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郭子儀図 狩野探信筆 訂正投稿

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2013年11月18日訂正
本作品の画家は下記に訂正とします。

鍛冶橋狩野派第2代 狩野探信守政(狩野探幽の長子)→鍛冶橋狩野派第7代 狩野探信守道(狩野守邦の息)名手と評された。(あくまで真作と仮定しての説明)

狩野 探信:江戸後期の画家。狩野守邦の長男。名は守道、別号に興斎。狩野守邦の息。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれる。幕府絵師として法眼に叙せられ、名手として世に聞こえた。1785年〜1835。探信と号する狩野派画人に、探幽の長子と探牧の長子とがあるが、狩野守邦の長男。名は守道、別号に興斎。狩野守邦の息。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれる。幕府絵師として法眼に叙せられ、名手として世に聞こえた。天保6年(1835)歿、享年51才。しばしば徳川将軍家の御用を勤めた。

以下は投稿時の文章を一部変更しました。

2013年11月3日のなんでも鑑定団に狩野派の作品が出品されていました。狩野美信という私もあまり聞きなれない画家の作品でした。その説明に「狩野派は400年続いた日本画最大の派閥。そのトップが奥絵師と呼ばれる画家たちで、狩野美信はその次に位置する表絵師にあたる。かなり多くの作品があり、真筆でも高価なものは少ない。依頼品に描かれているのは郭子儀(中国唐時代の名将)で、安禄山の乱を平定し唐の繁栄を招いた人物。一家繁栄を願う図柄として江戸時代によく描かれた。」とありました。

・・・???、どかかで見たことのある画題ということで本作品を思い出しました。「唐子と老人」と題する御仁も多いのですが、それはないよね もっとひどいのは「良寛」だと????

狩野探信の作品ということです。もちろん奥絵師です。

郭子儀図 狩野探信筆 
絹本水墨淡彩 軸先 合箱
全体サイズ:縦1920*横529 画サイズ:縦1103*横421



狩野探信が二人いるので混乱しますね。しかもかたや狩野探幽の長子、かたや狩野派名手。




無病息災・延命長寿祈願の舞楽を描いた「舞楽図」にもその才能が見て取れます。・・・・訂正



もう一人の狩野探信・・・追記

狩野探信:江戸中期の画家。承応二・1653〜享保三・1718)。狩野探幽の長男。鍛冶橋狩野第二世。名守政。初名は仙千代、のち図書、忠洲、別号に忠淵。幕府の絵師となり、御所や江戸城の障壁画制作に参加。正徳5年(1715)法眼となった。享保3年10月4日死去。66歳。

探幽が50歳を過ぎて生まれた実子であり、探幽には養子の洞雲益信がいたが、益信には駿河台狩野家を興させ、探信守政に、鍛冶橋狩野を継がせた。

複雑な家庭環境・・・。・・・訂正




さらには2代目狩野探信は、1674年に跡を継いだが、父ほどにはふるわなかった。この系統からはその後7代意外に見るべき画家は輩出されなかった。

本作品は同名で江戸後期の鍛冶橋狩野家第七世ですが、二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれます。

幕府絵師として法眼に叙せられ、名手として世に聞こえた。天保6年(1835)歿、51才。

2代目は狩野探幽と比較されるのは酷であり、それなりに活躍した画家としての評価もあります。





ところで狩野派各家の格は大きく三つに分類されます。


奥絵師:江戸幕府の御用絵師のうち、最も格式の高い職位。狩野(かのう)派の鍛冶橋・木挽(こびき)町・中橋・浜町の四家。世襲された。


表絵師:江戸幕府御用絵師のうち,奥絵師の支流十数家。御家人格。出仕義務のない御家人格の表絵師12家は、若年寄り下に任用され、将軍をはじめ幕府に必要な絵画を書い
た。その後多くの分家枝門は江戸をはじめ地方諸藩の御用絵師として採用され始め狩野派的絵画は全国的な武家絵画となった。


その下に狩野派町絵師というヒエラルキーが存在しますが、一般的に奥絵師以外の表絵師以降の評価は低いです。現在は狩野派そのものへの評価が低いですが、とくに奥絵師以外は非常に評価が低いといえます。もちろん、出来不出来によりますが・・・。


「参考作品 大和絵  狩野探信 牛若弁慶画幅」との落款と印章の比較


 

残念ながら印章がちと違う ちょっと違う印章を使用することもありえないことではありません。

ともかく狩野派の作品は真贋とやかくいうほど評価は高くありません。

狩野探幽、久隅守景などの狩野派の大家にはかなりきわどいというか良く出来た贋作が数多くあり、判別がつきにくいらしい。そのことがかえってお値段もそれほど高価にはなりにくい理由のようにも思えます。

ある一定以上の出来であれば、狩野派は真贋を問題視することが難しくなったかもしれません。


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郭子儀について



郭子儀(かく しぎ、697年 - 781年):中国、唐朝に仕えた軍人・政治家。玄宗、粛宗、代宗、徳宗の4代に仕えた。客家人[要出典]。安史の乱で大功を立て、以後よく異民族の侵入を防いだ。盛唐〜中唐期を代表する名将。憲宗(在位805年 - 820年)の皇后郭氏は子儀の孫である。幾多の国難を克服した功労者であり、唐の繁栄を招いた人物。子供も多く、人徳にも優れ、一家繁栄を願う図柄として江戸時代によく描かれた。

本作品は細かいところも良く描けています。粉本の一種か?? それにしては落款が酷似していますが、弟子たちならこれくらやりかねない。ま〜、気楽に愉しめばよいという作品です。



華州鄭県(現在の陝西省華県)の人。身長190cmほどの偉丈夫であった。出生はもちろん幼少年期から青壮年期に至るまで、その来歴はほとんど記録に残されていない。地方長官の子息であったが、早くに父を喪ったのか、父祖の功によって政界入りを果たした形跡はない。武挙において優秀と認められて仕官を果たすが、その後、単于副都護、振遠軍使に累進していったのは、おそらく中年期以降のことであろうと推測されるだけである。

唐代のみならず中国史上の大人物であり、後世画題として珍重されるほど有名人となるが、このように典型的な晩成型の人物であった。玄宗の天宝8年(749年)に、横塞軍使に命じられているのが、年号の確認できる最も早い時期の経歴であり、ときに既に53歳であった。安禄山の乱によって、安思順の後任として右兵馬使であった子儀が朔方節度使に昇格し、さらに衛尉卿(五監の一、衛尉寺の長官。従三品)に任ぜられ、霊武郡太守を兼務し、朔方郡の兵馬を率いて安禄山討伐に向うよう詔が下された。一大事の情勢であったとはいえ、破格の出世であった。

粛宗の時、安史の乱を平らげて国難を救う功を挙げ、衛尉卿、霊武郡太守、朔方節度使、関内河東副元帥に任ぜられ、汾陽王に封ぜられた。764年、前述の安史の乱の際に賊軍征伐をともに行った僕固懐恩が宦官との対立から叛乱を起こし、太原に進攻したのを撃退した。

765年、吐蕃・ウイグルの叛乱を平定し、徳宗より尚父の号を賜り、大尉・中書令に昇進した。

寛厚な人柄で皇帝から庶民にいたるまですべての人々に敬愛されたという。また、外征からの帰還の際には皇帝が自ら出迎えるなど、特別な待遇を受けていたことが史料からわかる。
郭令公と呼ばれ、ウイグル人などの異民族からも畏敬の念を持って遇せられた。

今の中国政府の弾圧政策とは違うようですね。



李白は安史の乱では粛宗の弟の永王李璘に従ったが、永王が叛いたためにその臣下であった李白もまた囚われの身となり、罪に服すこととなったが、郭子儀は李白の無罪を説いて李白の助命を請うた。そのため、死罪から流罪に軽減された。郭子儀は若年のころに、李白に命を救われたことがあったという。



子宝に恵まれたようです。

8人の子息と7人の婿は、全員朝廷において貴顕(身分が高く、名声のあること。また、そういう人や、そのさま)となった。

内孫外孫は合わせて数十人にも達し、全員の顔と名前とを憶え切れず、挨拶にきたときには、ただ『よしよし』と頷くだけだった。、九十の齢を全うして、「富み栄え長寿を全うするについても、運不運の巡り合せについても、およそ人として生くる限りにおいて、何の欠けるところがあったろうか」と評されている。

松の描き方などは狩野派独特のものがあります。



ただこの独特さが様式化したのが、狩野派の致命傷となっていきます。茶道もしかりですが、流派偏重の何事も決まりごとだらけで、創造性を失うと堕落していきます。



偕楽園焼 紫交趾(写)二彩寿字文大花入 

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昨日は続く会食と日本酒でバタンキュ〜

本日は偕楽園焼の作品ですが、本歌か写しかは当方では判断できかねています

偕楽園焼は大きく楽焼系統と磁器系統の二種類に大別されるようです。

偕楽園焼については、当方ではあまり詳しくありませんが、20年以上前に盛岡の骨董店で下記の作品を購入し、所蔵していましたが知人に贈呈し、今は手元には今回投稿する作品のみとなります。

「眠り猫香炉」の作品は楽焼系統の作品となり、銘となる印章が押印されていますが、楽焼系統の作品群には幾つかの印の種類があるようです。

眠り猫香炉 偕楽園焼
合箱
幅120*奥行き80*高さ60



本日の作品は花入れになります。磁器系統の銘となる印章は一種類のようです。写しが多く存在し、写しか本歌か焦点となります。この判断が当方ではその判断ができかねています。

