恩地孝四郎の平井摺の作品は「荻原朔太郎」に続いて2作品目の紹介です。当方では後摺りの「平井摺」の価値についてはまったく知識がありませんが、面白そうな作品なので、お値段が高かったのですが無理をして購入しました。
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氏素性の解らぬ作品 金色の魚 恩地孝四郎画 木版画 その2額サイズ:縦375*横284 作品サイズ:縦255*横1651933年(後摺り/平井孝一) 副題「ドビィシィ 金色の魚 音楽によす抒情」裏に平井摺りスタンプには昭和31年(1956年)春と記されている
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当方では詳しくありませんが、恩地孝四郎が音楽を題材とした作品では、題名が「音楽作品による抒情」となっているため、明確に音楽を参照していることがわかるようです。しかも、参照した楽曲名まで表しているので、明らかに音楽作品からうけた印象を描いたものとされ、戦前から手を付けて、戦後にかけてシリーズとしての完成を目指していたとされます。
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1927年から28年にかけて恩地が続けざまに手がけた「日響楽譜」表紙絵も、彼が恒常的に請け負っていた装幀の賃仕事(同時期にはARSの「日本児童文庫」全七十六冊の表紙絵もあった)とは自ずと性格を異にした「特別な意味をもつ」作業だと思われます。
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「日響楽譜」表紙絵に収められているのはすべて敬愛する盟友、山田耕筰の手になる楽曲ばかりであり、ここで恩地が彼なりに「音楽と美術の総合」を試みたものでしょう。少なくとも個々の楽曲にどのような視覚表現が似つかわしいかを探る契機になっただろうと思われます。1930年代の版画作品「音楽作品による抒情」シリーズ(全部で9点あるというこのシリーズ)は、その延長線上で創られたものではないのかと推察されています。
音楽作品による抒情シリーズに本作品のドビュッシー《金色の魚》があります。有名な映像第2集からの一曲で、14年に及ぶ年を隔てた二つのエディション(下記作品)がありますが、コンセプトはほぼ同一と言ってよいでしょう。
本作品:1936年音楽作品による抒情 ドビュッシー《金色の魚》 木版、紙
他の作品:1950年音楽作品による抒情 ドビュッシー《金色の魚》 木版、紙
比較すると違いが分かります。
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ドビュッシーの《金色の魚》の曲は有名なので、詳しい解説は不要かと思いますが、日本の漆器盆に金粉で描かれた錦鯉を見てイメージされた楽曲です。音の粒が煌めくように行き来してゆったりと泳ぐ魚を意識させる曲の展開は、やがて激しさを増し、まるで激流を昇る鯉の滝登りを表しているかのようなクライマックスを迎えます。
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作曲者が見た漆器作品からイマジネーションを得て作曲した曲を再度視覚化しようという恩地の試みは、一見無意味のようにも思えますが、恩地の表現は、何の前提知識の無い観者にとっては極めて難解な抽象に見えます。しかし、作曲に至った背景を知っていると、どことなく具象的な様相を呈してきます。金色に塗りつぶされた円は鯉の鱗に、右側の縦長の造形は盆に見立てることが出来なくもありません。左側の白いものは盆に盛られたものかもしれません。しかし、全体の造形が、鯉が泳ぐ姿の特徴を抽出した表現であり、ドビュッシーが紡いだ鯉が泳ぐことで描く光の綾を表しているとも考えられます。
他の「音楽作品による抒情」作品には下記のような作品があります。
サティ・小曲による抒情 1936年 木版、紙
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音楽作品による抒情No.1 諸井三郎「プレリュード」↓![]()
作品の左上にはスタンプがあり、裏目には下記のようなシールがあります。
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恩地孝四郎の自摺り作品の大きなものはほとんど一般の市場には流通していないとされます。海外のオークションなどでたまに出ると、1千万円を越す高額落札も珍しくとか・・。
国内で比較的入手しやすいのが、所謂「後摺り(後刷り)作品」のようです。中でも良く知られているのが「平井摺り」と言われるものです。恩地孝四郎の戦前はほとんど売れることはありませんでしたから、頒布会や版画雑誌に挿入した比較的多い部数の作品以外は、オリジナルの部数は極端に少ないようです。
1945年8月戦争に負けて進駐軍(アメリカなどの占領軍のことを当時は進駐軍と呼んでいました)が日本に大挙やってきたのですが、その中には多くの文民が含まれていました。つまり、本国では弁護士や学者などのインテリが軍服を着て来日し、日本の統治(占領政策)の遂行にあたったわけですが、その中には多くの美術愛好家が含まれていました。戦前は貧乏の代名詞だった版画家が時ならぬバブルに沸いたといえば言い過ぎでしょうが、恩地孝四郎はじめ、優れた版画家の作品を進駐軍の将校たちが競って買いました。それによって恩地孝四郎の優品の多くが海外に流出することになります。
一般に流通する恩地孝四郎作品がほとんどないという背景もあって、父孝四郎没後の1968年前後に、遺族によって、残された版木を使い、浮世絵の摺り師・平井孝一による後刷りがされました。これが「平井摺り作品」です。恩地孝四郎の没後の後刷り作品は、この「平井摺り作品」が最初です。作品の裏に平井摺りを意味するスタンプが押されています。このスタンプも流通するうちにだいぶ無くなっている作品が多いとか・・。
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このスタンプに記されている1956年春という記載は不明ですが、この前年に恩地孝四郎は亡くなっています。
*恩地孝四郎の作品の後摺りには平井摺りの他,米田稔(米田摺り)や子息・恩地邦郎(邦郎摺り)によるものがあります。また,恩地孝四郎の存命中に恩地本人ないし関野凖一郎が摺った「増し摺り」も存在します。「増し刷り」は戦後,W.ハーネット等の進駐軍のコレクターの要望に応えて摺った物がこれに該当します。
**形象社刊の「恩地孝四郎版画集」の掲載の422点の収録作品に<後刷り作品のあるもの>に印がついており、その総数は14点です。「恩地孝四郎版画集」刊行以前に、平井孝一によってなされた後刷り(メモリアル・エディション)は14種類と思われます。平井孝一によってなされた後刷りが何種類、何枚刷られていたのかは正確には不明ですが、希少なようです。本日紹介している作品もそのひとつのようです。
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***なお本ブログで紹介している萩原朔太郎像(上記写真)の場合、恩地本人が戦前と戦後(増し摺り)に摺った物が数部、関野凖一郎による増し摺りが20部、1955年の平井孝一による平井摺りが20部存在するそうです。どうも希少らしい・・。
上記写真の作品には裏面に下記のシールが遺っています。
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当方はまったくの素人ゆえ、この版画類の価値は解りませんが、当方には惹きつけられる魅力があります。
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額装は神田の草土舎で改装しています。

