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Channel: 夜噺骨董談義
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風雨牧童図 寺崎廣業筆 その33

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牛は「真実の自己の喩え」・・、真実の自己を探し、暴れまくる自己を御し、おとなしくなった牛に乗って山を降りる図かな? ただし風雨の中・・、通常は笛を吹いた牧童でのんびりした作品が多いのですが・・。

風雨牧童図 寺崎廣業筆 その33
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 鳥谷幡山鑑定極箱二重箱 藤井家所蔵印 作品領収書付
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横260*縦350



落款は「二本廣業」、印章は「廣業」の朱文白丸印が押印されています。印章は目下確認中です。



鳥谷幡山による鑑定は昭和9年のものです。



平成3年の購入時と思われる領収書が同封されており「18万円」とのことです。当時としては妥当な値段でしょう。現在でもこのようにしっかりした作品は10万程度で売られていることがありますが少し高すぎますね。領収書の発行先は現在も営業している青山のお店のようです。



牛と牧童を描いた作品は「十牛図」が代表的で、その作品に意図するところは「人間が本来持っている仏性、真実の自己を牛に喩え、路頭に迷う童子がやがて聖なる笑いへ至る為の修行の道程を 十枚の絵に表したもの」という過程であり、10の絵で表現した作品で数多くの画家が描いています。



とくに牛の背に乗って山を下り帰路の着く題材は牧童が笛を吹く姿で描かれることが多い。



風雨の中の図ですが本作品もなんらかでその「十牛図」という題材に縁のある作品であろうと推察します。



骨董蒐集はあくまでも道楽です。余裕のある資金で余裕のある購入をするのがいいと思いますが、これはもかなりの贅沢。本当のいいものを蒐集したいなら人生をかけて数十万、百万単位の作品を購入することでしょうけど・・・



下記の作品は落款から本作品と同時期の作品と推察され、郷里にある母の実家で所蔵していた作品ですが現在は行方不明です。もっか探索中・・。

護良親王図 寺崎廣業筆
水墨着色絹本幡山鑑定箱二重箱
画サイズ:横498*縦1148

ちなみに手前は田村耕一作の鉄釉壷。



昭和24年5月26日寺崎廣業名作展出品(秋田魁新報主催) 昭和16年晩春幡山道人鑑定。



護良親王(1308年~1335年)は後醍醐天皇の皇子。落飾して尊雲と称して大塔宮ともいい、天台座主。倒幕を図り還俗、奈良・吉野・高野に潜行。諸国に令旨を発して建武中興を招来。征夷大将軍に任じられたが、のちに足利尊氏のために鎌倉に幽閉、足利直義の家臣、淵辺義博に殺された。



ちょっと暗い作品ですね。題材そのものが暗いのでやむを得ませんね。ただ、このような暗い作品は所蔵するには気が引けます。運気が逃げるらしい



ネットオークションに出品されていました、40万から・・ちょっと高いので躊躇しているうちに出品がなくなりました。

 

大塔宮を助けた言われている十津川衆は、保元の乱(1156年)でも指矢三町、遠矢八町と武名をとどろかせた先祖を有し、勤皇の志が高い地域であったとされています。こうした気風の土地柄であることや、大軍では進行しづらく、少数でもこれと敵対することを可能とする険しい地形の利があることは、やがて建武中興から下ること532年後の文久3年(1863年)に天忠組(天誅組)動乱の舞台となったことにもつながっているようです。そう、先日投稿した藤本鉄石と繋がる・・。

さらには家内の実家近く、息子がオーナーのコンビにもある淵野辺には「護良親王の殺害を命じられた淵辺義博(現在の淵野辺の地名の由来?)は、親王を哀れんでその命を助け、淵野辺の地より現在の宮城県石巻市に送り、護良親王を逃がした」という伝説があります。

さらにさらに、暗殺を命じられた淵辺義博の時代、境川に龍池という池があり、そこに大きな龍が住み着き、村を荒らし回っていた。そこで、淵辺義博は部下を引き連れて龍退治に向かい、見事龍の目を弓矢で射抜いて退治したという伝説があります。その時、龍の体は3つに分かれて飛び散った。そこで、龍の怨霊を沈めるため、龍の頭が落ちた場所に「龍頭寺」、胴体の落ちた場所に「龍胴寺」、尾の落ちた場所に「龍尾寺」が建立されたと伝えられています。現在は、龍胴寺こと龍像寺が残っているだけですが、寺にはこの伝説が伝えられ、また境川沿いの旧鎌倉街道(八王子道、現在は民家の中)に、「龍を射た場所」というのが伝えられているとのこと。この龍像寺は禅宗である曹洞宗のお寺で家内の実家の菩提寺・・、私も曹洞宗・・・。

なにやら郷土出身の画家の筆による母の実家で所蔵していた「護良親王図」がものすごく縁深い作品のように思えてきて・・

骨董とは縁・・、蒐集した作品は徹底的に調べるのが良い、もちろん調べるだけ奥の深い作品であることが条件です。残念ながら現在は当方は子育て中につき、なかなか調べる時間がとれません







青花拾得図盤(「倣」古染付七寸皿)

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会食で遅く帰宅すると、息子が夜泣き・・、珍しい・・、2時間泣いて1時間寝ての繰り返し 家内はダウン、私もダウン、やがて息子もダウン・・、で朝になりました。ぐっすり寝たようで朝は上機嫌 

本日は天啓の古染付・・・??? 砂付高台、高台内鉋跡、口縁に虫喰の三要素はありますが・・。清時代、もしくは後世の写しではないかと思いますが・・、よって「倣」・・。

青花拾得図盤古染付七寸皿)
合箱
口径218*高台径*高さ34 



古染付の要件は砂付高台、高台内鉋跡、口縁に虫喰の三要素が必要ですが、もちろん例外もあります。



ただし、この三要素を含めて模倣している作品があります。



伊万里などの模倣作品は高台内鉋跡がわざとらしいというのが見極め方にあるらしい。



月下に「寒山拾得」の「拾得」を描いた古染付の図柄はあまりにも有名ですね。



本作品もまた普段使い・・・、カレーライスを食べたら「拾得」が現れる・・、変人の私にはいいお皿かも・・??

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拾得(じっとく、生没年不詳):中国で唐代に浙江省にある天台山の国清寺に居たとされる伝説的な風狂の僧の名である。豊干禅師に拾われて仕事を得たのが、名前の由来とされる。寒山と拾得は仲が良く、いつも子供のように遊び回っていた。その様子があまりに風変わりだったため、後世の人によって特別視され、寒山は文殊菩薩、拾得は普賢菩薩の化身とする説が生まれた。寒山と共に有髪の姿で禅画の画題とされる。巻物を持った姿で描かれる寒山に対して、拾得は箒を持った姿で表現される。

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インターネットで検索すると下記の作品があります。

参考作品:「青花拾得図盤」(古染付)
明代末期 綿半野原コレクション


老松苔石小点図 伝椿椿山筆 その2

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週末の土曜日はホワイトデー、家内と息子と3人で近所のホテルで昼食、バレンタインデーのお返し・・、さらにもうすぐ家内の誕生日らしい

倉庫改修の打合せを一休みしたのんびりとした休日でした。息子がべったりで骨董整理が停滞のまま・・

本日は小さな作品ですが、実に品のいい作品です。作品の生地についてが主眼の記事です。駄洒落ではありません。本ブログでも他に幾つかの「絖本」に描かれた作品を紹介しています。

老松苔石小点図 伝椿椿山筆
絖本?水墨淡彩軸装 軸先象牙 識二重箱
全体サイズ:縦1340*横335 画サイズ:縦165*横175



本当に小さな小品です。印章は「弼」の小型の朱文白丸印で、落款は「休庵」と記されています。粗い生地の絹に描かれています。



箱書の表は「椿々山翁老松苔石図」とあります。箱裏には「□□壹主鑑題簽」とあります。



松は日本よりも中国で徳を現し、「秦の始皇帝が狩で大雨にあい ちいさな松の木の下に雨宿りしたところ その松はにわかに大木となり葉を繁らせ 帝を雨から守りました。



帝は大夫の位を松に与え 以来松は大夫と呼ばれます。」ということのようです。



老松は「千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで大君に栄えあるように御守せよ。」と言われています。



本作品は実に雰囲気の良い作品ですが、滅多に真作のないのが椿椿山の作品ですので「伝」としておきましょう。



本日は作品の生地についてが主眼の記事です。生地については下記を参考にして下さい。



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普通の絹本は「生糸」で「平織り」のものです。それに比して絖本(こうほん)は「練糸(ねんし・ねりいと)」で「繻子織り(しゅすおり)」のものです。

