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葛城山樵父図(浅絳山水小点図) 横井金谷筆  その5

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ビジネスも趣味も多くの人が夢中になるものとマイナーなものとあるようですが、多くの人がやるものはわりと飽きてくるものです。マイナーなものは以外や意外に掘り出し物、新たな発見が多く愉しいものです。さて当方のブログもそんな分野に入るものでしょう。低コストで高付加価値・・・。

近江蕪村と称された紀楳亭横井金谷の二人の画家。何点か当ブログに掲載しましたが、こちらも贋作が多いので要注意です。当時はかなり高額で取引されたのでしょうが、今では二束三文ですね。安いのはいいのですが、真贋の判断が難しい画家の部類になります。

さて本日はその一人、横井金谷の作品です。真作としては第二作品目かな。贋作を掴まないと真作は見えてこないというのも一理あるようです。

葛城山樵父図(浅絳山水小点図) 横井金谷筆
紙本水墨淡彩 軸先 杉の合箱
全体サイズ:縦1670*横470 画サイズ:縦282*横182



本作品は大津市歴史博物館発刊の「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」に掲載されている作品NO185「秋山林間帰路図」(文政5年 1822年作)と同一印章を用いており、また落款も同じ書体から同時期の作品と思われます。60歳前後の作品・・。

 

巻止めに記された「敬簡居蔵」(所蔵者)についての詳細は不明です。

 

箱書には「金谷法印作」と書かれています。これは後に横井金谷が狩野派で主に用いた画人の位の最高位「法印」を作品に著したことによるのでしょう。

 

画家というよりは僧侶なのですが、若くして遊郭に通う、博打は打つ、喧嘩はする、一所にとどまっていられない性格で行動範囲は広く、9歳で大阪の寺に修行に出されるや、江戸、京都、長崎、赤穂、名古屋と、全国各地を転々とします。仏道修行もそれなりにこなし、頭がよくて説教上手、人々に慕われるタイプの人物でもあったようです。

旅先で妻帯、子供が出来てからしばらくは名古屋に落ち着きますが、山伏になって大峰山に登り、あげくの果ては子供を連れて、無謀ともいえる季節外れの富士登山という荒唐無稽な画家です。

闊達で、おもしろおかしく、周囲をさんざんヤキモキさせたり、迷惑をかけながらも、憎めない人柄で、常に周囲に人が寄ってくる人物だったようです。その愛すべきキャラクターは、彼の書状に一番よく現れています。また作品は、非常に奔放に筆を走らすダイナミックな山水を描く一方、マンガチックな略筆で、当時の市井の風俗や人物を描いており、好奇心の旺盛ぶりを作画にも発揮しています。

そんな彼の代表的な作品が下記の二作品です。

 

晩年、坂本に庵を構え、米櫃の米が少なくなると、地元の人々に絵を描いては米をわけてもらっていたことが、書状からも判明します。



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横井金谷:1761年~1832年(宝暦11年‐天保3年)。江戸後期の浄土宗の僧で,のち修験者となった。絵をよくし,名は妙憧,別号は蝙蝠道人。金谷上人,金谷老人とも呼ばれた。近江国栗太郡の生れ。京都にのぼり,21歳で金谷山極楽寺の住職となった。のち諸国を歴遊し,中年になって名古屋住吉町に住し鈴木鳴門,丹羽嘉信ら文人画家と交わり,また張月樵に絵を学んだ。「近江蕪村」と呼ばれるほど与謝蕪村に傾倒し,山水,人物を好んで画題とし俳画も描いた。みずからの放浪の生涯を描いた「金谷上人御一代記」を残している。

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この作品が描かれた頃は63歳で坂本に住居を定める直前の頃と思われます。「文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結ぶ。」とありますから、大和への旅の途中かな?

この頃、横井金谷は絵画に記されて内容や、寺に納められた制作年の分かる作品によれば愛知、静岡、兵庫、岡山を旅しています。文政6年(1823年)のようやく旅を終えることになるのだが、この簡に大阪と奈良の県境を旅したかどうかは確証はないです。

ただ、1804年に近畿地方の山々を修行僧として旅している時の山容を絵画にしていることも多い。このときは大峰山であるが葛城山とは近接しています。これらのことは非常に興味深い。

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葛城山(かつらぎさん):奈良県御所市と大阪府南河内郡千早赤阪村との境に位置する山。標高959.2m。近鉄沿線の観光地として和泉葛城山よりも知名度が高いため、単に葛城山と呼ばれることもある。

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*この「葛城山」と作品に記されたものと同一かは確証はありません。

軸先は黒柿かな? 珍しいかも?? コレだけでこの作品を買った値段???  

軸先をばかにしてはいけません。軸先が本象牙だと結構いい値段(数万円)になります。ただし「練り」と象牙を見間違えることがありますので素人では無理かな。よって小生は軸先は評価外・・・。



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補足説明

横井金谷は宝暦11年(1761年)近江栗太郡下笠村(現滋賀県草津市)に、父横井小兵衛時平と母山本氏との間に生まれ、幼名を早松と称していました。明和6年(1769年)、母の弟円応上人が住職を務める大阪天満北野村の宗金寺に修行に入っています。明和8年(1771年)には近隣の商人の娘と結婚を約しながら、江戸への出奔を試みるなど天衣無縫な面が垣間見られます。

安永3年(1774年)、芝増上寺学寮に入るため江戸に向かい、翌年には早くも五重相伝・血脈相承を修めましたが、安永7年(1778年)品川・深川への悪所通いが露見し増上寺を追われ下笠に帰国しました。安永8年(1779年)伏見光月庵主寂門上人や京小松谷龍上人に教授を受けに下笠より通い、また因幡薬師で龍山法印に唯識論を、六条長講堂に法相の碩徳大同坊の講義を聴聞するなど勉学に励んでいます。そのかいがあって天明元年(1781年)京北野の金谷山極楽寺の住職となり、山号をもって雅号としました。この頃のことについて、金谷自らが書いた『金谷上人行状記』において、岡崎の俊鳳上人に随って円頓菩薩の大成を相伝し無極の道心者と言われる一方で、博打・浄瑠璃・尺八などの芸事に夢中であったと記載されています。

天明8年(1788年)、正月30日の洛中洛外大火で極楽寺が消失し、負傷した金谷は翌月城之崎へ湯治に出ます。翌年3月、長崎を目指し旅立ち、姫路の真光寺や赤穂の大蓮寺などで「円光大師(法然上人)絵詞」を描き、寛政3年(1791年)長崎からの帰途にも諸寺に立ち寄り絵詞を納め、翌年赤穂において浪士原惣右衛門の孫原惣左衛門の娘と婚姻します。妻を連れ江戸へ旅立ちますが、名古屋において長子が誕生し、名古屋で3千石取りの藩士遠山靭負の援助を受け留まることになります。享和2年(1802年)法然6百年御忌報恩のため全国48寺に「円光大師絵詞」を納め、文化元年(1804年)7月、京醍醐寺三宝院門主高演大僧正の大峰山に登っての修行に斧役として従い、8月その功により「法印大先達」の称号と「紫衣」を賜り、名古屋に帰宅しています。

文化2年(1805年)東海道遊行の旅に出、諸寺に絵を納め、文政7年(1824年)近江に戻り大津坂本に草庵「常楽庵」を結び、天保3年1月10日(1832年2月1日)に死去しています。

若いときから絵を独習し、特定の師についたわけではありませんが、横井金谷は紀葉亭(1734年-1832年)と共に、画風が似ていることからともに近江蕪村と言われています。紀葉亭は蕪村に師事していましたが、横井金谷は一般には蕪村に師事したと表されることが多いのですが、その事実の確認はできていません。『金谷上人行状記』においても蕪村に関する事項は一行もありません。但し、名古屋において近江出身の南画家張月樵に教えを受けており、張月樵の師松村月渓の最初の師は蕪村であったことから、まったく蕪村と関係がないわけではないようです。事実、蕪村風の画風の絵は金谷が張月樵に教えを受けて後の48歳以降から晩年のものです。

63歳で坂本に住居を定め、草庵「常楽房」を営んだ彼は、天保3年(1832)72歳で没するまで、ここで暮らしています。この頃の金谷の画賛には「金谷道人滋賀山寺に於いて写す」「台嶺麓下金谷写す」などと記されています。おそらく大津の山水の美しさが、晩年の金谷の心をとらえたのであろうと推察されます。

