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漁樵問答図 倉田松涛筆 その17

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人というものは自分の歩んできた人生を基準として礼節や仁義を説く。ただ、時としてそれは自己陶酔のごとく押し付けでしかない場合が多くあります。残念ながら礼節や仁義は社会一般には現在の本人がそうであるかいなかを基準とします。

本人の言動に礼節や仁義が欠ける者はいくら道義を説いても屁理屈にしか見えないものです。当たり前のことですがね・・・。ただそのことを肝に銘じて置かないと、勘違いをして自分のほうが「立派」、もしくは「立派なことをしてきた」と思って接していると誰も心からは慕ってくれない。

さて本日は「漁樵問答」を描いた作品です。本ブログをお読みの方はすでにご存知の画題かと思います。我が郷里の画家「倉田松涛」の力作のひとつです。

漁樵問答図 倉田松涛筆 その17
絹本水墨着色紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横552*縦1940 画サイズ:横413*縦1265



賛より大正7年(1918年)の作。倉田松濤が51歳の力作。



画題は「漁師と樵の懇談」。漁師と樵が出会う。魚を釣るのが仕事の漁師と、森の木を切って暮らす樵が出会って語らっている様子からは、話が合わない内容に思えますが、一見では想像できないほどの高尚な哲学談義かもしれません。



「知性というのは、外見ではなく内に秘められてその高みを際立たせるもの」という趣旨かな。また自然があふれた土地での出会いに、ただならぬものを期待するというイメージの展開は、時代を超えて感じさせる趣があります。



「漁者謂樵夫曰 春為陽始 夏為陽極 秋為隂始 冬為隂極 陽始則温 陽極則熱 隂始則源  隂極則寒 温則生物 熱則長物 涼則収物 寒即殺物 皆一氣其用□為四季 其萬物也亦然 録宋之郡康篇 漁樵對問第十三章 維告大正七年歳次戊午皐月仲浣 写於東都牛飼三俳画精舎静聴 百三談有髪僧松涛」とあります。



「春夏秋冬、暖かくなり、暑くなり、涼しくなり、寒くなる・・。万物というのはそういうものである。」という賛か・・・?



万物はただそういうものであるということを魚を釣るのが仕事の漁師と、森の木を切って暮らす樵は自然を生業としているがゆえに肝に銘じているということか。



人というものは金銭、地位、名誉といったものにこだわりがちだが、そのことを気に病むほど人間はつまらないものに成り下がっていくという・・。時の流れはただ春夏秋冬・・。



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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。



幼い時から平福穂庵に師事。特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。



宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。

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自信作なのか、大きな遊印を右下に押印しています。




倉庫改修工事 4月初め

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改修工事も大詰めにきており、既存遡及? 子供に危ない母屋の階段も改修です。格子状のものはタモの集成材を使用しました。タモはピッケルの柄材などに使用される硬くて丈夫な木材です。



手摺を取り付け、中暖より下の踏み込み部分が空いていたので蹴込みに板を張りました。むくのケヤキでは高いので化粧板を使用。それ以外はすべてむくのケヤキ。中段より上の蹴込み部分もむくですが区別がつきませんよ。



茶室もだいぶ室内の感じが出てきました。



以外に狭いものですね。



あちこちで収まりの打ち合わせ・・。当初の計画と実際では意外に違うことが多いものです。エアコンが収まらない、既存の扉が大きすぎる・・・



見栄えもどうするか・・。リサイクルで探してきた中柱の杉材。



リサイクルの床柱は思いのほか曲がっている。リサイクルの地板は歪んでいる・・、再生利用のトラブルはつきものさ。



母屋との渡り廊下のレベルに違い・・、梁があって通れない・・。リニューアルに計算違いはつきものさ。



なんのかんのとその場で問題を解決していきます。「頭を使うのはいいことだ。」とは大工の弁。解決策は「だいたい3通りあるもの。」というのも大工の意見。茶室は初めてらしいが意外に知識は豊富、なにより熱心なのがありがたい。



外観からも解るように母屋との取り合い部分が思いのほか内部が暗いのでサッシュの追加など・・。間に合うタイミングというものがありますね。



さて安普請ながら仕上りを楽しみに・・・。



赤楽茶碗 十三代惺入作

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祖母が楽家の赤楽茶碗を所持しており、小生の仲人をしていただいた方の奥様に差し上げた作品がありました。ほんの少し口縁に欠けがあったので、漆工芸家に依頼して金繕いして差し上げたことがります。それはもう20年以上前のことです。

その方から同じく祖母から伝わった「仁清の茶入」を譲っていただきました。楽のお茶碗と仁清の茶入のどちらかをという選択だったのですが、楽のお茶碗はいつか入手できると判断し茶入を選択したのですが、その後とんと楽のお茶碗とは縁がありませんでした。無論、お値段も高く高嶺の花というのが本当のところです。

本日の作品は楽家代十三代の作品ですが、入手できたのは大きな補修跡があるからですが、それでも小生にとっては高い買い物でした。家内曰く「妥当じゃない」だと・・。

赤楽茶碗 十三代惺入作
共箱入
口径110*高台径45*高さ70



小ぶりな赤楽碗で高台脇に「十三代」と掻き銘があります。掻き銘のある作品は珍しく、自信作とうかがえます。赤楽に黒い釉薬でコントラストが幽玄さを醸し出しています。



残念ながら口縁から胴にかけて大きな補修跡があります。うまく共色で解らないように補修しています。



よく見ないと解らないくらい見事な補修ですが、キズモノとしての扱いになります。ま~、こういうキズモノでないと小生の資金では購入できないというのは的を得ています。

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十三代惺入:明治20年(1887年)~昭和19年(1944年)、十二代長男。本名は、惣吉(幼名)のち吉左衛門、喜英。1919年家督を継承、吉左衛門を襲名。印には「楽」上部の白の右側の糸偏が彡となっている草書体の「楽」印が特徴的でその他に「十三代喜英」の角印がある。



自信作には掻き銘がある。



作風は古来の楽家をよく踏まえ、自身が大変真面目な性格であったこともあり、非常に謹直であると言われています。また、書画や漢学、和歌などにも通じており、高い学識を持っていたそうです。しかし、真面目だったとはいえ古来の技法や作風を守ったのではなく、独自に各地の鉱石を研究し、釉薬に生かせないかと研究し、鉱石釉黒茶碗などを制作。楽茶碗のほかにも織部、志野、備前など、各地の陶磁も積極的に制作している。



釉薬の研究では、新たな技法を確立していきます。楽焼といえば、上部と下部で厚さの異なる釉を塗り、焼き上がりで上から下へと幕が降りるように景色を描く「幕釉」が有名ですが、惺入はさらに蛇蝎釉を合わせ、趣ある風景を描き出す技法を編み出しています。蛇蝎釉とは釉薬が織り成す蛇の鱗のような網目状の模様のことで、唐津焼のものが有名です。惺入はこの蛇蝎釉を効果的に使う技法を編み出しましたが、白い蛇蝎釉が有名で、黒茶碗 銘「荒磯」がそのもっとも代表的な作品です。

また、干支にちなんだ作品、御題の茶碗なども惺入に始まっています。干支に因む作品では、動物を象った香合が大変に可愛らしい作品として伝世しています。

歴代が編み出してきた箆目や造形の工夫もよく取り入れており、その作品は一見すると何気ない真面目さが表にあるだけのようにも見えますが、その懐は広く深く、趣深いものがあります。



また箆(へら)技術においても、個性的な表現が多く、全体的に見ると大胆な力強い作品を多く残している。没後、「惺入」の号は表千家12代惺斎宗左の「惺」字を取って、表千家13代即中斎宗左より諡号されました。

樂家家伝の研究を行い、昭和10年(1935年)~昭和17年(1942年)にそれらの研究結果を『茶道せゝらぎ』という雑誌を刊行し発表。しかし晩年に太平洋戦争が勃発、跡継ぎである長男も応召、研究も作陶も物資不足の中困難となり、閉塞する中没した。

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うす造りで楽特有の脆さを感じさせます。



手にに持った感触はさすがにしっくりときます。手動の轆轤で成型から削り、焼成も一作ごとに行なうのが楽ですが、それゆえ作者の造形の感覚が如実に出ます。永年、その製作方法で作りますが、非常に面白くもありますが個性を出すのが難しい製作方法です。



ひとつの箆づかいで全く違う持った感覚になったり、茶碗の景色が違うものになります。無論、やり直しはきかないものですが、焼成以外は私は夢中になって製作したことがります。何十個も作ったものですが、如何せん茶碗になるものは皆無に等しいくらい難しいものです。