「生糸」とは、蚕の繭から抽出された極細の糸を数本揃えて繰り糸の状態にしたままの絹糸です。

「練糸」とは、その生糸を精練してセリシンを除いた、光沢のあるしなやかな絹糸です。

「平織」とは、織物のなかで最も多く用いられ、最も基本的な織り組織です。経糸緯糸のいずれもが、1本ごとに浮き沈みして交錯した組織です。

「繻織」とは、縦糸又は緯糸が長く浮いて交錯しており、しかもその交錯点が少ないため、他の組織に比べ織物は光沢があり、柔軟性に富んでいるのです。つまり「絖本(こうほん)」は、より上質で光沢のある絹糸を用いて、より光沢さを持たせる織り方で作られた、絹の高級な布地なのです。


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一応「絖本」としましたが、この生地は菱形に編まれており変わった生地ですね。それに合わせたような表具・・、粋ですね。

青磁毘沙門天像 初代?宮永東山作

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最近はちと飲み会続き・・・、元同僚らとの飲み会が続き、昨夜は郷里の友人と久しぶりに一献。ちと飲みすぎたかな。さて今日は早朝より福島方面へ・・。

本日の作品は宮永東山という人の作品です。初代、二代、三代までおられるようで、どちらかは当方では断定できませんが、初代ということで購入した経緯があります。記事は初代に関しての記述とします。

製作者や時代考証において、中国の陶磁器ほど真贋合い交じり合い魑魅魍魎ではないのでしょうが日本の陶磁器も世襲があるなど魑魅魍魎とした面倒くさい混濁の世界です。

青磁毘沙門天像 初代?宮永東山作
共箱入
幅119*奥行990*高さ271



毘沙門天は平安時代は財福の神、そして疫病を祓う神、無病息災の神。平安時代末期には恵比寿・大黒にならぶ人気で室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊となり、江戸時代以降は特に「勝負事に利益あり」として崇められたという神様です。魑魅魍魎たる世界には神様が必要です。



お~、なんと息子と小生にはぴったりの神様ではないか・・・、ということで衝動買い。



初代宮永東山は荒岡倉天心の助手、役人を経て、浅井忠に出会ったことが人生の契機となり,芸術の道を志すようになります。その頃に京都の陶工錦光山宗兵衛と知り会い、錦光山の娘と結婚して陶芸を志すようになります。



三越の番頭であった日比翁介、さらには荒川豊蔵、魯山人と知り合い、のちに「青磁の宮永」「東山の青磁」とも称されるほど,青磁の作品を多く創出しました。



宮永東山窯は、明治42年に開窯し、昭和40年代まで活動してきた京都を代表する工房で、初代宮永東山は西洋美術概念の受容による京都の陶芸を近代化に導いた人物といえるでしょう。




毘沙門天についての概略は下記のとおりです。



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毘沙門天(びしゃもんてん、梵名: ヴァイシュラヴァナ、梵: वैश्रवण , VaiśravaṇaまたはvaizravaNa):仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神である。また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。種子はベイ(vai)。

日本では四天王の一尊として造像安置する場合は「多聞天」、独尊像として造像安置する場合は「毘沙門天」と呼ぶのが通例である。庶民における毘沙門信仰の発祥は平安時代の鞍馬寺である。鞍馬は北陸若狭と山陰丹波を京都と結ぶ交通の要衝でもあり古くから市が栄え、自然と鞍馬寺の毘沙門天の本来の神格である財福の神という面が強まり、また9世紀頃からは正月の追儺において、疫病を祓う役どころがかつての方相氏から毘沙門天と竜天のコンビに変わっていったことから無病息災の神という一面が加わる。

 

平安時代末期にはエビスの本地仏ともされ、日本では毘沙門天は甲冑をつけた姿が主流となるがこの姿はエビス神の古い形態でもあり、このことは市場で祀られたことと関係がある。こうして福の神としての毘沙門天は中世を通じて恵比寿・大黒にならぶ人気を誇るようになる。室町時代末期には日本独自の信仰として七福神の一尊とされ、江戸時代以降は特に勝負事に利益ありとして崇められる。

日本では一般に革製の甲冑を身に着けた唐代の武将風の姿で表される。また、邪鬼と呼ばれる鬼形の者の上に乗ることが多い。例えば密教の両界曼荼羅では甲冑に身を固めて右手は宝棒、左手は宝塔を捧げ持つ姿で描かれる。ただし、東大寺戒壇堂の四天王像では右手に宝塔を捧げ持ち、左手で宝棒を握る姿で造像されている。

毘沙門という表記は、ヴァイシュラヴァナを中国で音写したものであるが「よく聞く所の者」という意味にも解釈できるため、多聞天(たもんてん)とも訳された。帝釈天の配下として、仏の住む世界を支える須弥山の北方、水精埵の天敬城に住み、或いは古代インドの世界観で地球上にあるとされた4つの大陸のうち北倶盧洲(ほっくるしゅう)を守護するとされる。また、夜叉や羅刹といった鬼神を配下とする。また、密教においては十二天の一尊で北方を守護するとされる。

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ということは北向きに飾るといいのかな?? 大黒様、寿老人、布袋様の偶像はすでに自宅にあるので残りは恵比寿様、弁財天、福禄寿・・。絵の作品はすでにあるのですが・・。このように揃えたくなるの蒐集の欲・・・。

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初代宮永東山: 1868年( 明治元年)~1941年( 昭和16年12月15日)。石川県大聖寺生まれ。本名剛太郎。東京独逸全修学校卒業。その後,横浜のウィンクレル商会に入社。1895年東京美術学校講師として,欧米諸国の美術施設の調査を行う。1897年,パリ万国博覧会臨時事務局に勤務し,1899年,1900年パリ万国博覧会のため渡仏。その際,7代錦光山宗兵衛と知り合い,帰国後,1901年(明治34)から,京都の錦光山宗兵衛の工房で美術顧問として働く。1903年,「遊陶園」の設立に参加。1909年に独立し,京都粟田口(あわたぐち),のち伏見深草に開窯,青磁を得意とした。「東山」の号は,幸田露伴によってつけられた。子に宮永友雄(2代東山),孫に理吉(3代)。享年74歳。

 

陶芸家としての経歴は,非常に特殊である。明治維新の廃藩置県にともない加賀の大聖寺藩士だった父に連れられて金沢から上京し、東京で東京独逸全修学校入学,卒業後改めて東京仏語学校で語学とフランスの文化の歴史を学んだ。卒業後は岡倉天心の助手として,欧米の美術施設の調査にあたっている。その才をみとめられ農商務省に奉職した後,1899年に,フランスのパリで開催された1900年パリ万国博覧会の事務局に勤務することになり,かねてからの念願のパリに渡り欧州のあたらしい文化の吸収に勤めた。そこで文部省から西洋画研究のため留学を命ぜられパリに滞在していた浅井忠に出会ったことが人生の契機となり,芸術の道を志すようになった。当時欧州では新しい美術様式(アール・ヌーヴォー)が興り繁栄を極めていた。
浅井忠の進めもあり,パリ万国博覧会視察のため滞欧していた京都の陶工錦光山宗兵衛から帰国後,京都にきて陶磁器に手を染めないかとの誘いを受け焼き物の世界に入った。パリではそのほか,三越の番頭であった日比翁介とも出会う。京都で陶芸を始めてからも日比翁介と交友関係にあり,自身の作品を持ち込み,そこで販売することもあったという。三越が呉服以外の商品を扱ったのは,それが初めてであったというエピソードが残っています。帰国後,錦光山の招きに応じ京都に移住し,錦光山の娘と結婚して,陶芸の道をあゆみ始めます。錦光山を名乗らなかったのは,後に妻とは死別し,その弟が錦光山の家を継いだという経緯によります。以来,3代続いて東山と号して陶芸を生業としています。工場長が荒川豊蔵で魯山人が豊蔵の知人という関係のため魯山人が青磁の器を東山窯で焼いていたそうです。
パリから帰って錦光山に入って創作した初期の作品はアールヌーヴォー様式を用いた多く、伝統の焼き物の街京都に新しい風をという並々ならぬ心意気が感じられるます。後年から「青磁の宮永」「東山の青磁」とも称されるほど,青磁の作品が多く創出されました。宮永東山窯は、明治42年に開窯し、昭和40年代まで活動してきた京都を代表する工房です。京都の「錦光山」において粟田焼の意匠改良の重役を担い、西洋美術概念の受容による京都の陶芸を近代化に導いた人物といえる。

