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Channel: 夜噺骨董談義
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ふりだし

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新年あけましておめでとうございます。

今年は年末いろいろばたばたしまして年賀状を書く時間をとれず、たくさんの方から年賀状をいただきながら、当方は結局出せずじまいとなりました

誠に申し訳なく、今後の挨拶にて非礼をお詫びするつもりですので、ご容赦願います。

さてとそろそろ投稿する作品が少なくなってきました。非公開を加えると1000作前後の作品を整理したことになります。みなさまからコメントに支えられながらよくぞここまで整理できたものだと思います。

本日は「還暦となったから」、「長男が生まれたから」、「投稿する作品が無くなったから」とは一切関係の無く「ふりだし」の投稿です。

「ふりだし」と称される小さな壺。野点のときに金平糖などを入れる一種の菓子器です。

 

振ると中から金平糖が出てくる。「さくらさん」から頂いたお菓子にも付いてきた器です。 



いつ誰が作ったのでしょうか? 箱書きがありますが詳細は不明です。



雑に作っているようでもありますが、茶味がありますね。信楽の灰被りの釉薬や胴下部の紋様が景色となり、また手に持ちやすく、振るといろんなものがふりだしになるようなおもちゃのような、魔法の器のような、そんな気持ちにさせる器です。

蓋をとってペン立もかわいいかも・・。

ともかく、今年もまた独断と偏見を盛り込みながら、ガラクタ作品の投稿が続くこととなりそうです。本年もよろしくお願いします。





寒山拾得之図 倉田松涛筆 その10

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今年になってからの第1回目の投稿です。年始の挨拶や夜のコミュニケーションなどで忙しく、昨夜帰宅してから慌ただしくまとめた原稿です。

箒を持って大きな蛙を捕まえて焼いて食べようしている図ではありません。中国の僧「寒山」と「拾得」を描いた図です。

「自由な発想や生き方の奥義のようなものは、世俗を離れないとなかなか体得できないものかもしれません。」という意味合いの画題です。「寒山拾得図」についてはあまりにも有名な画題なので、今さら説明の必要はないとは思いますが、感嘆に下記に記しておきました。

本ブログにおいて、倉田松涛の作品はすでに10作品前後紹介しました。知名度の少ない画家ですが、最近「なんでも鑑定団」にも出品されており、根強いファンのある画家です。本作品はなかなかの佳作で、「なんでも鑑定団」に出品されたような凡作とは格段に出来の差があると思います。

私の郷里であります秋田出身の画家であり、続けて蒐集したい画家のひとりです。本ブログでは秋田出身の画家として、福田豊四朗、寺崎廣業、平福穂庵、平福百穂が同じように取り上げております。

寒山拾得之図 倉田松涛筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱入 
全体サイズ:横560*縦2065 画サイズ:横*縦



今まで共箱の作品は見受けたことがありませんので、倉田松濤の共箱は珍しいと思います。



倉田松濤筆による所蔵作品である「鐘馗図」と同様に賛の部分に「応需」と署されていることから誰からの依頼によって描かれた作品であることが伺えます。




その賛は



「間道國清寺 緇衣有両□ 寒巌?枯木襄 千古出遼詩 
応需写於東孝牛籠百三談畫□楼□ 
来世菩薩松涛道者□青又二ノ童併題」です。

五言律詩のようであすが、残念ながら当方では意味はよくわかりません。
「國清寺に向かう間道において、二人の僧侶がいた? 寒さ厳しく枯木? 千古の昔からの詩が蘇る?」

*1月9日 家内からの指摘により訂正*
「聞道國清寺 緇衣有両師 寒巌枯木襄? 千古出遠詩」
「道を聞く國清寺、師とする二人の僧侶有り 寒さ厳しく枯木? 千古より遠き詩出ずる?」



箱書きには「寒山拾得之図 絹本條幅 百三談畫坊主人筆」とあり、「裏には松涛自題 押印(「百三談」の朱文白長印)」とあります。

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「寒山拾得」についてはご存知の方が多かろうと思います。数多くの画家が題材としてよりあげていますが、当方の所蔵には本作品のみとなります。



寒山拾得(かんざん じっとく):中国,唐代の隠者,中国江蘇省蘇州市楓橋鎮にある臨済宗の寺・寒山寺に伝わる寒山と拾得の伝承詩人である寒山と拾得のこと。9世紀ごろの人。確実な伝記は不明。



二人とも奇行が多く、詩人としても有名だが、その実在すら疑われることも・・。

寒山の詩の語るところでは,寒山は農家の生れだったが本を読んでばかりいて,村人にも妻にも疎まれ,家をとび出して放浪の末に天台山に隠棲しました。既成の仏教界からも詩壇からもはみ出した孤高な隠者として300余首の詩を残しています。



拾得と豊干(ぶかん)とは,寒山伝説がふくらむ過程で付加された分身と認められます。拾得は天台山国清寺(こくせいじ)の食事係をしていたそうですが、近くの寒巌かんがんに隠れ住み乞食のような格好をした寒山と仲がよく、寺の残飯をとっておいては寒山に持たせてやったという。その詩は独自の悟境と幽邃(ゆうすい)な山景とを重ね合わせた格調高い一群のほかに,現世の愚劣さや堕落した僧侶道士を痛罵した一群の作品があり,ともに強固な自己疎外者としての矜持を語っています。



寒山は文殊菩薩の化身、拾得は普賢菩薩の化身と言われることもあり、非常に風変わりなお坊さんだったようで、後年様々な絵画に描かれています。



たいていは奇怪な風貌で、なんとなく汚らしい服装で描かれている。そして、怪しげな笑い顔で描かれることが多い。また拾得が箒を持っている作品が多い。決して箒を持って蛙を叩き潰して焼いて食おうという図ではありません。



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補足

唐の時代(七世紀頃)、寒山という人がおり、風狂の化け物と称されていました。カバの皮を着衣し、大きな木靴を履いていたと言われています。寒山は普段は寒厳の洞窟に住んでいたそうですが、たびたび国清寺に訪れていました。

寺に来ては奇声を上げたり、奇異な行動をとって寺のもの困らせていました。しかし、追い払おうとすると彼の口から出る言葉はその一言一句が悉く道理にかなっており、よく考えてみると、その心には道心が深く隠されている。

その言葉には、玄妙なる奥義がはっきりと示されていた。寺の給仕係りをしていた拾得とは仲良しで、いつも寺の僧たちの残版を竹の筒につめて寒山に持たせて帰らせていました。

寒山と拾得を導いたのは豊干という国清寺の僧。

豊干は、二人について「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。寒山は文殊菩薩で、国清寺に隠れている。拾得は普賢菩薩。二人の様子は乞食のようであり、また風狂のようでもある。寺へ出入りしているが、国清寺の庫裡の厨では、使い走りをし、竈たきをしている」と言ったという。

「寒山拾得」というのはこの二人の伝説の事。寒山と拾得の二人は、のちのち墨絵の題材となり多くの画家が絵を残しています。日本の有名な画家たちも「寒山拾得図」を描いています。