偕楽園焼 紫交趾(写)二彩寿字文大花入 
合箱
口径130*胴径160*高台径100*高さ305



典型的な偕楽園焼の二彩寿字文花生です。釉薬はやや薄いですが、内面全体にも紫釉が施されています。



底面高台内に陰印刻銘で「偕楽園製」(楷書体)とあります。この種の交趾写の作品は、西浜御殿内の窯で製作されたものか、このような銘のある破片が発見された南紀男山窯もしくは南紀高松窯で製作されたものかは、判別することができないとのことです。




磁器系の偕楽園焼に押されているのは、この「偕楽園製」(陽文無郭方印)のハンコのみで、制作時期による区別などはないようです。




偕楽園焼:紀州藩御庭焼。紀州藩主十代徳川治宝の西浜御殿の偕楽園における御庭焼。制作期間 文政十年(1827)〜嘉永五年(1852)。京より 楽九代了入・十代旦入 永楽保全 仁阿弥道八 二代弥助(久楽)らが来て制作している。

作品は 楽焼、釉の色が黄・紫・緑等の交趾・青磁等がある。紀伊藩10代藩主である徳川治宝は、文政2年(1819)、和歌山城下の南西(現在の県立和歌山工業高校付近)に別邸・西浜御を築き、以後、その御殿の庭園・偕楽園で偕楽園焼という御庭焼をおこないました。

この偕楽園焼の制作や指導には、京都から表千家9代の了々斎(1775-1825)や、表千家10代の吸江斎(1818-60)をはじめ、楽旦入(1795-1854)、永楽保全(1795-1854)などの著名な陶工が招かれています。文政2年、文政10年(1827)、天保7年(1836)の少なくとも3回焼かれたことがわかっており、作品も楽焼系と磁器系の二つの種類があります。

磁器系の作品は、文政10年に招かれた保全が制作を指導した可能性もありますが、そうした磁器系の作品がどのような窯で焼かれたかなどについては、よくわかっていません。




紀州徳川家十代藩主「治宝公」と紀州徳川家御庭焼「偕楽園焼」について
治宝公は紀州徳川家八代藩主「重倫公」の第二子として、明和八年に江戸にて生まれ、十九才にして藩主の位に就かれました。在任中は歴代藩主中の名君と言われ、其の治績顕著なるもの多く、上下の節約を奨励し商工を起こし、特に学問を奨励され、八才以上三十才以下の藩士子弟の就学を義務となし、明教館、医学館、松阪学校を開設し本居宣長を始め多くの学者を招いたり、又、紀伊続風土記、紀伊国名所図絵等々を編纂させるなど紀州文学史上多大な功績を残されました。

治宝公自身としては、表流茶道を究め、十才の幼少で紀州藩に出仕した表千家第十世吸江斎が十九才になったおり、治宝公御自らが真点前の皆伝を伝授しています。そして、書画、音楽等々と多能多芸にして、特に西浜御殿(県立和歌山工業高校周辺と言われている)に窯を築き、京より「楽 吉左衛門」「永楽 善五郎」等々を招き陶器を作らせました。これが、有名な「紀州御庭焼」として今日珍重されています。かくのごとく、紀州芸術の後世に伝うべき特異なものは、治宝公に負うところが多々あります。退位後も良く十一代斉順公を援け、 従一位大納言を拝し、「一位様」と呼ばれ後世までその徳を称えられています。

偕楽園焼は、前記、西浜御殿の庭園偕楽園で焼かれた陶器である。確実なものだけで、文政二年、同十年、天保七年の三回焼かれている。それ以外にも焼かれたようであるが、不明な点が多い。偕楽園には、京都から、楽 旦入、永楽 保全、仁阿弥 道八、二代弥介、らが招かれている。又、主要な資材はやはり京都で調達、搬入されている。この資材搬入には、御用商人 三井高祐が尽力してる。

又、偕楽園焼の特色の一つに、陶工以外の人々の作陶が数多く残されている点である。治宝公と側室八詠の他、西浜御殿御広敷御用人 森玄蕃(陳章、余楽庵)、木村弥兵衛(松窓庵)、西浜御殿御数寄屋坊主(陶器係) 坂本宗辰、吸江斎後見人 住山楊甫、吸江斎、御用商人 三井則兵衛(高祐)らが知られており、藩主、側室、藩士、等々が一体となって、作る楽しみを満喫する作陶 喫茶文化が忍ばれる。

作品には、楽焼き系統の作品、陶磁質の素材に交趾釉を掛けた作品が多く知られている。しかし、後者については、西浜御殿において焼かれたとするには窯の規模など多くの疑問点が残る。さらにこれらの陶片が南紀男山窯、南紀高松焼の窯跡から検出されていることがそれを物語っている。





紀男山焼について
南紀男山焼は、文政十年(1827)頃から、明治11年(1878)にかけて、和歌山県有田郡広川町男山において焼かれたもので、紀州で最大の規模を持っていた。当初、男山焼は紀州徳川家十代藩主治宝公の、殖産興業政策の一つとして生まれ、藩の御用窯であったが、安政3年(1856)頃から明治維新にかけての時期に、藩の手を離れ、開窯者 崎山 利兵衛 の個人経営となり、途中一時開物局時代に藩との共同経営となったが、明治8年(1875)、利兵衛の没後、男山 嘉兵衛、土屋 政吉、など五人の共同経営となったが、製品の売れ行きが悪く、廃窯となった。



男山焼は、あらゆる物が焼かれたと言っても過言ではなく、交趾写、青磁写、色絵写、等々が制作されたが、染付けの物が最も多く、一般大衆向けの製品を数多く作り、伊万里焼きに習って、紀州簑島の陶器商人の手により、藩、県の内外に販売された。又、製品には、在銘のものと、無銘のものが有り、割合から言えば、無銘の物が圧倒的に多く、在銘品は最初から念を入れて作られたようで、技術的にも非常に優秀であり、嗜好的な製品が多いようである。銘の種類としては、「南紀男山」の染付け銘が大半を占めるが、作者の名前が入った物もある。

その他、窯跡からは、「偕楽園製」「三楽園製」「南紀高松」の銘の入った物も出土している。一方、無銘品は、技術的にも在銘品に比べ低級な物が多く、これらは伊万里焼に混ぜて売りさばいた例が多くあげられている。そして、在銘品は藩の御用品であったとも言われている。しかし、長い間焼かれたわりには、土取場、原材料の供給源、職人の問題等々、不明な点が多い

緻密に出来ているように見えますが、釉薬の垂れ、溜りがあり、かえって見所となっています。
 

下の部分も見所があります・



中は綺麗なまでの紫釉薬・・・。










忘れ去られた画家 能楽翁 阪田耕雪筆 その2 

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昨日は取引先のオーナーの写真展へ・・、デジタルになるといろんなことができるようです。そういう点では絵画や陶芸はまだまだです。

本日の作品は阪田耕雪の作品です。知っている人はこれもまたかなり少ないと思われる画家です。

阪田耕雪の「耕」の名は尾形月耕にちなんでいます。能画の研究に専念するようになった画家という点で著名なようです。

以前には下記の作品を投稿したことがあります。

和歌三神図 阪田耕雪筆 
絹本水墨着色 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦2030*横660 画サイズ:縦1280*横510

本日は能画の作品です。

能楽翁 阪田耕雪筆 
絹本水墨着色 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1950*横380 画サイズ:縦1080*横270




箱書に「昭和八歳初冬」とあることから、亡くなる2年前の作品。

  

翁(おきな)は、能楽の演目のひとつ。別格に扱われる祝言曲です。



最初に翁を演じる正式な番組立てを翁付といい、正月初会や祝賀能などに演じられます。



翁・千歳・三番叟の3人の歌舞からなり、翁役は白色尉、三番叟役は黒色尉という面をつけます。



原則として、翁に続いて同じシテ・地謡・囃子方で脇能を演じる。作品には「亀秀」の朱文白丸長印が押印されています。




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阪田耕雪:明治4年(1871年)〜 昭和10年(1935年))。明治時代の浮世絵師。挿絵画家。尾形月耕の門人。耕雪と号す。

通称は万助。明治4年に金沢に生まれる。弥右衛門町時代(明治15年 〜明治20年)の月耕に師事して浮世絵を学んだ後、大阪に移り住み、大阪毎日新聞社において新聞の挿絵を描いて好評を得た。

明治34年(1901年)に春陽堂から版行された菊池幽芳の小説『己が罪』中編の木版挿絵を担当したことが知られている他、同じく幽芳の小説『乳姉妹』の挿絵も描いている。その後、本格的に日本画家として立ち、南画山水、人物図などを描いている。

大正3年(1914年)に開催された第8回文展に出品した「露」が入選を果たしており、これが唯一の官展出品作であった。また、巽画会の会員になっている。大阪毎日新聞社の退社後には、能画の研究に専念するようになった。大阪城天守閣内の郷土歴史画のうち、豊太閤肖像は天覧の光栄に浴した。昭和10年没、享年65歳。  

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世の中がデジタルのなるとよけいにアナログのありがたみがわかることもありますね。

骨董の世界はまさしくいつまでたってもアナログかな。

忘れ去られた画家 鯉之図 天野方壷筆 その2

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郷里の自宅の補修工事、亡くなった家内の実家の改修工事が終了しましたが、今年は帰省できず、出来具合が確認できそうにありません。今年の6月の墓以来、小生の入院もあり、帰省していませんが、郷里の義母や隣人、友人に会えないのが残念です。そういえば半年以上帰省しなかったことはなかったようなきがします。

