しています。
製品には白磁染付類や当時長崎で焼かれていた亀山焼(1807~1865操業)や鵬ヶ崎焼(1823~1852操業)、あるいは古いところの現川焼(1691~1749頃操業)などを模したものなどがありました。伝承によれば明治期に土管や水がめ類を焼いたと言われますが、現在までのところではそれらを確証する根拠はまだ無いそうです。
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日本で生まれた三彩・・、古くは奈良三彩、近代では本ブログで数多く投稿されている源内焼らがあります。マイナーな作品群がら長与三彩にも注目していきたいと思います。
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日本にはマイナーながら優品の作品をときおり見つけます。本ブログで紹介された下記の作品のそれらだろうと考えています。
三彩陽刻双龍文硯屏 伝長与三彩
合箱
最大幅205*奥行66*高さ170
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蓮に水鳥置物 伝紀州善妙寺焼
合箱
幅120*奥行き102*高さ75
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これらのマイナーな焼き物を愉しむのも陶磁器の骨董の醍醐味であることは確かなようです。
さて本日紹介する作品は「盃洗」なのか「馬上杯(茶碗)」なのかよくわかっていません。一応、盃洗なら下手物?なので、欲目にみて茶碗に分類しておきましょう。
三彩馬上茶碗 長与三彩
杉古箱
口径120*底径*高さ107~112

大きさは盃としては大きいのでやはり茶碗か盃洗として作られた作品でしょうが、盃ならかなり大きめのものとなります。ただ実際の馬上杯は大きめに作られたようです。

器を下から支える高台と呼ばれる部分が高くなっているこのお茶碗は「馬上杯(ばしょうはい)」といいます。もともとはモンゴルの騎馬民族の人たちが馬に乗りながらお酒を飲むために使った器からきたもので、高台の所に穴を開けてひもを通し、腰に下げて持ち歩いた騎馬民族のマイカップのようなものだったそうです。
馬上でお酒を飲むときは片手で馬の手綱を持ち、もう片方の手で高台の部分をわしづかみにして飲む器です。それが日本に渡って酒杯として以外に抹茶碗として作られて使われることになりました。
どうも茶道における馬上杯は期間限定のお茶碗のようで、今は2月最初の午(うま)の日の頃の趣向としてだいたい2月限定で使われるのが決まりのようです。

長与焼は寛文7年(1667)の開窯から安政6年(1859)の渡辺窯の終焉までのおよそ200年の間に存在しましたが、次のように三つの操業時期があるとされています。
<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃
<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)
<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)
ただこれらの時期の製作技法や製品についてはまだ不明な部分が多いとのことです。

この作品が幻の焼き物と称される「長与三彩」なのかどうなのかも、長与焼に詳しくない当方にはよくわかっていませんが、幻の焼き物かどうかは別として長与三彩の作品には相違ないものと思っています。

長与三彩の製品は同領内の波佐見焼とよく似た日用品の白磁染付の碗・皿類がほとんどですが、わずかに煎茶道具や上絵製品、あるいは長与焼を代表する三彩製品など特注品と思われるものがあります。
三彩焼には成型された生地にそのまま鉛を媒溶剤として色釉を施して低火度で焼いた軟質陶器と、素焼した生地を半強火釉で彩色して2度焼きしたものがあります。
前者は中国の唐三彩に代表される技法で、日本でも古く奈良時代にその技法を学んで三彩の作品(奈良三彩)が作られたことがありますが、その技法は伝承されないまま途絶えてしまっています。
一方中国では明時代になって2度焼きをする技法が著しく発達し、白色の磁器質の器に直接に透明性の色釉を掛けた三彩(明三彩)が生み出されました。清時代の康煕年間には器に低火度の無色白釉を薄く施し、その上から色釉を掛けるという磁器三彩(素三彩)が作られるようになっています。

