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雉之図 李朝民画 その7

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今年一年愛読ありがとうございました。
本日より帰省のため、しばしブログを休稿します。
来年もよろしくお願いいたします。
良いお年をお迎え下さい。

本ブログで述べたことがどうも今年は当ったらしい。

女性大臣の登用は納得できない・・・・・・・・・・・・K大臣らの辞任
男子日本代表の監督は外国からではないほうがいい・・・辞任の可能性
株高・円安は進む・・・・ドル建てリートがいい・・・・・・現状まではその通り

どうも専門外の分野であたってもただの山勘でしかないように思われます。でも山勘が大事な時もあるようで・・・。

手頃な値段で入手できる李朝民画・・、私も未整理のままその辺に放っておいてあります。「人々は民画にインテリア的な効用を求めただけでなく、家庭における「教育」のため、あるいは魔を退散させ福を呼ぶという「辟邪招福」の願いをもって飾りました。」という説明がぴんくるように日本の大津絵などの民画と似通った点がありますね。

雉之図 李朝民画
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横325*縦1155 画サイズ:横255*縦410



これは雉? 山鳩? ・・李朝民画がなにを描いているかはさほど問題にはならない? 基本的には鳥は吉兆を告げる縁起物。



大津絵よりも奥は深くないようです。ただ、味わいを愉しむのみ・・。韓国民族の特性を現しているということのようです。

民画はあとで表具した簡素な表具が多いですが、本作品は意外なほどしっかりとした表装です。



李朝民画についてリンク先に詳しく記述されています。

数千円で入手できます。人気があるのはやはり虎を描いた作品のようです。

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李朝民画:朝鮮,李朝時代の民画。民画は水墨画などの鑑賞画とは異なる価値基準をもち,民族の特性が種々の絵画形態に表わされたもので,李朝庶民の生活とともに発展してきた実用的絵画をいう。作品数は鑑賞画をはるかにこえる。

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リメイク再投稿 松鷹之図 狩野芳崖筆 その1 2015年

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新年明けましておめでとうございます。1月3日まで郷里に帰省しておりました。雪は例年の2倍以上とのことでしたが、それほどでもなかったというのが正直なところ・・。ただ我が息子は雪国の洗礼を受けました。



今年の夜噺骨董談義はじっくりと厳選の年とし、ペース配分を考えて毎日の投稿というよりは、作品を取捨選択しながら、リメイクを含めての内容になろうか思いますが、あくまでもそういう計画・・。

本日はめでたい掛け軸ということで朝陽に松ニ鷹・・。帰省に際して再撮影。

リメイク再投稿 2010年5月10日掲載

松鷹之図 狩野芳崖筆
紙本水墨淡彩絹装上表具本多天城鑑定箱布装カバー二重箱軸先本象牙
全体サイズ:縦2300*横760 画サイズ:縦1282*横612



本作品は家に古くからあった作品です。本家から当家へ、その後母の実家へと伝えられ、その後私が入手した作品です。一時期、事業のために売りに出されそうになったこともありました。



由来のある作品はきちんとしています。まずは箱の拵えが違いますね。焼杉の板目の美しい箱に入っています。厳選された木目です。「第弐拾弐号」というのは本家で所蔵していた時に祖父が整理させた番号です。幾つか縁があって入手していますが、そのほかには横山大観、伊東深水などそうそうたる作品があったようです。

 

昭和29年の新聞が入っていますので、その頃に祖父が購入したものでしょう。



外の箱に保護されて中身はしっかりしています。この取り扱いはきちんと丁寧に行う必要があります。今後も取り扱い方を知っている人がきちんと管理する必要があります。



狩野芳崖の門下である本多天城の鑑定箱があります。正式な鑑定は受けていませんが、今後正式な鑑定を受けるなくてはなりませんね。



非常に細工のいい二重箱入です。明治12年頃の島津家の庇護を受けている当時の狩野派の影響の強い作風ですが、その品格の高さが窺い知れる作品です。




狩野芳崖については記述する必要もないでしょう。

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狩野芳崖:文政11年1月13日(1828年2月27日)~明治21年(1888年)11月5日)。近代日本画の父。長府藩(山口県下関)御用絵師の家に生まれる。



