Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2932

関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆 その22

$
0
0
仕事にも人生にも二人三脚というか、相棒というか、互いに刺激し合い、欠点を補え合える人物が必要なものです。

さて本日はそのような二人の組み合わせ・・・。

天龍道人の作品が「葡萄図」、「鷹図」、「山水図」のような水墨画だけが得意と思ったら大間違いで、長崎派のような色彩画にも長けています。本日の作品は74才から「天龍道人」と号する以前の作品で、この当時の作品は非常に少なくとても貴重であると思われます。


関羽(関羽周倉)図 天龍道人筆
絹本着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1830*横460 画サイズ:縦980*横330



落款は「七十翁王公瑜瑾冩」と記されていることから、1787年(天明7年)、天龍道人が70歳の作品で、74才から「天龍道人」と号する以前の作品で、この頃の作品は非常に少なくとても貴重です。



印章は「王瑾印」、「王公瑜」の白文朱方印が押印されています。他の所蔵品「虎図」が71歳の作品、「鷹図」が70歳の作品であり、ほぼ同時期の作品でしょう。



虎図 天龍道人筆
全体サイズ:縦1450*横370 画サイズ:縦696*横283


鷹図 その2 天龍道人筆 その13絹本着色軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1810*横492 画サイズ:縦940*横360


本作品のような作品は「関羽図」として数多く描かれています。「関羽」が神格化されたことにより、とくに中国からの画家の渡来が多かった長崎では多くの作品があったものと推察され、長崎派の影響のみられる天龍道人もそれに倣って描いた作品と推察されます。



関羽とともに描かれている人物は側近の「周倉」という架空の人物です。




*********************************************************

関 羽:(かん う)? - 建安24年12月(220年1月)[1])は、中国後漢末期の将軍。字は雲長(うんちょう)。元の字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市常平郷常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。

蜀漢の創始者である劉備に仕え、その人並み外れた武勇や義理を重んじる人物は敵の曹操や多くの同時代人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた。悲劇的な死を遂げたが、後世の人間に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となり、47人目の神とされた。信義に厚い事などから、現在では商売の神として世界中の中華街で祭られている。そろばんを発明したという伝説まである。

小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長或いは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため、『三国志演義』などでは「美髯公」などとも呼ばれる。

*********************************************************

周 倉:(しゅう そう)は、『三国志演義』『三国志平話』『花関索伝』『山西通志』『関大王独赴単刀会』『聊斎志異』に登場する蜀漢の武将で架空の人物。

古典劇目の『走麦城』、『収周倉』、『収関平』で字は元福。小説『三国志演義』の第二十七回で、黄巾時代からの同僚裴元紹から語られているところによると、出身は関西地方(涼州)であり、両腕に1千斤の怪力があり、鉄板のような厚い胸板に、渦を巻くような形の縮れ髭の容姿であるという。

関羽の側近としてあまりにも有名なため、実在の人物ではないにもかかわらず、湖北省当陽県麦城村(当陽市南東30km)には墓が建立され、関帝廟には関平と共に関羽の従者として祭られている。中国や華僑の居住地では、現在でも信仰の対象とされている。

*********************************************************

天龍道人:日本画家。姓は王。名は瑾、子は公瑜、通称は渋川虚庵、別号に草龍子・水湖観。鷹・葡萄の画を能くした。肥前鹿島(佐賀県鹿島市)の出身で、一説では九州鍋島藩(佐賀)の支藩・鹿島藩家老の板部堅忠の子とされる。

天龍道人は鍋島藩の主家に当たる龍造寺隆信の七世下の孫にあたる。半生の詳細は明らかでないが19歳の時に京に出て、絵画と医術を習い、京では勤皇の活動をしていた。

30歳代、40歳代頃には京都の尊王論者、山縣大弐のもとで活動をおこなっていたとされるが、時期早しと言うことで、44歳の時温泉と風向明媚な信州諏訪湖の近くに住み着いた。

54歳のころから絵に専念し、74歳の頃からは諏訪湖が天龍川の水源であることにちなんで「天龍道人」と号した。50歳代から死去する93歳までの後半生、画歴の詳細は明らかでないが、確認される作品は50歳代以降の後半生、信州で制作したもので、鷹と蒲萄を題材とした作品を得意とした。天龍道人は諏訪に来てからは、渋川虚庵と称していた。

天龍道人は鷹と葡萄の画家とも言われる様に、葡萄の絵はかなり多いそうですが、鷹の方は少なく、山水画の方はもっと少ない。文化7年(1810)歿、93才。

*********************************************************

Viewing all articles
Browse latest Browse all 2932

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>