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椿之図 大谷句仏画賛

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名古屋に出張に際して泊まったホテルのロビーで壁に飾られた作品はアイズピリ。



残念ながらアイズピリの作品とわかる人は非常に少ないと思います。日本人は絵や陶磁器に対する知識や関心度は思いのほか低いと思います。



本作品は20号くらいの大きさの大作です。

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Paul aizpiri:1919年パリに生まれる。初めは彫刻家の父のすすめでブール象眼学校家具科に入学するが、絵画への情熱が強く1936年パリ芸術大学に再入学して3年間学ぶ。 1939年第二次世界大戦に招集され独軍の捕虜となったものの、脱走。解放後は「青年絵画展」の創立会員となり、1946年同展で三等賞受賞。

1943年のパリのギャルリーパルヴィレで初個展を開催。独自の様式による色彩世界を創造し、パリ画壇を代表する具象画家として知られている。パリ画壇の具象系派ポピュラー作家の一人。

パリを中心に、欧州、米国、日本などで個展を開催。作品は、ルーマン美術館、アルビ美術館、キャストゥル美術館、ヒアレン美術館などに収蔵されている。軽快なタッチと、鮮やかな色彩を好み、静物、風景、人物などのリトグラフで親しまれている。



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日本代表のアジアサッカーは相変わらず煮え切らない試合となりましたね。4試合ともに同じメンバーでの体力消耗、現在では高校生クラスの香川の起用、守備力のないGkの起用、決定力のな無さなどから監督の采配ミス、その監督を起用し続ける日本サッカー協会の無策などが解る人には見えるものがありました。そう、無策はなにもしないということ。

経営も同じ。なにも新たなことをしない、同じ過ちを懲罰人事や精神論で終える経営は無策・・。チームワークを向上させ、新たな人事や対策をとるというのが進化です。

さて本日は大谷句仏こと大谷光演の作品です。


椿之図 大谷句仏画賛
絹本水墨着色軸装 軸先練 合箱
全体サイズ:縦2000*横300 画サイズ:縦1182*横270


幸野楳嶺や竹内栖鳳に日本画を学び、さらに正岡子規の影響を受け、『ホトトギス』誌にて河東碧梧桐、高浜虚子らに選評してもらい、彼らに傾倒して師としたそうです。



む~、なんと読むのだろう。「鶯や 禅□□□□□ □□□」

『ホトトギス』誌の影響から脱し独自の道を歩むこととなります。生涯に多くの俳句(約2万句)を残し、文化人としての才能を発揮、日本俳壇界に独自の境地を開いた人です。



赤い椿が印象的な作品です。「句仏上人」と呼ばれ、それは「句を以って仏徳を讃嘆す」の意とされ親しまれています。



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大谷句仏:(1875~1943)大谷光演(おおたに こうえん)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧。法名は「彰如」(しょうにょ)。東本願寺第二十三代法主 。真宗大谷派管長。俳人。伯爵。

1900年まで南条文雄・村上専精・井上円了らについて修学。1901年に札幌で宗教系の学校が北星女子学校しか無い事を知り仏教系の女子学校を思い立つが、資金調達に難航し1902年(明治35年)に北海道庁立札幌高等女学校を開設するには至らなかったが、4年後の1906年4月に北海女学校を開校に漕ぎつけた。昭和18年(1943)寂、68才。

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同じく花を描きながらこうまで感性の違う二作品・・。お値段は10倍以上違いますよ。比較するほうが間違いかな?? 欧米には絵に歌を添えるという文化はないというのを改めて思いますね。


真贋考 芦雁図 伝橋本雅邦筆

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迂闊に手を出せないのが古今の著名な画家の作品です。印章や落款が文献資料と合っていても、さらに疑ってかからないといけないので真贋の判断は私のような素人では無理と思われます。その著名な画家の作品の中でも難しい部類に入るのが橋本雅邦の作品だと思われます。

本日はその橋本雅邦と落款のある作品はの挑戦・・・。

芦雁図 伝橋本雅邦筆
絹本水墨軸装 軸先鹿角 合箱 
全体サイズ:横475*縦1910 画サイズ:横355*縦1140



落款には「壬辰孟冬 勝園筆」とあり、1892年(明治25年)57歳の作と推察されます。

1860年より雅邦の号にて独立していることから、57歳の頃に「勝園」の落款を用いていたとは考えにくいのですが、号ですのでまったく使ってなかったというのも断定は出来ないのかもしれません。

印章はよく使われる印章に似ているものですが、それとは違いがあり同一印章が私の手元資料では確認できていません。



橋本雅邦の作品は本ブログでも何点か投稿されています。真贋混合の投稿となっていると思いますが、投稿後徐々に判別できるようになってきています・・???
川合玉堂、橋本秀邦などの鑑定が付いているものもありますが、その鑑定そのものが贋作の場合も多いようです。当方での真作は四点ほど・・??



この芦雁図・・それにしても実によく描けているように思います。真作と願うのは常にコレクターの願いですが、捨てがたいものがありますね。



芦雁(ろがん)図は葦と雁を描いた作品で宮本武蔵を始めとして、多くの日本画の達人達が、昔から描いてきた題材です。



このような著名な画家の作品はそれなりの対価を支払って買うのが王道というもの

沖縄壷屋焼 海鼠釉嘉瓶

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最近とんと作品についてのコメントの投稿がなくなってきました。記事の内容がマンネリ化してきたのかな? ま~専門的な内容なので退屈でしょうが、本ブログは当方の趣味の整理の場・・・・・

本日の作品については「1972年切手趣味週間 ユシビン(嘉瓶)」と趣味週間の切手にもなっています。



一万円以下での購入ですが高いのか安いのか・・。瀬戸の絵皿や行灯皿も一万円程度が相場で意外に生活雑器の骨董は安い? ん~、やはり高いのかな

沖縄壷屋焼 海鼠釉嘉瓶
口径55*胴径125*高台径75*高さ275



焼成時にとけて流れた海鼠釉?の濃淡が鮮やかなグラデーションとなり外面全体を覆っていて良い景色を醸し出しています。嘉瓶の形はほぼ統一されているようですが、釉薬については様々なものが用いられており、緑釉の作品もありますが、本作品が海鼠釉であるか、はたまた緑釉なのかは解りません。ただ本作品の釉薬を海鼠釉薬に分類するのは正しくないようにも思われます。



このような形の製品を沖縄では嘉瓶(ユシビン)と呼んでいるようです。嘉瓶とは、お祝い事に使用される沖縄独特の酒器のことです。ご祝儀用の泡盛を入れて、お祝いの相手方に贈るために使われました。贈られた嘉瓶は中の泡盛を他の容器に移したあと持ち主に返されるようです。そのため、なかには肩のあたりに家紋が入っている嘉瓶もあるそうです。



嘉瓶の「ユシ」は、沖縄の言葉でおめでたいことを意味する「カリユシ」に通じるといわれるそうです。嘉瓶がひょうたんの様な形をしているのは、くびれている事で小脇に抱えやすい為だと言われています。壺屋焼が多く19世紀のものが多いのですが、最近でも生産され古酒などの器に使われていますので、本作品もその類の可能性があります。

ちょっとした普段使いの花瓶に最適のように考え購入した作品です。「首里・那覇の上流階級の間で使われた??」 数は多いのか少ないのか? いずれにしても普段使いの器のひとつですね。今でも作られているようですが、装飾性の多すぎたり、また釉薬の景色の面白くない作品が多いようです。この釉薬の作品にいい作品が多いようです。沖縄の海の色??

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嘉瓶:首里・那覇の上流階級の間で、祝事のある家に祝儀用に泡盛をつめて贈る瓶。嘉瓶と呼ばれるゆえんで、口は太く長く、胴部は瓢(ひさご)形で抱えやすいようにくびれ、家紋をつけたのもある。祝事が終って、贈り主に返される。

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普段使いの民芸品にいかに美を見出すか?? 常に課題のひとつですが、コスト重視の昨今、100円ショップで済ます日常・・、このような作品がそのうち皆無の生活になるのではと案じるのは小生だけでしょうか?





