鴉の作品を床の間に飾る・・。
夕陽ニ柿下鴉図 長井一禾筆 その7
絹本着色軸装 軸先プラスチック 合箱入
全体サイズ:縦2017*横491 画サイズ:縦1171*横362
鴉は知能が高い面が狡猾な印象を与えたり、食性の一面である腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の使いや化身のように、悪や不吉の象徴として描かれることが多いようです。
ずる賢い、獰猛、不吉というイマージを持っている人が多いかと思います。
ただその逆に神話・伝承にあるように、古来から世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」としてあがめられてきた生き物でもあります。これは、古代には世界各地で朝日や夕日など太陽に向かってるように見える鴉が飛ぶ姿(近年では太陽の位置と体内時計で帰巣する姿であるという研究がある)を目にした当時の人々がその性質と太陽と結びつけ、神聖視されたという説があるそうです。
鴉はは古来、吉兆を示す鳥だそうです。日本では神武天皇の東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話があり、日本サッカー協会のシンボルマークはこの八咫烏であることは有名です。
古代には鳥葬の風習がかつてあった地域も世界には存在し、猛禽類やカラスなど肉食性の鳥類が天国へ魂を運ぶ、死の穢れを祓ってくれる、あるいは神の御使いであるなどの理由で神聖視されたという説もあります。
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長井 一禾:(ながい いっか、明治2年(1869年)~ 昭和15年(1940年)。明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。河鍋暁斎の門人。本姓は佐藤、姓は長井、または永井、一禾は本名であった。字は子行。瑞雲菴、反哺と号す。
明治2年(1869年)、越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)に生まれる。その後、東京に出て、初めは鈴木松年、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。東京では下谷上野桜木町に住んだ。その後に、暁斎にも師事した。
鴉の絵の技法が妙を得、非凡であることを賞賛され、大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られている。明治36年(1903年)9月から5年間、渡米して絵を研究している。また、ポートランド博覧会に鴉の絵を出品、銀牌を受ける。イタリア博覧会の応接所には、尾形光琳風の鴉の絵を描いている。その後、兵士として麻布三聯隊に入る。期が満ちて、新潟に帰ってからは、石油会社の社長となった。
大隈重信に認められ、千鴉叢会を組織し、そのために郊外の天下茶屋に居を移した。鴉の研究は、日本のものはもとより、アメリカ合衆国、朝鮮、中国、台湾など諸国の鴉にまで及び、その形態、動作など、鴉に関する知識は頗る深かった。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられた。昭和12年(1937年)から翌13年(1938年)にかけて、京都府綾部市の楞厳寺に滞在し、庫裏の4つの座敷に春夏秋冬の鴉の絵を描いた。この襖絵は著名である。昭和15年(1940年)に没した。
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鴉についての象徴的な神話がギリシャ神話にあります。
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ギリシア神話では太陽神アポロンに仕えていた。色は白銀(白・銀とも)で美しい声を持ち、人の言葉も話すことができる非常に賢い鳥でした。
しかし、ある時に鴉は、天界のアポロンと離れて地上で暮らす妻コロニスが、人間の男であるイスキュスと親しくしている(見間違いとも)とアポロンに密告(虚偽の報告とも)をした。アポロンは嫉妬し怒り、天界から弓矢で矢を放ちコロニスを射抜いてしまった。
死ぬ間際に「あなたの子を身ごもっている」と告げたコロニスの言葉に、我に返ったアポロンは後悔し、きっかけ(密告した・虚偽の報告をした)を作った鴉に行き場の無い怒りをぶつけ、その美しい羽の色と美声と人語を奪った。鴉は天界を追放され、喪に服すかのように羽は漆黒に変わり、声も潰れて、言葉を話すどころか、醜い鳴き声を発することしかできなくなった。
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とにもかくにも身近にいる鳥で興味深い生き物です。宝飾品やガラス製品など光る物を好んで収集したり、公園の滑り台で遊ぶなど、繁殖・生命維持に無関係と思われる行動をしますが、これは人間と同じ・・