19歳の頃上京、橋本稚邦と奥絵師木挽町狩野の晴川院養信に入門、晴川院を継いだ勝川院雅信(1823‐80)のもとで活躍、塾頭にまでなった。しかし、江戸幕府崩壊、明治維新によって定職を失ってしまい、生活苦と闘うことになる。



明治12年(1879)頃より島津公爵家の庇護をうけ、生活はようやく安定、同家所蔵の雪舟・雪村などの古画を学んだ。



明治15年(1882)、第1回内国共進会に出品した≪山水図≫≪布袋図≫など8点は受賞の対象外で嘲笑的な批評をあびたが、当時、沈滞していた日本画の復興運動を指導するフェノロサがその個性を認め、以降、フェノロサ・岡倉天心らとともに、伝統に根ざしての日本画の近代化を推進していった。



ほぼ同時代を生きた高橋由一が、日本近代洋画の最初の画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会いが決定的であったのと同様、芳崖にとってはフェノロサとの出会いが重要であった。



日本美術を高く評価していたフェノロサは、日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を芳崖に託した。



フェノロサと知り合った1882年、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤の結果、畢生の名作「悲母観音」が誕生した。この絵の観音像の衣文表現などには仏画や水墨画の描法が看取される一方、色彩感覚や空間把握には西洋画の息吹が感じられる。



芳崖は東京美術学校(後の東京藝術大学)の教官に任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日、同校の開学を待たずに死去した。



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狩野芳崖の作品は、他にも投稿していますが、本作品は島津家所縁にて伝えられたものと判断しています。

その根拠となる作品が下記の作品です。

参考作品 その1

松上鶴之図
思文閣 墨蹟資料目録「和の美」第478号 作品NO52
「芳崖先生遺墨全集 乾」並「芳崖先生遺墨大観」所載
久原房之助(元衆議院議員、通信大臣)旧蔵
岡倉秋水箱書
全体サイズ:縦2250*横800 画サイズ:縦1350*横620



橋本雅邦の紹介で明治十二年頃に狩野芳崖は島津家に雇われたのを契機に、島津家および同家ゆかりの人々のために多くの作品を描いたと伝えられているそうです。「松上鶴之図」もそうした縁の一幅だそうです。




松に鶴という得意の主題が、狩野派の特徴的な描線と墨色によって見事に描き出されていると評されていますが、「松鷹之図」にも適用されている。幾つかの注文に応じるために松の表現は同じにしたように思われます。「松鷹之図」と松の構図や上部の朝日のような赤の共通部分により、本作品も島津家にゆかりの人の依頼に応じて描かれた作品ではないかと推察されます。



この鶴図は、岡倉秋水(岡倉天心の甥、日本画家。狩野忠信らと狩野会結成に尽力した。昭和25年没)は狩野芳崖が52歳の頃の作と推察しています。「この図は芳崖翁が五十二歳頃の作にして島津家の於いて揮毫セルモノと鑑定候也」と鑑定しています。

ただし鶴の図よりも鷹の図のようが数倍引き立ちますね。「鶴」は評価がよくなく、「鷹」に書き直すように注文を受けた可能性があります。そのような注文を出すのはかなりの位の武士かと思われます。

島津家との関わりは下記の作品でも解ります。薩摩焼の硯屏です。



絵柄は狩野芳崖の作品です。



狩野派の精神を基本に持つ狩野芳崖は武家との関わりを持つことは喜びにひとつだったのでしょう。



橋本雅邦の紹介による島津家での作画を契機に狩野芳崖は飛躍的に技量が向上します。本作品もまた島津家縁の作品である可能性があります。

何度かの所蔵者の変遷を経た本作品ではありますが、小生にとっては大切な作品のひとつであり、わたしの守り神のような作品です。息子に伝えていきたい作品のひとつです。



「息子よ、強くなれ。」 大きくなったら寝床に掛けてやろう。

呉須赤絵 その14 五彩鳥花文皿

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郷里の自宅は隣の旦那さんや設備会社の女性の方、「あきやかんり」という会社(我が家が契約第1号)の方々により、メンテされており今回の年末年始も快適に齟齬すことが出来ました。感謝・・。

