本日紹介するのは大樋焼の作品です。母が大切にしていた香合に九代大樋長左衛門作の作品(未投稿)がありました。おそらく父が買い求めて茶道を嗜む母にあげたものと思われます。その作品を契機にあまり縁のなかった大樋焼に少し興味を持ち、家内と母との三人で金沢を訪れた際には窯元まで訪ねて行ったこともありました。
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八角食篭 九代大樋長左衛門作 その2共箱 幅*奥行*高さ
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そもそも大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯のことです。この大樋焼もまた楽焼と同じく多くの脇窯?があります。
江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶道茶具奉行として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道しました。仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に楽焼の土を見出したことで大樋焼と称され、以後は前田家の御用窯として栄えます。明治時代になると、加賀藩の保護が途絶え一時衰退しましたが、それ以後の生活の安定や茶道の普及で復興します。
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大樋焼は、楽焼と同様に轆轤は使わず手で捻りながら成形し、ひとつひとつ箆で削りながら造り上げて作ります。小さな窯に釉薬を施した作品を入れ、短期間に温度を上げた後、引き出して急冷します。この温度差の急な焼成は楽焼と大樋焼だけに見られる手法です。また独特の飴色は、初代長左衛門が京都より金沢に出向く際に楽家より与えられたとされており、雪国にふさわしい暖かい味わいが特徴です。
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各代々は下記のとおりです。初代、4代、5代、9代が名工とされます。初代 大樋長左衛門(芳土庵)(1631〜1712)二代 大樋長左衛門(芳土庵)(1686〜1747)三代 大樋長左衛門(勘兵衛・芳土庵)(1728〜1802)四代 大樋長左衛門(勘兵衛・土庵)(1758〜1839)五代 大樋長左衛門(勘兵衛・土庵)(1799〜1856)六代 大樋長左衛門(朔太郎)(1829〜1856)七代 大樋長左衛門(道忠)(1834〜1894)明治期の旧藩による援助の消滅や茶道衰退により、一時大樋焼は廃れ、大樋長左衛門の名跡は大樋家から奈良家に移ります。八代 大樋長左衛門(宗春・松涛・以玄斉)(1851〜1927)九代 大樋長左衛門(陶土斎)(1901〜1986)十代 大樋長左衛門(年郎・陶冶斎)(1927〜2023)十一代 大樋長左衛門(年雄)(1958〜)
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九代大樋長左衛門の陶歴は下記のとおりです。
********************************
九代大樋長左衛門:1901年(明治34年)~1986(昭和61年)。金沢生。昭和9年に大樋焼本家窯元九代目を襲名。九代はあえて伝統を打ち破るということに挑戦し、艶の良い黒を作った。一回黒い釉薬をかけて、その上からさらに分厚い黒をかけると、腰のあたりに幕のように波が出る。これが九代の特徴。中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれた。日本工芸会正会員。十五世裏千家鵬雲斎宗室より陶土斎の号を受ける。昭和61年(1986)、84才。
8代大樋長左衛門の次男。
本名は長次郎。
名は長左衛門。
号は陶土斎。
大正6年石川県立工業学校窯業科卒業。
父に師事して作陶をする。
大正14年9代大樋長左衛門を襲名する。
大徳寺488世全提要宗より「大樋」印を授かる。
昭和5年宮中、大宮御所の茶室用品の御用命を受ける。
昭和10年宮中、大宮御所、秋泉御茶室用御茶碗の御用命を受ける。
昭和11年茶碗12ヶ月作陶展を開催する。
昭和15年内閣総理大臣・近衛文麿より自筆の「長左衛門」金印を授かる。
昭和17年工芸技術保存作家の指定を受ける。
昭和33年日本工芸会正会員となる。
昭和48年日本陶芸展に推薦招待され数印黒楽茶碗を出品する。
昭和52年裏千家15代鵬雲斎宗室より「陶土斎」の号を授かる。
手捏ねによる樂焼本来の伝統的手法を忠実に守り歴代の中でも優れた陶才を発揮する。
大樋焼独特のねっとりとした飴釉の茶碗はもとより黒茶碗にも傑作を残している。
たっぷりとした二重掛けの黒釉が作り出す黒幕釉を創案し、その絶妙な垂れの景色は高い評価を受けている。
昭和61年歿。
享年85歳。
******************************** 本作品は大樋焼独特のねっとりとした飴釉を用いた作品です。
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喰籠とは…主菓子を客の数だけ盛り込んで出すための蓋付きの器です。
「食篭」とも「喰籠」とも書きます。黒文字箸を一膳添えます。その多くは円形または角形で、重ね式のものもあります。元来食物をいれる蓋付きの身の深い容器のことをいい、『君台観左右帳記』や『御飾記』にも座敷飾として違棚に「食篭」が置かれているように、書院の棚飾りに用いられましたが、茶人に好まれたことにより、茶席でおもに主菓子を盛り込む菓子器として用いられ、様々な形が現れ、素材も最初は、漆器でしたが、陶磁器も用いられるようになります。 Image may be NSFW.
