Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all articles
Browse latest Browse all 2934

静汀水禽図 木島桜谷筆 その6

$
0
0
クマガイソウの咲く頃にあわせて週末には茶室で有志によるお茶のお稽古を行なうことになりました。



この頃には牡丹も花咲く頃です。



白い牡丹はまだ早かったかな?



クマガイソウは満開?



昨年のブログで詳しく記述しましたので、今回は詳細は省略しますが、蘭の種類の珍しい植物らしい。



皆さんで鑑賞・・・。



鑑賞後は茶室へ・・。



我が家のガイドは息子・・。



障子の説明? 否、遊び方の説明らしい。

本日の作品は木島桜谷の作品です。

本ブログで何度か投稿されている画家の木島桜谷ですので、詳細の説明は他の投稿を参考にして下さい。ところで「木島」は「きじま」ではなく「このしま」と読みます。

静汀水禽図 木島桜谷筆 その6
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横542*縦1965 画サイズ:横412*縦1190



「大正辛酉(かのととり、しんゆう)秋日」とあり、大正10年(1921年)、木島桜谷44歳頃の作品と推察されます。

 

木島桜谷の作品は初期、中期、晩期でガラリと画風が変わっているそうです。初期は正統的な四条派の画風を受け継いだ絵を描いていますが、中期には琳派の画風を取り入れたり、西洋風の写実的な作品を描いたりしています。晩期は南画風の文人画が多くなっています。

 

初期はおそらく明治期の作品でしょう。今尾景年塾を代表する画家として成長して行く過程で、四条・円山派の流れをくんだ写生を基本とし、また動物画を得意としていました。



彼の代表作である「寒月」という作品が大正元年の第六回文展に出品され、これ以降の大正年間が中期の作風でしょうが、夏目漱石がこの作品を酷評することとなります。

************************************

インターネット上の説明文には

第六回文展に評論記事を連載した夏目漱石は、「木島櫻谷氏は去年沢山の鹿を並べて二等賞を取った人である。あの鹿は色といい眼付といい、今思い出しても気持ち悪くなる鹿である。今年の「寒月」も不愉快な点に於いては決してあの鹿に劣るまいと思う。屏風に月と竹と夫から狐だかなんだかの動物が一匹いる。其月は寒いでしょうと云っている。竹は夜でしょうと云っている。所が動物はいえ昼間ですと答えている。兎に角屏風にするよりも写真屋の背景にした方が適当な絵である。」と酷評された。

また、横山大観は後年この受賞について、審査員内で第2等賞内の席次を決める際、大観が安田靫彦の『夢殿』を第1席に推すと、景年が『寒月』を第1席にしないと審査員をやめると抗議し、その場で辞表を書いて提出したため、大観が妥協したと回想している。

(結局「寒月」が題1席となっています。)

漱石が辛い評価をした理由は不明だが、「写真屋の背景」という言い方から、留学時代泰西の名画を多く見てきた漱石にとって、桜谷の絵は西洋絵画的写実を取り入れたことによって生じる日本画らしさの欠如や矛盾、わざとらしさが鼻についたのが理由とも考えられる。当時の漱石は、絵でも書でも作為や企みが感じられるものを嫌悪する性向があり、「寒月」のような技巧を重ねた作品は、漱石の好みとは合わなかった。

しかし、明治30年代以降の日本画において、西洋絵画的な写実感の導入は重要な課題だった。先輩格にあたる竹内栖鳳が先鞭をつけ、桜谷の制作も同じ方向性の上に成り立っている。桜谷は「寒月」において、竹林を描くのに当時新たに開発された荒い粒子をもった岩絵具を用い、巧みな付立て技法で明暗・濃淡に微妙に変化をつける事で、日本画でありながらザラザラとした物質感を感じさせる油絵のようなマティエール(絵肌)と、劇的なリアリティの表出に成功している。

と記述されています。(以前の作品の説明と重複しています)

************************************



「寒月}は伝統的な日本画の屏風絵の画面構成や空間処理を離れ、写真を思わせるリアルなタッチで描かれグラフィックデザイン的な人工性を感じさせるのは事実でしょうが、全体として調和が取れた木島桜谷の代表作と現在は評価されています。



本作品もその中期の作風の頃の作品となります。



竹内栖鳳と京都画壇の人気をわけ、華々しく注目される画家となりましたが、それ以後は師である今尾景年の過剰なまでの推薦が反動となって画壇から嫌われ、熟達した筆技も過小評価されて再び台頭することはありませんでした。

昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねますが、昭和8年(1933年)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送ります。

昭和になってからの作風が「晩期の作風」と称されています。



その後は、やがて徐々に精神を病み、昭和13年11月13日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げることになったそうです。



現在では展覧会出品作ですら多くが所在不明であり、知っている人も少ない「忘れ去られた画家」の一人ですが、今一度見直しても良い画家の一人だと思います。

本作品は軸先も無くなっており、インターネットオークション上で廉価で入手できたものです。明治期、大正期の絵のほうが小生の好みということと描かれた年代が解るものは貴重という理由での購入です。



木島桜谷をこのように初期、中期、晩期とその置かれた状況を鑑みて鑑賞するのもひとつの絵の鑑賞の仕方だと思います。とはいえ、まるで学芸員の説明のようにきちんと分類されないのが世の常でもあります。


Viewing all articles
Browse latest Browse all 2934

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>