唐美人図(仮題 楚蓮香) 伝寺崎廣業筆 その34

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美人画はちょっといいものになるとお値段が格段に高くなるので、当方では入手に食指を動かさないことにしていますが、郷里の画家の作品と思われるものとなると購入意欲が湧いてきます。

美人画を蒐集する御仁の蒐集したくなる理由は私にはちょっと理解ができませんが、浮世絵ファンなどには多いようです。マニアックな変人が多い「美人は見るだけ・・、近づくと碌なことにならない。」は世の常で、私の経験則でもあります。

唐美人図(仮題:楚蓮香) 伝寺崎廣業筆
絹本水墨着色軸装 軸先塗 極箱入 
全体サイズ:横520*縦2008 画サイズ:横389*縦1212



落款は「二本廣業」の後期のもので明治年頃の作と推察されます。印章は小型の「廣業」の白文朱長方印でよく見かけます。印章は資料と一致します。落款は「二本廣業」の後期のもので勢いがないこともこの頃の特徴です。明治末年頃か? ただし寺崎廣業の美人画には贋作が多いので「伝」とします。



箱書については詳細は不明です。

 

保存状態はいいほうですが、白の絵の具(胡粉)が剥落しつつあります。



一度表具を改装しているようですが、今のうちに太巻きにして保存する必要がありそうです。美人はお金がかかる。



美人に近づいて幸せになった人物を見たことがありません。だいたい美人という人は性格が悪く、他人を幸せにする相がありません。美人には絶対に近づかないこと かの吉田松陰もそう申し述べております。



前にも記述しましたが、寺崎廣業の作品に対する評価は落款の「三本廣業」が一番高いと言われていますが、それゆえ「三本廣業」に贋作が多くなっています。また人気が出た最初が美人画であったこともあり、本来「二本廣業」であるべき時代の美人画に「三本廣業」の落款を記する変な贋作があります。



現在では逆に「三本廣業」以外の「二本廣業」の作品が良い出来の作品が多いと評価してよいように思われます。つまり初期の作品のほうに良い作品があるということです。



「三本廣業」の時代の寺崎廣業は流行画家となり、作品をかなり描いており、酒席でも依頼されるとよく描き、濫作になっているためです。



掛け軸全体の評価が低い現在の状況では寺崎廣業の作品はきちんと描いた作品でないと価値を見出すことすら難しいようです。掛け軸は蒐集する絶好のチャンスです。



このような美人画を寺崎廣業が描いたか? さてこの絵の題名は・・。とりあえず「唐美人図」としておきますが、「楚蓮香」という唐の玄宗皇帝の時代に長安一の美女と言われた人物と思えます。その美しさは、彼女が外に出ると香りに胡蝶が誘われ、付き添いながら周りを翔び遊ぶほどであったという故事があります。ただ画中に必ず蝶が描かれるはずですが、本作品には蝶が描かれていません。

上村松園の作品が名作として知られていますが、円山応挙ら多くの画家が描いています。寺崎廣業の作品は知られていません。真作なら大発見?? ほっそり描かれることが多いのですが、このふくよかさは家内にそっくり・・・。



ともかく美人画ゆえに真贋は保証できません。美人は人間も絵も小生は信用しない・・。



女性に愛想がいい一歳の我が息子は電車で「赤ちゃん学」を読書中・・「おいおい、本が逆さまだぞ~」



美人には近づくなよ・・、先が思いやられる・・・・

短冊用額

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ときおり短冊を入手することがありますが、色紙と違って小色紙や短冊用の額に洒落た額が少なく、短冊を飾るのに躊躇することがあります。ちょっと贅沢そうな短冊用の額でもせいぜい下記のようなものくらいしか市販では入手できません。

梅 福田豊四郎筆 その28
紙本着色短冊額装

  

福田豊四郎の短冊に梅を描いた作品です。短冊の作品そのものは「お見事!」

短冊用の額を探していたら下記の写真のような作品に出会いました。

松鶴図短冊掛 縁桑製
古箱入
縦550*横195*厚44



製作年代は不詳ですが、出来の良い作品です。もともと短冊が入っており、その賛には「昭和己巳?春日写」と書かれており、昭和4年(1929年)の作の短冊が入れられていることになります。



鶴二松というおめでたい図柄です。



描き表具ならぬ描き短冊額・・。



工芸品として手作りされたものでしょうか?



周囲に描かれた絵が実にうまい。



短冊を描いた人と同じ人の作品?



このような確かな腕を持った人がいたのですね。現代では仏壇などの漆絵なども下手になったものですし、漆器や陶磁器の食器の絵柄も下手な絵がばかり。百貨店などに並べられた商品は見るに値しないものばかりゆえ、骨董のように古い作品のほうにいい出来の作品があるので買い漁ることとなります。



今の職人には日本画の基礎をきちんと習得するという風習が無くなったのでしょう。それだけ労力を費やすような値段のものは売れないこともありますね。日本から職人芸のような技術が無くなっていくのは寂しい限りです。

最近はリサイクルの木材店で茶室の床柱を探していて、桑でできた姿見を購入したりしています。骨董との出会いは予想もしないところで突然起きるので、その場で購入するかどうかが骨董に縁ができるかどうかの分かれ目です。大概は無駄遣いに終わりますが・・。

「贋作ばかりで、お金も無駄使い」と片付ける御仁には骨董のいいものは寄り付かないものです。とはいえ本当の贋作ばかりの御仁が99%なのも事実ですが・・

ところで我が家の息子は花より団子のようですね~。



お茶会でもお菓子・・。



義父母の花見のお土産の大きな煎餅もぱくり・・・、二枚は欲張りでっせ・・。



ともかくご機嫌な息子・・。



春ですね~。

源内焼 その54 三彩陽刻松ニ塔図皿

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「源内焼に贋作はないのか?」という問いに対して厳密に言うと「無い」というか「作れない、もしくは作らなかった」というのが正しい表現かと思います。たしかに明治期の復興された作品群や四国の焼きものに似たようなものはありますが、このような精密な型で作られたものとは出来がまったく違います。ある程度本物を手にしていると違いは一目瞭然です。ネットオークションなどに出品されている作品の多くはこのような亜流の作品で、本来の源内焼とは別のものです。

古九谷や初期伊万里、古伊万里のように中国製を含めて贋作が横行している作品群に比べると、判別しやすく安心して蒐集できる陶磁器群と言えます。ただ、お値段には大きなばらつきがあり、よほどの秀作でないかぎり10万は超えないものですが、時として10倍近いお値段で売っている場合がありますので要注意ですね。

源内焼 その54 三彩陽刻松ニ塔図皿
合箱
幅228*高台径152*高さ42

50作品を超えた源内焼の作品ですが、緑釉を基調とした三彩の源内焼である本作品のポイントは三点です。

1.ひとつは汚れ・・。購入当初は下記のように汚れがありました。



特に汚れが多かったのは裏面です。



見込み面はそれほどでもなかったですが・・。汚れを落とすとなにやら文字が・・。



源内焼は軟陶で吸水率が高く汚れやすいもので、しかも何年も注目されない作品でしたので埃にまみれていた可能性があります。



2.本作品の二つ目のポイントは「銘」です

見込み図中に判読不能な印章のようなものが押されている珍しい作品です。このように印銘のある作品はの幾つか存在し、希少価値の有るものらしいです。

源内焼の蒐集には下記の種類の作品を優先的に集めると良いとされています。

1、 地図皿                        ・・・市場には滅多に出てこない希少価値の高い作品)
2、 大型の抜けのよいもの                 ・・・30CM前後以上の作例は珍しい)
3、 印のあるもの(瞬民、志度瞬民、民など)        ・・・この作例は本作品に該当します。
4、 多彩釉(3~4彩、出来れば黒・藍などの色があるもの) ・・・黒や藍色を使った作品は珍しいです。
5、 擦れなどがなく、壊れていない完全なもの        ・・・保存状態のいいもので完品は意外に少ない

本作品は3が該当しますね。



刻印されている銘印は他の作品に押印されている「皥々斉」(皥々斉は脇田舜民のこと)、「舜民」の各印などと関連しそうです。本作品の印章は「舜」のように思われ、明治の作によく使われる「鳩渓」は源内をさしますが、「舜民」の関連印がある場合は源内の指導を受けた脇田舜民の作、または関連した窯の作品と推察され江戸期の作品となります。



3.三つ目は本作品の見所である山水図です。周囲の西洋的な紋様と相俟って、和洋の雰囲気のある源内焼独特の趣のある作品となっています。



山水の図柄もいいですね。



ただ口縁の外周部は柔らかく、多少痛んでいます。柔らかいのでどうも口縁から痛むようです。



本作品の図柄は作品事例には掲載がなく、印銘を含めて興味深い作品のように思います。地図絵の皿などのような作品もいいものですが、このような小作品から中程度の大きさの作品も源内焼は古九谷の作品と同じように愉しめます。