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二代 宮永東山 :1907年(明治40)~1995年(平成6)。京焼名工・初代東山に師事、昭和16年二代東山を襲名。色絵・染付など多様な技法・釉薬を用い、茶器・花器・など磁器作品を制作。京都伝統工芸家協会委員。

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荒川豊蔵:昭和期を代表する美濃焼の陶芸家で、「荒川志野」と呼ばれる独自の境地を確立しました。生まれは岐阜県土岐郡(現在の多治見市)、加藤与左衛門景一の直系で、彼は美濃焼の陶工の血筋を受け継いでいます。地元の学校を卒業後、神戸の陶磁器貿易商や多治見の陶磁器貿易商で働き、25歳の時に、ある特殊な絵具による手描きの上絵磁器コーヒー茶碗のプロデュースをしました。絵付けは日本画家の近藤紫雲に依頼し、出来上がったコーヒー茶碗を京都の錦光山宗兵衛へ持ち込むと高価で買い上げられたことから、独立して上絵磁器制作の事業もおこしています。残念ながら後にこの事業は失敗してしまいますが、錦光山宗兵衛の顧問をしていた宮永東山と縁があったため、28歳の時に京都の宮永東山に師事し、東山窯の工場長を任されました。宮永東山の元では一流の焼き物を見る機会も増え、後に東山窯を訪れた北大路魯山人と親交を深め、北大路魯山人の手伝いで鎌倉へ移り、鎌倉の星岡窯で作陶に関わります。星岡窯には荒川豊蔵の専用の轆轤がありましたが本格的な作陶は行わず、1930年に名古屋の関戸家所蔵の鼠志野香炉と、志野筍絵茶碗を見せてもらったのがきっかけで古志野へと興味を抱き始めます。この頃、古志野は瀬戸で焼かれたというのが通説となっていましたが、現在の可児市久々利大萱の古窯跡を調査した荒川豊蔵は志野が美濃で焼かれたことを明らかにしました。志野の発見から数年後39歳の時星岡窯を辞め、自身が志野を発見した大萱に登り窯を築窯し、本格的な作陶活動を始めます。

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骨董整理に飲み会の疲れもあってかクタクタ・・、結局初代か二代か判別つかず・、基本的にどちらでもいい・・、息子と一休み・・。



神のご加護のあらんことを・・。





竹園蟠蛇 竹内栖鳳筆 その6

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竹園蟠蛇 竹内栖鳳筆
絹本着色軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ縦2010*横380 画サイズ縦1210*横260



平成26年12月開催 思文閣大交換会の掲載番号NO52の作品を落札したもの。入札開始金額は80,000円でした。



息子共々巳年という縁から多少高めの札入にて購入したもの。



思文閣の出品作品ですから間違いはない作品でしょう。落款と印章は下記のとおりです。画中の印章は「霞中(嵯峨野の朝夕のたたづまいから命名)盦主」の白文印、箱書の印章は「恒(栖鳳の本名である恒吉より)」が押印されている。大正10年~昭和初めの頃の作品と推察されます。



共箱で二重箱に収められています。

 

蛇には金彩が施されています。「蟠蛇」というのはどういう意味でしょうかね? 将棋の駒???



学生時代に登山に夢中になっていた頃があり、槍沢から針ノ木沢までの北アルプス縦走後、翌日からは白馬岳登頂後、日本海の親不知海岸までという強行軍を友人としたことがあります。さすがに最後の強い陽射しの日本海の低山がこたえて、沢まで下ったところで一服していたのですが、寝転んだ脇でなにやら不審な音がします。首を横にして覗いてみるとなんと蛇が大群でニョロニョロと・・、慌ててすっとんで一目散に下山・・・。



どうもそれから蛇に憑かれた??  息子も巳年・・・。



海老之図 倉田松涛筆 その16

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本日は秋田県出身の異色の画家「倉田松涛」の作品です。もう「その16」となりました。一時期は評価が高くなり、贋作まで横行したそうですので、マイナーだと思って油断してはいけないそうです。

海老之図 倉田松涛筆
絹本水墨着色紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横528*縦1842 画サイズ:横394*縦1044



落款の部分に「百三談□□主人 松涛写(寫) 押印」と署されています。押印は「松涛」の朱文白長丸印と「百三談書房」の朱文白印が押印されています。他の所蔵品に同一印章の作品に製作時期が著されており、本作品もまた大正14年(1925年)の同時期作と推察されます。



題材の海老は「髭長く越し曲がるまで」の長寿の縁起の題材です。また「イセエビ」という名の語源としては、伊勢がイセエビの主産地のひとつとされていたことに加え、磯に多くいることから「イソエビ」からイセエビになったという説があります。



私の好きな説は「兜の前頭部に位置する前立(まえだて)にイセエビを模したものがあるように、イセエビが太く長い触角を振り立てる様や姿形が鎧をまとった勇猛果敢な武士を連想させ、「威勢がいい」を意味する縁起物として武家に好まれており、語呂合わせから定着していったとも考えられている。」です。そう異性がいい、もとい威勢がいい・・。



何故、梨と一緒に描かれているのだろう?焼き物や煮物にする場合は、中央から「梨割り」にする・・・なんてことは関係ないよね? 梨と伊勢海老収穫量一位は千葉県ということが共通らしい。調べていくといろんなことが解る・・・。



「あれ? お母さんはどこ?」 息子も異性がいいらしい???



さすが、私の息子・・・

百舌のひな図 福田豊四郎筆 その46

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日本のサッカーはどん底を迎えつつあるように感じます。女子は任期の長い監督で、戦略がマンネリ化しておそらく世界ではベスト4には入れないでしょう。ベスト8も無理かも・・。

男子はクラブサッカーで象徴的なようにアジアですら勝てず予選敗退の可能性が高い。組織サッカーを強化すべきなのに外国人監督、力のない海外組のメンバー、練習時間のない日程、明らかなに戦略の失態、大儀名分がないおろかな戦略のように感じます。

会社においては決算期を迎えようとしていますが、業績向上においてもっとも必要なことは同じように明確な戦略と思っています。働くことに大儀を見出せないとモチベーションが低下します。なぜこうなのか、こうしなくてはいけないのか、なぜこうあるべきなのかの真意を社員に解るように幹部自ら実践しいく体質の会社は強いです。今期もおかげさまで右肩上がりの見込みですが、さらなる高い大儀を示す戦略が必要となります。

本日は福田豊四郎の作品で「その46」となりました。すべての作品を公開しているわけではありませんのでご了解ください。ところで福田豊四郎の作品にも贋作があり「なんでも鑑定団」にも紛らわしい作品が登場しましたね。皆さんもご注意ください。

本作品はまだ全国に知れる前の頃の福田豊四郎氏の作品です。

百舌のひな図 福田豊四郎筆
絹本水墨着色色紙軸装 軸先象牙 杉共箱
全体サイズ:縦1140*横340 画サイズ:縦255*横230 



本作品は「柳燕図」(昭和10年頃の作品 祖母が福田豊四郎氏から羽織の裏地に描いてもらった作品 祖母から母、母から姉 姉から当方に頂いた作品)と同じ落款、印章です。



2015年3月にインターネットオークションにて5万ほどで落札したもので、ほぼ市場価格と同じです。それほど高い値段で取引されている画家ではありません。繰り返しますが、近代の巨匠(横山大観、上村松園など)以外の画家の掛け軸の作品は二束三文です。真贋を云々するのも愚かなことのように思えます。とくに南画、肉筆浮世絵など・・。



戦前から父は福田豊四郎氏とは交流を深め、戦前、戦中、戦後を通しての作品を幾つか当方にて所蔵しています。父の方でも画材や箱用としての杉の板を送ったりしていたことがやりとりした葉書からうかがえます。



幾つかの作品は離散しまいたが、今はその作品たちは小生の手元に戻ってきています。骨董蒐集にも明確な戦略が必要なのはいうまでもないことです。その戦略とは・・、会社と同じナイショ・・。

山水図 野呂介石筆 その4

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野呂介石の作品は本作品で四作品目となります。

山水図 野呂介石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 識箱二重箱
全体サイズ:縦2060*横635 画サイズ:縦1090*横420



賛は「遊印(「四碧斎」の白文朱長方印) 千古繁華逐水流 不傷春去□□秋 小亭結在漁浪□ □□欄干看白鴎 □□山樵句 介石第五隆 押印(「四碧斎」と「介石之印」の白文朱方印の塁印)」とあります。



祇園南海、桑山玉州とともに紀州三大南画家と呼ばれていて、とくに兄と慕うひとつ上の桑山玉州とともに南画会の双璧と言われています。

  

南画は非常に難解な分野・・駄洒落ではありあませんが、すんなりと自然の世界を愉しめばいいと思います。



南画を嫌がるひとつの理由に贋作が多いということもありますね。本作品もまた懲りずに「伝」として投稿します。



田舎の四季が遠くなりつつある都会の人はもっと南画を飾って愉しんだらいいと思うのは小生だけでしょうかね?



