幼稚園から高校までの同級生の友人が設計してくれた郷里の自宅です。その一室の照明は凝っていますが、母の寝室としてしばらく使用していました。小生は和室で寝起きしており、この部屋では通算しても一ヶ月は使用していません。
その室に飾られている洋画は木下孝則の「裸婦」です。
ずいぶんと色っぽい作品ですが、父が日動画廊で購入した作品で、小生のお気に入りでもあります。部屋全体が色っぽくなりすぎて、どうも落ち着きません
本日、紹介の作品はまったく趣向の違う南画の山水画です。
天保九年 観瀑山水図 中林竹洞筆 その
紙本水墨軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦2000*横 画サイズ:縦*横
手前に置かれているのは先日の「なんでも鑑定団」に出品されたものと同じ弓野焼の甕です。
賛には「董北苑晝法 戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)秋八月寫 於東山草堂 大原老人 押印」と記されており、1838年(天保9年)、中林竹洞が60歳の時の作と推察されます。清和月は旧暦の4月のことでしょう。
「董北苑」については下記のインターネット上の記事を引用します。
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董源:中国,南唐の山水画家。五代,宋初の画家。江南の鍾陵 (江西省南昌) の人といわれる。
董元とも書く。字は叔達。南唐の中主に仕え北苑副使となったため,「董北苑」と称された。
王維を継いだ唐朝青緑山水画風を追倣した作風もあったが,淡墨を重ねて江南湿潤の景色を写す山水画風を創始したとされ,その水墨画法は粗放であったといわれが、柔軟な筆づかいで江南の風景をえがき、水墨画は王維に、彩色画は李思訓(リシクン)に似ているといわれた。
山水画技法の基礎を確立,後世南宗画の祖と呼ばれる。生没年未詳。
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本作品は保存状態もよく、大幅で竹洞の作品中でも傑作の部類に入ります。「成昌之印」と「竹洞自□」の白文朱方印が押印されています。
鑑定箱には「大正十一年壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)之秋日題画於□禅壷中 柏陰主人鑑 押印」とあります。「柏陰主人」とはむろん画家の「田中柏陰」のことです。
「田中柏陰」については下記のとおりです。
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田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。
京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。
竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。
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「大正十一年」という書付から、田中柏陰が55歳の頃の鑑定と推察されます。
本日は南画と「裸婦」・・・。
「中林竹洞」については、何度も本ブログにて掲載していますが、改めて下記の記しておきます。
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中林竹洞(なかばやし ちくとう):安永5年(1776年)~嘉永6年3月20日(1853年4月27日))は江戸時代後期の 文人画家。尾張の生まれ。名は成昌、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士など。
竹洞は、名古屋の産科医中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師山田宮常に学ぶ。翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李衎(リカン・元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。このとき弟弟子の梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。
19歳のとき画家として独立。享和2年、恩人の天遊が病没すると同門の山本梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。30代後半には画家として認められ、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた。
竹洞は『画道金剛杵』などの画論書を著し、中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏襲。幕末日本文人画の定型といえる。長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。
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「中国南宗画の臨模」の一環として本作品が描かれたものと推察されます。
南宋画的な絵よりも、色彩画の上品な味わいのある絵が竹洞の真骨頂と言えます。また本作品は紙本ですが、絹本の作品で「竹洞裂」と称される目の荒い上等な絹に描かれた作品が特に評価が高いようです。
さらには竹洞の作品は特に印象が強いわけではなく、画家としてそれほどの注目を集めていないのが現状です。
しかし竹洞は『芥子園画伝』や『佩文斎書画譜』などの画論に精通していたのに加え、中国絵画を多く臨模して作画に活かしたことで、当時日本文人画の第一人者と称された画家です。
日本の文人画家を論じる竹洞に注目すべきですが、伝存作品、著作ともに多く、比較的容易にその精神に触れることができ、十九世紀の文人画を理解するためには最も適当な画家と言えるでしょう。
そして何よりも真理を探求し、軽佻浮薄に流れない竹洞のストイックな生き方は共感を感じます。
