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葡萄図-8 天龍道人筆 その16

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「一番大切なのは自分の命、次は家族、三番目に仕事という順序を間違えなければ、人生で大きく失敗することや後悔することはない。」というのが私の信条ですが、この年齢になっても意外とこれが難しい。

昨日は本日一時退院する家内を見舞いに相模原まで・・。車に同乗したのですが、覆面パトカーに捕縛され・・。私もスピード違反で捕縛?されたのは一回や二回ではありませんが、覆面パトカーは苦手ですね。パトカーのその速いこと、サイレンが鳴ったらすぐに真後

でもやはり一番大切な自分命をおろそかにしてはいけません

さて、本日の作品は天龍道人の最晩年の作と思われます。本ブログでは16作品目の投稿ですので、ほかの作品と対比してみてください。

葡萄図-8 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦2043*横651 画サイズ:縦1295*横508



印章のみの作品で屏風や双幅の作品のひとつであると思われます。印章は「天龍道人」と「□玉□東□堂之□□」の白文朱方印の累印です。この印章は最晩年に使用されている作品(天龍道人 百五十年記念展 作品NO51)があることから、その作品と同時期である90歳頃ではないかと推察されます。



葡萄図(蒲桃図)は80歳を境にしてその前後にて作風が変化し、前者は滋潤のごとくみずみずしい作風に対して、後者は枯淡に域に達していると評されています。



もとは肥前鹿島鍋島侯の家老板部堅忠の子ですが、実は君侯の庶子で、世継ぎの問題で父は改易となり、14歳にして僧籍に入り、禅と詩文を学びました。青春時代には勤王思想を抱き、勤王の同志の多くがに服したが、時期尚早と判断した彼は山国に隠棲して好機の到来を待ったのでしょう。




その彼が画家として大成し、本作品が最後に世に遺した作品のひとつです。天龍道人の芸術の極致は葡萄の図にあり、千載に名を遺すのも葡萄図であるでしょう。



葡萄図(蒲桃図)は80歳を境にしてその前後にて作風が変化し、前者は滋潤のごとくみずみずしい作風に対して、後者は枯淡に域に達していると評されています。最晩年の作品と50歳代、60歳代の作品を比較すると別人の観があります。




佐賀県立美術館では没後200年にあたり、2013年5月1日から 美術館玉手箱と称して「没後200年 天龍道人 鷹と葡萄をえがく」が開催されました。ただし出品された作品はわずかに七作品だけという少なさだったようです。



天龍道人については新たにこちらのリンク先を参考にしてください。



いずれにしても勤王思想の持ち主で高学歴であり、世界情勢への洞察があり、徳川幕府の封建的な独裁に対して歴史的矛盾に深く憂いながらも、山国で高齢まで絵を描き続け画家として名をなした興味深い人物です。

憂いながらもその改革の時期には至らぬ時代を過ごしたものの、世に遺した功績は少ないとは言えないでしょう。

それほど高価な作品ではありませんので、皆様もお手元に一作品いかがでしょうか? 贋作はほとんどありませんが、まれにあるようですので、一応注意は必要です。

実は殿様の子供・・・??、思想的には時代より早く生きた人物、こういう人物はどういう信条で世を生きたのでしょうか?

思想的にはスピード違反ですね
覆面パトカーは新撰組?? 

冬景山水図 藤本鉄石筆

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時代を追い抜いた男、藤本鉄石。この人もスピード違反ですね。変革期には何人かのこのようなちょっと無謀な改革派が先んじて土壌を作るようです。このままではいけないという思いが無謀さとなってあらわれるのでしょう。

これからの日本もそのようなことになるかもしれません。会社も同じですが、一番危ういのは誰もそういうことを言わなくなったり、行動をおこさない状態かもしれません。人物が育たない状態に陥るとそのようなことになると思います。これは根が深い。

さて本日は天誅組のリーダーだった藤本鉄石の作品です。本作品もかなり痛んだ状態での入手です。当方の資金では痛んだもの、傷物といった中の掘り出し物が限界のようです。

冬景山水図 藤本鉄石筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1720*横500 画サイズ:縦1080*横390



賛には「快々月窓閑 試墨□□□ 左鼎自煎茶 □□□ 銕寒士併題 押印」とありますが、賛の意味は解読中・・・???
→本日、朝一番で実家にいる家内からメールにて指摘
 「快日明窓閑 試墨寒泉 古鼎自煎茶 □□□ 銕寒士併題 押印」にて残り3文字が不明・・・。
→さらに家内よりメールにて指導
快日明窓?試墨 寒泉古鼎自煎茶 千中□》 陸游

「よく晴れた日、明窓のもとで静かに書作を試み、冷泉の水を酌み古鼎に茶をにる」

陸游:(りく ゆう、1125年11月13日(宣和7年10月17日) - 1210年1月26日(嘉定2年12月29日))は、南宋の政治家・詩人。字は務観。号は放翁。通常は「陸放翁」の名で呼ばれる。越州山陰(現在の浙江省紹興市)出身。南宋の代表的詩人で、范成大・尤袤・楊万里とともに南宋四大家のひとり。とくに范成大とは「范陸」と並称された。現存する詩は約9200首を数える。その詩風には、愛国的な詩と閑適の日々を詠じた詩の二つの側面がある。強硬な対金主戦論者であり、それを直言するので官界では不遇であったが、そのことが独特の詩風を生んだ。



印章は正確には読み取れません。 



書き込みの少ない藤本鉄石の作品が多いようですが、本作品はよく書き込まれています。





藤本鉄石:文化13年3月17日(1816年4月14日)〜 文久3年9月25日(1863年11月6日))は幕末の志士・書画家。諱は真金。通称を学治・津之助、字を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数の号がある。岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。

藤本鉄石は天誅組のリーダーとして非常に人気が高い人です。大きな理由は適中突破に成功しながら、仲間のために引き返し再び敵陣に切り込み、討ち死にしたという義勇の人だからでしょう。





藤本鉄石の補足説明

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備前国御野郡東川原村(岡山県岡山市中区)の片山佐吉の四男として生まれる。後に藩士藤本彦右衛門の養子となり、農事掛り、手代を務めていたが、天保11年(1840年)に脱藩して京都へ出る。この頃伊藤花竹に就いて画を学ぶ。その後、売書・売画を続けて諸国を遊歴して、書・画・和歌・漢詩の修行をした。画ははじめ北宗画風であったが、後に南宗画に転じ山水画・花鳥画が最も巧みだった。また長沼流軍学を修め、剣術は一刀新流の免許を得ている。少年時代に鉄石に接した清河八郎や山岡鉄舟は彼の影響を大いに受けた。京都伏見に居を定め私塾を開いて学問と武芸を教授した。

黒船来航以来の国難の中で藤本も慷慨の志を持ち、清河八郎を介して尊攘派志士たちと交わりを持つようになる。文久2年(1862年)、薩摩藩国父島津久光が率兵上京することになり、世間はこれを倒幕のための上洛だと解して、平野国臣、清河八郎、吉村虎太郎らは上方に浪士を集めて、有馬新七ら薩摩藩士の過激派と結託して挙兵を策した(伏見義挙)。藤本もこの動きに加わる。だが、島津久光の真意は公武合体であり、藤本は薩摩藩邸に軟禁され、ほどなく挙兵計画から離脱して去っている。結局、寺田屋事件で薩摩藩士の過激派は粛清され、平野、吉村らも捕えられて国許へ送還された。

文久3年(1863年)2月、京都守護職松平容保は朝廷に浪士の言論洞開策を勅栽を得て京都市中に布告した。ただし、これには黒谷の会津藩本陣に出頭する必要があり、応じた浪士は3人しかいなかったが、そのうちの一人が藤本だった。容保に奉公を願い出た浪士35人を記した会津藩の記録の「京方浪人別」に「浪士頭」として藤本の名が見える。この時の藤本の真意は不明である。

同年8月13日に孝明天皇の大和行幸の詔が発せられると。藤本は吉村虎太郎(土佐脱藩)、松本奎堂(刈谷脱藩)とともに行幸の先駆けとして大和国で挙兵することを計画。藤本は挙兵の軍資金調達のために河内へ先行した。14日に吉村は前侍従中山忠光を迎えて浪士39人が方広寺に結集して京都を出立。一行は海路堺に入り、河内へ進んで狭山藩から銃器武具を差し出させた。17日に一行は河内檜尾山観心寺に逗留し、ここへ藤本が合流。浪士たちは後に天誅組と称されるようになる。

天誅組は大和国五条天領へ入り、代官所を襲撃して炎上させ、代官鈴木源内の首を刎ねて挙兵した。天誅組は桜井寺に本陣を定め、自らを「御政府」と称し、中山忠光を主将、藤本、松本、吉村を総裁とする職制を定めた。だが、直後の18日になって八月十八日の政変が起きて政情は一変。三条実美ら攘夷派公卿は失脚し、長州藩は京都からの撤退を余儀なくされた。大和行幸の詔は偽勅とされ中止となった。突然、孤立無援となった天誅組は要害の天ノ辻に本陣を移し、十津川郷士を募兵して1000人を集めた。26日に高取城を攻撃するが敗北し、この戦いで吉村は重傷を負ってしまう。


9月、周辺諸藩が討伐に動員され、天誅組は善戦するものの多勢に無勢の上に装備も貧弱で、次第に追い詰められた。藤本は紀州新宮へ突破して四国九州へ逃れ再挙することを策すが叶わず、遂には十津川郷士たちも離反し、天誅組は実質的な戦闘力を失った。天誅組残党は山中の難路を進んで脱出を試みる。三総裁のうち吉村は傷が悪化して歩行困難となり脱落、もう一人の松本は負傷して失明状態になっていた。24日、藤本ら天誅組残党は鷲尾峠を経た鷲家口(奈良県東吉野村)で紀州・彦根藩兵と遭遇。

藤本は敵中突破に成功したが、逃げ延びるのを潔しとせず、翌25日、彼の弟子福浦米吉とともに再び敵陣まで引き返し、紀州藩本陣に猛烈な切り込みをかけた。不意をつかれた敵軍は混乱に陥ったが、所詮多勢に無勢であり壮絶な死を遂げた。享年48。

主将の中山は脱出するが、松本は自刃し、他の者たちもほとんどが戦死するか捕縛され天誅組は壊滅した。吉村も27日に津藩兵に発見され射殺されている。彼が忠兵衛宛に書いた手紙は小判や掛け軸の彩色した絵を書いて「ほしい、ほしい、ほしい、ほしい」と援助の依頼を楽しく書いていて、ユーモアにあふれていて彼の人柄を思わせる。