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参考作品
秋山林間帰路図
大津市歴史博物館発刊の「企画展 楳亭・金谷 近江蕪村と呼ばれた画家」
作品NO185「秋山林間帰路図」(文政5年 1822年作)



白澤庵蔵
白澤庵(はくたくあん)コレクション:「日本美術の展覧会では見過ごされてきた画家やジャンルを再評価して収集された、米国人ならではのコレクション」らしいのですが詳細は解りませんが、天野方壷のホームページにも「白沢庵コレクション(Paul Berry氏所蔵)」とありますので、同一のコレクションかと思われます。

当方の蒐集もとうとう「日本美術の展覧会では見過ごされてきた画家やジャンル」になってきたのかな





旧ヤマジュウ田村家住宅

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先週末には義父が新聞で記事に掲載されていた福生市にある国登録有形文化財(建造物)「旧ヤマジュウ田村家住宅」を観にいこうかと言い出し、こちらの嫌いではないので「よし!行こう」ということになりました。2月の11日、14,15日に一般公開していたのです。



車で一時間弱で着きました。農家ではないので2階は蚕など飼っていた作りではないそうです。まず目につくのは広い縁側・・。



どこかで見た風景・・、そう私が改修した「男の隠れ家」の原型がそのまま・・。



国登録有形文化財・・・む~、たしかにこれでは住めない。居間などの居室周りはいいのですが、風呂場、台所、トイレなどの水周りも昔のまま・・。



文化財に指定になるのはいいが、家全体が死臭がしますね。家も骨董も実際に使って価値がある世界です。私ならこういう保存にはしたくない。



この縁側も寒いし地震に大丈夫か? ちゃんとした木製のサッシュを入れ、床の隙間をふさぎ、補強が必要・・・。そう家を生かさなくてはいけません。

「ね~」



蔵も2棟ありますが、ぼろぼろ・・。



天井の木材は見事・・。今ではいくらお金をかけても無理。



これでも当時としてはそれほど凝った天井ではないほうですが・・。



梁の長さも中途半端ではない。



このような材料がだんだんなくなってきているし改修できる職人ももはや少ない。

驚いたのが田村酒造で知られる田村家の建物・・。これは立派な生きている建造物。

さて我が物置改修計画は遅々として進まないが、それでも徐々に間取りが分かるようにはなってきました。



この黒い梁は家内の実家の古い家にあったいう土間の梁・・だから煤で貫禄がある。ただし短かった・・、そこを工夫。



縁側の予定の庇の梁・・、なにやら曲がっている。これも一興・・友人の設計者と「ん? サッシュが収まるかな?」



あちこちの既存部分にトラブル。家内と息子は「梁が曲がっていて大丈夫?」

大丈夫さ・・、これで3回目の棲家の建設、どうせ棲家は仮の宿。もはや頭の中は次の建設計画・・。



帰りの電車を待つホームの風は冷たかった・・、家は雨風を凌ぐところ・・。










春色(竹小禽図) 平福百穂筆 その19

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シミがひどくなったとかのなんらかの理由で共箱に収められている作品の表具を改装することによって、共箱のサイズに合わなくなるということはよくあります。箱を収まるように直すことになりますが、記されている内容の部分を嵌め込む細工が必要となり費用がかさみます。

春色(竹小禽図) 平福百穂筆
紙本水墨着色軸装 軸先陶陶器 共箱 
全体サイズ:縦1390*横775 画サイズ:縦400*横340



本作品はヤフーオークションより作品と箱を同一の出品者から別々に出品されているものを購入しました。

ひとつは共箱と作品を切り抜いた表具が売られていました。



箱の題名は「春色」となっていました。表具が残っており切り抜いた作品の寸法は同寸法のことから、表具を改装して共箱と改装した作品が別々になっていたのではないかと思われます。



作品は紙箱に入れられて売られていました。



作品は1万円ほどで、箱は五千円ほどで別々に購入したものであり、作品自体の表具もおろそかにしたものではないようです。



作品自体は筋もよくいいものだと判断しました。これはその場での私の直感です。



落款や印章からは大正から昭和にかけての平福百穂の円熟期の作と思われます。この印章は贋作にも偽の印が数多く押印されていますので要注意ですが・・。



このように共箱と作品が離れ離れになり氏素性の解らなくなる作品になることを食い止めたり、掘り出したりするのも蒐集する者の役目のようです。

さて、この別々のもの達をいかに一緒にするか・・。箱を作り直すのが正解のように思われます。

青磁蓮弁紋小皿

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青磁や白磁の器を普段使いに・・、青磁や白磁は高価なものというイメージをお持ちの方が多いようですが、最近はネットなどでお安く入手できるようです。本日の器も数千円の作品です。新しいものより古くて味のあるものをお勧めします。

青磁蓮弁紋小皿
合箱入
口146*高台径85*高さ37



青磁や白磁は基本的には磁器ですし、きちんと轆轤成型されたものを高温で焼成しますので、それなりの技量を必要とし値段が高いのも当たり前といえば当たり前です。



本日の作品は蓮弁紋様の器です。蓮弁紋様は宋時代から作り始められ、それ以降盛んに青磁や白磁で用いられた紋様です。これだけでいつ頃の作品かを特定するのは難しいものです。

下記の作品は参考作品ですが、このように綺麗な仕上がりは非常に希少で高価ですが、また近代作の贋作が多いものです。



この作品は型に嵌め込んで大量に作ったもののように思います。型に入れる際に内側まで紋様を出しています。一般的には内側には紋様がないのが普通が・・・。



覆輪が付いていますが、錆で材質がよくわかりません。定窯の白磁などは北宋時代には縁は銀で覆輪されていますが、元の時代になると覆輪は銅製になります。逆さまにして焼成されるために、縁に釉薬が掛かりきれないために縁のギザギザ感を解消するために覆輪を付けます。本作品に覆輪を付けた本当の理由は不明で外してみないとわかりませんが非常に雑な取り付けです。



高台内や見込みには「カラスの足跡」のようなひびが入っています。ただ、全体の色がいいですね。




中国の浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁で日本に舶載された中国の青磁は、ほぼ時代順に砧青磁(南宋~元)、天竜寺青磁(元~明初)、七官青磁の3種に区別されます。

今週の「なんでも鑑定団」に出品されていた明時代の七官青磁はその最晩期の明代中期から後期に焼かれたもので、淡い青緑色を帯びた透明性の強い青磁釉(がかかり、青磁としては粗製に属し、格調に乏しいものです。本ブログにも「なんでも鑑定団」への出品作と同じような作品が出品されています。この「天龍青磁」は訂正して「七官青磁」かな?



なんでも鑑定団の番組では「中国明王朝後期に浙江省の龍泉窯で焼かれた青磁。江戸時代前期にはかなり多くの数が輸入されている。鮮やかなグリーンで透明感が強い。そしてそこに細かい貫入が入っており、格子文の中に渦がちょっと描いてある。三本の足の先まで釉薬がついている、ということは窯の中で宙づりにして焼いている。作り方が大変良い。依頼品は大香炉なのだが、日本ではこれを水盤に使い、“石菖鉢”と呼んだ。」という説明でした。



なるほど・・足まで釉薬が掛けられているいるのは宙吊りか~。「何? 100万・・、馬鹿な!!」 売る値段は1万したらいいほうですよ。



江戸時代に茶人が用いた花生、香炉、香合などが伝存します。本ブログにも七官青磁の花入が登場しています。七官の名称の由来は、これをもたらした中国人の名前、あるいは位とする説があるが、本作品は七官青磁よりも前の時代のものと推察されます。

むろん砧青磁、天龍青磁などは数が少なく、庶民の手の届くものではありません。普段使いなら七官青磁や日本の青磁、清の復刻品が狙い目かな・・。ともかくも骨董は普段使いが原則です。


天啓赤絵銘入草花蝶紋歪皿

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コンビニの引渡し検査・・。



「どう、出来上がり具合は?」 「いいじゃない」というオーナーの感想です???