ただ帰宅したら玄関前の雪が落ちていない。危なくて残したようです。昨年は雪下ろしで多くの人が亡くなったり、怪我をしています。



「パパ、危ないよ、どうするの?」といいたげ・・。雪下ろしの必要のない設計にしたのだが・・。トップライトの周りには雪がつきすい。屋根勾配を急にしても在来の瓦止めでは弱い・・など幾つかの反省点があります。

幼稚園から高校までの同級生が設計・・。笑い話のような深刻な失敗談が幾つかあります。車から出れない車庫、冷蔵庫の入らない台所、湯船が入らない風呂場、極めつけは業者の夜逃げ・・・。



放っておくとガラスが割れることがあります。



「こういうときは家の暖房をつけるのさ。」玄関にまで灯油ストーブを持ち込みました。大黒様もあったかいだと・・。



数時間後に大音響・・。成功



安心したのか、幸紀は雪景色をバックにスヤスヤ・・。



雪国にはトラブルはつきものですが、雪のある風景はなんとも神秘的です。



昨年末はこうして更けていきました。


呉須赤絵 五彩鳥花文皿
合箱入
全体サイズ:口径169*高台径85*高さ28



400年くらい前の中国福建省南部(漳洲窯)で作られた呉須赤絵の五寸ほどの皿で、窯の中で溶着しないように砂を撒いた跡が残る砂高台が特徴です。



縁の虫喰がほとんど無いことから清初と推察されますが、詳細は不明です。中央の鳥の紋様が洒脱で本作品の魅力となっています。



なんども説明してきましたが、この作品群の魅力は絵の拙さ、精緻でない荒っぽい作り方が魅力です。ここに美を見出したのは作った中国人ではなく日本人、李朝に美を見出したのも朝鮮の人ではなく日本人なのです。日本人は手先が器用で勤勉のですが、もっと不思議なのはそこより先の無の境地の作品に美を見出す美意識だと思います。



同系統の逸品に下記の作品があります。数多くある明末赤絵の作品の中でも瞠目の作品です。

呉須赤絵 五彩牡丹鳳凰文皿合箱入
全体サイズ:口径209*高台径123*高さ36

このような作品はあるようで意外にないものです。明末呉須赤絵の大きな尺皿よりもこのような大きさのほうが使い途があった重宝するものです。

さて、そのように偉そうに講釈を記述していますが、一番面白いのは箱書きなのです。



粗雑な箱の裏には・・・。



「何代主人入手せるや不明箱破損九代箱新調 逸品珍品と見る人云う大切に取扱べし 赤絵南京と云う」とあります。

「逸品珍品と見る人云う大切に取扱べし」・・、骨董を趣味とする者はどうも思い込みが激しい  反省・・。

人生は反省の連続。失敗にない人間は成長しないが、同じ失敗は二度としないのが賢者というものらしい。もう一度自宅の設計、新築をしてみたいものです。

文読む女之図 池田輝方筆

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帰省した家の庭は屋根の雪などで雪が一杯でした。



ちょうどよいスロープになったおり、ちょっとしたスキー場・・。



こちらは除雪でクタクタ・・・。「よそ見してないで早くミルク飲め!!」



本日は先日投稿しました池田焦園の夫の作品です。結婚の約束をしながら、他の女と行方をくらまし、その後に池田輝方と焦園は結婚しています。二人はいったいどういう思いだったのでしょうか?その後は幸せに暮らしたようですが、二人とも残念ながら早世しています。必死で輝方は焦園の看病したそうです。男女の関係は他人には推し量れないところがあります。