我々は「裸婦」の作品と南画の山水画の両方を飾り方を変えながら愉しめる時代に生まれたことを幸せに思わなくてはいけないのでしょう。
手前においてあるのは、「古備前緋襷舟徳利」です。
近年のように「南画」を毛嫌いしたりしているのは、時代を享受できていないようでもったいない気がします。
その室に飾られている洋画は木下孝則の「裸婦」です。
ずいぶんと色っぽい作品ですが、父が日動画廊で購入した作品で、小生のお気に入りでもあります。部屋全体が色っぽくなりすぎて、どうも落ち着きません
本日、紹介の作品はまったく趣向の違う南画の山水画です。
天保九年 観瀑山水図 中林竹洞筆 その
紙本水墨軸装 軸先木製加工 合箱
全体サイズ:縦2000*横 画サイズ:縦*横
手前に置かれているのは先日の「なんでも鑑定団」に出品されたものと同じ弓野焼の甕です。
賛には「董北苑晝法 戊戌(つちのえいぬ、ぼじゅつ)秋八月寫 於東山草堂 大原老人 押印」と記されており、1838年(天保9年)、中林竹洞が60歳の時の作と推察されます。清和月は旧暦の4月のことでしょう。
「董北苑」については下記のインターネット上の記事を引用します。
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董源:中国,南唐の山水画家。五代,宋初の画家。江南の鍾陵 (江西省南昌) の人といわれる。
董元とも書く。字は叔達。南唐の中主に仕え北苑副使となったため,「董北苑」と称された。
王維を継いだ唐朝青緑山水画風を追倣した作風もあったが,淡墨を重ねて江南湿潤の景色を写す山水画風を創始したとされ,その水墨画法は粗放であったといわれが、柔軟な筆づかいで江南の風景をえがき、水墨画は王維に、彩色画は李思訓(リシクン)に似ているといわれた。
山水画技法の基礎を確立,後世南宗画の祖と呼ばれる。生没年未詳。
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本作品は保存状態もよく、大幅で竹洞の作品中でも傑作の部類に入ります。「成昌之印」と「竹洞自□」の白文朱方印が押印されています。
鑑定箱には「大正十一年壬戌(みずのえいぬ、じんじゅつ)之秋日題画於□禅壷中 柏陰主人鑑 押印」とあります。「柏陰主人」とはむろん画家の「田中柏陰」のことです。
「田中柏陰」については下記のとおりです。
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田中柏陰:日本画家。静岡県生。本名は啓三郎、字を叔明。別号に静麓・孤立・柏舎主人・空相居士。京都に出て田能村直入に南画を学び、竹田・直入の画風を継ぐ青緑山水を能くした。
京都と山口県右田に画塾を設け、多くの後進を育成し、関西南画壇の重鎮として活躍した。
竹田系統鑑定家の第一人者でもある。昭和9年(1934)歿、69才。
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「大正十一年」という書付から、田中柏陰が55歳の頃の鑑定と推察されます。
本日は南画と「裸婦」・・・。
「中林竹洞」については、何度も本ブログにて掲載していますが、改めて下記の記しておきます。
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中林竹洞(なかばやし ちくとう):安永5年(1776年)~嘉永6年3月20日(1853年4月27日))は江戸時代後期の 文人画家。尾張の生まれ。名は成昌、字を伯明、通称大助。竹洞は画号。別号に融斎・冲澹・大原庵・東山隠士など。
竹洞は、名古屋の産科医中林玄棟の子として生まれた。幼い時から画を好み、14歳で沈南蘋風の花鳥画を得意とする絵師山田宮常に学ぶ。翌年、尾張画壇のパトロンとして知られた豪商神谷天遊に才覚を見込まれると同家に引き取られひたすら古画の臨模を行って画法を会得した。天遊に連れられ万松寺に出向いたとき李衎(リカン・元代)の「竹石図」を見て深く感銘したことから竹洞の号を授けられたといわれる。このとき弟弟子の梅逸は王冕の「墨梅図」に感銘したことからその号を与えられた。
19歳のとき画家として独立。享和2年、恩人の天遊が病没すると同門の山本梅逸と共に上洛。寺院などに伝わる古書画の臨模を行い、京都の文人墨客と交流した。天遊の友人内田蘭著に仕事の依頼を受けて生計を立てた。30代後半には画家として認められ、以後40年にわたり文人画家の重鎮として知られた。
竹洞は『画道金剛杵』などの画論書を著し、中国南宗画の臨模を勧め、清逸深遠の趣きを表すべきであると文人としての精神性の重要さを強調している。また室町時代からの画人47人を品等付けし、その上で池大雅を最高位に置いている。その画風は清代文人画正統派の繊細な表現スタイルを踏襲。幕末日本文人画の定型といえる。長男・中林竹渓、三女・中林清淑も南画家。
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「中国南宗画の臨模」の一環として本作品が描かれたものと推察されます。
南宋画的な絵よりも、色彩画の上品な味わいのある絵が竹洞の真骨頂と言えます。また本作品は紙本ですが、絹本の作品で「竹洞裂」と称される目の荒い上等な絹に描かれた作品が特に評価が高いようです。
さらには竹洞の作品は特に印象が強いわけではなく、画家としてそれほどの注目を集めていないのが現状です。
しかし竹洞は『芥子園画伝』や『佩文斎書画譜』などの画論に精通していたのに加え、中国絵画を多く臨模して作画に活かしたことで、当時日本文人画の第一人者と称された画家です。
日本の文人画家を論じる竹洞に注目すべきですが、伝存作品、著作ともに多く、比較的容易にその精神に触れることができ、十九世紀の文人画を理解するためには最も適当な画家と言えるでしょう。
そして何よりも真理を探求し、軽佻浮薄に流れない竹洞のストイックな生き方は共感を感じます。
我々は「裸婦」の作品と南画の山水画の両方を飾り方を変えながら愉しめる時代に生まれたことを幸せに思わなくてはいけないのでしょう。
手前においてあるのは、「古備前緋襷舟徳利」です。
近年のように「南画」を毛嫌いしたりしているのは、時代を享受できていないようでもったいない気がします。