聖人は聖人にしか解らないものらしい。凡人は凡人にしか、変人は変人にしか・・・・。
あまりの急な暑さのため玄関の板の間でごろ寝の二人・・。
さて本日の作品はお茶の稽古のときに掛けてもいいし、お世話になった方に贈り物としてもいいもの・・。はてその意図は・・。
達磨画賛 狩野探信画 小堀宗中賛
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1680*横230 画サイズ:縦800*横210
小堀宗中と狩野派のコラボは狩野探道のほかに狩野勝川院(文政6年2月14日(1823年3月26日) ~ 明治12年(1879年)8月8日))の作品などが伝わっています。狩野勝川院は狩野芳崖や橋本雅邦の師として名高いことは本ブログにて作品共々で紹介されています。
小堀宗中は井伊直弼の信を得たばかりでなく多くの大名・商人に茶風が慕われ、遠州流中興の祖と言われています。
また狩野探信は鍛冶橋狩野家の名手と言われています。狩野探信は狩野探幽の子息と同名であり、そのことも本ブログにて作品共々紹介されています。
本ブログの内容についての多くが各々リンクしていることに投稿している当方でも改めて気がついて驚くことばかりです。
達磨が描かれた上に下記の賛がされています。
賛は「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」と詠むようです。
この作品の画賛は「何を描いて、どのような賛をしているのか」については下記の説話を知っている必要があります。
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画賛について
聖徳太子飢人説話
皇太子が斑鳩の岡本の宮に居られたとき、外出され片岡村にさしかかると、道端に毛深い「かたゐ」(とくにライ病を得て追放放浪の乞食)が病気で臥せっていました。太子はそれに気付かれて輿から下り、しばらく語り問われて、やがてお召しになっていた衣を脱いで病人におかけになり、そのまま行幸(みゆき)を続けられました。
帰り路、かたゐは消えあの衣だけがが木の枝にかかっていました。太子はこれを取ってお召しになりました。お付の家来が「賎しいひとにふれ穢れた衣を、何のご不自由があってか、お召しになるのですか」と尋ねましたが、太子は「言わぬが良い、汝にはわかるまい」とおっしゃっただけでした。
しばらくして、かたゐが他の場所で亡くなりました。お聞きになった太子は人を遣(や)り殯(もがり)して、岡本村法林寺の東北(うしとら)のすみの守部山に墓を作って、入木(あるいは八木)墓と名づけられました。後に使いの人に見させたところ、墓の入り口は開いていないのに入れたはずの人はなく、ただ和歌がかかれて入り口に立ててありました。
その歌というのは
「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」
(いかるがの富の小川の流れが絶えてしまうようなことがあれば、皇太子のお名も忘れられてしまうこともありましょう・・・が、わたくしはけっして皇太子のお名前は忘れません)
使いはこの旨報告したところ、太子は黙ったまま何もおっしゃいませんでした。お亡くなりになられました乞食が生き返り歌を残したのでした。実はこの乞食は聖人で、聖徳太子様にはそれが分かっておられたということです。
まことに、聖人は聖人を知る、凡人にはわからない;「凡夫の眼には賎しい人としか見えなかったのですが、聖人のものを見通す目には高貴な方の隠れ身、と見抜かれたということ」
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賛の意味はわかりましたが、「達磨」の絵との関連は・・・。
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聖徳太子飢人説話と達磨大師
聖徳太子伝説の一つに「片岡飢人説話=片岡尸解仙(しかいせん)説話」があります。もとになったのは、『日本書紀』(720年)の613(推古天皇21)年の記事です。「太子が遊行中に片岡で飢人に会います。太子は飲み物、食べ物、衣服を与えましたが、飢人は亡くなります。そのことを悲しみ墓をつくり埋葬しました。後日、その墓を確認すると、埋葬したはずの遺体はなくなり、棺の上に太子が与えた衣服が畳んで置かれていました。」
(上記に同じ説話)
ここでは、聖徳太子が飢人に姿になって現れた神仙(しんせん)を見抜くほどの力を持っていたことが強調されています。聖徳太子信仰の高まりととともにさまざまな伝承がつくられ、それに付加されていきます。この片岡飢人伝承も後世、この飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。