イートインもお気に入りのようでした。



本日は黄色の蝶が印象的な面白い形をした大き目のお皿です。

天啓銘入草花蝶紋歪皿
古箱入
幅217*奥行*高台径*高さ71



明末から清初にかけては官窯が衰退しており、民窯の作品が盛んに作られ、江戸初期の日本の茶人に愛用されて、多くの作品が日本からの注文で輸入された。その中には日本から型を送り、注文に応じた作品が作られたと言われています。



本作品はその中でも数が少ない天啓赤絵の銘の入った作品です。



天啓赤絵の約束事である虫喰いは写真では見えにくい部分ですが、少ないながら発生しています。



「砂付高台、高台内の鉋」という古染付にならった点はさらには顕著ですが、注文品のような香炉などにはないことも多いようです。



天啓赤絵を初め、南京赤絵、古染付、明末赤絵という作品群はコピー作品が多いので最終的なジャッジは小生もう少し経験を要します。今ではコピー作品を作るほどの人気も価格も高くないので気軽に蒐集できる分野です。



いずれにしても愉しそうな器です。その辺の骨董市で1000円くらいで売っていそう・・・。



大き目の皿・・。何に使おうかな・・・。カレーライスの皿が良さそうです。

「天啓銘入」の作品であって、「天啓赤絵」とは断定していませんので勘違いのなきように願います。

画帳 その1

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本ブログに「偽物ばかり、お金がもったいない(肉筆浮世絵美人画への投稿)」という趣旨のコメントを頂きました。素人ゆえの投稿につき「さもあらん」といったところです。「伝」「真贋考」で真贋を区別している以外にも不勉強や検証不足の作品もあろうかと思います。反省しております。

詳しい方からの指摘として尊重しそのような作品は少しずつ訂正や投稿を非公開としていきます。全体への誤解も生む可能性もありコメントはその作品の紹介と同時に非公開となりますことをご了解願います。

さて気を取り直して・・。

昨日は大宮で同僚らや元の職場の方々と一献・・・。愉しい歓談となりました。

昔は宿泊する宿や訪ねてくる地元の有力者の家には画帳が置いてあり、サイン代わりに一筆書いてもらうのが常でした。それが画帳となって現在に遺っているものがあります。戦争で疎開してきた画家も多い時代にはそのときの画帳も数多くあるようです。本日はそのような画帳の作品です。

画帳
縦303*横215*厚33(包装カバー共) 本体:縦300*横208*厚26



当方では桐箱を製作して保存しています。



描かれている作品は下記の14作品です。

所蔵作品 14作品
1. 郷倉千靭     2.石井柏亭     3.石井鶴三    4.中川一政
5. 武者小路実篤   6.加藤栄三     7. ??竹?   8.??竹?
9. ??竹?    10.長谷川昴    11.??俊夫   12.北村西望
13.????    14.木崎和廣                昭和63年





石井柏亭石井鶴三は兄弟で画家です。石井柏亭の作品は掛け軸がたしか未投稿で一作品あります。未投稿というよりまだデジカメで撮影していない作品です。 



父も画家で石井鼎湖といい、谷文晁の門人であった鈴木鵞湖の次男です。鈴木鵞湖は本ブログにも作品が投稿されています



本ブログにも投稿されている武者小路実篤の水彩画です。



このような画家が秋田に来訪しているのは驚きですね。

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鈴木鵞湖:江戸時代末期に下総国千葉郡豊富村(現:千葉県船橋市金掘町)に生まれた。江戸に出た後は谷文晁、相沢石湖に学んだ。代表作の1つである『十六羅漢像図』は千葉県指定文化財になっている。

専門家の間では「近代美術の基礎を築いた」とも評されている。また、鵞湖の後を少したどると息子の石井鼎湖、孫の石井柏亭、石井鶴三と三代にわたってその資質を継ぎ、いずれも画壇で活躍している。なお、石井姓は、鼎湖が養子にいったことによる。

2005年に郷土に大きく貢献した鈴木鵞湖を研究する為の「鈴木鵞湖研究会」が金堀町に続く鈴木家を含めた有志で結成され、歴史に埋もれてしまっている郷土出身の画家の足跡を明らかにする為の活動が行われている。

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まだまだ地方が豊かだった時代の遺産です。

地方都市の消滅が危惧される昨今、東京に人が集中することはある意味でリスクも高いということも認識しながらも、稼ぐためには都会へと住むところ、また永住の地を写さざる得ない現況を思いながら、豊かだった時代の地方の状況に思いを馳せるこの頃です。

地方にいなかった東京育ちの人には地方の落ち込みの有様はきっと分からないでしょうね。新幹線で訪れるには便利になったかもしれませんが、住むには不便になったのです。仕事先がない、福利厚生施設が少ない、老後生活には不便・・・。

それにしても日本の男子サッカーは弱い。クラブチームがアジアでは全く葉が立たない。これでは・・・・。協会の方針のふがいなさなど日本の男子サッカーを応援する気力が全くなくなったように思える。




レトロガラス(青)時代瓶

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倉庫の改修工事の打ち合わせ。

もともと庭にあったケヤキの木を自宅の新築に使ったらしいのですが、そのときに余った材料がありました。何かに使えないかということで「茶室の違い棚に」という家内の提案がありました。



倉庫を片付けていたら出てきた材料なので、捨てるのがもったいないと今回に際してとっておいた材料です。設計の友人と打ち合わせして「いいじゃん」ということになりました。



内装も解体して新たな軸組を開始しました。だんだん広さがつかめるようになりつつあります。



不要なものを取り払ったら前面もわかりやすくなりました。これから柱の盛り替えが始まります。1階は全面縁側にする予定です。今地震がきたらアウト

その前に木材の汚れを落とします。



どのくらい綺麗になるのでしょうかね?



母屋の階段も子供には危ないというので落下・転落防止対策を考案中・・、この階段は庭にあったケヤキで作られています



息子は打ち合わせに飽きて熟睡・・・。



本日はこんな瓶・・・。

レトロガラス(青)時代瓶
口径30*胴径95*高さ180



大正~昭和初期頃のプレスガラスの時代瓶です。家内曰く「要らないわよね~」だと。



味があっていいと思うのだけどね~。一輪挿しとか・・。家内曰く「一輪挿し」ばかりいくつあるのよ。

仕方なく洗面所にあった花を挿してみました。

学生時代に下宿の4畳半の部屋の机の上にこのようなものがあっただけでリッチと思えた時代を忘れてはいけない・・。

ケヤキもレトログラスも生かし方があるはず・・・。




池畔 酒井三良筆

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先週末の休日は家内のお茶の稽古へ付き合いました。



小生と息子はお茶とお菓子を戴きながら子守に専念していましたが、そのうち稽古場で我が子は熟睡・・。



本日は酒井三良の三作品目の投稿となります。福島県出身ですので、郷里が近い?こともあり作品に触れる機会は多くありましたが、蒐集となると手元にあったかと思うと売却ということが続いています。

池畔 酒井三良筆
紙本水墨淡彩扇面軸装 軸先象牙 酒井澄鑑定箱タトウ 
全体サイズ:横670*縦1240 画サイズ:横370*縦165



子供の頃に川や畦の小川で夢中で採ったフナを思い出します。



下記の作品「桜」は蒐集を始めた当時、画用紙のようなものに描かれていた作品を骨董市で購入したものです。額に入れて飾り真作かと思いましたが、いまひとつ納得できないので金調達に際して手放した作品です。やはり共箱や鑑定箱がないと評価が低いようで、二束三文の値段で手放しました。

桜 酒井三良筆
紙本着色額装 
全体サイズ:横528*縦414 画サイズ:横330*縦220



下記の作品は知り合いの所蔵で小生も好きな作品でしたが、今は手放されたようです。

汀 酒井三良筆
紙本水墨淡彩軸装共箱 
全体サイズ:横682*縦1375 画サイズ:横533*縦430



この作品も同じ運命をたどりました。いい作品で欲しかったのですが・・。

湖畔の雪 酒井三良筆
和紙水墨淡彩軸装酒井澄鑑定箱 
全体サイズ:横665*縦1380 画サイズ:横524*縦422



本作品もまた同じ運命・・、高島屋から知り合いが45万で購入した作品のようです。

江村小趣 酒井三良筆
古紙水墨淡彩軸装共箱軸先木製 高島屋 
全体サイズ:横752*縦1368 画サイズ:横602*縦468



ここからは「酒井澄」による鑑定箱の作品です。この作品もまた同じ・・。

春暖 酒井三良筆
和紙水墨淡彩軸装軸先象牙酒井澄鑑定箱 
全体サイズ:横558*縦1330 画サイズ:横418*縦355



この作品は思文閣へ売却。

いちじく 酒井三良筆
和紙水墨淡彩軸装軸先象牙酒井澄鑑定箱 
全体サイズ:横561*縦1280 画サイズ:横418*縦285



下記の作品もまた売却・・・・、このように写真で資料を残すことでその後の購入の参考になります。

雨上がり 酒井三良筆
和紙水墨淡彩短冊軸装軸先練酒井澄鑑定箱 
全体サイズ:横224*縦1330 画サイズ:横69*縦363

 

