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松渓遐園(小点) 岡田半江筆 その3

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企業では連結決算重視となっていますが、企業のグループ会社と親会社という関係はまだまだ下請という関係から脱却できていないように思われます。グループ会社の力不足がたいはんの原因ですが、グループの役割の認識が互いに出来ていないのが要因にあるのも事実です。親会社にはない機能がグループ会社にあって、貢献度の高い機能を持つという認識が互いにないといけません。時間が経つにつれ重複してきた機能はグループ会社に任せていくのもその中に含まれるように思います。

さて、本日の作品は岡田半江の「小点」です。岡田半江は最初の号を「小米」と称したそうですが。「しょうべん」というのに近い音なので嫌だったとか、大塩平八郎の乱に関与した嫌疑をかけられるのを恐れて住吉浜へ移住したとか、最初は画家の腕を評価されず父である岡田米山人から後継は田能村竹田とされる始末だったらしいなどという逸話の持ち主のようです。

松渓遐園(小点) 岡田半江筆 その3 
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱入
全体サイズ:縦1865*横370 画サイズ:縦255*横185



落款部分には「松渓遐園(都から遠いへんぴな所 辺地) 半江」とあり、押印は「粛印」と「士羽?」の白文朱方印の累印があります。天保8年(1837年)の大塩の乱に関与したという嫌疑を避ける意味もあり、この事件を転機に住吉浜(大分県杵築市にある海岸)に移住し、天保9年(1938年)頃から画作に没頭しました。住吉浜の地で数多くの傑作を画き充実した晩年を送りましたが、本作品は住吉浜に移住した後の天保10年以降の作ではないかと推察されます。



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岡田半江:天明2年(1781年)~弘化3年2月7日(1846年)、江戸後期の南画家。岡田米山人の子。大坂生まれ。名は粛,字は士羽。少年時には小米,のちに半江と号した。別に寒山などの号がある。通称は宇左衛門、のちに父と同じく彦兵衛と称した。

父に絵を学び,父と同じく津藩大坂蔵屋敷に仕えたが,左遷されて京邸に移り,文政5~7(1822~24)年ごろに致仕。以後書画三昧の生活に入り,頼山陽や篠崎小竹らの文人墨客らと交流。晩年,天保飢饉に際して住吉に隠棲。「住江真景図」(個人蔵),「春靄起鴉図」(遠山記念館付属美術館蔵)などの代表作を生んだ。父とは異なって艶麗精細な画風に特色があり,当時は大坂文人画を代表する画家であった。

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補足説明

岡田半江:天明2年(1781年)~弘化3年2月7日(1846年)は江戸時代後期の 文人画家。岡田米山人の子。大坂の出身。幼名を常吉、諱は粛、字を士羽。半江は画号。俗称を卯左衛門(宇左衛門)、のちに吉継。岡田米山人39歳の子。米屋を営む自宅、大坂西天満宮寒山寺裏長池(大阪市北区曽根崎一丁目曽根崎天神付近)で生まれた。半江は中年期に恵まれた初子だったので父が溺愛した。

幼い時から父に習って画作を続け、居宅に出入する多くの文人墨客に感化され、自然と書画に興味を持った。12歳頃の作品に既に小米を用いているが、この画号は米山人が米芾・友仁父子に倣ったもので「しょうべん」の音に近いことから半江は好まなかったという。

28歳のとき父に代わり伊勢国藤堂藩の下役となり、大坂蔵屋敷の留守居七里鎌倉兵衛に仕えた。この頃吉継を名乗った。翌年、安積家の四君子図襖絵を米山人はじめ戸田黄山・森川竹窓らと合作している。

文政年間に相次いで両親を失い、稼業の米屋を継いで米屋彦兵衛を襲名。しかし、父と同じく藤堂藩には下役として仕え続け文人画家としても活動した。

頼山陽をはじめ多くの文人・学者らと交遊。蘭医の小石元瑞や儒学者の篠崎小竹とは竹馬の友であり、また大塩平八郎とも長年親交している。同13年にお伊勢参りに出かけている。天保3年、山陽の訃報に大きな衝撃を受け、体調不良から稼業の米屋を13歳の息子九茄に譲り隠居となった。藤堂藩の下役も40代後半で辞任。

天満橋東辺の淀川畔に別宅を買い求め詩書画三昧の暮らしを送るが、この別宅には田能村竹田が足繁く訪問し、さながら大坂の文人サロンとなった。天保7年に山陽道を旅しかつて父と合作した襖絵のある播磨国神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の安積家を訪問し懐旧の情に浸った。

帰阪後まもない天保8年3月、民衆の窮状に義憤を募らせた大塩平八郎が挙兵(大塩平八郎の乱)し、虚しく敗死する。この争乱によって大坂は戦火に見舞われ焼土と化した。半江の別宅も焼失。父米山人から受け継ぎ自らも買い増した膨大な典籍・書画・骨董器物などが灰と消えてしまった。

幸いにも自宅は無事であったが、この事件を転機に住吉浜に移住。友人を失い、家宝を失ったことによる精神的なダメージもあったが、大塩の乱に関与したという嫌疑を避ける意味もあったと推測される。天保9年頃からようやく創作意欲が戻り、その後は画作に没頭。住吉浜の地で数多くの傑作を画き、充実した晩年を送った。享年66。直指庵に葬られる。 友人の篠崎小竹が半江の死を悼み詩文を寄せている。

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火事により蒐集したものの大半が焼失したのは気の毒でしたね。



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画風:半江は28歳以前のとき周囲から画力が充分と認められていなかった。田能村竹田『山中人饒舌』の中に名が見えず、米山人も文化4年(1807年)に田能村竹田に自分の衣鉢を継ぐ者は竹田以外にいないと語っている。

37歳のときに半江独自の繊細な筆遣い・周到な構図・配色の調和が見いだされる作品が現れ始め、50代になって独自の画風を確立したとされる。特に傑作は住吉浜に移住後に集中し、詩情豊かで柔和な筆致、自然で気負いのない構図、繊細で効果的な配色によって高逸枯淡な画境に達した。

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「特に傑作は住吉浜に移住後に集中し、詩情豊かで柔和な筆致、自然で気負いのない構図、繊細で効果的な配色によって高逸枯淡な画境に達した。」との評のとおり、小さな画面に凝縮された山水画(「小点」は小さな作品という意味です)には並々ならぬ技量がうかがい知れます。

そうグループ会社も小さな中に並々ならぬものがなくては存在価値を疑われます。

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