伊万里などに多いクルス文の器というのは一説には隠れキリシタンの器とされていますが、定かではありません。本日は面白そうな瀬戸の「クルス文様小鉢」を入手したので紹介します。
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黄瀬戸再考 時代不詳 黄瀬戸「ぐい呑手」? クルス文様小鉢誂箱口径147*高さ49
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瀬戸焼というと古くから「志野」も「織部」も「瀬戸黒」も全て瀬戸で焼かれたと思われていたようですが、昭和5年に荒川豊蔵が美濃・大萱で志野の陶片を発見してから、続いて加藤唐九郎、北大路魯山人、加藤土師萌などが発掘に参加し、研究発表した時からでその説は覆ったとされます。
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*少ないもののところどころに緑っぽい釉薬が散見されます。
桃山時代から江戸初期にかけて、片田舎の美濃で焼かれた作品は都では瀬戸と混同され、黄色い焼物は「黄瀬戸」、黒い焼物は「瀬戸黒」とよばれるようになっていました。美濃の陶業が廃れた江戸時代中期以後、美濃で焼かれていたこれらのやきものは、江戸時代になると瀬戸のかげに隠れ、しかも、江戸末期には桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸・織部などの夥しい「瀬戸窯での模倣」が、より「瀬戸もの」と思われていた理由となったとされます。現在では桃山時代から江戸初期の「志野」、「織部」、「瀬戸黒」は美濃焼として区分され、その当時の瀬戸焼とは区分されています。
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さて中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という釉薬(灰釉)にて焼いていますが、「青磁」は還元焼成ですが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となっています。印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれ、これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となります。
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この黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類がありますが、これらは昭和八年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎による分類が定着したようです。
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「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたことから名付けられたものらしいです。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、これにはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられません。
*本作品を分類するなら「ぐい呑手」に近いのかもしれません。
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柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれました。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成から焼成されました。
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魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めます。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であったので、黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れ、しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼成しました。その結果、下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができたとされます。つまり湿気や序冷が「油揚手」を形成することが判明しています。現代ではこの「油揚手」の評価が高いとされますね。
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なお井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢は薄手で肌がジワッとした「油揚手」で窯下窯の名品といわれるもので、光沢の鈍い釉調と刻文のあるアヤメ紋様にタンパンがあるところから「アヤメ手」といっていますが、『日本の陶磁第三巻』にはほかに蕪、露草、梅、菜の花、そして花唐草などがあります。菊や桜、桐など日本の伝統的紋様は少なく、「大根」(相国寺の所蔵する黄瀬戸銅鑼鉢)は一点のみとされます。 *タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重します。このタンパンは火前の強火では揮発してしまうし、光沢もでてくる。
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*高台内には黄瀬戸特有のスペーサーによる跡があります。 **この二種の黄瀬戸にも、利休と織部の好みが分かれています。比較的に淡雅な「ぐい呑手」は利休好みで、利休所持の立鼓花入・建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)など古淡を好んでいますが、一方、織部は変化の激しい光沢の鈍い「油揚手」を好んだようです。
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*敷布は義母が誂えてくれた帯地でつくったものです。
本作品は江戸期なのか、明治期以降なのかは小生の判別できるものではありませんが、味わいのある作品なので夏には茶碗として使ってみようと思っています。
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こじゃれた箱の誂えに・・・??

黄瀬戸再考 時代不詳 黄瀬戸「ぐい呑手」? クルス文様小鉢誂箱口径147*高さ49

瀬戸焼というと古くから「志野」も「織部」も「瀬戸黒」も全て瀬戸で焼かれたと思われていたようですが、昭和5年に荒川豊蔵が美濃・大萱で志野の陶片を発見してから、続いて加藤唐九郎、北大路魯山人、加藤土師萌などが発掘に参加し、研究発表した時からでその説は覆ったとされます。

*少ないもののところどころに緑っぽい釉薬が散見されます。
桃山時代から江戸初期にかけて、片田舎の美濃で焼かれた作品は都では瀬戸と混同され、黄色い焼物は「黄瀬戸」、黒い焼物は「瀬戸黒」とよばれるようになっていました。美濃の陶業が廃れた江戸時代中期以後、美濃で焼かれていたこれらのやきものは、江戸時代になると瀬戸のかげに隠れ、しかも、江戸末期には桃山時代の志野・瀬戸黒・黄瀬戸・織部などの夥しい「瀬戸窯での模倣」が、より「瀬戸もの」と思われていた理由となったとされます。現在では桃山時代から江戸初期の「志野」、「織部」、「瀬戸黒」は美濃焼として区分され、その当時の瀬戸焼とは区分されています。

さて中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という釉薬(灰釉)にて焼いていますが、「青磁」は還元焼成ですが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となっています。印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれ、これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となります。

この黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類がありますが、これらは昭和八年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎による分類が定着したようです。

「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたことから名付けられたものらしいです。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、これにはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられません。
*本作品を分類するなら「ぐい呑手」に近いのかもしれません。

柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれました。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成から焼成されました。

魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めます。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であったので、黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れ、しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼成しました。その結果、下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができたとされます。つまり湿気や序冷が「油揚手」を形成することが判明しています。現代ではこの「油揚手」の評価が高いとされますね。

なお井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢は薄手で肌がジワッとした「油揚手」で窯下窯の名品といわれるもので、光沢の鈍い釉調と刻文のあるアヤメ紋様にタンパンがあるところから「アヤメ手」といっていますが、『日本の陶磁第三巻』にはほかに蕪、露草、梅、菜の花、そして花唐草などがあります。菊や桜、桐など日本の伝統的紋様は少なく、「大根」(相国寺の所蔵する黄瀬戸銅鑼鉢)は一点のみとされます。 *タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重します。このタンパンは火前の強火では揮発してしまうし、光沢もでてくる。

*高台内には黄瀬戸特有のスペーサーによる跡があります。 **この二種の黄瀬戸にも、利休と織部の好みが分かれています。比較的に淡雅な「ぐい呑手」は利休好みで、利休所持の立鼓花入・建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)など古淡を好んでいますが、一方、織部は変化の激しい光沢の鈍い「油揚手」を好んだようです。

*敷布は義母が誂えてくれた帯地でつくったものです。
本作品は江戸期なのか、明治期以降なのかは小生の判別できるものではありませんが、味わいのある作品なので夏には茶碗として使ってみようと思っています。

こじゃれた箱の誂えに・・・??