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倉田松濤:明治〜大正期の日本画家。慶応3年(1867)生〜昭和3年(1928)歿。秋田県出身。

巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。

宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。平福穂庵に師事。巽画会・日本美術協会会員。昭和3年(1928)歿、63歳。

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本作品は「見ようと思えばわからなくなり、わからなくなったと思うと見えるようになる。ゆえに、ものを見ようと思えば、まずその姿かたちを見てはなるまい。心の目で見るのだよ。」・・という教えの画題でもあります。

「イエスマン」の多い現代、表面上だけで抜擢すると現状維持や保身ばかりの幹部となり、会社の益とならない幹部が多くなりがちです。改革、改新がより速く求められる現代において、会社においても「本当の人を見る眼」が必要です。

倉田松涛と「寒山拾得」は共通した人柄があるようにも思います。


古染付 楼閣紋様五寸皿

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弊社が最近力を入れている「現場安全本舗」、興味のある方はアクセスしてみてください。今年は安全商品だけではなく各種の商品販売の販路を広げていくことに注力していこうと考えております。

さて本日の作品はよく赤絵などに用いられる楼閣の紋様の染付皿です。

古染付 楼閣紋様五寸皿
合箱
口径150*高台径70*高さ30

万里の長城らしきものに楼閣、そして旗・・、上にあるのは月???



虫喰いがあることから古染付に分類されてもよい作品と思われます。



車高台の跡がないことや高台がわりときれいなことから清朝初期の可能性があろうかと思います。



この楼閣らしき紋様をどこかで見たことはありませんか??



そう先日、投稿した明末呉須赤絵花鳥紋大皿(全体サイズ:口径398*高台径*高さ98)にある図柄に似ていませんか?



明末の呉須赤絵に見られる紋様と共通することから同じ窯か影響を受けたものと推察されますが根拠はありません。それとも模造品???

蒐集をしていくうちにいろんなことが垣間見られて面白いものです。

青花染付鉢

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本作品は清朝期の染付ではないかと思われます。


お茶碗にはちょっと大きめです。やはり鉢でしょうね。またまた普段使い・・。普段使いばかりで困ったものです。

源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆 その2

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昨日Yさんと大宮でお会いしました。米吉さんは具合はどうなのだろうか? 「痔じゃないの」だと・・・、「ん?」 

クリスマスイブの男4人で遊ぶのもどうかと・・・。

今日から家内は再々入院です。明日はいよいよ手術です。

さて本日の作品は岡本豊彦の作品ですが、これで二作目だと思います。

先週の「なんでも鑑定団」に岡本豊彦の作品が出品されていました。この作品は贋作でしたが、本作品は如何?

松村景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強いと評されますが、まさしくその評価にたがわぬ出来の作品の作品だと思いますが・・・。

60歳になってから3度目の結婚をし、6人の子供をもうけた画家です

源頼朝石橋山図 岡本豊彦筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1860*横480 画サイズ:縦1000*横290



賛には「天保己亥(天保10年 1839年)10月朝製」とありますから、豊彦が62歳頃の作と推察されます。




源頼朝の石橋山の戦いは、平安時代末期の治承4年(1180年)に源頼朝と大庭景親ら平氏方との間で行われた戦いである。治承・寿永の乱と呼ばれる諸戦役のひとつ。源頼朝は以仁王の令旨を奉じて挙兵。伊豆国目代山木兼隆を襲撃して殺害するが、続く石橋山の戦いで大敗を喫した。敗走した頼朝は山中に逃げ込み、船で安房国へ落ち延びてこの地で再挙することになるが、本作品はその山中に籠った時を描いた作品です。



同じ題材では前田青邨の作品が有名ですね。本作品は外から描き、前田青邨は洞窟内部を描いています。




以前に勤務した会社の応接室にも前田青邨の同じ歴史画の作品があり、びっくりしました。


岡本豊彦:安永2年生まれ、弘化2年没(1773年〜1845年)、享年68歳。字は子彦、号は紅村、丹岳山人。備中の人で京都に出て、松村呉春に学んで、景文とともに四条派の双壁をなした。明治初期の代表的な画家である塩川文鱗や柴田是真は門人。景文の花鳥画と並んで豊彦の山水画と賞せられ、呉春より文人画的な要素が強い。亮彦はその養子。

山水の描き方には品格があります。



補足

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生い立ち:安永2年7月8日(1773年8月25日)、備中国窪屋郡水江村(現在の岡山県倉敷市水江)にある裕福な「酒屋」岡本清左衛門行義の庶子として生まれる。しかし、実際に豊彦が生まれたのは、水江の岡本家ではなく、倉敷の向市場町にあった教善寺という真宗の寺であったといわれる。母が隣の中島村から岡本家に女中奉公に来た時に豊彦は生まれ、庶子故に母の実家で少年時代を送った。幼い頃より、黒田綾山に白神?々(鯉山)と共に師事し、絵を習っていた。寛政3年(1791年)、豊彦19歳の頃に黒田綾山の師である福原五岳の門に入る。寛政9年(1797年)豊彦25歳の時に、父清左衛門の死をきっかけに、一家を挙げて京都へ上洛することとなり、西阿知遍照院の住職、大圓和尚の世話で、当時高名であった松村呉春門下に入る。



呉春門下時代:豊彦は呉春門下で研鑽を積み(呉春の作品はすべて模写したと伝えられる)、実質的に四条派を作り上げることになる。呉春が与謝蕪村から学んだ俳諧的文芸や南画的文学と、円山応挙から学んだ写生画風を一緒にした、親しみやすく情趣的な画風を豊彦も受け継ぎ、呉春門下筆頭に挙げられ、京洛のうちでは「花鳥は景文(松村景文)、山水は豊彦」と謳われるほどの画家に成長を遂げた。また、人物・花鳥も巧みに処理し、広い画域を誇った。その名声は当時、京都で有名であった岸駒に拮抗するほどであったという。






また、30歳になるやならずやの若年の頃、江戸きっての高名な画家谷文晁、国文学者であり歌人である橘千蔭、狂歌界の泰斗で旗本武士の蜀山人こと大田南畝、六樹園こと石川雅望(宿屋飯盛)、京都では重鎮画家の岸駒、加茂社家の正四位下安房守の加茂季鷹、従五位下肥後守の歌人香川景樹らと同席を許され、一筆染めることまで出来たという。それも、有栖川宮家と親交があったことによることかと思われる。またそのためか、宮中のご用を承るようになり、現在でも修学院離宮などに作品が残っている。

教育者としての豊彦:呉春の没後、豊彦は「澄神社」という画塾を開き、多くの弟子を育成した。その中には、塩川文麟、柴田是真、田中日華、養子である岡本亮彦などがいる。また、同門には松村景文、柴田義董、小田海僊などがいる。

家庭環境:家庭的には恵まれなかったようで、比較的晩婚であったと思われる豊彦は、53歳の時、文政8年(1825年)10月21日に正妻佐々井美穂に先立たれた。

それから、継室として太田君を迎えたものの、彼女もまた天保3年(1832年)12月3日に26歳の若さでこの世を去っている。このとき豊彦は60歳であった。まもなくして、洛西西野木原から木村多美を迎えて三室とした。彼女との間に男児1人・女児5人をもうけるが早くに亡くなり、そこで、尾張国知多郡半田村の小栗伯圭(通称:半七)の4男の亮彦を養子として迎えた。

死:弘化2年7月11日(1845年8月13日)に73歳で、大和旅行中に病没した。岡本家の過去帳によると戒名は「龍鱗院梥月常光居士」となっている。

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いい作品は軸先が意外と重いものが多いように思います。象牙で出来ていると一層、高級感がありますね。



表具はわりとあっさりしていても、それなりに配慮があるものがいいようです。




「なんでも鑑定団」に出品された贋作と比較してみていかがでしょうか?