雪後山水図 平野五岳筆 その3

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都内でも雪が見られるような寒さですが、北国ではこのような程度の雪では積もったとはいいません。この時期にはJRで秋田のPRをしていますが、この寒い時期だからこそ秋田などの雪国に出向いてみたらいかがでしょうか。冬の十和田は絶景ですよ。ストーブ列車も趣が抜群のようです。内陸鉄道、花輪線・・充分に雪の景色を愉しめます。

今日は父の命日。

本日の作品は夏に描いた冬の景色の作品のようです。

雪後山水図 平野五岳筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 湯浅了雅極札・鑑定識箱
全体サイズ:縦2095*横620 画サイズ:縦1565*横480



賛に「壬申夏日」とあることから、1872年平野五岳が61歳の作品と推察されます。夏に冬の山水画を描くことは以前にも記したように、暑気払いとしてよくあることのように思います。

鑑定書には「了雅」と記されており、湯浅了雅という人の鑑定と推察されますが詳細は不明です。

印章は朱文方印「岳」と白文方印「竹邨方外史」が押印されています。遊印は「古竹園主」が押印されています。



この作品を稚拙と見るか、よき作品とみるか・・。



夏に描いたらさぞかし涼しくなったのでしょうね。



賛は良くわかりませんね。「百舌□寒□□風 □蕭帰袖度川原 茅花遠桜萱花白 一□人□□雪井戸 壬申夏日□濃上 □□邨□ 岳 押印」・・・・ん~~、なんて読むのかな?意味は???



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平野五岳:1809(文化6)年~1893(明治26)年 豊後国日田郡幕府領渡里村(現日田市)生まれ。江戸時代後期の画僧。名は岳、字は五岳。号に竹邨方外史、古竹園主、古竹老衲など。

正念寺に生まれ、のち、専念寺の養子となり同寺を継ぐ。11歳の頃から儒学者広瀬淡窓に学び、淡窓の私塾咸宜園の人々と交友する。本格的に画作に取り組み始めた30歳代の頃は、田能村竹田の画に学び描いていたが、50歳代に入った幕末頃より独自の画風を確立していく。実際の景色を描くのではなく省略化された画面は前衛的でもある。

明治初年、日田県知事となった松方正義は五岳の書画を高く評価し、それによって中央でも知られるようになった。文人のたしなみである三絶(詩、書、画)に通じ、高い評価を受けている人物である。

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湯浅了雅:詳細不明

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ところで松方正義をご存知の方は多いと思います。総理大臣を2度務め、日本銀行の創立者でもあります。昔の人は山水画をよく理解したのでしょう。賛も読め、雰囲気を味わい・・、それには大いに自然に慣れ親しむ機会が必要だったと思います。ところで日田は九州・・、雪が降ったことがあったのかな






明治伊万里 染付山水図茶巾筒

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建設現場では人手不足、技術者不足を定年退職者でカバーしていることも多くなりました。

現場が作業員不足となった原因は少子高齢化もあろうが、そのひとつに低賃金であるということが上げられます。年収300万を切るような職業に担い手はこない。我々の時代には年収360万以上を確保することを目標にしてきましたが、出来る限りもっと所得を上げる対策が必要です。一時期、民主党の「ものから人へ」という無策によってますますものづくりから、建設現場から人が遠のいたものです。

今では建設現場の段取りの悪さ、職人への思いやりのなさでますます稼ぎづらい状況が続いています。一人当たりどれくらい稼げばどうなるのか、そうするためにはどうすべきかということを知っているゼネコンの社員が減りつつあります。

作業する人の立場になって物事を考えない無能さが現場から人を遠ざけつつあります。なにかというとすぐに作業員や下請けの責任にする責任回避はどこからくるのだろうか? 突貫工事にしてしまった原因なども下請けにはない。

さて本日は幕末から明治にかけての染付の器。近代化によりそれまでは木の器がメインの日常食器に陶磁器が増え、伊万里以外でも数多くの染付の器が作られました。本日はそんな器の投稿です。

明治伊万里 染付山水図茶巾筒
合箱
内径30*胴径35*高さ65



茶巾筒でもいいし、お気に入りのペン立て、線香入れ・・いろいろな使い方が出来そうな小さな陶磁器です。

古伊万里? 意外にぞんざいな扱いを受けている幕末から明治の染付けの器にも優品というものがあります。



大量生産によって自由闊達な絵に魅力があります。



古染付と見間違う作品もあります。古染付を真似た日本の器はたくさんあります。中国を真似てたことは日本には数多くありました。真似た作品はどこか手抜きがあります。本作品のようなものは外側の絵付け・・、また虫喰いがないのも見極めのひとつらしいです。



このような器が日常や料亭から消えて久しい。



10人揃い、20人揃い、30人揃いとたくさん在ったのでしょうが、今では核家族化以後、二人揃いや五人揃いで分かれて分かれて売られることが多かったようです。



そのうちこれらの器も古伊万里の不足に伴い、いつしか古伊万里と呼ばれるようになってきています

 近年65歳までが当たり前に現役と呼ばれるようになってきたと同じ?   人手不足は一人前でない人も技術者や職人と呼ぶようになるらしい。需要と供給のアンバランスは不十分なものを充分なものとしてしまう危険性をはらんでいるらしい。










海辺山水図行灯七寸皿

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週末はリス園まで・・



マスコット人形のリスしか知らない息子は興味津々・・。



なにやら喜んでいるようですが・・。

本日はなんとも言えないお皿の作品群です、行灯皿・・・・。

家内に本作品を見せたときの会話

「いつ頃の作品?」

「明治の頃じゃないかな}

「それにしては今風の家ね」

「建売かな~、海の家? 別荘かな・・・??」


息子と遊んでいると感じるのは、こちらも本気で愉しんでいないと息子も本気で笑わないということ。こちらも愉しんでいないと子供も愉しくないような気がします。
仕事のことやテレビが気になったり、骨董の整理がしたかったりしていると決して声を上げてまでは笑ってくれません。

骨董も同じ・・、本気でこちらが骨董を愉しんでいないと骨董の品々は笑ってくれません。さて上記の会話は本気で愉しんでいるのかな

海辺山水図行灯七寸皿
口径215*高台径*高さ30



本ブログで行灯皿を投稿したのは下記の作品についで第2作目です。

灯火紋様行燈織部六寸皿  
口径190*底径150*高さ18


本作品は行灯皿としては代表的な図柄、すなわち「月・雲・宿・松・白帆・飛鳥などを取り入れた簡素な海辺山水です。簡素な組合せの中に日本の風物が端的に捉えられています。」と評される分類に入る図柄です。

行灯皿は江戸時代寛永年間に真鍮製が出現し、この頃は行灯油が高価で一部に限られていたそうですが、文化、文政年間以降、富裕層の拡大とともに陶製が広範囲にわたって急速に広がったそうです。



江戸時代後期から明治時代初期頃には、壊れず軽く安価で量産が可能になった真鍮製が再び主流となり、照明の電化とともに、完全に行灯皿は消滅しました。しかしながら民芸運動などで盛んに収集されるようになり一時期大変人気のある作品群となりました。



もてはやされた当時の取引金額はよくわかりませんが、大量生産の作品ですのでそれほど高価ではなくおそらく数万円?で取引されたのではないかと思います。今では一万円程度・・。数が多くありますが絵柄によって評価がだいぶ違うようです。ただし模倣品もあるかもしれませんので買うときには注意が必要と思われます。

瀬戸絵皿と似通っていますので、両者を合わせて使うように集めると意外と簡単に蒐集できるようです。

織部のようで織部でなく、志野のようで志野でなく、お値段が高いようでそれほど高くなく?、ちょっと遊び心のある器を普段使いに使ってみませんか? 