氏素性の解らない作品 瑠璃釉網目編巻筆筒

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「氏素性の解らない」作品は大概は結局のところ最近のお土産品であったりするのが常ですが、この作品は手が込んでいるますね。本作品は一目見て「お気に入り」・・。玄関や机の上の筆立てにいい。お値段も安い・・。

瑠璃釉網目編巻筆筒
箱入
幅62□*口径36□*高さ129



不思議な発色の陶磁器です。底の部分の釉薬からすると緑がかった青磁のようです。



陶土は白っぽい土で青色の発色ない部分は三田青磁に近いようです。



口縁内は灰釉の溜りが見えます。



胴部分は青磁釉に瑠璃粉を混入して高温で焼成した作品のように思います。薄瑠璃や瑠璃釉とも違うように感じられます。



真鍮を網目に編みこんでいる手の込んだ作品となっています。



購入時はかなり汚れていたので、極力洗い流しました。金属部分も発色が綺麗になりました。



伊万里や京都のものかもしれませんが、釉薬はまるで銀河釉のような変化を見せています。

輪挿のようですが筆筒として使うために割れないように編みこんでいるように思われますが・・。このような竹のように真鍮を紐状にして編みこむ技術が見所となっています。



陶磁器の作品自体はよく見るとところどころに傷があります。唐物・・・????

手の届く範囲のものは手当たり次第に弄り回します。最後は乱暴にポイ・・・。息子はそろばんにも興味があるようです。いいことだね~、今からやりくり算段か?



本作品は机の上に置いてお気に入りのペンを入れてペン立てにちょうどよいようです。最近机の上に手の届くようになった息子に乱暴に扱われても壊れそうにない

芙蓉之図 平福穂庵筆 その9

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平成3年台風第19号(国際名:ミレーレ〔Mireille〕)は、1991年(平成3年)9月に発生し、日本列島に甚大な被害を与えた台風で、東北地方では「りんご台風」の別名でも呼ばれていますが、当時小生は青森に勤務しており、建設現場が直撃されました。日頃よりきちんと管理されていたので現場の被害はほとんどなく、ほっとしたのもつかの間、秋田の郷里にいる義父から電話で「自宅の屋根が飛ばされた」とのこと。ほどなく災害対象の保険で屋根の修理をしたのですが、そのときに屋根裏から出てきた古い掛け軸の中に「文池」という落款の作品がありました。



ボロボロだったのですが良い出来の作品だったので捨てずにとっておきました。後日、平福穂庵の初号が「文池」ということが解り、印章をよく見ると「穂庵」らしい。平福穂庵と縁があった作品の第1号です。

 

最近になって同じ印章を押印されて作品を何気なくインターネットオークションを見ていたら出品されていたので、入札したら3000円で落札しました

花鳥図 平福穂庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先 合箱
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦



本作品は「穂庵」の印章を用いていますが、上記の屋根裏から出てきた作品、「東下り之図」と同一と思われます。「東下り之図」の落款は初号の「文池」とされていることから初期の頃の作品であり「□庵丙寅仲秋 文池謹画」とあることから、慶応2年の秋の作品で穂庵が23歳の作です。



京都へ修業に行き、秋田へ帰郷して間もない頃の作品と思われますが、本作品も同じ印章を用いていることから同じ時期の作品と推察されます。



描かれた花は芙蓉かな・・。穂庵の作品には、水墨淡彩で筆に勢いのある作風と、晩年の四条派の影響を多大に受けた着色画に大別されますが、前者の作品群では「乞食図」や「乳虎図」のように淡彩で筆力のある作品が代表作でご存知の方も多いかと思います。

下記の写真は「秋田の絵描き そろいぶみ!-秋田蘭画から近代の日本画まで-秋田市立千秋美術館 2014年09月27日(土) ~2014年11月09日(日) 」より

説明文には「秋田は、平福穂庵・百穂父子、寺崎廣業らの中央画壇での活躍を支柱に、その後も福田豊四郎や高橋萬年など、日本画の革新を目指し画壇に一時代を画した画家たちを多く輩出してきました。」と記述されており、本ブログでおなじみに画家の作品が展示されていたようですね。



また桜で有名な角館にある平福美術館は平福百穂・穂庵父子の作品がメインの展示です。



この鳥は・・・??  ちなみに芙蓉鳥はカナリアの別名らしい。本作品は席画のようで、即興で描かれたような作品で出来はあまりいいとは言えないでしょうが、穂庵のタッチを知るには充分な作品です。

秋田出身の酒好きの画家です。彼の父も画家で京都に修行に出ていたのですが、京都まで迎えにいった穂庵は父と京都で飲み歩いて帰ってこなかったといいます。

かつて骨董店で襖絵を購入するなど穂庵の面白い作品を購入出来たものですが、最近はなかなか作品を見かけず、さらには知名度も低くなり今は知る人ぞ知る画家になってしまったように思います。

本ブログへの未投稿の所蔵作品(参考作品にて掲載 現在は入手済)には下記の作品があります。

雪中鴛鴦図 平福穂庵筆
紙本水墨着色軸装鳥谷幡山鑑定箱
全体サイズ:縦2255*横662 画サイズ:縦1258*横507



落款より「慶応3年(1867年 明治元年前年)仲夏の作」ですので、最初の作品より一年後で落款そのものは本作品と近似しており同時期と推察できます。



このような綺麗な作品が好きな御仁が多いようで、評価は高く、本作品も信頼できるルートからの入手です。



掛け軸は贋作ばかりという先入観ばかり持っているとこのような秀作は入手できません。

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平福穂庵:弘化元年生まれ、明治23年没(1844年~1890年)。秋田県角館出身。名は芸、俗称順蔵。当初は文池と号し、後に穂庵と改めた。画を武村文海に学び、筆力敏捷にして、ついに一格の妙趣をなし、動物画に長ず。百穂はその子。「乳虎図」(河原家蔵)は代表作。17歳で京都に上り修業、元治元年に帰る。明治23年秋田勧業博覧会で「乞食図」が一等。明治19年に東京に出て、各種展覧会に出品、大活躍する。系統は四条派で、門下に寺崎廣業ほか10人以上に及ぶ。

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繰り返すようですが、郷土の画家、さらにはその画家の作品が好きでしょうがないという理由から蒐集するのがいい作品を集めるこつのようです。

さて本作品の真贋や如何に・・・。

伝古絵唐津 呼継平皿 各種

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先週の水曜日は仕事を早めに切り上げて家内のお茶仲間中心に目黒川の船上花見・・。



朝からの時ならぬ雪、花見時には雨は降るし寒いのなんの・・。我が息子はポンチョから顔だけ出し固まったまま・・、「あら、偉わね、ぐずらない・・・。」 「それどころじゃないよ・・」



花見後の宴会は接待役で挨拶周り・・・、我が家の営業マン。




さて本日は唐津の発掘陶片の再登場ですが、このようにあらかたを陶片で呼継された作品は「唐津の呼継」と称されているようです。発掘してきた陶片を組み合わせて金繕いなどで器の形を作るので、姿、釉薬に趣のある作品は非常に少ないです。これらは一種のリサイクル品ですね。

伝古絵唐津 呼継平皿 各種
箱入
その1  無地  口径122~135*高台径40*高さ40



骨董商などが発掘陶片の数多くあった窯跡を掘り出して、茶碗や皿に仕立て上げたものが多く、骨董商の副業的なもので自ら金繕いしたものでしょう。盗掘も多く氏素性としては亜流と言わざる得ないのかもしれません。



古唐津が非常に高値で売れた時代の産物で、普段使いながら浅はかな骨董商の働きに思い馳せるもの一興でしょう。



まったく価値のないものでもなく、もしかしたら?ものは桃山から江戸期にかけてのものですからそれなりに価値はある? 高さのある作品の呼継にはいい作品が少なく、このような平茶碗や小皿に使うものに姿の面白いものが多いようです。

古唐津の高台の特徴のひとつに「ちりめん皺と兜巾(ときん)」というものがあるそうです。

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ちりめん皺と兜巾(ときん):ちりめん(縮緬)皺は、唐津の土の独自性である、土の粘り気からきています。高台を削るときに、道具と土の間に生じる土のはじけ具合、めくれ具合による皺なのです。それに兜巾、これは高台の中央が飛び上がっていることをいいます。削ったときに中央が残ったものです。

