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未整理の掛け軸の作品 3点

男の隠れ家にはまだ整理未了の掛け軸がありますが、一度はひと通り整理した後の残りの作品なので、未整理の作品の多くが作者不詳なので、なかなか整理する気にならないというのが(整理の進まない)正直な理由です。欄間額などの書もありますが、何を書いているのか、誰が書いたのかも分からないので、ますます整理する気が起きてきませんね。前回の帰省でそれでもそろそろ整理しようかと思い、まずは3点の掛け軸の作品を帰郷に際して持ってきました。
まずは1点目の作品です。
葡萄之図 菅井雲樵筆 昭和43年頃絹本水着色軸装 軸先練 共箱全体サイズ:縦1342*横566 画サイズ:縦348*横434
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調べていくとそれなりの名のある、もしくは名のあった画家のようです。
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描いた作者の来歴は下記のとおりです。
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菅井雲樵:(すがいうんしょう) 明治22(1889)年9月、兵庫県三原郡福良町(現南あわじ市)に生まれる。幼少の頃から画家をめざし、森脇雲溪(もりわきうんけい)、岸浪柳溪(きしなみりゅうけい)に師事し、日本画を学び、花鳥山水を得意とする。本名は、圭助、師の一字を頂き雲樵と号しています。
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落款や箱書から昭和43年頃の作と推定されます。
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さらに調べていくと画家の詳細が分かってきました。
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日本美術協会に所属し、戦前、旧満州国皇帝溥儀(ふぎ)来日の際、御前揮毫の栄光に浴しています。
秩父宮殿下が雲樵の絵を大変気に入り、数点買上げ、兄である昭和天皇にも献上されたとのこと。
大西洋を初めて飛行機で横断したリンドバーク来日の際、日本政府の名において雲樵の絵が贈呈されたそうです。
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このような評価から先人(家人)が購入したのではないかと推測されます。
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 さらに下記のような記述があります。
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大本山永平寺の傘松閣の天井には230枚もの花鳥彩色画が描かれており、そのうちの1枚「南天に白頭鳥」を雲樵が描いたとされます。戦時中、夫妻で深谷へ疎開し、市内の寺で過ごしています。また、皎心寺の天井には、複数の絵が描かれています。
 雲樵は、故里福良を懐かしみ、たびたび帰郷し旧知と語り合い、多くの絵を残したようです。慈眼寺庫裏の玄関に大きな衝立があり、表には富士の絵、裏に竹に雀の絵があります。 
昭和50(1975)年3月16日、家族、門弟に看取られながら東京で没した。享年87。
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未整理の作品、侮れず・・・。
さて2作品目は下記の作品です。
牛之図 華舟筆(詳細不明) 紙本水着色軸装 軸先練 共箱全体サイズ:縦2090*横649 画サイズ:縦1347*横511
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家人に丑年生まれの人がいたのかな? 
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なんとも面白い作品です。
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残念ながら「華舟」?なる人物はわかりませんでした。
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3作品目は下記の作品です。
霜信 竹原嘲風筆絹本水着色軸装 軸先練 共箱全体サイズ:縦1548*横645 画サイズ:縦417*横506
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調べてみると、この作品を描いた画家の来歴は下記のとおりです。
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竹原嘲風: 1897年浅草で絵葉書の販売を商いする家に生まれ、独学で絵を描き始めました。本名は竹太郎。10代にはすでに着物柄の下絵などを描いていたとのこと。新人の登竜門である巽画会に入選した記録もあります。
1917年(大正6)頃、蔦谷龍岬に入門。1918年(大正7)、第12回文展に「嘲風」の号で《秋ひより》が初入選。ぼかしを効かせたロマンティックな作風による花鳥画で翌年にはじまる第1回帝展、第2回帝展にも連続入選。
大正末の嘲風は同時代の速水御舟や小茂田青樹らの細密描写に近しい筆致で動植物をよく描いている。関東大震災を機に東京郊外の長崎や江古田近辺に移住。昭和の始めごろから、東洋画の写実を基礎に線描を生かした装飾的画面構成を試みました。後期は荒木十畝に師事し「啁風」に改号しています。花鳥画や動植物のほか風景画も描きました。
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なんともきれいな作品です。
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題名である「霜信」は「霜のおりた朝」ということでしょうか?
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さらに画家の詳細は下記のとおりです。郷里出身の画家で本ブログでおなじみの福田豊四郎とも関連のあった画家のようです。福田豊四郎氏の見立てで父はよく作品を購入していたようですので、そのような経緯で入手した作品かもしれません。
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補足:1926年(大正15・昭和元)、第7回中央美術展で中央美術賞受賞。翌27年(昭和2)に中央美術展の会友となる。この頃から東洋画の写実を基礎に線描を生かした装飾的画面構成を試みる。1926年第7回中央美術展で中央美術賞受賞。1929年(昭和4)の帝展で特選受賞し、翌年帝展無鑑査となる。この頃、江古田周辺の画家仲間(福田豊四郎、茨木衫風ら)と句会「みみづく会」を催し、1937年(昭和12)頃まで交流した。この間、1933年(昭和8)に師龍岬が死去。その後、荒木十畝に師事し、「啁風」と改号。号の「嘲」「啁」も「さえずる」「うそぶく」という意味。1947年(昭和22)、富山県高岡市で客死。
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当方の本ブログを記載する目的の第一義は作品の整理です。ほとんどが当方での蒐集作品ですが、時としてこのような先人らによる蒐集作品も整理しています。整理においては当方は販売目的ではない素人ですので、真贋というより、作品の面白みというのに重点を置いていますので、読まれる方はご了解下さい。
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整理の終了した作品は調べた内容を書類として添付し、「男の隠れ家」に戻しておきます。まだまだ整理したい作品はある・・・???



























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