最近、喜多川歌麿の大きな掛け軸が再発見され、大きな話題となっています。あんなに大きな掛け軸が三幅一対であるそうですが、どこに飾ったのでしょう??
本日は喜多川歌麿とは比較になりませんが、浮世絵に肉筆画の紹介です。
明治時代の稀有の浮世絵師である月岡芳年をご存知の方は多いと思います。最近は非常に人気が高く、展覧会などで多くの人が愉しまれています。
本ブログでも月岡芳年の版画作品は投稿してますので、リンク先から参考にしてください。
本日はその父にあたるという説のある?絵師の作品です。この絵師の長男は月岡雪斎とされていますし、本ブログでも月岡雪齋の作品を二作品を投稿しており、そのように紹介してきましたが、月岡芳年が月岡雪鼎の長男?どうもそのような説があるようです。ただし、通説は月岡雪斎の養子となっています。
遊女立姿図 月岡雪鼎筆
絹本着色軸装 軸先木製 極箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦
月岡という画家だけで幕末から明治にかけて多くの画家がいます。前述のように数少ない本ブログの投稿だけでも月岡雪鼎、月岡雪斎、月岡芳年、月岡耕漁(門人)がいます。
最近の日経新聞にも薩摩島津家の初代は、源頼朝の御落胤という説があり、鎌倉の源頼朝のお墓を幕末から明治期に島津家で整備したとか これは本当のことのようです。歴史ヒストリアの出演している女性アナウンサーの談話として日経新聞に掲載されていました。
前々からなんとか入手したいと思っていた月岡雪鼎の作品です。春画の名手ということからではありません。そう、月岡雪斎は春画の名手と言われています。
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月岡雪鼎:享保11年(1726年)〜天明6年12月4日(1786年1月22日)。姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字は大渓です。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪などと号しました。
本作品の落款には「信天翁応需戯画 押印」とあり、どなたかに頼まれて描いた作品であり、「戯画」ということから席画よりは細部は描かれていますが、力作ではない作品と伺われます。
近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承があります。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられています。浮世絵師「月岡」は月岡雪鼎からが始まりです。
最初、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で美人画を描きました。 仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋、安永7年(1778年)3月に法眼に推免されました。落款には「法橋」、「法眼」が多く記されています。「法橋」、「法眼」については本ブログ読まれている方には説明は不要ですね。
作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとりました。肉筆画の大部分は、美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られます。
豊艶な美人の肢体に、肉色の線を使用することでも、特色があります。墨と同じラインに肌色が見ます。
雪鼎の描く女性は、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。また、春画の名手としても知られています。
天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残っていた蔵がありました。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったといいます。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったそうです。また、貴族からも好みに応じて描き、その絵の値段は三十金・五十金にもなったと言われています。
この絵の見どころのひとつに着物の龍の柄があります。いいですね、登龍・・。火事の厄払いとともに縁起の良い絵です。貴族からの依頼で描かれたかもしれません。
1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住しました。享年77。長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰など。門人と推定される絵師に田中巨川斎もいます。また一説に、月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれています。
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改めて記しますが、本ブログに掲載されている月岡雪齋、月岡芳年、月岡耕漁らは「月岡」ということより血縁、師弟関係で繋がっています。
ところで本作品の印章はななんと書かれているのでしょう??
「姓源氏木田名昌信□□号雪鼎□号□□自□□□□翁」という朱文白円印と「□□□□」と中央に記された香炉印を用いています。
表具はだいぶ痛んでいますが、粋な表具です。
締め直し(現在の表具の材料をそのまま使うこと)で直したら、見栄えの良い作品となろうかと思います。
ところで箱書きは誰なのでしょうか?