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茶道には欠かせない道具のひとつですね。
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本作品は共箱の誂えとなっていますが、共箱がないと価値が半減します。
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箱書は下記のとおりです。
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書体、印章は間違いのないもののようです。
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八角食篭 九代大樋長左衛門作 その2共箱 幅*奥行*高さ
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そもそも大樋焼(おおひやき)とは、石川県金沢市にある、350年の歴史と伝統をもつ楽焼の脇窯のことです。この大樋焼もまた楽焼と同じく多くの脇窯?があります。
江戸時代初期の寛文6年(1666年)、加賀百万石、加賀藩5代藩主・前田綱紀が京都から茶道茶具奉行として仙叟(裏千家4代千宗室)を招いた際に、楽家4代一入に師事し、最高弟であった陶工・土師長左衛門が同道しました。仙叟が帰京する貞享3年(1686年)後も長左衛門は残り、河北郡大樋村(現、金沢市大樋町)に楽焼の土を見出したことで大樋焼と称され、以後は前田家の御用窯として栄えます。明治時代になると、加賀藩の保護が途絶え一時衰退しましたが、それ以後の生活の安定や茶道の普及で復興します。
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大樋焼は、楽焼と同様に轆轤は使わず手で捻りながら成形し、ひとつひとつ箆で削りながら造り上げて作ります。小さな窯に釉薬を施した作品を入れ、短期間に温度を上げた後、引き出して急冷します。この温度差の急な焼成は楽焼と大樋焼だけに見られる手法です。また独特の飴色は、初代長左衛門が京都より金沢に出向く際に楽家より与えられたとされており、雪国にふさわしい暖かい味わいが特徴です。
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各代々は下記のとおりです。初代、4代、5代、9代が名工とされます。初代 大樋長左衛門(芳土庵)(1631〜1712)二代 大樋長左衛門(芳土庵)(1686〜1747)三代 大樋長左衛門(勘兵衛・芳土庵)(1728〜1802)四代 大樋長左衛門(勘兵衛・土庵)(1758〜1839)五代 大樋長左衛門(勘兵衛・土庵)(1799〜1856)六代 大樋長左衛門(朔太郎)(1829〜1856)七代 大樋長左衛門(道忠)(1834〜1894)明治期の旧藩による援助の消滅や茶道衰退により、一時大樋焼は廃れ、大樋長左衛門の名跡は大樋家から奈良家に移ります。八代 大樋長左衛門(宗春・松涛・以玄斉)(1851〜1927)九代 大樋長左衛門(陶土斎)(1901〜1986)十代 大樋長左衛門(年郎・陶冶斎)(1927〜2023)十一代 大樋長左衛門(年雄)(1958〜)
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九代大樋長左衛門の陶歴は下記のとおりです。
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九代大樋長左衛門:1901年(明治34年)~1986(昭和61年)。金沢生。昭和9年に大樋焼本家窯元九代目を襲名。九代はあえて伝統を打ち破るということに挑戦し、艶の良い黒を作った。一回黒い釉薬をかけて、その上からさらに分厚い黒をかけると、腰のあたりに幕のように波が出る。これが九代の特徴。中興の祖である五代勘兵衛に匹敵する名工といわれた。日本工芸会正会員。十五世裏千家鵬雲斎宗室より陶土斎の号を受ける。昭和61年(1986)、84才。
8代大樋長左衛門の次男。
本名は長次郎。
名は長左衛門。
号は陶土斎。
大正6年石川県立工業学校窯業科卒業。
父に師事して作陶をする。
大正14年9代大樋長左衛門を襲名する。
大徳寺488世全提要宗より「大樋」印を授かる。
昭和5年宮中、大宮御所の茶室用品の御用命を受ける。
昭和10年宮中、大宮御所、秋泉御茶室用御茶碗の御用命を受ける。
昭和11年茶碗12ヶ月作陶展を開催する。
昭和15年内閣総理大臣・近衛文麿より自筆の「長左衛門」金印を授かる。
昭和17年工芸技術保存作家の指定を受ける。
昭和33年日本工芸会正会員となる。
昭和48年日本陶芸展に推薦招待され数印黒楽茶碗を出品する。
昭和52年裏千家15代鵬雲斎宗室より「陶土斎」の号を授かる。
手捏ねによる樂焼本来の伝統的手法を忠実に守り歴代の中でも優れた陶才を発揮する。
大樋焼独特のねっとりとした飴釉の茶碗はもとより黒茶碗にも傑作を残している。
たっぷりとした二重掛けの黒釉が作り出す黒幕釉を創案し、その絶妙な垂れの景色は高い評価を受けている。
昭和61年歿。
享年85歳。
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喰籠とは…主菓子を客の数だけ盛り込んで出すための蓋付きの器です。
「食篭」とも「喰籠」とも書きます。黒文字箸を一膳添えます。その多くは円形または角形で、重ね式のものもあります。元来食物をいれる蓋付きの身の深い容器のことをいい、『君台観左右帳記』や『御飾記』にも座敷飾として違棚に「食篭」が置かれているように、書院の棚飾りに用いられましたが、茶人に好まれたことにより、茶席でおもに主菓子を盛り込む菓子器として用いられ、様々な形が現れ、素材も最初は、漆器でしたが、陶磁器も用いられるようになります。 Image may be NSFW.
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茶道には欠かせない道具のひとつですね。
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本作品は共箱の誂えとなっていますが、共箱がないと価値が半減します。
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