本日紹介する作品はちょっと面白そうな茶碗と思い入手した作品です。
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鉄絵宝珠文高麗茶碗 松村弥平太作合杉箱入 (「高麗玉(宝珠)之図」と記されている)口径117~118*胴径128*高台径55*高さ96
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真贋は別として箱書きに「弥平太」とありましたので、調べてみました。
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茶碗の作者としたら、下記に記述の人物が考えられます。
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松村弥平太:(読み)まつむら やへいた ?~1708 江戸時代前期-中期の陶工で、対馬(長崎県)府中藩につかえ、「弥平太」とは松村軍右衛門の手、松村弥平太と思われます。
元禄年間、元禄3年(1690)・8年、11年・、5年の4回にわたって藩の朝鮮釜山倭館窯に燔師(はんし 陶工頭)として派遣されています。対州御本,白手弥平太と称される茶碗などが代表的な作品です。俳諧を嵐雪に学び、山桜嵐関と号して狂歌もよくしたそうです。宝永5年(1708年)6月8日に釜山で死去しているようですが、対馬にあっても奇行多く、面白い人柄であったらしいです。弥平太と称される茶碗の特徴は、薄造りで、腰の張った柔らかい趣のものが多く、一部を変形させたり、洲浜にしたものも多いとされます。
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また器体の一部に絵を付けた、いわゆる絵御本の手もあり、江戸中期の好みのあり方を示しているともされます。絵御本には染付のもの、鉄絵のもの、稀に文様を釘彫りにしたものもありますが、遺品は少ないとされます。
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寛永16年(1639年)から享保3年(1718年)まで続いた釜山窯では、対馬藩から出向した茶碗焼役人のなかでも、中庭茂三、船橋玄悦、大浦林斎、宮川道二(小道二)、松村弥平太、平山意春らが、それぞれ独特な雅味のある逸品を後世に残しています。
茂三は腰のすぼまった独特な形状、玄悦は高台より胴をめぐるらせん状の釘彫を特徴とし、両者とも小砂まじりの土を用い、水簸されねっとりとした土を用いた朝鮮陶工による御本よりざんぐりしています。道二は極めて繊細で技巧的な三島を作り、弥平太は主に白土を用い、女性的で穏やかな作品を多く作っています。あまり目にする機会のない多彩な日本人陶工による御本茶碗を製作していたようです。
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当時、日本人向けの焼物を焼成する薪を使い過ぎて、朝鮮の山がハゲ山になったという逸話が残っています。
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釜山窯については下記の記述があります。
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釜山窯:寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、本来の名称は「和館茶碗窯」といい、大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼いています。
古い高麗茶碗を基として、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られました。しかし、元禄をすぎると、しだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯されたとされます。
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日本の茶人による注文品による「御本茶碗」にてついては下記のとおりです。
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文禄・慶長の役(1592~1598)後に途絶えていた朝鮮との国交は1609(慶長14)年に回復し、釜山に倭館(朝鮮が日本使節の接待・貿易管理の為に建てた客館)が再設されました。 国交が回復して間もなく、日本から朝鮮には高麗茶碗の注文が行われていたようです。御所丸、金海、彫三島等の茶碗が注文されたのもこの時期と推測されています。1639(寛永16)年には倭館に釜山窯(倭館窯)が開窯されました。釜山窯は日本と朝鮮の外交を担っていた対馬藩が運営を務めましたが、その焼成は年間を通じて継続的に行われたものではなく、1718(享保3)年の閉窯に至るまで断続的に窯を開いて生産され他とされています。
陶土や燃料等は朝鮮に申し出て購入し、地元の陶工を公的に申し入れて雇いました。対馬藩は開窯ごとに船橋玄悦、中庭茂三、松村弥平太等の陶工頭を釜山に派遣し、朝鮮陶工に指示して注文通りの茶道具を焼成させました。製品は幕府、大名、茶人等の要求に応じて焼成され、それらは対馬藩からの贈答品とされた事が伝えられています。
日本に伝存する作品は茶碗が多く、高麗茶碗の一種として「御本茶碗」と呼ばれています。それらは日本から朝鮮に御手本(切型)を示して発注した注文茶碗として知られており、中でも声価が高い玄悦、茂三、弥平太等は何れも釜山窯に携わった対馬藩士の名前ですが、長く実態が不明であった事から茶碗の種類名称として捉えられるようになりました。
焼成されたものは必ずしも茶碗に限らず、細かな調度品までに至ったとされています。又、御本(鹿子)とは淡紅色の斑文が肌の随所に現れた状態も指し、茶の緑色を引き立てる事から大変喜ばれています。朝鮮政府にとって陶土や燃料等の供給は多大の負担で次第に交渉を厄介視していきます。釜山窯では陶土や燃料等の集荷が困難になり始め、供給が絶たれる事で1718(享保3)年に閉窯となりました。釜山窯の閉鎖後、その特徴は対州(対馬)焼の各窯に引き継がれました。
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正保から享保二年(1717)まで約八十年間に、日本から朝鮮の釜山へ渡った彫師は、船橋玄悦・中庭茂山・松村弥平太など数十人にのぼるようです。それぞれの大名をとって、御本茶碗の種類名が付けられています。茂山は対馬の人で、一説に茂三ともいいます。茂山茶碗の中に、「抜船手」という一種があります。注文の御本茶碗が日本の港に着くと、まだ船が沖に碇泊して荷揚げする前に、小船を寄せて秀作のみを引き抜いた、というもの
本作品は金海茶碗に分類されるでしょうが、世上見る金海の大方は、このように後世釜山窯の作で、作調も軽薄、感銘の浅いものですが、その前の本手茶碗(下記写真作品)は作柄手強く、いかにも時代の気分を濃厚に発揮していますが、作品はきわめでまれです。
参考作品金海茶碗 西王母作品サイズ 高さ:84~886*口径:122~130cm*高台外径:64~65Image may be NSFW.