追記
油壺のように油で汚れて食器としては使えないということはなさそうです。




福娘之図 伝鈴木其一筆 その2

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今年の北国は雪がとくに多いようです。



このような雪国で暮らす人々はとても忍耐強く、春の訪れを辛抱強く待ちます。

雪国でのものづくりは辛抱強く・・、心棒強く・・・。難しい仕事を、やりがいのある仕事をさせてもらったが、それに比べると都会の超高層はいとも簡単?・・・なのになぜにてこずる。



辛抱強く人を育て、チームワークを作り、組織力を発揮させるということをしてこなかったからに相違ない

さて本日は鈴木其一の作です。鈴木其一の作品はなんどか購入しましたが、同じくらい売却しています。いまいち気に入らない作品が多いのです。晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られます。そのことに気がついている人は意外に少ないのではないでしょうか、妄信的な琳派ファンはとくにその傾向が強いように思います。

本日の作品はめでたい作品ですが。「福娘之図」、「お多福図」。「乙御前図」・・どの題が正しのかは解りませんね。

福娘之図 鈴木其一筆 その2
絹本着色絹装 軸先象牙 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦905



鈴木其一は酒井抱一とは主従の関係であったことは良く知られています。酒井抱一の仲介で婿になったが、家禄は増えても5歳年上・・、其一は抱一を本当はどう思っていたかは定かではありません。


弘化元年(1844年)頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わります。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味するそうです。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺えるものです。



その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになっています。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと思われます。

それでも高い描写力に裏打ちされた明快な色彩と構図、驚きや面白みを潜ませる機知的な趣向は、敢えて余情を配するかのような理知的な画風を特徴付けている作品が多々あります。琳派の掉尾を飾るとも評されますが、美人画や風俗画などの単に琳派や抱一様式に収まらない、個性的な要素を多く含んでいます。



描き方も、本来は仏画に用いる技法である表具にも絵を施す「絵描装(描表装)」をしばしば用い、本紙の絵に多様なデザインを取り合わせ、時に本紙の中に侵入するだまし絵のような効果を与えています。こうした肉筆画の一方、其一は狂歌本挿絵や狂歌摺物、団扇絵版錦絵や千代紙といった版下絵の仕事も積極的にこなしています。

雅趣豊かな抱一の作風とは対照的に、硬質で野卑とも言うべき感覚を盛り込んだ其一の作品は、長く国内の評価が低迷し、作品の流失と研究の立ち遅れを余儀なくされてきました。しかし、近年の所謂「奇想の絵師」達の評価見直しが進むに連れて、琳派史上に異彩を放つ絵師として注目を集めつつあるようです。



平成20年(2008年)東京国立博物館で開かれた『大琳派展』では、宗達・光琳・抱一に並んで其一も大きく取り上げられ、琳派第4の大家として認知されつつある画家です。

幕末明初の絵師・河鍋暁斎は其一の次女を最初の妻にしています。これは其一の長女が、暁斎の父と同じ御茶の水定火消の与力海津某に嫁いでおり、その縁によるものだったと言われていますが、共に本来の画域以外にも関心を示す姿勢を持っていたことは共通しています。

以前に本ブログに投稿した下記の作品は私の好きな作品のひとつです。「高い描写力に裏打ちされた明快な色彩と構図、驚きや面白みを潜ませる機知的な趣向は、敢えて余情を配するかのような理知的な画風を特徴付けている。琳派の掉尾を飾るとも評されるが、美人画や風俗画などの単に琳派や抱一様式に収まらない、個性的な要素を多く含んでいる。」という評がぴったりします。

琵琶に菊 鈴木其一筆絹本着色絹装軸箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横305*縦905





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鈴木其一:寛政8年生まれ、安政5年没(1796年~1858年)、享年63歳。名は元長、字は子淵。酒井抱一の弟子となったが、同門の鈴木蠣潭が文化14年(1817年)に26歳で早世したので、その姉と結婚させて鈴木家を継がせ、酒井家の家臣に列して抱一の付け人とした。

其の画は抱一の画風の影響をよく受け、抱一以上に装飾的で象徴的な画体に達し、俳諧や諸芸にも通じた。あまりにも抱一の影響を受け、画体が良く似ていたので、其一が絵を描き、抱一が落款を書いたと言う諸説がある。



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本作品の真贋? そんな野暮な質問はやめましょう

本日は師弟とは・・をちょっと考えてみたかったのです。師弟関係は複雑な心中・・・・





柿本人麻呂像 伝高橋道八造

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今年の夏前には郊外に引っ越す予定ですが、結婚してから、仙台から山形、盛岡、秋田、八戸、青森、水沢、仙台、東京、大宮と転居し、とうとう今回で10回目の引越しとなります。単身赴任は一度もしていないので新築した自宅に住んだことがありません。設計して建てたり、改修した家には住んだことがなく、別荘のごとく「男の隠れ家」になっています。

そもそもマイホーム至上主義のような考え方は嫌いで、ミサワホームやセキスイハウスのコマーシャルをテレビで見ると嫌悪感を覚えます。苦労が多くてもいろんな地域で仕事をしたり、生活をしてみるのはいいことだと思います。でき得れば海外でも・・。

そういう苦労の経験のない人がものづくりの現場で監督しているから、地方からきた作業員へのやさしさが欠落しているのでしょう。上からの物言い、人の話は聞かない、さらには自己弁護、懲罰主義の横行には目を覆うばかりです。

さて、本日はいろんな地方でものづくりを教えた陶工の作品です。

息子と遊びならが今週のなんでも鑑定団を観ていたら仁阿弥道八の作品が出品されていました。どうせ偽者だろうと思っていたら本物らしい。評価金額は70万・・。どこかで観たことのある作風だな~と思って所蔵を検索すると、下記の作品がヒット・。

柿本人麻呂像 伝高橋道八造
幅230*高さ250*奥行き135



この作品は「柿本人麻呂像」のようです。本作品はインターネットからの購入したもので、古い箱に入って売っていました。補修されいましたので意外に廉価であったと思います。

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柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、660年頃~720年頃):飛鳥時代の歌人。三十六歌仙の一人。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ称えられている。彼の経歴は定かではないところが多く、史書にも書かれていないため万葉集が唯一の資料である。草壁皇子の舎人として仕え、石見国の官人となって各地転々とし最後に石見国でなくなったとされている。

彼は万葉集第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。人麻呂について史書に記載がなく、その生涯については謎とされていた。

古くは『古今和歌集』の真名序に五位以上を示す「柿本大夫」、仮名序に正三位である「おほきみつのくらゐ」と書かれており、また、皇室讃歌や皇子・皇女の挽歌を歌うという仕事の内容や重要性からみても、高官であったと受け取られていた。江戸時代、契沖、賀茂真淵らが、史料に基づき、人麻呂は六位以下の下級官吏で生涯を終えたとされ、以降現在に至るまで歴史学上の通説となっている。

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奥田頴川青木木米紀州藩御庭焼(偕楽園焼)野々村仁清など本ブログに投稿されている作品との関係が道八を調べてくると浮き上がってきます。



陶磁器を知る上で幕末の京都を中心とした日本の陶工達の関連性は基本的なことは理解しておく必要がありますね。本ブログをじっくり読んでいただけると、だいたいのことはお分かりいただけると思います。

幕末の陶工達・・、名工と呼ばれる人はことごくあちこちで活躍しています。ものづくりの人はいろんな地域でいろんなことを学び、技術的に磨くことが必要だったし、また本人もいろんな地域を知ることが面白かったのでしょう。