掛け軸は100本あると本物でなおかつ価値のある作品は1本程度でしょうか? そのような数からいいものを選び出さなくてはいけません。それでも高く売れるものでもありません。

ある意味では小生の忌み嫌うところのマニュアックな蒐集なところがあるかもしれません。しかし、今のままではなくなっていくものですので、いつかは再評価される時がくるでしょう。

李朝小皿  午之助予告編

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米吉さんから待望の絵との「午之助」が届きました。早速、弊社内の女性陣に公開して、PRしておきました。一個一個の手作りですが、量を生産できたらインターネット販売できそう・・・。手作りなところに味があるのですが・・。

今までの作品も傑作ぞろいですね。



下記の作品などはタイガーズファングッズに最適かも。




さて、「午之助」に乞うご期待

本日は以前の干支作品・・、「寅」といったら朝鮮ですね、で本日は李朝の作品

本日の作品は15センチほどの皿です。製作年代、製作場所は不明ですが、売主は李朝と言っています。

李朝小皿
漆塗黒箱入
口径150*高さ40*高台径45

見込みには重ねて焼いた跡の目跡がはっきり残っています。ニュウも釉薬のヒビもあり水がしみこむことによって釉薬が変化します。




売っている時は汚れていました。わざと古色をつけて売っている骨董商もいますので、汚れているから発掘品だとか古いとかいうのは決めつけられません。私はきちんと洗って売るべきと思っています。



削った鉋の跡、釉薬を刷毛?で勢いよく掛けたか、または漬けて掛けたか、釉薬に変化が見られます。



高台の廻りに釉薬がまとわりついて、景色になっています。



「高台は力強くあくまでも素朴なものです。」という表現をしたいところですが、「高台が力強い」というのはどのような高台をいうのでしょうかね?



李朝だからなんでも良いというのではなく、李朝は白磁の釉薬に変化に面白みがなくては価値は皆無といっていでしょう。そのような観点からは、本作品は釉薬の変化が乏しいほうといえます。



お湯を入れたりして釉薬の変化が愉しめる平茶話に使えるといいのですが、あくまでも本作品は皿です。要とも含めて李朝でいいものは数多い中でほんのひとにぎりだと思います。



本作品を区別すると、可能性があるのは李朝か唐津、基本的には同じ流れのカテゴリーです。李朝であったにしても初期の可能性はあるものの初期から後期まで幅が広く、どの時期にあたるかを断定するのは難しそうです。



いずれそれほど価値のあるものでもなさそうなので普段使いですね。李朝崇拝の風潮がありますが、もっと冷静にものを見る必要があるようです。

李朝は一つ間違うとただの小汚いものでしかないと思います。



景色を愉しむことのできる器、お湯やお酒を入れることで釉薬が変化する器としてのみ李朝の器の存在価値があるのでしょう。

試しに本作品にお湯を注ぐ前と後を比較してみましょう。

入れる前の見込み



入れた後の見込み



貫入部分の違いがはっきりしてきますが、やはり景色になるのにはしばらくかかりそうです。

入れる前の裏側



入れた後の裏側



貫入部分には即時、色の違いが出てきますが、数分ではやはり違いはまだ少ないようです。

貫入部分に水分が浸み込み、いい景色になるのには使い込み必要があるようです。お皿を盃に見立てて使い込むか。そういえば青森の五所川原から美味しそうなお酒が届いていました










松籟 菊池契月筆 その2

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先日投稿しました倉田怒涛の「松涛」の意味は松の梢(こずえ)に吹く風、また、その音のことです。または松韻といますが、一般的には「松籟」といいます。

本日はその「松籟」という題がつけられている作品の紹介です。

作者である菊池啓月は当ブログでは一度だけ投稿したことがありますが、工芸品の可能性があるため説明は削除しております。

麗人図 伝菊池契月筆
和紙淡彩額装 310*400

現在も人気のある画家のひとりで高雅で理知的な雰囲気をたたえた人物描写で高い評価を得ています。

本作品はまたまた素人の直感で購入しました。直感は外れもあれば当たりもあるものですが、なかなか確率は上がらないものです。

松籟 菊池契月筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1195*横558 画サイズ:縦280*横421



美人画が欲しいところですが、この「松籟」もまた清涼たる良さがある作品です。



ひとり、松林で松籟を聞く・・。



そのようなことをこのブログを読まれている方の幾人がされたことがあるでしょうか?



野に遊べば虫の音が、林に遊べば風の音が、森に遊べば小鳥のさえずりがいかほど人の心を安らかにするものか。



お茶会の待合にでも掛けておきたい一点です。



鉄絵草紋筒茶碗 磁州窯 

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本ブログへのアクセス件数が400を超えるようになってきました。特異な分野の割には増えているのはなぜでしょうか???

うち捨てられているものに美しさや使いようを見出すのも骨董の魅力のひとつですし、骨董で培われた能力のひとつです。。

本日は茶碗としては使えるのは珍しい磁洲窯の筒茶碗の作品です。

鉄絵草紋筒茶碗 磁州窯 
合箱
口径90*胴径100*高台径69*高さ125




明時代の磁州窯の作品で発掘品(堀の手)とのことですが、詳細は不明です。



高台は豪快で釉薬は掛けられていません。胴の部分には隣で焼いた器との接触によってくっついた跡があります。大量生産によるものですが、これもまた魅力のひとつでしょう。



口縁部分には金繕いがありますが、これはこれでマイナスではなくいい味を出しています。この欠けか、そのほかの何らかの理由でうち捨てられた可能性は否定できません。



発掘品なら、どうして埋められたかは不明です。本作品の良さは奔放な筆遣いの鉄絵の絵付けでしょうが、この良さは大量生産には受け入れられなかったということでしょう。



そしてもう一つの魅力は、その造形の作りのスピード感です。



本作品は何かに似ていると思いませんか? そう浜田庄司の鉄絵の作品です。鉄絵茶碗と比較してみましょう。



呉べてみるとよくわかると思うのですが、姿、絵付けはよく似ており、感じる魅力も同じものがあります。

近年、中国では発掘調査が進み、いろんな発掘品が出てきており、以前は貴重であった品が大量に出土し、評価が低くなってきており、精緻な品の官窯の品のみが高価になっていると聞いています。ただ、本作品にように素朴な味のある作品は重宝すべきかと思いますが、現在の中国には理解できない美学のようです。