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本作品はいつ描かれたか、さらには真作か否かも解りかねますが、藤本鉄石は作品に描かれている隠匿した生活を送ることは叶わなかったことだけは確実なようです。

芭蕉山水図 その13 伝釧雲泉筆

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建築現場の独立採算性について検証してみよう。建設会社の生産の最小単位は各々の現場ですが、現場は基本的には決られた請負金額での枠で採算性を検討することとなります。予算案をもとに現実的な予算に組み直すことになりますが、採算性に合う予算なら問題は少ないのですが、最近の労賃や材料費の値上がりで大概予算オーバーとなることが多くなりました。

そこで予算圧縮案を練るわけですが、現場という狭い枠内で考えることとなります。採算性が見合う場合なら、独立採算でも効率的な面も多くあったのですが、予算が厳しくなりアイデアや客先との交渉が必要となる場合には一転して非効率的となることが多くなります。

組織的に客先に交渉、内容の再検討しようとしても、現場独立採算性が強く、かつ営業、設計、工事管理の部署が連携しておらず、そういう風土が会社にないと動きが緩慢となります。

結果として、いままで独立採算で運営してきたので、現場所長に依存する雰囲気が強く、現場も支店に依頼してもなにもしてくれないという考えとなってしまっていることが多くなります。現場独立採算性が強い会社では、そもそも管理部門内でもそういうややこしい問題を解決する手段を持ち合わせていないことが多く、会議室や打ち合わせコーナーすら同じフロアに存在しないなど、ましてや夜を徹して議論するという土壌が欠落しているものです。

いつまでも対策を打たず、情報交換もなされず、現場でなんとかするだろうという雰囲気で最悪の結末を迎えることとなりかねません。赤字の店舗を店長の責任とし、決算まで放置しておくようなものです。

現場独立採算にはそれなりに優秀な人材が必要ですが、採算性が合う工事を担当し現場内だけで功績をあげて昇進してきた上司の下では組織を活用する人材も育たなくなり、結局は複数の採算性の合わない工事を生むことになりかねません。入手時に先取り減額案やコストカットを自分の成功したケースをベースに考えてしまうので、悪循環な経営に陥る場合が多々あります。

現場独立採算はもはやこの情報化時代、コスト競争時代では通用しなしと考える方が得策だと思います。まずは情報をベースに正確な入手判断が重要です。コスト競争が激化すると戦略的な入手判断もまた必要であり、すべて黒字で入手するということには無理が生じてきます。

組織的にトップを交えた入手判断や損益管理が必要です。テレビ会議や損益管理の一元化などが急務ですが、システム作りよりはまずは土壌づくりの根本である意識改革が必要です。一部の人がいくら頑張ってもなかなか改善しないことが多いのですが、ポイントは情報を経営トップ(支店長)に一元化することです。ただし報告は曲解したり、希望的な観測での情報にならないように、少人数ではなく議論の場で情報を得ることが肝要です。

理想論と思われるかしれませんが、窮状を救うのは王道です。解りきったことと考える人が多いでしょうが、意外と自覚していないものです。

せめて当社はそうはならないようにしたいものです。



さて本日は「本物なら掘り出し物」と購入してきた釧雲泉の作品と思われるもの・・・、性懲りもなく打ち捨てられている釧雲泉の作品を入手。

芭蕉山水図 その13 釧雲泉筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1890*横330 画サイズ:縦1210*横220



性懲りもなくと笑うなかれ・・・・、骨董趣味とするものは往生際が悪いもの。



一応「雲泉」というら落款とそれらしい印章は押印され、ご丁寧に右下に遊印と思いきや「・・真蹟」とかというよけいな印章まで押印されています。

 

なんとなくよさそうで購入したのですが・・・、どうも本作品も怪しい



こういうことを何度も繰り返して、見る眼ができるらしいが・・・・



人間、いつまでも生きていられるものではない。年をとったら欲のままに動くのも良いもの・・・、でもやっぱり正確な判断が大切で、入手判断を誤ってはいけませんね

忘れ去られた画家 鐘馗図 谷文一筆

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本日からしばし背景はトナカイ犬ならぬバグ犬になりました。小生の初代パグの愛犬「ダイゴロウ」よりはかわいくないな〜

本日の画家の谷文一は、文人画家谷文晁(ぶんちょう)の娘婿です。円山派をとりいれた独自の画風をしめしましたが、文化15年3月8日文晁に先だって死去。32歳で世を去った谷文晁の後継者として将来を嘱望された画家です。

本日の画題は、本ブログでおなじみの「鐘馗」様です。ちと季節はずれですね。こんなサンタクロースがきたら、尻込みしそうです。

「鐘馗」様については、詳細は当方のブログなどを参考にしてください。「鐘馗」様の謂れくらいは知っていないといけませんよ。

鐘馗図 谷文一筆
絹本水墨着色軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1980*横580 画サイズ:縦1290*横410



谷文一は遺されている作品も少なく、あまり見かけることがないように思われます。




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谷 文一(たに ぶんいち):天明6年(1786年)〜 文化15年3月18日(1818年4月23日)。江戸時代後期の日本の画家です。谷文晁の後継者として将来を嘱望されたが三十代で亡くなっています。今後の活躍が期待されていましたので、誠に残念です。

賛には「文化□季五月端午文一作 押印」とありますが、文化?年のことでしょうか?



号は痴斎、名を文一郎、通称は権太郎と称しました。町医師・利光寛造(号:澹斎)の次男として江戸薬研堀に生まれ、3歳のころより画を好み、文晁に師事するうちに才能を見いだされました。



文晁の長女・宣子の夫として谷家の養嗣子となりました。花鳥画、山水画、人物画などに優れたな才能を示しました。

円山応挙の門弟渡辺南岳が江戸に移ってくると文晁の指示で入門し円山派の画法も修学しました。



享和3年(1803年)、定信の命を受けて文晁を中心に、岡本茲奘・星野文良・蒲生羅漢とともに「石山寺縁起絵巻」の模本製作および欠落した巻の補作を行いました。



享年32。浅草清島町源空寺に葬られる。妻の宣子はその後薙髪して亡夫を弔っています。



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谷文晁は器用貧乏のようなところがありますが、文晁よりも絵はうまいかもしれません。



本作品もその技量の確かさがうかがいしれる作品と思います。



谷 文二について・・・・・

ところで、谷文晁の後継者の後継者としてはもう一人、谷 文二(たに ぶんじ、文化9年(1812年) - 嘉永3年5月15日(1850年6月24日))がいます。こちらも谷文晁の後継者として将来を嘱望されましたが、同じく若くして歿しています。

号は萍所、名を義宣、通称は文二郎と称しました。谷文晁の長男で、後妻 阿佐子との間に生まれています。

画は文晁に指導を受け、才能は義兄 文一に劣ったものの文晁の秘蔵っ子として寵愛を受けました。そのためか、我が侭に育ち直情的な性質だったようです。

遊女と役者を極端に嫌い、得意客であっても棍棒を投げて追い返したほどだったと伝えられます。 享年39。浅草清島町源空寺に葬られる。子に文中(文晁の孫)がいます。




養子をとってからの実子・・、そして早死に・・、後継者はうまく育たなかったようです。

世襲の難しいところですね。

瀧ニ猿公図 森徹山筆

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「猿公」はエテ公(猿公)と読みます。「猿」が「忌み言葉」であることからあてがわれた読み方『えて(得る)』と、対象となる人物に親しみを込めたり、卑しめるときに使われる俗語『公』から成るもので、猿を擬人化した言い回しだそうです。

エテ公の『公』が親しみを込めて使う場合と卑しみを込めて使う場合があるように、エテ公も使われる状況によって込められる意味合いは変わってくるようです。現代では相手を侮辱する言葉という悪いイメージが強いですが、もともとは親しみを込めた言葉であったそうです。

「忌み言葉」とはいわゆる禁句のことで、受験生に対しての「落ちる」「すべる」がそれにあたる。猿(サル)の場合は「去る」に通じるため、商家を中心に朝の忌み言葉とされています。

「さる」という言葉から「悪いことが去る」ということから「猿」は魔除けとしてあがめられることもあります。

狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった画家です。その作風を伝えるのにはふさわしい作品かと思います。

瀧ニ猿公図 森徹山筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 添状付二重箱
全体サイズ:縦1960*横510 画サイズ:縦110*横345



「瀧」と「猿」の組み合わせはどういう意図なのでしょうかね?



五猿は「御縁」にも通じる縁起題材としてありますが・・。五匹の猿「五猿」は「御縁」に通じることから、縁事にツキがある題材としてもてはやされています。結納や婚礼の祝いなどに掛け軸が掛けられますが・・??



瀧といえば「養老の瀧」・・美濃の国に伝えられる孝行息子の逸話にまつわる話です。
「親の看病をしながら仕事に精を出す孝行息子に目を留めた神様が、不老の酒を与えて楽をさせてあげようと滝の水を酒に変えた。その水を汲んだ孝行息子が驚いて老父に飲ませたところ、不治の病が治り十歳も若返ったという。その噂を聞きつけた元正天皇がその息子の孝行振りを高く評価し、美濃守(領主)に抜擢。今までと変わらぬ誠実さで治めた国は豊かになり、父親とともに末永く幸せに暮らしたという「養老の滝」の逸話」。実直こそが出世栄達の本道といわれる題材ですが・・・???

親子猿に瀧・・・????



