本日は木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師の作品です。双幅の作日ですが、双幅、三幅対、さらには四幅対、さらには十二幅対というのまで掛け軸にはありますが、このような文化は日本特有のもののように思います。このような対の軸の愉しみ方をブログの画面では伝え切れないのが残念です。
夏景山水図双幅 狩野伊川院筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363
右幅
狩野 栄信は安永4年8月30日(1775年9月24日) ~文政11年7月4日(1828年8月14日)。江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師です。本ブログでも他の紹介した作品がありますので、経歴はそちらを参考にして頂くこととし、詳細は省略します。
左幅
号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多いようです。本作品の落款は「伊川法眼」となっており、法眼時代の作品となります。他の投稿作品は「伊川院法印」となっていますので区別できます。
木挽町家狩野派は狩野探幽の兄弟の狩野内尚信から始まり、狩野派中興の狩野常信がその跡を継ぎ、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)、晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 - 1908)がいました。
芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身です。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えましたが、木挽町狩野派は日本絵画史にとっては非常に大きなウエートを閉める画派です。
特に狩野伊川院の息子である晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮し、障壁画そのものは現存しませんが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されています。
晴川院は古画の模写や収集にも尽力しました。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くありませんが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがあります。
本ブログでもこれら木挽町狩野派に関わる作品が数点紹介されいます。
栄川院の父は狩野惟信(養川院)、子に木挽町を継いだ長男狩野養信(晴川院)、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいます。
文化13年(1816年)に法印となっていますので、本作品は1810年前後、35歳頃の作品かと推察されます。
茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたそうです。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されています。
一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。
中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功していると評されています。
更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言えます。
本作品は双幅のなかなか出来の良い作品だと思います。倉庫改修完了後に飾るのが愉しみ・・、田舎親爺の些細なガラクタ趣味の道楽です。
夏景山水図双幅 狩野伊川院筆
紙本水墨軸装 軸先象牙 共箱入
全体サイズ:縦1720*横481 画サイズ:縦904*横363
右幅
狩野 栄信は安永4年8月30日(1775年9月24日) ~文政11年7月4日(1828年8月14日)。江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師です。本ブログでも他の紹介した作品がありますので、経歴はそちらを参考にして頂くこととし、詳細は省略します。
左幅
号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多いようです。本作品の落款は「伊川法眼」となっており、法眼時代の作品となります。他の投稿作品は「伊川院法印」となっていますので区別できます。
木挽町家狩野派は狩野探幽の兄弟の狩野内尚信から始まり、狩野派中興の狩野常信がその跡を継ぎ、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)、晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 - 1908)がいました。
芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身です。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えましたが、木挽町狩野派は日本絵画史にとっては非常に大きなウエートを閉める画派です。
特に狩野伊川院の息子である晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮し、障壁画そのものは現存しませんが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されています。
晴川院は古画の模写や収集にも尽力しました。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くありませんが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがあります。
本ブログでもこれら木挽町狩野派に関わる作品が数点紹介されいます。
栄川院の父は狩野惟信(養川院)、子に木挽町を継いだ長男狩野養信(晴川院)、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいます。
文化13年(1816年)に法印となっていますので、本作品は1810年前後、35歳頃の作品かと推察されます。
茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたそうです。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されています。
一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。
中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功していると評されています。
更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言えます。
本作品は双幅のなかなか出来の良い作品だと思います。倉庫改修完了後に飾るのが愉しみ・・、田舎親爺の些細なガラクタ趣味の道楽です。