本作品は筒茶碗や花入れに使えます。ただ筒茶碗は冬用のお茶碗ですので、熱めのお湯を注ぎますので、このような作品は高台部分の胎土が薄いので、お茶碗を持つとき、とくにすすぐ時には暑くて持てないかどうかチェックする必要があります。

慣れると別段問題ないのですが、楽などのお茶碗と違い、この土は熱伝導率が高いので、知っていないと高台の底に手を触れると、突然熱く感じてしまい持てないことがあります。



いずれなにか醤油や油や物を入れる器であったものでしょう。今は前の所有者によって立派な箱に収まっています。

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磁州窯:中国の宋・元代の代表的な民窯。狭義の磁州窯は河北省の観台鎮,彭城鎮周辺の古窯をさすが,河北,河南,山西,山東の華北一帯で広く焼かれている。

ざっくりとした陶胎に厚く白化粧を施した上に搔落しや鉄絵,三彩で文様を描いており,陶枕にとりわけ魅力あるものが多い。

唐時代,河南省の鞏県(きようけん)窯,宝豊窯などで三彩,白磁,黒釉磁が生産されており,この伝統が磁州窯に受けつがれ北宋,金,元,明,清,そして今日まで日常の雑器を中心に生産を行っている。

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皆さんの身の回りにも茶味のある作品があるかもしれませんよ。茶味のあるものを見出す感性は日本人特有のものです。大事に育てたいもので、この感性は仕事にも通じるものだと思っています。

唐子図 狩野探信筆 その2

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狩野探信については最近投稿しました下記の作品があります。

郭子儀図 狩野探信筆 
絹本水墨淡彩 軸先 合箱
全体サイズ:縦1920*横529 画サイズ:縦1103*横421

この作品を投稿したときには「鍛冶橋狩野派第2代 狩野探信守政(狩野探幽の長子)」との混同がありましたが、本作品は「鍛冶橋狩野派第7代 狩野探信守道(狩野守邦の息)」の作品です。

唐子図 狩野探信筆 
絹本水墨淡彩 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1165*横605 画サイズ:縦320*横495



本作品はあくまでもわ私の直感ですが、真作のように思われます。実に雰囲気がいいように思います。



すっきりとして品格の良い作品です。蝶と唐子・・、なにか縁起物なのでしょうか? 持っているものにも蝶の紋様です。

唐子と蝶の図は江戸期に流行したようです。たとえば平戸の焼き物には唐子の数によって厳然たる差があり,七人唐子は献上品,五人唐子は平戸藩御用,三人唐子だけが一般用として使用するという決まり事がありました。




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狩野探信:天明5年(1785年)〜天保6年(1935年)。江戸後期の画家。狩野守邦の長男。名は守道、別号に興斎。狩野守邦(探牧)の息。鍛冶橋狩野家第七代。二世探信守政と区別するため「守道探信」と呼ばれています。


 

幕府絵師として法眼に叙せられ、名手として世に聞こえたそうです。天保6年(1835)歿、享年51才。しばしば徳川将軍家の御用を勤めました。



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「名手として世に聞こえた。」というのも本作品をみると納得ができます。現在では真贋をとやかくいうほどのこともない評価となっています。



保存箱にこのような落札札が同封されていました。何の関係のないものもあることが多いので要注意ですが、これはどうも本物のようです。いつ頃、どこの入札会でしょうね。

金百十円・・・、昭和の初めまでなら大金のようですが・・。

狩野探信守道は以前に紹介しました狩野了承の師でもあります。

狩野探信守道は狩野派の中でも大和絵風の作品を得意とした絵師です。大和絵に巧みであったせいか、大和絵が多く残されています。狩野了承は大和絵の範疇から飛び出した絵が多く、それを許した師である狩野探信守道のおおらかな人柄が窺い知れます。


我が家の唐子?も元気です。良く寝て、よく動き、よく飲みます。



婦久女之図 柴田是真筆

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痛みが進んでいるのを忍びず、ちょっと無理をして購入しました。欄間額のように表具されていましたが、痛んでおりほぼまくりに近い状態でした。さて、どうしたらいいものか?

婦久女之図 柴田是真筆
絹本茶漆絵 額装
画サイズ:縦367*横545



本作品の印章は以前に投稿した下記の作品と同じようです。

母子雀之図 柴田是真筆
絹本茶漆絵 額装
画サイズ:縦310*横300



このようなお多福の作品は柴田是真系統では下記の作品を投稿しています。

福娘之図 綾岡有真筆
絹本着色 軸先鹿角 古箱
全体サイズ:縦1840*横560 画サイズ:縦1120*横420

いずれにしてもこのようはお多福さんのような作品を柴田是真も描いていたようです。



扇子の部分の絵柄も吉祥の図です。



鶴も小さくながらよく描けています。



柴田是真というと下記の作品を思い起こします。下記の作品と同時期の作品とすると80歳代の頃の作品と推察されます。

鶴扇面図 柴田是真・河鍋暁斎筆
紙本着色絹装軸木製軸先箱入 
全体サイズ:縦1030*横542 画サイズ:横500*扇面縦158



これでもかという描写力にはいつも感じいるものがあります。



顔の表情に描き方は・・・、そう京都肉筆浮世絵の流れを感じます。




またそのあどけなさは下記の作品を思い起こします。

児戯之図 柴田是真筆
絹本着色軸装東京美術倶楽部売立品 
全体サイズ:縦*横 画サイズ:横730*縦1110

美術鑑賞はひとつの連想ゲームです。鑑賞するときに心は時代と分野の世界を超えて駆け巡ります。ひとつの連想は心の自由の糸口のように思います。

真贋を云々も大事ですが、記憶力と連想力が美術鑑賞では大きなウエートを占めます。これは仕事も同じことです。最近はこの力が大きく落ち込んでることを感じます

午之助 アンド 忘れ去られた画家 馬之図 古市金蛾筆 

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米吉さん製作の干支記念作品「午之助」です。きれいに梱包され、箱に収まって送られてきました。心遣いに感謝、感激です。

相変わらず細部に凝っています。凝っているものは「骨董」に通じるとか・・。



根付のように将来、高値になるかもしれませんね。弊社でネット販売したいのですがいかがでしょうか?