森徹山:生年: 安永4 (1775)〜没年: 天保12.5.6 (1841.6.24)。 江戸後期の四条派の画家。大坂の人。大坂生。名は守真、字は子玄・子真、徹山は号。森狙仙の兄周峰の子、森狙仙の兄の周峯の子で,狙仙の養子となった。



父及び円山応挙に学び、応挙門下十哲の一人。狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学んだ。応挙十哲のひとり。

狸などを飼って、その写生に励み、動物画家として名をなした。また好んで獅子、虎などを描いた。狙仙の跡継ぎではあったが、狙仙の画風とは異なり、完全に円山派の画風によった。大坂に住んで京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。また江戸へ下り、京風の画を江戸に伝えた。



のち大坂に帰り、熊本藩主細川氏の藩臣となる。謹直、子ぼんのうで、子供の着物の模様の下絵を自ら描いたりしたという。門人の森一鳳,森寛斎は義子。67歳で没し、京都の帰命院に葬られた。代表作に「双牛図屏風」(東京国立博物館蔵),「千羽鶴図屏風」(プライス・コレクション)などがある。



補足説明

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大坂船町(現在の大阪市大正区)で、森周峰の子として生まれる。寛政2年(1790年)徹山16歳時の『浪華郷友録』では、森周峰、森狙仙の次に徹山の名も記載されており、既に狙仙の養子となり、名の知られた絵師だったことがわかる。

狙仙の勧めで、晩年の円山応挙について画を学び、寛政7年(1795年)の大乗寺障壁画制作では、わずか21歳で小画面ながら『山雀図』を描いている。徹山の妻はゑんといって京都の仏師・田中弘教利常の娘だったが、ゑんの姉・幸は応挙のあとを継いだ円山応瑞の妻であり、徹山と応瑞は義兄弟といえる。

大坂に住み、しばしば木村蒹葭堂宅を訪ねている。また、大坂と京都と行き来し、円山派を大坂にひろめた。67歳で病没。墓は京都の帰命院と、大阪の西福寺にある。

画風は実父・周峰から学んだ狩野派と、養父・狙仙ゆずりの動物写生に円山派の写実を加味し、情緒性に富むのが特色である。

特に動物画を得意とし、狙仙のように猿だけでなく、あまり描かれない動物も巧みに描いている。応挙と応瑞の指導も受け、天保3年(1832)から9年間、京都御所の御用絵師を勤めるほど、有名になりました。本当に周峰と狙仙を合わせたような画風で、禁裏(きんり=皇居)のふすま絵や屏風等も描いています。



徹山には二子がいたが、共に妻の実家・田中家の養子となり、仏師となったため森派を継がなかった。弟子に婿養子となった森一鳳、養子となった森寛斎、他に森雄山、和田呉山など。

森祖(狙)仙から森徹山、森一鳳へと続く森派は、繊細な毛描きによる動物画を得意とし、近世大坂画壇における写生画派の代表として、重要な位置を占めていた。徹山は森派を継承した写生的で抒情性に富んだ作風といえる。

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疎林図 藤井達吉筆 その10

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ブログの訪問者数・・、どうもアクセスしてくれた人の数(延べではないらしい)らしいのですが、今までは多くとも一日の訪問者数は250人であったのが、多いときで450人になってきました。どうしたのでしょう??

本来、本ブログは専門的な分野の投稿ですが、同じ趣味とする方が多いということでしょうか?

ヤフーのブログの件数は全部で196万件あるらしいですが、そのうちの2000番以内に入ってきました。骨董に興味のある方でもかなりマイナーな分野のブログですが、読まれる方が多くなるのは嬉しいことです。

家内のブログは1か月以上投稿していないのにコンスタントに150人以上の方がアクセスしている・・

週末は実家にて静養中?の家内を表敬訪問、ついでにリニューアル完了の確認



こんないい天気の時も仕事かいな



おまけに次の案件の下見・・・



さて、本日は10作品目となりました藤井達吉の作品です。

少し赤みがかった和紙に描かれた水墨画ですが、藤井達吉の真骨頂という作品です。

藤井達吉の作品は弟子の「栗木伎茶夫」らの鑑定箱が多いのですが、名古屋の徳川美術館の館長であった「熊澤五六」の鑑定箱は珍しいと思います。

疎林図 藤井達吉筆
紙本水墨軸装軸先陶器 熊澤五六鑑定箱
全体サイズ:縦1260*横370 画サイズ:縦445*横335



ところで題名の「疎林」の定義をご存知でしょうか?

「疎林(そりん):樹木の枝・葉の密度が薄い森林のことを指す。通常の森林であれば連続して影が作られるが、疎林では太陽光が木々の間から、地面まで差し込んでくる。
疎林が成立するのは、植物の生育条件としてよくない点がある場合であることが多い。たとえば土壌の栄養分が乏しく、乾燥、酷寒、強風などの厳しい気候、あるいは樹木を傷める動物や昆虫などにさらされている場合である。」とあります。

今回の題名は「立ち木がまばらな様」と簡単に解釈していいでしょうが、日本の山林が「疎林」ばかりになっては困りますね。


藤井達吉:1881−1964明治-昭和時代の工芸家。明治14年6月6日生まれ。名古屋で七宝店につとめたのち美術工芸の道をこころざし,新感覚の染織,紙工芸などを発表する。工芸革新運動にもくわわり,昭和2年帝展工芸部誕生の推進力となる。小原工芸和紙や瀬戸の陶芸も指導した。昭和39年8月27日死去。83歳。愛知県出身。



熊澤五六:名古屋の徳川美術館の館長。京都帝大の経済学の河上肇教授(第二貧乏物語で有名な学者)に学び、その後美学美術史に転進した。父は医師で画家の熊澤古蓬です。

 


藤井達吉について

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藤井達吉は明治14(1881)年、愛知県碧海郡棚尾村に生まれました。現在の碧南市棚尾地区です。幼い頃から手先が器用で、“針吉”“凧吉”とも呼ばれていたそうです。明治25(1892)年に棚尾小学校を卒業すると、木綿問屋の尾白商会に奉公に出ました。この会社では朝鮮半島で砂金を金塊へ鋳造する仕事などもしました。帰国後美術学校への進学希望を父親に伝えますが許されず、名古屋の服部七宝店に入社します。ここでは米国でも有数の美術館であるボストン美術館で東西の美術作品を目にする機会を得ました。セントルイス万博で仕事をするために明治37(1904)年に渡米したからです。米国でみた美術作品に触発されたのか、日本に帰った藤井は服部七宝店を退職し、上京します。ここから美術工芸家としてのキャリアが始まりました。明治38(1905)年のことでした。



明治の終わりから大正時代にかけての藤井は、吾楽会、フュウザン会、装飾美術家協会、日本美術家協会、无型などの前衛的なグループに参加して当時の気鋭の画家・彫刻家・工芸家と親しく交わりました。制作でも古い型にとらわれない斬新な作品を生みました。木を彫り込み、螺鈿や七宝、鉛を用いた《草木図屏風》やアップリケや刺繍を施した《大島風物図屏風》などはこの時代の藤井の代表作といえるでしょう(両者とも個人蔵)。藤井の全業績の中でも大正時代を中心とした時期に制作された作品は強い魅力を発しています。



当時の藤井は家庭婦人向けの工芸の手引書を執筆し、雑誌『工芸時代』の創刊に協力するなど幅広い活動をしていました。更に官展に工芸部門を加えるための運動を友人たちと行いました。この運動は大正12年の帝国美術院への美術工芸部門設置という形で実を結びました。しかし昭和に入った頃から軸足は次第に中央から離れていきます。藤井は独学でした。また大きな展覧会に作品を出品することもほとんどなく、画商に作品を売り込みもしませんでした。その分記録が少なく、活発な活動に反して日本近代美術史で取り上げられる機会が減っていったのです。最近では藤井の業績が見直されるようになってきました。平成3(1991)年に愛知県美術館で開催された「藤井達吉の芸術−生活空間に美を求めて」展以来、近代日本工芸が揺籃期にあった頃、即ち中央で活躍していた時の藤井の先駆的作品が評価されるようになったからです。



藤井は転居を繰り返したため住まいこそしばしば変わりましたが、後半生は郷里での後進指導に重きを置いていました。瀬戸の陶芸や小原の和紙工芸の現在の発展の基礎は藤井が築いたと言って良いでしょう。瀬戸や小原(現豊田市)には栗木伎茶夫氏、山内一生氏、加納俊治氏など、直接藤井の教えを受けた方々の幾人かがご健在です。



藤井は昭和25(1950)年から31(1956)年まで碧南市の道場山に住んでいました。市内で藤井に接した方々も、西山町の岡島良平氏を最長老として、何人もいらっしゃいます。故郷での藤井の生活を支えたのは碧南市民をはじめとする藤井を敬愛する方々でした。



「野菜を持って行った時に水墨をお礼に描いてくれた」というようなエピソードをきくこともあります。後半生の藤井の作品は文人画的性格が強まりました。平安時代の継紙を現代に蘇らせ、独自の工夫で《継色紙風蓋物》(1947年;愛知県美術館所蔵)などの制作を多く行いました。そして昭和39(1964)年、岡崎で亡くなりました。83歳でした。




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この表具はいかにも藤井達吉らしいあつらえです。



おそらく藤井達吉自身のデザインか、それに倣ったものでしょう。







晩涼 西山翠嶂筆 その3

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家内のブログが一時的にせよ復活しました。豪華料理版??・・・。また食する時が待ち遠しいものです。

昨日は日本酒を痛飲、帰りはタクシーに乗り込むも年配の新人のドライバーでナビもろくに操作できずに途中で降ろされてしまい、なんとか別のタクシーを拾い帰宅しました。年配の新人の運転手さんは大丈夫かな? 都会のど真ん中でやっていけないような不安があります


さて、本日は季節外れの作品ですが、蛙の表情がユーモラスな逸品です。

晩涼 西山翠嶂
絹本水墨着色色紙 共箱入
画サイズ:縦272*横242



題名は「晩涼」とあります。晩涼は「夕方の涼しさ。また、涼しくなった夏の夕方のことで、季語としては夏になります。」という意味です。太湖石に蛙の図柄です。

 

太湖石については他のブログで説明しましたので説明は省きます。



蛙の表情が実に面白いですね。



以前に投稿した下記の作品も蛙を題材にしたユニークな作品ですが、こちらの作品は擬人化したものですね。

蛙の音楽隊 福田豊四郎筆ペン画水墨 紙本水墨額装 紙タトウ
全体サイズ:縦303*横395 画サイズ:縦140*横190

色紙をこのような共箱に仕立てた例はよく見られます。



下記の作品もその例ですが、こちらは真贋のほどは確かはありません。

連峰 伝横山大観筆絹本水墨 色紙3号 共箱

このような共箱に入れた色紙は冠婚葬祭などで配られたりしたことがあったようです。袱紗の描いた作品なども配られたようです。私の父が亡くなったときには、友人であった福田豊四郎の色紙をお世話になった人に配ったそうです。

このような蛙のしたたかさががないと生きていけないのかも。蛙は「福,
無事かえる」で縁起物・・・、豪華な?食事も・・・





双幅秋冬山水図のうち秋 右幅 狩野養信筆 その4

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午後からは現場パトロール、夕刻から打合せ、その後は同僚達と転勤する人との歓送迎会。早めに切り上げて「なんでも鑑定団」を見ました松村呉春浜田庄司(
未公開)、近藤悠三など何度かは本ブログで登場した画家や陶芸家の作品が出品されており、興味深く拝見しました。いずれもテレビでも真贋は解るものですね。