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もちろん例外もありますし、窯によって違うようですが・・。



原則として高台は一個もので高台そのものが呼継では価値がないとされていると聞いたことがあります。



以下は以前に紹介した作品です。

その2  無地  口径110~130*高台径43*高さ48



古唐津の条件によく言われる「三日月高台」と称するものがあります。

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三日月高台:高台を上にして見ると、やや中心がずれて削られていて、一方の幅がふくらみ、あたかも三日月のように見えます。これを三日月高台といい、唐津や朝鮮陶磁器の鑑定の大きな特長になっています。

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その3  刷毛目 口径124~126*高台径43*高さ37



まるで練り込みのような紋様です。そういえば練り込みという技法は古い作品にはないですね。



その4  白無地 口径114   *高台径44*高さ37



ぼってりとした素朴さが面白いですね。



さて、真贋はわかりません。どうも古唐津の呼継にも贋作があるらしいですから・・。よって「伝」としておきます。

本日の作品はよほど買うものが無いときに買ったもの。骨董としてはやはり亜流で、本気になって集める分野ではないでしょうが、リサイクルの極みか・・・。



倉庫改修工事 4月中旬 熊谷草

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またまた先週末は改修の打ち合わせ・・。ここのところ毎週続いています。



茶室への入り口が形になってきたので、郷里の実家にあった夏用の戸を入れてみました。このような戸は古民家などの古材のリサイクル店に行くと結構ありますよ。



室外の丸窓が見えるのが狙い・・。ちょっと透けすぎかな?



この丸窓は茶室の裏側にある床の間の自然光の取り入れも狙いです。

茶室の入り口は喧々諤々・・・。にじり口は止めたのは皆、賛成。その後のアイデアは折り戸・・。建具屋さんが難色・・。

なんとか納まりを説明して建具屋さんは納得したのですが、家内が折り戸には不満足・・、小生も最初はいいと思ったのですが、茶室全体の入り口に折り戸のアイデアを使っているので、近くでアイデアが重複するのが今ひとつひかっかかる・・。



アコーデオンカーテン? ただのカーテン???? ちょっとアイデア・・。お楽しみ・・・・??? いままでの茶室にはないもの

展示室を通っての2階への階段が出来上がってきました。



2階も形になってきました。狭いながらも通路、吹き抜け、屋根裏と・・・。リズミカルな華奢な梁と柱・・・。



手摺もつきました。古色をつけることに・・・。



おっと2階の床の間の地板が決まっていなかった。庭にあったという杉から製材して棚板に使用していた杉板を車庫から取り出して並べてみました。お金をかけないことに、リサイクルすること・・・。2階にも床の間が2箇所あります。床柱も余った材料で・・・。

「ずいぶんと反っているね」と不満顔の大工さんを説得・・。「たいしたことないよ、これがいいんだよ、鉋もかけないよ」と採用と納まりも決定。



気がつくと庭には熊谷草が咲き始めました。たいへんめずらしい野草です。



来年の今頃は「熊谷草茶会かな?」と家内・・。予約の方は今から申し込み受付開始です。

「終わるかな?」と小生がつぶやくと家内が「えっ?」・・・「いや~」と小生・・。この工事ではなく、心の中では次の「男の隠れ家」構想のこと・・

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クマガイソウの地下茎は節間が長く、全長はしばしば1m以上になる。しかも硬く柔軟性に欠け、普通の植木鉢に収めることは難しい。また、先端の生長点は鉢の内壁などに当たると枯死するため、鉢植えに適さない。

一般園芸店で販売品をしばしば見かけるが、一般向けの市販品は鉢に入れるために地下茎が短く切断されており、回復に長い期間を要する。回復せずに枯死してしまうことも多い。

適地であれば地植え栽培が可能ではあるが、生育適正条件が狭く、栽培場所は厳密に選ぶ必要がある。

明るい日陰で、土壌の状態、温度、湿度が栽培に適したものであること、周囲に風よけになるものがあること、など制約が多く、単に美しいから、珍しいからといって初心者が気安く栽培できるようなものではない。

前述のように無菌播種による大量増殖技術は確立されておらず、ごく一部の栽培農家を除いて栄養繁殖による営利増殖もおこなわれていない。このため苗の供給が十分に出来ているという状況ではない。

時には盗掘された個体が販売されることもあり、入手・栽培には慎重でありたい植物の一つである。

愛好家がどうしても栽培したい場合は、栽培に責任が持てる場合に限り、苗の入手先が正規のルートを経由したものかどうかを検討して入手するなどの配慮をすべきであろう。

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小生の「男の隠れ家」構想も熊谷草の如し・・・。次は山中の隠れ家か・・・。








桐ニ鴉図 長井一禾筆 その6

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朝5時に起きて仏壇の水を替え食事を供えて拝んでいると、毎朝のように息子が起きてきて隣で一緒に手を合わせています

それから食事3人で食事、出勤時には外まで必ず見送って「バイバイ」と手を振ってくれます。なかなかできた息子のようで・・・

そういえば「必ず」というルーテイーンが日々人にはあるようで、小生は出かける準備の背広のアイロンプレス、靴磨き、ワイシャツ・ネクタイ選びは自分でやります。皆さんはいかがでしょうか?

さて長井一禾の作品も「その6」となります。今回は軸装されていない「まくり」の状態で入手した作品です。憎たらしいような鴉を描くというこの画家・・、ちょっと変わり者ですかね? マンガチックな掛け軸というのも面白いではありませんか。

鴉にもなにかルーテイーンワークがありそう・・。

桐ニ鴉図 長井一禾筆 その6
絹本着色軸装 まくり
画サイズ:縦125*横410
 


与野駅前で最近回転したメロンパン屋さん・・。行列できていたので並んでメロンパンを購入し、並んで待つのに疲れて近くのベンチで休んでいたら、一羽の鳩が舞い降りてきて、まるでパンを催促してるようなので、仕方なく買ったばかりのパンをちぎって息子と一緒に鳩に与えていると、どこからか別の鳩がやってきてどんどんその数が増えてきました。

息子は大いに喜んで「あ~」と「う~」とか大はしゃぎ・・。その姿がかわいいので周りの注目を浴びはじめたのですが、当方は買ったばかりのパンが無くなりそうなので一目散に退散。多勢に無勢



鳩はおとなしくていいですが鴉はちょっと怖いですね。

本作品のように鴉以外の木々をきちんと描いている作品は長井一禾の鴉を題材にした作品には少ないものです。書き込みの有る作品のほうが、当たり前のようですが見応えがあります。少し同じ画家の作品が集まりだすと余裕を持っていい作品だけに絞り込むことができるようになるようです。

鴉は桐の木に巣を作ることがあるようです



桐は古くから良質の木材として重宝されており、下駄や箪笥、箏(こと)、神楽面の材料となります。また、伝統的に神聖な木とみなされ、家紋や紋章の意匠に取り入れられてきました。日本国内でとれる木材としては桐は最も軽く、また、湿気を通さず、割れや狂いが少ないという特徴があり、高級木材として重宝され、箏や箱、家具、特に箪笥の材料として用いられることが多く、桐箪笥といえば高級家具の代名詞です。掛け軸の保存箱にも使われます。



かつて日本では女の子が生まれると桐を植え、結婚する際にはその桐で箪笥を作り嫁入り道具にするという風習もあったそうです。成長が早いためこのようなことが可能なのでしょう。また発火しづらいという特徴もあるため、金庫などの内側にも用いられるそうです。日本各地で植栽されていましたが、需要の高まりや産業構造の変化により北米、南米、中国、東南アジアから輸入されることも多いようです。

さて、家内の実家の倉庫にあった桐の長持ち・・・、倉庫改修時にいかにリサイクルするかがまだ課題に残っています。全部で四つある・・、箪笥タイプも4つ、こちらは箪笥にしか用いられない。長持ちも無くなりつつある日本の道具のひとつ・・。

さて本作品を描いた長井一禾は平福穂庵に師事し、円山派の画法を学んでいます。よってたらしこみのような技法を用いています。



大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られたり、石油会社の社長になったり、フェノロサの帰国記念の絵画の製作を依頼されたり、宮内庁お買い上げになったり、鴉の研究では世界に名を成したり、画家として一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎とともに並び称せられたりとずいぶんと活躍した御仁のようですね。

長井一禾の作品は贋作は多少あるのでしょうが、確実でいい作品(高価な作品ではありません)を集めるなら、長井一禾、天龍道人という鴉や葡萄をなどを描き特定の題材に一芸に秀でた画家の作品を集めることも良いことのように思います。







踊図 広田百豊筆 

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本日は痛んできた狩野探幽の作品である兼六園の天井絵に代わる作品を描いた画家の作品です。

踊図 広田百豊筆 
絹本着色色紙
画サイズ:縦270*横240



何の踊りを描いた作品かは不明です。石川出身の画家な「おわら風の盆(おわらかぜのぼん)」(富山県富山市)かもしれません。



我が郷里の秋田では日本三大盆踊りのひとつ「西馬音内盆踊り」が有名です。

ところで兼六園(金沢市)にある湧き水「金城霊澤(きんじょうれいたく)」を囲む覆屋(おおいや)の天井絵「龍之図」は郷土出身の画家ということもあり広田百豊が描いた作品です。



もとはかの有名な狩野探幽が描いた絵が掛けられていたということですが、傷みが激しく取り替えられとのことです。その作品は今はどこにあるのでしょうかね?


