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氏素性の解らぬ作品 浴後美人図 水野年方筆

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読者の皆様、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。おかげさまで年末年始は郷里でゆっくり過ごしてきました。

年末には義父が畑で作った落花生と京芋を会社でおすそ分け・・、家では食いきれないようで・・。とても美味しいのですが、なんといっても調理の手間のかからない落花生のほうが人気が高いようです。落花生は義父と義母と息子の三人の共同作業の賜物。



さて、本日は明治期の浮世絵師の水野年方の作品です。現在人気がある月岡芳年の弟子であったことは周知のことですが、気難しいことで知られる月岡芳年の指導は厳しかったようです。

骨董蒐集を始めた頃に骨董店や骨董市に山積みされた浮世絵版画を漁ると、水野年方の作品を見つけ、その作品を購入したりしていまいした。その後に資金調達を目的としてほとんどを手放しましたが、いくつかは著名な作であったものもあり、惜しいことをしたものと後悔しています。資金調達のために作品を手放すことはやむ得ないことで、今も進行形ですが、その判断は慎重にすることが肝要と思われます。

浴後美人図 水野年方筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1150*横320 画サイズ:縦320*横220



彼の経歴には本ブログで関わったり、紹介した数多くの画家の名前が出てきます。リンク先を見ていただけると紹介作品が出ています。

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水野 年方:(みずの としかた)慶応2年1月20日(1866年3月6日)~明治41年(1908年)4月7日)。 明治時代の日本画家、浮世絵師。

生い立ち: 月岡芳年の門人。元の姓は野中、通称は粂次郎または粂三郎。 応斎、蕉雪と号す。神田東紺屋町に住む左官の棟梁・野中吉五郎の長男として生れる。

生来絵を好み、父の仕事を継ぐべく仕事場に行って土捏ねをするさなかに、漆喰にコテを使って絵を描いていたという。それを見ていた出入りの旦那が、年方の父に向かって「こんなに(絵が)好きなら一つ習わせてみたらどうか。失礼ながら(年方は)職人には惜しい品の良い子、骨細で色白な、日盛りの土蔵の屋根で仕事をしている柄ではない」と説き、父も年方が嫌と言えなかったことを不憫に思い、絵の道に進むのを認めた。



修行時代:父の許しを得た年方は、明治12年(1879年)数え14歳で月岡芳年に入門し浮世絵を学ぶ。しかし、この頃の芳年は借金をして遊郭に入り浸るなどの不行跡が目立ち、これに我慢ならなかった年方の父が翌年には連れ戻している。

その後生活のため一時、鈴木鵞湖門下の山田柳塘に陶器画を学び、薩摩陶器画工場神村方の職工長となっている。16歳のとき父を亡くし、陶器の下絵やビラ絵を描いて自立している。

明治15年(1882年)に芳年が第一回内国絵画共進会に出品した「藤原保昌月下弄笛図」(ウースター美術館蔵)で名声を得て、翌年これを錦絵にして出版されるなど、芳年の社会的評価が高まるに乗じて、年方は再び芳年に師事する。

なお水野姓に変えたのも芳年再入門と同じ頃である。芳年は弟子を大変可愛がった反面、気に食わぬ事があれば、六尺棒を振りかざしてどやしつけ、破門すると言っては叱りつけるような、厳しく難しい人柄だった。結果、通わなくなる弟子も珍しくなかったが、年方は熱心に通い、芳年の叱責にも涙をこぼしながら黙って聞いていたという。



独り立ちと一門の継承:早くも明治17年(1884年)にデビュー、武者絵などを手がける。翌年の見立て番付「東京流行再見記」浮世絵の部では、早くも12番目に載っている。

明治19年(1886年)年頃からは『やまと新聞』に挿絵を描いて名を上げる。この時を機に、署名も「野中」から「水野」へ改めたと見られる。23歳か24歳の頃には日本青年絵画協会に出品して認められている。また柴田芳洲に南画を学び、明治23年(1890年)に芳洲が没すると、渡辺省亭や三島蕉窓について南画、花鳥画を学んだ。別号の「蕉雪」は、蕉窓との繋がりによる。一方で故実家の松原佐久について、有職故実も研究した。



明治25年(1892年)に芳年が亡くなると、年方が「二代目大蘇芳年」を名乗るのは取りやめになったが、実質的に芳年一門の後継者に推された。明治28年(1895年)創刊の『文芸倶楽部』では13年間に52枚の口絵を描き、多くの文学小説の単行本にも挿絵をよせるなど、尾形月耕と並ぶ人気挿絵画家となる。

年方の活動期は丁度日本の出版業界が勃興する時期に重なり、口絵挿絵の評判次第で売れ行きが大きく変わることから、何でも描ける年方のもとには作画の依頼が引きも切らなかった。

当時最も注文が多かった画家と言われ、生真面目な年方はどんな仕事でも依頼されれば断ることが出来なかった。錦絵でも「今様美人」のようなシリーズの他、風俗画を多く手がけ、芳年や楊洲周延の歌川派様式とは異なる、穏やかで気品のある独自の風俗画を打ち出した。



反面、本画の方でも歴史人物画家として活動し、明治31年(1898年)日本美術協会の日本画会結成に参加。第1回展に出品した「佐藤忠信参館の図」は宮内省御用品となっており、年方は日本画会の評議員になった。同年、日本美術院の創設にも参加、特別賛助員になっている。さらに日本絵画協会第5回絵画共進会で褒状1等を受賞するなど、自ら日本画を出品し各種の展覧会で活躍した。

翌明治32年(1899年)には日本絵画協会第7回絵画共進会で「平忠度」が銅牌を、明治33年(1900年)の日本絵画協会第8回絵画共進会で「富峯」が同じく銅牌を、明治35年(1902年)の日本絵画協会第13回絵画共進会で「橘逸勢女」が銀牌を受賞した。同年、小堀鞆音と歴史風俗画会を結成し、ますます歴史画に打ち込んだ。年方のこのような活動は、浮世絵師が時代とともに町絵師から芸術家へと変わりゆく時代を示すものであった。



享年43歳。死因は、当時の訃報記事では脳疾患と書かれているが、過労とも言われる。墓所は台東区の谷中墓地にあるが、管理する者もなく荒れ果て、無縁墓として撤去が危惧される。また神田神社には、大正12年5月に弟子たちが建立した顕彰碑があり、こちらは千代田区指定文化財(歴史資料)として指定されている。法名は色雲院空誉年方居士。

門下生:門下から鏑木清方、池田輝方、榊原蕉園らの美人画家の他、小山光方、竹田敬方、大野静方、荒井寛方らの画家を輩出した。また後妻の水野秀方も年方に師事し、日本画家として活躍している。

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見た目から版画? 印刷と疑ってみましたがどうも肉筆のようにも見えますので検証が必要です。

印章の部分に不思議な跡がありますが、「年方」でない印章は不明な印章です。所蔵印??



痛みのある作品を表具したようです。表具は面白い図柄を使用しています。



木版なのか、印刷なのか、はたまた肉筆なのか、押印された印章は何故か? 氏素性の解らぬ作品には相違ない。



天地の表具も描かれたもののようにも見えます・・???



巻き止めにある所蔵印は「道草蔵」?? どうも作品上に押印されのも所蔵印かな?



こういう作品に関わるのを骨董蒐集における「道草」と称するのかもしれませんね。

年末には息子の2歳の誕生日。



早いものでは2年が経ちました。健やかに成長することを祈るばかりです。









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