伝世品の長与三彩を見ると、三彩の施釉方法には流し掛けのものと、色釉の場所を指定したいわゆる迷彩式のものがありますが、しかし作品によってこれらを使い分けているようには見られません。
また三彩によって器面を装飾する方法には、ただ三彩釉だけが器面に施されたものと、染付と三彩が一体になったものや、あるいは三彩・染付・漆が併用されたものがあります。
そのうちで漆には金箔を散らしているが(金砂子)、これらは蒔絵に用いられる白檀塗りと同様であり、梨子地の漆器を連想させる意図があるようです。
<第一期操業>寛文7年(1667)~元禄5年(1692)頃
このように17世紀末に長与皿山で始まった三彩作品の出現は、明らかに日本の伝統的な文化である漆器をヒントに製作されており、それらを他の材質での製作を試みる写象技法に成功した京焼を手本としたものであろうと考察されています。

<第二期操業>正徳2年(1712)~文政3年(1820)
18世紀中頃には窯の経営も順調となり盛んに藩外にも売りさばかれるようになりましたが、19世紀に入ると焼物の値段が下がったために窯の経営は苦しくなり、文政3年(1820)に生産を中止しました。この時期には大阪で人気があった「お笹紅」の容器を注文で作ったり、安永4年(1775)には伊予大洲藩領の砥部に白磁焼成の指導のために陶工を派遣しています。また長与焼を代表する「長与三彩」の製品もこの時期に作られたとされています。
長与三彩についてはこれまで『郷村記』に寛政4年(1792)に長与村の市次郎が珍しい焼物を焼いたという記載から、これが長与三彩の始まりであると言われてきましたが、平成3年(1991)に熊本県天草の上田家に保管されていた古文書の、『近国焼物大概帳』が紹介されてこのことを裏付けることになったようです。
これは寛政8年(1796)に天草郡高浜村焼物師伝九郎と同村庄屋の上田源作から、島原大横目の大原甚五左衛門に提出されたものの写しですが、その中で長与皿山についての文中に「此所チャンパン焼物師壱人大村より御扶持頂戴帯刀御免之仁有之』とあります。チャンパンとはチャンパあるいはチャボと呼ばれて現在のヴェトナム地方を指す言葉で、そこは16世紀後半から17世紀前半にかけて朱印船貿易で日本にもたらされた「交趾三彩」と呼ばれる焼物と深い関わりがあるところです。この三彩の焼物は日本で好き者に珍重されたため、京焼や四国の源内焼で盛んに模した三彩の製品が作られました。
古文書の年号は『大村郷村記』に記された寛政4年(1792)からわずか4年後に書かれたものであり、これらのことから推察すると長与三彩は、交趾三彩の技術をもとにして出現したことが十分に考えられます。
<第三期操業>弘化2年(1845)~安政6年(1859)
弘化2年(1845)には再興窯を開いた太郎兵衛の子孫になる渡辺作兵衛によって再再興が行われましたが、その操業は小規模で安政6年(1859)には閉窯しています。
製品には白磁染付類や当時長崎で焼かれていた亀山焼(1807~1865操業)や鵬ヶ崎焼(1823~1852操業)、あるいは古いところの現川焼(1691~1749頃操業)などを模したものなどがありました。伝承によれば明治期に土管や水がめ類を焼いたと言われますが、現在までのところではそれらを確証する根拠はまだ無いそうです。

日本で生まれた三彩・・、古くは奈良三彩、近代では本ブログで数多く投稿されている源内焼らがあります。マイナーな作品群がら長与三彩にも注目していきたいと思います。

日本にはマイナーながら優品の作品をときおり見つけます。本ブログで紹介された下記の作品のそれらだろうと考えています。
三彩陽刻双龍文硯屏 伝長与三彩
合箱
最大幅205*奥行66*高さ170

蓮に水鳥置物 伝紀州善妙寺焼
合箱
幅120*奥行き102*高さ75

これらのマイナーな焼き物を愉しむのも陶磁器の骨董の醍醐味であることは確かなようです。