氏素性の解らぬ作品 金色の魚 恩地孝四郎画 木版画 その2額サイズ:縦375*横284 作品サイズ:縦255*横1651933年(後摺り/平井孝一) 副題「ドビィシィ 金色の魚 音楽によす抒情」裏に平井摺りスタンプには昭和31年(1956年)春と記されている

当方では詳しくありませんが、恩地孝四郎が音楽を題材とした作品では、題名が「音楽作品による抒情」となっているため、明確に音楽を参照していることがわかるようです。しかも、参照した楽曲名まで表しているので、明らかに音楽作品からうけた印象を描いたものとされ、戦前から手を付けて、戦後にかけてシリーズとしての完成を目指していたとされます。

1927年から28年にかけて恩地が続けざまに手がけた「日響楽譜」表紙絵も、彼が恒常的に請け負っていた装幀の賃仕事(同時期にはARSの「日本児童文庫」全七十六冊の表紙絵もあった)とは自ずと性格を異にした「特別な意味をもつ」作業だと思われます。

「日響楽譜」表紙絵に収められているのはすべて敬愛する盟友、山田耕筰の手になる楽曲ばかりであり、ここで恩地が彼なりに「音楽と美術の総合」を試みたものでしょう。少なくとも個々の楽曲にどのような視覚表現が似つかわしいかを探る契機になっただろうと思われます。1930年代の版画作品「音楽作品による抒情」シリーズ(全部で9点あるというこのシリーズ)は、その延長線上で創られたものではないのかと推察されています。
音楽作品による抒情シリーズに本作品のドビュッシー《金色の魚》があります。有名な映像第2集からの一曲で、14年に及ぶ年を隔てた二つのエディション(下記作品)がありますが、コンセプトはほぼ同一と言ってよいでしょう。
本作品:1936年音楽作品による抒情 ドビュッシー《金色の魚》 木版、紙
他の作品:1950年音楽作品による抒情 ドビュッシー《金色の魚》 木版、紙
比較すると違いが分かります。