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またいわゆる金海の特色とされている、猫掻きと呼ぶ檜垣ふうの掻き目は、本手にはなく、その代わりに火間を特色としています。
なお本作品の高台周りの写真は下記のとおりです。
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カイラギのような釉薬になっています。
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高台の形状は唐津に似ていますね。
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おっと、箱書は下記の写真です。「玉の絵」とは?・・・・「宝珠」のことでしょうね。
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参考作品 松村弥平太作とされる茶碗《寸法》高さ7.5*口径11.0~13.5
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参考資料「茶道資料館 平成4年秋季特別展 高麗茶碗 御本とその周辺」1992年 70ページ
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いい形をしています。
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生い立ちはとも家内ともは面白そうな茶碗と意見は一致し、使ってみることにしています。
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鉄絵宝珠文高麗茶碗 松村弥平太作合杉箱入 (「高麗玉(宝珠)之図」と記されている)口径117~118*胴径128*高台径55*高さ96
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真贋は別として箱書きに「弥平太」とありましたので、調べてみました。
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茶碗の作者としたら、下記に記述の人物が考えられます。
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松村弥平太:(読み)まつむら やへいた ?~1708 江戸時代前期-中期の陶工で、対馬(長崎県)府中藩につかえ、「弥平太」とは松村軍右衛門の手、松村弥平太と思われます。
元禄年間、元禄3年(1690)・8年、11年・、5年の4回にわたって藩の朝鮮釜山倭館窯に燔師(はんし 陶工頭)として派遣されています。対州御本,白手弥平太と称される茶碗などが代表的な作品です。俳諧を嵐雪に学び、山桜嵐関と号して狂歌もよくしたそうです。宝永5年(1708年)6月8日に釜山で死去しているようですが、対馬にあっても奇行多く、面白い人柄であったらしいです。弥平太と称される茶碗の特徴は、薄造りで、腰の張った柔らかい趣のものが多く、一部を変形させたり、洲浜にしたものも多いとされます。
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また器体の一部に絵を付けた、いわゆる絵御本の手もあり、江戸中期の好みのあり方を示しているともされます。絵御本には染付のもの、鉄絵のもの、稀に文様を釘彫りにしたものもありますが、遺品は少ないとされます。
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寛永16年(1639年)から享保3年(1718年)まで続いた釜山窯では、対馬藩から出向した茶碗焼役人のなかでも、中庭茂三、船橋玄悦、大浦林斎、宮川道二(小道二)、松村弥平太、平山意春らが、それぞれ独特な雅味のある逸品を後世に残しています。
茂三は腰のすぼまった独特な形状、玄悦は高台より胴をめぐるらせん状の釘彫を特徴とし、両者とも小砂まじりの土を用い、水簸されねっとりとした土を用いた朝鮮陶工による御本よりざんぐりしています。道二は極めて繊細で技巧的な三島を作り、弥平太は主に白土を用い、女性的で穏やかな作品を多く作っています。あまり目にする機会のない多彩な日本人陶工による御本茶碗を製作していたようです。
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釜山窯については下記の記述があります。
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釜山窯:寛永16年(1639)朝鮮釜山の和館内に築かれた対馬藩宗家の御用窯で、本来の名称は「和館茶碗窯」といい、大浦林斎、中山意三、船橋玄悦、中庭茂三、波多野重右衛門、宮川道二、松村弥平太、平山意春らが燔師(はんし)としておもむき、朝鮮の陶工を指導して注文品を焼いています。