川のせせらぎ、木々のざわめき、風の香り・・、すべてが愛おしいものです。



四季の山々の色・・、日々移り行く自然に身を任せてみませんか? せめて絵の世界で・・。そんな楽しみ方においては贋作もなにも関係ない



「お~い、海の風は気持ちいかい?」画中の人物と似ている・・・



瑠璃釉捻り紋瓢型徳利

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古い絵となると「雪舟」、鯉や寅の絵だと「応挙」、色絵陶磁器だと「古九谷」と思い込みという妄想が激しいのが骨董の趣味の方・・・、ま~ほとんど宝くじがあたったという妄想に等しい。しかしこの愉しい妄想が健康には実にいいというのも理にかなっているようです。

さて本作品は妄想に駆られずじっくりと拝見・・。瑠璃釉の作品は先週の「なんでも鑑定団」に出品されていましたね。

瑠璃釉捻り紋瓢型徳利
時代箱入
口径20*胴径75*底径*高さ200



基本的に残念ながら当方では製作年代、産地は不明とせざる得ません。首に直しの跡があります。



この形は「祥瑞捻文瓢形徳利」によく見られる形で、17世紀の中国明の作品が古九谷や初期伊万里に影響を与えており、同型の作品が古九谷や伊万里に数多く存在します。



古九谷などでは瑠璃釉に金彩による絵付けがある作品が著名です。本作品が金彩で絵付する意図で製作されてものというのも100%否定はできず、焼成途中で金彩が流れた可能性、焼成が良くなく金彩を止めた作品とも推察できます。


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瑠璃:釉薬は高価で、原則として良品にしか使われない。陶器に用いられることはほとんどなく、磁器によく使われる。染付が作られている窯場は、同じ呉須を使うため基本的には瑠璃釉が用いられた可能性がある。

有田では17世紀前半の、いわゆる初期伊万里の時代から瑠璃釉が用いられている。初期の瑠璃釉は比較的淡い色調であり、17世紀後半以降には紺色の色調のものに移行する。ただし1650から60年代には淡い色調の瑠璃釉が多く見られる。この場合、薄く濃みをした染付と淡い色調の瑠璃を区別しにくい。

染付によって薄く塗られたものを薄瑠璃と呼んでいるが、これは瑠璃釉の薄いものと混同されている。瑠璃と薄瑠璃の区別は、釉薬そのものが瑠璃色であるものが瑠璃であり、染付で薄く濃みをしたあと透明釉を掛けたものを薄瑠璃と見なすことが出来る。断面を見れば、素地の上に藍色の釉薬があるのが瑠璃であり、素地の上に藍色の呉須がありさらにその上に透明の釉薬があるのが薄瑠璃である。薄瑠璃は染付の一種であり、瑠璃は色釉であるところに違いがある。しかし1650から60年代の有田磁器においては、淡い瑠璃釉を施したあとからさらに透明釉を掛けることが多いので難しいのである。藍色の瑠璃釉に赤や金の上絵付けをする作品も多い。



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「カセ」があるのは薬品によるものではなさそうです(薬品古く見せる手法)。近代の瑠璃釉よりも薄めの発色ですが、呉須による薄瑠璃ではなく釉薬のようです。

参考作品

瑠璃地色絵金銀彩桐丸文瓢形捻徳利
島田市博物館蔵 17世紀後半

瓢箪形の器面に6本の筋目をつけ、これを捻って刻んで作られています。この技法は、中国の明朝末期(17世紀中葉~後半)に景徳鎮窯が造った「祥瑞」とよばれる日本の茶人むけの染付や瑠璃釉磁を手本としています。釉はやや薄めで、透明度があり、そのさわやかな風韻は17世紀中葉から後半にかけての伊万里焼瑠璃釉磁の特色といわれています。その後、赤絵具で丸文を描き、そのなかに金箔で桐の紋章を表わしています。紺色の地釉との融和を考慮し、品位のある紋様に仕上がっています。





参考作品

下左:古九谷(江戸時代_17c・高19.5_口径1.8_底径5.5)
下右:祥瑞景徳鎮窯(明時代_17c・高19.3_口径2.3_底径5.4)



もともと「古九谷 瑠璃徳利」と題されていましたが、この手の古九谷があるかどうかは疑問です。

底の高台周りが真新しく時代の下がった伊万里というのが無難かな? なんといっても三千円也の作品・・、宝くじ10枚分の値段・・、妄想に駆られてはいけません。これだけ調べる資料になるのなら資料代金くらいの価値はすでにあった。



収納箱は小さくてかわいい手提げ箱・・、家内曰く「この箱いいわね~」・・「小生も同感」この箱もなにかに使える。書付を剥がそう・・・。

「トク、トク、トク」という酒を注ぐときの音が実にいい。なにかいいときがあったときに使うといい。宝くじに当たった、いい人に会えた、謎が解けた・・「得、徳、解く」なんてね。だからトックリ・・(この説は正しくありませんよ、「徳利」の語源は基本的に不詳ですが、音に由来する説は正解ではないようです。)

またまた親爺駄洒落・・  とはいえ本ブログは勉強になると思いませんか??? 

玉?石混合、魑魅魍魎、解説解読不能とはいえ・・。







絵唐津 呼継向付 その2

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さて本日は唐津・・・。本作品は「古」唐津には分類していません。

絵唐津 呼継向付 その2
箱入
口径141~143*高台径*高さ56



このようにあらかたを陶片で呼継された作品は唐津の呼継で、骨董商などが発掘陶片の数多くあった窯跡を掘り出して、茶碗や皿に仕立て上げたものが多いとのこと。

骨董商の副業的なもので、自ら金繕いしたものが多いのでしょうね。氏素性としては亜流に分類せざる得ず、茶席に用いるのは憚れます。



とはいえまったく価値のないものでもなく、もの自体は桃山から江戸期にかけてのものですからそれなりに価値はあるのでしょう。

原則として高台は一個もので高台そのものが呼継では価値がないとされていると聞いたことがあります。普段使いにて、欲に駆られた浅はかな骨董商の働きに思い馳せるもの一興でしょう。



呼継:本作品(上の写真左)陶器が欠損したとき、全く別の破片でこれを補修することをいう。
共継:既投稿作品(上の写真右)陶磁器が壊れた時、当該の破片だけで修理すること(共繕い、共直しともいう)

本作品は平茶碗と題しましたが、「向付」として作られたものでしょう。



このような呼継が珍重されると、またその呼継の贋作が横行してくるのもあるのでしょうね。本作品も「古」という題名は冠しないことにします。



呼継には形が面白くないものが多く、歪な作品がそのほとんどです。もともと無理があるものを合わせて作っているのでやむ得ないでしょうが・・。茶碗に使えるようにしているものもありますが、形そのものに品格がないものがほとんどです。唐津焼そのものがが茶碗としての作陶には力が無いもののように思います。

本作品のように形が様になっている作品は数が少ない。



インターネット上には唐津の発掘について記事があます。



「古唐津の発掘
古唐津は幕末頃から一部のお茶人の間で人気が出始め、少しずつ発掘が始まった。窯場の側には物原(ものはら)といって、失敗作を捨てたゴミ捨て場がある。そこを掘り返して使えそうな作品を見つけ出すのである。骨董の世界では、幕末に物原から拾われて伝世した古唐津を「発掘伝世」とか「中途伝世」と呼んでいる。さらに戦後になって古唐津人気が高まると、自治体が条例などで禁止しても窯跡の盗掘が後を絶たなくなった。それまではゴミに過ぎなかった物が金目の物に変わったのである。窯跡に学術的発掘調査が入っても、すでに掘り返されて上層と下層の区分がわからなくなってしまっている場合もある。たかが陶磁器といっても、地道な発掘調査と使用記録を付き合わせなければ、その流通を含む文化的全体構造は把握できないのである。」

本日の投稿した作品と同じような作品を以前に投稿したことがあります。

絵唐津 共継向付 その1杉箱入
口径143*高さ42~50



投稿後に調べていくといろんなことが解ってきます。これもまた勉強ですね。



呼継には形に面白さが無いものが多いのですが、このように形に興のあるものは使っていて愉しいものです。この作品は正確には共継の部類に入るかもしれません。欠けた部分は大きく繕いされています。