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仁阿弥 道八(にんあみ どうはち、天明3年(1783年) - 安政2年5月26日(1855年7月9日)):江戸時代後期の陶芸家。二代高橋道八なのだが、一般的に「仁阿弥道八」の名前で有名である。隠居名「道翁」。初代・高橋道八の次男として生まれ、兄の早世により29歳で家督相続、京・五条坂に開窯。奥田頴川、宝山文蔵らのもとで修行を積み、青木木米らと共に京焼の名手として知られる。

仁和寺宮より「仁」、醍醐寺三宝院宮より「阿弥」の号を賜り、出家名「仁阿弥」を称する。45歳の時に紀州藩御庭焼(偕楽園焼)立ち上げに参画、以後、高松藩御庭焼(賛窯)、薩摩藩御庭焼(磯御庭焼)、角倉家御庭焼(一方堂焼)、西本願寺御庭焼(露山焼)などの立ち上げに参画、京焼技法の全国頒布に助力。天保13年(1842年)、伏見に隠居するも、以後も「桃山窯」を開窯、作陶を続けた。

同時代の同じ京焼の名手である青木木米とは全く対照的な作風で、多種多彩で癖がない作品を大量に製作した。作品の中には全く対照的な焼き物である楽焼も色絵もある。特に色絵は「尾形乾山、野々村仁清の再来」とまで称された名手であった。また茶碗などの食器や容器ばかりではなく、人物や動物などの陶像や磁器像の製作も行い、名品が多いと言われる。更に李朝磁器や青華磁器の製作も行っている。それらの作品に共通する特徴を挙げると品の良い「高貴性」が感じられる点である。それ故に日本各地の名家から招かれ、御庭焼の師として仰がれたと考えられる。

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無論、高橋道八の作品かどうかは不明としておきます。何代目かも不明ですね。「道八」の銘は京都焼に限らずいろいろな窯で使われていますので注意を要します。道八を模倣しましたという意味程度に使われており、香炉など量産品の粗悪品をよく見かけます。煎茶道具、茶碗などありとあらゆるものにこの銘が新旧関係なくこの銘があります。「木米」の銘もまた同じですね。

本作品は京焼の雰囲気を充分持ち、顔の表情も豊かで出来のよい作品と思いますが、一部に割れた部分を古くに補修した跡があります。

さ~て、本作品もまた「データはあるがどこに収納したのかな?」という曖昧な記憶の中の作品です。仙台に勤務していた頃の借家の玄関に飾っていました。まだ売却していないと思うのですが・・・。引っ越すたびにどこに何を飾ろうかと楽しみですが、マンションが一番つまらないものです。ただマンションは生活そのものは実に便利です。冬に暖かい、必要なものはすぐ近くにあるなど・・・。便利さだけを追求すると人間が自堕落になるし、新たなことへのチャレンジ精神がなくなる

湖畔図 奥村厚一筆 その4

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週末には物置の改修工事の打ち合わせ・・、内部の片づけが終わって工事開始となりました。



外部にも足場がかかりました。



内部の造作の解体が始まり基礎のコンクリートを打ちました。



古くから梁の材料をどのように使うか?



茶室部分にどう表現するか?



限れた予算でどうもうまくいかない・・・。


本日の作品・・・、日本画のスケッチといえばこの画家があげられます。風景画を生涯の画業とし、本ブログでも何度も投稿されている福田豊四郎の盟友でもあります。

湖畔図 奥村厚一筆
絹本着色色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



大きな作品はもとよりスケッチも味わい深いと評されています。奥村厚一のファンは意外に多いようです。



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奥村厚一 :1904~1974。明治37年7月1日生まれ。晨鳥社の日本画家、西村五雲に師事。昭和21年「浄晨」が第2回日展で特選。昭和23年福田豊四郎、山本丘人、秋野不矩、上村松篁らと創造美術を結成(現在、創画会)。昭和24年、京都市立芸大の前進である京都市立美術専門学校(昭和35年から京都市立芸術大学)昭和46年、嵯峨美術短期大学それぞれで教鞭を執る。昭和49年京都市立芸術大学名誉教授。



主に風景画を得意とし、大きな作品はもとよりスケッチも味わい深い。伝統工芸や文化財的雰囲気のなかで育ちながら、関心はもっぱら近隣の自然風物であり、幼少の頃から手製の画板を携え野山を駆けめぐり、ただひたすら画家になることだけを夢みていたという。しかし、絵画で身をたてるということに対する周囲の反対は当然のようにあったが、指導者としてふさわしい技量を身につけ、そういった立場になって絵描きを続けるならと、強く進言した祖母の心強い応援を後ろ盾に、才能より努力と思いを通し、念願の絵描きとして、また指導者として一生を終えた。

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山水絵瀬戸行灯皿 その3

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昨夜は都内で国際交流財団の20周年記念パーテイに出席してきました。中曽根元首相や明石康さんら著名な方々も出席されていました。

明石康さん(名誉市民)と同郷ということもあり少し秋田の話をさせていただいて、保戸野窯の平野庫太郎氏(明石康氏と縁戚)の話となり、東京で展覧会をという話になりました。いい作品を作っているのだからという点で意見が一致・・。

さて本日は幕末から明治にかけての器達・・。陶磁器が庶民の生活に入り込んでくるという活気に溢れていますね。当時の量産品・・・。



俺でも描ける・・と思わせる。実に生命力ある作品達です。


山水絵瀬戸行灯皿
口径190*高台径130*高さ20



単にかわいいという域を超えていますね。よく見てみると絵心がかなりある。



近代の民藝運動の源になったのも納得・・。今ではこのような器がない。



行灯の光の下で揺らめいたこの絵を見ながら、当時の人々は何を思ったのであろうか?

わたしのような田舎者は華やかなパーテイなどは早々に退散し、自宅にて洟垂れ小僧と、どうも息子は風邪をひいたらしい・・、一緒に遊んで高鼾・・。




忘れ去られた画家 閻魔と地獄太夫図 高橋万年筆 その2

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昨夜にテレビ放映されたドラマスペシャル「復讐法廷」は久しぶりに面白いドラマでした。見過ごした方は再放送がきっとあるでしょうから・・。

本日はわが郷里の画家・・、高橋万(萬)年の作品は第二作品目となります。一作品目は下記の作品です。

杜甫 寺崎廣業作模作 高橋万年筆絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦1880*横650 画サイズ:縦1150*横500

この作品は同じく秋田出身の画家である寺崎廣業の名作「杜甫」を写した作品ですが、贋作ということではなく習作となり、秋田県出身の画家の資料としては貴重な一作です・・・と自分では思っています。

今では秋田県でも高橋万年という画家は知っている方も少ないと思います。作品の出来も凡作も多く出来の良いものを探すのに一苦労です。本日は洒脱で面白い作品です。

閻魔と地獄太夫図 高橋万年筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先樹脂 合杉箱
全体サイズ:縦2020*横440 画サイズ:縦1170*横320



落款には「甲子□月 萬年写 押印」とあり、大正13年(1924年)高橋万年が27歳の作です。大正12年の院展入選直後の作品です。油の乗り切ったときの画家の作品は非常に良いものがあります。まだまだ秋田市近郊には高橋万年の作品が眠っているように思われますが・・。



地獄太夫は江戸時代から明治時代にかけては数々の絵師により絵画の題材にもなっています。「閻魔と地獄太夫図」(花猫浮世絵美術館蔵)河鍋暁斎筆は有名ですね。



助べえな閻魔様の作品と思ったら大きな間違いらしい

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地獄太夫:生没年不詳ですが室町時代の遊女で、梅津嘉門景春のむすめで幼名を乙星という。如意山中で賊にとらわれたが、あまりの美貌のため遊女に売られ、泉州堺高須町珠名長者にかかえられた。

現世の不幸は前世の戒行がつたないゆえであるとして、みずから地獄とよび、衣には地獄変相の図を繍り、心には仏名をとなえつつ、口には風流の歌をうたったという。

一休宗純が堺におもむいたとき、「聞きしより見て美しき地獄かな」と歎賞すると、武家の生まれで歌のやり取りにも秀でていた太夫は「生き来る人の落ちざらめやも」と見事に返し、これを機に2人は師弟関係を結んだという。