世間一般常識では理解できないところに男女の機微があります。人生は何があるか解りません。他人の人生評価などは一面からでは計り知れないものがあり、本人の信念による自らの評価がきっと一番正しいのでしょう。とくに人を愛するということは他人になんと評価されようが自分で信じる道を行くが良い。

谷崎潤一郎の「細雪」にまつわる夫婦間の手紙がNHKで昨夜紹介されていましたが、あのような恋愛をできるのには信念がいる。将来が心配だとかで恋愛に消極的な独身の皆さん、恋をしなさい、人を愛しなさい。将来の心配なんかくそ食らえだ

人はひとりでは生きていけないことを肝に銘じなさい。少なくとも二人のほうが寂しくないし、人生が100倍愉しい。

さて本日はラブレターを読む女性???

文読む女之図(仮題) 池田輝方筆
絹本着色軸装 軸先塗 合箱 
全体サイズ:横473*縦2033 画サイズ:横411*縦1114



作品は真贋云々は一切未確認ですが、池田焦園の夫の作ということへの興味から購入した作品です。上村松園もまた妻のある鈴木松年の子供(上村松皇)を宿しますが、女流画家の人生もまた興味深いものです。



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池田輝方:明治16年(1883年)1月4日~大正10年(1921年)5月6日)は明治、大正期の浮世絵師、日本画家。本名池田正四郎。女性日本画家・池田蕉園の夫。



明治16年(1883年)1月4日、東京市京橋区(現在の東京都中央区)木挽町で建具職人池田吉五郎の次男として誕生。明治28年(1895年)に水野年方に内弟子として入門。明治32年(1899年年)から一年余りを岡山で過ごした後帰京、再び年方のもとで学ぶ。



明治35年(1902年)に日本絵画協会と日本美術院の共催による第12回絵画共進会で「山王祭」が、同13回展では「婚礼」がともに1等褒状を得、翌明治36年(1903年)の第14回展では「江戸時代の猿若町」が銅賞3席となった。他方、鏑木清方らによって明治34年(1901年)に結成された烏合会にも、結成直後から参加、明治36年(1903年)の同会の第6回展に「暮靄」と、同門の榊原蕉園(のちの池田蕉園)をモデルとした「墨染」を、第8回展には「奥勤め」を出品した。



この年に師・清方の立会いの下、榊原蕉園と婚約するも、自身は直後に別の女性と失踪、さまざまな曲折ののち、蕉園とは明治44年(1911年)に結婚した。この事件の顛末は田口掬汀によって連載記事「絵具皿」として万朝報に掲載され話題となる。この間明治40年(1907年)には川合玉堂に師事しており、風俗画に特色を示している。また、同年、浮世絵に惹かれて来日していたフランス人の浮世絵師ポール・ジャクレーに日本画を教えている。



大正元年(1912年)の第6回文部省美術展覧会(文展)では「都の人」が褒状、大正3年(1914年)の第8回展では「両国」で3等賞、大正4年(1915年)の第9回展では「木挽町の今昔」で2等賞を受賞し、大正5年(1916年)の第10回展では「夕立」(山種美術館蔵)で妻の蕉園とともに特賞を得た。翌大正6年(1917年)には徳田秋声の『誘惑』、小杉天外の『七色珊瑚』の挿絵を蕉園と共作。



大正8年(1919年)の第1回帝国美術院展(帝展)では江戸時代の絵師・英一蝶の流刑を画題とした「絵師多賀朝湖流さる」(島根県立石見美術館蔵)が推薦出品とされ、浮世絵の精神、造形美を受け継ぐ画家としての評価を確立した。同年石井林響(1884-1932)、山内多門(1878-1932)と如水会を結成。大正10年(1921年)5月6日没。墓所は台東区谷中の谷中霊園。没後の大正13年(1924年)、浮世絵と同じ技法による新版画「新浮世絵美人合 一月 かるた」が版行された。



輝方は水野年門下で後に川合玉堂に学んだ人物画の名手であるが、惜しむらしくは39歳、その力倆の熟し輝きつつある途中の、いわば「未完の美」で生涯を閉じてしまった。しかし、天性の才能がもたらせる彼の作品の秀逸さは、五歳年長の同門鏑木清方より一年先(大正5年)に「夕立ち」一対で文部省美術展覧会特選になったことで知られる。

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女性のうなじに色気を感じるのは男性の特権??