  

これだけの作品を目の前にし無理しても気に入った作品を購入しておけばよい場合や手放すこともない場合もあったとは思うのですが、これは縁というものですね。

ただデータが集まってきましたので、真贋の判断資料が蓄積されてきました。



その後なかなか酒井三良の作品のいいものは手に入りません。本作品のような小品を愉しむのもまた一興・・。



酒井三良は福島県出身の画家です。田舎の風景を描いた作品には子供の頃に見覚えのある情景が描き出されています。


画帳 その2

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先週末はコンビニのオープンセレモニーでした。金土日は大盛況のようでした。



お祝いに挨拶を小生がしましたが、事業主我が息子・・花輪の前で記念撮影。



早速お買い物・・、目移りしてしまうようね。



裏の駐車場への通路も確保しました。



人感センサー付き照明を完備の通路・・。



駐車場も舗装しました。高速道路仕様の浸透性アスファルト舗装らしい。



舗装もしていなかった駐車場がコンビニと舗装された駐車場に生まれ変わりました。



駐車場は満車、コンビニ繁盛へ、さ~資金回収に・・・・。

本日は前回の画帳の紹介の第2回目です。氏素性のしっかりした「真贋の心配のない作品です。」という説明が「贋作ばかり」というコメント以降必要となったようです

画帳
縦303*横215*厚33(包装カバー共) 本体:縦300*横208*厚26

前回は1~5まで。本日は作品NO6からです。

所蔵作品 14作品
1. 郷倉千靭     2.石井柏亭     3.石井鶴三    4.中川一政
5. 武者小路実篤   6.加藤栄三     7. ??竹?   8.??竹?
9. ??竹?    10.長谷川昴    11.??俊夫   12.北村西望
13.????    14.木崎和廣                昭和63年

加藤栄三の可愛らしい雀の図です。



NO7、8、9の作者は不明です。







長谷川昴は著名な彫刻家です。



これは漫画家かな?



言わずと知れた北村西望ですね。



百歳の記念の書・・。







この画帳はふるさとの記録として大切に保存しておきましょう。

晩秋瑠璃 粛粲宝筆

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倉庫の改修工事・・、先週の縁側の木材の洗いが完了しました。



洗う前よりだいぶ綺麗になりました

この縁側部分の木材を洗った理由は古い柱を取り払い、別の位置に新しい柱を設けて盛り替えたことによります。古いまま見せるために新しい柱を塗装することも考えましたが、ちょっとそれは潔しとしませんね。



縁側も構造の外も柱を盛り替えて見晴らしを良くしました。主役の松を見えるように・・、縁側にサッシュが付きますが取り外すことも可能です。



茶室からの視界をよくするために起因しています。建具は秋田の実家に古くからあった障子・・、乞うご期待・・。



間取りはほぼ決定・・。柱の無くなった部分は大きな梁材で受けています。構造的にも徐々に補強を取り付けていきます。



古い割れた梁はそのまま見せます。片側はエアコンダクト用・・・、ここも仕上げを乞うご期待。



2階は小屋浦までの吹き抜けの予定です。



もちろん男の隠れ家的な空間も・・・。



最後までもめた母屋との渡り廊下・・、既存の母屋には水屋。



茶室までのアプローチ、ここで仕上げを思索中・・・。



さて本日はふるさとの骨董店で購入した粛粲宝筆の色紙です。ひと目で気に入り購入した作品です。

色紙での工芸品との見分け方は縁の金紙部分にも色がのっていると肉筆と見分けると仙台の額縁屋のご主人から聞いたことがあります。粛粲宝の作品はそれほど高価ではないので贋作の心配はさほど要りませんが、工芸品と肉筆画を間違えないように念をいれる必要はあります。



晩秋瑠璃 粛粲宝筆
額装水墨淡彩 色紙 タトウ入
画サイズ:縦270*横240


 
粛粲宝(しょくさんぽう):明治35年 新潟県生まれ、本名は水島太一郎、油絵を黒田清輝日本画を小林古径に師事する、花鳥・静物・人物画を得意とした、三越本店個展、連続16回、その他個展多数、フランス個展数回、東京在住、平成6年(1994年) 歿、享年91才。異色日本画家。



「好鳥亦知静 孤雲時就閑」について「晩秋瑠璃 好鳥亦静を知り 孤雲時に閑に就く」と裏に書かれたメモが付いていました。



どなたが記したのかは定かではありません。



鳥は瑠璃色・・。



好く鳴く鳥も静かさを知っているという意味か??



「孤雲時に閑に就く」この意味は?? 最近は考えることが多いわりにじっくり時間がとれなくて困っています。休みの日は息子が離れない・・

「好鳥亦知静 孤雲時就閑」か・・・。

伝北宋耀州窯 青磁刻花紋小皿

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手頃な小さめの小皿でこれも普段使いにしましょう。底に砂というか小石のようなものがたくさんくっついていますが、使うのには支障がなさそうです。

伝北宋耀州窯 青磁刻花紋小皿
合箱入
口径132*底径45*高さ13



耀州窯の青磁は非常に精巧に出来ている贋作が多いので注意を要する作品群のひとつです。それだけ本物は少ないということになりますが、199年頃上手のコピーが出回り、苦汁をなめた人も多いと聞いています。幾つかの耀州窯と称する作品を購入しましたが、ほとんどが感じが悪いもので処分しました。写真では解りにくく手にとって見ないと解りませんが、耀州窯の作品は作品自体が締まっていて、コピーは重くぼってりした感触を受けるようです。



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耀州窯:華北の窯で唐末から五代には青磁を焼いていたが、北宋中期以降に隆盛し、毎年皇帝への貢物を製作する窯として知られた。オリーブグリーンの深みのある色と手彫紋様の劃花や型押の印花を装飾の特徴とする。手彫紋様は、紋様の輪郭線に斜めに刃を当てる技法(片切り彫り)によるもので、この装飾技法は江南の窯にまで影響が及んだ。

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見極めのポイント

1、灰色がかった土が固く焼きしまっている点。

*本作品は薄手で固い感触です。

2、碗類は高台が小さくしまってよく削りだされていることはこの窯の特徴ですが、よいものは高台内に鉄釉を塗ったような渋茶色のあがりをしており、すこし高台内に砂がついた感じのものが多いです。まず高台にしまりがなければだめです。コピーのレベルもあがっていますが、このへんまでうまくできているものはありません。

3.裏側で高台の外から口辺にかけて、「しのぎ」のように何本もの筋を刻んでいますが、コピーはこの筋のきさみの線が均一なのです。本歌はこの線が不均一で細いのも太いのもあります。これは「しのぎ」の紋様が有る場合です。

4.青磁の色は暗いのから、やや明るいのまで草色のなかにいろいろありますので、色かせはなんともいえませんが、青磁の釉薬に気泡があります。もちろんコピーにもありますが、この気泡の感じもポイントの一つです。耀州窯は別名を北方青磁ともいい、石炭で高温に焼かれている窯です。だから青磁の釉薬にも焼き物自体が焼きしまっている窯です。



*本作品の刻花周りの色の濃い部分に気泡が発生しています。

5.中国陶磁は発掘のものですから、発掘の痕跡がかせなどに残っている場合があります。しかし全くないものも硬質のやきものには多いのです。青磁でもとくに耀州窯ではかせなどはない。

*本作品は使用したような細かいキズがありますが、写真ではかせているように見えますがかせてはいないようです

以上が簡単な真贋のポイントのようです。

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贔屓目の説明かもしれませんので「伝」としておきましょう。「北宋耀州窯」と題すると本ブログの作品がすべてが贋作というコメントをする方がいるようです・・


白釉大徳利

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本作品のような瓶の形は「玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)」と通称されているようです。

