週末は母の見舞いもあり、息子は小生につきまとい、ブログの原稿作成などしている時間をとれず・・・ とりあえず書き留めたおいた原稿にて投稿します。
本日の作品の題となっている「源頼朝狩之図」は共箱ではないので、明確に頼朝を描いたという根拠はないので仮題とご了解願います。
源頼朝狩之図 小堀鞆音筆 その3
絹本着色軸装 改装補修跡有 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1980*横700 画サイズ:縦1243*横558
手前に置かれた壺は後日に紹介します。骨董マニアには察しのつく陶芸家の作品です。
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小堀鞆音(こぼりともと):(1864―1931)日本画家。下野国(栃木県)に須藤晏斎の三男として生まれる。本名桂三郎。早くから父や兄に手ほどきを受ける。
1884年(明治17)に上京、川崎千虎について歴史画、有職故実を学んだ。91年、日本青年絵画協会の設立に参加。97年には東京美術学校助教授になったが、翌年、いわゆる美術学校騒動が起こり、校長岡倉天心とともに辞職、日本美術院創立に加わった。1907年(明治40)に開設された文展には最初から審査員として出品し、以後官展で活躍した。また08年には東京美術学校の教授に復帰、17年(大正6)帝室技芸員、19年に帝国美術院会員にあげられた。大和絵(やまとえ)の手法を継いで歴史画を得意とし、『宇治橋合戦』『経正詣竹生島』『武士』などが代表作。門下から安田靫彦、川崎小虎、尾形月山らが出ている。
昭和初期、大礼服の小堀鞆音画伯
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画号の「鞆音」は師の川崎千虎の本名「鞆太郎」の一字を貰ったと言われており、「鞆」は弓を射る時の皮製の武具であり、弦があたるとそれが音を発するという意味です。
この武者絵は作者の名と画業を象徴している作品といえます。
東京美術学校を新設し、西洋文化を取り入れて西洋と対抗出来るように、新たな日本文化を打ち出さねばと“新機軸打ち出し”に躍起になっていた岡倉天心と大和絵の真髄を行こうとする鞆音はそりが合わなかったようです。
小堀鞆音は近代日本画の巨匠、安田靫彦の師で、歴史画を得意とした画家であり、同世代の画家では横山大観がいます(大観より4歳年上)。
小堀鞆音の作品は山種美術館や東近美でたまに展示されることはありますが、特別展でもない限り、ほとんど縁がない画家といっていいでしょう。知られてはいませんが、安田靭彦の「黄瀬川陣」や前田青邨の代表作、「洞窟の頼朝」などは小堀鞆音の影響を強く受けています。
代表作の「武士」(東芸大美蔵)は縦224cm、横113cmの大作であり、描かれている武将は“保元物語”に登場する弓術に優れた悲劇の英雄、鎮西八郎源為朝(1139~77)です。
鎧や兜の精緻な描写や青の地にくっきりと目立つ大柄な紋様、そして、足を大きく広げ、左前方を見つめる迫真の姿が胸が見事に描かれています。前田青邨らの歴史画に出てくる武将たちは皆鼻が大きいなどを小堀鞆音の影響とみる意見もあります。
小堀の時代考証は徹底しており、描こうとする人物が身につける衣装の色や紋様、兜、鎧、刀、弓などの形や意匠、屋敷の場面に必要な調度品、そして合戦の舞台となる建物や背景にある海や山の風景など知っておかなければいけないことが沢山あるようです。
小堀鞆音は甲冑研究も深めて、自分で材料からすべて制作してしまうという傾倒ぶりで、なにごとにも極めねばすまない大和魂が疼いて仕方がなかったようです。武具甲冑の収集にも熱心で、国宝鎧の修理監督も務めたそうです。
ただし有職故実に忠実すぎると、絵としての魅力がなくなるようで、合戦の武者を描く場合、絵に勢いがないと見る者を感動させられず、だから、画家は視線の集まるところでは対象の形や色を誇張したりデフォルメして描かれています。
これにより力強さや迫真性が表現されます。小堀鞆音の代表作の「武士」も豊国や写楽が描く役者絵と同様、強いインパクトがあり、武者絵を描いたら他に追随を許さないと評されています。