テレビを観た後は風呂掃除に炊飯、洗濯と忙しいアフターファイブでした。

本日はまたまた双幅の作品のひとつです。双幅は二つ並んでどのような作品かということが愉しみですね。

狩野栄信、狩野養信、狩野雅信の狩野派3代の画家は注目に値します。その後の狩野芳崖、橋本雅邦、そして横山大観、川合玉堂につながることを理解しておかないと日本画を語ることはできませんね

双幅秋冬山水図のうち右幅 秋の図 狩野養信
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横490 画サイズ:縦1071*横315



狩野養信の作品は本作品のようなさらりとした水墨画のほかに着色された美しい作品があります。むろん、そちらの作品群のほうは評価が高いようです。

下記の補足説明を引用すると
「江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。」
ということです。

つまり自分の描きかった作品がありながら、古来の作風で描きなさいという命令があったということでしょう。いつの世でも体制の下では思うようなことができないことがあるということです。



非常に高く評価してよい画家のひとりですが、高い評価は「漢画と大和絵を融合させた新風を吹き込む作品」にこそありますが、狩野派の最後の名手と言われながら、狩野派に束縛されていたため評価はそれほど高くないという皮肉な結果かもしれません。しかし近年再評価されてきているようです。

消化器系が弱かったという几帳面さがある面、されど水墨画にその洒脱さが見受けられ、水墨画として小生が好きな画家のひとりです。



いずれにしても狩野派の最後の名手と評され、そして狩野芳崖、橋本雅邦へとつながるキーポイントとなる画家です。山水の描法に橋本雅邦、狩野芳崖に受け継がれた技法がうかがえます。



「晴川院法印筆」と落款のあることから、天保5(1834)年法印になった後、38歳以降の作品です。



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狩野養信:生年: 寛政8.7.26 (1796.8.28)〜没年: 弘化3.5.19 (1846.6.12) 江戸後期の画家。狩野伊川院栄信の子で,江戸時代後期の木挽町家狩野派9代目の絵師。

文化10年(1813年)まで、その名「養信」は「たけのぶ」と読むが、将軍・徳川家慶に長男・竹千代が生まれると、「たけ」の音が同じでは失礼であるとして「おさのぶ」に読み改めた。

さらに、この竹千代が翌年亡くなり、玉樹院と呼ばれたため、それまでの号「玉川」を音通を避けて「晴川」とした。通称、庄三郎(しょうざぶろう)。

父は狩野栄信、子に狩野雅信、弟に『古画備考』を著した朝岡興禎、浜町狩野家の狩野董川中信、中橋狩野家の狩野永悳立信らがいる。

号は晴川院、会心斎、玉川。多作で狩野派最後の名手と言われる。挽町狩野家9代目。

文政2(1819)年法眼に,天保5(1834)年法印となる。古絵巻類の模写などを通じて古典的なやまと絵の研鑽を積み,狩野派に新風を吹き込んで幕末の狩野派の重鎮となる。

天保9年から10年(1838年から1839年)には江戸城西の丸御殿、天保15年から弘化3年(1844年から1846年)には本丸御殿の障壁画再建の総指揮を執った。

養信がその後亡くなったのは、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されている。なお、弟子に明治期の日本画家である狩野芳崖と橋本雅邦がいる。



さて左の幅・・作品はどんな作品でしょうか?? 当方の手元にあるや否や???
続編と楽しみに・・、請うご期待


補足説明

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養信は模写に尋常ならざる情熱を注いだ。東京国立博物館にあるものだけでも、絵巻150巻、名画500点以上にも及ぶ。原本から直接写したものは非常に丁寧で、殆ど省略がなく、詞書の書風や絵具の剥落、虫損まで忠実に写し取っている。模本からの又写しは色も簡略で、詞書も省略したものが多い。

また、既に模本から模写済みの作品でも、原本やより良い模本に巡り会えば再度写し直しおり、少しでも原本に近い模本を作ろうとした姿勢が窺える。関心も多岐にわたり、高野山学侶宝蔵の調度、舞楽面、装束を写した6巻や、掛け軸の表装の紙や裂まで描いてあるものもあり、養信の旺盛な学習意欲が窺われる。


150巻という数字に表れているように、特に古絵巻の模写に心血を注ぎ、多くの逸話が残る。徳川将軍家の倉からはもちろん、『集古十種』などの編纂で模本を多く所蔵していた松平定信の白河文庫、狩野宗家中橋家の狩野祐清邦信や住吉家の住吉弘定らを始めとする諸家から原本や模本を借りては写した。

京都の寺の出開帳があれば写しに出向き、さらに公務で江戸を離れられない自分の代わりに、京都・奈良に弟子を派遣して写させた。他にも、当時まだ若年だった冷泉為恭に「年中行事絵巻」の模写を依頼している。ついにはどこの寺からでも宝物を取り寄せられるように、寺社奉行から許可まで取り付けた。その情熱は、死の12日前まで当時細川家にあった蒙古襲来絵詞を写していたほどで、生涯衰えることはなかった。


最も早い時期の模写は数え年11歳の時であり、父である栄信の指導、発想があったのではと疑われる。江戸中期以降、画譜や粉本が出版され、狩野派が独占していた図様・描法・彩色などの絵画技法や方法論が外部に漏れていった。養信が模写に懸命になったのは、こうした動きに対抗し、質の高い粉本を手に入れ狩野派を守ろうとしたためであろう。


そうした模写の中には、江戸城西の丸御殿や本丸御殿の障壁画など、現存しない物や原本の所在が不明な物も含まれており、研究者にとっては貴重な資料である。

狩野典信以来、木挽町家に引き継がれてきた古画の学習を、養信は一段と推し進め、大和絵を完全に自らの画風に採り入れた。




これは、江戸狩野派の祖・狩野探幽が目指し、狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華した養信の重要な業績である。しかし、養信はこうした熱心な模写によって身につけた技術や創意を、存分に発揮する場を十分に与えられていたとは言い難い。

現実の制作は、「探幽安信筆意通」や「伊川院通」といった命令が下り、先例や将軍の「御好み」が優先され、狩野派の筆頭格である養信は、これらに逆らうことは出来なかった。養信の公用を離れた古絵巻の模写は、大きな楽しみだった反面、一種の逃避とも取れる。

平成15年(2003年)、養信の墓が移転される際、遺骨が掘り出されて頭部が復元された。その面長で端整な顔立ちは、几帳面で消化器系が弱かったという養信の人物像を彷彿とさせる。この復元模型は、池上本門寺で保管されている。

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橋本雅邦は、その父・橋本養邦が狩野養信の高弟であったのに加え、雅邦自身、木挽町狩野家の邸内で生を受けています。幼少期は父から狩野派を学んで育ち、わずかに最後の一ヶ月のみながら最晩年の養信に師事しています。芳崖と雅邦は同日の入門であり、実質の師匠は養信の子・雅信であったと考えられています。


住吉図 狩野栄信筆

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親は子に生きる術を与える義務があると私は思っています。その親である父に「吾及ばず」と言わしめたという近世狩野派の名手であり、栄信、養信、勝信、そして狩野芳崖、橋本雅邦へとつながる近代画壇の始まりに位置する画家です。

画題である住吉にまつわる話:昔、男が、和泉の国へ行った。住吉の郡、住吉の里、住吉の浜を行くと、とても趣深かったので、馬から下りては休みがてら行った。ある人が「住吉の浜と詠め」と言う。
「雁鳴きて菊の花咲く秋はあれど 春は海辺にすみよしの浜」(雁が鳴いて菊の花が咲く秋もあるけれども 春は海辺が住み良い、住吉の浜であることだ)と(うまく)詠んだので、他の人は皆詠まずに終わってしまった。

本日はその「住吉の浜」を描いたと思われる作品です。住吉の浜は千鳥がよく似合うのかな?

住吉図 狩野栄信筆
絹本着色淡軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1980*横480 画サイズ:縦1070*横340



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狩野 栄信:安永4年8月30日(1775年9月24日)〜文政11年7月4日(1828年8月14日)。




江戸時代後期の絵師で、木挽町(こびきちょう)家狩野派8代目の絵師である。幼名は英二郎。号は法眼時代は伊川、法印叙任後は伊川院、玄賞斎。院号と合わせて伊川院栄信と表記されることも多い。



父は狩野惟信。子に木挽町を継いだ長男狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次男朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五男狩野董川中信、宗家の中橋狩野家に入りフェノロサと親交のあった六男狩野永悳立信がいる。



父に「吾及ばず」と言わしめたという近世狩野派の名手。天明5年(1785年)11歳で奥絵師として勤め始め、享和2年(1802年)に法眼に叙す。文化5年(1808年)父惟信が死ぬと家督を継ぐ。同年、朝鮮通信使への贈答用屏風絵制作の棟梁となり、自身も2双制作する。文化13年(1816年)に法印となる。



茶道を能くし、松平不昧の恩顧を受けたといわれる。息子養信の『公用日記』では、能鑑賞会などの公務をしばしばサボって息子に押し付ける、調子のよい一面が記されている。こうした一方で画才には恵まれたらしく、現存する作品には秀作・力作が多い。



中国名画の場面を幾つか組み合わせて一画面を構成し、新画題を作る手法を確立、清代絵画に学んで遠近法をも取り入れて爽快で奥行きある画面空間を作るのに成功している。更に家祖狩野尚信風の瀟洒な水墨画の再興や、長崎派や南蘋派の影響を思わせる極彩色の着色画、大和絵の細密濃彩の画法の積極的な摂取など、次代養信によって展開される要素をすべて準備したと言える。

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「抱祝鑑」と巻止めにあり酒井抱祝のことかと思いますが、真偽のほどは解りません。



酒井抱祝:日本画家。明治11 年( 1878) 生。道一の男。名は惟一。酒井抱一系の画人

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拡大してみるとマンガチックに見えますが、とてもよく描けています。



ほんの数ミリに飛んでいる勢いが表現されています。



親が子に生きる術を与え、その子の生きるし術に頼った画家ともいえます


双幅秋冬山水図のうち冬 左幅 狩野養信筆 その5

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いつの世も同じところにとどまっていては進展がないことはやむを得ないことですが、進展を繰り返すのには多大な労力と伝統に対する葛藤があるようです。

双幅秋冬山水図のうち左幅 秋の図 狩野養信筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2120*横490 画サイズ:縦1071*横315



養信が後亡くなった原因は、生来病弱な上に、相次ぐ激務による疲れであったと推測されています。



狩野元信以来狩野派の課題であった漢画と大和絵の対立を昇華したことが、狩野養信の業績ですが本作品も土佐派のような大和絵の影響がうかがえます。



さらには南画の影響もうかがわれ、当時の日本画の主流が読み取れます。



狩野芳崖もこの影響を受け、初期の作品には明らかに狩野養信を師としていたことが理解できます。



この影響は橋本雅邦にも同様で、川合玉堂にも受け継がれました。その後、洋画の影響を受けて明治画壇が新たな流れに変遷していくこととなります。



さて双幅の両方を掛けて鑑賞しましょう。双幅や三幅揃いの掛け軸を掛けれる床の間はめっきり少なくなりました。

 

落款が右にある掛け軸は右に、落款が左にある掛軸は左に掛けるのが基本です。

 

このような基本を知らずに掛け軸を扱ってはいけません。



このように左右を反対に掛ける御仁はわりと多いものです。

忘れ去られた画家 蘆雁図 斎藤畸庵筆

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家内が一時退院してブログが復活したら、急激にアクセス件数が増えてきました。家内が一時入院したおかげで本ブログのアクセス件数が増えたという??? 