「下膨れの腹に細い頸、ラッパ型に開く口を持つのが特徴です。玉壺春瓶は宋代より陶磁器の器形として現れ始め、元代・明代と時代が下るにつれ、すらりとしたシャープな形から太く重厚感のある形へと変化していきます。」ということらしいです。。本作品は重量感のある形かな・・・??。

器体の上には釉が厚くかけられているほか装飾は加えられていません。「李朝堅手」のようですが、その真偽はともかく飾り気のないその姿が気に入っています。このような白い釉薬は白磁も含めて伊万里や李朝が名高いのですが、本作品の生産地や時代は今のところ残念ながら特定できません。

白釉大徳利
箱入
口径60*胴径140*高台径78*高さ285



李朝の堅手のような雰囲気です。そもそも堅手の名前は、素地や釉や手触りが堅そうなところに由来するといいます。堅手の本手は、「灰白色の半磁器質の素地に、白がかった淡青色の釉、釉薬はたいてい高台裏までかかり総掛けしてあります。」という程度の知識しか当方には持ち合わせておりません。



高台脇に釉薬を掛けた時の指の跡がそのまま残っています。釉薬を掛けた時にどのように持っていたかこれで解ります。実際に釉薬を掛ける時のように持ってみると面白いもので意外に重いものです。作陶にはかなりの握力が要求されます。



「高台には砂が付いている」・・俗に称する砂付高台です。



轆轤目はきっちりと出ていますね。李朝堅手の特徴ですが、李朝堅手に「玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)」の形のものがあるかどうか・・、あまり見たことがなく李朝後期の時代が下がったものかもしれません。。



同じような白磁の小さな徳利が洗面台の脇に転がっています・・・。他にもなにかあったのですが処分・・



こちらは高台中が釉薬が縮緬状です。こちらの作品は李朝後期?? いずれにしろ李朝にしても時代の若いもののようです。こちらはずんぐりむっくり・・、石ころのよう  なんの飾り気のない作品ですが高台は魅力的です。



形としての参考作品は「青磁瓶 玉壺春瓶(ぎょっこしゅんへい)龍泉窯 元時代(14世紀) 戸栗美術館蔵 口径7.1cm 高27.6cm」(写真:左 かなりレベルが高い作品)と
本ブログ投稿の「黒釉玉壺春瓶」(写真:右 かなりレベルの低い? 作品)

 

この「玉壺春」という変わった名前はいったいどこからきているのでしょうか。

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中国の研究者によると、唐代以降の詩や詞の中に「玉壺春」や「玉壺春酒」という語句を見つけることができ、いずれも酒の種類・銘柄として記されているといいます。

古来中国では「春」字はしばしば酒の名に用いられており、古典籍の中には「玉壺春」のほかにも「土窟春」「石凍春」などの酒名が見られ、酒好きで知られる李白の詩中にも「金陵春」「大春」「老春」などの酒の名前が登場しています。

「玉壺春瓶」が酒の名にちなんでつけられた器種名だとすると、その用途は酒器であったと想像されます。実際、中国元代の墓葬壁画には、宴会の場面の中で、本作と同様の形をした瓶が机上に置かれたり、従者に抱えられて描き出されており、元代においては、玉壺春瓶は酒を蓄え注ぐための容器として用いられていたことが明らかになっています

一方、日本には、鎌倉時代に南宋や元との貿易によって龍泉窯青磁をはじめとする大量の中国陶磁が流入しました。そうした中で日本にもたらされたと考えられる龍泉窯の玉壺春瓶の中には、「花生」の箱書が残されているものもあることから、日本ではこの形の瓶を花器として用いていたことが分かります。

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中国人は酒が強いらしい。この器は大きいかなりの酒の量が入りますのでやはり花入かな? 「花入の数が多すぎる」とは家内の苦言・・。


ブログに投稿するのは基本的に氏素性の解らぬ作品がメインで、基本的に投稿していない作品(未公開:氏素性がはっきりしている作品)もあるため、投稿外にも花入の作品があり家内が「多すぎる」と・・、納得  

今年予定の引越しに際して作品の多くを処分しようと思いますが一番処分しづらいのが氏素性の解らぬもの・・ガラクタたち・・結局床の下か天井裏に放り出される。




色紙 菊図 平福百穂筆 その20

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「本屋で息子が自分でパンフレットを取り見ていた。」と家内が写真を撮ってきたらしい。なにZ会・・いくらなんでも早いだろう



さて、本日は平福百穂の菊を描いた作品です。

秋田県仙北市角館町にある仙北市立角館町平福記念をご存知でしょうか? 桜で有名な角館のメインストリートの角地にあります。桜見物ついでに寄られたらいかがでしょうか?
本ブログに投稿されている平福穂庵と百穂父子の作品を展示しています。

色紙 菊図 平福百穂筆
紙本水墨淡彩色紙  
画サイズ:縦270*横240



他の所蔵品である「牡丹図 その2」、「小色紙 躍鯉図」と同じで印章で「三宿翠?房」と思われますが、よく用いた「三宿草堂」と同じ意味かも知れません。

この印章は昭和年頃の作品に用いられており本作品も同時期の作品と思われます。三作品の印章は合致しています。



水墨の部分が実に達筆でみずみずしく、実にうまく、堂々とした表現です。



工芸品が平福百穂には多いのでまずはその点を見極めておく必要があります。色紙の縁まで住みの跡があることが必要です。



色紙ながら額装や掛け軸に仕立てたいたらいいかなと思いますが、ま~掛け軸は共箱がもてはやされる・・・。

古染付張甲牛写香合

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家内のお茶の稽古に一歳の成りたての息子は連れて行かれています・・、時には小生まで・・。元いた会社の元同僚?が多い集まりです。

息子の目当て?は無論お菓子。欲しいときには正座までするとか・・。



「ね~、先生、お願い・・」と言っているに違いない。



歩く前から正座か・・、なかなかやるじゃん、というか末恐ろしい・・


本日は「古染付張甲牛写」・・そう「写」という文字を見逃さないように・・。

古染付けの皿は数が多く廉価なこともあり入手は意外にたやすいのですが、香合や香炉は非常に入手が困難でコピーした作品が数多くあり厄介な分野です。

古染付張甲牛写香合
合箱入
幅50*奥行50*高さ50



「本作品は下記の香合番付前頭9にランクされる明時代の古染付香合の名品「張甲牛」の後世の写しと思われます。」という説明がありました。

丁寧に縫われた布で包まれて箱に仕舞われています。



本歌とは牛の向きが違いますので、全くのコピーではないようです。実際には「類品の多いこの手」というのが本当のようです。似たような牛の絵の染付けの作品が時代が古くからあるようです。



偽物という作品ではなさそうなことと、雰囲気がとてもいいので入手したものです。銘は入っておらず、箱の裏は呉須による何かのマークか染料のこぼれのようです。



時代は明~清という時代はなさそうで、近代の日本の京焼?の作品と理解しておくのが無難でしょうね。



薬味入れにいかがなものか・・?



下記の写真が本歌・・香合番付前頭9にランクされる明時代の古染付香合の名品「張甲牛」。

「古染付張甲牛香合:景徳鎮窯。蓋の甲がふっくらと盛り上がり、その中央に1匹の牛を描いただけで、すばらしい意匠効果をだしていいます。四方の側面に四方襷文が配され、全体を引き締めて効果的である。類品の多いこの手のなかで、周囲の虫喰いが少なく、染付も美しく発色しており、優品の一つに数えられるものです。わが国の茶人から中国への注文品で、江戸後期の大茶人松平不昧公旧蔵のものと伝えられています。」という説明があります。



こちらの下記の写真の作品は写し?・・・・・・・・・、豚か猪のようですが、これが味というものという評価か?? 写真では判断がつきませんね。



近代の写し・・・・・・完全な写しですが、呉須の色に風情がありませんね。虫喰いも出ていません。



虫喰いの真似は難しいらしく真似しても本物とは違うとすぐ解るそうです。


源内焼 その51 三彩陽刻花鳥図皿

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平賀源内は江戸で親しかった浮世絵の鈴木春信の工房で木型を作らせ、それをふるさとの志度に送って焼かせたと言われる源内焼・・。その技術の高さは驚くべきものがあります。

本ブログを見ていただいた出版社から投稿された作品の写真を掲載したいとのこと・・、ほんの少しの紹介のようですが、源内焼が少しでも世に知れわたることに貢献できればと思います。本が出来上がったら送っていただけるそうです。

