鐸(つば)については6作品目の紹介となりましたが、刀剣については一振り以降は研ぎの仕上がりに時間がかるようです。
ところで刀の部品の用語を使った言葉に「切羽つまった」というのがありますが、「切羽」というのをご存知でしょうか? 鐸(鍔)を抑えてある両側の座金のような部分です。刀剣について学ぶと非常におもしろい語源がたくさんあるようです。
このたびの鐸も「その5」についで武蔵鐸のようです。
(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その6
保存箱入
縦*横*厚さ
いい出来です。華奢で装飾的な鐸より、シンプルで力強く渋みのある作品のほうが鐸については私は好きです。
「左右海鼠透」は、調べてみると模様が岩浜に棲息する海鼠の形態に似ているところによる呼称のようです。
本日のメインの紹介は近代で虎を描いては一番人気の大橋翠石の虎の作品です。贋作が多い中でようやく満足のいく作品を入手できました。以前に初期の頃の明治期の作品を紹介しましたが、その作品と比較するのも愉しいものです。
幽谷雙猛之図 大橋翠石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 共箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1140
虎の作品は魔よけでもありますので、座敷の玄関方向への飾りとなります。基本的には床の間は出入り口方向へが基本というのが、小生の考えですが、必ずしも玄関でなくてもよく、外からの出入り口に向けてです。
落款は「糸落款」と称せられるもので、「翠石」が細く書いてあるもので第3期 に属し1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)の晩年、最晩年に近い作品と推察されます。
翠石はほとんど作品に竹を描かず、本作品も葦を描いた背景と推察されます。神戸に住居がある時代の作品を「須磨様式」と称されますが、その頃の作品です。
月? 直接描かず、月の明かりを表現している絶妙な描き方です。これが本作品の見所になっており、他の作品より傑出している部分でしょう。
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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。
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本ブログでも紹介されている「天野方壷」に南画を師事していたとのことです。
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動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品を制作した。 内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。
岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。
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晩年期の大橋翠石の作品は、虎に毛については金泥を使って細かく緻密に描いている。紙の上に金泥を乗せているので厚みが生まれ、まるで触れるほどの毛並みを表現します。
葦については、線を勢いよく引き、滲みを入れるなど伝統的な日本画の手法を使って描いています。それに比べ非常に写実的に緻密に描かれた虎との対比によって臨場感・雰囲気を醸し出すことを狙いとしているようです。
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神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。
「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。
虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。
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またこの当時に描かれた作品は背景の樹木や岩山や笹などの描写に洋画的雰囲気があります。
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神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。
円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。
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虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。
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明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。
海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。
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下記は同時期に描かれたと推測される作品の参考資料です。このような資料を覚えおかないと作品が目の前に現れたときに良し悪しが判断つかないことになります。
このように落款と印章が提示される資料は蒐集するものとっては非常にありがたいものです。
初期の明治期の作品と晩年の作品、どちらとも大切にしていきたい作品です。
虎を画題とした作品がついつい増えてきました。虎の描き方を他の画画の作品と比較するのも一興です。
さて上記は誰が描いた「虎」の作品でしょうか? 以前に本ブログで紹介した画家の作品ですが、虎にもいろんな虎がいるようで、人間の顔をした虎もいろんな虎がいるようです。
ところで刀の部品の用語を使った言葉に「切羽つまった」というのがありますが、「切羽」というのをご存知でしょうか? 鐸(鍔)を抑えてある両側の座金のような部分です。刀剣について学ぶと非常におもしろい語源がたくさんあるようです。