ドビュッシーの《金色の魚》の曲は有名なので、詳しい解説は不要かと思いますが、日本の漆器盆に金粉で描かれた錦鯉を見てイメージされた楽曲です。音の粒が煌めくように行き来してゆったりと泳ぐ魚を意識させる曲の展開は、やがて激しさを増し、まるで激流を昇る鯉の滝登りを表しているかのようなクライマックスを迎えます。

作曲者が見た漆器作品からイマジネーションを得て作曲した曲を再度視覚化しようという恩地の試みは、一見無意味のようにも思えますが、恩地の表現は、何の前提知識の無い観者にとっては極めて難解な抽象に見えます。しかし、作曲に至った背景を知っていると、どことなく具象的な様相を呈してきます。金色に塗りつぶされた円は鯉の鱗に、右側の縦長の造形は盆に見立てることが出来なくもありません。左側の白いものは盆に盛られたものかもしれません。しかし、全体の造形が、鯉が泳ぐ姿の特徴を抽出した表現であり、ドビュッシーが紡いだ鯉が泳ぐことで描く光の綾を表しているとも考えられます。
他の「音楽作品による抒情」作品には下記のような作品があります。
サティ・小曲による抒情 1936年 木版、紙

音楽作品による抒情No.1 諸井三郎「プレリュード」↓

作品の左上にはスタンプがあり、裏目には下記のようなシールがあります。

恩地孝四郎の自摺り作品の大きなものはほとんど一般の市場には流通していないとされます。海外のオークションなどでたまに出ると、1千万円を越す高額落札も珍しくとか・・。
国内で比較的入手しやすいのが、所謂「後摺り(後刷り)作品」のようです。中でも良く知られているのが「平井摺り」と言われるものです。恩地孝四郎の戦前はほとんど売れることはありませんでしたから、頒布会や版画雑誌に挿入した比較的多い部数の作品以外は、オリジナルの部数は極端に少ないようです。
1945年8月戦争に負けて進駐軍(アメリカなどの占領軍のことを当時は進駐軍と呼んでいました)が日本に大挙やってきたのですが、その中には多くの文民が含まれていました。つまり、本国では弁護士や学者などのインテリが軍服を着て来日し、日本の統治(占領政策)の遂行にあたったわけですが、その中には多くの美術愛好家が含まれていました。戦前は貧乏の代名詞だった版画家が時ならぬバブルに沸いたといえば言い過ぎでしょうが、恩地孝四郎はじめ、優れた版画家の作品を進駐軍の将校たちが競って買いました。それによって恩地孝四郎の優品の多くが海外に流出することになります。
一般に流通する恩地孝四郎作品がほとんどないという背景もあって、父孝四郎没後の1968年前後に、遺族によって、残された版木を使い、浮世絵の摺り師・平井孝一による後刷りがされました。これが「平井摺り作品」です。恩地孝四郎の没後の後刷り作品は、この「平井摺り作品」が最初です。作品の裏に平井摺りを意味するスタンプが押されています。このスタンプも流通するうちにだいぶ無くなっている作品が多いとか・・。

このスタンプに記されている1956年春という記載は不明ですが、この前年に恩地孝四郎は亡くなっています。
*恩地孝四郎の作品の後摺りには平井摺りの他,米田稔(米田摺り)や子息・恩地邦郎(邦郎摺り)によるものがあります。また,恩地孝四郎の存命中に恩地本人ないし関野凖一郎が摺った「増し摺り」も存在します。「増し刷り」は戦後,W.ハーネット等の進駐軍のコレクターの要望に応えて摺った物がこれに該当します。
**形象社刊の「恩地孝四郎版画集」の掲載の422点の収録作品に<後刷り作品のあるもの>に印がついており、その総数は14点です。「恩地孝四郎版画集」刊行以前に、平井孝一によってなされた後刷り(メモリアル・エディション)は14種類と思われます。平井孝一によってなされた後刷りが何種類、何枚刷られていたのかは正確には不明ですが、希少なようです。本日紹介している作品もそのひとつのようです。

***なお本ブログで紹介している萩原朔太郎像(上記写真)の場合、恩地本人が戦前と戦後(増し摺り)に摺った物が数部、関野凖一郎による増し摺りが20部、1955年の平井孝一による平井摺りが20部存在するそうです。どうも希少らしい・・。
上記写真の作品には裏面に下記のシールが遺っています。

当方はまったくの素人ゆえ、この版画類の価値は解りませんが、当方には惹きつけられる魅力があります。

額装は神田の草土舎で改装しています。