金城次郎の碗類のリメイク投稿の2回目です。当方で蒐集した金城次郎の碗類7作品のうちの残り4作品です。
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家内が押し入れから見つけ出してきた和紙。今まで鳩居堂で和紙を買い足していましたが、今回から使い古しの和紙を使って作品を整理しています。
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金城次郎の作品は搔銘のないもの、当然共箱ではないものにいい作品があると述べてきましたが、今回もそのような作品の紹介です。特に下記の作品は銘のない作品です。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 (茶碗 その5)搔銘なし 誂箱口径142*高さ80*高台径144![]()
銘のない作品をなぜ金城次郎の作品と断定できるのかという問いに対する答えは、今までいくつもの作品を実際に手にとって鑑賞してきた感からとして言いようがありません。
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これは銘のない浜田庄司、河井寛次郎の作品でも同じですね。他には作れない、逆にこういう作品は彼らは作らないというのが自分でいくつもの作品を購入して味わうと解ってくるように思います。
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これは絵画も同じなのでしょう。いくら印章が、落款がと決まり事を言ってもそれは作品の審美眼とはちょっと違うように思います。決まり事という点を重視する方とは一線を当方では画しています。
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彫りの絵、深みのある釉薬は金城次郎ならではのものですね。
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金城次郎は壺屋時代の窯にこだわり、ガス窯を嫌い、読谷村に窯を移設しています。世に認められるとほぼ同時期に残念ながら高血圧にて倒れています。
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読谷村に移設後は釉薬も安定しましたが、逆に不安定な面白味が消えてしまったように思えます。人間国宝となったことで、作品に銘を入れ、共箱を誂えて作品が売られるようになり、人間国宝以降の作品が高値となりました。
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しかも病により大皿や大きな壺の作品は極端に数が少なくなります。思うような大きな作品が出来ないことを、金城次郎自身が一番解っていたのではないかと思われます。
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共箱の作りは雑で、自身で書かなかった共箱も多かったとされます。そのうちに数が少ない壺屋時代の作品が珍重されるようになってきた気配があります。
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次の作品はおそらく壺屋時代の後半の頃から読谷村初期の頃の作かと思います。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 その2高台脇掻銘 誂箱 口径123~125*高さ77*高台径56
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実に素朴で愛らしい・・。
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こんなかわいらしい作品は晩年の作品にはあまりありません?
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金城次郎の刷毛目はまるで海の波や渦のようです。
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高台内や高台脇にある掻き銘は上下など一定ではありません。簡単な彫り銘ですのでマネをしても見抜けません。しかし彫りの絵と釉薬だけは金城次郎のものなのです。浜田庄司の釉薬の掛け具合とその釉薬の質が浜田庄司以外にはマネできないことと通じるものがあります。
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次はちょっと大きめの平茶碗です。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 (茶碗 その4)誂箱 掻銘高台脇 口径150*高さ65*高台径65
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この作品の魅力は4匹の並んだ魚の絵・・。
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前回の記事でも記述した民芸運動で金城次郎と係わった3人の金城次郎への講評が金城次郎の作陶の姿勢をよく示しています。
他のブログの記事の内容の繰り返しになりますが、民芸運動の著名な3人の金城次郎に対する評価は下記のようなものでした。
河井寛次郎談:次郎は珍らしい位よくできた人で、氣立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやってのける。彫ったり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出來ないものはない。中折の古帽子を此節流行する戰鬪帽風に切り取ったのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。(『工藝』第99号)
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柳宗悦談:壺屋の新垣榮徳氏の窯で次郎が繪附をしてゐる所である。次郎の技は大いにいい。「まかい」と呼ぶ茶碗であるが、之に呉州で内と外とに繪 附をする。其の繪が自由で活々していて實にうまい。繪の系統を見ると南方支那のものに一脈通じるが、それ等のものに少しも負けていない。實は之だけ繪を 描きこなせる陶工を有っている窯はもう本土には殆どない。(『工藝』第130号(昭和15年)