その下絵が広田の故郷で見つかったそうですが、描いたのは昭和11年、料亭主人らの支援者が広田を金沢に招いて描かせたのが金城霊澤の天井絵だそうです。金沢が新幹線開通で訪れる人も多いでしょうが、このような経緯を知っているとまた面白いものです。



大樋焼のお茶碗も見てきたらいいと思います。大樋焼のお茶碗の本ブログの記事はアクセスのもっとも多い記事のひとつです。

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広田百豊:(ひろた ひゃくほう 1876年~1955年) 日本画家。明治9年石川県に生まれる。名は才一郎。はじめ岸浪柳渓に、のち京都に出て竹内栖鳳に師事する。明治44年第5回文展に「厩」で初入選、褒状を受け、大正5年第10回文展まで連続して入選を果たす。京都後素協会・巽画会会員となる。帝展の発足では、日本自由画壇結成に参加、その定期展に「農夫」「春宵」「願い」などを出品する。文展入選。明治44年(1911年)から京都を拠点に農婦や舞妓(まいこ)など自由なテーマを選び、活躍した。昭和30年(1955)歿、79才。



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小さな絵から大きな天井絵のことを知ることができる、骨董というものから知ることは限りなく多く、真贋や金額的価値ばかり取り上げることが多いのですが、ほんの些細なことでしかないのかもしれません。

さて昨日から「初めて靴」を履いて息子の朝の見送りです。ヨチヨチの伝え歩きです。



絵のように踊るがごとく・・・。人は誰でも最初はヨチヨチ歩き、他人を頼って歩くものらしい。だんだんに余地余地歩きの余裕のある歩き方になっていく。

秋景山水図 木島桜谷筆 その3

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頒布会でも売っていそうな作品・・?? ところがよく見ると作品には・・・・・。

秋景山水図 木島桜谷筆 その3
絹本着色軸装 軸先 共箱 
全体サイズ:横660*縦2190 画サイズ:横510*縦1270



木島桜谷の代表作品である「寒月」には入選した第六回文展についてよく知られているエピソードが二つあり、ひとつは評論記事を連載した夏目漱石に酷評されたこと。

もうひとつは・・横山大観が後年この受賞について、「審査員内で第2等賞内の席次を決める際、大観が安田靫彦の「夢殿」を第1席に推すと、木島桜谷の師である今尾景年が「寒月」(大正元年(1912年) 第6回文展2等賞第1席)を第1席にしないと審査員をやめると抗議し、その場で辞表を書いて提出したため、大観が妥協した。」と回想しているおり、師である今尾景年の過剰なまでの推薦があったことです。この推薦が反動となって画壇から嫌われたことがうかがわれ、結局はその後、熟達した筆技も過小評価されています。



夏目漱石が酷評した理由は定かではありませんが、桜谷の絵は西洋絵画的写実を取り入れたことによって生じる日本画らしさの欠如や矛盾、わざとらしさが鼻についたのが理由と考えられます。当時の漱石は、絵でも書でも作為や企みが感じられるものを嫌悪する性向があり、「寒月」のような技巧を重ねた作品は、漱石の好みとは合わなかったと推測されます。

しかしながら、明治30年代以降の日本画において、西洋絵画的な写実感の導入は重要な課題であり、先輩格にあたる竹内栖鳳が先鞭をつけ、桜谷の制作も同じ方向性の上に成り立っています。桜谷は「寒月」において、竹林を描くのに当時新たに開発された荒い粒子をもった岩絵具を用い、巧みな付立て技法で明暗・濃淡に微妙に変化をつける事で、日本画でありながらザラザラとした物質感を感じさせる油絵のようなマティエール(絵肌)と、劇的なリアリティの表出に成功しており、現在では高く評価さている作品のひとつです。

その後、昭和に入ると平明な筆意の作風となり、帝展にも変わらず出品を重ねます。昭和8年(1933年)の第一四回帝展を最後に衣笠村に隠棲、漢籍を愛し詩文に親しむ晴耕雨読の生活を送りました。しかし、徐々に精神を病み、昭和13年11月13日枚方近くで京阪電車に轢かれ非業の死を遂げます。享年62才でした。



桜谷は大正元年9月に京都近郊の田園地帯にあった衣笠村の土地を買得し、建物は翌年から大正3年にかけて順次建設されました。現在は「櫻谷文庫(おうこくぶんこ)」として遺されています。桜谷が当地に転居したのが契機となり、土田麦僊、金島桂華、山口華楊、村上華岳、菊池芳文、堂本印象、西村五雲、小野竹喬、宇田荻邨、福田平八郎、徳岡神泉などのそうそうたる日本画家が移り住み、「衣笠絵描き村」と呼ばれました。他にも、洋画家の黒田重太郎、映画監督の牧野省三も近くに住んでいました。それまでは四条派という言葉通り、洛中に居を構えることが多かった画家たちが、自然環境に恵まれ眺望に恵まれた衣笠村に移り住んだ事実は、近代の日本画家が求める表現、或いは日本画家に求められた職能の変化を物語っているといえます。



木島桜谷の画風は四条派の伝統を受け継いだ技巧的な写生力と情趣ある作品で、「大正の呉春」「最後の四条派」と称され、冴えた色感をもって静かに情景を表現してゆくのがその特徴となっています。



その作品からは対象への深い洞察・細やかな愛情が感じられ、観る者に安らぎや心地よさを感じさせる清らかな画風と言えるでしょう。



現在では展覧会出品作ですら多くが所在不明だそうです。



作品は初期、中期、晩期でガラリと画風が変わっています。初期は正統的な四条派の画風を受け継いだ絵を描いていますが、中期には琳派の画風を取り入れたり、西洋風の写実的な作品を描いたりしています。



晩期は南画風の文人画が多くなっています。



さて本作品がどの時期の作品かは当方では詳しくないので断定できかねます。解りやすい画題で「大正の呉春」と称されたことが納得できます。



遠景の朦朧たる描き方で「平明な筆意の作風で観る者に安らぎや心地よさを感じさせる清らかな画風」という表現がぴったりですね。




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木島桜谷:(このしま おうこく)明治10年生まれ、昭和13年没、(1877年~1938年)享年62歳。京都うまれ。名は文治朗、字は文質。別号に龍池草堂主人、朧廬迂人。今尾景年に学び、初期文展には「若葉の山」「しぐれ」「駅路の春」「寒月」と次々と名作を出品し、京都画壇の人気を一気に背負った感があった。ただし、晩年は詩書に親しんで世交より遠ざかった。旧帝展審査員、帝国美術院指定。「しぐれず屏風」(文部省蔵)は代表作。円山・花鳥・人物・特に動物の描写に妙を得ている。

  

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床の間があるなら・・、「床の間に季節毎の掛け軸を飾ってみるのもいいね。」と思わせてくれる、平明に解りやすい作品を描いている画家です。

床の間がなくても長めの額装にするのも一興かと思いますが、額が大きくなるので改装費用が高くなります。床の上に飾り板を置いて簡単な床の間にしてみるのが安上がりですね。お金をかけずにちょっとリッチな雰囲気を味わえるのが掛け軸です。

掛け軸そのものお値段は一万円くらいでかなりいい出来の作品が入手できます。

夕陽ニ柿下鴉図 長井一禾筆 その7

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鴉の作品を床の間に飾る・・。

夕陽ニ柿下鴉図 長井一禾筆 その7
絹本着色軸装 軸先プラスチック 合箱入
全体サイズ:縦2017*横491 画サイズ:縦1171*横362



鴉は知能が高い面が狡猾な印象を与えたり、食性の一面である腐肉食や黒い羽毛が死を連想させることから、様々な物語における悪魔や魔女の使いや化身のように、悪や不吉の象徴として描かれることが多いようです。