一番の気に入ったのは後姿・・、なんといっても愛嬌と哀愁があります。

さて本日は「午之助」にあやかって干支である馬の作品です。

古市金蛾・・・この画家を知っている人はかなりの日本画の通ですね。

馬之図 古市金蛾
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1190*横620 画サイズ:縦420*横510



本ブログでお馴染みの「岡本豊彦」に師事しています。南画の作品よりトボケタ感じが良くて本作品を購入しました。



「丁卯春日写」とありますので、1867年(慶応2年頃)の作品で、古市金蛾が62歳の作品です。地元の岡山県で活躍した画家ですので地元では人気のようですが、あまり人には知られていないようです。




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古市金峨 (ふるいち-きんが ):1805−1880 江戸後期-明治時代の画家。文化2年10月、児島郡尾原村(倉敷市)に生まれる。17、18歳の時京都に赴き、岡本豊彦(とよひこ)の門にはいり絵画の研鑽に励み四条派をまなぶ。



天保(てんぽう)の初め郷里の備前児島郡尾原村(岡山県倉敷市)にかえり,画塾をひらいた。それゆ当初の画風は四條派の画風ですが、40歳前後から南画を取りいれ画風を一変させました。したがって若作は四條派、中期以降は南画の画風です。

明治13年2月14日死去。76歳。名は献。通称は啓三,哲蔵。別号に藍山。作品に「竜虎」「蘭亭曲水図」。岡山県では古書画、骨董・古美術と言えば古市金蛾と言わるほど地元では人気がある。

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なんといっても、とぼけた表情がいいですね。鼻毛を出したとぼけたオヤジ・・、どこかその辺にいそうな奴。



ぺろりと舌を出してマイペースで仕事をするおばさん・・、これもまたその辺にいそう



午年でも馬車馬のように働かず、我々還暦過ぎたものはマイペースが大切という今日のテーマです。



わが家にもマイペースがひとり・・・。

初期伊万里草紋盃

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最近海外において日本酒がブームのようです。日本の酒文化の代表格はなんといっても日本酒でしょう。焼酎もありますが、本ブログで取り上げる骨董においては、酒器も数多くある日本酒に軍配が上がります。

本ブログでは酒器はあまり取り上げていませんが、小生があまり日本酒を嗜めないからではありません。いい酒器は非常に入手が難しいのが理由で、あまり特筆するような酒器は所有しておりません。

酒器はなんといっても徳利と盃ですね。古来からの徳利の一番人気は李朝の雨漏徳利でしょうね。あとは古唐津、古備前、この3種でしょうね。織部、志野とありますが、この3種には敵いません。

では盃はというと、やはり古唐津、志野でしょうか。

いつかは李朝の徳利で、そして古唐津の盃で一献といきたいのが酒好き、骨董好きの夢でもあります。

本日は最近購入したばかりの伊万里の素朴な染付作品の紹介です。伊万里の盃は骨董ではマイナーな方かもしれません。本作品は伊万里の初期であろうか、古伊万里であろうか?・・・いずれ酒好きにはどちらでもいいことです。

伊万里蘭草紋盃
口径58〜64*高台径26*高さ45



この歪んだ形が手の中にすっぽりと入り、しっくりきます。これほどのものは今までにありませんでした。これは窯の中で歪んだもので、隣で焼かれたものとひっついたりして変形した自然の造形です。



このような蘭を紋様とした伊万里の盃は数多く存在します。揃いもので大量生産されたのでしょう。このように歪んだ作品も多くあります。ただ、手に持ってしっくりくるもの、見込みがある程度きれいなものは数が少ないようです。

本作品のように発掘品も多く、金継した状態で使えるものはまだいい方で、ひっつきや歪みでとても使いものにならないものまで売りに出されています。いずれ基本的には雑器の部類です。

表と裏ではまったく違う表情を見せる盃で、手にすっきりくること、紋様が面白いこと、金継がきちんとされていることが魅力となっています。  



改めてよくみると、本作品の歪みと金繕いが景色となっています。逆にこの歪みと金繕いがなければ、いくら古い伊万里とはいえ、なんら魅力のないただの雑器と言えましょう。

初期の伊万里はその図柄と素朴さゆえ愛されるものですが、伊万里のような磁器の盃は端正すぎると魅力に乏しく、使っていても飽きがくるものです。唐津や志野に劣る点といえましょう。  



人の美と同じで、歩んできた道のりが滲み出た作品に魅力があるのです。歪んでも、高くなくても、素朴でも、酒器の盃はその滲み出た味や形、紋様に魅力があります。小さな割には良いものは高価なのはそういう理由のような気がします。あるようでない、そんな器です。



本日の器は生まれながらに、周囲に邪魔をされながら美貌には人一倍恵まれなかったのですが、その後、発掘と金繕いという周りの人のお世話で人並みになったものです。関わった人々に感謝、感謝の器です。



冷たい感じのする伊万里の酒器の中で本作品はとてもよい部類に入る作品であろうと思います。

小さな器に、己の人生を思い浮かべて、美味しい酒を飲む・・、いいね〜。

伊万里白磁蓮弁紋輪花鎬盃

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昨日にて本ブログにアクセスしてくれた方が延べで30万人となりました。多いのやら少ないのやら???

酒器のうちの盃を投稿しましたので、投稿する作品が少なくなってきたこともあり、幾つか連続して「盃」を投稿してみたいと思います。

昨日の盃に似た作品は別冊太陽に紹介されています。



本日は同時期に製作されたと思われる白磁の盃です。

伊万里白磁蓮弁紋輪花鎬盃
口径64*高台径29*高さ41



伊万里の白磁しのぎ盃で、見込みに降りものもなくきれいになっています。製作年代は不明ですが、江戸期の作品のようです。



外側立ち上がりに傷はあるもの奇跡的にホツやニューはなく、白磁もきれいに焼きあがっています。



胴部分が蓮弁紋様で口縁が輪花となって、雅で小さいながら存在感のある作品です。しのぎの部分は光に透けて見えるのが美しさとなっています。



しのぎが縦に紋様となった縞白磁の初期伊万里の盃はよくありますが、口縁が輪花になって、しのぎが蓮弁紋様の作品は江戸期の伊万里には珍しいと思われます。



デパートに売っている最近の作品のように見えてしまうところを、そうはなっていないのはやはり時代というものなのでしょう。

今のような照明のない時代に紋様を透かして楽しもうということはなかったと思います。行燈などのろうそくや油の照明ではこのような愉しみはなく、日中の太陽の光でしか透かして見れなかったのでしょう。

しのぎは滑って落とさないようにという実用的なものであったように思います。それゆえに縦縞紋様の作品がほとんどで、連弁の作品が少ないのでは・・・。

その時代、どのようにして使われていたのかに考えを馳せながら一献。

別冊太陽には似た作品として下記の作品が掲載されています。






名所泥絵 無落款

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天気がよくなったので週末はちょっとお散歩してきました。

広い庭に陽が差して気持ちのよい天気ですが、風が強く寒い日曜日でした。



門を塗装直ししていました。このあたりには大きな家が多いようです。



よく見てみると塀にイモリが・・。



塗装の匂いで棲家から出てきたのかな? ヤモリは別名「アカハラ」と称して子供の頃は追いかけ廻しましたが、イモリは家の守り神として大切にしました。走るとかなり早いのですが、寒いのでこの日は動きません。ちょっと触ってみましたがピクリともしませんでした。




「泥絵(どろえ)」という一連の絵画をご存知でしょうか? 奈良、平安時代に製作された「泥絵(でいえ)」とは違う作品群です。

江戸末期に日本橋と第一の宿駅、品川の間に位置する芝増上寺付近で売られていた江戸名所を中心に描いたお土産物品のようです。落款もなく、作者はほとんど不明で、稚拙という点からもあまり評価されることもなかった作品群です。