夕陽ニ柿下鴉図 長井一禾筆 その7
絹本着色軸装 軸先プラスチック 合箱入
全体サイズ:縦2017*横491 画サイズ:縦1171*横362
鴉は知能が高い面が狡猾な印象を与えたり、食性の一面である腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の使いや化身のように、悪や不吉の象徴として描かれることが多いようです。
ずる賢い、獰猛、不吉というイマージを持っている人が多いかと思います。
ただその逆に神話・伝承にあるように、古来から世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」としてあがめられてきた生き物でもあります。これは、古代には世界各地で朝日や夕日など太陽に向かってるように見える鴉が飛ぶ姿(近年では太陽の位置と体内時計で帰巣する姿であるという研究がある)を目にした当時の人々がその性質と太陽と結びつけ、神聖視されたという説があるそうです。
鴉はは古来、吉兆を示す鳥だそうです。日本では神武天皇の東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話があり、日本サッカー協会のシンボルマークはこの八咫烏であることは有名です。
古代には鳥葬の風習がかつてあった地域も世界には存在し、猛禽類やカラスなど肉食性の鳥類が天国へ魂を運ぶ、死の穢れを祓ってくれる、あるいは神の御使いであるなどの理由で神聖視されたという説もあります。
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長井 一禾:(ながい いっか、明治2年(1869年)~ 昭和15年(1940年)。明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。河鍋暁斎の門人。本姓は佐藤、姓は長井、または永井、一禾は本名であった。字は子行。瑞雲菴、反哺と号す。
明治2年(1869年)、越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)に生まれる。その後、東京に出て、初めは鈴木松年、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。東京では下谷上野桜木町に住んだ。その後に、暁斎にも師事した。
鴉の絵の技法が妙を得、非凡であることを賞賛され、大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られている。明治36年(1903年)9月から5年間、渡米して絵を研究している。また、ポートランド博覧会に鴉の絵を出品、銀牌を受ける。イタリア博覧会の応接所には、尾形光琳風の鴉の絵を描いている。その後、兵士として麻布三聯隊に入る。期が満ちて、新潟に帰ってからは、石油会社の社長となった。
大隈重信に認められ、千鴉叢会を組織し、そのために郊外の天下茶屋に居を移した。鴉の研究は、日本のものはもとより、アメリカ合衆国、朝鮮、中国、台湾など諸国の鴉にまで及び、その形態、動作など、鴉に関する知識は頗る深かった。
一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられた。昭和12年(1937年)から翌13年(1938年)にかけて、京都府綾部市の楞厳寺に滞在し、庫裏の4つの座敷に春夏秋冬の鴉の絵を描いた。この襖絵は著名である。昭和15年(1940年)に没した。
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鴉についての象徴的な神話がギリシャ神話にあります。
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ギリシア神話では太陽神アポロンに仕えていた。色は白銀(白・銀とも)で美しい声を持ち、人の言葉も話すことができる非常に賢い鳥でした。
しかし、ある時に鴉は、天界のアポロンと離れて地上で暮らす妻コロニスが、人間の男であるイスキュスと親しくしている(見間違いとも)とアポロンに密告(虚偽の報告とも)をした。アポロンは嫉妬し怒り、天界から弓矢で矢を放ちコロニスを射抜いてしまった。
死ぬ間際に「あなたの子を身ごもっている」と告げたコロニスの言葉に、我に返ったアポロンは後悔し、きっかけ(密告した・虚偽の報告をした)を作った鴉に行き場の無い怒りをぶつけ、その美しい羽の色と美声と人語を奪った。鴉は天界を追放され、喪に服すかのように羽は漆黒に変わり、声も潰れて、言葉を話すどころか、醜い鳴き声を発することしかできなくなった。
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とにもかくにも身近にいる鳥で興味深い生き物です。宝飾品やガラス製品など光る物を好んで収集したり、公園の滑り台で遊ぶなど、繁殖・生命維持に無関係と思われる行動をしますが、これは人間と同じ・・