ずる賢い、獰猛、不吉というイマージを持っている人が多いかと思います。



ただその逆に神話・伝承にあるように、古来から世界各地で「太陽の使い」や「神の使い」としてあがめられてきた生き物でもあります。これは、古代には世界各地で朝日や夕日など太陽に向かってるように見える鴉が飛ぶ姿(近年では太陽の位置と体内時計で帰巣する姿であるという研究がある)を目にした当時の人々がその性質と太陽と結びつけ、神聖視されたという説があるそうです。

鴉はは古来、吉兆を示す鳥だそうです。日本では神武天皇の東征の際には、3本足のカラス「八咫烏(やたがらす)」が松明を掲げ導いたという神話があり、日本サッカー協会のシンボルマークはこの八咫烏であることは有名です。




古代には鳥葬の風習がかつてあった地域も世界には存在し、猛禽類やカラスなど肉食性の鳥類が天国へ魂を運ぶ、死の穢れを祓ってくれる、あるいは神の御使いであるなどの理由で神聖視されたという説もあります。



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長井 一禾:(ながい いっか、明治2年(1869年)~ 昭和15年(1940年)。明治時代から昭和時代にかけての浮世絵師。河鍋暁斎の門人。本姓は佐藤、姓は長井、または永井、一禾は本名であった。字は子行。瑞雲菴、反哺と号す。

明治2年(1869年)、越後国蒲原郡水原(現・新潟県阿賀野市)に生まれる。その後、東京に出て、初めは鈴木松年、中野其明、平福穂庵に師事し、円山派の画法を学ぶ。東京では下谷上野桜木町に住んだ。その後に、暁斎にも師事した。

鴉の絵の技法が妙を得、非凡であることを賞賛され、大隈重信から「鴉博士」の称号を贈られている。明治36年(1903年)9月から5年間、渡米して絵を研究している。また、ポートランド博覧会に鴉の絵を出品、銀牌を受ける。イタリア博覧会の応接所には、尾形光琳風の鴉の絵を描いている。その後、兵士として麻布三聯隊に入る。期が満ちて、新潟に帰ってからは、石油会社の社長となった。

大隈重信に認められ、千鴉叢会を組織し、そのために郊外の天下茶屋に居を移した。鴉の研究は、日本のものはもとより、アメリカ合衆国、朝鮮、中国、台湾など諸国の鴉にまで及び、その形態、動作など、鴉に関する知識は頗る深かった。

一禾の描く鴉は当時、望月金鳳の狸、大橋翠石の虎ととともに並び称せられた。昭和12年(1937年)から翌13年(1938年)にかけて、京都府綾部市の楞厳寺に滞在し、庫裏の4つの座敷に春夏秋冬の鴉の絵を描いた。この襖絵は著名である。昭和15年(1940年)に没した。



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鴉についての象徴的な神話がギリシャ神話にあります。



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ギリシア神話では太陽神アポロンに仕えていた。色は白銀(白・銀とも)で美しい声を持ち、人の言葉も話すことができる非常に賢い鳥でした。

しかし、ある時に鴉は、天界のアポロンと離れて地上で暮らす妻コロニスが、人間の男であるイスキュスと親しくしている(見間違いとも)とアポロンに密告(虚偽の報告とも)をした。アポロンは嫉妬し怒り、天界から弓矢で矢を放ちコロニスを射抜いてしまった。

死ぬ間際に「あなたの子を身ごもっている」と告げたコロニスの言葉に、我に返ったアポロンは後悔し、きっかけ(密告した・虚偽の報告をした)を作った鴉に行き場の無い怒りをぶつけ、その美しい羽の色と美声と人語を奪った。鴉は天界を追放され、喪に服すかのように羽は漆黒に変わり、声も潰れて、言葉を話すどころか、醜い鳴き声を発することしかできなくなった。

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とにもかくにも身近にいる鳥で興味深い生き物です。宝飾品やガラス製品など光る物を好んで収集したり、公園の滑り台で遊ぶなど、繁殖・生命維持に無関係と思われる行動をしますが、これは人間と同じ・・






倉庫改修 4月17日

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未だに茶室の入り口が決まらず・・・。それ以外は形になってきました。



ニッチもちょっと凝った形に変更となり、途中で切れている?梁の収まりも・・。



階段に納まりきれない梁がそのまま・・。そのまま露出する予定だった欠きこみは埋木したようです。



急遽設けた階段のニッチの地板を倉庫から探し出してきました。



屋根裏部屋の手摺を塗装しました。



いかにも古めかしく・・。



二階には展示用の床の間が二つ・・。



リサイクルで探してきた竹を一階でい、さらに残りをリサイクル・・。



笠木には船底かなにかの板をさらに転用。



一階で使った床柱・・、息子曰く「曲がっているよ」だと・・。



当然、二階の竹も曲がっています。



上は既存の梁にとめる。



反対側は材料を杉に・・・これは茶室の中柱の残り・・・。



どうも裏表? 右左?を間違えたらしい・・



廊下との展示スペースの連続性も・・、扉はフルオープンできるようにしてあります。狭いスペースを広く見せるように・・。



問題は廊下の突き当たりの母屋との接続・・。



突き当たりの接続部分に階段が必要。さらに天井裏には梁が、筋交いが・・。



息子曰く「あれ~、どうすんのこれ・・」「大丈夫、想定内さ」



さ~、このケヤキの根っこ部分をどうしよう。



この長持をどうしよう・・。



まだまだ、解決すべき問題は山積みでいつになったら完成するやら・・。山積みは長持ちだけではないようで・・・。




春爛漫

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どうも先週末より風邪をひいたらしく本調子でありません。よってブログの原稿はただでさえ時間がないのにまた纏める時間が少なくなり、とうとう月曜日は休稿させていただきました。ま~、無理せず継続していきます。

春となり例年恒例になっている全国行脚開始です。今週は横浜と仙台、福島です。昨日は横浜へ・・。高速道路の橋工事・・、下は鉄道・・、どうやって橋をかけているの興味深く拝聴してきました。む~、かなり神経使いそう・・。帰りに同僚らと軽く一献・・。

さて先日紹介しました熊谷草(クマガイソウ)は先週末に満開となりました。倉庫改修が完了すると茶室からも鑑賞することができます。

このクマガイソウは「絶滅危惧II類(VU)(環境省レッドリスト)」らしいですね。親戚の竹やぶに自生しているものを分けてもらったらしい。



今回の倉庫改修の設計をしてくれている大学時代の同級生の友人とクマガイソウの話をしていたら、友人は「花木検定」なるものを友人は立ち上げたことがあるらしい。人は見かけによらずいろんなことにチャレンジしているものと再認識しました。

庭では草花が装いだしました。



牡丹の花もあでやかに咲き出しました。



まだまだこれかららしいです。



息子も大はしゃぎ・・。



帰りには駅前で八重桜を鑑賞・・。



「綺麗だね」・・・二日後は風が強く花吹雪となりました



ようやく「一歳」と指を突き出せるようになりました。



こちらも花の一年生です。

桜下美人図 伝島成園筆

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窮地に陥った時にこそチームワークの建て直しが急務なことは企業であれ、スポーツ競技であれ同じことのように思います。

窮地の状態で難点ばかり指摘してる経営者やチーム監督ではたとえその場を乗り越えられても決して根本原因の解決にならず終わります。エリートの方にはどうもこのタイプが多いようです。組織のモチベーションをあげるにはどうしたらいいかということに関してはどうも苦労人が向いているようです。

さて本日は桜吹雪ということで桜にちなんだ作品を投稿します。

桜下美人図 島成園筆
絹本着色軸装 軸先陶製 合箱入
全体サイズ:縦1980*横540 画サイズ:縦1230*横420



京都の上村松園東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称されるというのは何度もこのブログに登場しています。



美人画にはあまり興味のない当方の蒐集ですが、ついつい手の出るのは悪い癖 真贋どうのこうのより画家の来歴に興味があり購入した作品です。



骨董というものは作品を所蔵せず、美術館で見たもの、画集から見た作品からでは来歴などの知識も身につかないものです。これは誠に歯がゆいのですが、身銭を切ってものを買わないと身につかないようです。たとえ廉価でもいいから身銭で購入することです。骨董は「買う、売る、休むべし(勉強する)」を絶えず行なわないといけないもののようです。