さて、入院している家内の時間つぶしにと思い、幾つかの娯楽小説めいたものをいくつか購入したが、その中に「清洲会議」(三谷幸喜著 幻冬舎文庫)があったが、実に読むに耐えない品のない文章です。世にもてはやされるものには裏腹があるとよく言いますが、猪瀬知事の金銭がらみといい、世の寵児になると品格という鎧を脱ぎ捨ててしまうことがよくあるようです。

さて本日は淡水魚・・・、昔の釣堀を思い出します。釣堀はよく行きました。桂城公園の下にあった釣堀・・

天野方壷の鯉などの淡水魚を描いた愉しい作品です。

最近、一作品を投稿していますので、本作品が二作品目の投稿です。

鯉之図 天野方壷筆
絹本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345



賛には「辛巳((かみのと)秋分」とあり、明治14年(1881年)57歳の作と推察される。

漢詩は「陽鱗九々陰六々□稟魚形有 龍骨禹門寧肯點額帰 鯨海終項揚鬛出□哉貌此 化□姿丁紋錦信光陸離淵 潜一躍勢直上波清起立雲下垂太平時無□尾 悠々洋々□所止 明人丘瘧句」と解読に苦慮中です。



跳ね上がる鯉を独特な墨使いで表現しています。



墨にてみずみずしさをを表現するのはかなりの画力がいるものを推察します。



鯉のほかに小魚がいたり、



蝦がいたりで楽しい作品です。





天野方壷:天野方壷の名はそれほど知られていませんが、出身地の愛媛県では続木君樵と並んで伊予画壇の双壁といわれていました。天野方壷の経歴については、その実家に伝わる明治17年に書かれた自筆の履歴書により知ることができます。

*未だ印章や遊印の解読も不能な状況です。




文政7年(1824)8月16日、伊予松山藩の三津浜(松山市三津)に生まれた方壷は、13歳で京都に出て、文人画家の中林竹洞や、書家としても有名な儒者の貫名海屋に学んだのち、関西から山陽山陰を経て九州四国まで数年にわたり西日本各地を歴遊し、勝景、奇景を写生したり古画書を模写したりして修行を続けました. 21歳のとき一旦は京都に戻り、日根対山に師事しましたが間もなく京都を発って関東へ旅行、江戸に至り、渡辺華山高弟の椿椿山に学んだあと、蝦夷地にまで行って海岸の勝景を写生しております。





さらに、長崎で木下逸雲に学び、明治維新後、明治3年47歳の時には中国上海に渡航し、胡公寿にも師事しました。各地の有福な書画の愛好の庇護をうけつつ、休みなく全国を旅し画道修行を続けた彼は、明治8年52歳になってようやく京都に居を構え定住しました。画号としては方壷のほか、盈甫、三津漁者,銭幹、真々,石樵、銭岳、雲眠、白雲外史など多数あり、時々に自分の心境に合った号を付け、楽しんでいたものと思われます。





この間35歳の時、那須山の温泉で洪水に見舞われ、溺死しかかったが九死に一生を得ております。しかし、この時携えていた粉本、真景などをことごとく失いました。また、49歳の時東京に寓居中火災に会い、粉本をことごとく焼失しました。ほとんど日本全国に足跡を残してますが、京都に定住したのちは、四季の草花を栽培しこれを売って生計を営み、売花翁と号していたほか、京都府画学校(現在 京都市立芸術大学)に出仕を命じられたり、内国絵画共進会に出品したりしながらもやはり歴遊を続け、明治28年旅先の岐阜で逝去しました。享年72歳でした。墓は京都市上賀茂の霊源寺にあります。




方壷と交際のあった文人画の巨匠、富岡鉄斎は、私的な筆録(メモ帳)の中で方壷のことを[画匠]と記していて、かなり高く評価していたことが窺えます。鉄斎といえば[萬巻の書を読み万里の路を行く]を座右の銘として、全国を旅行しましたが、この[万里を行く]ことに関しては方壷は鉄斎を凌駕しているかもしれません。



愛媛県美術館には彼の作品が42点所蔵されております。平成16年は方壷生誕180年に当たり。これに因んで当美術館分館の萬翠荘において7月17日から8月29日の間展覧会が開催され作品20点が展示されました。また、平成15年の10月3日から12月25日まで福島県の桑折町種徳美術館において天野方壷展が開催され、作品13点が公開されました。

天野方壷・・・、再認識する佳作といえるのではないでしょうかと思うのは私だけでしょうか?

ただ、またしても痛みがあります。改装すべきかどうか悩むところですね。箱もありませんでした。

子共の頃通った釣堀は都会の釣堀とは違って子共の遊び場でした。無論、川や沼にも、市内の公園のお堀でも、はては大きな本家の池でも釣りはしましたが、釣堀にもなぜか数多く通った思い出があります。むろん、子共らだけで・・・。いろんな小学校の低学年が来ていたので、ある種の子共の社交場であったように思います。あまりに遊びすぎる子共だったので、強制的に勉強するように家庭教師をつけられる羽目になりました



改装完了 浅絳山水画双幅 釧雲泉筆

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週末は家内の見舞いと家の整理と骨董の整理で忙殺されました。もっと時間が欲しい・・・。

さて釧雲泉の表具が改装となりました。以前に投稿した時にはシミが酷い状態でした。

改装前は下記のリンク先を参考にしてください。

浅絳山水画双幅 その1 右幅「夏雲」 釧雲泉筆水墨淡彩絹本軸装 軸先陶器 鑑定箱入
全体サイズ:縦2045*横638 画サイズ:縦1365*横505



両幅とも表具を改装しました。すっきりとした良い作品かと思います。




とくに左幅のシミが酷いものでしたが、片側だけの改装ではバランスがとれないので、双幅ともに改装となります。

浅絳山水画双幅 その2 左幅「冬泉」 釧雲泉筆
水墨淡彩絹本軸装 軸先陶器 鑑定箱入
全体サイズ:縦2045*横638 画サイズ:縦1365*横505



シミもきにならにない状態になりました。




なんとも費用のかかることとなりました。

浅絳山水画双幅 釧雲泉筆
水墨淡彩絹本軸装 軸先陶器 鑑定箱入
全体サイズ:縦2045*横638 画サイズ:縦1365*横505

表具の布も新しいものとしました。



軸先は陶磁器製のものをそのまま転用しました。



シミは完全とはいえませんが、鑑賞には支障のないようにきれいになりました。



本作品と同じような双幅がオークションに出品されていました。




落款、印章、出来ともに違和感を感じるのですが・・・。




中野山浅絳山水図 蓑虫山人筆 その4

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ありそうでないのが蓑虫山人の作品です。

ありそうでないもの・・時間、お金、愛、希望、・・・・けっこうあるもんだ。

蓑虫山人の作品の投稿は。「鯉」の特集の中に一作品だけ投稿しいるようですが、ほとんど初めての投稿ですが、他に三作品(非公開)所有していますので「その4」と題しました

我が郷土秋田県には縁の深い画家です。とくに秋田県の北部の大館市周辺にある比内鶏で有名な比内を何度も訪れているようです。今回は大館と弘前に間に位置する黒石周辺を描いた作品を投稿します。

中野山浅絳山水図 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装軸木製 合箱 
全体サイズ:横635*縦1930 画サイズ:横510*縦1320



投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという逸話が伝わる蓑虫山人ですが、知っている人は少ないとは思われます。ただ意外と人気は高く、状態や出来の良い作品は市場に出ることは稀で蒐集は難しい画家のひとりです。引き続き郷土に縁のある画家として蒐集を続けていきたいと思っています。

蓑虫山人の「富士図」などは秀作のひとつでしょう。




黒森山という書き込みのある作品と同時期に共にオークションに出品されていることから、その作品は青森県黒石の周辺のある黒森山と、本作品は近くにある中野(もみじ)山を描いたのではないかと思われます。現在、紅葉の名所で、中野山は数百本の紅葉があり、10月下旬から11月にかけて滝と渓流に映えてあざやかな景色となります。その景色に魅入られ描いた作ではないかと思われます。



真景ではないと思われますが、同じような構図に作品がオークションに出品されています。



「中野山瀧之図」と記された作品ですが、本作品のほうが数段出来が良いようです。

下の左が本作品の落款と印章で右が「中野山瀧之図」と記された作品の落款と印章です。

 


   
 
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蓑虫山人とは・・・・本作品の写真を添付しながら・・・・

放浪の画人として知られる蓑虫山人は、天保7年美濃国安八郡結村に生まれました。本名は土岐源吾、ほかに「蓑虫仙人」「三府七十六県庵主」「六十六庵主」とも称しました。



土岐氏は室町時代に足利氏の重臣として仕え、文武に優れた名門です。その血をひき、その才能をいかんなく発揮して、多くの功績を残しました。嘉永2年、当時14歳のときに郷里を出て以来、48年間にわたって諸国を放浪し、その足跡は全国各地に残されています。



生活用具一式を背負い自在の寝幌に一夜を過ごす山人の旅は、九州地方を手はじめに、中国・近畿・東海・関東を経て、明治10年北奥羽地方へ及びました。山人にとって、北奥羽の風土は居心地の良いものであったらしく、放浪の旅を終える明治29年(1896)まで毎年のように来遊し、佐藤蔀・広沢安任ほか多くの地元人々と交流を結びました。




蓑虫山人は北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しました。北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として評価されています。