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浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)
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ところで金城次郎の魚の絵は笑っていると表現されますが、当方はこの頃の作品の釉薬の流れから、森山良子の「涙そうそう」の歌詞が思い浮かびます。
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森山良子がライブで共演したBEGINと意気投合して、沖縄の曲を依頼したそうです。BEGINから送られたデモテープのタイトルに書いてあった「涙そうそう」が沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」を意味すると聞いた森山は、若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけたとされます。
森山と兄は2人だけの年子の兄妹であり、幼少期には取っ組み合いのけんかをし、同じ高校で同じバスケットボール部に所属していたそうですが、兄の死の直後は誰を見ても兄に見え、思い出すのも辛く、家族も誰も兄の話題を口にしなかったようです。森山は居間の棚から赤い革表紙のアルバムを取り出しては、兄の影を追ってひとり泣いていたそうです。
そんなある日、一番星を見上げると星が瞬いたとき、「メソメソすんなよ。助けてあげられなくて悪いけど、お前もがんばれよ」と兄が語りかけてきたかのように森山には思えたと語っています。このような思いを森山良子が歌詞にしたもので、森山良子は、一日の出来事や思いを、歌詞と同じように一番星に向かってそっと打ち明けているという談話があります。
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沖縄の歴史での悲しい思いと力強く生きてきた沖縄の人々の思いが相まって作品と歌が重なり合いますね。「愛しい人の死の直後は、似ている人を見るとその人に見え、思わず後を追いかけたりしてしまいますが、その人を思い出すのも辛く、その人の話題を口にしなかった。」という思いは私も家内を早くに亡くしていますでよくわかります。ただ悲しんでいてばかりでは前に進めないものです。今では現在の家内と息子に救われています。
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この作品で目を引くのはたっぷりと掛けられた白釉ですが、この成分は解りませんが、金城次郎の透明釉にはモミの灰に珪石、石灰質の補填ではサンゴを用いています。これらの原料は全て沖縄で手に入るものです。おそらく白釉薬も地産のものでしょう。
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金城次郎の作品を見ると釉が流れているのがよく分かります。線彫りとイッチンの凹凸がないとさらに流れてしまうので、この装飾が釉薬をせき止めているとされます。それが線彫りの発端かどうかは定かではありませんが・・。
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碗の最後の作品は「マカイ」です。
白刷毛目波紋マカイ 金城次郎作高台内搔銘 共箱口径165*高さ82*高台径81
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マカイとは沖縄の方言で「お碗」のことです。とは言っても、その形は沖縄独特のもので、いわゆるお茶碗とは少し違います。言葉で説明するなら、その特徴は、「口径に対して、高さが低く、口台が広い」とでも表現していいのでしょうか。
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沖縄には碗に限らず、陶器には独自の形がありますが、マカイは日常の器の中ではその代表格でしょう。もっと軽くて、もっと薄い茶碗が流行の中、沖縄では多くの窯がこの伝統の形を守り続けているそうです。
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沖縄では、ご飯茶碗は「飯マカイ」、沖縄ソバや麺類は「そばマカイ」などと呼びます。使ってみると、非常に手に馴染んで心地よく、白米、雑穀米、混ぜご飯、いろんなものにすっと馴染みますね。
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日常品なので大量生産されます。よって窯には重ね焼きされています。見込み内には上に乗った碗の高台跡があります。当然、一番上の作品には無いとされる跡ですが・・。そのような作品として常滑の山茶碗では珍重されますが・・。
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人間国宝なってからはこのような日常品まで銘が掻かれ、共箱まで誂えられています。
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若い頃に沖縄で金城次郎の作品を買おうと思ったらとても買える値段ではなかった記憶があります。
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現在は金城次郎の鑑定箱書は長男の金城敏男がやっておられますが、その箱書は「次郎作」としか書かれないようです。その横に「敏男識」とでも書いてくだされば良いのですが、少しややこしくなります。ただ生前から本人が書いていないことが多く、さらに箱書していたのは複数人いたらしいので、その書体の比較は論外ですね。印章も複数あったものと考えるのが妥当でしょう。
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知人が金城次郎氏の作品を売られる時に当方で仲介したのですが、買い手の骨董屋さんも「金城さんは共箱がいい加減でね。」とつぶやいていた意味が今となってはよくわかります。
絵画でも弟子の作品に印章を与えていた著名な画家もいますので、知識に頼る審美眼?はあまりあてにしてはいけませんね。