源内焼 その51 三彩陽刻花鳥図皿
合箱
口径230*高台径150*高さ35



緑釉を基調とした三彩の源内焼。源内焼の資料には見られない図柄で希少な図であると思われます。



緑釉のグラデーションを付けて鳥と草木を表現仕分けているのは珍しく、まるで日本画のよう・・、このゆうな趣の作品は何点かあるようですが、本句品は鳥の表情が面白く、他の作品はありきたりの日本画のようですね。



図鑑などに掲載されている作品が貴重と思われる方が多いでしょうが、このような図鑑に掲載されていない作品にも源内焼はまだまだ佳品があるようです。



キズの付き易い胎土なので欠けや色落ちのない作品は少ないですが、極力完品を探すようにしたいものです。



大きさとしては230mmであり標準的な大きさです。



鳥の表現などは、見慣れてくると時には退屈なほどパターン化された源内焼の中で特異な作品といえるかもしれません。



本作品はやや欠けや釉薬の落ちがあるのでこれからじっくり補修します。基本的には金繕いです。補修しないと源内焼は脆く、吸水率が高いので痛みが急速に進行します。



このように陽刻できちんと作られているのは浮世絵工房の版木製作の技術のよるのでしょうね。日本の浮世絵版画の技術のレベルは非常に高いことが源内焼という陶磁器でも知ることができます。


青緑山水図 高久靄崖筆 大窪詩仏賛 その2

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さて本日は「貧乏神」と称される画家の作品です。

高久靄崖の作品は当方にとっては二作品目のはずですが、一作品目は資金調達のため売却したように記憶していますが、当方の売却リストにはないのでまだどこかにあるかも・・。

何回かに分けて所蔵していた作品を処分していますので時々、処分していたか、処分していないのか混乱することがあります。いずれにしても骨董品というものは売ろうと思うと滅茶苦茶に安いものです。本作品のようなグレードの中堅どころの画家の作品は、真贋などという前に本物であっても二束三文のものです。

青緑山水図 高久靄崖筆 大窪詩仏賛
絹本水墨着色軸装 大窪詩仏賛 軸先象牙 合箱入 
全体サイズ:横2010*縦570 画サイズ:横1280*縦430



高久靄崖はプライドが高く、金儲けのために絵を描くことはしなかったために極貧の生活のようだったので貧乏神と称する人もいるようです。



春の風景かな。



家に飾っておいたら家内からのメールで「舟の乗っている人の頭が無いよ。」だと・・・。



全体の雰囲気はいい作品なのですが、どこかぱっとしない



贋作ではなさそうですが、この辺が幕末・明治の南画家の限界か・・・




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高久靄崖:寛政8年(1796年)~天保14年4月8日(1843年5月7日)。下野那須郡杉渡戸(現 栃木県那須塩原市黒磯)に生まれる。名は徴、字は子遠、通称秋輔。号は靄、石窟、如樵、石窠学、梅斎、疎林外史。靄は、馬方や煙草職人をする傍ら、郷里の画家 平出雪耕や小泉斐(あや)について書画を学ぶ。



青年期より下野鹿沼(栃木県鹿沼市)に移り、池大雅や清の伊孚九に私淑し、文人画を独学した。鹿沼の文化人に支援を受け、文政6年(1823年)27歳のとき江戸に出る。

江戸では画家として評判が高かったが、気位が高く、儲けのために画くことがなかったので生活は貧窮した。見かねた知人の田能村竹田のはからいで谷文晁の画塾写山楼の門下となり、文晁が弟子の靄の絵を売り出したという。弟子思いの文晁らしい行動だが、それほど画の力量があったという証左でもある。

同門の渡辺崋山が蛮社の獄で投獄されたとき、椿椿山らとともに救出に尽力したという。30代になると北陸や東北、関西など各地を盛んに旅し、古書画の調査や模写を行っている。特に仙台は三度訪ねている。この調査を元に『過眼録』を著した。

天保8年(1837年)42歳のとき、それまで鹿沼に拠点をもって行き来を繰り返したが、江戸に永住を決意する。天保14年(1843年)4月8日、江戸両国薬研堀のアトリエ晩成山房で永眠。享年48。谷中(台東区谷中4)の天龍院に靄の墓がある。

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賛の解読は未了・・・



「姑□仙人□玉 沙丹光□笑洞中 □□□一択東風□□作江 □第一□ 詩佛老人書 押印」ん~~。



大窪詩仏は享年74歳、その頃高久靄崖は享年42歳で、高久靄崖が亡くなる頃に江戸に定住を決めています。詩仏老人と賛にありことから大窪詩仏の最晩年の賛か?

高久靄崖はその6年後に48歳で亡くなっています。


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大窪詩仏:(おおくぼしぶつ)明和4年(1767年)~天保8年2月11日(1837年3月17日))。江戸時代後期の漢詩人である。書画も能くした。



常陸国久慈郡袋田村(現 茨城県久慈郡大子町)に生まれる。名は行(こう)、字は天民(てんみん)、通称を柳太郎、のちに行光、号は詩仏のほかに柳侘(りゅうたく),痩梅(そうばい)、江山翁(こうざんおう)、玉地樵者、艇棲主、含雪、縁雨亭主、柳庵、婁庵、詩聖堂(しせいどう)、江山書屋(こうざんしょや)、既醉亭(きすいてい)、痩梅庵(そうばいあん)とも号した。号の詩仏は唐詩人 杜甫が「詩名仏」と称されたことによるものか、あるいは清の袁枚の号に因むと言われる。



印章の読みは不明です。

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大窪詩仏の補足説明

我が郷里の秋田に関係するらしく、秋田藩に出仕しています。秋田藩(あきたはん)は久保田藩(くぼたはん)とも呼ばれています。久保田城を居城とし、藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封されました。水戸から美人を連れて行ったので秋田には美人が多く、水戸には美人が少ないといわれたのはこのことによる??   石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。

また本ブログでなんども投稿されている釧雲泉とは信越に一緒に旅行しています。

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詩仏が10歳の頃、隣家が火事となり大騒動になっていても、それに気付かず読書しつづけたという逸話が残っている。 父の大窪宗春光近は桜岡家の婿養子となったが離縁になり、詩仏を引き取って実家のある常陸国多賀郡大久保村に戻った。このため詩仏も大窪姓に復する。代々大窪家は医を生業としており、宗春は田舎で身を沈めることを潔しとしなかったため、数年後単身で江戸にて小児科医を開業する。江戸では名医として評判となり大いに繁盛した。詩仏は15歳頃、江戸日本橋新銀町で開業する父の元に身を置き、医術を学び、剃髪し宗盧と号した。

21歳頃より山本北山の門人 山中天水の塾 晴霞亭に通い儒学を学び、市河寛斎の江湖詩社にも参加して清新性霊派の新風の中、詩作を始める。24歳のとき父が亡くなるが、医業を継がず詩人として身を立てる決意をする。同年、師の天水が33歳の若さで早世し、中野素堂の紹介で山本北山の奚疑塾に入門する。

25歳の時、市河寛斎が富山藩に仕官した後、江湖詩社に活気がなくなってくると、先輩の柏木如亭と向島に二痩社を開いた。詩仏の別号 痩梅、如亭が痩竹と号したことに因んだ命名である。この二痩社には百人を超える門人が集った。その後、自らの詩集や啓蒙書などを活発に刊行する。また各地を遊歴し、文雅を好む地方の豪商などに寄食しながら詩を教え、書画の揮毫などで潤筆料を稼いだ。その足跡は東海道、京都、伊勢、信州、上州に及ぶ。

文化3年3月、39歳の時丙寅の火災と呼ばれる江戸の大火に罹災。家を焼失した詩仏は復興費用の捻出のため画家の釧雲泉と信越地方に遊歴し、秋に帰ると神田お玉ヶ池に家を新築、詩聖堂(現 東京都千代田区岩本町2丁目付近)と称した。しだいに訪問客が増え、それにともなってこの詩聖堂に度重なる増築を加え、豪奢な構えとなっていく。文化7年正月、『詩聖堂詩集初編』を出版し、江戸詩壇の中で確固たる地位を築く。この頃、頼山陽などと交流する。