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池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。

水野年方、川合玉堂に師事する。文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。

明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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人を愛し結婚したら極力早く子どもを作るべきです。人はいつ死ぬか解らないものです。どちらが死んでも片方は一人ぼっち・・。ちなみに小生の父は小生が小学校の時に亡くなっています



「お~い、早く寝ろ!!」

南京赤絵獅子牡丹紋茶入

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昨年末の帰省はまたも義母の車を拝借・・。すでの10年以上経過した車ですが、雪国には抜群ににいいです。同じドイツ車でもベンツ、BMWなどの車など高級でもFRの車を乗り回すのは北国では自殺行為です。



もちろん、雪道用の運転技術も必須ですが・・。男の隠れ家はいつもどおり迎えてくれました。



車庫も完成・・・。実はまだ完成ではなく、ちょっともっと隠家的に・・・。



そして自宅到着・・・。



雪は思いのほかでもなく・・、雪国に来て見たいと思いませんか? ドライバー付き、隠れ家泊まり。



本日の作品は赤絵の茶入です。

南京赤絵獅子牡丹紋茶入
象牙蓋 合箱
口径44*最大胴径80*底径55*高さ98


 
中国の明末の天啓年間(1621‐27)から清初にかけて「天啓赤絵」,「南京赤絵」と呼ばれる粗雑な器皿,福建省あたりでは奔放な絵付の「呉須赤絵」の3種類の赤絵に分類される陶磁器が焼造されました。



これらは日本の茶人たちに愛好され,日本の赤絵の発展に大きな影響を与えました。日本の古九谷もまさに大きな影響を受けた焼き物です。この3種類、特に「天啓赤絵」と「南京赤絵」の判別はまことに難しいように思います。当方は独学ということもあり、ブログを作成しながらの日々研鑽であります。



天啓赤絵は「わりと斬新で大らかな絵柄が多く、絵付けは粗いものの、朱色・緑色・黄色・青色などが使われている。皿の場合は高台は、当時の通例の如く、細砂の付着した砂高台で、高台内には「飛び鉋」の跡が見られ、口縁には「虫食い(素地の収縮率が釉薬のそれを上回るために釉薬が剥離して、虫食い状態になること)」が見られる。一般的には「天啓年製」の銘を伴うが、無銘であれば清朝初期の品である。天啓赤絵は中国にはほとんど遺品がなく、日本にしかみられないことから、日本からの注文品とみなされている。」という特徴あります。



では南京赤絵は「南京赤絵は清朝まで続くが、天啓赤絵が清朝に入らず、同時期の天啓赤絵と南京赤絵の区別は、天啓赤絵は古染付の上に色釉を施し、南京赤絵は色釉だけで彩画した赤絵で有ると分類されますが、例外は勿論有る様です。色絵祥瑞等も含め、少しややこしいですが、それぞれの作風を持っている。」とのこと。



さらには「絵付けには基本的に染付けは用いず、色釉だけで彩色され、その色数も初期は赤、緑、黄と少なく作風はきわめて豪放です。その後、紺青、紫、黒、褐色などの色が増えるとこれらの色数を組み合わせ繊細華麗な作風へ変化しました。



当時の主要な輸出品で西欧諸国に売ったものは壷や花生けや蓋ものなど大作が多い。ところが日本に輸出したものは茶道具あるいは鉢や小皿中皿など食器が多い。デザインも日本人好みの余白を十分とった絵画的な構成になっています。これは南京赤絵の手法です。高台内は車輪高台で、砂付高台。評価は寸法によって大いに違い、辺20センチ程度のものはかなり高価で、辺12センチの同じような皿だと30万円程度になる。」



