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寒山図 加納鉄哉筆 大正14年作 

男の隠れ家にあった明治期の揃いの漆器から痛んでいた数点を輪島塗に修理に出していた作品が出来上がってきました。

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基本的には口縁の欠けていた部分の補修ですが、内側全体の塗りなおしまでしています。

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部分の補修のみだと色が変わる点から、全部塗りなおすと費用という点からこのような補修になっています。

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色の古い部分と新たに塗った部分とが見分けがつかないようにうまく色合せされています。

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亡くなった家内の実家の所蔵品ですが、分けて数点頂くことにいました。その際に痛んでいた作品を頂いて修理しようという試みです。修理代金は一点につき6000円から7000円ほどです。収納箱を製作し保存しておくことにしております。

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費用は掛かりましたが、補修内容などが書かれた栞や作品の写真が添付されているのが嬉しいですね。こいう修理は気持ちの良いものです。

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さて本日は加納鉄哉の掛け軸の作品の紹介です。

骨董蒐集を始めたころから幾度か加納鉄哉の絵画の作品を入手する機会があったのですが、今一つ気乗りがしないので今まで入手してきませんでした。今回は気に入った作品があり、さらにすでに本ブログにて投稿されている「田村将軍像」の作品を入手したことも契機となり購入しました。

展示室に飾って楽しんでいます。

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寒山図 加納鉄哉筆 大正14年作 
絹本水墨淡彩軸装 軸先陶器 合箱 
全体サイズ:縦1870*横396 画サイズ:縦1150*横260

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加納鉄哉は多くの絵画を描いていおり、その作品には「寒山拾得」を描いた作品が数多くありますが、本作品は亡くなった年に描いたという点で貴重な作品となります。

あらためて加納鉄哉の略歴は下記のとおりです。

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加納鉄哉:彫刻家・画家。岐阜生。名は光太郎。1845年に岐阜で生まれ極貧生活を送る。父鶴峰に南画と彫刻を学び、出家して仏画の研究を修める。

10代は寺で修行し独学で仏画を習得。還俗して鉄哉と号し、東京で佐野常民に見出され、鉄筆画という独自の技法で画と彫刻を業とする。明治天皇に業務を披露することもあったという。

和漢の古美術を研究し、奈良に住して庵を構え制作に明け暮れた。正倉院や法隆寺の宝物の模造など古典技法の修熟に努め、その技法は木彫・銅像・乾漆と多岐にわたった。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた。

補足
弘化2年(1825)、岐阜本町に生まれる。名は光太郎。家は幕末には奉行所の御用達を務めた名家であった。父・鶴峰から絵画と彫刻を学ぶが、少年時代に家は没落し、母が亡くなる。

14歳の時、長良崇福寺の住職が鉄哉を引き取り、数年間、僧の修行をした。その後、19歳で現在の美濃加茂市にある正眼寺に移る。明治元年に寺を出て還俗し、諸国を漫遊したと言われる。

明治7年ごろ東京に出て、しばらくは偽筆贋作で生活していた。ある時、パリ万博やウィーン万博の出品に関わった佐野常民に見出され、自宅に招き入れられる。鉄哉の師は、父・鶴峰に学んだ以外、あまり知られていないが、鉄筆画については、辻万峰(1825生)の影響を受けていると言われる。

鉄哉の名が世に出たのは、明治14年の第2回国内勧業博覧会への出品が入賞したのが最初らしい。古代芸術の調査、模写・模刻を通じてさらに技術を磨き、フェノロサ、岡倉天心らの古寺調査にも同行する。

明治22年、東京美術学校が開設された際、教諭を命じられるが、教えるよりも自らの創作活動を目指すためか、わずか2ヶ月で職を辞している。官職を離れてから、「唯我独尊庵主」を名乗り、制作に没頭している。明治20年代の終わりからは、奈良で模作に励んだり、各界の有力者を顧客とした制作を行っている。落語家、講談師、歌舞伎界などにも交際が広がり、鉄哉作品の意匠は、若い時代から禅を学んだベースの上に築かれていったものと思われる。

晩年は、奈良に滞在して制作活動を続け、和歌山や大阪の顧客の為の作品が多い。鉄哉の人気は高く、大正9年には支援者らによる「鉄哉会」が設立され、その作品を入手するための会則が設けられたりした。大正14年、「売茶翁像」の完成後、病に臥せ、81歳の生涯を終えた

加納鉄哉については特別な研究機関はなく、「加納鉄哉展~知られざる名工~」(岐阜市歴史博物館図録)や「知られざる名工 加納鉄哉」(西美濃わが街386号)などがまとまった著作(西美濃わが街は現在は廃刊)です。
絵画や彫刻、古美術研究と調査・・・等、博学多才で知られる加納鉄哉は、東京美術学校の教論職を2ヶ月で退き、その頃より「唯我独尊庵主」を名乗っている。

志賀直哉との関り
煙管筒や根付、仙媒等もつくり、晩年は奈良を活動の拠点とした。作家の志賀直哉は、大正14年、京都から奈良へ居を移している。この年、鉄哉は亡くなっているのだが、志賀は生前の鉄哉の工房を訪ねているようだ。2年後、鉄哉をモデルにした短編小説「蘭齋没後」を発表しているが、鉄哉よりむしろ、息子の加納和弘や弟子の渡辺脱哉(だっさい)らと親交があったようだ。脱哉とは「人間がぬけているから」という理由で、師匠の加納鉄哉によって付けられた号である。彼のキャラクターと数々のエピソードは、志賀の短篇「奇人脱哉」に見る事ができる。牙彫出身の脱哉は、水牛角の干鮭の差根付を唯一の得意とし、銘は鉄哉が入れていた、とか、それは30円で毎月一つつくれば生活が出来たとか、又、作品の箱書きは、息子程の年の差の若き後継者、市川鉄琅に代筆で書いて貰っていた等、興味深い話ばかりだ。そこには一貫して、志賀の、脱哉へ向けたあたたかな眼差しが感じられる。

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賛には「寒山昔日在□台炙□向僧為□活最勝精舎八十一叟鉄哉 押印 花押」とあり、亡くなる1925年(大正14年)に描いた作品と推定されます。なお1921年(大正10年)にアトリエである「最勝精舎」を建てて工房としています。

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寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることもある。

寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲した。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残した。

拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められる。拾得は天台山国清寺こくせいじの食事係をしていたが、近くの寒巌(かんがん)に隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っている。

寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれる。たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。

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補足
唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がいた。風狂の化け物と称される。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われる。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていた。寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていた。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっているのだ。よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。

寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせた。寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。

寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

豊干(ぶかん):中国唐代の詩僧。天台山国清寺に住み,虎を連れた姿で知られ、寒山・拾得(じつとく)を養育した人と伝えられる。豊干を釈迦の化身に見立てるものもある。

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加納鉄哉の木彫と掛け軸の作品を一緒にして飾るのは「田村将軍像」を修復してからにしました。すでに「田村将軍像」は京都の人形店に修復を依頼しました。(本ブログ「田村将軍像」記事参照)

骨董蒐集はその費用とエネルギーを「修理とメンテ」に多くが費やされるものです。それに費用とエネルギーを費やさない蒐集家は蒐集家と言えないと思っています。

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