名所泥絵 無落款
紙本淡彩 
縦275*横420



画面の上半分は空に覆われ月が見えている。描かれた人物は余りにも小さく、顔の判別など出来そうにもない。線は繊細ではないが、豪放であり、彼方の消失点に向けて突き抜けていく。果てしない遠近法は、江戸の空間の広がりを感じさせる。この様なスタイルの絵は「泥絵」と呼ばれていた。



柳宗悦は泥絵を「大津絵」と並ぶ「民衆絵画」として評価していますが、柳が泥絵をそのようにカテゴライズする理由は、「無銘性」と、その「稚拙さ」によるところが多いと思われます。




「民画」と分類することに異論のある方も多かろうと思います。「大津絵」はある意味宗教的な意味合いを持ち一般大衆に受け入れられたと思われますが、「泥絵」はどうしても浮世絵と同じようにプロマイド的なイメージが強く富裕層のものと思います。

民衆の信仰のようなものに根付いたかどうかは疑わしく、地方の武士のように都会的な人?のものではなかったのでろうかという意見の人が多いでしょう。大量生産が難しいのでわりと高価であった可能性もあります。



民画か否かは別として、「無銘性」と「稚拙さ」の魅力は大きなものがあります。ただ稚拙とはいえ中には絵としても魅力を備えた作品があります。本作品もそのひとつと思っております。




絵の製作上、大量生産は難しく、また保存も難しいため、貴重価値も備わってくるものと思います。



このように古くなった絵は不思議な魅力を持ち始めます。

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泥絵(どろえ):江戸時代から明治時代にかけて描かれた浮世絵の一種。顔料に胡粉を混ぜ、直接、筆を用いて不透明な色調で描かれた浮世絵を指す。胡粉絵ともいう。作画者はほとんどの作品に落款がないため、不明な場合が多い。

遠近を強調した洋風の泥絵が流行した。一時的な絵であり、強烈な色彩を必要とする看板絵などに用いられていた。肉筆浮世絵の一種であり、江戸名所などが描かれた。江戸の終わりのほんの一時期、泥絵は産まれ、そして間もなく消えていった。存在した期間も短く、そして浮世絵ほど流通したわけでもない。

線や人物表現なども様式的、類型的であり、敢えて云えば、稚拙であるとも云える。その様なこともあり、泥絵は美術史に殆ど省みられなかった。

泥絵は主に「絵屋町」と云われた町で売られていた。そしてその主たる使用目的は旅人の国元への土産であったと云われている。特に泥絵の主題にもなっており、江戸名所の一つでもあった芝の神明神社前には沢山の本屋・絵屋が集まり、盛況であった。芝は増上寺を代表に、寺社の多い土地として知られており、伊勢神宮を勧請した神明神社もまた此処にあった。此の場所の名をとり、泥絵はまた「芝絵」とも称されたという。

東海道の出発点、日本橋と第一の宿駅、品川の間に位置する芝は、旅行者にとって東錦絵や江戸土産絵と呼ばれる絵を手に入れるには最適の場所であったであろう。泥絵はその店で描かれ、その場で売られていた模様だ。

現在残っている泥絵の殆どは署名の無い、無銘の作品である。然し日本最大級の泥絵コレクションである渡辺紳一郎コレクションには僅かな例外として二種類の署名が見られる。一つには司馬口雲坡と書かれ、もう一つには北雪と書かれている。彼等が一体どのような経歴の絵師だったか、誰の弟子筋に当たるかなどは現在には全く伝わっていない。浮世絵師のドロップアウトであった可能性もあれば、あまり売れていなかった洋風画家であった可能性もある。筆名から推測されるのは、司馬口雲坡は司馬江漢の、北雪は葛飾北斎のそれぞれ弟子筋に当たるか、乃至はその名を真似て付けた画人であったと云うことだろう。またそのサインの下に書かれているローマ字によるサインにも注目したい。ローマ字でサインを絵に入れるというのは司馬江漢や佐竹曙山もよくしていたことでもあり、これは雲坡や北雪が自覚的に「洋風画家」であったことの一つの物証でもあろう。

殆どの泥絵には落款や制作年月日などは記されていない。それ故、泥絵の制作の時期を正確に指摘することは難しいと云える。しかしながら、幾つかの画がその時期の謎を解く鍵となる。それは開国前後の港である。一つは浦賀へのアメリカ船団来航に備えた、旗本及び諸藩兵士による警護体制を描いたもの、即ち「お固めの図」であり、もう一つは一八五九年以降の横浜港である。それらのイメージから推測するに、泥絵の最盛期は一八五〇年代から六〇年代にかけてであろう。

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このような作品に魅力を感じませんか? 現在の価格は高価でないので、今では民画の資格が充分ありますね。

月の様子がいいですね、小さな人の描き方が面白いですね、海の青、空の雲・・・、夢中になるのはトカゲを追い回していた子どもの頃の好奇心とまったく同じもののように思います。

帰宅途中で額縁を探して、こんな額に入れてみました。ちょっとありきたりですが、これでこれ以上は痛まなくなるでしょう。







唐津窯変盃 江戸期

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酒器の中で垂涎の器のひとつが古唐津・・・。「備前の徳利、ぐい飲みの唐津」と酒器の趣味人には評されています。

唐津の作品群も幾つかに分類されますが、本作品は朝鮮唐津か斑唐津の分類かと思われます。

唐津窯変盃 江戸期
口径55*胴径50*高台径40*高さ55



長石に藁灰を混ぜて焼成する事で粘土に含まれる鉄分が青や黒などの斑になったものを斑唐津といい、独特のざんぐりとした風合いは茶器にも好まれます。また黒飴(くろあめ)色の釉と、白濁した藁灰の釉を掛けわけたものを朝鮮唐津といい、桃山時代から江戸初期に焼かれたものです。本作品はそのどちらに分類されるかは小生には正確には判断がつきかねます。



江戸期より前の朝鮮唐津は数が少なく、とくに盃は特に少ないらしいです



朝鮮唐津をご存知の方がほとんどかと思いますが、朝鮮唐津は唐津焼の一種ですが、朝鮮には存在せず日本独特な作品です。似たような部類に斑唐津と称されるものがあります。




ぶらりと入った銀座の骨董店の茶席で朝鮮唐津の花入れに花が活けられ、お薄をいただきながら「いい朝鮮唐津ですね。」と何気なく言ったら、「いかがですか? 今、売りに出しているのですが、購入をおひとりが検討しておられますが、気に入られたならどうぞ。」だと・・・・  恐る恐る「いや〜、お高くてとても。」といったら、「300万円程ですが、お安くしますよ。」だと・・



朝鮮唐津の盃は珍しく、徳利は発掘品や伝世品が少ないとは言っても、幾つかあるようですが、別冊「太陽」の記事によると古来の朝鮮唐津の盃は掲載されたこれ一個限りとのこと??? 