区別は難しい

ただ「他の古染系、南京赤絵等、明末窯の注文作品よりも圧倒的に数が少なく貴重な作品群です。」ということから天啓赤絵は非常に高価らしい・・。



今までの本ブログでも幾つかの作品を取り上げてきましたが、模倣品を含めて再整理する必要がありそうです。

本日の作品も天啓赤絵か南京赤絵か?? とにかく骨董は日々勉強の連続・・、愉しくてしょうがない 

本作品の魅力は獅子牡丹の可愛らしさ。獅子と牡丹の謂れは本ブログで何度か説明したとおりです



象牙の蓋も味があってよいものですが、サイズが微妙に合わない、また茶入として実際に使ったかどうかは疑問です。



ニュウがあるのが残念と思われる方もおらえるでしょうが、これはなんと釜割れです。



出来損ないを捨てずに商品としたのでしょう。これは味があると・・・。



結論は「南京赤絵」・・。

根拠は昨日手元に届いた思文閣 墨蹟資料目録「和の美」四八七号 P78 掲載NO36
「南京赤絵獅子牡丹文壺」によります。



作品は壺ですが、ほぼ同じ出来と判断していいでしょう。



お値段は45万・・、高すぎますね。本ブログのほうが出来は良い。当方の入手値段は1万強。



このような作品が箱もなく、骨董市に種々雑多と並んでいたら価値がきっと解らないでしょうね。

ただし掘り出し物を求めて絵贋作に騙されて嫌気がさすようでは、骨董をする資格がないように思います。しかし、いつまでも贋作に騙されるような方は骨董をやめたほうが正解です。残念ながらやめたほうがよい方がほぼ99%なのも骨董の世界・・・。



我が家の獅子さんはご機嫌ですね。

2014年12月 保戸野窯

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帰省に際して、秋田市に立ち寄り保戸野窯に立ち寄りました。平野庫太郎氏としばし歓談・・。



いつもの飲み慣れた器で・・・・。この湯呑みとコーヒー碗はお勧めですよ。




皇太子殿下が秋田県立美術館を訪れたことをなど・・。そう、平野庫太郎氏が館長を務める秋田県立美術館を皇太子殿下が訪れ、平野庫太郎氏がご案内、そして休息時には保戸野窯の平野庫太郎氏作の湯呑みでお茶を飲まれたとのこと。



そのお茶碗が上の写真の実物・・。三碗を用意しておくらしい。休息時の部屋には先生の作の花瓶が飾られたようです。



実に品の良い湯呑みですね。ひとつ欲しいものです。

製作と同時期に平野氏のお父上が亡くなりたいへん忙しかったとのこと。そんな多忙時にさらに、お茶会の総会?用に数茶碗(記念品で関係者に配るものらしい)の製作を頼まれ非常に苦労したとのこと。



その見本用のお茶碗が下記の写真です。



その製作時に見本として作られたお茶碗の中で小生が気に入ったのが「釉裏紅」のお茶碗です。



先生にとっては満足にいく作品ではなさそうでした。この釉裏紅は実に発色が難しいのです。もちろん現代ではこの釉薬で製作はされています。日本や中国景徳鎮など数多く作られているいるようですが、「品の良い」作品は皆無といってよいでしょう。そう「品の良い」というのがなかなか陶磁器にはないのです。これが骨董の目利きの一番のポイントなのでしょうね。

先生に頼み込んで家内と二人で選んだ二作品を格安で譲って頂きました 
「・・で二つ」「勝手に値段まで決めるなよ~」だと・・。



気に入った器で気ままな時間を過ごす・・、そんな贅沢をしてみていい年齢です。



電車の出発時間までのしばしの歓談・・、しばし会わない間にも人にはいろんなできごとがあるものです。

皇太子殿下は帰り際に「赤は難しいですよね」と感想を言われたようです。さすがによく解られている



雪に備前と戯れる

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本来ならば夏に水を打って愉しむ備前なごどの焼締に分類される作品を雪の中に放り込みたくなるのはなぜでしょう?