四天王寺僧敬明(教明)の『七代記』771(宝亀2)年の片岡飢人説話の注記に「彼飢者盖達磨歟」とあり、後世、「達磨歟」は「達磨也」となったと思われます。これは、6世紀中国の孝荘帝の時代にすでにあつた「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という説話が下敷きになったのかもしれません。
(このことは他の作品で本ブログでも記述しております)
もう一説は、奈良末期の『上宮太子伝』の注記にある太子が隋の南岳慧思の生まれ変わりという説から、慧思の生まれ変わりを奨めたのが達磨であったとする説などと結びついて達磨が登場することになったとも思われます。
聖徳太子の多くの伝承は様々なかたちで膨らみ、太子の死後約300年後の『聖徳太子伝暦』(917年ヵ)に集大成されます。この『伝暦』には飢人伝承は載っていますが、達磨の記述はなく、鎌倉前期1238年の「古今目録抄」(顕真)は、達磨和尚の名をあげています。なお、9世紀初期の『日本霊異記』(第四縁) の飢人伝承は、場所を三井の法輪寺東北の守部山とし、注記に神仙は文殊菩薩と記述しています。飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。
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「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という逸話は以前に本ブログで紹介しました。伝下村観山「達磨図」の内容を参考に強いてください。
このような逸話を知っているといないとでは骨董の世界では大違い・・。この作品はこのような裏づけで製作され画賛されているものです。真贋ばかりで作品を見て、それ以上の世界に入り込めない人には理解できないでしょう。
もうひとつは狩野探信と小堀宗中の関連です。両者ともに廃れていた、もしくは廃れてきた伝統の有る家系を引き継いで盛り立ていかなければならないという宿命を背負った同志のようなものでした。
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狩野探信:江戸後期の画家。天明5年(1785年)~天保6年(1835年)。狩野守邦の長男。本名守道、字名は清夫。探信、別号に與斎と号する。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれる。江戸に鍛冶屋橋狩野派7代目として生まれる。狩野探牧守邦を師とする。同家7代目を襲名した後、文政11年に幕府奥絵師として出仕、幕府絵師として法眼に叙せられ、画風は大和絵の技法を好み狩野派的な作品は余りなかったといわれ、名手として世に聞こえた。享年51才。
小堀宗中:江戸後期の幕臣・茶人(遠州流八世。政峰の孫。六世政寿の子)。天明6年(1786年)~慶応3年(1867)。小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として近江の小室に生まれた。幼名は梅之助。 天明8年(1788)5月6日、小室領地が没収(小堀家が改易)されてからは、京都孤篷庵で育った。40年という長い浪々の身から、文政11年(1828年)に300俵小普請組の旗本として迎えられ、親族へ引き渡されていた遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来され本家を再興した。茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、多くの弟子を育てる。名は政優、通称を大膳、別号に和翁・大建庵。茶家小堀家中興と称された。門下には、橋本抱鶴、田中孝逸、渡辺玄敬、竹腰篷月、土方篷雨、川路善八、横井瓢翁、秩父宗波、田村尭中、赤塚宗観、和田晋兵衛など。尾張徳川家第12代・徳川斉荘に招かれて目利きを行い、その城代家老竹腰篷月に相伝するなど、大名旗本、公家などに幅広く茶道教授を行い遠州流中興と称せられる。茶器の鑑定に長じ、茶道を通じて狩野派(狩野三家)など芸術分野の人との交流も多く、合作で各種の作品を残している。慶応3年6月24日、82才の長寿を全うし、江戸屋敷で没した。