また考古学に対してはとくに深い関心を抱き、多くの遺物を収集しつつ、明治20年には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけ、調査の模様を記す書簡は同遺跡の名を全国に広げる役割を果たしました。明治33年没、享年65歳。




生まれ持ったその才能をいかんなく発揮して、多くの功績を残しました。なかでも、幕末から明治にかけて14歳から全国を歩いて旅したことは驚異的です。あの松尾芭蕉も東日本を巡りましたが、蓑虫山人はさらに広く九州まで漫遊し、多くの作品を残しました。

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蓑虫山人とわが郷里(北奥羽:秋田県大館市比内)

蓑虫(みのむし)山人の肖像の「原画」とみられる写真が秋田県比内町の麓家から見つかっています。縦10・7センチ、横6・4センチで、厚さ1ミリの厚紙に張り付けられ、裏には筆で「土岐源吾事 蓑虫仙人 明治廿八年四月」と書かれています。





特製の笈(おい)を愛用し住家を背負って歩く「みのむし」に自らを例えて「蓑虫」と名乗り全国を遍歴しています。「蓑」は出身地である「美濃」にひっかけていうという説もあります。明治11年(1878年)(41歳)から明治29年(1896年)ころまで秋田、青森、岩手を回り、旅日記や風俗画を残しています。これは当時を知る貴重な史料でもあります。また考古学、造園(岩手の水沢公園作る)にも造詣が深かった人物です。

水沢には私も3年近く赴任していたので、水沢公園は当時、犬の散歩に通ったなど、懐かしい思い出の公園です。

この麓家には3回寄留しており、この写真は明治28年(1895年)の裏書があるから3回目の寄留(山人60歳)の時のものと思われます。江戸の紀行家、菅江真澄も三河国(愛知県豊橋市付近)出身、東北の地をこよなく愛し、この地を回った点では似ています。明治の写真家といえば上野彦馬(1838〜1904)、田元研造(1832〜1907)などが有名ですが、どちらも蓑虫山人と同時代で、この写真を誰が撮ったのか興味あるところですね。

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東北に関する年代表

1856年21歳 蓑虫というペンネームを使い始める
1856年23歳 投身自殺を企てた西郷隆盛を助けたという

1877年42歳 東北地方へ旅する
1878年43歳 秋田・岩手・青森に旅する

1879年44歳 青森の旅
1881年46歳 小池村千田平三郎宅に宿す

1886年51歳 日本考古学の先駆者神田孝平氏と接する
1887年52歳 青森・福島・山形・秋田を旅する、小池村千田平三郎宅に宿す

1896年まで毎年のように東北を旅している
1896年61歳 比内町の麓家の宿泊を最後にで東北の旅の終止符をうつ。

1900年65歳 名古屋市東区矢田町長母寺にて永眠す

蓑虫山人が秋田を旅した時は同じ家に滞在している。
扇田の麓家、能代の坂本家、小池村の千田家、大久保の高橋家。

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1878年から1896年まで東北を旅していますが、1879年(明治12年)あたりかとは思うのでですが、本作品がいつの時期の作品化は不明です。

知人がいくつかいい作品を所蔵していましたが、亡くなったあとに子息が売却処分されました。故人にゆかりの作品ですが、興味や見る眼のない子息にとってはお金が優先のようでした。誠に残念な郷土の宝がまた散らばってしまいました。

達磨図



芭蕉に蛙図



この「「芭蕉に蛙図」は気に入っていました。



蓑虫山人・・ほんの一部にファンが多い画家ですが、もっと評価されて良い画家の一人でしょう。

最近時間が経つのが非常に早く感じます。ありそうでないものをうまく利用しないと、時間の奴隷になりそうです。ありそうでないものは固執するとそういう危険性を持っているものらしい。





月下牛洗之図 松村景文筆 その3

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琳派、円山派、四条派といった京都画壇の底流を成すものを語るうえで松村景文は外せない画家のひとりと言えます。

松村景文は弟子が窮乏により、贋作を製作することを黙認し、印章まで与えた記録があります。それゆえ亡くなった後も贋作が絶えなかったようです。高弟の前川文嶺も墓参りに際して、贋作を製作していたことを謝罪した記録が残っています。それゆえ弟子達が師の贋作を互いに作らないことを確認し合った誓約書が残されることになったのでしょう。

市場には弟子によるとは思えない稚拙な贋作まで数多く存在していますが、出来のいい作品は一応は真作として認められているようです。ただ、価値としてはあまり高額にならないのは止む得ません。

貧乏に喘ぐ弟子への思いやりからの黙認・・、賛否両論があり、基本的には許されないことでしょうが、なにやらそんな画家がいてもよいではないかと思うことがあります。


月下牛洗之図 松村景文筆
絹本水墨軸装 軸先骨 合箱入 
全体サイズ:横520*縦1840 画サイズ:横360*縦1010





松村景文は日本画の一派「四条派」の祖である松村呉春と兄弟にして弟子といえます。早くから呉春について学んでいます。呉春(松村呉春は歳の離れた異母兄弟です)の画風を受けつぎながらそれを一層洗練させ、デッサン力をしっかりと堅持しつつ、筆致は軽く、余白を増やし、柔和で淡白な作風が特徴とします。



より装飾的、耽美的になった景文の作品は、大衆層に床うつりが良い無難な掛物として非常な人気を得ることになりました。



ただ景文の死後あまりに多くの贋作が世に出回ったため、これを憂いた有力な門人たちが互いに師の偽筆を作らないことを確認し合った誓約書が残されている程です。

また、呉春が日本的山水画に長じたのに対して、景文は日本的花鳥画の写生を得意にし、同門の岡本豊彦と対比されて「花鳥は景文、山水は豊彦」と呼ばれるようにまでなりました。



四条派が日本画壇の中で大きな位置を占めるようになったのも、同門の岡本豊彦とともに景文の力が大きかったと思われ、四条派は呉春を経て景文によって様式が確立したといわれています。



反面、大画面は不向きな絵師で、景文は呉春の一部分しか受け継ぐことが出来なかったとも評されています。



天保14年4月26日(1845年5月25日)に歿し、京都北山金福寺に呉春のそばに葬られています。

松村景文は他にもいくつか本ブログに投稿されています。

宝巳之図 松村景文筆
絹本金泥淡彩絹装軸二重箱 
画サイズ:横292*縦242

本作品は月の下のおぼろげなる景色を滲んだ墨であらわし、「デッサン力をしっかりと堅持しつつ、筆致は軽く、余白を増やし、柔和で淡白な作風が特徴とします。」という評、そのものですね。

鶏之図 吉村周山筆 

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どうも最近は日本酒を飲む機会が多いが、飲む相手が日本酒党のせいのようだ。しかもいつもそこに同じメンバーがいるための、そして同じ銘柄・・。痛飲で昨夜もバタンQ。

本日の画家の作者は実は根付師として、かなりの高い評価を受けている画家です。

鶏之図 吉村周山筆 
紙本水墨 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦2010*横650 画サイズ:縦1350*横510



落款には「法眼周山行年七十二歳筆 押印」とあり、亡くなる前年?の最晩年の作であることが解ります。「探興斎」の朱文白丸印が押印されています。



狩野派の画法どおりに描かれた作品が下記の双鶴之図です。



67歳の作品ですが、72歳の本作品と同一印章というにはちょっと違うように見えますが・・。

両方真作に相違ないが、なんらなかの理由でちょっと印章が違う、というか違うとまではいえない・・、この辺が印章のあてにならないところ・・と思っていたら、実はちょっと回転させてみるとほぼ一致するようです。

 

吉村周山:生年: 生年不詳〜没年:安永2年(1773)歿、73才。 江戸中期の画家、根付師。大坂の人。名を充興,通称を周次郎といい、別号に探仙叟・探興斎、法眼を称した。性川充信に絵を学び、中国の神話や神仙伝に取材した作品を多く遺した。江戸時代中期に大坂で活躍した画家。橘守国、大岡春卜に次いで大坂で活躍した狩野派系画家として知られています。

ただし、本作品は狩野派どおりの画法とはいえない奔放な描き方といっていいでしょう。




多くの門弟を養成し、江戸中・後期の大坂における狩野派系画家の隆盛の基礎を築いた。門弟の中では、森周峰(森狙仙の兄で、森徹山の実父)が知られる。一方、懐徳堂の三宅春楼、中井竹山らとの交流もあったようで、周山の作品にこれらの儒者が着賛した作品も、しばしば見受けらます。

彫刻を得意とし、特に根付師として著名であった。三宅春楼・中井竹山・履軒らと交わる。彼の根付は檜の古材に彫刻をほどこし,さらに彩色を加えたもので,数多い根付師のなかでも独特の作風を築いています。自らの作品に銘を刻むことがなかったため,周山作と確認できるものは少ないです。

吉村周山は画家よりも根付師としてのほうが評価が高いのです。狩野派の形式に縛られた絵がほとんどである吉村周山の作品にあって、本作品は根付のような自由奔放さがある絵として珍しいかもしれません。



絵師でありながら根付彫りをし、檜に漆で磨きをかけ色とりどりに染色された仙人列伝や山海経をモチーフにした斬新で大振りな根付は迫力あるものです。海外における蒐集家及び研究家らから最も重要かつ古典的根付師として評価されている。吉村周山なくしては、根付を語る無かれとも言われています。