家内が押し入れから見つけ出してきた和紙。今まで鳩居堂で和紙を買い足していましたが、今回から使い古しの和紙を使って作品を整理しています。

金城次郎の作品は搔銘のないもの、当然共箱ではないものにいい作品があると述べてきましたが、今回もそのような作品の紹介です。特に下記の作品は銘のない作品です。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 (茶碗 その5)搔銘なし 誂箱口径142*高さ80*高台径144

銘のない作品をなぜ金城次郎の作品と断定できるのかという問いに対する答えは、今までいくつもの作品を実際に手にとって鑑賞してきた感からとして言いようがありません。

これは銘のない浜田庄司、河井寛次郎の作品でも同じですね。他には作れない、逆にこういう作品は彼らは作らないというのが自分でいくつもの作品を購入して味わうと解ってくるように思います。

これは絵画も同じなのでしょう。いくら印章が、落款がと決まり事を言ってもそれは作品の審美眼とはちょっと違うように思います。決まり事という点を重視する方とは一線を当方では画しています。

彫りの絵、深みのある釉薬は金城次郎ならではのものですね。

金城次郎は壺屋時代の窯にこだわり、ガス窯を嫌い、読谷村に窯を移設しています。世に認められるとほぼ同時期に残念ながら高血圧にて倒れています。

読谷村に移設後は釉薬も安定しましたが、逆に不安定な面白味が消えてしまったように思えます。人間国宝となったことで、作品に銘を入れ、共箱を誂えて作品が売られるようになり、人間国宝以降の作品が高値となりました。

しかも病により大皿や大きな壺の作品は極端に数が少なくなります。思うような大きな作品が出来ないことを、金城次郎自身が一番解っていたのではないかと思われます。

共箱の作りは雑で、自身で書かなかった共箱も多かったとされます。そのうちに数が少ない壺屋時代の作品が珍重されるようになってきた気配があります。

次の作品はおそらく壺屋時代の後半の頃から読谷村初期の頃の作かと思います。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 その2高台脇掻銘 誂箱 口径123~125*高さ77*高台径56

実に素朴で愛らしい・・。

こんなかわいらしい作品は晩年の作品にはあまりありません?

金城次郎の刷毛目はまるで海の波や渦のようです。

高台内や高台脇にある掻き銘は上下など一定ではありません。簡単な彫り銘ですのでマネをしても見抜けません。しかし彫りの絵と釉薬だけは金城次郎のものなのです。浜田庄司の釉薬の掛け具合とその釉薬の質が浜田庄司以外にはマネできないことと通じるものがあります。

次はちょっと大きめの平茶碗です。
白刷目魚紋茶碗 金城次郎作 (茶碗 その4)誂箱 掻銘高台脇 口径150*高さ65*高台径65

この作品の魅力は4匹の並んだ魚の絵・・。

前回の記事でも記述した民芸運動で金城次郎と係わった3人の金城次郎への講評が金城次郎の作陶の姿勢をよく示しています。
他のブログの記事の内容の繰り返しになりますが、民芸運動の著名な3人の金城次郎に対する評価は下記のようなものでした。
河井寛次郎談:次郎は珍らしい位よくできた人で、氣立てのよい素晴らしい仕事師である。轆轤ならばどんなものでもやってのける。彫ったり描いたりする模樣もうまく、 陶器の仕事で出來ないものはない。中折の古帽子を此節流行する戰鬪帽風に切り取ったのを冠つて、池の縁の轆轤場に坐つて、向ふの道行く人に毎日素晴らしい景色を作つてくれて居る。(『工藝』第99号)

柳宗悦談:壺屋の新垣榮徳氏の窯で次郎が繪附をしてゐる所である。次郎の技は大いにいい。「まかい」と呼ぶ茶碗であるが、之に呉州で内と外とに繪 附をする。其の繪が自由で活々していて實にうまい。繪の系統を見ると南方支那のものに一脈通じるが、それ等のものに少しも負けていない。實は之だけ繪を 描きこなせる陶工を有っている窯はもう本土には殆どない。(『工藝』第130号(昭和15年)

浜田庄司談:沖縄壺屋の陶工、金城次郎君ほど、まちがいの少ない仕事をしてきた陶工を私は知らない。それも、ほとんど意識していない点を高く認めたい。縁あって君が十三、四才の頃から、私が壺屋の仕事場に滞在するたびに、手伝ってもらってすでに五〇年、君が魚の模様を彫っている一筋の姿を見つづけてきた。君は天から恵まれた自分の根の上に、たくましい幹を育てて、陽に向かって自然に枝が繁るように仕事を果たしてきた。次郎君の仕事は、すべて目に見えない地下の根で勝負している。これは、一番正しい仕事ぶりなので、いつも、何をしても安心して見ていられるが、こうした当然の仕事を果たしている陶工が、現在何人いるであろうか。本土での会はもちろん、海外での会の場合を想っても少しの不安もない、えがたい陶工と思う。濱田庄司 「安心して見守れる仕事-金城次郎・個展開催に寄せて推薦文(1971)」~『琉球陶器の最高峰 人間国宝 金城次郎のわざ』(1988・朝日新聞社)