「信天翁姓源氏木田名昌信号雪鼎 昭和六年十月 □□□」とあります。
本日は喜多川歌麿とは比較になりませんが、浮世絵に肉筆画の紹介です。
明治時代の稀有の浮世絵師である月岡芳年をご存知の方は多いと思います。最近は非常に人気が高く、展覧会などで多くの人が愉しまれています。
本ブログでも月岡芳年の版画作品は投稿してますので、リンク先から参考にしてください。
本日はその父にあたるという説のある?絵師の作品です。この絵師の長男は月岡雪斎とされていますし、本ブログでも月岡雪齋の作品を二作品を投稿しており、そのように紹介してきましたが、月岡芳年が月岡雪鼎の長男?どうもそのような説があるようです。ただし、通説は月岡雪斎の養子となっています。
遊女立姿図 月岡雪鼎筆
絹本着色軸装 軸先木製 極箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦
月岡という画家だけで幕末から明治にかけて多くの画家がいます。前述のように数少ない本ブログの投稿だけでも月岡雪鼎、月岡雪斎、月岡芳年、月岡耕漁(門人)がいます。
最近の日経新聞にも薩摩島津家の初代は、源頼朝の御落胤という説があり、鎌倉の源頼朝のお墓を幕末から明治期に島津家で整備したとか これは本当のことのようです。歴史ヒストリアの出演している女性アナウンサーの談話として日経新聞に掲載されていました。
前々からなんとか入手したいと思っていた月岡雪鼎の作品です。春画の名手ということからではありません。そう、月岡雪斎は春画の名手と言われています。
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月岡雪鼎:享保11年(1726年)〜天明6年12月4日(1786年1月22日)。姓は源、本姓は木田、名は昌信。俗称を馬淵丹下といい、字は大渓です。号に、信天翁、月岡山人、露仁斎、錦童、桃漪などと号しました。
本作品の落款には「信天翁応需戯画 押印」とあり、どなたかに頼まれて描いた作品であり、「戯画」ということから席画よりは細部は描かれていますが、力作ではない作品と伺われます。
近江国蒲生郡日野大谷村(現在の滋賀県蒲生郡日野町大谷)生まれ。大谷には「月岡山」という小高い丘があり、雪鼎はこの山の名称から「月岡」と号したと伝承があります。現在、この月岡山には雪鼎を顕彰する石碑が建てられています。浮世絵師「月岡」は月岡雪鼎からが始まりです。
最初、同郷の京狩野派の絵師・高田敬輔門下で、本格的な画法を学んでいたが、西川祐信の影響で美人画を描きました。 仁和寺に申し出、明和2年(1765年)6月に法橋、安永7年(1778年)3月に法眼に推免されました。落款には「法橋」、「法眼」が多く記されています。「法橋」、「法眼」については本ブログ読まれている方には説明は不要ですね。
作画期は宝暦3年頃から没年の天明6年に到っており、肉筆浮世絵の他、版本の挿絵にも筆をとりました。肉筆画の大部分は、美人図で、賦彩の美しい画品を具えた作品が数多く見られます。
豊艶な美人の肢体に、肉色の線を使用することでも、特色があります。墨と同じラインに肌色が見ます。
雪鼎の描く女性は、京都のものとは異なる独特な写実性のある作品が多い。また、春画の名手としても知られています。
天明の大火の時、焼け跡の中になぜか残っていた蔵がありました。訝しんだ人々がその蔵の中に入ってみると、その持ち主も見覚えのない雪鼎の春画があったといいます。この逸話が広まり雪鼎の春画は火除になると評判が広がり、値が十倍にもなったそうです。また、貴族からも好みに応じて描き、その絵の値段は三十金・五十金にもなったと言われています。
この絵の見どころのひとつに着物の龍の柄があります。いいですね、登龍・・。火事の厄払いとともに縁起の良い絵です。貴族からの依頼で描かれたかもしれません。
1775年、大坂浪華塩町の心斎橋筋に移住しました。享年77。長男月岡雪斎、次男月岡雪渓も浮世絵師。門人に蔀関月、岡田玉山、墨江武禅、森周峰など。門人と推定される絵師に田中巨川斎もいます。また一説に、月岡芳年は雪鼎の長男、月岡雪斎の画系をひいているといわれています。
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改めて記しますが、本ブログに掲載されている月岡雪齋、月岡芳年、月岡耕漁らは「月岡」ということより血縁、師弟関係で繋がっています。
ところで本作品の印章はななんと書かれているのでしょう??
「姓源氏木田名昌信□□号雪鼎□号□□自□□□□翁」という朱文白円印と「□□□□」と中央に記された香炉印を用いています。
表具はだいぶ痛んでいますが、粋な表具です。
締め直し(現在の表具の材料をそのまま使うこと)で直したら、見栄えの良い作品となろうかと思います。
ところで箱書きは誰なのでしょうか?
「信天翁姓源氏木田名昌信号雪鼎 昭和六年十月 □□□」とあります。