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辞闕 伝西郷南洲筆 その7

西郷南洲の書というか、西郷南洲の書く漢詩の内容が好きなこともあり、西郷南洲の書を観てみて、これはなんとなくいいかな?と感じた作品を入手しています。もちろん真贋は分からずじまいですので、ガラクタの数だけが増えていますが・・・。
今回も表具の痛んだ状態で何が書いているのかも相変わらず分からずで入手し、入手後にいろいろと調べてみて、ああそういうことかと少し内容が解ってくる次第です。
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*上記写真は展示室での撮影ですが、李朝の作品と太刀揃いはなにかしら西郷南洲と関連のあるもの・・・・。
辞闕 伝西郷南洲筆 その7紙本水墨軸装 軸先塗 小松某氏鑑定箱全体サイズ:縦2070*横600 画サイズ:縦1340*横615
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 印章と落款の検証としては、まず引首印は「猛虎弐聲山月高」の白印朱長方二重印で、落款部分には「藤氏隆永」の白文朱方印と「南洲」の朱文白方印の累印が押印されています。印や落款には違和感はありません。
*この印章は明治7年後半以降の最晩年に押印した印章となります。
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箱書には表には「西郷南洲絶筆□□」とあり、箱裏には「切腹前二日(1877年 明治10年9月22日)洞窟中 御?筆真蹟無疑者也 小松□厘? 累印押印」とありますが、これはまったくあてにならないと思われます。
この漢詩の題名が「辞闕」(じけつ)とありますが、 意味は「別れの辞を述べること 暇乞い」なのですが、もしかすると「自決?」と解釈したのかもしれませんね。
*箱書のある小松某なる人物については不明です。小松帯刀と関連があるとしたら面白いのですが・・。
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西郷南洲の書とされる「辞闕」の大きな同書の作品は資料には見当たりませんでしたが、資料には下記の作品がありました。
資料より(吉井勇識箱並びに山口竹渓識箱  並びに宮島誠一郎詩書と識語一幅 西郷南洲顕彰会鑑定書)
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書かれた漢詩は「辞闕」と題された西郷隆盛の漢詩であり、明治6年の政変で下野した際の心境を歌ったもののようです。ただ印章からは真作なら本作品は明治7年後半以降に書かれたものとなります。
*この点からも本作品の真偽のほどはたしかではありませんので、「伝」としております。
西郷南洲の書は本作品のように各行の字が少しづつ下がってきているのが特徴とされますが、例外もありますし、それほど極端でもないようです。
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さて本作品は五言律詩で「独不適時情 豈聴歓笑声 雲羞論戦略 忘義唱和平 秦桧多遺類 武公難再生 正邪今那定 後世必知清 南洲 押印」 と書かれており、
読みは下記のとおりかと思います。
独不適時情  独り時情に適せず        豈聴歓笑声  豈歓笑の声を聴かむや雲羞論戦略  羞を雪がむとして戦略を論ずれば 忘義唱和平  義を忘れて和平を唱ふ秦桧多遺類  秦桧遺類多く          武公難再生  武公再生し難し正邪今那定  正邪今那ぞ定めむ(定まらむ)  後世必知清  後世必ず清を知らむ
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大まかな趣旨は「自分は時勢にかなわず下野することになった。国のために戦略を述べたが、いたずらに和平だけ唱える愚か者がなんと多いことか。どちらが正で邪かはやがて定まるだろう。後世の人はどちらが清いか必ずわかるはずだ」となります。
*南宋の宰相秦檜が抗金派を弾圧したという史実を重ねています。西郷は自分を中国の岳飛になぞらえて、「味方の讒言によって貶められた心境を表したとあり」ということは、「秦桧多遺類 武公難再生」に表れていますが、これは、征韓論に破れたことの悔しさを表したものでしょう。
このことは下記の史実によるもののようです。
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秦檜(しん かい、元祐5年12月25日(1091年1月17日)~紹興25年10月22日(1155年11月18日))。南宋の宰相。字は会之。黄州の出身。本貫は江寧府(現在の江蘇省南京市)。
下記写真は「秦檜像」
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秦檜は金との講和を進め和議を結ぶが、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺、平民へ落とすなどし、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に恐怖政治を敷いた。後世、この「秦檜」という名は売国奴の代名詞となり蔑まれた。妻は王氏(宰相王珪(中国語版)の子の王仲岏の娘)、実子の名は不詳、養子は秦熺(妻の兄の王喚の子)、養孫(秦熺の子)は秦塤。妻の父の王仲岏の姉は李清照の母。