ところで金城次郎の魚の絵は笑っていると表現されますが、当方はこの頃の作品の釉薬の流れから、森山良子の「涙そうそう」の歌詞が思い浮かびます。

森山良子がライブで共演したBEGINと意気投合して、沖縄の曲を依頼したそうです。BEGINから送られたデモテープのタイトルに書いてあった「涙そうそう」が沖縄の言葉で「涙がぽろぽろこぼれ落ちる」を意味すると聞いた森山は、若くしてこの世を去った兄を想う歌詞をつけたとされます。
森山と兄は2人だけの年子の兄妹であり、幼少期には取っ組み合いのけんかをし、同じ高校で同じバスケットボール部に所属していたそうですが、兄の死の直後は誰を見ても兄に見え、思い出すのも辛く、家族も誰も兄の話題を口にしなかったようです。森山は居間の棚から赤い革表紙のアルバムを取り出しては、兄の影を追ってひとり泣いていたそうです。
そんなある日、一番星を見上げると星が瞬いたとき、「メソメソすんなよ。助けてあげられなくて悪いけど、お前もがんばれよ」と兄が語りかけてきたかのように森山には思えたと語っています。このような思いを森山良子が歌詞にしたもので、森山良子は、一日の出来事や思いを、歌詞と同じように一番星に向かってそっと打ち明けているという談話があります。

沖縄の歴史での悲しい思いと力強く生きてきた沖縄の人々の思いが相まって作品と歌が重なり合いますね。「愛しい人の死の直後は、似ている人を見るとその人に見え、思わず後を追いかけたりしてしまいますが、その人を思い出すのも辛く、その人の話題を口にしなかった。」という思いは私も家内を早くに亡くしていますでよくわかります。ただ悲しんでいてばかりでは前に進めないものです。今では現在の家内と息子に救われています。

この作品で目を引くのはたっぷりと掛けられた白釉ですが、この成分は解りませんが、金城次郎の透明釉にはモミの灰に珪石、石灰質の補填ではサンゴを用いています。これらの原料は全て沖縄で手に入るものです。おそらく白釉薬も地産のものでしょう。

金城次郎の作品を見ると釉が流れているのがよく分かります。線彫りとイッチンの凹凸がないとさらに流れてしまうので、この装飾が釉薬をせき止めているとされます。それが線彫りの発端かどうかは定かではありませんが・・。

碗の最後の作品は「マカイ」です。
白刷毛目波紋マカイ 金城次郎作高台内搔銘 共箱口径165*高さ82*高台径81

マカイとは沖縄の方言で「お碗」のことです。とは言っても、その形は沖縄独特のもので、いわゆるお茶碗とは少し違います。言葉で説明するなら、その特徴は、「口径に対して、高さが低く、口台が広い」とでも表現していいのでしょうか。

沖縄には碗に限らず、陶器には独自の形がありますが、マカイは日常の器の中ではその代表格でしょう。もっと軽くて、もっと薄い茶碗が流行の中、沖縄では多くの窯がこの伝統の形を守り続けているそうです。

沖縄では、ご飯茶碗は「飯マカイ」、沖縄ソバや麺類は「そばマカイ」などと呼びます。使ってみると、非常に手に馴染んで心地よく、白米、雑穀米、混ぜご飯、いろんなものにすっと馴染みますね。

日常品なので大量生産されます。よって窯には重ね焼きされています。見込み内には上に乗った碗の高台跡があります。当然、一番上の作品には無いとされる跡ですが・・。そのような作品として常滑の山茶碗では珍重されますが・・。

人間国宝なってからはこのような日常品まで銘が掻かれ、共箱まで誂えられています。

若い頃に沖縄で金城次郎の作品を買おうと思ったらとても買える値段ではなかった記憶があります。

現在は金城次郎の鑑定箱書は長男の金城敏男がやっておられますが、その箱書は「次郎作」としか書かれないようです。その横に「敏男識」とでも書いてくだされば良いのですが、少しややこしくなります。ただ生前から本人が書いていないことが多く、さらに箱書していたのは複数人いたらしいので、その書体の比較は論外ですね。印章も複数あったものと考えるのが妥当でしょう。


知人が金城次郎氏の作品を売られる時に当方で仲介したのですが、買い手の骨董屋さんも「金城さんは共箱がいい加減でね。」とつぶやいていた意味が今となってはよくわかります。
絵画でも弟子の作品に印章を与えていた著名な画家もいますので、知識に頼る審美眼?はあまりあてにしてはいけませんね。