遠州流:武家茶道の代表とも言える流儀で、紹鴎・利休と発展した質素で内省的な「わび」「さび」の茶道に、織部を経て遠州独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風を特徴とする。織部を武家らしい華やかさとすれば、遠州は茶の湯の心を用いて自然な雅やかさを加えたものと言える。小堀遠州は羽柴秀長の家老を務めた小堀正次の子で名は正一といい、若い頃から古田織部のもとで茶の湯を学んだ。慶長9年(1604年)26歳のときに父正次が急死し、家督を継いで松山城を預かり、その後元和2年(1617年)に朱印状を得て大名となり2年後近江小室藩に移封される。遠州の通り名は慶長13年(1608年)駿府城修築の功績によって遠江守に任ぜられたことによるが、これ以外に後陽成院御所造営、名古屋城天守閣の修築、松山城の再建など、各地で建物の新造・修繕を務め建築家・造園家として名を馳せた。冷泉為満・為頼父子、木下長嘯子に和歌を学び、藤原定家風の書を身につける文人でもあった。茶人としては生涯で400回ほどの茶会を催し、茶入、茶碗、花入などを多く作製したほか、審美眼に優れ東山御物などから優品を選定しこれらは後に中興名物と呼ばれるようになる。利休・織部の茶風に桃山時代の気風を取り入れた「綺麗さび」と呼ばれる茶風に達し、3代将軍家光の茶道師範を務めた他、諸大名、公卿、僧侶などに茶道を指導した。
小堀家改易:5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人である。しかし7世正方は田沼意次のもとで大番頭や伏見奉行の要職を務めたが、伏見騒動によって天明8年(1788年)改易されることになる。ここに大名家としての小堀家は断絶することになった。
その後:10世宗有のとき、明治維新により士族となり、遠州流の茶道を広く一般に教授することになる。
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長々と資料を羅列した内容ですが、さて真贋云々よりも味が濃いものが、骨董の醍醐味としてご理解いただけれが幸いです。作品自体は真面目なもので、時代のあるきちんとした表具がされています。
本作品の入手金額は3000円也。本作品の真贋は? 野暮な質問はやめましょう。達磨と歌との関連を理解していないと本作品の内容は図りかねるものです。誰も買う人がいなかったらしいです。購入費用分以上に学ぶことが多い作品であることは間違いありません
同じようなコラボの作品があることを知っておく必要もあります。
参考作品
(中)夕立 (右)白鷺 (左)水入鵜 三幅対
狩野探信画 小堀宗中賛 思文閣墨蹟資料目録「和の美」第490号 作品NO24掲載
印章や落款ばかり気にして作品を見ていてはいけませんが、印章などの確認は後学とします。
茶室が完成したら飾って聖徳太子に思いを馳せて一服と洒落こむか・・・
あまりの急な暑さのため玄関の板の間でごろ寝の二人・・。
さて本日の作品はお茶の稽古のときに掛けてもいいし、お世話になった方に贈り物としてもいいもの・・。はてその意図は・・。
達磨画賛 狩野探信画 小堀宗中賛
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 合箱入
全体サイズ:縦1680*横230 画サイズ:縦800*横210
小堀宗中と狩野派のコラボは狩野探道のほかに狩野勝川院(文政6年2月14日(1823年3月26日) ~ 明治12年(1879年)8月8日))の作品などが伝わっています。狩野勝川院は狩野芳崖や橋本雅邦の師として名高いことは本ブログにて作品共々で紹介されています。
小堀宗中は井伊直弼の信を得たばかりでなく多くの大名・商人に茶風が慕われ、遠州流中興の祖と言われています。
また狩野探信は鍛冶橋狩野家の名手と言われています。狩野探信は狩野探幽の子息と同名であり、そのことも本ブログにて作品共々紹介されています。
本ブログの内容についての多くが各々リンクしていることに投稿している当方でも改めて気がついて驚くことばかりです。
達磨が描かれた上に下記の賛がされています。
賛は「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」と詠むようです。
この作品の画賛は「何を描いて、どのような賛をしているのか」については下記の説話を知っている必要があります。
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画賛について
聖徳太子飢人説話
皇太子が斑鳩の岡本の宮に居られたとき、外出され片岡村にさしかかると、道端に毛深い「かたゐ」(とくにライ病を得て追放放浪の乞食)が病気で臥せっていました。太子はそれに気付かれて輿から下り、しばらく語り問われて、やがてお召しになっていた衣を脱いで病人におかけになり、そのまま行幸(みゆき)を続けられました。