下記写真は杭州岳王廟(岳飛の廟)にある秦檜夫妻の像。かつてはこの像に唾を吐きかける習慣があったようです。右が秦檜で、左が妻の王氏。 
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当時の南宋は「抗金の名将」と呼ばれる有能な将軍を多数輩出し、南宋の歴史を通じて例外的に軍事力が充実した時期であったために、金との講和は国土回復の絶好機を逃し国家を誤ったと評されることが多い。特に紹興10年(1140年)に岳飛が北伐を行い、開封まであと一歩に迫りながら補給が続かず撤退を余儀なくされたことも、秦檜の献策により高宗が不当な撤退命令を送ったのが原因とされています。
下記写真は「岳飛像」
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当時の金を朝鮮とみたて、自らを岳飛とみたてていると考えてよさそうです。秦檜は当時の征韓論の反対派の象徴(大久保利通?)にたとえたのでしょう。
さて書の中でひときわ大きく書かれているのは「戦」という字です。
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*西郷南洲の書は印刷作品も数多くあるので、真贋云々より前にまずは肉筆か否かが大きな判断になります。この作品は滲みやドットの無い点から肉筆には相違ないようです。
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ちなみに征韓論は簡単に記述すると下記のようなことです。
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征韓論:1868年、明治維新に踏み切った日本の新政府が、王政復古を朝鮮政府に通告する書契を発送した。 しかし、朝鮮政府は書契の格式が以前とは違うという理由で受付を拒否した。 すると日本では朝鮮を征伐しなければならないという主張が提起されたが、これを「征韓論」という。1873年、日本政府は朝鮮に使臣を派遣する問題で対立し、政争で押された西郷隆盛と板垣退助などが参議を辞職しています。
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このような西郷隆盛に関する詳しい事項は多くの研究者にお任せるするとして、感じるのは最近の世界情勢を鑑みても、いつの世もこのような外交に関する似たような事象はあるということです。戦いの歴史とも思われる点は困ったものですね・・・。
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さてこれを前述のように絶筆として仕立てるのはいかがなものか???? ちなみに西郷南洲の最後は下記にとおりです。
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西郷隆盛の最後:9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制し、6日には城山包囲態勢を完成させた。
19日、山野田一輔・河野主一郎が西郷の救命のためであることを隠し、挙兵の意を説くためと称して、軍使となって参軍・川村純義のもとに出向き、捕らえられた。
22日、西郷は城山決死の檄を出した。*箱書はこの日に書いたものとしています。
23日、西郷は、山野田が持ち帰った川村からの返事を聞き、参軍・山縣有朋からの自決を勧める書簡を読んだが、返事を出さなかった。また、敵である陸軍の中にも西郷を慕う者は多く、城山総攻撃の前夜には、陸軍軍楽隊が城山に向けて葬送曲を演奏し、市民も聞き入ったという。現代になっても、自衛隊の吹奏楽団が、同じ日時に葬送曲を同じ場所で演奏している。
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、桂久武、村田新八、池上四郎、別府晋介、辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、岩崎口に進撃した。まず国分寿介が剣に伏して自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾を受けて落命する者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。介錯を命じられた別府は、涙ながらに「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねたという。享年51(満49歳没)。
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このような明治の遺訓らの漢詩を調べてみるといろんなことを考えさせられますね。一方で家内からは「勝海舟や副島種臣 の書の方が好き」、とか「西郷南洲の書にどうせ本物なんかないからのだから早く処分しなさい。」といつも嫌味?を言われており、それでもめげずに西郷南洲の作品は「その8」となりました。ただ言われるまでなく自覚しているので少しづつ処分しながらそろそろ我楽多集めに幕を閉じようかと・・・、当方も「辞闕」と題して骨董蒐集の思いを漢詩として遺そうかな。







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