羽の描ききかたなどは四条派のよう・・。



雛の描き方なども極力簡略化されています。



吉村周山は吉村派の創始者とされ、吉村家三代(周山・周圭・周南)が続くこととなります。

吉村周山は狩野派の画家で弟子もかかえ法眼を叙せられた一流の絵師の立場であり、狩野派の絵師として一派の狭苦しい格式重視の伝統に縛られており、主題、扱い、あるいは様式が限定されていたが、周山は、根付彫刻として、様式にとらわれない作風を示した言われています。



席画のような簡略された画ですが、根付の下絵としてみると親鶏の目つきの鋭さなど根付と共通する部分があることに納得できますね。


忘れ去られた画家 嫦娥図 西田春耕筆 

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日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていている神話を画題とした作品です。夜噺骨董談義にはもってこいの画題です。


嫦娥図 西田春耕筆 
絹本着色 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2045*横637 画サイズ:縦1327*横493





題材は本ブログで何度か投稿したことのある嫦娥(恒娥または常娥とも書く)です。

嫦娥(じょうが、こうが)は、中国神話に登場する人物で、月の神とされ、后羿(ゲイ)の妻。姮娥とも表記します。

『淮南子』覧冥訓によれば、もとは仙女だったが地上に下りた際に不死でなくなったため、夫の后羿が西王母からもらい受けた不死の薬を盗んで飲み、月に逃げ、蝦蟇になったと伝えられています。月宮(広寒宮)で寂しく暮らすことになったという中秋節の故事です。月の表面に見える蝦蟇のような斑点は嫦娥の姿で、嫦娥は月の女神とも言われ、兎とともに描かれることが多いようです。



賛の読みは解読できていません。

「何□?耒換骨丹 金□九轉□□雖  □□□□三更月
玉露無聲下廣□ □□□写為
龍田雅君清□ 春耕峻 押印」

→追記:入院中の家内からメールにてご指示がありました。
 2文字目 :「何□」は「何+雨冠に処で」で「いづくんぞ」
 廣に次の字:「寒」
 携帯では小さな画面で見えにくいらしい・・・。



押印は「田峻之印」の白文朱方印と「杜子禅」の朱文白方印
右下遊印は「春耕居士」の朱文白方印



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「嫦娥」中国神話の補足説明

帝俊(嚳ないし舜と同じとされる)には羲和という妻がおり、その間に太陽となる10人の息子(火烏)を儲けた。この10の太陽は交代で1日に1人ずつ地上を照らす役目を負っていた。ところが堯の時代になり、10の太陽がいっぺんに現れるようになった。これにより地上は灼熱地獄となり、作物も全て枯れてしまった。

これに対して、堯がこの対策を依頼したのが羿(ゲイ)である。嫦娥の夫の後羿は勇敢で戦に長けている戦いの神であり、狙ったものには必ず的中するほどの弓の腕をもつ。当時、人間世界には多くの猛禽や猛獣が現れ、人々に災いをもたらしていた。これを知った天帝は、これらの害を取り除くよう後羿に命じられたりしていました。

太陽に対する対策を命令された羿は、初めは威嚇によって太陽たちを元のように交代で出てくるようにしようとしたが、効果がなかった。そこで仕方なく、1つを残して9つの太陽を射落とした。これにより地上は再び元の平穏を取り戻した。その後も羿は中国各地で数多くの魔物を退治し、人々にその偉業を称えられた。

ところが、子を殺された上帝は羿を疎ましく思うようになり、羿は神籍から外され、不老不死ではなくなってしまった。このときに羿の妻の嫦娥(こうが)も同じく神籍から外され、不老不死を失った。嫦娥から文句を言われた羿は、崑崙山の西に住む西王母の元へ赴き、不老不死の薬をもらった。



この薬は2人で分けて飲めば不老不死になるだけであるが、一人で全部飲んでしまえば昇天し再び神になることができるものであった。羿は神に戻れなくても妻と2人で不老不死であればよいと思っていたのだが、嫦娥は薬を独り占めにしてしまい、羿を置いて逃げてしまった。嫦娥は天に行くことを躊躇して月へ行ったが、羿を裏切った罪のせいかヒキガエルへと変身してしまい、そのまま月で過ごすことになった。



嫦娥・・・やはり美人というものは独善的なようです。



その後、羿は狩りなどをして過ごしていたが、家僕の逢蒙(ほうもう)という者に自らの弓の技を教えた。逢蒙は羿の弓の技を全て吸収した後、「羿を殺してしまえば私が天下一の名人だ」と思うようになり、羿を射殺した。このことから、身内に裏切られることを「羿を殺すものは逢蒙」と言うようになった。



なお、羿があまりに哀れだと思ったのか、「満月の晩に月に団子を捧げて嫦娥の名を三度呼んだ。そうすると嫦娥が戻ってきて再び夫婦として暮らすようになった。」という話が付け加えられることもある。別の話では、后羿が離れ離れになった嫦娥をより近くで見るために月に向かって供え物をしたのが、月見の由来だとも伝えられています。





なるほど、これが月の由来ですか

月にまつわる伝説は中国にもいろいろありますが、日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていて、中国人なら誰でも知っている「嫦娥(じょうが)月に奔(はし)る。」という神話です。


日本の「かぐや姫」伝説にも似た話、その原形では?といわれていているとはこれもまた


なお、中華人民共和国初の月周回衛星は「嫦娥第1号」と命名されました。

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作者である西田春耕をご存知の方はかなり少ないと思います。私も本作品を調べるまでは知りませんでした。無銘に近い画家とはいえ、なかなか画力のある作品を描きます。



西田春耕:弘化2年〜明治43年9月10日(1845-1910)。日本画家。名、峻。字、子徳。通称、俊蔵。東京入船出身。号、西圃のち春耕・腐翁。父、幕閣久須美佐渡守祐雋の家臣西田良右衛門高厚(末っ子)。

魚住荊石・高久隆古・山本琴谷に師事。福田半香の塾幹部となる。半香没後、北越(柏崎)に赴き藍沢南城(あいざわなんじょう:1792-1860)に漢学を学び、2年後江戸に帰り独立。南宋画を得意とし、また俳句を好んだ。作品:「五百大阿羅漢図」、「人生快楽十二図」、「耶蘇昇天図」、「電気神女図」。俳句集「句集『空尊集」。66歳。

水墨山水観瀑図 小田海僊筆 その4 

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本作品のポイントはその大幅であることや、作品のみずみずしさといういいところもありますが、箱書きです。

箱書きには小田海僊と頼家との関わりが伺いしれます。なんといっても小田海僊は箱書をされている頼三樹三郎の父である頼山陽に感化され南画に転じているという関わりがあります。


小田海僊の作品の四作品目となります。

水墨山水観瀑図 小田海僊筆 
紙本水墨 軸先木製 頼鴨崖(頼三樹三郎)鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横1013 画サイズ:縦1690*横858





賛には「天保癸巳(1833年 天保3年)春日写於圓山寓居 海僊 押印(「王羸」と「巨海」の白文朱方印の累印)」とあり、小田海僊が48歳の作と推察されます。





題名は「小田海僊筆水墨山水観瀑図」とあり、箱の裏には「□仙□伯元学点春?而□□□地而画筆勢偉大□□□妙□為一家□□□□□海内對□珍品也 鴨?□人題 押印」、また別人書と思われる「大正癸丑(1913年 大正2年)冬日□□□□□□□□」とあります。





前者が頼三樹三郎の箱書とすると小田海僊が存命中の箱書きとなります。なぜなら頼三樹三郎のほうが小田海僊より先に亡くなっているからです。

小田海僊は1833年頃には京都に在住し頼 三樹三郎は1849年には京都に戻っているので1850年頃の箱書きかもしれません。




箱書にあるように小田海僊は頼山陽に感化され南画に転向し、九州に遊学し中国元明時代の古書画の模写をするなどして研究を重ねています。

富岡鉄斎に画を教えいたことを示すように、水墨のみずみずしさは両者に共通した秀逸の技です。



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小田海僊:天明5年(1785年)〜文久2年閏8月24日(1862年10月17日))は、江戸時代後期の日本の南画家。 通称良平、名は羸(るい)または瀛(えい)。 字を巨海、号は海僊の他に百谷または百穀。

周防国富海(現 山口県防府市富海)に生まれ、長門国赤間関(現 山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となる。 22歳のとき、京都四条派の松村呉春に入門し、写生的な画風を修得し同門の松村景文や岡本豊彦らと名声を競った。のち頼山陽の助言で,中国元明の古蹟や粉本を学び南宗画法に転じた。その勉励の貌は小石元瑞から画痩といわれるほどであったという。

頼山陽と共に九州に遊ぶこと5年,帰京ののち画名を高め,中林竹洞、浦上春琴らと並び称せられた。文政7年(1824年)、萩藩の御用絵師となり、一時江戸に滞在。1826年、京都に戻り活動。嘉永元年(1848年)から安政元年(1854年)にかけて画室を設けているが、このころ富岡鉄斎に絵を教えたと推定されている。




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頼 三樹三郎(らい みきさぶろう):1825年7月11日(文政8年5月26日)- 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、江戸時代末期(幕末)の儒学者。名は醇。通称は三木八。号は鴨崖。頼山陽の三男。1825年、儒学者の頼山陽の三男として京都三本木に誕生。母は近江商人・疋田藤右衛門の四女・梨影(りえ)。

父・山陽をはじめ、1840年からは大坂の儒学者・後藤松陰や篠崎小竹らに学んだ。1843年からは江戸で儒学を学んだが、徳川将軍家の菩提寺である寛永寺の石灯籠を破壊する事件を起こして退学処分とされた。この時には尊皇運動に感化されており、江戸幕府の朝廷に対する軽視政策に異議を唱えて行なった行動といわれている。その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。