インターネット上に「唐津の呼継の箱」について興味深い記事がありました。

「唐津の呼継の箱
古唐津を呼継した作品を数多く残した古唐津研究の古館九一は呼継作品が完成すると、「殆ど家に常駐していた指物師の小杉さんが、それぞれに桐箱を作ってくれた」と書いておられる。戦前の素封家ではよくあったことだが、はっきり言えばあまり腕の良くない職人を専属で雇っていたのである。古唐津茶碗の箱はそれほど上質ではない杉板製が多い。一力さんの場合は「桐箱」と書いておられるが杉箱が多かったのではなかろうか。骨董の世界では、唐津の呼継の優品はなぜか粗末な杉箱に入った物が多い。たとえ箱書きがなくとも、箱を比較検討すればそれらは九一翁呼継作品であると推測できる可能性がある。」

「古唐津茶碗の箱はそれほど上質ではない杉板製が多い。」・・・



この作品が収まっている箱も杉箱・・、これまたそういうことを知っている御仁がそのように見せかけるために作ったこともありえますね。

古唐津の原則は下記の事項ですが、無論例外もあるようです。しかもかえってこの原則がきちんとしているほうが怪しいらしい・・。

古唐津の原則
1.三日月高台:高台を上にして見ると、やや中心がずれて削られていて、一方の幅がふくらみ、あたかも三日月のように見えます。これを三日月高台といい、唐津や朝鮮陶磁器の鑑定の大きな特長になっています。
2.竹節高台:横から高台を見ると、あたかも竹の節目を見るがごとく、真ん中が飛び出ています。これを「竹節高台」と呼んでいます。唐津や朝鮮陶磁器の鑑定のポイントです。
3.ちりめん皺と兜巾(ときん):ちりめん(縮緬)皺は、唐津の土の独自性である、土の粘り気からきています。高台を削るときに、道具と土の間に生じる土のはじけ具合、めくれ具合による皺なのです。それに兜巾、これは高台の中央が飛び上がっていることをいいます。削ったときに中央が残ったものです。



以前には「古唐津残欠」という記事もあります。

古唐津は珍重されるが故に贋作を含めて亜流が多いようです。もっとも贋作が多い陶磁器の分野らしいので手を出さないのが無難ですね。本作品のような陶片にも贋作があるそうで、現代製のものや発掘品の無地に後で絵付けしたものがあるそうです。

唐津はお遊び程度か、もしくはきちんとした一流の骨董店からの購入するのがいいようです。

於里遍(おりべ)窯変 割山椒 北大路魯山人作 その5

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さて先週は福島の富岡まで・・。除染の現場や減容化の現場へ・・。様々な非難も有ることも事実で、遅々として進まないようにも言われていますが、確実に復興への道を歩みつつあります。除染された廃棄物を破砕や焼却で容積を大幅に小さくするのを減容化と称するようです。その施設は飛散防止のテント内で行なわれます。周囲には処理する廃棄物は山のようにあり、新設されたこの施設の周囲にさえ、まだまだ津波による被害跡が生々しく残っています。

しかし復興に向けて技術者は必死で作業しています。瓦礫処理のノウハウを技術者が引き継がれ、その配列や創意工夫が今後に生かされ、機械にもさらなる工夫がされているようです。復興に向けて必要不可欠なのはこのような日本の技術者集団です。このノウハウは最終処分に生かせされていくでしょう。東日本の災害からの真の復興に役に立つかの本当の試金石は残念ながらまだ先ですが、加速度的に前に進んでいます。

さて本日は生意気なようですが普段使いの器です。

於里遍(おりべ)窯変 割山椒 
北大路魯山人作
黒田陶々庵鑑定箱
六客揃い 胴径115*高さ75



一見すると魯山人の食器は「たち吉」などで売っている作品と見分けがつかないのですが、よく見ると出来の良さがわかります。鉋削りの跡の妙、釉薬の味わい・・・、でも異常なほど崇める必要はないと思います。



窯変の味が出ていますがわかるかな~。骨董市や骨董店で展示されていてもどこがいいのかがわからない方が多く魯山人作とは気がつかない。それゆえ掘り出し物も贋作も多いのが魯山人の作品です。

かくいう小生も真作の志野徳利を二束三文で売ってしまった経験があります。



サインや印、掻き銘など非常に真似がしやすい作品群です。本作品は当初は乱雑に納められていたので作品を当方にて整理しました。



先代の黒田陶々庵の箱書き・・・。思文閣さんを通してなんどか黒田陶々庵には鑑定をお願いしています。



箱書きの記載は独特なものがあります。とはいえ箱書きの贋作が多いのも魯山人は飛びぬけて多いらしいです。



果てさて本物・・・??? 「虎穴に入らずんば虎子を得ず」・・贋作を知らず、経験せずして本物は得られないということ。

復興も同じ・・。 



「ん~」と息子・・・・・、「親を疑ってはいけません、使うには君にはまだ早い





倉庫改修工事 3月末

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今週もまた会社を去って第2、第3の人生を来月から歩み始める同僚との飲み会が続きました。去られる方が多く寂しい思いですが、これからは好きなことをする時間が自由に出来る人も多く、羨ましくもあります。好きなことは早めに愉しんでおかないと・・・。

ほぼ毎週末ごとに倉庫の改修の打ち合わせと現地確認です。先週末には2週間ぶりに現地確認ですすが、外側の建具が取り付け開始となりました。



縁側は大きめのサッシュですが予算的に足りなく、さらに納まり上無理があり、希望のフルオープンはできなかったのですが引き違いにしました。気候の良いときはすべて取り外すことも可能ということで妥協しました。

縁側の既存の屋根はステンレスらしい・・、ということでリニューアルの予定でしたがそのままか改修しないことにしました。なんといってもコスト削減が第一です。



縁側の既存の梁はそのまま内外ともに見せることに・・。古い母屋の土間にあった梁? 母屋を新築するときにこの倉庫に転用した材料です。洗ったらずいぶんと綺麗になりました。



梁が曲がっているのがなんともいい味を出していると思っていますが・・。このような広い縁側が日本の住まいからなくなったように思いませんか? 普段は絶好の洗濯物や布団の干し場になりそうですが・・。



茶室の入り口はフルオープンできるように折り戸に・・。左右どちからかも開閉できるように工夫・・・、この建具は商業用らしいのですが、こんな茶室を見たことも無いというのがいい。縁側もこれにすると良かったのですが、予算が足りませんでした。

茶室は常時フルオープンということもあるのですが、セキュリテイ、冷暖房、温湿度管理を考えると古い茶室のようなありようは現実的ではないということになりました。セコムをつけたり、エアコンをつけたり、網戸をつけるというようのが現在では普通ですからね。




入り口は今までのようなにじり口は不便なので入りやすいように工夫を・・・。

在来の茶室のにじり口は不便極まりないと思いませんか? あれはもう止めたほうがいいと思います。

刀を所持しない、身分の差なく頭を下げて入る、狭い入り口から茶室への広がりなど現代ではほとんど無意味なことを目的として、着物を着た女性や身長の高い人、年配の人に無理強いさせていることになります。

現代では身長も体格も服装も平均年齢も違う、外国の方もくる?のにあの入り口の狭さは時代遅れ極まりない。そのまま踏襲するほど愚かなことはないという結論になりました。

茶道口の狭さもそう・・、とはいえ今までの前例を全く無視することではありません。茶室には原則的に決まりごとはありませんが、使い勝手ということは合理的に考えられているようです。

大工さんと設計と小生と家内で「ああでもない、こうでもない。」と・・。今の人の身長はとか、年をとったら不便だとか・・。

大工さんは茶室をやったことがない・・・、大丈夫?? 「いや~、それがいいのさ、既成概念をもっているとろくなものができない。骨董と同じさ、決まりごとや真贋ばかりうるさくこだわる人にはろくなものが集まらない。」と無論、茶室建築などの経験の無い小生の独り言・・・・。



茶室からの景色もほぼ狙い通りになってきました。普段は雪見障子・・、夏用の障子は小生の実家にあったものを取り付ける予定です。大きさが合わないのが難点・・。



縁側も使えば結構な人数が入れます。ま~、ほとんど日向ぼっこかな。隣は物置ゆえ・・。



棚も出来上がってきました。



下は貼りもののケヤキ・・、もう一工夫だったか、ま~いいか、現代のものも。棚の脇の柱も新品ではありません。既存の古びた柱に張物を貼ったものです。まったく解りませんよ。「剥がれてきたらアイロンをかけるといいよ。」と大工さん