まずは古備前の壷



高温で焼成される備前の器を冷たい雪の中へ放り投げる快感。熱くなる自分を雪の温度で冷やすかのよう・・。



次に古信楽の壷。



雪という無垢の世界にまったく正反対の景色の壷を対比するのも愉しみです。



炎の中で降り積もる灰、雪と灰との対比もまた壷の美しさを引き立たせるかのようです。



場所を変えて釜印のある備前の壷。



飾らず実直な焼き物、己ではなんともならず、炎に任せた己の生・・。



その潔さが雪の中で映える。時間があれば雪の夜の照明の中で撮影したいものです。



兼重陶陽の蓮葉盆。



雪にあたる陽射し・・、なんとも言われぬ見事な作品です。



今にも壊れそうな薄い作りで雪の柔らかさがそれを受け止めてくれることを可能としています。



このような作品を作れる人はあとにも先にももういない。







時間があればもっと雪と戯れていたい。














明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その3

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米吉さんからの葉書・・。なんと立てて飾れるように工夫されています。しかも居酒屋のカウンターだぞ~、これは面白れェ~。

本日の作品は呉須赤絵の鉢&壷屋焼・・。

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢」の三作品目です。これで家族3人でラーメンが食える  愉しいぞ~・・、ちょっと大きすぎるかも・・。



明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その3
金繕 合箱
口径245*高台径*高さ123



当方で三作品も揃うということはかなりの数が市場にあるということ?? 「明末呉須赤絵 大皿(鉢と称しているものも多い)」はそれよりかなり数が多いようですが・・。この鉢・・、当方が所蔵している三作品は同じ人が絵付けをしたように思えるのですが・・。



ただ清朝に入ってからの時代の下がったものが多いので、評価にはばらつきがあります。時代の判別なく売っていますので、虫喰のないもの、きれいなものは入手は避けたほうがいいでしょう。



大皿を鉢と称している作品もありますが、基本的には「大皿」でしょう。本作品のように深い鉢になっているものは少ないようです。大皿は飾りとしては重宝しますが、実用的ではありません。



下記は本ブログで最初に紹介下作品です・

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その1 合箱     口径240*高台径*高さ118



二作品目がこちらです。

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その2 金繕 合箱  口径240*高台径*高さ108



深い鉢になっている明末呉須赤絵の作品は珍しく、ただ日本でつくられた作品は数多くあります。魯山人も模倣していますが、本物の感じとは程遠いものです。

魯山人作は下の作品です。



日本では犬山焼が多いですが、完全に釉薬の感触が違います。永楽、三浦竹泉、京焼らも本物には足もとにも及びません。さらには清初に入った時代の下がったものは味気のないものです。

以下は本作品の写真です。その1やその2とはほとんど区別がつきかねますね。




もう何度も説明を記述しました呉須赤絵の特徴・・・。とにもかくにも呉須赤絵は明末~清初めのかけての本歌に敵う作品は存在しません。

せいぜ奥田頴川の作品くらいがその奔放さに匹敵する作品でしょうか?

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呉須赤絵鉢:深鉢になっている作品は珍しい。現在呉須赤絵鉢の称する作品においては、日本で作られていた作品がほとんどであり、絵が模倣に域を出ずきれいすぎて、明末のような洒脱な作品が少ないと思われます。本作品は明時代末期から清初、中国福建省南部の漳州窯で焼かれた呉須赤絵の作品です。欧米ではスワトウ・ウェアと呼ばれています。 本品は、花鳥や魚、動物の文様が色鮮やかで楽しい作品になっています。中国に残っているものは少なく、かえって日本・南洋・欧米にその品の残っているものが多いようです。お茶会で賞翫される呉須赤絵の器物は赤玉香合・玉取獅子鉢・魁手鉢・呉須菊竹鉢・尾長鳥鉢・魚手鉢・骸麟手鉢・青呉須竜手鉢などで、大皿はそれ程顧みられないようです。きれいなものは時代が新しく、近年の模倣品です。



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本作品「その3」や「その2」では残念ながら虫喰が金繕いにて補修されています。それを良しとするか否とするかは意見の分かれるところですね。




