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破壊された遺跡 シリアの遺跡 伝山口薫画

男の隠れ家の修繕・・、玄関の吹き抜け部ですが、結露跡の塗装補修も必要なようです。
玄関の吹き抜けは来客対応にはとても効果的ですね。
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抜きぬけ部分のクロスの入隅部分が痛んでいたのですべてのコーナーに木で見切縁を付けてみました。
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意匠的にも良さそうなので他の部分にもつけてみたら結構きれいに仕上がっています。
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さて本日の作品、本作品が山口薫の作品か否かもありますが、当方が心惹かれたのは「シリヤの遺跡」と題された描いている対象です。描いているのは「パルミラの遺跡」だとすると実物を見て描くことは今はもはや不可能・・・。
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シリアの遺跡 伝山口薫画油彩額装 タトウ+黄袋 KOKEI額 検印有F3号 全体サイズ:横390*縦445 画サイズ:横210*縦260
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本作品を描いたとされる山口薫の画歴は下記の通りです。
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山口 薫:(やまぐち かおる)1907年〈明治40年〉8月13日~1968年〈昭和43年〉5月19日)。1930年(昭和5年)に東京美術学校を卒業後、9月渡欧しフランス、イタリー、スイス、スペイン、エジプトなどを歴訪して美術の研究につとめた。(1933年まで)  本作品はこの頃の作と推定されますが、昭和29年にサエグサ画廊で山口薫巴里留学中の作品鑑賞展が開催されています。
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追記群馬県の榛名山麓の村、箕輪(現箕郷町)に、11人兄弟の末子として生れる。
1930年に東京美術学校を卒業してから3年間フランスに留学。帰国後は滞仏時代の友人である村井正誠、矢橋六郎らと新時代洋画展、自由美術家協会展、モダンアート協会展を次々と結成し、そこを拠点に日本におけるモダンアート運動の中心的な存在として作品を発表し続けた。
抽象と具象の微妙に溶け合ったモダンな造形の中に叙情と幻想を湛えた心象風景を描いた作品は、サンパウロ・ビエンナーレ展やヴェネツィア・ビエンナーレ展などにも出品され、国内ばかりではなく、海外でも高い評価を受けている。58年、第2回グッゲンハイム賞国内賞、59年毎日美術賞、60年芸術選奨文部大臣賞などを次々と受賞。52年からは東京芸術大学で教鞭をとり、多くの作家を育てた。68年、東京で死去。
山口薫が深く愛した故郷、箕輪村(現在の高崎市箕郷町)は、榛名山の南山麓に位置する。故郷で過ごした幼い日々の思い出や、そこに広がる田園風景は、山口薫に豊かなモチーフを提供し続けた。山口薫は、絵画にとって何よりも重要なのは素朴な生活感情の表出であるといつも考えていた。こうして、彼の作品では、牛や馬、森、沼、田圃など、彼が心から共感できる故郷の思い出につながるものや、彼の生活の周辺にある何気ないものが、豊かな詩情に育まれて大きく展開し、叙情あふれる画面へと高められていくのである。愛する家族も彼の作品にとって大切なモティーフの一つであった。それは彼の家族に寄せるあふれるばかりの思いから始まるのだが、やがて昇華し、生命あるものへの暖かく切ないほどの愛情を示す見事な造形詩となって現れる。山口薫は、1967年ごろから体調を崩し、入退院を繰り返すが、病中も描くことを止めなかった。描くという行為が、生活そのものであったからだろう。死が近づくにつれ、画面からは余計なものが削ぎ落とされ、すべてが記号化されていく。本作品にはもはや造形性や叙情性をことさらに高めようとする力みはなく、生と死を超越したところにある心象風景が、そのまま表されている。山口薫は、死を強く意識しながら、研ぎ澄まされた静謐な世界を描き出したのである。
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本作品が山口薫によるかどうかは当方では知る由がありませんが、この描かれている「パルミラの遺跡」に惹かれての入手です。
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描いたとしたら抽象的な画風となる前の留学した頃か直後の作と思われます。