 
本作品は「江戸期の斑唐津」として売られていました。ただ、斑唐津というのには違和感があります。時代はあるものの江戸期というのにも自信がありません。



藁灰釉に鉄釉が掛けられているという、一般的な朝鮮唐津とは逆になっているように見ますが、たしかに朝鮮唐津とは逆になっているように見え、斑唐津にはこのような釉薬の変化のものはあるようです。

ただよく見込を見ると確かに鉄釉に藁灰釉が掛けられており、どうも藁灰釉が焼成時に下に下がったようにも思われます。焼成温度が高い場合に起こりうることで、このことでかえって景色に面白さが出ています。または釉薬を直接掛けたものでこうなったかもしれません。いずれにしても景色から朝鮮唐津の分類が正しいかと思われます。



現代ではたくさんの朝鮮唐津、斑唐津が製作されていますが、さすがに江戸期以前のような風格のある作品は少ないようです。鉄釉と藁灰釉の混合がその魅力ですが、もっとじんわりと釉薬が混合しているものだと思います。もともと雑器なので、力が入りすぎては近づけない領域の作品のように思います。それでも古唐津と見分けがつかないくらいの作品が多くあり、これが骨董として化けないかと心配するくらいです。



本作品も古いように見えますが、意外と新しいものであったり??? いちおう古そうではあります。

小生の知識と経験では陶磁器の領域はとても難しくてお手上げの状態です。数少ない経験からは、良い器のように思います。近代の作家もののようないやらしさがありません。



見込みの紋様は滝のよう・・・・、そう群馬の「吹割りの滝」・・・。群馬の同僚から招待されて泊まった温泉・・。本作品の銘は「吹割」。


お気に入りの盃で一献はいものですが、盃というものはその盃に思い入れがある場合以外は、やはり第三者的に見てもいいものでなくてはなりません。盃を選ぶにも審美眼があるかないか試されているのがすきものの常です。真の酒飲みたるものはいい器を選びましょう。

人生の割れ間に染み透る思い出にふけりながら一献・・、雑器とはいいながら酒は良き器で飲むのが良い。私の盃選びもまだまだ続きそうです。



秋景江山図 伝桑山玉洲筆

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小生がどうしても入手できない画家の作品の一つに桑山玉洲の作品があります。もう三作品目になりますが、どうも贋作が横行しているようです。釧雲泉の作品でも苦戦していますが、南画は一時期にかなりの高値で取引されたこともあり、腕の良い画家が大量の贋作を製作した時期があるようです。

本作品は雰囲気がよいので購入しましたが、真作という自信はありませんので「伝」としておきます。

秋景江山図 伝桑山玉洲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1770*横538 画サイズ:縦1117*横410



落款には「玉洲?嗣燐写」と記されています。印章は「桑嗣粲(嗣燦)」の白文朱方印と「明夫氏」の朱文白方印の累印が押印されています。印章は未確認です。



桑山玉洲のきちんとした資料が当方に不足してることも判断ができない理由のひとつです。



やわらかな色調の山水画を数多く描いているのが桑山玉洲の特徴です。



祇園南海・桑山玉洲・野呂介石の三人の画人を総称して、紀州の「三大文人画家」といわれています。本ブログでは野呂介石の作品を取り上げたことがあります。



祇園南海を取り上げたこともありました。



大雅、蕪村らを引き継ぐ形で画を模索し、後期の玉堂、木米、竹田らの活躍へと文人画の展開をつなげた玉洲の役割は意義深いと言われています。



池大雅の影響を受けながら、中国絵画の修学に勤め、独学で独自の境地を開いた絵画は興味深いものがあります。



初期には長崎派の影響を受けた極彩色の絵を描きましたが、その後は山水画に傾倒したようです。



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桑山 玉洲:延享3年(1746年)〜寛政11年4月13日(1799年5月17日))。江戸中期の南画家。名は嗣幹,のち嗣燦(嗣粲)。通称茂平次,のち左内。名は政近をはじめに嗣幹、嗣粲、嗣燦と改め、字を白瑞、子戔、明夫、通称は茂兵次。号は玉洲の他に明光居士、珂雪漁人、玉津嶋漁人、蘆泮、また堂号は鶴跡園、珂雪堂、聴雨堂、勧耕舎など。

紀州和歌浦(和歌山市)の人。家業の廻船業を継ぐ。明和年間(1764〜72),開墾事業に従事して地主となる。幼年より古書画を好み,同郷の野呂介石と交友。明和〜安永のころ,江戸に遊学。はじめは南蘋系統の花鳥画を描いていたが,安永年間(1772〜81),京坂で池大雅,高芙蓉,細合半斎,木村蒹葭堂などと交わり,南画を志す。

遺作には南蘋系の花鳥画と南画山水とがあり,柔らかい筆線と濃い色彩に特色がある。『玉洲画趣』『絵事鄙言』を著し,後者で「近衛公(信尹あるいは家煕),惺々翁(松花堂昭乗),宗達,光琳ナトハ本朝ノ南宗トモ云ハンカ」と述べるなど,独自の日本南画論を展開。真景図の重要性を主張する点とあわせて,大雅の影響と考えられる。自らも「若浦図巻」「明光浦十覧冊」(いずれも個人蔵),「那智山・橋柱巌図屏風」(和歌山・念誓寺蔵)など,真景図に秀作を残す。

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思文閣のカタログにもいくつか紹介されています。今回は省略します。

参考作品 その1
富嶽山林
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第460号 作品NO39

参考作品 その2
飛泉大観
思文閣墨蹟資料目録「和の美」 第466号 作品NO38

影青刻花碗 その3

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週末は長男の生誕1ヶ月記念日。



私が子守をしている間に家内がお祝いのケーキを作ってくれました。




寝相や寝る格好も似てくるものらしい??? こちらは長男の夜泣きで家内共々クタクタ



さて本日は破損した補修跡があるものの捨てがたい一品。

影青刻花碗 その3
合箱入
口径172*高台径55高さ65



売り主からは以下の説明がありましたが、中国陶磁器については魑魅魍魎たる世界なのでどこまで信用していいものやら・・。



「今から700年ぐらい前の中国南宋時代から元時代にかけて、江西省景徳鎮窯で作られた青白磁の鉢、若しくは碗で別名を影青(いんちん)と称されます。影青刻花は青白磁に刻花したもの(影青)と呼び、刻まれた筋に釉薬がたまり、そこだけ少し色が濃くなり、なんとも静謐にして艶かしい様相となります。



透明釉をかけるですが、それにわずかに鉄分が入っている為に、強い還元炎焼成をすると青く発色します。一部に黒く斑点として残ったりし、文様が花の文様となり珍重されます。



宋代景徳鎮で焼かれた青白磁碗です。発掘品ですが影青(いんちん)と呼ばれるように片刃彫の陰刻に溜まった釉薬が青く発色しています。



割れ傷や擦れ傷は残念ですが、最近出回っている江西省,福建省,広東省などから発掘される民窯品とは一味違います。」という説明がついていましたが、どこまで信用していいのやら。

影青と称される一群の作品は本ブログでも何度か取り上げましたが、宋時代と称して最近製作されたものが、インターネットを通じてたくさん売られています。最近になってようやく見分けることができるようになりましたが、精巧なものもあるようです。