棚は以前紹介した庭にあったというケヤキの根っこの残材を・・。「汚いな~」というのがいい。



母屋の土間にあった梁材や庭にあった杉材、リサイクル店から見つけてきた古民家などの床柱、地板などを使用しコスト削減とリサイクルを意図しています。古材は見せて天井裏はエアコンダクトに使う予定です。



畑にあった? 現在は庭にあるトイレも再利用・・、さ~どうする。「なくさないで欲しい」と義父が希望。年をとるとトイレが近いらしい。



母屋の水屋につながる渡り廊下、庭を遮断しないように工夫中。



2階も接続・・。ここは資料スペースと展示スペースの延長。本などが並ぶ予定ですが、廊下は日影の問題で低く、ゆえに天井はなく小屋裏を現しにすることに。それにしては窓が大きすぎたかな・・。



取り合いで解体した既存の庇も再利用、なんといってもこれは銅版拭き、ともかくリサイクルとコストダウンを徹底します。



2階の展示ルームは柱はそのまま・・。2階はロフト付き展示スペース兼作業スペースと物置・・。



梁もそのまま・・、構造上大丈夫かな~ 大丈夫らしい。



なんといっても寄せ集めの材料ばかり、さて庭から要らなくなった石を見つけてきて入り口の踏み石に・・。小生や家内だけでなく大工さんも設計者もだんだん面白くなってきたようです。大工さんの一人は山形出身、小生と方言丸出しで打ち合わせ 大工さんは多くても総勢二人。ものづくりはゆっくりやることが望ましい。

倉庫の改修でたいしたものではないのですがものづくりは愉しまなくては・・。骨董と同じ・・、決まりごと、真贋もさることながらそれらを理解したうえで脇に置いて愉しまなくては・・・。リフォームは新築より愉しいことが多いですね。

















山水図 伝青木夙夜筆 その2

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骨董の本来の楽しみ方は「気に入ったものを購入して愉しむ」ということです。本日の作品はそういう思いに改めてさせてくれた作品です。感じが良いので数千円で購入して、寝ている脇にしばらく掛けていたのですが、「なかなか」というのが正直な感想です。

印章等を調べていませんので真贋は無論不明・・、投稿するには時期尚早のようで、よって「伝」としております。

山水図 青木夙夜筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1290*横625 画サイズ:縦315*横540



師である池大雅を模倣しながらも池大雅のようなおおらかさとは違う画風が漂っている作品です。表具は紙表具の質素な表具ですが、作品自体はよく描けています。



青木夙夜は池大雅の模写の域を出ないという評価もありますが、師である池大雅の画風を踏まえながら、師とは違う「清楚な穏やかさのある佳品」という評がしっくりくる作品です。

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青木夙夜:生年: 生年不詳 ~没年:享和2年10月23日(1802年11月18日)、他の資料では天明頃(1781〜1789)歿とあります。江戸中期の南画家。名は浚(俊)明。通称庄右衛門。字は大初、のち夙夜。士風、(大雅)春塘、八岳(山人)と号した。馬韓の余璋王の末裔といい余姓を名乗った。韓天寿の従兄弟。京都の人。




天寿を介して早くから池大雅に師事。師を敬慕すること篤く,天明4(1784)年玉瀾(大雅の妻)没後,大雅の遺作・遺品の一部を処分して,京都東山双林寺境内に大雅堂を建立。田能村竹田著『山中人饒舌』によれば,以後十数年間、大雅堂2世と称して堂を守り画作にふけった。大雅作品の鑑定に詳しく,また忠実な模写にも努めたが,自らの画風はまじめで穏和である。

寛政12(1800)年,大雅25回忌を主催。晩年は伊勢(三重県)へ移住し,松坂で没した。

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落款には年号の記載のあるものは物議を醸し出すことがあります。本作品の落款には「乙卯夏日写 余夙夜 押印(□□余氏)」とあり、「乙卯」というのは1795年(寛政7年)であると考えられますが、青木夙夜は没年が不詳で1802年、1781~1789年という二つの記載があり定かではないようです。本作品が新作で1795年の作とすると前者の1802年が正しいということになるかもしれませんが、逆に1789年に没していると贋作となります。真贋は不明ゆえに断定できませんが興味深い年号のある作品です。



「寛政12(1800)年大雅25回忌を主催」というのが本当なら1795年作も真実味を帯びてきます。

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補足資料

近世松阪の文芸界でセンター的地位を占めていたのが、町の中心部にある岡寺山継松寺ですが、同寺には、そうした画家たちによる書画類が今も多数伝えられています。青木夙夜もこの継松寺とゆかりの深い画人の一人ですが、 彼の生涯には不明なところが多くあります。



夙夜は京都に生まれたようですが、生年は明らかではありません。従兄弟の関係にあった韓天寿を頼ってしばしば松阪に滞在し、この地で没したようです。また夙夜は、池大雅の跡を継いで2世大雅堂を名乗るなど、松阪だけではなく京都を中心とした18世紀後半の文化に少なからぬ足跡を残しました。



画家としての夙夜は、師である池大雅から大きな影響を受けています。 彼の作品には大雅風のスタイルを示す山水画が 少なくありませんし、 大雅の作品模写をたびたび行っていたことも大雅と彼との深いつながりを示す証左といえるでしょう。夙夜の作品はさほど多くありませんが、現存する作品はいずれも、当時の最先端文化であった中国文化に対する強い関心を示すとともに、清洌で繊細な感覚にあふれています。

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写真では伝わらないかもしれませんが、白描画のような描き方に墨の青味が効いていていい作品だと思いますが、私の思い込みでしょうか?

源内焼 その53 三彩陽刻扇型唐草紋皿

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大名か大商人しか所有していなかった源内焼はもっとポピュラーになる必要がありますね。

源内焼 その53 三彩陽刻扇型唐草紋皿
合箱
幅253*奥行140*高さ20



緑釉を基調とした三彩の源内焼。手持皿に見られる扇型の皿ですが、単体では珍しい扇型の皿で、源内焼の資料には見られない図柄で希少な作品であろうかと思われます。




手持ち付きの作品では五島美術館にて出版された「源内焼」に掲載されている「作品NO95と96」とほぼおなじもののようです。


手持ち付きの作品では飾り用としては不向きで、実用性より飾り用として製作された源内焼の目的が理解できる、源内焼の面目躍如たる作品のように思います。



源内焼が古九谷と同等と評価される一方で、人気が出ない原因にデザインが古九谷より劣る(つまらない)というのがあろうかと思いますが、本作品をみてもそのようなことは無いように思います。



明治期のものがほとんどの似非古九谷が多い中で、まだ江戸期のものが入手しやすい源内焼を読者の方もひとつ入手してみたらいかがですか? おっと、またライバルが増えたら困るな~。

我が家の平賀源内は・・、「もしもし」



エレキテルフォンなんてね。





贋作考 角花紋花瓶 伝高橋道八作

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そもそも京都の焼き物は魑魅魍魎としてます。仁清風、頴川風、木米風などと称した作品、いわばコピー商品といっていいものまで氾濫しています。いかに多くの人がそれを本物と思い勘違いして所蔵していることか、宝くじの組違いよりもっとひどい勘違いとなります。

郷里のお寺の方から「頴川作」という火入?を見せられたのですが、当方の投稿作品よりも頴川らしくない。父子ともどもに「いいでしょう。」と仰られるのですが、こちらはお答えのしようがないという始末でした。そのお寺の他の所蔵品も見るべきものはない状態でしたが・・。真贋、評価額を気にせず、作品が良ければ面白いのですが・・。

本日は真贋、評価金額を気にせず愉しめる作品のひとつを紹介します。

角花紋花瓶 伝高橋道八作
共箱
口径角*胴幅60角*底径角*高さ220



この作品について売る側は「二代目道八」と主張・・・。「果たしてそうかな~、箱が新しい、印が・・」と独り言。ただ作品が非常に面白いので購入したものです。



底に「道八」の印、箱には「道八陶 ほら貝印の押印」がありますが、残念ながら何代目の高橋道八の作なのか、さらには高橋道八そのものの作なのかという判断は当方の知識ではつきかねます。



後世の何代目かの可能性はある?  宝くじの組違いかも?  どうも箱が嘘くさい・・。



四面に描かれた牡丹が見事、デザインの感性がいい、頴川などの写しの作品のような単なる写しではないように思えます。



本歌の作品があるのか? もともと道八の作品ではない・・・・・・・?? 



骨董というのは日々学ぶこと・・、正直なところ道八の作品はあまり好きではありません。というより京焼そのものが好みではない。魑魅魍魎たる点もしかりですが、近年京焼、高橋道八の作品も含めて女性の着物のよう・・、侘びさびはどこへやら・・。しかしながら本作品のこの大胆なデザインはいい。もともと道八の作品ではないからか?



