先週の日曜日は神社にてお祓いをしていただきました。
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どうも八方塞がりの厄払いの年にあたったようですので、寒川神社まで詣でました。寒川神社は日本で唯一の八方除けの守護神として広く知られていますね。
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そろそろ込み具合も少なかろうと家族皆で急遽でかけました。
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上記写真は「渾天儀」というもののようです。これは天体の位置や星を観測するためのもので、古来から天体の動きをみて、住居や方角、運勢などを占うのに使われてきました。「龍が天空を支える」と言われ、渾天儀の四方を龍が守っています。 家族皆がすこやかであらんことを・・・。
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帰宅途中は相模原を通って花見をしてまいりました。
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さて本日は私の両親の結婚の祝いに福田豊四郎氏に描いていただいた作品の紹介です。吉祥文として「鶴は千年、亀は万年」といわれ代表的な日本の吉祥文様ですが、鶴は単独でもよく使われており、夫婦睦まじい老境の象徴とされています。
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この作品の紹介は3度目となります。今回は胡粉の絵の具の剥落がありましたので、前から太巻の仕様のしようと思っていたことが完了したことを今までの投稿に追記して投稿します。
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実はこの作品は当方の知る限りでは2点あります。
最初の作品は父の実家に対して福田豊四郎氏が父母の結婚祝いに描いた作品を寄贈したか、もしくは祖父が依頼して描いていただいたかした作品です。
もう一点はその作品に感動した母の実家にても依頼して描いたもらったようです。
母はいずれかの作品が自分らの手元に来ると思っていたようですが、いい出来だったせいか?父の実家では本家が所蔵し、母の実家でも同様な状況になりました。その後、父の実家では作品を手放しており、最終的に郷里の博物館にて所蔵されているようです。
*下記写真は展示会の写真ですが、突き当りの奥の左から2番目の作品が父の実家で旧蔵していた作品です。
**一番左の鍾馗図についても同一作品が当方にて所蔵しています。その作品は母の実家にて当方の従弟の誕生祝いに福田豊四郎氏から譲り受けていますが、縁あって当方で所蔵しています。
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当方で所蔵している「鍾馗図」は下記の作品です。ちなみに上記の展示会程度の作品ならば、当方の所蔵作品でも揃います。
鐘馗図 福田豊四郎筆紙本水墨淡彩軸装象牙軸共箱 612*1270
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幸いなことに母の実家の作品「鶴汀」は母が亡くなる直前に母の実家から母に譲られました。父母に縁のある作品ですのでず~っと追いかけていましたが、最後の最後に念願がかなって当方の所蔵となった作品です。
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追記 鶴汀 福田豊四郎筆 その35絹本着色軸装共箱二重箱 軸先樹脂全体サイズ:縦2210*720 画サイズ:1428*570
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本作品は前述のように母方の実家で所蔵していた作品であり、父方の作品とは比較してみたことはありません。ただほぼ同じ構図であると母から聞いています。
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胡粉の絵の具がほんの一部剥落しております。掛け軸は巻くことで絵の具が剥がれることはあります。そのために本作品は太巻の誂えにしています。
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本作品は、その由来から母の実家の好意により母に、そして当方に譲渡されたものです。
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むろん本作品は真贋については議論の余地はありません。描いたのは昭和20年頃となります。
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大切に保存したい作品であることから、手元に置くようにしています。ところで福田豊四郎に関する資料から絵葉書にある作品と構図が似ている部分があることに気がつきました。
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その絵葉書を入手したのが下記の資料です。むろん若い頃から福田豊四郎は鶴の作品を遺しています。ただし、それほど数は多くありません。
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参考資料晨汀紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品
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紀元二千六百年(西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされる)、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進しました。
1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設、1940年(昭和15年)には、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されたようです。
「晨」は夜明けのこと。絵葉書からの判断ですが、大きさは劣るものの後年による上記の本作品が絵葉書の作品より出来は数段上のように思います。他の鶴の作品(屏風の作品もあります)と比べても格段に品が良い作品となっています。
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福田豊四郎の代表作といっていいでしょう。
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父母と福田豊四郎氏との交流は互いに亡くなるまで続き、父は早くに亡くなりましたが、亡くなる直前まで福田豊四郎氏から絵の手ほどきを受けていました。父の亡くなった際にはお世話になった方々へ寄贈する色紙を数多く福田豊四郎氏に描いたもらったそうです。母は福田豊四郎氏の入院に際しては東京までお見舞いに出向いていました。また福田豊四郎が亡くなった後には奥様から画集を頂いております。当方の福田豊四郎の作品蒐集の原点はこのような縁によるものなのでしょう。