帰り路、かたゐは消えあの衣だけがが木の枝にかかっていました。太子はこれを取ってお召しになりました。お付の家来が「賎しいひとにふれ穢れた衣を、何のご不自由があってか、お召しになるのですか」と尋ねましたが、太子は「言わぬが良い、汝にはわかるまい」とおっしゃっただけでした。
しばらくして、かたゐが他の場所で亡くなりました。お聞きになった太子は人を遣(や)り殯(もがり)して、岡本村法林寺の東北(うしとら)のすみの守部山に墓を作って、入木(あるいは八木)墓と名づけられました。後に使いの人に見させたところ、墓の入り口は開いていないのに入れたはずの人はなく、ただ和歌がかかれて入り口に立ててありました。
その歌というのは
「いかるがの富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名忘られめ」
(いかるがの富の小川の流れが絶えてしまうようなことがあれば、皇太子のお名も忘れられてしまうこともありましょう・・・が、わたくしはけっして皇太子のお名前は忘れません)
使いはこの旨報告したところ、太子は黙ったまま何もおっしゃいませんでした。お亡くなりになられました乞食が生き返り歌を残したのでした。実はこの乞食は聖人で、聖徳太子様にはそれが分かっておられたということです。
まことに、聖人は聖人を知る、凡人にはわからない;「凡夫の眼には賎しい人としか見えなかったのですが、聖人のものを見通す目には高貴な方の隠れ身、と見抜かれたということ」
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賛の意味はわかりましたが、「達磨」の絵との関連は・・・。
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聖徳太子飢人説話と達磨大師
聖徳太子伝説の一つに「片岡飢人説話=片岡尸解仙(しかいせん)説話」があります。もとになったのは、『日本書紀』(720年)の613(推古天皇21)年の記事です。「太子が遊行中に片岡で飢人に会います。太子は飲み物、食べ物、衣服を与えましたが、飢人は亡くなります。そのことを悲しみ墓をつくり埋葬しました。後日、その墓を確認すると、埋葬したはずの遺体はなくなり、棺の上に太子が与えた衣服が畳んで置かれていました。」
(上記に同じ説話)
ここでは、聖徳太子が飢人に姿になって現れた神仙(しんせん)を見抜くほどの力を持っていたことが強調されています。聖徳太子信仰の高まりととともにさまざまな伝承がつくられ、それに付加されていきます。この片岡飢人伝承も後世、この飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。
四天王寺僧敬明(教明)の『七代記』771(宝亀2)年の片岡飢人説話の注記に「彼飢者盖達磨歟」とあり、後世、「達磨歟」は「達磨也」となったと思われます。これは、6世紀中国の孝荘帝の時代にすでにあつた「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という説話が下敷きになったのかもしれません。
(このことは他の作品で本ブログでも記述しております)
もう一説は、奈良末期の『上宮太子伝』の注記にある太子が隋の南岳慧思の生まれ変わりという説から、慧思の生まれ変わりを奨めたのが達磨であったとする説などと結びついて達磨が登場することになったとも思われます。
聖徳太子の多くの伝承は様々なかたちで膨らみ、太子の死後約300年後の『聖徳太子伝暦』(917年ヵ)に集大成されます。この『伝暦』には飢人伝承は載っていますが、達磨の記述はなく、鎌倉前期1238年の「古今目録抄」(顕真)は、達磨和尚の名をあげています。なお、9世紀初期の『日本霊異記』(第四縁) の飢人伝承は、場所を三井の法輪寺東北の守部山とし、注記に神仙は文殊菩薩と記述しています。飢人が禅宗の始祖である達磨大師であったという説話になります。
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「達磨の墓を掘ると屍がなかった」という逸話は以前に本ブログで紹介しました。伝下村観山「達磨図」の内容を参考に強いてください。
このような逸話を知っているといないとでは骨董の世界では大違い・・。この作品はこのような裏づけで製作され画賛されているものです。真贋ばかりで作品を見て、それ以上の世界に入り込めない人には理解できないでしょう。
もうひとつは狩野探信と小堀宗中の関連です。両者ともに廃れていた、もしくは廃れてきた伝統の有る家系を引き継いで盛り立ていかなければならないという宿命を背負った同志のようなものでした。