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高橋道八:京焼(清水焼)の窯元の一つで、陶芸家の名跡。江戸時代後期より作陶に携わり、特に茶道具、煎茶器の名品を輩出し続けてきた。

初代 道八(元文5年(1740年)~文化元年4月26日(1804年6月4日))奥田頴川に師事して興し、現在の九代 道八(昭和48年(1973年)12月 - )まで続いている。

特に二代道八(天明3年(1783年)~ 安政2年5月26日(1855年7月9日)は、1812年に仁和寺宮より法橋に叙せられ、「仁」の一字を、また醍醐三宝院宮より「阿弥」「土師」の号を許され、石山御庭焼・紀州偕楽園御庭焼・讃窯御用窯など各地の御庭焼きや御用窯に尽力し、高橋法橋土師 「仁阿弥」道八と称し、名工として名高い。法螺貝の印があるが、これは薩摩の島津公が道八を訪ねたときに、法螺貝の置物を下賜したことにちなんで作られた印。高橋道八という名では活動をしていなかった事はよく知られていますが、恐らく高橋道八の中でも一番に名を挙げた大人物だったと言われています。



その後の三代は、青花や白磁の制作に成功し名を挙げます。青磁を始めとした雲鶴模様、三島手、刷毛目などの技法を用いて数々の名作を作陶磁しました。

四代は京都府勧業場の御用係で活躍をします。

その後の五代目は一時的に名を継ぐ結果となります。そして、六代目になってからは染付煎茶器で名声を獲得します。

七代目はこちらも活躍をします。

さらに、その七代目の長男であった八代。伝統を守り続けるために、京都府訓練校にて轆轤成形を学び、さらには京都市工業試験場でも釉薬を学んでいます。八代目に師事をしたのが、二女であり、現在では九代目となっています。

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現在はあくまでも「伝」高橋道八です。魑魅魍魎たる骨董の世界・・、作者よりも作品そのものを愉しむべき・・・




蜀機道図 吉嗣拝山筆 その2

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木村武山は脳内出血で倒れ、病で右手の自由が利かなくなったため左手で絵筆を執り、「左武山」の異名で呼ばれました。小早川清は小児麻痺による後遺症により、左手一本で絵を描きました。身体的な障害を乗り越えて一流の画家となり、もしくは名画を遺したことには敬意を表します。これらの画家の作品は幾つか本ブログにも投稿されています。

本日は同じく左手で描いた画家「吉嗣拝山」の二作品目の投稿です。地震で右手をうしない左手だけで絵を描いたので「左手拝山」と称された画家です。無くした骨を筆にして使ったというのはよく知られています。

蜀機道図 吉嗣拝山筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 軸先唐木 共箱
全体サイズ:縦2090*横560 画サイズ:縦1425*横420



「山従人面起 雲傍馬頭生 甲寅暑日倣沈石田筆意彷彿詩意 拝山 押印(「獨臂翁」の白文朱方印、「拝山」の朱文白方印)と賛が記されており、吉嗣拝山が69歳(1914年 大正3年 夏)の最晩年の作と推察されます。



箱書には「□□□拝山畫蜀機道」と題され、「甲寅秋日観於古□書□」とあります。箱書もまた描いた同年によるものと推察されます。拝山は翌1915年1月11日に亡くなっていますので、その前年の秋の箱書きで、非常に希少な作品と言えます。

 

題名の「蜀機道」は下記の説明の道のことで与謝蕪村の作品で著名ですね。この与謝蕪村の現在サントリー美術館で開催中の『若冲と蕪村』展に出品されており、昨日の日経新聞のも掲載されていました。

90年間行方が解らなかったらしいですが、「蜀桟道図」は蕪村の書簡の記載から1778年の作とされています。1922年刊行の「蕪村画集」(審美書院)に図版が掲載されて以降、所在不明になり、「幻の大作」と呼ばれていました。

2011年に東京の画商から美術館に連絡があり、シンガポールの会社が所蔵していることが判明。辻惟雄(のぶお)館長らが鑑定し、晩年に使った「謝寅(しゃいん)」の署名もあることなどから蕪村の真筆と判断したそうです。

多くの画家が描いている題材です。本ブログでも何点か投稿しております。(現在は非公開)本作品は与謝蕪村らの描いた「蜀機道」とはまったく趣の違う作品となっております。



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蜀道の険(しょくどうのけん):戦国時代、秦の恵王が蜀王を騙して敷かせた道。蜀道とは漢中から成都への桟道の事を指す。李白が「蜀道の難は、青天に上るよりも難し」と歌ったほどの難所であった。中でも、垂直に切り立った岩肌に取り付く蜀の桟道は、現在は観光名所として知られる。

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賛にある「倣沈石田筆意」は中国の明代中期の文人にして画家である「沈周」の画法に模したという意味でしょう。



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沈周(しん しゅう):宣徳2年11月21日 (1427年) - 正徳4年8月2日 (1509年))は、中国の明代中期の文人にして画家である。文人画の一派である呉派を興し「南宋文人画中興の祖」とされた。また蘇州文壇の元老として中国文学史上に名をとどめ、書家としても活躍した。詩書画三絶の芸術家として後世になっても評価が高い。家訓を守り生涯にわたって仕官することなく明朝に抗隠した。長洲県相城里(現在の江蘇省蘇州)の出身。字を啓南、号を石田・石田翁・白石翁とした。享年83。

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本当にプロの絵描きが描いた作品・・?? と思うような作品です。



どこかマンガチック・・・・、



この作品を描いた亡くなる前年に語った、画家としての拝山の人生訓をご紹介しましょう。
「畫家は猶藝者の如きものだ。餘り知られても困る、餘り知られぬでも困る。畫家としての一番楽しい時代は、何うしても漫遊中で、氣が向けば書き、向かねば書かぬといふのでないと、責め立てられて書くやうでは、なかなか堪ったものではない。(中略)何でも満身に力が篭った時でないと、眞ん物は出來ぬもので私の經験から見ても、窮餘の畫には、総じてよいものが出來るようである。(中略)繪にしても何にしても、具さに人生の辛酸を嘗めて來た後でないと、實際の味は出て來ないもので、容易にまたその味に食ひ入ることも出來ぬものである。」



まさに亡くなる一年前に描いたと思われる本作品・・、「実際の味」とはこのような作品のことをいうのか・・。

 

晩年は浪花の商人、中村伊三郎が拝山のために建てた六甲山の別荘で悠々自適の日々を過ごすこともありましたが、大正4年(1915)1月11日、病のため70歳で生涯を閉じていますので、何の病かは知りませんが、その前年の夏の作、秋の箱書きですので箱書きのある最後の作品かもしれません。

韓信之股潜図 野沢如洋筆 その2

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本日は4月1日、新たなスタートの日です。新入社員の入社式の日でもあります。別れの日々から新たの仲間を迎え入れる日です。なにを話そうかかな・・。

本日の作品、野沢如洋の作品は二作品目となりますので、詳細は省略しますが、青森県弘前市の出身で、その山水画は橋本雅邦や竹内栖鳳から高い評価を得ています。、「馬の如洋」と言われるほど馬の絵が得意ですが、本日は人物画の作品です。

韓信之股潜図 野沢如洋筆 その2
絹本水墨着色軸装 軸先 合箱
全体サイズ:縦1810*横510 画サイズ:縦1130*横400



賛には「伏出市人胯恥比噲等肩滅楚還王□興 大正丁巳春三月上浣□□杳□□□楼中 如洋□人」とあり、大正6年(1917年)野沢如洋が52歳頃の作品です。



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「韓信の股潜り」:「韓信が、若いとき町でならず者に言いがかりをつけられ、耐えてその股をくぐったという故事から大望をもつ者は目先のつまらないことで人と争ったりしないことのたとえ」を意味し、本作品はその状況を図柄にした作品です。韓信は町の少年に「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際には臆病者に違いない。その剣で俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ」と挑発され、韓信は黙って少年の股をくぐり、周囲の者は韓信を大いに笑ったという。大いに笑われた韓信であったが、「恥は一時、志は一生。ここでこいつを切り殺しても何の得もなく、それどころか仇持ちになってしまうだけだ。」と冷静に判断していたという趣旨の逸話です。この出来事が「韓信の股くぐり」として知られることになっています。