当方のブログはどちらかというとある程度知識がないと入り込めないブログなので、家内のブログの愛読者とは相入れないでしょう

本日の作品の作者である斎藤畸庵の作品はなかなか入手できないでいます。入手してもいまいちピンと来ず、売却したものもあります。どうも贋作があるようです。斎藤畸庵とともに収集したい画家である桑山玉洲はまだ真作にお目にかかっていません。

「林良」は今週の「なんでも鑑定団」に出品されましたが、真作ではなかったようですね。「林良」が描いたという作品は巷には数多く見受けられますが、ひとつとして真作はみたことがありません。そうそうあるものではないのですが、「なんでも鑑定団」に出品されたもののように無落款であれば古画としての価値があるようですね。

今回は残念ながら斎藤畸庵の得意とする山水画ではなく、花鳥画ですがその墨使いはなかなかのもののように思います。とうぜん「林良」には敵いませんが・・。

売却時の題名が「秋草鴨図」・・・・・???


蘆雁図 斎藤畸庵筆
紙本水墨軸装 軸先象牙(片側欠損) 合箱 
全体サイズ:縦2045*横905 画サイズ:縦1360*横730



「倣林良法 奇庵 押印」とあり、長崎において中国の元朝代から明・清代に至る諸家の作品を臨模していたという記述があることから、その当時の作品ではないかと推察されます。

「奇庵」とあるので「斎藤畸庵」か否かも含めて検証する必要がありますが、おそらく「斎藤畸庵」の作に相違ないと思われますがいかがでしょうか。「斎藤畸庵」の作ならば山水以外の「斎藤畸庵」の作品として貴重な作と言えるかもしれません。




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斎藤畸庵 :(1805−1883)文化2年に温泉街として有名な兵庫県城崎町の旅館「伊勢屋」に生まれ名を淳、字を仲醇、幼名を小太郎(後に文之助)といい、別号を息軒老人と称しました。文政3年、16歳の時に画家を志して京都に上り、南画界の重鎮 中林竹洞の門下に入り画法を学びます。



嘉永6年、49歳の時に竹洞の下を離れ、播州〜阿波〜讃岐〜長崎と諸国遊歴の旅に出て、晩年は東京の神田駿河台に住まいにしました。そして明治16年4月1日、2日の両日 長野県富士見町の「三光寺」での書画会に出席の後、甲府に赴き4月15日 甲府の旅館「佐渡幸」にて79歳で亡くなりました。

畸庵の描く山水画は神経質な細い線と点描表現、緻密な細かい筆致で描かれているのが特徴で一部の愛好家に大変人気があり、素晴らしい作品が多いのですが、畸庵自身は名誉や利益には一切興味がなく、世の中の流れには乗らず一貫して風流人として自身の人生を楽しんだので、確かな技量があるにも関わらず、南画家としては地味な存在です。しかし、近年その作品は高く評価され隠れた大家の一人として挙げられています。

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かなりの大幅なので普通の床の間では掛けることができないようです。軸先はかなり飴色になった象牙で味がありますが、片方が欠損しています。




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林良:中国,明中期の画家。生没年不詳。字は以善。南海(広東省)の人。若いとき,藩司奏差をつとめ,同郷の顔宗,何寅善に画を学んだが,花鳥画に最も秀でた。その後,工部営繕所丞に推薦され,仁智殿に奉職して錦衣衛鎮撫となった。画院では,著色花鳥画家の呂紀に対して,水墨花鳥画家として文人の間でも高く評価され,写意的な荒々しい筆墨によって,花竹翎毛(れいもう)の生態を巧妙にとらえた。活躍期は景泰から成化年間(1450‐87)である。

林良の真作が市場に出回ることはそうないと思います。下記の作品がネットオークションに出品されていましたが・・。



箱書きは田能村直入らしい・・・・、落札金額は40万?? 



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本作品がどのような作品を倣った描いたのかは不明ですが、下記の作品のようなものではなかったかと推測しています。



斎藤畸庵の補足説明

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晩年の竹洞の元で画、詩文を学び、嘉永6年、師・竹洞の死とともに遊歴の旅に出ます。時に畸庵、49歳。竹洞の盟友山本梅逸もその時、郷里の名古屋に戻っているので、いかに竹洞の人徳が高かったかがわかります。遊歴の旅は、郷里から四国、九州長崎へ、長崎来舶清人、各地の文人たちと交わったといいます。

後、東京に居を移し神田駿河台に住まいしました。明治16年、旅泊先の甲州にて亡くなりました。享年79歳。

彼の作品には、清浄な空気が漂っており、アブストラクトに近いような細かい描写は、師・竹洞の繊細さをより心の世界に閉じ込めた感があります。世の中が、開かれていく時代に一人、名利と離れ江戸の文人の世界に遊んだ文人と言えます。現在は知る人も少ない画家ですが、彼自身も著名になることに繋がることを別に求めていなかったような気がします。殺伐とした現代になって高く評価されている理由が充分に理解できる画家です。



 江戸の半ばから維新にかけてようやく庶民にまで詩書画が、拡がり有名無名の文人たちが日本の山海市井を遊歴する土壌ができた矢先に文明開化になりました。絵画史の中で、変わりゆく社会に対する孤独感の中、南画を描き続けた画家の一群を「遅れてきた文人」ともいえます。

文人画は端的にいえば詩心を絵画化したものであると言えるでしょう。文人画家の最高の褒め言葉として「詩書画三絶」という言葉があります。まず詩があり書がありその上の画であり、そのいずれもが諸人を絶しているほど素晴らしい、という意味です。

鑑賞者の側から考えると、明治期には、まだ詩を書き、詩を読む市井の人々がいました。それが、詩は、読めるが、書けなくなり、そして美の愛好家たちは、読むことも書くことも覚束ない現代にいたっております。芸術は、それを理解する大多数の人々がいてこその芸術であり、「遅れてきた文人」たちは、理解者少なき芸術家です。現代は文人画の受難の時代です。というより文人画の存続の危機と言えるでしょう。



奄美大島に死んだ孤独の画家・田中一村もまた「遅れてきた文人」の一人であるといえます。一村の若描きの画は、まさに文人画そのものであります。中央に集中する文化に、嫌気がさした一村は、彼なりの文人画を最後に描いたのかもしれません。そして、「遅れてきた文人」とは、何かを考える上で、この斎藤畸庵の画は、ある示唆を与えています。現代人が失った文人の心意気を取り戻すことが大切です。

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テレビの「なんでも鑑定団」に全面的に賛同はできない点はありますが、古いくていいものを紹介してくれるにはいい企画だと思います。鑑定人が表現する奥の深い意味を理解してもらいたいものです。

我々の跡を継ぐべき人にはモノづくりの気概というものが薄れていますね

西王母図 狩野常信筆

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昨夜は郷里の大館鳳鳴高校時代の東京近郊にいる同期で還暦を祝う会。42年ぶりで会う人がほとんどでしたので、名前と顔が一致せず・・。

**********夜噺談義

一括して扱う拡販を客先に依頼していますが、どうもいまひとつ感触がよくありません。当方はこれを現時点では利の多いビジネスにしようとは思ってもおらず、フィーだけ高くなるという誤解が客先にあるようです。

当方は今のままでは受注がばらばらで効率が悪く、客先にとってもばらばらでスケールメリットが充分出来ていないことを、将来に向けてよくしていこうと考えているのです。当方の利はゼロで構わないのですが、グループでの全国レベルや将来性をよく考えていただきたいものです。

フィーの回収、重層の代理店の改善、さらにはメーカーに懐に入り込んだネゴシエーションは今のままでは改善の可能性はありません。互いに協力してよくしようという点の理解が得られないようです。

どうしたら今の問題点を解決できるのかを議論して欲しいものです。現場独立採算、しいては支店独立採算というデメリットから脱却するにはどうしたらいいのかも・・。いまなぜ支店ごとに仕組みが違い、年度ごとに赤字が出る部署が違うのか・その原因をよく考えていただきたい。

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さて、作品を鑑賞するには描いてる題材を理解しておくことが前提となります。日本画は本来そのようなに謂れのある題材が多いのですが、現代の日本人はそういうことに無知になってしまったようです。無知であること自体を認識しないと救いようがない・・

「綺麗ね〜」とか「これ本物?」というのはすでに鑑賞のポイントから外れています。

西王母図 狩野常信筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿角 清水不濁添上付合箱
全体サイズ:縦1950*横645 画サイズ:縦1110*横485



そういえば狩野常信の作品は「なんでも鑑定団」に出品されていました。

鑑定額は真作でありながら6万円でした。水墨画で席画程度の作品ということもあり、廉価な評価でしたが、本作品のような着色画は少しは評価が高いように思います。



多作であったことと、下記の補足説明にあるように「狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。」ということが評価に影響しているのでしょう。



画家個人による評価もありますが、模作(粉本)が多く、多作なうえに真贋の断定が難しいということも影響しています。ただ、出来の良い作品は、水墨画のなかにも「さすが」と思わせる作品が多くあります。

要は出来の良いものを見極めることが肝心かと思いますが、あまり狩野派の後期の作品は真贋よりその出来のこだわったほうがいいかもしれません。



本作品の魅力はその顔の表情もありますが、衣服の紋様です。下の写真の鳳凰紋様はとくに際立っています。平和の時に現れるということで吉兆紋様とされていますが、単色で衣服の紋様としてさらりと描いているのはなかなかないように思います。



狩野 常信:寛永13年3月13日(1636年4月18日) 〜 正徳3年1月27日(1713年2月21日)。江戸時代前期の江戸幕府に仕えた御用絵師。父は狩野尚信。幼名は三位、右近と称し、養朴・耕寛斎・紫薇翁・古川叟・青白斎・寒雲子・潜屋などと号した。子に後を継いだ長男・周信、別に浜町狩野を興した次男・岑信、さらにそれを継いだ甫信がいる。