1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。しばらくは母の注意もあって自重していたが、やがて母が死去すると家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。1853年にアメリカ合衆国のマシュー・ペリーが来航して一気に政情不安や尊皇攘夷運動が高まりの兆しを見せ始め、1858年には将軍後継者争いが勃発すると、尊王攘夷推進と徳川慶喜(一橋慶喜)擁立を求めて朝廷に働きかけたため、大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされた。

同年、幕府による安政の大獄で捕らえられて、江戸の福山藩邸において幽閉される。父・山陽の愛弟子である福山藩主の侍講・石川和助は、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行ったが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原刑場で斬首された。



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忘れ去られた画家 玉堂富貴図 十市石谷筆 その2

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週末は家内が入院している病院に行ったり、クリーニングだ、掃除だ、趣味だ、炊事だ、洗濯だとあたふたと動き回っています。前の家内も入院が長引いた時もあるので一人であれこれするのは慣れており、さらに今のかみさんにまたうまく教育され、家のことは苦にはなりませんが、一番肝要なのはあれこれやろうと焦らないことのようです。

やるなら順序だてて・・、ただし順序どおりうまくいかなくてもイライラしないことですね。人生、考えた通りにはうまくいかないもの・・・。世の男性諸君、家事でも仕事でも同じことのようです。家事のほうがより出来栄えが現実的・・・

さて本日の画家、十市石谷の作品は以前に下記の作品を投稿しています。

青緑山水図 十市石谷筆絹本水墨着色 合箱 識書二通 
全体サイズ:縦1730*横365 画サイズ:縦1020*横485

上記の作品はなかなかよくできた青緑山水画です。本日はまったく趣が異なる作品です。




玉堂富貴図 十市石谷筆 
紙本水墨淡彩 軸先 合箱
全体サイズ:縦2020*横500 画サイズ:縦1270*横370



印章は「石谷」の白文朱方印と「十賚」の朱文白方印が押印されています。



題名の「玉堂富貴」は文人画の画題のひとつで中国伝統の吉祥画題です。牡丹(ぼたん)の花を主として、蘭と海棠(かいどう)とを添えます。「



富貴花」と呼ばれる牡丹、「玉蘭花」と呼ばれる木蓮と「堂」は海棠を組み合わせて描くことで、「玉堂富貴」という伝統的な吉祥画です。本作品はその手前に煎茶道具が描かれています。




十市石谷 (とおち-せきこく) :1793−1853 江戸時代後期の画家。寛政5年生まれ。豊後(ぶんご)(大分県)杵築(きつき)藩士。文人画家の田能村竹田と親交があり,また長崎の鉄翁祖門は「古法をもちてよく新趣をいだす」と石谷の画を評しています。嘉永(かえい)6年死去。61歳。名は賚。字(あざな)は子(士)元。通称は恕輔。別号に霞村。

「出張鑑定に依頼人が持参した掛軸」とインターネットにあり、「なんでも鑑定団」にお出品された作品があるようです。本人評価額は10万円であったが、鑑定額は20万円だった。鑑定士は、「十市石谷の本物で江戸時代末期に描かれた掛軸で、鶴の羽のふんわり感が非常に温かく生命感が出ている良い絵」と評していた・・・とありますが詳細は不明です。



十市王洋(とおち-おうよう):?−1897 江戸後期-明治時代の日本画家。十市石谷(せきこく)の子。豊後(ぶんご)(大分県)杵築(きつき)藩士。父に画の手ほどきをうけ,田能村竹田(たのむら-ちくでん)に私淑(ししゅく)。長崎の鉄翁祖門(てっとう-そもん),国学者の物集高世(もずめ-たかよ)にもまなぶ。和歌もよくした。明治30年1月8日死去。名は安居(やすおき)。通称は錫,左衛士。

本作品の購入金額は千円なり・・・。

月下虎之図 佐伯岸岱筆

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なにが問題点か解っていないと同じ問題が起こる確率は高くなります。蠢いている問題をなおざりにし、それが幾つかの組織で同じ問題の発生が続くと組織は疑心暗鬼になります。早急に手を打つ必要があるのに、問題点がわかっていないため、放置し続けていると負のスパイラルに陥っていきます。つまり、真の問題点を杷博することが大切です。

「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあり、郷里の秋田由来の作品ということで食指を動かしました。むろんこのような書付は眉唾ものと思ったほうがいいでしょう。

月下虎之図 佐伯岸岱筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱 佐竹侯爵家旧蔵
全体サイズ:縦1925*横475 画サイズ:縦1005*横345



落款に「筑前介 岸岱」とあり、嘉永6年(1853年)筑前介に叙していることから、それ以降の年代の作品であることが推察されます。つまり71歳以降の晩年の作品といえます。

落款と印章は下記のとおりです。「岸岱」「君鎮」の白文朱方印が押印されています。

 

元治2年(1865年)に82歳で亡くなっていますので、当時としてはかなりの長寿です。本作品は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品と言えます。猫のような描き方はまだ実際の虎を見ていない、岸派独特の描き方です。



「大正七年六月弐拾日佐竹侯爵家 所蔵残品入札売立会ヨリ買入レル」とあります。佐竹侯爵家は、むろん旧秋田藩主のことです。



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大正6年11月の入札は、佐竹家の財産整理の一環として、同家家令大縄久雄が、佐竹家の同意のもと企画し、益田鈍翁、高橋箒庵を世話人として開催されました。この入札の目玉はいわゆる佐竹本「三十六歌仙絵巻」です。この作品については、最初40万円の止値(最低落札価格)を佐竹家では希望していましたが、世話人等の相談の結果、35万円に引き下げ、それでも単独で落札するものがなく、札元全員の連合で、35.3万円で落札した。

翌年、この作品は、当時船成金として威勢をふるっていた山本唯三郎が買い取りましたが、第一次大戦終了後の不況のため、間もなく山本も手放さざるを得ず、大正8年には、益田鈍翁の主導のもと、絵巻を切断して分譲され、各歌仙軸装とされたことはよく知られています。

雪村「風涛図」は、大阪北浜で相場師として活躍した上野与吉が落札しましたが、上野はこの入札で、名物「山桜大海」茶入もあわせて落札しています。

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本作品は「価格65円50銭」とありますが、上記の入札目録には掲載されておらず、その翌年に再度「所蔵残品入札売立会」が開催されたかは不明です。




大正時代の「価格65円50銭」とはどれほどの価値があったのでしょうか? おおよそ「50万円」ということらしいのですが・・。



岸岱(がんたい):天明2年(1782年)〜元治2年2月19日(1865年3月16日)。江戸時代後期の岸派の絵師。岸駒の長子として岸派を継承し発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。


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岸岱の補足説明

父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという。厳しいね〜

文化5年(1808年)筑前介(岸駒は越前介)に任ぜられ、その翌年父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描いています。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画の制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させています。

嘉永6年(1853年)に叙す。


安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。

岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いています。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って掲載されています。

その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作風を示しています。本作品は虎の作品ですが、基本的には岸駒の画法を受け継いでいることがうかがえます。




金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画しています。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けています。

弟子に、長男の岸慶、次男の岸礼、末子の岸誠、喜田華堂など岸派を大成させました。



岸派(きしは):岸駒を派祖とする江戸時代後期から明治時代の日本画の一派。京都画壇に一大勢力を形成し、岸駒の長子岸岱、河村文鳳、横山華山、白井華陽など多くの画家を輩出しています。望月派の派祖である望月玉蟾は岸駒に学び、四条派と岸派を融合させました。

初代岸駒
本ブログでお馴染みの画家で、各流派を折衷し、表現性の高い写生画で知られています。

二代岸岱
岸駒の実子で岸派の絵画を発展させた。実子に、岸慶、岸礼、岸誠がいます。 表現方法もあきらかに岸駒の影響がわかります。




三代岸連山
岸岱の弟子となり、後に岸駒の養子として京都の伝統画派四条派の画風を加味して癖の強い画風を変容させました。実子に岸九岳がいます。
当方に所蔵作品がありますが、未整理ゆえに未投稿です。

四代岸竹堂
連山の弟子で後に連山の養子(娘婿)となる森寛斎、幸野楳嶺らと並ぶ明治草創期の近代京都画壇に重鎮となり、岸派の伝統である虎や鳥獣だけでなく、洋画の陰影や遠近法を取り入れ写実的な風景画なども描いています。しかし、岸派はこの竹堂をもって実質的な終焉を迎えました。竹堂の作品もどこかにあったはず・・・。


しかし、どうもこの作品、月に虎に瀧・・・そして添え状???揃い過ぎ???? 

岸岱は画力という点で岸駒よりは劣るというのは共通した評価でしょう。

参考作品

思文閣墨蹟資料目録「和の美」第459号作品NO2 9より 

印章は大きさが違う同文の印を使用しています。



贋作をつかませられたら、真の原因はなにかを捕らえなくてはいけません、印章の未確認、対費用との見極め・・?    しかし真の原因のほとんどが得するかもという欲


母子雀之図 伝柴田是真筆

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週末には理髪店へと思い出かけたのですが、朝の10時に出かけながら行きつけのお店が午後まで待たなくてはいけないという・・。

午後からは家内の見舞いに出かける予定なので、すぐに散髪できないかと他の理髪店を覗いてみたがどうも満席らしい。とはいえ安いお店で変に雑に散髪されるの嫌なので、ちょっと高そうな洒落たお店に入ってみました。すぐに散髪してくれましたが高かったですね

でもちょっと病みつきになりそうです。若い女性の店員が多いのもその一因かもしれません。

本日はとて可愛らしい雀の作品です。

母子雀之図 伝柴田是真筆
絹本茶漆絵 額装
画サイズ:縦310*横300



漆絵の柴田是真の作品はなかなか市場には出てきませんが、作品の数が非常に少ないのでしょう。



本作品はとりあえず真贋をべつとしては雀が愛らしく愉しめる作品です。



写真では、また一見すると印刷のようでもありますが肉筆には相違なさそうです。そもそも漆でえを描くのかなり難しそうです。




子の雀は可愛らしく、母雀はたくましく?? 