韓信(かんしん)は中国,漢初の名将。韓信(~紀元前196年)は、中国秦末から前漢初期にかけての武将。劉邦の元で数々の戦いに勝利し、劉邦の覇権を決定付けた。張良・蕭何と共に漢の三傑の一人。なお、同時代に戦国時代の韓の王族出身の、同じく韓信という名の人物がおり、劉邦によって韓王に封じられているが、こちらは韓王信と呼んで区別されています。

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韓信は波乱の人生であり、この「韓信の股潜り」の逸話以外にも興味をひく人物です。中国の歴史を語る上では欠かせない人物と思われます。



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野沢如洋( のざわ-じょよう): 1865年~1937年。 明治-昭和時代前期の日本画家。青森県弘前生。旧姓一戸、幼名は太郎、のち三千治、初号は仙蘭。父は弘前藩士。元治(げんじ)2年4月3日生まれ、郷士の画家三上仙年に師事する。

国が主催する日本画の展覧会をはじめとする多くの展覧会に出品し、上位の賞を得た画人であり、山水画の達人として知られる。その山水画は橋本雅邦や竹内栖鳳から高い評価を得、円山派を加味した独自の水墨画を展開した。

京都で今尾景年にまなび,日本美術協会展などに入賞。文展審査員に任命されたが辞退し、生涯反官展主義にたつ。山水、馬などの水墨画をえがき、「馬の如洋」とよばれた。昭和12年6月11日死去。

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ただし韓信の人生は好きにはなれませんね。智謀策略、出世主義、裏切りと背信、たとえ王となっても、もっと大切なものがあったはず・・。

地道にこつこつと歩むのが人生の王道。

鷹ヶ峰竹茶杓 五代金城一国斉作

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茶杓は本ブログには初登場です。茶掛けや茶杓、茶釜といった茶装具の部類は茶碗、香合を除き本ブログにはなじみの少ない分野で小生もあまり詳しくありませんが、茶室が出来上がると必要になってくるようです。

鷹ヶ峰竹茶杓 五代金城一国斉作
藪柑子絵入 銘「故郷」 説明栞入共箱
全長:185



描かれているのは「藪柑子(やぶこうじ)」、俗に言う「十両」と称されているものですで、縁起のよい絵柄のようです。



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藪柑子:林内に生育し、冬に赤い果実をつけ美しいので、栽培もされる。別名、十両(ジュウリョウ)。正月の縁起物ともされ、センリョウ(千両、センリョウ科)や、マンリョウ(万両)、カラタチバナ(百両)と並べて「十両」とも呼ばれる。寄せ植えの素材などとして使われる。

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金城一国斉は「一国斎高盛絵」と称される技法の作家ですが、本作品は高蒔絵というより通常の漆絵のように思います。



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五代金城一国斉:本名は池田勝人、号「自勝」。明治39年生まれ~平成3年没意(1906年~1991年)。四代一国斎の長男。大正14年広島県立工業学校建塗工分科を卒業。帝国美術院会員の赤塚自得の門下に入り、金蒔絵を修得する。帰広後、父紫明に高蒔絵を学ぶ。東京商工展に出品、受賞する。四代一国斎と共に広島県無形文化財に指定される。広島文化賞等を受賞62年には勲五等瑞宝章を受賞する。平成3年、85歳で没。



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一国斎高盛絵:「堆彩漆」と呼ばれる極めて類例の少ない独特の漆芸技法である。鎌倉時代から行われている高蒔絵の錆上げの技法をベースにして,歴代の一国斎が漆絵や堆朱・堆黒などの様々な技法を付加していき,三代一国斎が完成した。歴代一国斎の作品には,茶器,文箱,硯箱,香箱,菓子器,飾盆などがある。これに,ボタン,ユリ,モミジ,カキツバタ,ウリ,アシナガバチ,トンボ,ハチなどの植物や昆虫を高く盛り上げて描き出す。中でもアシナガバチを草木花に配するのが一国斎の特色である。

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「三代金城一国斎」はなんでも鑑定団に出品されましたので、ご記憶の方もおられることでしょう。

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金城一国斎:初代を祖とし、二代より一子相伝で受け継がれる高盛絵の技法を現代に伝える漆芸家として有名。初代澤木正平が大坂で漆芸を学び、その後、尾張藩に召され御用絵師となり、金城一国斎と名乗ったのが初めとされる。また、伝統の高盛絵の技法は、二代一国斎が考案したものとされ、代々受け継がれている。また改良研究がなされており、三代の時代になり明治に入ると、各展覧会、博覧会などにも出品し明治九年の京都博覧会や明治十年の第一回内国勧業博覧会で受賞を重ねる。

また明治天皇御用品の製作等も手がけこの時代の作品には手間、暇、金などを惜しまずに製作されおり、煙草入れをひとつ製作するのに、一年余の製作日数をかけており、一般庶民の手の出せない品物となっていたため、主に外国人を取引相手としている。この時代の作品の美術性が高い事もさることながら、現存が極端に少なく現在、市場においても高く評価されている。四代~六代の一国斎にしても、やはり展覧会などを中心として活動し、しばしば慶事があると広島県からの献上品として皇族に納められた。



特に五代一国斎は、高盛絵のほかに当時の漆芸家の最高峰であった赤塚自得に師事し金蒔絵の技術を取得し、それまで赤、黒、褐色、緑といった濃色を中心とした高盛絵に金を用いて華やかさを演出し、その幅や可能性を構築した。

現在七代の昭人氏が日本伝統工芸展などに出品して活躍中だが、高盛絵作品のほかに彫蒔絵の作品を多く製作し、現代感覚溢れる作風で新たな境地を画策している。

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家内の頑丈日プレゼント・・、もとい誕生日プレゼント・・・、遠州流の茶道を習っている家内へ、実用的でないのが誕生日プレゼント。これからもよろしく。

倉庫改修工事 3月末日

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倉庫の改修がさまになってきました。

もともとどんな物置? 古い家を壊して母屋を新築するときに母屋を一部壊した材料で家財を入れる物置を建てたらしい・・。1階はシャッターが2台あり、中は物置、2階もまた間仕切りなしの物置でした。一見すると住宅のようですが住宅ではありません。



3月末現在の工事途中が家内からメールで届きました。決まるところが決まってきたので様になってきました。



基本的には外観はいじっていませんが、母屋との渡り廊下がつくのが外観での一番の違いです。



渡り廊下といっても展示スペース、作業スペースの一部です。ドアは開放して使えるようにします。



展示スペースは天井を剥がしたまま・・、柱と梁のみ塗装しました。渡り廊下との取り合いが広く見えるかどうか??



茶室もそれなりに・・。入り口は現在の体格に合わせて広く・・。



茶室の裏にも床の間が・・・?? 地板はリサイクル品。舟の板?だったか何かに使っていたものらしい。



床の間を照らす採光は円窓・・。さていったいどうなるか・・。ただの物置ではない?



でも物置なのです。「男の隠れ家」の第3弾になりうるか・・。



リメイク再投稿 真贋考 呉州赤絵写火入 伝奥田頴川作

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ブログを投稿し始めてからまた作品を見直すことも数多くあります。真作と断定したものや贋作としたものなど・・。真贋抜きに面白いものもあります。ひとつひとつ処分も考えながら愉しんでいます。

真贋考 呉州赤絵写火入 伝奥田頴川作
合箱
全体サイズ:口径100*高台径65*高さ85



頴川の作品は銘を入れる場合にはその銘は「頴」という字の偏の上側が、“ヒ”ではなくなぜか“止”に近い形になっているそうです。これは頴川の自己主張と思われますが、概して頴川の作品には落款のないものが多いようです。



頴川は作品には殆ど銘を入れず、箱書のある共箱は皆無であり存在しないようです。

頴川の作品は絵付の筆が実に滑らかに奔放に伸びており、白磁の部分はやや青みがかった不透明感があり、高台の脇には砂付きがあるのが基本です。



ただしその特徴を掴んだ贋作が多く存在するらしい。村田寿九郎や頴川の門人の楽只亭嘉助らの模倣はうまいそうですが、完全には摸作できていないとのこと。



頴川作と称する火入れはよく市場にはありますが、数はどんどん少なくなっており、無論真贋はかなり疑ってかかるべきでしょう。



頴川作、木米作、道八作を持っているという御仁は多いようですが、京都の焼き物は魑魅魍魎・・。そのほとんどが真作とは程遠い作品です。



本作品もまた描いている線に伸びやかさが欠けているように思い「伝」とし、使い道も「線香立て」・・。

我が家のおチビさん、仏壇に正座して左手にチャッカマンを持って、右手にリン棒を持って「チ~ン」だと。おまけにちゃんと手を合わせて拝む。一歳と3ヶ月。教えたわけではないが真似るのが早い 本作品も間違って「チ~ン」






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