有名な狂歌「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」は、一休が太夫に贈ったものとする説もある。地獄太夫は「我死なば焼くな埋むな野に捨てて 飢えたる犬の腹をこやせよ」という辞世の句を残して若くして亡くなったが、最期を看取った一休は、泉州八木郷の久米田寺に塚を建てて供養したといわれる。

山東京伝の「本朝酔菩提」に描かれており、江戸時代から明治時代にかけては数々の絵師により絵画の題材にもなっている。

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高橋万年:1897-1956 大正~昭和時代の日本画家。明治30年12月21日生まれ。上京して寺崎広業に入門するが,病弱のため郷里の秋田にかえる。大正12年院展に初入選。

秋田の田園風俗を好んで描き,代表作は「野山柴」。昭和31年8月10日死去。58歳。本名は計治。

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地獄の沙汰も金次第、その金次第は閻魔様への貢物か? 否、地獄の沙汰はすべて現世の行い次第というのが大原則・・。地獄太夫は天へ召されたであろうと思いたい。

ドラマスペシャル「復讐法廷」の各人は如何・・・、そして人はかけがいのない人を失ってどうやって生きていく気力を生み出せるのかを改めて考えさせられる。





源内焼 その50 三彩楼閣文輪花皿

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前回投稿しました五枚揃いの源内焼の小皿に菓子を載せて一服・・。お菓子を食べた後に山邨風景が粋ですね。飾っておくだけではない源内焼を使う醍醐味が味わえます。



保戸野窯の平野先生の釉裏紅で描いた葡萄文様のお茶碗



数茶碗として作られた作品ですが、実にいい景色ですね。秋田市内を訪れる機会がありましたら、保戸野窯をどうぞ訪ねてみてください。秋田市内ですので駅からタクシーで10分程度です。作品の数は非常に少ないのですが、きっと品の良いお気に入りの器が見つかるはずです。



緑釉と釉裏紅のコントラスト・・、もう一茶碗は金襴手・・・・、これは骨董品???



本日は汚い~状態で購入した源内焼です。最近は源内焼のお値段が高くなり、ちょっと図集に掲載されている同図の作品で10万円を超えてしまうようです。図集に掲載されているとすぐ高くなる? 先日も図集に掲載されてる絵瀬戸が12万・・。ちっと高すぎない? 図録に掲載されると途端に高くなる傾向は興味深い・・・ 日本は出版物に敏感と評されるひとつの現象のように思われます。

それとネットオークションでは値段を吊り上げる出品者がいるので要注意です。履歴の新規や履歴の少ない入札履歴のある作品については入札価格をつりあげていると思ったほうがいいようです。

源内焼 その50 三彩楼閣文輪花皿
合箱
口径172*高台径105*高さ33



源内焼は売っている作品の多くが小汚い・・。下記はオークションにての写真ですが、吸水性の高い楽焼のような胎土なので古いものは汚れが付き易いようです。


 
本作品は緑釉を基調とした三彩の源内焼の皿でが、図録には掲載されていません。



裏側の汚れもちょっと洗うだけでよく落ちます。ただ、やわらかい陶磁器なので洗うにはそれなりのノウハウがあります。



洗うのはもっぱら家内の仕事・・。



本来、骨董商は古く作品を見せるのが仕事ゆえ、洗って出品しようとは思わないようです。



源内焼と称して本当にいろんな陶磁器をオークションに出品されていますが、源内焼は本来はもっと限定された高級?陶磁器です。古九谷や古鍋島に匹敵する作品群だと思います。




小色紙 躍鯉図 平福百穂筆 その18

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雪が降って翌朝には朝陽が差してきました。このようなことが北国で起こると春が間近になっているような季節ですが・・。



当方の所蔵作品の福田豊四郎の「朝陽」という作品を思い起こします。



さて本日はまたまた「鯉」の作品です。鯉の作品が普通の人?よりもたくさん集まりました。「鐘馗様」と同様に集まりました。福田豊四郎(未公開)や寺崎廣業(ブログ掲載)などは両作品が揃いました。ま~、息子も授かったし、良い作品を遺すようにさらに頑張るかな 家内は呆れ顔・・・。

小色紙 躍鯉図 平福百穂筆
絹本金泥水墨軸装 軸先透明アクリル 平福一郎鑑定箱書 
全体サイズ:縦1930*横495 画サイズ:縦210*横180



本作品はヤフーオークションより3万円ほどで購入したもの。ヤフーオークションは贋作の巣窟ですが、掘り出し物の宝庫でもあります。贋作覚悟なら在庫たっぷりのお店ですね。相応な覚悟と鑑識眼が必要です。素人で資金に余裕のある方は信頼のあるお店のほうが無難で、結果的にはそちらのほうが安く上がり、いいものが集まるかもしれません。ただ今ではネットオークションは見逃せない市場となっています。



本作品は題材の「鯉」に合わせた表具は粋な仕上げとなっています。



他の所蔵品(投稿済)である
菊に赤蜻蛉」  (紙本水墨淡彩絹装軸  画サイズ:縦260*横238)
牡丹図 その1」(紙本着色小色紙 タトウ入 画サイズ:横181*横211)
と同じく平福一郎氏の鑑定があります。平福百穂の作品には贋作が多く、所定鑑定人には舟山三郎氏、平福一郎氏がいて、鑑定書が重要視されますが、平福一郎氏の方が信用度は高いと評されています。現在は両名ともに亡くなっており、現在は東京美術倶楽部が所定鑑定となっています。出身の秋田県でも鑑定しているようですが、信頼度はよくわかりません。



鑑定書の印章は他の作品のものと一致します。




印章は「牡丹図 その2」と同じで「三宿翠?房」と思われますが、よく用いた「三宿草堂」と同じ意味かも知れません。この印章は「」などの昭和年頃の作品に用いられ、本作品も同時期の作品と思われます。



蒐集作品が揃ってくると文献などの資料のほかに蒐集した作品との比較によって真贋が分かるようになってきますが、贋作が真作と間違えて多く手元にあると逆に間違った判断になります。多くのコレクターがこのような迷路に入り込むようですので当方も気をつけなくては・・。

婦人像 原精一筆

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日本代表の監督の解任・・、またしても予想が当たりました。日本のサッカー協会の運営の拙さが如実に出たようですね。もともと日本のサッカーは弱い、人材不足なのにどこでどう勘違いしたのか、常勝軍団のようなイメージをもったらしい。

もともと農耕民族にはサッカーは向いていないという説?があります。ここというときに決められないということらしい、狩猟民族のような「しとめる」というDNAが欠けているというのがその根拠・・・ 当たらずも遠からずか 

本日は原精一・・。

戦争による悲惨な出来事が相次ぐ昨今、この画家は絵によって戦争とは何かを今でも我々に伝えてくれる。林芙美子と交流のあったデッサンの天才画家の作品の投稿です。残念ながら戦争そのものの悲惨さを伝える作品ではありませんが・・。

婦人像 原精一筆
紙本水彩額装
画サイズ:縦370*横270



「於南京 昭和十五年(1940年)一月二十日」とあり。最初の中国大陸への従軍し、1941年に召集を解かれる直前の南京に従軍していた時のスケッチではないかと推察されます。



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原精一:1908-1986 昭和時代の洋画家。明治41年2月27日生まれ。万(よろず)鉄五郎に師事。春陽会展出品の「シュミーズの女」「化粧」などで春陽会賞,佐分(さぶり)賞を受賞。戦後は一時国画会に属した。素描力にすぐれ,おおくのデッサン展をひらき,「原精一デッサン集」を刊行。昭和50年女子美大教授。昭和61年5月3日死去。78歳。神奈川県出身。