文化13年(1816年)、書画番付騒動が起こり、これに巻き込まれる。これは当時の江戸の学者や文人達を相撲の番付に見立てて格付けした「都下名流品題」という一枚刷を巡り、あちこちで格付けの不当が言い立てられ始めたことによる。東の関脇に詩仏が格付けされており、親友の菊池五山とともにこの戯れ事の黒幕と目されてしまった。大田錦城らと大きく悶着したが、後援者である増山雪斎の調停でなんとか治まった。真相ははっきりしないが詩仏の関与は濃厚と見られる。この後、詩仏は信越へ遊歴し、ほとぼりを冷ましている。

地方に遊歴してもしだいに振るわなくなったことに焦りを感じたためか、詩仏は文政8年(1825年)、59歳にして秋田藩に出仕する。ほとんど拘束を受けない条件で江戸の藩校 日知館の教授として俸禄を給されたので生活そのものは変らなかった。文政12年(1829年)は63歳になる詩仏にとって運の悪い年だった。3月の江戸の大火(己丑の大火)で詩聖堂を全焼し、秋田藩邸に仮住まいを余儀なくされた。下谷練塀小路に小宅を構えることは出来たが、二度と詩聖堂を復興することは出来なかった。ついでこの冬、二人の幼女を残して妻が先立つ。

晩年の詩仏は江戸詩壇の泰斗として敬われ、交友も活発であったがかつての華やかさは次第に失われていった。また肉体的にも衰えが目立ち、65歳 秋田に旅した帰路には脚気が悪化し養子の謙介に迎えに来てもらわねばならなかった。 天保8年2月(1837年)、自宅で没する。享年71。浅草松葉町の光感寺に葬られる。後に藤沢市本町に改葬された。

詩仏は穏やかで物事に頓着しない性格で少しも驕ることがなかった。また人付き合いがよく、酒を好んだこともあり、多くの文人墨客と交流し、当時の詩壇のアイドル的な人気を獲得した。市河寛斎、柏木如亭、菊池五山と並んで江戸の四詩家と称せられ、また、画家の清水天民、儒者の並河天民、詩人の大窪天民(別号)で三天民と評される。

蜀山人は「詩は詩仏、書は米庵に狂歌俺、芸者小万に料理八百善」、「詩は詩仏、三味は芸者よ、歌は俺」などといって激賞した。師の山本北山は、「詩仏は清新性霊の新詩風の中で育ち、古文辞格調派の毒に染まっていない」として大いに期待しエールを送っている。

詩仏の詩は范成大、楊万里、陸游など南宋三大家の影響が強いといわれる。詩はいたずらに難解であるべきでなく平淡であることを貴しとし、清新であり機知に富んでいながら尚、わかりやすい詩をめざした。

このように写実的な詩風を好んだため、特に詠物詩を得意とした。孫過庭に影響され草書を能くした。また画については蘇軾に私淑し、墨竹図をもっとも得意とした。墨竹の四葉が対生する様は「詩仏の蜻蛉葉」と称され尊ばれ、多くの人から書画の揮毫を求められ、潤筆料を稼いだ。

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冒頭の一作品目の資料が検索により見つかりました。

山水画 高久靄崖筆
紙本水墨軸装 合箱入 軸先木製 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横485*縦403



「痛みがひどいため、表具を改装している。箱、栞を作成した。落款、印章、出来から真作と判断される。本作品は仙台の骨董市で掘り出したもの。仙台市内の額縁屋さんを通して表具したもので、箱は利府の家具屋さんに特注で依頼した。箱書きは仙台近郊の石森氏という書家に依頼して書いて頂いた。」とメモ書きがありますので仙台に勤務してた頃の作品です。



仙台には頻繁に来ていたようですので、当時の作品かもしれません。



箱書を書の得意な方にお願いしたり、作品説明の栞を作ったりと蒐集し始めた頃のほうが今より作品を大事に扱っていたようです。

「初心忘れるべからず」か・・・・。

浅絳観瀑山水図 藤本鉄石筆 その2

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東北地方を中心として発生した大震災。その復興にはかなりの時間がかかると震災直後に記述しましたが、思った以上に復興がすすまないようです。「復興にはかなりの時間がかかる」と記述した理由は原発の問題以外に、高齢化と産業基盤が脆弱な地域であることと記述しました。大切な家族を失った悲しみ、自宅なども含めてすべての財産を失った喪失感は経験した人でないと解らないものです。援助は惜しまないのですが、基本的には自分で立ち上がるしかない・・。来週はまた富岡まで・・。

さて本日は生き残った者と死に至った者・・・。

幕末の動乱期には広く知られていない史実があるものです。天誅組の藤本鉄石は壮絶な最後を遂げます。脱出して生き延びられたのに戻ってきて突撃をして亡くなったのですが、同じくして脱出して生き延びた天誅組主将の中山忠光は生き延びています。ただし後に長府藩士に暗殺され、長府藩(毛利氏)が後に子爵にしかなれなかった遠因をつくることとなります。中山忠光が暗殺された後、難を逃れた侍妾に子が生まれ、忠光の正室の富子は亡き夫の忘れ形見の子「仲子」を大事に育て上げ、結局、愛新覚羅溥儀の弟である溥傑に嫁いだ正親町三条家(嵯峨家)出身の「浩」は、忠光の曾孫にあたることとなります。

逃れて生き延びることを潔しとしなかった藤本鉄石、生き延びた中山忠光のどちらが良いのかは図りかねるところです。

藤本鉄石は人気があるようで、作品をよく見かけますがそれほど遺っているとは思えず、贋作が横行しているように思われますが・・。

浅絳観瀑山水図 藤本鉄石筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先塗 時代箱
全体サイズ:縦1900*横560 画サイズ:縦1180*横420



箱書の題名は「鉄寒士(藤本鉄石の字)浅絳山水観瀑之図」とあります。印章は「藤本真金」の白文朱方印と「鉄園?主」の朱文白方印が押印されています。賛は「遊印 □□□松一譲緑 陰多霞白帰□畏 □□□心□獨 生舩□晩山 □□中山人 押印」とあります。



右下には「源印真金」の印が押印されています。



藤本鉄石の二作品目の投稿となります。一作品目は下記の作品となります。

冬景山水図 藤本鉄石筆
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1720*横500 画サイズ:縦1080*横390

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藤本鉄石:文化13年3月17日(1816年4月14日)~ 文久3年9月25日(1863年11月6日))は幕末の志士・書画家。諱は真金。通称を学治・津之助、字を鋳公。鉄石・鉄寒士・吉備男子・柳間契民・海月浪士・取菊老人・都門売菜翁など多数の号がある。



岡山藩を脱藩し、諸国を遊歴して書画や軍学を学ぶ。京都で絵師として名をなし、尊攘派浪人と交わり志士活動を行った。大和行幸の先駆けとなるべく大和国で挙兵して天誅組を結成し、吉村虎太郎、松本奎堂とともに天誅組三総裁の一人となる。その後、幕府軍の討伐を受けて天誅組は壊滅し、藤本も戦死した。

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詳細は省きますが、藤本鉄石と清河八郎の関係もまた面白いものです。そしてそれを題材とした部分のある藤沢周平の小説「回天の門」・・・。骨董から波及する人間紋様は計り知れないものです。




生き延びた者と死に至った者・・・・、生き抜いた者はそれなりの荷を背負って歩くこととなるのは間違いない。いくら重い荷であっても背負って立ち上がらなくては前には進めない。その気力が少しでも出るように願わずにはいられない。

源内焼 その52 三彩陽刻菊紋鉢

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週末はまたまた倉庫改修の打ち合わせ。茶室の入り口に庇がつきました。



それらしい格好になってきました。狭くて入りずらい入り口はひと工夫・・。あとでのお楽しみ・・。

屋根裏の打ち合わせ・・、思ったとおり狭い。



吹き抜けとの取り合いは・・、大工さんと設計と小生でああでもない、こうでもない・・、アイデアを出すことが大切。



茶室の棚の高さの最終確認。



柱の盛り替えも完了し断熱材の充填。



屋根裏からなにやら昔の武器??? 