柴田是真は雀の作品をたくさん遺しています。雀や蛙など小動物の愛らしい作品やユーモアたっぷりな魅力ある作品があります。
 


非常にうまい漆絵を描きますね。本ブログの他の記事にも柴田是真実は投稿していますので、柴田是真の詳細の説明は本日の投稿では省略します。



古染付 芙蓉手花鳥紋大皿

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中国に遺されている作品は皆無ですが、中国で作られたものです。このような染付の皿は骨董市でも少なくなりましたが、中国人はそれほど関心はないようです。このような作品の洒脱さを理解できないようです。

古染付 芙蓉手花鳥紋大皿
合箱
口径284*高台径*高さ52



染付芙蓉手花絵と吉祥尽文と皿中央の花鳥図が古染付独特の綺麗な藍色で薄造りの大皿です。明末清初期頃(1660年〜1680年頃)に大量に製作されたもので、皿縁は虫食い(古染付の作風の小削げ)になっています。




残念ながら欠けの補修跡があります。大量に製作されたものであり、中皿で2万〜から売買されているようです。本作品は大き目の皿の部類に入ります。





本作品の紋様も数多く生産されたものと思われ、下の写真のように同じような図柄を見かけることも多いです。中央部分の鳥の紋様の面白い味に醍醐味があるといってもいいでしょう。

そういう意味では下の作品は大きさ、中央の図柄では本作品には劣るように思います。



周辺部は非常に薄作りで、本作品は型に嵌めて成型されたように思われます。残念ながら割れた補修跡があります。



洗うときれいになります。一般的に骨董店では蔵出しのままの汚れた状態で売りに出します。汚れているほうが時代感があって良いのだそうですが・・。



高台内は車輪高台(鉋で削った跡が残っている高台)、砂付高台ですがが清朝初期の作品ではないかと思われます。



いづれ、普段使いには持ってこいです。今までに同じような染付けがだいぶ揃いました。手元にある幾つかを並べてみました。



中央の図柄がメインです。本作品の中央部分をアップしてみました。



ほかの作品も中央部分の洒脱な描き方に感心します。



こういうのは却って絵がうまい人は描けないかもしれませんね。



絵を器用に旨うまく描く人はこのような洒脱さが解らないようです。



なお大きな皿の明末などにはこれでもかという砂付高台が見受けられます。



一番大きな皿にも補修跡がありますが、金繕いが丁寧に施されています。この作品と同じ図柄の同じ大きさの作品もよく見受けられます。



このような染付け系統が多くなると家内には色絵の皿が欲しいと言われます





赤壁秋夜景図 横井金谷筆 その2

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横井金谷と紀梅亭は蕪村の作風を受け継いだ画家としてよく比較されますが、好き嫌いは二分されるようです。

赤壁秋夜景図 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1840*横605 画サイズ:縦1210*横490



「横井金谷の作品の多くは山水画ですが、その激しいまでの筆致と、あえて形を歪めて技巧性を否定するような表現は、主張が強いような内向的であるような、今ひとつ推し量れない面白さに満ちている。」とかわいい江戸絵画(府中美術館)の著書に評されています。



激しいまでの特徴のある山水画はじっと掛けてまま観ていると「いいじゃん}という言葉を思わずもらしてしまいます。



力強く、暗いながら、不気味ながら、稚拙ながら、暗闇で観ていても明るくなるのです。



人の表現などは下手な漫画のようです。



出来そうでできないこの表現・・。



照明のなかった時代のように少し暗めの部屋で本作品を鑑賞するとすごい迫力があります。



横井金谷:1761年〜1832年(宝暦11年‐天保3年)。江戸後期の浄土宗の僧で,のち修験者となった。絵をよくし,名は妙憧,別号は蝙蝠道人。金谷上人,金谷老人とも呼ばれた。近江国栗太郡の生れ。京都にのぼり,21歳で金谷山極楽寺の住職となった。のち諸国を歴遊し,中年になって名古屋住吉町に住して鈴木鳴門,丹羽嘉信ら文人画家と交わり,また張月樵に絵を学んだ。「近江蕪村」と呼ばれるほど与謝蕪村に傾倒し,山水,人物を好んで画題とし俳画も描いた。みずからの放浪の生涯を描いた「金谷上人御一代記」を残している。




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補足説明
金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称した。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入る。明和8年(1771年)には近隣の商人伏見屋九兵衛の娘と結婚を約し、また江戸への出奔を試みるなど、良く言えば活発、天衣無縫な面が垣間見られる。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ、高野聖に化けるなどして下笠に帰国した。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んだ。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号とした。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されている。

天明8年(1788年)、正月30日の洛中洛外大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出た。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫原惣左衛門の娘ひさと婚姻した。ひさを連れ江戸へ旅立つが、名古屋において長子福太郎が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まる。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納める。文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰入り(大峰山に登っての修行)に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅した。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)故郷近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)大津坂本にて死去した。

横井金谷は紀葉亭(1734年−1832年)と共に、画風が似ていることから近江蕪村と言われる。紀葉亭は蕪村に師事していたが、金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いが、その事実の確認はできていない。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もない。但し、名古屋において一時期近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではない。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が48歳以降から晩年のものである。

彼は若いときから絵を独習し、特定の師についたわけではないが、与謝蕪村に傾倒していたため、紀楳亭とともに「近江蕪村」とも称された。63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ。彼は、天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らした。この頃の金谷の画賛には「金谷道人滋賀山寺に於いて写す」「台嶺麓下金谷写す」などと記されている。おそらく大津の山水の美しさが、晩年の金谷の心をとらえたのであろう。

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本作品は双幅のうちの右幅で、1幅ずつ処分されていた作品でした。もう1幅とめぐり合うことができました。続編を楽しみにしていてください。


秋景山水図 高島北海筆 その3

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家内が入院中で時間つぶしになるだろうと買っていった本の中に「陽だまりの彼女」(越谷オサム著 新潮文庫)がありましたが、家内が「涙ボロボロ」となって、「病院で泣くような小説はだめ」と言われました

小生も読んでみたのですが、それほど・・。愛するものを亡くす、無くす?気持ちはよくわかります。交差点や駅のホームで似ている人や連れ添った同年代の二人連れを見ると立ちつくす日々は経験積みです。とはいえ、この小説は・・。興味のある方は是非・・、読んでみてたしかに損はない本です。前代未聞のハッピーエンド????

本日の作品の画家である高島北海・・・、今までの投稿作品は下記の二作品です。

山水図 高島北海筆 その1
紙本水墨軸装 軸先 合箱入 
全体サイズ:横330*縦1360 画サイズ:横1360*縦330


夏景水墨山水図 高島北海筆
絖本水墨軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横630*縦1080 画サイズ:横520*縦360


本日の作品は下記なのですが、「春に描いた秋の作品」???

秋景山水図 高島北海筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 共箱二重箱 
全体サイズ:横560*縦2140 画サイズ:横420*縦1260




「大正丁巳春写 北海漁叟」と落款と記され、「長門止刀」と朱文白方印が押印されてますが、高島北海は長門の出身です。大正7年(1917年)、高島北海が67歳の作です。

 

箱書きもありますが、同時期のようです。

 


産卵にやってくる鮎を捕る梁漁は秋の風物詩といえましょう。そのときの秋の風景のようです。



よく描けていますね。




近景と遠景・・。



実際は掛け軸は座って愉しむものですから、山は仰ぎ見るように見るようになります。




最近は掛け軸も正面からしか見ないし、屏風も正面からしかみないようになっていますが、基本的に掛け軸は下から、屏風は左右からの鑑賞からも意識して製作してるものです。



掛け軸の軸先は細工物におなています。蓋部分はねじって入れるようになっています。



蓋を無くすことが多いのですが、本作品も片側の蓋がありません

箱を修繕したり、軸先を直したりしていると時間が経つのを忘れてしまいます。

本日の投稿では高島北海の詳細は省きます、本ブログに投稿されている他の作品の説明を参考にしてください。



明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢

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本日の朝は二度寝・・・、久しぶりにのんびりとしています。
天龍道人の「葡萄図」の大き目の掛け軸を二本掛けて、じっくり鑑賞しながら、また昼からうたた寝をしそうです。

入院中の家内は順調そうで、もしかしたら一時退院するかもしれません。緊急の場合を考えて実家に居てもらうことになろうかと思います。

さて、本日は赤絵鉢です。箱には丼」と・・・、味気のない

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢
合箱
口径240*高台径*高さ118



明末の呉須赤絵は、鉢というより皿に近いものがそのほとんどで深鉢になっている作品は珍しいと思います。



呉須赤絵鉢は日本で作られていた作品がほとんどであり、絵が模倣の域を出ず、きれいすぎて洒脱な作品が少ないと思われます。



明時代末期、中国福建省南部の漳州窯で焼かれた呉須赤絵。欧米ではスワトウ・ウェアと呼ばれています。 本品は、花鳥や魚、動物の文様が色鮮やかで楽しい作品になっています。



中国に残っているものは少なく、かえって日本・南洋・欧米にその品の残っているものが多いようです。



お茶会で賞翫される呉須赤絵の器物は赤玉香合・玉取獅子鉢・魁手鉢・呉須菊竹鉢・尾長鳥鉢・魚手鉢・骸麟手鉢・青呉須竜手鉢などで、大皿はそれ程顧みられないようです。

きれいなものは時代が新しく評価が極端に低くなり、近年の模倣品もあるようですので要注意です。

ただ呉須赤絵の魅力は虫食いやその粗雑さにあるように言われる方も多いのですが、その絵付けの洒脱さだと思います。



その絵付けにはやはり出来不出来があり、いいものには絵付けのユーモラスさがあります。



大量に生産されたものらしく、筆運びには慣れた勢いがあります。



この洒脱さはさすがに日本で製作されたものでは模倣できないようです。



鳥の表現はすばらしいと思います。



魚も面白いですね。



割れた補修跡が残念です。実際の使用したものがほとんどで完品は古いものにはなかなかありません。



赤絵と青、緑のコントラストも見事です。



それほど高価なものではありません。普段使いに皆さんも手元に一作いかがでしょうか?