残念ながら共箱ではなりませんが、上箱に収められ、表具も改装され、痛んでいた部分も前の所有者によって丁寧に補修されています。掛け軸を大切に保存する気持ちのある方が所蔵されていたのでしょう。
本日の作品の題となっている「源頼朝狩之図」は共箱ではないので、明確に頼朝を描いたという根拠はないので仮題とご了解願います。
源頼朝狩之図 小堀鞆音筆 その3
絹本着色軸装 改装補修跡有 軸先陶器 合箱
全体サイズ:縦1980*横700 画サイズ:縦1243*横558
手前に置かれた壺は後日に紹介します。骨董マニアには察しのつく陶芸家の作品です。
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小堀鞆音(こぼりともと):(1864―1931)日本画家。下野国(栃木県)に須藤晏斎の三男として生まれる。本名桂三郎。早くから父や兄に手ほどきを受ける。
1884年(明治17)に上京、川崎千虎について歴史画、有職故実を学んだ。91年、日本青年絵画協会の設立に参加。97年には東京美術学校助教授になったが、翌年、いわゆる美術学校騒動が起こり、校長岡倉天心とともに辞職、日本美術院創立に加わった。1907年(明治40)に開設された文展には最初から審査員として出品し、以後官展で活躍した。また08年には東京美術学校の教授に復帰、17年(大正6)帝室技芸員、19年に帝国美術院会員にあげられた。大和絵(やまとえ)の手法を継いで歴史画を得意とし、『宇治橋合戦』『経正詣竹生島』『武士』などが代表作。門下から安田靫彦、川崎小虎、尾形月山らが出ている。
昭和初期、大礼服の小堀鞆音画伯
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画号の「鞆音」は師の川崎千虎の本名「鞆太郎」の一字を貰ったと言われており、「鞆」は弓を射る時の皮製の武具であり、弦があたるとそれが音を発するという意味です。
この武者絵は作者の名と画業を象徴している作品といえます。
東京美術学校を新設し、西洋文化を取り入れて西洋と対抗出来るように、新たな日本文化を打ち出さねばと“新機軸打ち出し”に躍起になっていた岡倉天心と大和絵の真髄を行こうとする鞆音はそりが合わなかったようです。
小堀鞆音は近代日本画の巨匠、安田靫彦の師で、歴史画を得意とした画家であり、同世代の画家では横山大観がいます(大観より4歳年上)。
小堀鞆音の作品は山種美術館や東近美でたまに展示されることはありますが、特別展でもない限り、ほとんど縁がない画家といっていいでしょう。知られてはいませんが、安田靭彦の「黄瀬川陣」や前田青邨の代表作、「洞窟の頼朝」などは小堀鞆音の影響を強く受けています。
代表作の「武士」(東芸大美蔵)は縦224cm、横113cmの大作であり、描かれている武将は“保元物語”に登場する弓術に優れた悲劇の英雄、鎮西八郎源為朝(1139~77)です。
鎧や兜の精緻な描写や青の地にくっきりと目立つ大柄な紋様、そして、足を大きく広げ、左前方を見つめる迫真の姿が胸が見事に描かれています。前田青邨らの歴史画に出てくる武将たちは皆鼻が大きいなどを小堀鞆音の影響とみる意見もあります。
小堀の時代考証は徹底しており、描こうとする人物が身につける衣装の色や紋様、兜、鎧、刀、弓などの形や意匠、屋敷の場面に必要な調度品、そして合戦の舞台となる建物や背景にある海や山の風景など知っておかなければいけないことが沢山あるようです。
小堀鞆音は甲冑研究も深めて、自分で材料からすべて制作してしまうという傾倒ぶりで、なにごとにも極めねばすまない大和魂が疼いて仕方がなかったようです。武具甲冑の収集にも熱心で、国宝鎧の修理監督も務めたそうです。
ただし有職故実に忠実すぎると、絵としての魅力がなくなるようで、合戦の武者を描く場合、絵に勢いがないと見る者を感動させられず、だから、画家は視線の集まるところでは対象の形や色を誇張したりデフォルメして描かれています。
これにより力強さや迫真性が表現されます。小堀鞆音の代表作の「武士」も豊国や写楽が描く役者絵と同様、強いインパクトがあり、武者絵を描いたら他に追随を許さないと評されています。
残念ながら共箱ではなりませんが、上箱に収められ、表具も改装され、痛んでいた部分も前の所有者によって丁寧に補修されています。掛け軸を大切に保存する気持ちのある方が所蔵されていたのでしょう。