小生のようにお金と時間をかけないゴルフと同じで上達しないらしい。



本作品の面白いには着物の描き方・・、孔雀の羽。



どうもだいぶ「やけやシミ」があって表具を染み抜き後に改装したようです。



エキゾチックな描写ですが、無論本物とは思っていません。



桜吹雪・・・・



やっぱり小生は美人より息子のほうがいい・・・。「美人は三日で飽きる」というのは本当の話、繰り返すようですが人を幸せにする相は美人にはない

人は誰しも内面が大切で、美人であることはかえってマイナスに作用するようです。また美人画を蒐集する人に変人が多いのも事実・・。

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島成園:(しま せいえん)1892年(明治25年)2月18日(もしくは13日)~1970年3月5日)。大正~昭和初期の女性日本画家。大阪府堺市生まれ。本名・諏訪(結婚後は森本)成榮。北野恒富・野田九浦に師事。妖艶な美人画を能くし、上村松園池田蕉園と並び、三園と称された。帝展・文展に入選。昭和45年(1970)歿、79才。



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島成園の略歴は下記のとおりです。

「なんでも鑑定団」にも出品されていましたので、ご存知の方は多いと思います。



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補足
1892年(明治25年)2月18日(もしくは13日)、大阪府堺市熊野町で島栄吉・千賀夫妻の長女として生まれる。戸籍上では母の実家・諏訪家の養女とされたため、結婚までの本名は諏訪成榮。父は襖などに絵を描く画工、兄の市次郎(1885–1968)も引札や団扇などに絵を描く画工を生業とするかたわら、浅田一舟に師事し、御風(または一翠)と号して日本画家としても活動した。

幼少時は母・千賀の実家である、遊郭街のなかにある茶屋で頻繁に日常を過ごす。堺市・宿院尋常小学校を経て、1904年(明治37年)に堺女子高等小学校を卒業。この翌年に一家で大阪市南区鍛治屋町に転居したが、ここもまた大阪の「ミナミ」に近い場所であり、花柳界の習俗に親しんで育つ。

15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を独習、ほどなく「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品。その一方で北野恒富野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を学ぶ。私的な友人としての彼らから指導、助言を受けた以外、正式には誰にも師事していない。



いくつかの図案競技会に作品を出品したのち、1912年(大正元年)の第12回巽画会展に「見真似」が、同年10月の第6回文部省美術展覧会(文展)では「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たす

東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称される。



また各方面から多くの制作依頼が寄せられたほか、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。翌1913年(大正2年)にも「祭りのよそおい」で文展に入選し、朝香宮允子内親王、賀陽宮大妃殿下(具体的に誰を指すかは不明)といった皇族からも制作依頼が寄せられたりしたほか、1915年(大正4年)の第13回三越絵画展覧会では、作品が横山大観、竹内栖鳳、北野恒富ら有名画家のそれとともに展示され、さらに同年の第10回文展では「稽古のひま」が兄・御風の「村のわらべ」とともに入選。高い社会的知名度を得る。



「女四人の会」1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、他の三人とともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、「身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた。」ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。また同じ頃から北野恒富、谷崎潤一郎の弟谷崎精二、人気力士・大錦卯一郎らとの恋愛ゴシップを書き立てられるようになり、有名人としての苦悩も味わう。



また同年の第10回文展では、享保期の風俗に取材し、身分、年齢もさまざまな多くの人物を画中に描き込んだ大作「燈籠流し」を出品するものの落選の憂き目を見た。これには前年の第9回展で大量の入選者を出したことと、「美人画室」を特設するほど多くの美人画が出品されたことへの反省、反動が働いたとされ、関西出身の女性画家の作品も岡本更園のものを除いてことごとくが落選した。入選が確実視されていたこの作品が選にもれたことを、鏑木清方も惜しんで「島成園女史の作は・・・・落選すべきものとは思はれないが聞くところに依れば、色調の弱すぎた為と云ふことである。・・・・大阪の作家は・・・・一種の濁った色調を持っている・・・・『燈籠流し』も取材の非常に優れたものであつたに係らず選に入らなかったのは、此色調の為であつたらうと思ふ(中央美術 大正5年5月)」と擁護した。

大正6年に発表した「おんな(旧題:黒髪の誇り)」は、上半身をはだけ乳房もあらわな女性が、般若の描きこまれた着物をまとい、ただならぬものを感じさせる眼差しとともに髪を梳る、といった官能的ながらも不穏な印象を与える作品で、裸体画に厳しい批判がよせられていた時期であったこともあり、父の助言を容れて、当初よりも性的な印象を弱めた作品として仕上げたにもかかわらず、その年の再興第4回院展では落選した。なお完成時のこの作品には、画中の女性の足許に盥(たらい)が描き込まれており、当時の新聞に掲載された写真にもそれが見て取れるが、現在はその付近が切断されている。



その「おんな」同様、「無題」もまた、感覚的な洗練を追求するそれまでの「美人画」から一歩抜け出し、成園自身ともいわれる画中の女性の顔に痣(あざ)を描きこむことによって、その内面をも表現しようとした意欲作であるとされるが、「何故ソレに適合した画題を付けない、無題など・・・・は卑怯千万(大正日日 大正7年6月12日)」と非難され、別の展覧会では「画室の女」という題を付けて展示されたこともあったほか、作品を求婚広告として揶揄するイラストが新聞に掲載されるなど物議を醸した。1918年(大正7年)に発足し、北野恒富、金森観陽、水田竹圃らとともに、成園も会員として加わった「大阪茶話会」は、その設立の趣意に「絵画は自己の精神の内にどんなものがあるかを示すことによって、他人の精神に自己の知己を見出すもの」とうたっているが、この「無題」は、同年6月に開かれた同会の「第1回試作展」に出品されたもの。



こうした傾向は1920年(大正9年)の第2回帝国美術院展覧会(帝展)に出品して入選した「伽羅の薫」で一層深められた。成園の母がモデルをつとめたこの作品では、老齢に差し掛かった着飾った遊女を、上下に長く引き伸ばしたグロテスクな造形で描き、肉体美に執着する女性の業を表現したとされ、今日なお彼女の代表作とされる。石川宰一郎に「美に陶酔せる一種の強き情味を発揚した力作だ。閨秀画家としてあすこまで突つ込んだのは異とすべし(『新公論』大正9年11月)」と賞賛された一方で、石井柏亭には「明らかに邪道に入って居る。衣裳の赤と黒の毒々しさ。妖艶と陰惨とを兼ねたやうなものを現はさうとしたのかも知れぬが、画の表われは極めて下品な厭味なもの(『中央美術』大正9年11月)」と批判された。この作品は1934年(昭和9年)に制作された「朱羅宇」とともに成園自身によって大阪市立美術館に寄贈された。



同じ大正9年(1920年)11月には銀行員・森本豊次郎と結納を交わし、同居生活に入ったが(入籍は大正15年6月)、これが本人の十分な合意を得ないままに強行されたことであったことと、それによってもたらされた生活環境の変化は、彼女の創作にも大きな影響を及ぼしたと見え、1923年(大正12年)に開いた結婚後初となる個展で発表した新作「春怨」「女歌舞伎」「春之夜」などは「精魂の抜け足許も定かならぬ有様・・・・技巧は練達していても・・・・女史の個性は見当たらない。唯の綺麗さ、手際の良さ、職工的な熟練さが認められるのみである(大阪日日 大正12年4月10日)」とこれまでにない酷評を浴びた。また、1924年(大正13年)には、共作による新版画「新浮世絵美人合 七月 湯あがり」を発表している。しかしこうした一方では、夫・豊次郎が同年に上海に転勤し、成園自身もその後数年間にわたって同地と大阪を往復する生活のなかから、「上海にて」「上海娘」「燈籠祭の夜」などといった、中国の風俗に取材した異色作が生まれている。そして1927年(昭和2年)、第10回帝展に「囃子」が入選。これは彼女の中央の展覧会での最後の入選となった。



昭和に入って以降は、夫の度重なる転勤に同行して小樽、中国・大連、同じく芝罘、横浜、松本、岡谷と転居を繰り返し、自らの芸術の故郷と考えていた大阪から離れたことによる創作意欲の減退、同時期の体調不良などにより、作品はほとんど生み出されなくなった。

終戦後の1946年(昭和21年)、夫・豊次郎の退職に伴い大阪に戻り、城東区関目に居住、1951年(昭和26年)には帰阪後初となる個展を開催、1956年(昭和31年)まで毎年開催した後、1960年(昭和35年)には大阪女人社展に参加、それ以後は門弟・岡本成薫との二人展を1969年(昭和44年)まで毎年開催した。1970年(昭和45年)に宝塚に転居したが、その直後の同年3月5日、脳梗塞により78歳で死去した。



「宗右エ門町の夕」以降の成園の活躍は、日本画家を志す同年代の女性たちの奮起を促すところとなった。そうした中の一人・生田花朝(1889-1978)は、後年綴ったエッセイ「雪解の花」のなかで「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの・・・・『宗右エ門町の夕』こそは、全く島さんの華々しい画壇への首途でありまた私たちへの発奮の先駆・・・・大阪の女流画家で、直接なり間接なりに、島さんの影のかからない人はない(大毎美術 第180号 昭和12年5月刊所収)」と回想している。