狩野常信の落款は特徴的で、印章は香炉印を用いていますが、真贋は後学とします。



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狩野常信補足:1650年(慶安3年)父の尚信が没した後、15歳で狩野派(木挽町狩野家)を継いだ。同年剃髪、養朴と号し家光にお目見え、後に家綱の御用を勤めた。狩野探幽にも画を学び、古来より狩野元信・狩野永徳・狩野探幽とともに四大家の一人とされ高く評価されてきたが、意外にも狩野派内での地位が上がるのは遅い。



叔父・狩野安信に疎んじられたからだと言われる。その間に和歌に興じ、徳川光圀の愛顧を得、幕末に著された「古画備考」には多くの歌が収録されている。また、探幽同様に古画の学習に努め、後に「常信縮図」(60巻、東京国立博物館蔵)と呼ばれる膨大な古画鑑定控え、粉本・画稿を残した。そうした甲斐があってか、天和2年(1682年)二十人扶持を拝領、宝永元年(1704年)に法眼、同6年(1709年)には法印に叙し、翌年には二百石を加増された。




狩野派、特に木挽町狩野家の繁栄の基礎を固めたと評価される一方、晩年の画風は穏やかで繊細なものに変わり、以降の狩野派が弱体化し絵の魅力が失われる原因となった。

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西王母(せいおうぼ、さいおうぼ):中国で古くから信仰された女仙、女神。姓は楊、名は回。
九霊太妙亀山金母、太霊九光亀台金母、瑶池金母、王母娘娘などともいう。王母は祖母の謂いであり、西王母とは、西方の崑崙山上に住する女性の尊称である。すべての女仙たちを統率する聖母。東王父に対応する。

日本画に描かれた西王母と武帝周の穆王が西に巡符して崑崙に遊び、彼女に会い、帰るのを忘れたという。また前漢の武帝が長生を願っていた際、西王母は天上から降り、三千年に一度咲くという仙桃七顆を与えたという。



現在の西王母のイメージは、道教完成後の理想化された姿である。本来の姿は「天?五残(疫病と五種類の刑罰)」を司る鬼神であり、『山海経』の西山経及び大荒西経によると、「人のすがたで豹の尾、虎の歯で、よく唸る。蓬髪(乱れた髪)に玉勝(宝玉の頭飾)をのせていて、穴に住む。」という、半人半獣の姿である。 また、三羽の鳥が西王母のために食事を運んでくるともいい(『海内北経』)、これらの鳥の名は大鶩、小鶩、青鳥であるという(『大荒西経』)。


参考作品:狩野常信筆 「西王母図」(板橋区立美術館蔵)

この作品より本作品のほうが西王母の正体を如実に表現していると思いませんか?




人間の非業の死を司る死神であった西王母であったが、「死を司る存在を崇め祭れば、非業の死を免れられる」という、恐れから発生する信仰によって、徐々に「不老不死の力を与える神女」というイメージに変化していった。

やがて、道教が成立すると、西王母はかつての「人頭獣身の鬼神」から「天界の美しき最高仙女」へと完全に変化し、不老不死の仙桃を管理する、艶やかにして麗しい天の女主人として、絶大な信仰を集めるにいたった。王母へ生贄を運ぶ役目だった怪物・青鳥も、「西王母が宴を開くときに出す使い鳥」という役どころに姿を変え、やがては「青鳥」といえば「知らせ、手紙」という意味に用いられるほどになったのである。また、西王母の仙桃を食べて寿命が三千年も延びている。

漢末の建平4年(紀元前3年)、華北地方一帯に西王母のお告げを記したお札が拡散し、騒擾をもたらしたという記述が、『漢書』の「哀帝紀」や「五行志」に見える。

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清水不濁の鑑定書が付いていますが、これは参考程度と考えておいていいでしょう。



とかく大げさな鑑定書はかえって怪しいと考えたほうが無難です。

さて、物事の本質をとらえて、今回の当方からの提案をどれだけ客先が考えるか楽しみでもあります。差し出された「西王母の桃」を食べるか、捨てるか・・・。



忘れ去られた画家 山静夕長図 野口小蘋筆

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昨日は家内の実家まで出かけて、家内への表敬訪問です。よって、昨日は投稿をお休みしました。ゆず湯につかりのんびり・・・。

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少子高齢化に対する対策のひとつの柱として女性の活用が挙げられています。

女性の職場での活用の障害となるのは結婚、出産、育児による就業のハードルがあります。しかし、よく考える出産以外は男性にも当てはまることで女性にとってだけ特別なことではなく、いままでの風習上、女性のほう男性に対して結婚、育児によって犠牲を強いられてきただけでかと思うことがあります。

とはいえ、女性の意識の高さも求められます。まだまだ、職場の第一線で働くという女性の意識の高揚が不足しているように思えます。建設業ではまだまだ・・・。

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さて本日は女性初の帝室技芸員(現在で例えるなら人間国宝?)を拝命し、翌年には正八位に叙せられています。

明治期には女性画家が数多く輩出し、その多くが南画家として世に出ています。

野口小蘋、奥村晴湖などがその代表ですが、近年では中村餘容がいます。男の顔負けの作品を描きますが、明治期においては男女同権の現れともいえるでしょうね。NHKドラマの「新島八重」などに代表だれるように当時の日本男児の気概が女性に移ったような気がします。現代では女性の気概が男に移っている???

本作品は女性ならではの丹精さ、清らかさのある作品となっており、奥原晴湖と比較するとその作風が理解しやすいでしょう。

山静夕長図 野口小蘋筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1910*横590 画サイズ:縦1030*横420



美人画でも有名な画家ですが、大正期には多くの山水画を製作しています。本作品もその頃の作品かと思いますが確証はありません。賛には「山静夕長」とあることから、夏景山水図と思われます。




野口 小蘋(のぐち しょうひん):弘化4年1月11日(1847年2月25日)〜 大正6年(1917年2月17日)。明治期から大正期に活躍した南画家、日本画家。奥原晴湖とともに明治の女流南画家の双璧といわれた。名は親子(ちかこ)、字は清婉。同じく南画家の野口小?は娘。



野口小蘋の作品は「なんでも鑑定団」に花鳥図が出品されています。


補足

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弘化4年(1847年)、徳島出身の古医方松邨春岱の長女として大坂難波に生まれる。幕末期にあたる幼少時から詩書画に親しみ才能を示す。両親は小蘋を画業に就かせるため安政元年(1854年)、8歳のときに四条派の石垣東山に入門させた。



文久2年(1862年)、16歳で画の修行のため父と北陸を数ヶ月にわたり巡遊。このとき福井藩の絵師島田雪谷から画の手解きを受けている。この北陸の旅の途次、父の春岱が客死。

残された母を養うために慶応元年(1865年)に近江八幡へ遊歴し売画している。慶応3年(1867年)には京都へ移り、関西南画壇の重鎮である日根対山に師事し、4年の間に山水画・花鳥画を学んだ。また対山を通じて日下部鳴鶴・巌谷一六・長三洲・川田甕江、実業家で煎茶好事家の奥蘭田など多くの文人と知己となる。この頃から「小蘋」を名乗っている。このころ関西浮世絵などにも啓発を受けている。画の修行の傍らで小林卓斎に就いて経学を修めた。




明治4年(1871年)に上京、麹町に住んで画業を本格化。美人画や文人の肖像画などの人物画を多く手がけている。明治6年(1873年)、皇后御寝殿に花卉図8点を手がけている。画業の傍らで岡本黄石に詩文を学んでいる。

明治10年(1877年)、31歳で野口正章と結婚、翌年に娘の小?が生まれる。正章も対山の門弟であった。野口家はいわゆる近江商人の家柄で滋賀県蒲生郡に本家を置く酒造業「十一屋」を営み、甲府柳町(現甲府市朝日町)に営業所と醸造工場があったほか、義父の野口正忠(柿邨)は自身も漢詩を読む文化人で、大木家当主と同じく著名な文人達と交流し、伊藤聴秋・依田学海・杉聴雨・矢土錦山・市河得庵・小野湖山・谷如意・江馬天江・富岡鉄斎谷口藹山・瀧和亭・田能村直入・川村雨谷・村田香谷など、当代一流の文人との交流が生まれた。



小蘋は明治8年から野口家とも親交のある甲府商家の大木家に滞在しており、明治11年(1879年)には一家で甲府へ移っている。甲府では奇観で知られる御岳昇仙峡も描いた作品などを製作しており、商標図案や贈答物の絵付などを手がけ野口家の商売にも携わり、現存する大木家の美術コレクションである大木家資料(大木コレクション)にも小蘋作品が含まれている。

夫の正章は新しい事業としてビール醸造に着手していた事業に失敗して廃嫡となり、明治15年(1882年)には一家で再び上京す
る。

小蘋の画才は日本画の復興運動に際して注目され、数々の博覧会や共進会で入賞し関東南画を代表する画家と評されるようになる。明治17年(1884年)、東北地方を巡遊。明治17年(1885年)、上州へ遊歴。英照皇太后に作品を献上し、皇室や宮家など御用達の作品を多く手がけた。明治32年(1889年)に華族女学校画学嘱託教授を務め、明治35年(1902年)には恒久王妃昌子内親王や成久王妃房子内親王の御用掛を拝命する。



明治37年(1904年)には女性初の帝室技芸員を拝命し、翌年には正八位に叙せられた。明治40年(1907年)、文展審査員に選ばれる。大正期には山水画を多く手がけ、大正天皇即位に際しては三河悠紀地方の風俗歌屏風」制作を宮内庁から下命、大正4年(1915年)には竹内栖鳳の「主基殿屏風」と対になる御大典祝画屏風「悠紀殿屏風」を献上する。大正6年(1917年)2月、71歳で死去。門弟に下平霞舟など。



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母のために絵を売ったり、夫は事業に失敗するなど苦労がうかがわれます。どのような女性だったのでしょうか?

本作品は遠近がきちんと描かれ、実直そうな性格かなと???

源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆 その2

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昨日Yさんと大宮でお会いしました。米吉さんは具合はどうなのだろうか? 「痔じゃないの」だと・・・、「ん?」 

クリスマスイブの男4人で遊ぶのもどうかと・・・。

今日から家内は再々入院です。明日はいよいよ手術です。

さて本日の作品は岡本豊彦の作品ですが、これで二作目だと思います。

先週の「なんでも鑑定団」に岡本豊彦の作品が出品されていました。この作品は贋作でしたが、本作品は如何?