どうも八方塞がりの厄払いの年にあたったようですので、寒川神社まで詣でました。寒川神社は日本で唯一の八方除けの守護神として広く知られていますね。

そろそろ込み具合も少なかろうと家族皆で急遽でかけました。

上記写真は「渾天儀」というもののようです。これは天体の位置や星を観測するためのもので、古来から天体の動きをみて、住居や方角、運勢などを占うのに使われてきました。「龍が天空を支える」と言われ、渾天儀の四方を龍が守っています。 家族皆がすこやかであらんことを・・・。

帰宅途中は相模原を通って花見をしてまいりました。

さて本日は私の両親の結婚の祝いに福田豊四郎氏に描いていただいた作品の紹介です。吉祥文として「鶴は千年、亀は万年」といわれ代表的な日本の吉祥文様ですが、鶴は単独でもよく使われており、夫婦睦まじい老境の象徴とされています。

この作品の紹介は3度目となります。今回は胡粉の絵の具の剥落がありましたので、前から太巻の仕様のしようと思っていたことが完了したことを今までの投稿に追記して投稿します。

実はこの作品は当方の知る限りでは2点あります。
最初の作品は父の実家に対して福田豊四郎氏が父母の結婚祝いに描いた作品を寄贈したか、もしくは祖父が依頼して描いていただいたかした作品です。
もう一点はその作品に感動した母の実家にても依頼して描いたもらったようです。
母はいずれかの作品が自分らの手元に来ると思っていたようですが、いい出来だったせいか?父の実家では本家が所蔵し、母の実家でも同様な状況になりました。その後、父の実家では作品を手放しており、最終的に郷里の博物館にて所蔵されているようです。
*下記写真は展示会の写真ですが、突き当りの奥の左から2番目の作品が父の実家で旧蔵していた作品です。
**一番左の鍾馗図についても同一作品が当方にて所蔵しています。その作品は母の実家にて当方の従弟の誕生祝いに福田豊四郎氏から譲り受けていますが、縁あって当方で所蔵しています。

当方で所蔵している「鍾馗図」は下記の作品です。ちなみに上記の展示会程度の作品ならば、当方の所蔵作品でも揃います。
鐘馗図 福田豊四郎筆紙本水墨淡彩軸装象牙軸共箱 612*1270

幸いなことに母の実家の作品「鶴汀」は母が亡くなる直前に母の実家から母に譲られました。父母に縁のある作品ですのでず~っと追いかけていましたが、最後の最後に念願がかなって当方の所蔵となった作品です。

追記 鶴汀 福田豊四郎筆 その35絹本着色軸装共箱二重箱 軸先樹脂全体サイズ:縦2210*720 画サイズ:1428*570

本作品は前述のように母方の実家で所蔵していた作品であり、父方の作品とは比較してみたことはありません。ただほぼ同じ構図であると母から聞いています。

胡粉の絵の具がほんの一部剥落しております。掛け軸は巻くことで絵の具が剥がれることはあります。そのために本作品は太巻の誂えにしています。

本作品は、その由来から母の実家の好意により母に、そして当方に譲渡されたものです。

むろん本作品は真贋については議論の余地はありません。描いたのは昭和20年頃となります。



大切に保存したい作品であることから、手元に置くようにしています。ところで福田豊四郎に関する資料から絵葉書にある作品と構図が似ている部分があることに気がつきました。

その絵葉書を入手したのが下記の資料です。むろん若い頃から福田豊四郎は鶴の作品を遺しています。ただし、それほど数は多くありません。

参考資料晨汀紀元二千六百年奉祝美術展覧会出品

紀元二千六百年(西暦1940年(昭和15年)が神武天皇の即位から2600年目に当たるとされる)、日本政府は1935年(昭和10年)に「紀元二千六百年祝典準備委員会」を発足させ、橿原神宮や陵墓の整備などの記念行事を計画・推進しました。
1937年(昭和12年)7月7日には官民一体の恩賜財団紀元二千六百年奉祝会(総裁・秩父宮雍仁親王、副総裁・近衛文麿、会長・徳川家達)を創設、1940年(昭和15年)には、展覧会、体育大会など様々な記念行事が外地を含む全国各地で催されたようです。
「晨」は夜明けのこと。絵葉書からの判断ですが、大きさは劣るものの後年による上記の本作品が絵葉書の作品より出来は数段上のように思います。他の鶴の作品(屏風の作品もあります)と比べても格段に品が良い作品となっています。

福田豊四郎の代表作といっていいでしょう。

父母と福田豊四郎氏との交流は互いに亡くなるまで続き、父は早くに亡くなりましたが、亡くなる直前まで福田豊四郎氏から絵の手ほどきを受けていました。父の亡くなった際にはお世話になった方々へ寄贈する色紙を数多く福田豊四郎氏に描いたもらったそうです。母は福田豊四郎氏の入院に際しては東京までお見舞いに出向いていました。また福田豊四郎が亡くなった後には奥様から画集を頂いております。当方の福田豊四郎の作品蒐集の原点はこのような縁によるものなのでしょう。