いまいちピンとこない構図・・・?? こんな風に水が流れる?? 人が雲の上を歩いている?? 木の根が宙に浮いている??
そういう風に思うところが面白い作品・・・
青緑山水図 高森砕巌筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2175*横557 画サイズ:縦1403*横412
箱書には「高森砕巌青緑山水」とあり、「丙辰(大正5年:1916年)春日砕厳併題□ 押印」の共箱となっています。印章は「白雲紅葉図」の箱裏と同一印章です。
賛には「乙卯初夏於薮荘」とあり、大正4年(1915年)の作と思われます。砕巌68歳晩年に近い作品で円熟の域にあったと思われます。此の当時、相州小田原に別荘を構え双松庵と称し、自題落款にも用いられていますが、薮荘が双松庵を示しているかどうかは不明です。
左下の遊印は「白雲紅葉図」と同一印章です。
他の所蔵品については製作年代は不明でしたが、本作品は製作年代が明らかです。なお「白雲紅葉図」と同一の遊印が押印され、また同じ印章が箱書に押印されていますので製作年代が近いかもしれません。
賛は「層々交□雲 歴々映□□ 雲山互左依 青白眉□□ □□土□者 静居気□聚 修松蔭写
宇 細学被行□ □凛□□□ 吋□直秋□ □禽値□来 □□客還□ 天機□□□ 漠□□人故 」
****************************************************
高森砕巌:弘化4年 5月22日(新暦 1847年7月4日)(10月1日とも)生〜大正6年 10月25日(新暦 1917年12月9日)歿。 近代南宋画の大家。上総の国(千葉県)長南町に生まれる。幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、翠巌・菊梁・七松・射谷・朶香・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵 等の別号を持つ。江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳で渡辺崋山の高弟山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され、鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。南画会の結成に参加。日本美術協会会員。
****************************************************
南画は描く人の精神性が問われます。
俗世間からの離脱、その自由性が作品に現れるようです。
高森砕巌は公の展覧会には出品せず画作を続けた画家ですが、明治末から大正にかけてを最後に漫画は幕を閉じます。
高森砕巌を含む松林桂月、富岡鉄斎といった巨匠らを最後に南画は幕を閉じ、未だに日本で再度スポットを浴びることはありません。
結局のところ南画の精神性といったところは、近代の写実性や人間の心理面を描写した作風に押され消えていきましたが、画家の暮らし自体の変化が、地位、名誉、金銭といったことに偏り、高い精神性から離れたことも起因していると言われています。
そういう風に思うところが面白い作品・・・
青緑山水図 高森砕巌筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦2175*横557 画サイズ:縦1403*横412
箱書には「高森砕巌青緑山水」とあり、「丙辰(大正5年:1916年)春日砕厳併題□ 押印」の共箱となっています。印章は「白雲紅葉図」の箱裏と同一印章です。
賛には「乙卯初夏於薮荘」とあり、大正4年(1915年)の作と思われます。砕巌68歳晩年に近い作品で円熟の域にあったと思われます。此の当時、相州小田原に別荘を構え双松庵と称し、自題落款にも用いられていますが、薮荘が双松庵を示しているかどうかは不明です。
左下の遊印は「白雲紅葉図」と同一印章です。
他の所蔵品については製作年代は不明でしたが、本作品は製作年代が明らかです。なお「白雲紅葉図」と同一の遊印が押印され、また同じ印章が箱書に押印されていますので製作年代が近いかもしれません。
賛は「層々交□雲 歴々映□□ 雲山互左依 青白眉□□ □□土□者 静居気□聚 修松蔭写
宇 細学被行□ □凛□□□ 吋□直秋□ □禽値□来 □□客還□ 天機□□□ 漠□□人故 」
****************************************************
高森砕巌:弘化4年 5月22日(新暦 1847年7月4日)(10月1日とも)生〜大正6年 10月25日(新暦 1917年12月9日)歿。 近代南宋画の大家。上総の国(千葉県)長南町に生まれる。幼名宗之助、名は敏、字は子訥、通称有造、翠巌・菊梁・七松・射谷・朶香・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵 等の別号を持つ。江戸に出、服部蘭台に儒学を学び、17歳で渡辺崋山の高弟山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され、鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。船会社や司法省に勤務するが、画業に専念、公の展覧会には出品せず画作を続ける。南画会の結成に参加。日本美術協会会員。
****************************************************
南画は描く人の精神性が問われます。
俗世間からの離脱、その自由性が作品に現れるようです。
高森砕巌は公の展覧会には出品せず画作を続けた画家ですが、明治末から大正にかけてを最後に漫画は幕を閉じます。
高森砕巌を含む松林桂月、富岡鉄斎といった巨匠らを最後に南画は幕を閉じ、未だに日本で再度スポットを浴びることはありません。
結局のところ南画の精神性といったところは、近代の写実性や人間の心理面を描写した作風に押され消えていきましたが、画家の暮らし自体の変化が、地位、名誉、金銭といったことに偏り、高い精神性から離れたことも起因していると言われています。