焼きがあまいのか、貫入が数多く見られます。




補修跡の金繕いは小生が施しましたので、素人によるものです。かなり薄いつくりになっていますが、スープなどを入れて使うには最適かもしれません。






青花染付鉢 清朝時代作 その2

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長男の誕生祝の御言葉やらをいろんな方から戴いて恐縮しております。友人などは「還暦すぎてから大変だね」という素直な質問をいただきますが、そのあとに「でもよく考えるとすごいことだな。」と感慨深げに言うのが皆に共通していることです。そう・・・還暦過ぎているからと老け込んではいられません。

骨董の趣味はわりと手を動かすことが多いものです。別に壺を撫でているばかりが骨董の趣味ではなく、いろんな本を紐解いたり、箱の収納などに補修や道具で手作業が多いのでボケ防止には最適です。ブログを書いたり、資料を整理するのも指を使います。麻雀どころの比ではありません。老け込まないためにも骨董の趣味をすすめします。ただ、資金は余剰には使わないことですね。

今月の連休は家内と大津絵の展覧会へ出かけてきました。大津絵の古いものは最近入手が難しくなってきましたが、このようにいろんな大津絵を見ているとまた集めたくなりますね。

さて本日は染付の作品ですが、染付の色合いは日本人好みのようです。

染付鉢 清朝時代作 その2
口径170*高さ75*高台径75

滲んだような呉須の染付です。民窯で大量に製作されてもののように思います。紋様に違いはあるものの数千円程度で売られています。



「《清朝期》青花 花唐草文 六寸深鉢」と出品されていた作品です。見込み中央にあるのは西アジアの影響を受けたアラビア文字のようにも見えるが詳細は不明です。




高台内にある文字も不明ですが、伊万里に見られるような文字でもあります。




大きさからは茶碗としては大きいようであるが、使えないこともない大きさです。



でもやはり鉢でしょうね。またまた普段使い・・。染付の普段使いばかりで困ったものです。



少しは色気のあるものを揃えないと老け込んでしまいそうです。

織部沢瀉紋徳利 江戸期

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昨日は遊びが過ぎて睡眠時間なし・・・・。今日も夜遅くなりそうですし、明日は東北へ出張です。ちょっと忙しい


本日の作品は、素人判断ですが桃山期から江戸期にかけての作品・・のように思いながら??悦に入っています。

ずっしりとした大きさは男の徳利と言わしめる堂々としたものです。

織部沢瀉紋徳利 江戸期
合箱
口径35*胴径80*高180

さらりと描かれた鉄絵ですが、意外とこれが難しいものです。古織部の徳利の鉄絵には古格があり、勢いと味があると評されています。



古い織部の徳利は伝世品は少なく、大概は発掘品であり、完品は少ないようです。



織部徳利や志野織部と呼ばれるものですが、本作品のように織部釉薬があまり掛けられず、緑の釉薬が少ないものもあります。



底は低い輪高台、高さは20センチ前後の背の高いものが多く、すっきりとした整った形がほとんどのようです。




本作品はおそらく織部とは思わないで手放されたものではないかと推測されます。本来織部はもっと緑釉薬がたっぷり掛かったものというイメージが強いからです。

織部釉は少ないものの志野を思わせる白みを帯びた温かみのある釉薬がまた手に持つと和むものです。



沢瀉紋(オモダカ紋様)は吉祥紋で、よく織部徳利には描かれる紋様です。質素でとてもよい仕上がりの徳利です。この簡素でセンスの良い絵の配置が趣を高めています。




沢瀉紋:オモダカは、池や沢などに自生する水草で。愛らしい花が咲く。その昔、この植物を「勝ち草」といって、戦いに勝つことにかけていたと言われています。
葉の形が矢ジリに似ている、また、沢瀉威の鎧ということばもあって、「攻めても、守ってもよい」ということから勝ち草とよんだということです。毛利氏も副紋にこの「沢瀉紋」を使用しています。 (立ち沢瀉)。
・・・・・なかなか骨董は勉強になります

若干の緋色が変化をもたせ、味わいを深めています。



別冊太陽の「徳利と盃」に織部徳利が掲載されています。



白洲正子に骨董を伝授したという青山二郎もまた織部徳利を愛蔵していたようです。



液体(酒)につながる水辺の植物が多く描かれることが多いそうです。どこにでもありそうな本作品のような徳利・・・、意外と見つからないものです。



決して美人や偉い人ではないが、味のある人とお気に入りの徳利と朝鮮唐津の盃で寒い夜はちょっと燗をつけた酒で、鰰鮨でもつまみながら一献・・、いいね〜、ただ今週は無理


葡萄図-9 天龍道人筆 その17

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昨日は仙台、石巻、女川と得意先への挨拶廻りでした。懐かしい人たちに遭えて各々、短い時間でしたが話が弾みました。復興も少しずつですが、着実に前に進んでいます。被災前には決して戻りませんが、大切な人や過去を失った心の傷と同じように少しずつ少しずつ目の前の景色も痛みを伴ながらも和らいでいます。皆がそのために、自分で出来ることを着実にこなしていることに感銘を受けました。

昼は立ち食い風讃岐うどん、夜は仙台駅で念願の牛タン・・、ともに美味かった

本日の作品は天龍道人の作品は17作品目の投稿で、さらに葡萄図は9作品目となりましたが、飽きのこない野趣溢れる作品が多いです。

葡萄図-9 天龍道人筆
紙本水墨軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1993*横343 画サイズ:縦1170*横318




賛は「天龍一□□ □□揮毛詠 写□□道□ □□□□□ □□□□□□ 天龍道人□□八十八筆畫 併題書」とあります。



賛が解ると面白いのですが・・。



この署名は漢詩の作者???



天龍道人が88歳の時の作品であることがわかります。




賛の右上には遊印が押印され、賛の左下には「王瑾」、「公瑜」の白文朱方印の累印が押印されています。

 


天龍道人の芸術の極地は葡萄図にあり、とくに本作品の描かれた80歳代より枯淡の素晴らしい作品を遺しています。





箱書から昭和11年に表具が改装されています。時代感もありそのまましたいのですが、痛みもあり改装するか否か悩むところです。全てを新しくすればいいというものではないのは復興と同じかな



文化3年、天龍道人が89歳の時には「蒲桃画則」を刊行して人に教えています。




日常の観察をはじめ、古来の蒲桃画を鑑識し、結局は「皆写以真象」とし、実物の写生から習熟して、葉蔓実各体の描法をあみだした画法と言われています。



自ら三国一を誇称していたようですが、その言葉に違わず、天龍道人の葡萄図は素晴らしいものがあります。鶏の伊藤若冲、葡萄の天龍道人といえましょう。

未来にどういう遺産が遺せるのか、どういうメッセージを伝えられのかというものづくりはは、日常どう考えて仕事をしているのかが大切だというのは復興と共通するものありそうです。

本日は家内の実家に行き、長男の子守ですが、今日もまたあちこちと・・・


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