箱書きはなんと「南京赤絵 丼(どんぶり)」・・、「丼??」・・・、普段使いだったのでしょう。



この洒脱さ、また愉しむ感性が今の中国には微塵のかけらもないのはとても残念なことです。


旭日静波図 望月玉渓筆 その4

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今年も年の瀬が迫ってきました。喪中のハガキがポストに届くようになり、あの人が亡くなったのかという便りもときおりあります。時の流れには抵抗できず、今という時間を大切にしなくてはいけないと改めて思う次第です。

まずは今年を無事過ごし、新たな一年を迎えられることを祈るばかりです。そこで、本日は旭日波の作品を投稿します。

「旭日波」や「朝陽」と題される初日の出を題材とした吉祥の図は多くの画家によって描かれいますが、私の大好きなのは木村武山の作品です。祖父がよく座敷に飾っていた聞いています。その作品は投稿していましたが、現在は非公開とさせていただいております。。

本作品は望月玉渓の作品です。望月玉渓の作品は本ブログに他に三作品が投稿しております。


富嶽遠望図 望月玉渓筆絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1170*横440 画サイズ:縦240*横320

この作品はインタネット上での説明が掲載されています

「富士山を描いた作品「富獄望遠図」ですが、美しい濃淡で彩られた富士の姿と、麓の林や田園風景のバランスが絶妙な作品です。繊細かつ綿密な筆遣いで描かれてはいるのですが、どこか郷愁をさそう懐かしさも含んでおり、普遍的な日本の美を感じることもできるのです。当然、望月玉渓独特の高貴で上品なタッチも感じる取ることができ、崩しながらもしっかりと芯を捉えた美しい作品として評価できるのです。」とあります。

竜宮図 望月玉渓筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先鹿角望月玉成鑑定箱
全体サイズ:縦1865*横335 画サイズ:縦*横


松梅図 望月玉渓筆絖本水墨淡彩緞子装軸 軸先陶製杉古箱
全体サイズ:縦1295*横665 画サイズ:縦633*横525

特にこの画家のもの集めようとしたわけではありませんが、出来の良い作品をあつめると自然に集まったようです。

本日の作品は朝日の図です。最近は朝五時に起きているので日が昇るのが観ることができます。

旭日静波図 望月玉渓筆
絹本着色軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦2000*横525 画サイズ:縦1120*横408



印章は「望玉渓印」の白文朱方印が押印されています。



共箱です。



さて年明けも近くなってきましたが、旭日波の掛け軸の作品を正月ぐらいは掛けてみませんか?

これを機会に掛け軸を我が家にひとつという方には「旭日波」の作品がお勧めですが、いいものを買いましょう。工芸品や頒布品はダメです。



海辺の温泉・・、そう松島に泊まって波の音を聞きながら、初日の出を観ている気分になれますよ。

松島は風呂に入りながらの初日の出が見られますが、みな風呂から出てフリチン?で観るので寒い・・・。



こちらは小生のマンションからの日の入・・。

葡萄図-7 天龍道人筆 その15

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昨日はJ1昇格を決める徳島の応援のために国立競技まで同僚達と観戦してきました。



国立競技ではあと何回試合が観戦できるか解りませんね。



2-0で快勝 

国立競技場はやはり古い。交通の利便性以外は小生が関わった宮城スタジアムがデザイン性、施工の難易度など数段上と思うのですが・・。

さて天龍道人の遺作には人物画や山水画が多くありますが、やはり葡萄図が数、質ともに群を抜いていまるように思えます。その「葡萄図」の作品の七作品目の投稿です。

山水画は風趣に欠け、鷹の図はどちらかというと稚拙と思えてきました。かえって長崎派の影響を受けている鯉や虎の絵の方が軽妙洒脱で面白味があります。


葡萄図-7 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1940*横683 画サイズ:縦1312*横565




「七十有四歳天龍王瑾写 押印」とあり、1788年(天明8年)頃の作品と思われます。70歳の頃から天龍道人と銘するようになったようですが、その当時の作品で興味深いものです。

 

印章は「天龍道人」と「一号観自在」の白文朱方印の累印を用いています。「一号観自在」・・??、どのような意味の印章なのでしょうね?



天龍道人には印譜十四巻二千の印があったが、空襲の際に惜しくも焼失しています。なんと2000種類の印章ですよ。



74歳頃が一番旺盛な頃と評されており、75歳前後に製作した遺作が非常に多いようです。



葡萄図(蒲桃図)は80歳を境にしてその前後にて作風が変化し、前者は滋潤のごとくみずみずしい作風に対して、後者は枯淡に域に達していると評されています。その最晩年の作品は後日に投稿しますので、比較してみたいと思います。



墨のよるみずみずしい表現は伊藤若冲のものとはまた違った表現力があります。



基本的には写実を基本とした描き方であると本人が自負するようにそこには現実味のある葡萄が表現されています。



表具の痛みがひどく、軸先が片方がとれて無くなっています。いずれ本作品も改装が必要ですね。

先日、山水画の作品がネットオークションに出品されていました。なかなかの山水画でしたが入手はかないませんでした。




天龍道人が76歳の作品で本作品とほぼ同時期の作品です。印章も同一のものが押印されています。



天龍道人の山水画としては秀逸の作品化と思います。



葡萄の作品とどちら? と問われるとさて皆さんはどちらがお気に入りでしょうか?

蜀道積雪図 横井金谷筆 その3

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ここのところ読みかけていた本「四十九日のレシピ」(伊吹有喜著 ポプラ文庫)を週末に詠み終わりました。なかなかの秀作と思います。大切な人を亡くした時に形を変えてその人がこの世に蘇るのかということついて私は実際にあるように思えます。私の場合は家内の実家の近所で飼っていた犬でしたが、三回忌の前に自動車事故で亡くなりました

現在の家内が私に料理のレシピを作ってくれました。とても役に立ちましたが、今はその家内が料理してくれるので、覚えたレシピはほとんど忘れました・・。家内が亡くなり、子供もなく、母も痴呆症気味となり姉がひきとり、天涯孤独と思った時に生きる力が必要となりましたが、今の家内はそれを与えてくれました

人はいつかは一人になりますが、それを自覚するか、覚悟があるかで大きく生き方が違うように思います。まだまだ私にはその覚悟は出来かねていますが、この本はそういうことを改めて考えるにはいい本だと思います。

さて本日は先日投稿しました下記の作品と双幅をなすものです。この二作品を双幅として家に飾っても心から「素晴らしい作品だね」と誉めてくれる人は何人いるでしょうか?? 本物は他人にはなかなか理解できないものらしい

でも実物は本当に迫力のある素晴らしい作品ですが

赤壁秋夜景図 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1840*横605 画サイズ:縦1210*横490

1幅ずつ売却されてもののようです。1幅ずつ売ってほうが値段が高くなると思ってのことでしょう。

蜀道積雪図 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1840*横605 画サイズ:縦1210*横490



蜀道とは漢中から成都への桟道の事で、李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。 中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所として知られています。



荒々しいまでの岩壁・・。そう人生もこのような道を行くようなものです。ちょっとしたことで足を踏み外すこともある。足元をきちんと見つめていくことが大切・・。



雪が降る中、子連れの旅人でしょうか? 旅は道連れ、人生も道連れがあるとまた愉しいもの。



ちょっと暗いところで鑑賞すると木が浮き上がって見えてきます。



人物がコミカルに表現され、子共の手が冷たそうな気配が伝わってきます。



岩壁の赤い部分や墨の部分も離れてみると非常に効果的です。



このような作品は良さを感じてくれないと放棄されることもありえるという危険性を持っています。



さて双幅を並べて鑑賞しましょう。

 

かくして離れ離れになった双幅は私の手元でまたもとの鞘に収まりました。箱も片方の作品に着いていた箱が保存箱となりました。きちんと箱に収めて作品も喜んでいるでしょう。



表具や箱を直したり、仕立てをきちんとすることは後世にいい作品を遺す収集家の大切な役割です。たとえ、私の所蔵するガラクタ作品であろうとも・・・

「四十九日のレシピ」の本に「古いものを大切にある人に悪い奴はいない。」という記述がありました
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