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狩野探信:江戸後期の画家。天明5年(1785年)~天保6年(1835年)。狩野守邦の長男。本名守道、字名は清夫。探信、別号に與斎と号する。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれる。江戸に鍛冶屋橋狩野派7代目として生まれる。狩野探牧守邦を師とする。同家7代目を襲名した後、文政11年に幕府奥絵師として出仕、幕府絵師として法眼に叙せられ、画風は大和絵の技法を好み狩野派的な作品は余りなかったといわれ、名手として世に聞こえた。享年51才。
小堀宗中:江戸後期の幕臣・茶人(遠州流八世。政峰の孫。六世政寿の子)。天明6年(1786年)~慶応3年(1867)。小堀大膳亮政寿(まさひさ)の嫡子として近江の小室に生まれた。幼名は梅之助。 天明8年(1788)5月6日、小室領地が没収(小堀家が改易)されてからは、京都孤篷庵で育った。40年という長い浪々の身から、文政11年(1828年)に300俵小普請組の旗本として迎えられ、親族へ引き渡されていた遠州以来の諸道具も戻され「遠州蔵帳」のほとんどが伝来され本家を再興した。茶法は父、政寿や小堀家茶道頭の富岡友喜から学び、多くの弟子を育てる。名は政優、通称を大膳、別号に和翁・大建庵。茶家小堀家中興と称された。門下には、橋本抱鶴、田中孝逸、渡辺玄敬、竹腰篷月、土方篷雨、川路善八、横井瓢翁、秩父宗波、田村尭中、赤塚宗観、和田晋兵衛など。尾張徳川家第12代・徳川斉荘に招かれて目利きを行い、その城代家老竹腰篷月に相伝するなど、大名旗本、公家などに幅広く茶道教授を行い遠州流中興と称せられる。茶器の鑑定に長じ、茶道を通じて狩野派(狩野三家)など芸術分野の人との交流も多く、合作で各種の作品を残している。慶応3年6月24日、82才の長寿を全うし、江戸屋敷で没した。
遠州流:武家茶道の代表とも言える流儀で、紹鴎・利休と発展した質素で内省的な「わび」「さび」の茶道に、織部を経て遠州独特の美意識を加えた「綺麗さび」と呼ばれる茶風を特徴とする。織部を武家らしい華やかさとすれば、遠州は茶の湯の心を用いて自然な雅やかさを加えたものと言える。小堀遠州は羽柴秀長の家老を務めた小堀正次の子で名は正一といい、若い頃から古田織部のもとで茶の湯を学んだ。慶長9年(1604年)26歳のときに父正次が急死し、家督を継いで松山城を預かり、その後元和2年(1617年)に朱印状を得て大名となり2年後近江小室藩に移封される。遠州の通り名は慶長13年(1608年)駿府城修築の功績によって遠江守に任ぜられたことによるが、これ以外に後陽成院御所造営、名古屋城天守閣の修築、松山城の再建など、各地で建物の新造・修繕を務め建築家・造園家として名を馳せた。冷泉為満・為頼父子、木下長嘯子に和歌を学び、藤原定家風の書を身につける文人でもあった。茶人としては生涯で400回ほどの茶会を催し、茶入、茶碗、花入などを多く作製したほか、審美眼に優れ東山御物などから優品を選定しこれらは後に中興名物と呼ばれるようになる。利休・織部の茶風に桃山時代の気風を取り入れた「綺麗さび」と呼ばれる茶風に達し、3代将軍家光の茶道師範を務めた他、諸大名、公卿、僧侶などに茶道を指導した。
小堀家改易:5世正峯は、家継・吉宗・家重の3代に仕え、若年寄を2度務めるなど幕閣の一員として活躍し、譜代大名並の格式を許された人である。しかし7世正方は田沼意次のもとで大番頭や伏見奉行の要職を務めたが、伏見騒動によって天明8年(1788年)改易されることになる。ここに大名家としての小堀家は断絶することになった。
その後:10世宗有のとき、明治維新により士族となり、遠州流の茶道を広く一般に教授することになる。
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長々と資料を羅列した内容ですが、さて真贋云々よりも味が濃いものが、骨董の醍醐味としてご理解いただけれが幸いです。作品自体は真面目なもので、時代のあるきちんとした表具がされています。
本作品の入手金額は3000円也。本作品の真贋は? 野暮な質問はやめましょう。達磨と歌との関連を理解していないと本作品の内容は図りかねるものです。誰も買う人がいなかったらしいです。購入費用分以上に学ぶことが多い作品であることは間違いありません
同じようなコラボの作品があることを知っておく必要もあります。
参考作品
(中)夕立 (右)白鷺 (左)水入鵜 三幅対
狩野探信画 小堀宗中賛 思文閣墨蹟資料目録「和の美」第490号 作品NO24掲載
印章や落款ばかり気にして作品を見ていてはいけませんが、印章などの確認は後学とします。
茶室が完成したら飾って聖徳太子に思いを馳せて一服と洒落こむか・・・