古い高麗茶碗を基として、御本立鶴(たちづる)、御本雲鶴、御本三島、御本堅手、絵御本、御本半使、御本御所丸、御本金海、御本呉器、砂御本など非常に多様なものが焼造され、対馬宗家を通じて徳川家ほかの大名に送られました。しかし、元禄をすぎると、しだいに陶土の集荷が困難になり、享保3年(1718)に閉窯されたとされます。
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日本の茶人による注文品による「御本茶碗」にてついては下記のとおりです。
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文禄・慶長の役(1592~1598)後に途絶えていた朝鮮との国交は1609(慶長14)年に回復し、釜山に倭館(朝鮮が日本使節の接待・貿易管理の為に建てた客館)が再設されました。 国交が回復して間もなく、日本から朝鮮には高麗茶碗の注文が行われていたようです。御所丸、金海、彫三島等の茶碗が注文されたのもこの時期と推測されています。1639(寛永16)年には倭館に釜山窯(倭館窯)が開窯されました。釜山窯は日本と朝鮮の外交を担っていた対馬藩が運営を務めましたが、その焼成は年間を通じて継続的に行われたものではなく、1718(享保3)年の閉窯に至るまで断続的に窯を開いて生産され他とされています。
陶土や燃料等は朝鮮に申し出て購入し、地元の陶工を公的に申し入れて雇いました。対馬藩は開窯ごとに船橋玄悦、中庭茂三、松村弥平太等の陶工頭を釜山に派遣し、朝鮮陶工に指示して注文通りの茶道具を焼成させました。製品は幕府、大名、茶人等の要求に応じて焼成され、それらは対馬藩からの贈答品とされた事が伝えられています。
日本に伝存する作品は茶碗が多く、高麗茶碗の一種として「御本茶碗」と呼ばれています。それらは日本から朝鮮に御手本(切型)を示して発注した注文茶碗として知られており、中でも声価が高い玄悦、茂三、弥平太等は何れも釜山窯に携わった対馬藩士の名前ですが、長く実態が不明であった事から茶碗の種類名称として捉えられるようになりました。
焼成されたものは必ずしも茶碗に限らず、細かな調度品までに至ったとされています。又、御本(鹿子)とは淡紅色の斑文が肌の随所に現れた状態も指し、茶の緑色を引き立てる事から大変喜ばれています。朝鮮政府にとって陶土や燃料等の供給は多大の負担で次第に交渉を厄介視していきます。釜山窯では陶土や燃料等の集荷が困難になり始め、供給が絶たれる事で1718(享保3)年に閉窯となりました。釜山窯の閉鎖後、その特徴は対州(対馬)焼の各窯に引き継がれました。
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正保から享保二年(1717)まで約八十年間に、日本から朝鮮の釜山へ渡った彫師は、船橋玄悦・中庭茂山・松村弥平太など数十人にのぼるようです。それぞれの大名をとって、御本茶碗の種類名が付けられています。茂山は対馬の人で、一説に茂三ともいいます。茂山茶碗の中に、「抜船手」という一種があります。注文の御本茶碗が日本の港に着くと、まだ船が沖に碇泊して荷揚げする前に、小船を寄せて秀作のみを引き抜いた、というもの
本作品は金海茶碗に分類されるでしょうが、世上見る金海の大方は、このように後世釜山窯の作で、作調も軽薄、感銘の浅いものですが、その前の本手茶碗(下記写真作品)は作柄手強く、いかにも時代の気分を濃厚に発揮していますが、作品はきわめでまれです。
参考作品金海茶碗 西王母作品サイズ 高さ:84~886*口径:122~130cm*高台外径:64~65Image may be NSFW.
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またいわゆる金海の特色とされている、猫掻きと呼ぶ檜垣ふうの掻き目は、本手にはなく、その代わりに火間を特色としています。
なお本作品の高台周りの写真は下記のとおりです。
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カイラギのような釉薬になっています。
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高台の形状は唐津に似ていますね。
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おっと、箱書は下記の写真です。「玉の絵」とは?・・・・「宝珠」のことでしょうね。
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参考作品 松村弥平太作とされる茶碗《寸法》高さ7.5*口径11.0~13.5
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参考資料「茶道資料館 平成4年秋季特別展 高麗茶碗 御本とその周辺」1992年 70ページ
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生い立ちはとも家内ともは面白そうな茶碗と意見は一致し、使ってみることにしています。