松村景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強いと評されますが、まさしくその評価にたがわぬ出来の作品の作品だと思いますが・・・。

60歳になってから3度目の結婚をし、6人の子供をもうけた画家です

源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1860*横480 画サイズ:縦1000*横290



賛には「天保己亥(天保10年 1839年)10月朝製」とありますから、豊彦が62歳頃の作と推察されます。




源頼朝の石橋山の戦いは、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになるが、本作品はその山中に籠った時を描いた作品です。



同じ題材では前田青邨の作品が有名ですね。本作品は外から描き、前田青邨は洞窟内部を描いています。




以前に勤務した会社の応接室にも前田青邨の同じ歴史画の作品があり、びっくりしました。


岡本豊彦:安永2年生まれ、弘化2年没(1773年〜1845年)、享年68歳。字は子彦、号は紅村、丹岳山人。備中の人で京都に出て、松村呉春に学んで、景文とともに四条派の双壁をなした。明治初期の代表的な画家である塩川文鱗や柴田是真は門人。景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強い。亮彦はその養子。

山水の描き方には品格があります。



補足

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生い立ち:安永2年7月8日(1773年8月25日)、備中国窪屋郡水江村(現在の岡山県倉敷市水江)にある裕福な「酒屋」岡本清左衛門行義の庶子として生まれる。しかし、実際に豊彦が生まれたのは、水江の岡本家ではなく、倉敷の向市場町にあった教善寺という真宗の寺であったといわれる。母が隣の中島村から岡本家に女中奉公に来た時に豊彦は生まれ、庶子故に母の実家で少年時代を送った。幼い頃より、黒田綾山に白神?々(鯉山)と共に師事し、絵を習っていた。寛政3年(1791年)、豊彦19歳の頃に黒田綾山の師である福原五岳の門に入る。寛政9年(1797年)豊彦25歳の時に、父清左衛門の死をきっかけに、一家を挙げて京都へ上洛することとなり、西阿知遍照院の住職、大圓和尚の世話で、当時高名であった松村呉春門下に入る。



呉春門下時代:豊彦は呉春門下で研鑽を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文(松村景文)、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。






また、30歳になるやならずやの若年の頃、江戸きっての高名な画家谷文晁、国文学者であり歌人である橘千蔭、狂歌界の泰斗で旗本武士の蜀山人こと大田南畝、六樹園こと石川雅望(宿屋飯盛)、京都では重鎮画家の岸駒、加茂社家の正四位下安房守の加茂季鷹、従五位下肥後守の歌人香川景樹らと同席を許され、一筆染めることまで出来たという。それも、有栖川宮家と親交があったことによることかと思われる。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。

教育者としての豊彦:呉春の没後、豊彦は「澄神社」という画塾を開き、多くの弟子を育成した。その中には、塩川文麟、柴田是真、田中日華、養子である岡本亮彦などがいる。また、同門には松村景文、柴田義董、小田海僊などがいる。

家庭環境:家庭的には恵まれなかったようで、比較的晩婚であったと思われる豊彦は、53歳の時、文政8年(1825年)10月21日に正妻佐々井美穂に先立たれた。

それから、継室として太田君を迎えたものの、彼女もまた天保3年(1832年)12月3日に26歳の若さでこの世を去っている。このとき豊彦は60歳であった。まもなくして、洛西西野木原から木村多美を迎えて三室とした。彼女との間に男児1人・女児5人をもうけるが早くに亡くなり、そこで、尾張国知多郡半田村の小栗伯圭(通称:半七)の4男の亮彦を養子として迎えた。

死:弘化2年7月11日(1845年8月13日)に73歳で、大和旅行中に病没した。岡本家の過去帳によると戒名は「龍鱗院梥月常光居士」となっている。

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いい作品は軸先が意外と重いものが多いように思います。象牙で出来ていると一層、高級感がありますね。



表具はわりとあっさりしていても、それなりに配慮があるものがいいようです。




「なんでも鑑定団」に出品された贋作と比較してみていかがでしょうか?

掛け軸は100本あると本物でなおかつ価値のある作品は1本程度でしょうか? そのような数からいいものを選び出さなくてはいけません。それでも高く売れるものでもありません。

ある意味では小生の忌み嫌うところのマニュアックな蒐集なところがあるかもしれません。しかし、今のままではなくなっていくものですので、いつかは再評価される時がくるでしょう。

雲龍紋様四方盤 伝南京赤絵

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さて今年も大詰めとなりました。私生活でも大詰め・・。家内は本日から再々入院となります。
何事も平穏無事を祈るばかりです。

本日は少し小さめの各皿です。南京赤絵というのですが、日本製かもしれません。

雲龍紋様四方盤 伝南京赤絵
合箱
幅160*奥行160*高さ388



実にのびやかなる龍の描き方です。



色絵ものびやかです。



裏面の高台内にはなにも銘はありません。少し厚め胎土と釉薬です。



色は少し青味がかった白釉薬です。虫喰はありません。清朝初期の南京赤絵か、京都あたりの製作か・???



全体に傷もあり、年代はありそうです。日本製の赤絵はどこか窮屈な描かれ方ですが、本作品はユーモラスでのびやかなところがいいですね。


龍の紋様は下記の作品もありますが、いったいどこの産地の作品やら??  仙台の骨董市で購入したように記憶しています。

こちらの作品は虫喰いもあります。


呉州赤絵龍紋様手持鉢
箱入 142*142*高さ94

先日のNHKの「壷の美?」とかいう番組で飯茶話の特集をしていましたが、坂本竜馬愛蔵の飯茶碗は染付の龍の紋様でした。
おそらく有田方面?? 割れた茶碗を直して使用していましたとのこと

次回は呉須赤絵の特集。



さて、生まれ来るもの・・・、龍の子か。



男子誕生 ばら図 須田珙中筆 その2

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昨日、無事男子出産。母子ともに元気です。

還暦を迎えてからの初めての授かりものです。

家内の子宮筋腫の部分摘出後の全数摘出、小生の前立腺経過観察、不妊治療、妊娠、前立腺全摘手術、出血による緊急入院、そして昨日の帝王切開による出産と慌ただしい経過のなか、いろんな方々にご迷惑をかけながら、そして協力いただいての男子誕生となりました。

自分でいうのもなんですが、確率的にはかなり奇跡的な確率で誕生したかもしれません。

テレビもでかいが・・、大きなお腹をかかえて再入院。「関取、本日の調子はいかがですか?」というインタビューで病院に送り出し・・・



ベビーの第一印象は「おむすび君」・・  出やすいように逆三角形???



本日は御祝いの紅白の薔薇。

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ばら図 須田珙中筆絹本着色軸装 軸先象牙 太巻二重共箱入 
全体サイズ:横725*縦1390 画サイズ:横505*縦430



日本が海外から高く評価されているものに「和の心」があります。その心を学ぶには骨董もその一助になろうかと思います。



本ブログもその骨董への理解を深めるのに少しでも参考になれば幸いかと思って続けております。



「太巻き」の収納となっています。「太巻き」については本ブログの愛読者には説明はもう不要ですね。

「再鑑」となっていますので、製作時期と箱書きの時期は違います。



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須田珙中の作品は以前に下記の作品を投稿しました。

柿下牛之図 須田珙中筆
絹装軸水墨淡彩紙本箱入 
画サイズ:横508*縦357



ハート型の目がかわいい・・。




須田珙中:日本画家。福島県生。東美校卒。名は善二。松岡映丘・前田青邨に師事。帝展・文展審査展・新文展・日展で活躍し、瑠爽画社に参加。のち日展を脱退して院展で活躍。日本美術員賞受賞。東京芸大助教授。日本美術院同人。昭和39年(1964)歿、56才。



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なにはともあれ、これからがまたたいへんそう・・・

明末呉須赤絵花鳥紋大皿 明末呉須赤絵特集

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昨日は挨拶回り後、在席社員で仕事納め。壇上で幹部が小生の男子誕生を披露され、冷や汗ものでした。「幼稚園の運動会はたいへんだ。」と脅かされる始末

本日は呉須赤絵の作品群です。基本的に小生は「呉須赤絵」には日本製は含まないとしています。

中国の明から清にかけての赤絵の器がそれほど多くはありませんが、少しずつ集まりました。むろん生産地、時代不詳で推定の域を出ない作品もあります。

今回はちょっと大きめの皿です。よくインターネットオークションで見かける器ですので、大量生産されていたものでしょう。
むろん、コピーにも要注意です。



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明末呉須赤絵花鳥紋大皿
全体サイズ:口径398*高台径*高さ98



絵を観ていると愉しくなります。



可愛らしいですね。



鳥の絵がのびやかに描かれています。



何の紋様でしょう? 



雑器ならではの力強さ。



高台は砂付高台。



本作品の色絵は古九谷のように虹色に輝きます。



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そのほかには下記の作品があります。

最近投稿しました鉢は同じ系統?の作品と思われます。

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢合箱
口径240*高台径*高さ118



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こちらの作品は同じ系統にあるものの虫食いもなく砂高台もきれいになっていることから、時代がだいぶ下がった作品であるように思います。



右のように完品でも時代が下がると魅力も少なくなり、評価はだいぶ落ちますし、コピーも警戒しなくてはならないかと思います。




明末呉須赤絵龍花鳥文皿
合箱入
全体サイズ:口径385*高台径220*高さ75




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中皿程度の大きさになりますが、こちらは時代は本日投稿した作品に時代が近いもののように思われます。

呉須赤絵鳥花文様八寸皿
古箱入
径261*高台径137*高さ43



鳥の絵がコミカルです。



これぞ砂付高台。



箱には「なんきん砂?鉢」。このような杉箱が味があっていいですね。




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こちらは青い色彩が強い作品ですが、同系統の作品のように思われます。雑器として作られており、いずれもこの系統の作品群は大量生産されてと思われ、出来不出来があり、出来のいいものを探すのがいいのですが、完品が少ないようです。



明末呉須印判楼閣紋様青手大鉢
口径380*高さ83



出来としては実に大雑把です。



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こちらはもっともサイズが小さくなり七寸皿の大きさとなりますが、鳥を抽象的に描いたような実に洒脱なデザインの作品だと思います。持ち主かなにかのサインが漆朱で高台に銘され、これもまたべったりとした砂付高台とともに味があります。



このくらいのサイズだと完品でいいデザインのものがまだ入手できるようです。

明末呉須赤絵花鳥文皿全体サイズ:口径209*高台径123*高さ36



鳥・・、現代アート・・。

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良く描かれたデザインの作品ですが、焼があまいので産地が中国?? 日本??と迷うところです。詳しい方がいたらアドヴァイスがほしいところです。

呉州赤絵龍二兎花鳥図尺大皿
明末清初期
口径303*高さ52 合箱



赤絵はその絵の出来、不出来があるので愉しめる絵の作品を選ぶことが肝要のようです。このような絵はもうアートのようだと思いませんか?