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見事なデッサン力には眼をみはるものがりますね。




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補足説明

原精一が日中戦争に召集をうけたのは昭和12年8月である。7月7日の蘆溝橋事件から1ヶ月あとのことである。

師萬鉄五郎の死から従軍までの10年間の原精一、19歳から29歳、人間形成の重要な時期である。この間、原精一は美術学校への進学を放棄、ひたすら画家への道を歩みながら青春の彷徨をつづけている。中学時代からの友人鳥海青児、森田勝1930年協会を通じて知己となった林武、野口弥太郎、図画会での梅原竜三郎といった先輩画家たちとの交友があり、さらには阿部次郎、児島喜久雄といった学者、また一方では尾崎士郎、尾崎一雄、林芙美子、山本周五郎といった文士らとの親しい交友もはじまっている。

このころ、原精一は「怪童丸」と綽名されてまだ若き文士らに愛されている。とくに林芙美子とは、林の夫の手塚をとおして親しくし、林芙美子があの『放浪記』を書いた住居のあとを借りうけて原精一の結婚生活ははじまっている。『放浪記』で富裕になった林芙美子はなにくれとなく原精一を支援したし、原精一の最初の日中戦争従軍にはわざわざ原の戦陣にまで訪ねていっているのである。

 近衛工兵大隊の輜重兵となった原精一は入隊するとすぐに中国出兵に加えられ、戦場へ赴くことになる。中国との全面戦争(Full Scale War)開始の最初の戦闘の場にたたされている。揚子江河口、呉淞鎮の敵前上陸に参加、戦史によれば日本陸軍第3師団の呉淞鎮、第11師団の川沙鎮北方地区への上陸は、昭和12年8月23日であったという。原精一の戦中デッサンは、おそらくこのときからはじまっているにちがいない。

 原精一は、南京、徐州、漢口、武昌へとすすんでいる。その間、原精一の軍事郵便の葉書は、ほとんどスケッチ、デッサンのための画面と化した。また、紙を拾い、墨を拾って描きつづけたようである。

 林芙美子が戦場の原精一を訪ねたのは昭和13年10月半ば、漢口占領の直前であった。林芙美子はこのとき、「文士慰問団」の一行に参加して久米正雄らとともに第36旅団長牛島少将、第6師団長稲葉中将らに続行して漢口へきたのであった。文士慰問団は、漢口攻略部隊となった第6師団第23連隊の出発を手を振って見送ったという(児島襄『日中戦争』)。このころ、日本の兵士たちのあいだにはマラリアが流行し、疲労と高熱で夢遊病者のような兵士たちが必死になって進軍していたと戦史はつたえている。原精一もまた第6師団に属し、渡河材料隊員の曹長として掲子江溯行作戦に加わっており)、またマラリアに罹って朦朧としていたとのことである。1年ぶりに再会した両者は、それでも、「絵の話、文学の話、戦争の話、支那の娘の話」をしたと林芙実子はつたえている(「原さんの性格」)。どうやら、2人とも、硝煙弾雨の戦場にいながらも、自己の本然を忘れることがなかった。原精一は、漢口攻略の3ヶ月後、武昌において、それまでに描きためたスケッチを陳列して、戦場での展覧会さえ開催しているのである。

 召集をとかれて一度帰還した原精一が再度の召集をうけたのは昭和18年1月であった。このときは日米戦争の前半とはもはや明暗を異にしようとしていた時期であり、南方への派遣、それも原自身、ビルマヘの派遣を希望したという。シンガポールまで赴いた原精一の参加部隊はほぼ半年間その地にとどまり、そこから陸路、タイの国境を超えてビルマへすすんでいる。原精一がとりあえず配属されたのは自動車隊の材料廠であった。タイからビルマヘすすんだ原精一は、さらにインパールヘとはこばれる。インパール作戦の壮大な失敗については数多く語られているが、英印連合軍側の近代兵器による圧倒的な攻勢に転進という名の敗退を余儀なくされた日本軍の惨状もまた数多く語られている。原精一の場合でも、戦闘そのものの恐怖感はうすれていたとしても生死の境界をさまよう事態を両三度にわたり経験することになる。あるときは戦友に、あるときはビルマ人に助けられ、また最後は自己の気力と精神力によって生きぬいてきたというほかないであろう。

 原精一の戦中スケッチは、戦争の記録画ではない。戦場で軍務に服しながらも描かずにはいられなかった兵士である画家のデッサンである。それゆえに、従軍画家が軍当局の要求のまゝにか、あるいは、愛国心にかきたてられての報国の感情によってかといった類の戦争画とは性格を異にする絵画といってよいであろう。同じように戦場の兵士の姿を描きながらも従軍画家のそれは、いかに巧妙に、いかに写実的に描かれていても従軍画家のためにポーズした兵士といった雰囲気をどうしてもまとっている。戦争画で名をはせた宮本三郎は、戦争画についてつぎのように書いている。

 時々経験することだが、時局柄戦争画を描かなければならないことについての感想をきかれることがある。そのたびに私は戦争画が面白いからと答へることにしてゐるが、事実迎合するとか止むを得ずとかいふ気持もない。面白いから描くことが、お役に立つといふことになれば有難いと思ふばかりである。(『宮本三郎南戈征軍画集』)

 原精一のデッサンの多くには、休息する兵士が描かれている。地面にゴロリと横たわっている兵士の姿には、ほんとうの疲労が感じられないであろうか。中国人が地面に横たわっている画面もみられる。どこの、誰による殺戮であろうか。埋葬者もなく横たわる中国人を画家はそのままに描きだしている。凝視する人は言葉を失うかもしれない画面である。可憐なビルマやタイの少女たち、人なつっこそうな少年たち。画家の眼は、おそらくは画家自身が意識しないままに、ときに厳しく、ときにやさしい。そこには、殺戮の場のなかでも人間を失わなかった画家の眼が感じられないだろうか。

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戦争は恨みと欲の負の連鎖・・、繰り返してはいけません。サッカーで鬱憤を晴らしているうちはまだ平和・・、サッカーで日本を挑発する愚かな国が近隣に2国ありますが、相手にしないことです。



蓮遊鯉之図 蓑虫山人筆 その6

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秋田県の扇田出身の明石康さんとパーテイで立ち話した保戸野窯の平野庫太郎氏の東京での個展開催の件・・、首都圏大館ふるさと会の会長は乗り気になったようです。

まだまだ未確定の件ですが、東京での個展開催のない平野庫太郎氏・・、皆で個展を開催してあげようではありませんか。

主催者、協賛者、会場、出展作品・・資金・・ハードルは高い。

明石さんの郷里は扇田、比内・・・蓑虫山人が長期逗留した地です。本日は蓑虫山人の作品です。

蓑虫山人は48年間にわたって諸国を放浪し、その足跡は全国各地に残されていますが、明治10年(1877)北奥羽地方へ及びました。山人にとって、北奥羽の風土は居心地の良いものであったらしく、放浪の旅を終える明治29年(1896)まで毎年のように来遊し、多くの地元人々と交流を結びました。青森県をはじめとする北奥羽各地へ長期にわたって逗留する傍ら、名勝や文化財あるいは寄留先の様子などを詳細に記録しています。近代の北奥羽地方の雰囲気を如実に伝えるそれらの作品群は、民俗学研究の一級資料として高く評価されています。

我がふるさとの北秋田にも多くの足跡を残し、比内地方の旧家には蓑虫山人の作とされる絵が数多く残されていました。今では多くが離散し地元に残されているかどうかもよくわかりせんが、地元に縁のある作品として当方の蒐集対象の作品です。



好きな作品をゲットした気持ちは子どもの気持ちと同じ。「どうだい」他人にはガラクタでも当方には貴重品・・。

蓮遊鯉之図 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装 合箱 
全体サイズ:横500*縦1920 画サイズ:横400*縦1370