山口薫は1930(昭和5)年9月に横浜を出発し、11月にパリ到着、1933(昭和8)年6月までのおよそ3年をパリやその周辺で過ごしています。1932年、暑いパリの夏を過ごしたのち、9月に入るとスイスを通ってイタリアに入り、ミラノ、ヴェネツィア、アッシジ、フィレンツェ、ローマ、ナポリ、ピサなどイタリア各地を巡りました。美しい夜のヴェネツィア、黄昏のアッシジ、ルネサンスの花フィレンツェ、久遠の都ローマなど、それぞれに感動を覚えつつ、美術や建築に触れ感銘を受けていたようです。特にアツシジではジョットの壁画を見て感動し、ローマでは遺跡にのこる太い大理石の柱や右片から滅びたローマ帝国を想像しています。このときの体験や感動が昇華され、帰国後、特に1930年代後半から制作される作品に、神話や古代世界をモチーフとしたものが見られることにも注目していますが、この対象にシリアの遺跡群があったかどうか詳細は不明です。
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この絵が描いたと思われる「シリア(パルミラ)の遺跡」とは・・。
パルミラの遺跡:世界で最も美しい廃墟の一つと言われるパルミラ遺跡は、シリアにある世界遺産で、ローマ帝国支配時の都市遺跡です。パルミラはナツメヤシの緑に包まれ、その名前もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」からとられたと言われています。
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古代ローマ時代、シルクロードを行き交う隊商にとって、難関の一つとされていた土地がシリア砂漠でした。広大なこの砂漠を通過するには、ラクダの足で40日かかったと言われます。この砂漠の中央にオアシス、メソポタミアと地中海を最短で結ぶ交易路にあるパルミラが、隊商都市として繁栄したのは紀元前1~後3世紀のこと。前64年にこの地を属州としたローマも自治権 を与えるなどして庇護し、街にはローマ様式の建物が数多く建設されました。
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しかし一人の女性が、ローマ帝国との友好関係に終止符を打つことになります。パルミラ王オダエナトゥスが暗殺された267年、 実権を握ったその妻であり、クレオパトラの末裔を自称するゼノビア女王は、皇帝のような威厳と気品に満ち、類い希な美貌を誇りました。ローマ帝国からの自立を目指した女王は、実権を握ってからわずか5年ほどで、周辺諸国を支配下に治めました。これに対して272年、時のローマ皇帝アウレリアヌスは、討伐軍を率いて出兵し、パルミラを包囲したアウレリアヌスは初め投降を勧めましたが、ゼノビアは応じません。そしてゼノビアはローマ帝国と真っ向から対決し、激しい攻防を繰り広げました。 しかし強大なローマ軍の前に、力尽き、 2年後、捕虜としてローマに連行されてしまいました。パルミラはこの戦いで徹底的に破壊されました。のちに再建されますが、ゼノビアのいない街に栄華は戻らず、これ以降、歴史の表舞台から姿を消すことになります。ナツメヤシの林を背にしたパルミラの街は、城壁で囲まれた部分が約10km²。最大の建造物は、街の南東奥に建つベル神殿です。ここに祀られたベルとは「主」 を意味し、古代シリアでは土地に肥汰を もたらす最高神とされていました。32年に奉献されたベル神殿は、ギリシア風の建物で、210m×205mのほぼ正方形をなし、400本近いコリント式円柱に囲まれていました。その中央に神像安置所を内包する本殿が建ちます。本殿が現在もほぼ原型をとどめているのは、あまりの荘厳な作まいに、ローマ軍が破壊するのを躊躇したためといわれています。パルミラの遺跡は『世界でもっとも夕陽が美しい』とも言われており、夕陽に染まった遺跡のあまりの美しさに砂漠を行きかうシルクロードの商人たちは「バラの街」という愛称で呼びました。このパルミラ遺跡は、中東三大遺跡と呼ばれると同時に中東の3P遺跡とも呼ばれています。
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しかし2015年に過激派組織「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」が、2000年あまりの歴史を持つシリアの世界遺産、パルミラの神殿を爆破してしまいました。なんと愚かなことを・・。現在ロシアがウクライナでしている行為も歴史がその愚かさを証明していくでしょう。

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