疎文よりも写真で愉しんでください。



これは兎らしい。



いずれガラクタコレクション・・・、使うもよし。
大きな皿が多いので普段使いには使いづらく、飾り皿となりますが基本的には絵の面白さが生命線になります。この手の皿は絵の面白さで購入するのが一番でしょうね。たとえ補修跡があってもそのほうが面白みがあります。人生と同じ・・、面白い絵を描いた人間が得ということ。




影青刻花碗 その2

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影青の器については「なんでも鑑定団 情報局」が一番わかりやすいかもしれません。

影青、若しくは青白磁とひとことがいってもいろんなタイプの器が存在します。

当ブログでも以前に投稿していますが、時代もいろいろで近代の写しもあります。

一番似た作品は下記の作品でしょう。

影青刻花碗 その1
口径182*高さ67

本日の作品のほうが陰刻がはっきりしています。

影青刻花碗 その2
合箱入
口径176*高台径59*高さ69



今から700年ぐらい前の中国南宋時代から元時代にかけて、江西省景徳鎮窯で作られた青白磁の鉢、若しくは碗で別名を影青(いんちん)と称されます。影青刻花は青白磁に刻花したもの(影青)と呼び、刻まれた筋に釉薬がたまり、そこだけ少し色が濃くなり、なんとも静謐にして艶かしい様相となります。



透明釉をかけるですが、それにわずかに鉄分が入っている為に、強い還元炎焼成をすると青く発色します。




一部に黒く斑点として残ったりし、文様が花の文様となり珍重されます。



本作は文様の刻に勢いがあり、鮮明に表現されよい出来になっています。また、わずかに湾曲した器の形で大きさは茶碗として用いることもできます。



高台が浅く持ちづらいのが難点ですが、本系統の形成が」高台を低く作り中を浅く削りこみ、その部分に円筒形の台をあてて窯の中で焼いているためです。



そのため台の跡が褐色になって残りますが、本系統の作品の約束事のひとつです。



近代による写しが多く出回っていますので要注意です。定窯なども同様な近代コピーが多く出回っています。

本作品は印刻が勢いがあり良い出来になっています。製作時期については当方では詳しくはわかりません。初夏のお薄用のお茶碗には最適かもしれません。



北宋時代のものということで売られていましたがどうでしょうかね??

普段の抹茶用やおかずの盛り付けにいかがかな?






在原業平東下扇面図 冷泉為恭筆 その3

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さて、今年もあと2日です。
洗濯、掃除、炊事と病院見舞いで忙しいですが、本日は大掃除です。

今年もなにかといろいろ忙しかったし、いろいろありました。

年末年始に帰省しないのは何十年ぶりかです。今頃郷里ではしんしんと雪が降っているようでしょうね。恒例の同級会は本日の夕方です。

母子ともども何事も初めてのことばかりで奮闘中です。昨日は初めての入浴です。また三時間おきには授乳なので家内はかなりの寝不足です。こちらはメールで元気づけるだけ・・


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現在の建設業についてOBと雑談しましたが、強く感じることは時代の変遷についていけていないということです。今までは談合やバブルの時代は、原価が大まかであっても利益は工事開始後に創出できたでしょうが、現在は情報が早く、単価がぎりぎりまで切り詰めた単価で見積もられています。工事入手時の判断で損益がほとんど決定づけられるという自覚が薄いのです。工事中利益回復が追加や工夫、変更で得れる確率は低くなっています。

さらに建設業の営業は技術や値段に知識の足たりない営業専門が行っており、原価の見極めが安易すぎるため物価上昇時や契約後の変更の制約が大きい現在は損益が悪化することが多いのです。

入手時に営業や技術の担当がきちんと情報を共有化していないと、競争で勝っても赤字の決算になる工事となります。工事途中の損益管理も経理の担当も加えて行わないとぎりぎりにならないと決算の数字が把握できない状態になります。

「赤字工事はとらない、させない、つくらない」が基本です。「つくる」というのは入手時の安易なコスト削減案は赤字工事をつくるようなものだということです。小生も自ら入手判断や損益管理し、管下社員にこのことを徹底して教育していきます。

デフレ兆候にときには発注段階には利益が出やすいのですが、インフレ傾向の時には赤字に陥りやすいので受注時には慎重を期す必要があるという基本を忘れないことです。受注判断する最終判断は利益がでるかでないかです。その基本を忘れた愚か者になってはいけません。


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本日で冷泉為恭の作品は今回で三作品目となります。

業平東下之図 冷泉為恭筆
紙本着色絹装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:縦1272*横660 画サイズ縦364*横549:高195(扇面)




扇面の紙は油が塗られているのか固くなったおり、どうしても古いものは折れが出やすいようです。



来年の干支の馬を描いた作品です。ちょっと「東下り」は題材として暗いかな?



冷泉為恭の描線は近代画家でもかなり高い評価を受けています。



表具を直すべきか、このまま古いままにしておくか迷うところですが、この表具はそのままとすることにしました。




本ブログには投稿していませんが本作品と同様な作品で仙台の汲古堂より購入した作品がありましたが、こちらは資金調達のために売却しました。

扇面に騎馬する人物を繊細にかわいらしく描かれており、落款は「蔵人所衆正六位下式部省大録菅原朝臣為恭賀之」とあります。印章、落款、出来から判断していい作品かと思います。あとになって手放さなくてもよかったと後悔している作品のひとつです。


扇面騎馬之図 冷泉為恭筆
紙本着色絹装軸箱入 
全体サイズ:縦1310*横440 画サイズ:高さ190(扇面)



小さく描かれた作品ながら、人と馬との大きさのアンバランスさがありながら、よく描かれています。



落款を本作品のものと比較してみましょう。

 

本作品と同じ印章が用いられています。

 

この作品は1万円しない金額で売却したと記憶しています。打ち捨てられていく作品のひとつでしょうね。小生のガラクタコレクションとして残してあげましょう。




在原業平の東下りについてはあまりにも有名なので説明は省略します。

忘れ去られた画家 寒川魚捕水墨山水図 日根対山筆 その4

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30日まで整理、片付け・・、狭いマンションながら一人ではたいへんです。郷里のお寺の住職に頼んでいた厨子の修理が終了し、一年半ぶりに仏壇に供えることができました。



祖母の代から受け継いだご本尊です。

仏壇は長野の職人にオーダーメイドした桜の木製の仏壇です。義父の時にも郷里の仏壇を製作したのでこれで二つ目の仏壇のオーダーメイドです。義父の時は緑の漆塗・・。

既製よりもやはり毎日、拝んだり、御供えしているとオーダーメイドがいいですね。仏壇でも家でもお金はかかりますがオーダーメイドのようがいろいろと勉強になります。

片付けもあらかた目処がついたので、先日投稿しました青磁のお茶碗でお薄を一人で一服。



義母が「幸紀」の3日目のお祝いに作ってくれた餡子餅・・。さすが10個頂いても食べきれません。少し目が開くようになってきました。

郷里や海外からもお祝いの電話。また子供服やらオムツやらが年末に届いてきて、片付けているのに荷物が多くなってしまった。



青磁のお碗はすこし大きめですが、男にとってはちょうど良いサイズです。女性が多くなってこのような大振りの茶碗が使わない傾向にあるようです。





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本日の作品の作者は先日投稿しました女性初の帝室技芸員(現在で例えるなら人間国宝)の画家「野口小蘋」の師によるものです。本ブログではすでに四作品目となります。

寒川魚捕水墨山水図 日根対山筆
絹本水墨淡彩 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1890*横667 画サイズ:縦1161*横493



賛には「寒川魚捕 辛酉□□日 写於□山楼上 日少年 印」とあり、1861年(日根対山48歳)の制作された作品です。印章は「日長之印」と「少年」の白文朱方印累印が押印されています。冬の景色を描いた良い出来の作品であり、保存状態の非常に良い作品です。



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日根対山:1813年(文化10年)生まれ、1869年没(明治2年)享年57歳。幕末の南画家。大坂生。名は盛長、字は成信・小年、号に対山、茅海、錦林子、同楽園等がある。画は貫名菘翁に学び、また鉄翁祖門に私淑した。特に山水画に長じて筆墨雄大にして自ら秀爽の趣致を帯び、近世南画壇の巨擘と称される。当時中西耕石と並び称されていた。日根野対山ともいいます。




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補足:日根又衛門の3男として生まれる。幼い頃より絵を好みはじめ土佐派に学んだが、のちに南画を岡田半江、経学と書を貫名菘翁に師事。和泉佐野の豪商で文人としても知られる里井浮丘の庇護を受け中国絵画の臨模などで画業を磨いた。また浮丘と関係した文人との交遊が生まれた。29歳で京都に移り、梁川星巌・藤本鉄石・中西耕石らと親交を結ぶ。円山派の影響を強く受け、南画家鉄翁祖門に私淑した。主に山水画を得意とする。酒を好み、豪放な性格を反映してか、極めて洒脱で大らかな気分に満ちた作品が多い。門弟に野口小蘋*・猪瀬東寧・奥蘭田・跡見花蹊・中丸金峯らがいる。



*野口小蘋は女流南画家で、甲府商家野口正章の妻。野口家と親しい甲府商家の大木家は近世・明治期の当主が文人画家を招聘し作品を蒐集している(大木コレクション)。対山の門人には野口小蘋のほか三枝雲岱や中丸精十郎など山梨県出身者が多く、これらの甲州画家との縁は野口家や三枝・中丸の師である甲府の文人画家竹邨三陽を通じて生じたものであると考えられており、大木コレクションにはこれらの画家の作品群が含まれている。

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郷里では年末に雪のしんしんと降るときに、このような作品を飾るのもおつなものです。もちろん暖かいマンションの一室でですよ。

今年は年末にばたばたし、図案と歌まで決まっていたのですが、年賀状を書く時間がありませんでした。少し落ち着いたら挨拶状を書こうかと思っています。

ブログをお読みいただいている皆様には、この場をかりまして年末の挨拶をさせていただきます。

本年中はたいへんお世話になりあました。来年もよろしくお願いいたいます。
皆様が良いお年を迎えられますことを、心より祈念申し上げます。


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