天秤棒が出てきて使い方の講習・・。「ここさな、米袋ぶら下げでよ。こっちに錘ぶらさげで量るのださ。」「おめ~、どこの出身だ? なまってるべ。」「ん?」



本日はまたまた源内焼の作品・・、源内焼の魅力のひとつに洋式の紋様と和式の紋様の絶妙な対比があります。その魅力を備えた本作品です。

源内焼 その52 三彩陽刻菊紋鉢
合箱
口径204*高台径102*高さ90



緑釉を基調とした三彩の源内焼。源内焼の資料には見られない図柄で希少な図であろうかと思われます。連鉢では見かけますが、飾り用を主目的とする源内焼で実用性のある単体の深い鉢もまた珍しい。



これほど完全な状態で遺っている源内焼の作品は非常に少なく、本作品は高台周りの窯傷以外はほとんど無傷です。



深さのある鉢でその見込みに三輪の菊の絵があります。



周りには口縁まで独特の紋様です。菓子鉢にしてお薄で一服・・、さ~、愉しみあれ。



源内焼の面白味のひとつは西洋的なデザインと日本的なデザインがひとつの器に凝縮されているところだと思います。

源内焼ならなんでもいいというわけではありません。



この紋様の発想はどこから・・・。いずれ地方訛り以上の言葉の違いのある異国文化との交流 「ん?」

伝南京赤絵龍禅語文角鉢二客

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高台内にある年号を示す銘は数多くありますが、ある程度の製作年代や製作地域の参考にはなりますが、模倣の模倣が多く、決定打にはなりにくいようです。本日の作品はペアの赤絵の作品です。もとは幾つもの揃いがあったのでしょうね。

伝南京赤絵龍禅語文角鉢二客
大明嘉靖年製銘入 箱入
幅217*奥行*高台径*高さ71



伊万里などの日本の陶磁器の底の銘に「大明嘉靖年製」「大明萬暦年製」とあるものが多くありますが、当時の陶器先進国中国製のイミテーションのためにデザインの一部として取り入れたものであると考えられていますので、時代や製作場所とその銘の時代とは直接は関係ありません。



中国においてもまた、とくに古染付には「大明天啓年製」「天啓年製」あるいは「天啓年造」といった款記が底裏に書かれていることがあり、この他にも「天啓佳器」といったものや「大明天啓元年」など年号銘の入ったものも見られます。また年号銘でも「成化年製」「宣徳年製」など偽銘を用いた作例もあります。これらは優品を生み出した過去の陶工に敬意を払いつつも、それまでの様式にとらわれることはなかったようです。款記は正楷書にて二行もしくは三行であらわされるのが慣例とされていましたが、比較的自由に書かれており、まるで文様の一つとして捉えいて、製作年代とはこちらも直接は関係が無いと思われます。

天啓赤絵もまた同様と考えられますが、天啓赤絵の銘は一般的には「天啓年製」などの銘を伴うものが多く、無銘であれば清朝初期の品であると言われていますが真偽のほどは解りません。 

本作品は時代や製作場所はわかりませんが、天啓赤絵や南京赤絵に倣ったものと思われます。「大明嘉靖年製」という銘が天啓赤絵や南京赤絵にあるかどうかもまた不明ですが、伊万里などの日本製の可能性もあります。



この作品で特筆すべきは外側の漢詩です。茶席の禅語のひとつですね。龍の絵にも意味があります。



「江國春風吹不起、鷓鴣啼在深花裏 三級浪高魚化龍 癡人猶夜塘水」:江南に春風が吹いても波は起ち上がらず、コジュケイ (鷓鴣しゃこ) の鳴声がするそのさらに奥には花々が咲いていることでしょう。竜門山の三段の滝は波が高く、そこを登りきった魚は竜になると伝えられます、ところがそれを知らないおろかな人は今夜も堤の水を汲みにいくことになるのです。



魚が滝を登ると龍になるという「登龍門」の伝説から来た禅語で、三級とは三段になった見事に高い滝で、中国の龍門山にある滝のこと。科挙の試験場の正門を竜門と呼び、及第して進士となったもの、さらに転じて一般に出世の糸口を「登竜門」といいます。



「どう考えても無理じゃないか…そう思えるようなことにも挑戦する。目の前に大きく立ちはだかる壁があっても、魚は川を上ります。滝を登ります。三段にも連なった高い滝を登りきった鯉は、悟りを開いて龍になるのだという伝説(登竜門)のように、人も目の前に立ちはだかる壁や難問に挑戦し続ければ、それを越えれば素晴らしい境地が待っているのだよ。」という教えです。



それにしても実に愛嬌のある龍ですね。赤絵の出来はもはや南京絵そのもの・・、こちらも実に表現がのびのびしています。ま~とりあえず「伝南京赤絵龍禅語文角鉢二客」とでも本作品は題しておきましょう。いずれ普段使いの器・・。



古伊万里に同じ手の作品があります。

染錦龍禅語文角鉢
縦11.0㎝ 横11.0㎝ 高4.8㎝    延宝~元禄頃



延宝~元禄頃の伊万里の錦手の鉢にも同じような漢詩と龍が描かれた作品があり、柴田コレⅥ-14と同手です。・・柴田コレクションについては本ブログの投稿作品を参考にしてください。



こちらは氏素性のしっかりとした作品のようですが、表現が面白くない・・。



本作品の氏素性はともかく、漢詩の意味が良い。こういうことがすぐに解るような教養が欲しい

骨董が趣味の方は骨董を通して趣味人、教養人になるべきところ、真贋だけ、金銭的な面だけにとらわれてかえって骨董を趣味とする人は品位の無い人間がやたらに多いのはなぜでしょうか?


掛合釉扁壷 浜田庄司作 その24

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日中に時間を見計らい、家内と息子と設計の友達と新木場のリサイクル木材店へ倉庫改修の材料探しへ・・。床の間の地板、床柱、中柱などを購入・・。ついでに芸者さんが使っていたという?姿見を購入。法隆寺の材木があったのですが、すでに売却済み・・ん~残念。



ものづくりに関わる人間はいろんなものを見る必要があると改めて実感しました。昔の職人は偉い、いまでもきちんと味のあるものが多い。障子の細工、欄間の彫り物などなど・・。倉庫改修が完成する前にもうひとつ家を作りたくなった

さて本日は浜田庄司の作品です。

「ものづくり」をする人間は「ほんもの」を見抜けなくてなりません。「ほんもの」とは骨董のいう真贋とは一味違います。ものの持つ味という魅力、価値、材の力という材質、そして一番大切なものの持つ精神性。

真実を見極めることは思いのほか難しいものです。真実を見極めるには情報(知識)と経験が必要ですが、血となり肉となる実行してPDCAを繰り返す経験こそが大切です。その繰り返しで勘が養われてきます。

おおいに失敗して悔やんでまた試みてさらに失敗して悔やんでまたチャレンジする。決して諦めず信念を貫き通した者にだけ「ほんもの(真実)」が見えてくるものと思っています。一度の失敗で挫折したり、見捨てたりしては「ものづくり」の人は育ちません。

本日はお世話になった方から頂いた作品を契機に魅せられ続けている浜田庄司の作品です。

掛合釉扁壷 浜田庄司作 その24
共箱 
幅約200*高さ245*奥行き110

市場によく出ている形と釉薬の扁壷です。真作の中にも出来不出来がはっきりしている作品群ですが、本作品はその中でもとくに出来のよいものです。



大き目の作品ですが、真作はより大きく見えるものです。贋作や真作でも出来の劣るものは小さく見えます。ネットオークションは出品されている浜田庄司と題された作品はかなりの割合で贋作が多いですね。



底の作りは大胆でかつ隙がありません。意外に底や高台が贋作では真作の真似ができていません。作ってみるとわかるのですが、癖というか、性格というかが一番出やすいのが底です。



釉薬の味わいは朝鮮唐津を上回ります。朝鮮唐津の中でも高価で時代だけあって味わいのない作品よりは趣がありますね。この釉薬の味わいがこの作品ではとくに優れた点です。



口周りのつくりも実におおらかです。



箱の造り、真田紐の種類も決めてのひとつですが、ただし箱(箱書)が本物でも中身が贋作ということがあります。しかも浜田庄司にはこれといった指定の指物師はなく、箱がどこどこの箱というものはありません。



基本的には作品そのものだけが最終判断する対象です。中島誠之助も若い頃には他の目利きに浜田庄司の真贋の指導を仰いだこともあるそうです。



本物は見ていて飽きないもの、人も同じ・・・・・本ブログも、小生もかくありたい・・・

ただね~、偽物をず~っと見ていて飽きない人もいる  本ブログはまともに読むとおおいに勘違いする罠がある??

さ~読書の皆さん、本作品の真贋や如何、なんてね   


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