このたびの鐸も「その5」についで武蔵鐸のようです。
(武蔵)鐸 左右海鼠透素銅地 その6
保存箱入
縦*横*厚さ
いい出来です。華奢で装飾的な鐸より、シンプルで力強く渋みのある作品のほうが鐸については私は好きです。
「左右海鼠透」は、調べてみると模様が岩浜に棲息する海鼠の形態に似ているところによる呼称のようです。
本日のメインの紹介は近代で虎を描いては一番人気の大橋翠石の虎の作品です。贋作が多い中でようやく満足のいく作品を入手できました。以前に初期の頃の明治期の作品を紹介しましたが、その作品と比較するのも愉しいものです。
幽谷雙猛之図 大橋翠石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 共箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1140
虎の作品は魔よけでもありますので、座敷の玄関方向への飾りとなります。基本的には床の間は出入り口方向へが基本というのが、小生の考えですが、必ずしも玄関でなくてもよく、外からの出入り口に向けてです。
落款は「糸落款」と称せられるもので、「翠石」が細く書いてあるもので第3期 に属し1940年(昭和15年)から1945年(昭和20年)の晩年、最晩年に近い作品と推察されます。
翠石はほとんど作品に竹を描かず、本作品も葦を描いた背景と推察されます。神戸に住居がある時代の作品を「須磨様式」と称されますが、その頃の作品です。
月? 直接描かず、月の明かりを表現している絶妙な描き方です。これが本作品の見所になっており、他の作品より傑出している部分でしょう。
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大橋翠石:慶応元年(1865)生まれ、昭和20年(1945)没、享年81歳。岐阜県に生まれる。天野方壷・渡辺小華に南画を学ぶ。 その後、独学をして写生画派に転向する。
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本ブログでも紹介されている「天野方壷」に南画を師事していたとのことです。
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動物画に秀で、特に虎の絵は細密かつ迫真にせまる作品を制作した。 内外の博覧会でも大賞を受賞し、全盛期には横山大観・竹内栖鳳と並び高い人気と評価を得た。
岐阜県大垣市の染物業の二男で、本名は卯三郎。父親の影響で幼いころから絵をかき、地元や京都、東京で南画の腕を磨いた。
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晩年期の大橋翠石の作品は、虎に毛については金泥を使って細かく緻密に描いている。紙の上に金泥を乗せているので厚みが生まれ、まるで触れるほどの毛並みを表現します。
葦については、線を勢いよく引き、滲みを入れるなど伝統的な日本画の手法を使って描いています。それに比べ非常に写実的に緻密に描かれた虎との対比によって臨場感・雰囲気を醸し出すことを狙いとしているようです。
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神戸に移ったのは大正元(1912)年、48歳のころ。故郷の大垣を離れ、須磨離宮公園の近くに千坪の邸宅を構えた。
「結核を患ったため、温暖な神戸で療養をと考えたのでは」と推測する。すでに名を上げていた翠石を、神戸では武藤山治や松方幸次郎ら財界人が後援会を結成して迎えた。
虎の絵は神戸でも評判となり、当時「阪神間の資産家で翠石作品を持っていないのは恥」とまでいわれたという。
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またこの当時に描かれた作品は背景の樹木や岩山や笹などの描写に洋画的雰囲気があります。
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神戸では悠々自適の暮らしを送った翠石だが、昭和20(1945)年、大空襲のあとで大垣に疎開。終戦後、老衰のため愛知県の娘の嫁ぎ先で亡くなっている。
円山応挙をはじめ虎を描いた日本画家は数多い。だが、翠石は本物の虎を写生したリアルさで群を抜く。中でも、自ら考案した平筆を駆使した毛並みの描写は圧巻だ。この画風で、パリ万博に続き米国セントルイス万博と英国の日英博覧会でも「金牌」を受賞した。
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虎だけでなく、ライオンやオオカミ、鹿、鶴など多様な動物画を描いた翠石。神戸に移ってからは、背景に遠近感や立体感のある山林や雲などの背景を描き、独自の画風を完成に近づけた。神戸時代の画風を「須磨様式」と名づけ、そこに西洋絵画の影響をみる。「当時、松方コレクションはすでに散逸していたが、松方が集めた洋画はまだ神戸にあったはず。翠石がそれらを目にした可能性がある」。
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明治33(1900)年のパリ万博において日本人でただ一人、最高賞の「金牌(ぱい)」を受けたこと、明治天皇や皇后、朝鮮の李王家に絵を献上していたこと…。老境を迎えた昭和初期には、日本画壇を代表する竹内栖鳳や横山大観と並ぶ高い画価が付けられるほどの人気を誇っていた。
海外で華々しい成果を挙げながら、画壇とは交わらず、権威ある文展や帝展、院展に出展することもなく、わが道を歩んだ翠石。「孤高の生き方ゆえに、多くの作品が所在不明となり、名前すら忘れられたのでは」と考える。
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下記は同時期に描かれたと推測される作品の参考資料です。このような資料を覚えおかないと作品が目の前に現れたときに良し悪しが判断つかないことになります。
このように落款と印章が提示される資料は蒐集するものとっては非常にありがたいものです。
初期の明治期の作品と晩年の作品、どちらとも大切にしていきたい作品です。
虎を画題とした作品がついつい増えてきました。虎の描き方を他の画画の作品と比較するのも一興です。
さて上記は誰が描いた「虎」の作品でしょうか? 以前に本ブログで紹介した画家の作品ですが、虎にもいろんな虎がいるようで、人間の顔をした虎もいろんな虎がいるようです。