蓑虫山人が鯉を描いた作品の第二作品目の作品です。



蓑虫山人は岩手県の水沢公園などの庭園造りでも著名ですが、一方で考古学に対しても深い関心を抱き、多くの遺物を収集しつつ、明治20年(1887)には木造町亀ヶ岡遺跡の発掘調査を手がけています



家内のブログにも「」があります。そう息子の幸紀ができた頃にみた鯉の産卵・・。



「鯉」の作品はたびたび登場していますが、今となっては確かめると真贋が入り交じっていますね。
特集のあとも投稿されていますが、「鯉」の作品は未投稿がまだあります。下記の作品は小生の大好きな作品のひとつです。 

鯉 福田豊四郎筆
絹本着色軸装共箱二重箱軸先象牙 
全体サイズ:横725*縦1600 画サイズ:横564*縦486



なにごとも卵から・・、なにが生まれてくるか解らないもの、何事もチャレンジ。小生とて還暦過ぎての初めての子ども・・・。

平野先生の個展・・・、何とかしてみよう。

春景山水図 伝寺崎廣業筆 工芸

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肉筆画ということで購入しましたが、どうも印刷? 印章も一致せず・・。ネットオークションで一番気をつけなくてはいけないのは実は印刷です。落款も印章も本物でありながら、実は印刷・・

プロが一番ひっかかるのは印刷作品と聞いたことがあります。印刷された作品の上から手彩色などという作品は肉筆と判別できないくらいの出来になります。中国の呉昌石、斉白石の作品も孔印刷でよく日本人がひっかかります。墨の滲みまで肉筆のまま・・・。

さて本日はそのような作品です。

春景山水図 寺崎廣業筆 工芸
紙本水墨淡彩軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1380*横675 画サイズ:縦410*横605



印章は「騰龍軒」を用いていますが、どうも資料と一致しないためまず真作でないと判断されます。珍しい印章なので右の資料写真がが小さくボケていますが、印章は一致しません。押印の際や紙や印章による少々の違いではなく意図的な違いを感じます。

 

なおかつ表面がつるつるする感覚などから印刷作品、一部胡粉部分は手彩色かもしれないですが工芸品と思われます。印刷用の作品のため印章を換えることはよくあることですが、本作品もその部類かと・・・。



本作品は画帳に描かれたように中央部分に折れの跡のようなものがあり表具は改装されています。贋作を印刷することもままありますが、基本的には本物を印刷します。ただし非常に流行したので著名な作品とは限りません。



改装した所蔵者は工芸や贋作とは考えていなったと思われます。印刷を本物と間違える人は「見る眼がある」と骨董商は評するそうです。つまり贋作に騙されるよりはましだということのようです。



印刷は落款もよく、印章も本物のまま印刷することがありますが、あくまでも工芸としてということで印章を本物と若干変えたり、「工芸」という印に変えることがあります。贋作という指摘を逃れるために若干だけ、もしくは完全に印章を変えるという手段を講じるのです。

しかしながら若干だけ変えるのはまだいいほうで、印章をそのまま本物を印刷することがあります。これは非常に厄介なことになります。



出品者は返品に応じてくれるとのことでした。このような誠意のある出品者は珍しいかもしれません。今回は軸先が立派なので他に転用できるため参考作品として購入しました。

逆に工芸品(印刷)と思って気楽に購入したら肉筆であったということもありました。「肉筆かとおもいますが・・」という出品でしたが・・・。

松茸図 金島桂華筆 
絹本着色色紙 タトウ
画サイズ:縦270*横240



他に大橋翠石、村上華岳などの作品もありましたが、気軽に購入できる金額ではありませんでした。



欲に駆られると高くなる・・。



ただし肉筆でも真作とは限らないものです。



ネットオークションで「保証」と記されたものも「肉筆保証」という意味が多い。少なくても「真作保証」を購入すべきですね。「公的鑑定により贋作と断定された場合は返品に応じます」という表現も要注意ですね。鑑定料金を負担すると高くつきます。

本ブログでは贋作もまた投稿しています。真贋を見極めるのに参考になれば幸いです



忘れ去られた画家 孟秋山水図 野口小蘋筆 その2

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女流南画家というと奥原晴湖野口小蘋があげられ、明治の女流南画家の双璧と称されています。本ブログでもこの二人の作品は紹介されていますが、もう一人中村餘容も忘れてはいけませんね。

奥原晴湖野口小蘋の投稿作品はリンク先を参考にしてください。

孟秋山水図 野口小蘋筆 その2
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1793*横544 画サイズ:縦1052*横407



賛には「明治辛丑(かのとうし)孟秋(「孟」ははじめの意〕�秋のはじめ。初秋。�陰暦七月の異名。)小蘋写 押印(「埜親之印」白文朱方印と「小蘋女史」の朱文白方印)」とあることから、1901年(明治34年)野口小蘋が53歳の作と思われます。

印章は一作品目の「山静夕長図 野口小蘋筆」と同一のものです。



野口小蘋は母のために絵を売り、夫は事業に失敗するなど苦労がうかがわれますが、女性初の帝室技芸員(現在で例えるなら人間国宝?)を拝命し、翌年には正八位に叙せられています。その直前の頃の熟練期の作品です。題名は当初「雪景山水図」となっていましたが、賛のとおり「孟秋山水図」としました。

ただ・・・??この作品の製作時期よりもこの作品の景色はいつ??? 春、秋、冬・・・??



本作品の製作当時は精力的に作品を描いた頃で下記の代表作が製作されました。



『春秋山水図屏風』 静嘉堂文庫美術館 絹本著色 六曲一双 明治28年(1895年) 第四回内国勧業博覧会妙技2等賞
『箱根真景図屏風』 山種美術館    絹本著色 六曲一双 明治40年(1907年)
『春秋山水図屏風』 東京国立博物館  絹本著色 六曲一双 明治後期
『溪山清趣図』   東京国立博物館  絹本著色 大正元年(1912年)
『阿波鳴門・小松島図』 宮内庁 絹本著色 六曲一双 大正4年 (1915年)



高尚な気品の表れた作風で、近世女流南画の泰斗(その道で最も権威のある人 大家)として評されましたが、現在では知っている人は少ないでしょう。ましては女流画家とも・・。



なんでも鑑定団にも出品されたことで記憶にある方がいるkもしれませんね。評価額が40万・・、む~一桁違うね。



明治女の南画家の心意気・・、この3人を調べてみると気概というものが伝わってきます。

結婚をせず、こどもを作らず、仕事も中途半端・・そこらそんじょにいる最近の女性とはものが違うぜ


荔枝図 藤井達吉筆 その12

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子どもというものは1歳を過ぎるとだんだん表情ともに自己主張を始めるようです。



そばに寄ってきてず~っとなにやら話をしている・・・。

名前も無い作品は自己主張だけが頼り・・・・・・・・。

本日は落款も印章の押印もない作品です。

荔枝図 藤井達吉筆
和紙着色軸装 軸先陶器 贈呈記載箱
全体サイズ:縦1470*横520 画サイズ:縦495*横370



本作品には落款と印章はなく、藤井達吉の作品にはよくあることですが、箱には「荔枝図 藤井達吉作」とあり、裏には「贈堤豪一郎先生 □□ 大川内」とあります。堤豪一郎氏についての詳細は解りません。

 

同様に印章や落款のない作品は思文閣の「和の美」第443号(作品番号NO78 評価金額85万)に掲載されていますが、基本的には共箱や鑑定箱があるものです。



このように共箱や鑑定箱のない作品は真作としてはなかなか認められないものです。



おそらく藤井達吉はたくさんの作品を人に落款を入れないで、また印章も押さないであげたりしたのでその作品をさらに贈呈用としたのでしょう。

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荔枝:ライチ(広東語 lai6ji1)はムクロジ科の果樹。 レイシ(荔枝、茘枝、学名:Litchi chinensis)とも呼ばれる。1属1種。中国の嶺南地方原産で、熱帯・亜熱帯地方で栽培される。