その後の文展では大正3年の第8回で岡本更園、小方華圃(1876もしくは80-1925)、翌大正9年の第9回では松本華羊、木谷(当時は吉岡)千種、第10回で再び岡本が入選を果たしたのをはじめとして、大正4年に第1回が開催された大阪美術展覧会(大展)へもすでにふれた画家たちの他、橋本成花、平山成翠、宮本成操ら多くの女性画家たちが作品を出品し、その盛況は「良家の夫人、令嬢たちが頗る熱心に出品の準備中なるは注意すべきことの一なり(大阪毎日新聞)」と特筆された。こうしたほかにも大正3年の「閨秀画会」、大正6年の「閨秀画家作品展観」などといった女性画家の作品だけを集めた展覧会も開催された。こうした流れは北野恒富によって大正3年に設立された「白耀社」や、木谷千種によって大正9年に設立された「八千草会」などといった、女性画家の育成に積極的に取り組む画塾の誕生によって、より深く根付いたものとなった。



成園の門下生にはいずれも女性の秋田成香(1900–没年不詳)、伊東成錦(1897–没年不詳)、菊池成輝(1871−1934)、高橋成薇(生年不詳–1994)、吉岡美枝(1911–1999)らがいるが、特に岡本成薫(1907–1992)は実父の死により内弟子として入門後、森本家の家事一切を受け持ったほか、成園夫妻の数度にわたる転居にも同行、家族同然に生活を共にする一方で、創作にも 取り組み、成園の死後は正式に森本家の養女に迎えられた。成薫は1977年(昭和52年)の森本豊次郎の死去後、成園の遺作85点を大阪市立美術館に寄贈。のち京都に転居し、1992年(平成4年)に没した。

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もっと評価されるべき陶磁器 源内焼 その55 三彩桐鳳凰図鉢

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ビジネスの基本は需要と供給のバランスが目の付け所のようで、当たり前のことですが需要が高まったときに供給が少ないときがビッグチャンスです。当たり前のことを行動しないのが意外に人間の常・・。

本ブログで何度も述べているように、源内焼の評価がまだまだ低いと思っています。大名家や幕府高官などに収蔵されていたため、近年に再評価されるまでほとんど世に知られなかった稀有な陶磁器です。現在でも美術館などより個人が所蔵している作品が多いと効いていますので掘り出し物があるかもしれませんよ。

ただし、明治期や「源内焼もどき」の作品と混同しないようにしましょう。源内焼を源流とした四国地方の陶磁器の作品群であり、当方のブログでも二点混入していますが見分け方は簡単なようです。なお、本来の源内焼の贋作は製作が難しいために精巧なものは見当たりません。

源内焼 その55 三彩桐鳳凰図鉢
合箱
口径255*高台径*高さ50



緑釉を基調とした三彩の源内焼。本作品と同じ型から作られた作品が五島美術館の「源内焼」という展覧会を開催した時に作成された刊行本に掲載されています(作品番号71)。なお色が違うのは源内焼にはよくることで、かえって同一の色でまったく同じものという作品のほうが珍しいようです。



鳳凰を文様とした源内焼は何種類か存在します。本ブログでも下記の作品が紹介されています。

源内焼鳳凰文様輪花皿 
径258*高さ44

鳳凰の図柄は桐や竹と一緒に描かれた「桐竹鳳凰文」が著名で、中国からの伝えで「鳳凰は桐の木に棲み、竹の実を食べた」とのことから桐と竹、想像上の瑞鳥である鳳凰を組み合わせた文様をいいます。



「桐竹鳳凰文」は、天皇の夏冬の御袍(ごほう)に用いられた高貴な文様で有職文様の一つでもあります。また「桐竹鳳凰文」に麒麟を組み合わせた「桐竹鳳麟文(きりたけほうりんもん)」も同様に扱われており格調高い文様です。



本作品は桐と鳳凰のみを組み合わせた紋様です。源内焼の中では獅子や鳳凰を描いた紋様の作品が人気が集まります。



少し口縁部分に数箇所に丁寧な金繕いがありますが、状態は良いほうでしょう。



中央の陽刻の図柄の見所と外周部分の唐草のような紋様との対比が源内焼の大きな見所ですが、和洋と西洋の対比が余すところなくその魅力を伝えてくれる作品です。



まだまだ一部の人にしか知られていない源内焼ですが、もっともっと評価されるべきでしょうね。需要が高まらないと供給側にチャンスが生まれない・・、といって源内焼をビジネスとして蒐集しているわけではありません。

今は建設作業員不足、外国人労働者により供給も練られているようですが、もっと大局的な考えが必要で待遇改善、後継者育成などを考慮する必要があります。ユニオンが無理なら取り纏める組織なり、企業が必要で利益だけを追求する現況を考え直す必要があります。今がビッグチャンス・・。





山染付飾皿 近藤悠三作 その2

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近藤悠三の作品は二作品目です。一作品目は正体不明の下記の作品で引き続きお茶の稽古に使われているらしい。

波斯水指 近藤悠三作 
口径145*高さ190

今回は山水の染付の作品です。一応、近藤悠三氏は人間国宝らしい・・。

そういえば最近の「なんでも鑑定団」にも出品されていたような・・。



染付の石榴や山水の作品はよく見かける作品のひとつですね。

山染付飾皿 近藤悠三作
共箱 
幅210□*底150□*高さ30



近藤悠三は1956年以降は染付の制作に専念し、つけたてとぼかしを基調とした筆遣いによって濃淡を表し、ザクロや梅などをモチーフとして絵画的な表現に特徴があります。



発色に優れ雄渾かつ品格がある作品を制作しました。



さらに1960年以降、呉須染付に併用して赤絵や金彩の技法を用いるようになり、さらに独特の作風を確立しています。



近藤悠三の染付の特徴は、コバルトを精製していないことのようです。そのため不純物である鉄やマンガンを含んでおり、窯から出すとそれらが滲んで青黒くなったり赤黒くなったりします。その濃淡が景色として趣を持たせ、作品が味わい深いものとなっているようです。



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近藤悠三(1902―85) :陶芸家。本名雄三。京都生まれ。京都市立陶磁器試験場の付属伝習所でろくろを学ぶ。

1921年(大正10)から3年間、奈良県安堵(あんど)村(現安堵町)において富本憲吉の助手となり、彼の作陶方針が決まった。

京都に戻ると清水(きよみず)に居を構え、28年(昭和3)に帝展に入選してから作家としての地歩を固めた。

彼の本領はあくまで磁器に発揮されており、染付を本領とし、柘榴(ざくろ)、葡萄(ぶどう)、梅、松、山水、詩文などに題材を求め、大胆豪放な画境を開いた。

赤絵や金彩も円熟の境を示し、濃麗な大装飾画面を展開した。

58年(昭和33)から京都市立美術大学で教え、同大学学長、京都芸術大学学長などを歴任。77年には「染付」の重要無形文化財保持者に認定された。



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白釉碗 小川待子作

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小川待子という陶芸家?をご存知でしょうか? ご存知の方はかなりの現代陶芸家通ですね。 当方は思文閣での個展を契機に知っている程度ですが、なかなかいい作品を作る陶芸家の方とお見受けしておりました。

白釉碗 小川待子作
合箱 
口径135*底径*高さ70



銘などいっさいなく共箱でもありませんが、ひとめで小川待子の作品だと解ります。



手取りが重く、滑りやすくて持ちにくい・・。茶碗のような大きさですが、とても茶碗には適しません。



なにかに?使えそうですが使い勝手は非常に悪い・・。



釉薬の景色は非常にいいようです。



さて洗いづらいし、扱いづらいこの器・・、なにに使おうか??

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小川待子:1946年、北海道札幌市生まれ、神奈川県湯河原町在住。東京芸術大学工芸科卒。1970年、パリ滞在中、レコール・デ・メティエ・ダールや個人作家のアトリエで陶芸を学ぶ。1972年から3年半、西アフリカ各地で陶芸を学ぶ。

従来の陶器では否定されてきたひびや欠け、釉薬の縮れなど、マイナスの性質をいかした作品を特徴とする。85年、東京・目白で初の個展。2010年、銀座の「阿曾美術」で個展。東京・虎ノ門の菊池寛実記念館智美術館で「現代の茶 造形の自由」展に出品。



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「俺にもそのアイスクリームよこせよ」「いやだよ~」



という争いには向かない器です。
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