常緑高木で、葉は偶数羽状複葉(2 - 4対の小葉からなる)で互生する。花は黄緑色で春に咲く。果実は夏に熟し、表面は赤くうろこ状(新鮮な物ほどトゲが鋭い)、果皮をむくと食用になる白色半透明で多汁の果肉(正確には仮種皮)があり、その中に大きい種子が1個ある。



上品な甘さと香りから中国では古代より珍重され、楊貴妃が華南から都長安まで早馬で運ばせた話が有名である。別の植物にバンレイシおよびバンレイシ科の植物があるが、まったく別種の植物である。



中国語ではリーチー(拼音: Lìzhī、注音: ㄌㄧˋ ㄓ)で、属名もこれに由来する。英語のlycheeも日本語のライチ(ー)も台湾語、閩南語の茘枝の読み (lāi-chi) を片仮名表記したものである。英語のlycheeは、広東語風にライチーとも、北京語風にリーチーとも発音する。なお中国語で使われている漢字では荔は3つの「刀」ではなく、3つの「力」である。

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作品に印章もなく、落款のない作品は藤井達吉にはよくあることですが、その場合には共箱が必要ですが、それもなく贈呈用の箱のみでその箱書の由縁もうかがいしれまえん。

稚拙に見える本作品、そうやはり作品の自己主張を受け取るだけ・・・・、これは直感以外にないもの、ただし素人はその直感が外れていることが多い さ~読者の皆さんいかがでしょうか?

忘れ去られた画家 牡丹図 西山翠嶂筆 その5

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この画家に「忘れ去られた画家」と題するのは異論のある方も多かろうと思います。文化勲章を受章してる画家ですから・・。「なんでも鑑定団」にも出品されてご記憶の方も多いかと思います。

牡丹図 西山翠嶂
紙本淡彩軸装 軸先朱塗 共箱
全体サイズ:縦1220*横552 画サイズ:縦315*横422



竹内栖鳳の女婿であり、栖鳳からの影響のある没骨にて描かれた牡丹の作品です。



没骨で描かれた作品は竹内栖鳳の作品がなんといっても魅力的ですが、それに劣らぬ作品を製作しています。



印章には「研□□」の朱文白印が押印されています。この印章は初めて・・。購入したときは共箱に軸先が当たってうまく収納できないので贋作?? どうも軸先を取り替えた??



表具は牡丹唐草紋様、蝶という洒落れたものです。



未投稿の作品で下記の作品も検索で出てきました。

双燕 西山翠嶂筆
3号(色紙)額装絹本着色タトウ



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西山翠嶂先生は竹内栖鳳に師事。四條派を修め、京都市立美術工芸学校(京都市立芸術大学の前身)を卒業後は明治35年から母校で教鞭をとりました。明治40年に文展(日展の前身、文部省文化展覧会)が始まると第1回展で三等賞を受賞し、大正5年からは3回連続して特選を受けるなど、画壇の中心的存在として活躍します。また、8年には審査員を務め、昭和になると帝国芸術院会員や帝室技芸院に選出される一方、母校の美術工芸学校の校長にも就任します。

昭和10年に設立した画塾「青甲社」からは堂本印象、中村大三郎、上村松篁ら、次代を担う俊英をキラ星のごとく輩出するなど、教育者としての能力にも傑出したものがありました。栖鳳ゆずりの軽妙洒脱な洗練された作風が特徴で、師の没後は京都画壇の重鎮として活躍し、32年には文化勲章を受章しています。

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竹内栖鳳 参考作品

思文閣 「和の美」第460号 作品NO9
「紅椿」 



どこかで見た作品・・、ということを関連づける癖が骨董蒐集には不可欠です。



同号掲載 作品NO26 
「万寿」




竹内栖鳳との描き方の共通点がお分かりいただけたでしょうか?




南京赤絵湖畔楼閣文皿

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息子の幸紀は掴み立ちから徐々に自分で歩き始めようとしています。小生の寝巻きに掴まるにはいいのですが、小生の寝巻きのズボンがずり落ちる・・・・




本日は本ブログで数多く投稿されている中国の古赤絵の作品です。古赤絵といって実に多彩な作品群です。その中でもやはり絵付けが最大の見所ですね。絵付けの面白くないもの、時代が若くてすべすべした感覚のある作品は蒐集対象としては面白くないようです。やはり昭和の初期までも茶人が好んだ古赤絵がいいようです。

明南京赤絵湖畔楼閣文皿
合箱
全体サイズ:口径182*高台径93*高さ27



製作時代は明末と推察されます。嘉靖時代の赤絵の影響を受けており、実にのびやかな絵付けの保存状態良い、俗に南京赤絵と称される作品と思われます。年款の無いのが普通の古赤絵であり、清初の作もあると思われますが、出来のよい作品は一般に「明末」に分類されています。本作品は砂付高台を呈しており、また歪みがありますが虫喰いは見らません。



清初に近い製作年代と思われます。貫入が見られことから多少焼きがあまいように見られます。



明代中・後期では官窯よりも民窯の方が活況を呈するようになり、16世紀嘉靖期を中心に焼かれた民窯五彩を我国では「古赤絵」と呼び慣わしています。



共通する特徴は、青花を使わずに赤を主体に文様を描き、緑色と黄色で色付けする手法です。



多くは貿易陶磁として輸出され、中国本土より輸出先で珍重されました。主として東南アジア・日本・中近東に渡っていますが、昭和初期に多量の古赤絵が主としてインドネシアから招来され、けれんみのない自由な絵付けが画家や文人に愛されました。その以後、民窯の赤絵は最盛期を迎えます。



中央部分の絵柄は「楼閣の見える湖畔を舟に二人の漕ぎ手が乗り小さな帆をかけてゆく景色のようです。



湖畔や楼閣の上には雲が流れているようです。 



周囲は花草紋様でしょうか? 下記の参考作品の嘉靖年製と掲載されている作品と図柄が似ています。



中国では重宝されず日本で重宝されたのは赤絵が珍しいとかではなく、洒脱な絵付けや耶蘇な作りが日本人の好みにあったものであって、決して中国や韓国にはない優れた美的感覚です。

参考作品としての下記の作品は少し大きめですが、ゆがみがあり補修跡のある作品です。

赤絵婦女図盤
時代: 明・嘉靖時代 、サイズ: 径 20,5cm × 高さ 4,5cm



同時期に製作されたされた赤絵に分類される作品でも作風がまったく違うものもあります。下記の参考作品は「景徳鎮窯」と記載されていました。明末五彩と分類されるようです。

五彩開光蓮池水禽魚貝文六角皿
時代: 明末時代(17世紀)  サイズ: 口径 21cm×高さ 3.8cm
景徳鎮窯



それと同じ分類に入る?似たような絵付けで本ブログに投稿されているのが下記の作品ですが、天啓赤絵に分類されるかもしれません。構図は非常によく似ています。

楼閣図南京?赤絵八寸輪花皿 その1合箱 高台内「天啓?年製」
口径235*高台径140*高さ46



投稿されているもうひとつの作品も同じ窯かと思われます。

楼閣図南京赤絵八寸輪花皿  その2合箱 高台内「天啓?年製」
口径235*高台径140*高さ46



本作品が「天啓赤絵」? するとかなり珍しい作品のひとつのようですが、「写し」かな? 現在は当方としては「五彩赤絵」・・・???

日本人の美的感覚はまたよちよち歩きから始めたようです。歴史が変わるように時間とともに日本の美的感覚が生まれ変わる時が来るように思えます。決して他国にはない侘びさびの美的感覚をこれからの人々は温故知新として先輩にすがって大いに学ばなくてはいけません。

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