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虫喰:口縁には定番の釉薬の剥がれが有りますが、茶人は虫喰と名をつけました。本作品は金繕いで補修されています。器体と釉薬の収縮度が違って、このように剥げる部分ができます。中国人にとっては傷ですが、日本人は、傷では無く長所としてみます。日本では、さらに、この傷が良いと言う事で、人工的に作ることもあります。気の利いた、写し物作者または「偽作者」は、器体と釉薬の間に、不純物を噛まし込み、焼いた後、剥げて人口の虫喰ができるようにします。この様にしますと釉薬側の両端が吊り上がって見えますので、見分けがつきます。

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砂高台:高台は荒々しい砂が付いた高台で、これも明末、清初の特徴です。陶磁器には国の繁栄が現れますが、明が衰え清が登場してくる過度期に手抜きされた高台が、これまた見所になってきます。

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赤絵ついでに本作品・・。

壺屋焼 吉祥紋壺 仁王作
民藝館委員旧蔵作品 合箱
口径115*最大胴径180*高台径120*高さ235



沖縄の仁王窯らしいですが、相変わらず作者は解明できず・・。



二代目??



吉祥紋ということで捨てずいました。



底に「仁」と銘がありますが・・・???



2代目永昌さん亡き後の仁王窯吉祥紋壷の可能性があります。「仁王」窯に銘が「仁」の一文字で、扁が離れている「離れ仁」の銘とすると3代目以降か・・・・。ただ、二代目の銘にも離れているものはある?







瀧之図 伝蓑虫山人筆 その5 

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日曜日には改装の設計をして頂いている大学の同級生の息子さんのチェロのコンサートを聴きに・・・。



設計の打ち合わせ後に子どもを家内の実家に預けて二人でデート。息子さんは四人目のお子さんで成人式を迎えたばかり。



お客さんは満杯・・。



代々木八幡のコンサート会場・・。屋上の眺望よろしく。



かなり聞き応えのある音楽だったらしい・・・、小生は居眠りを繰り返し、家内に起こされること数度。



帰りは駅前でドリア・・、与野の駅前にはイタリア料理の美味しいお店がありますが、こちらも美味しいようで満席。



期待していた三陸牡蠣料理は売り切れで、エスカルゴ。



家内は息子を迎えに実家へ・・、一日のお別れ、結婚前のデートのよう



息子と離れての二人の時間もまた新鮮なものです。「暗闇」にいた私を助けてくれた家内にはあらためて感謝ですね。

さて本日の作品はわが郷里には縁の深い蓑虫山人と思われる作品です。

瀧之図 伝蓑虫山人筆 その5 
紙本淡彩軸装 軸先木製 合杉箱 
全体サイズ:横443*縦1938 画サイズ:横325*縦1360



叔父さんが扇田から入手した五作品ほどありましたが、亡くなって以降、御子息が手放されようで、三作品ほど市場に流れていた作品を買い戻しました。買い戻せなかった二作品は出来のよかった作品だけにとても残念です。



その二作品は以前に投稿した下記の記事に掲載されています。

中野山浅絳山水図 蓑虫山人筆 
紙本淡彩軸装軸木製 合箱 
全体サイズ:横635*縦1930 画サイズ:横510*縦1320

「蛙図」や「達磨図」をご存知の方がいたら御一報頂ければ幸いです。



本作品に押印されている印章が未確認のため「伝」としておきましょう。このような印章があったどうかは疑問??



贋作と断じるのも早計・・ただし当方での購入は資料などと見比べている時間などはなく、感性で選ぶので失敗もあるようです。



安っぽい時代のある紙表具の巻き止めにはなにやら所蔵名??

蓑虫山人は意外と人気のあるが画家です。投身自殺を企てた西郷隆盛を救ったという逸話が遺っています。西郷隆盛を死の暗闇から救ったのかもしれません。

御櫃ら・・

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御櫃とは「炊いた飯を釜から移し入れておく木製の器。めしびつ。おはち。」のことで、これもまた、日本の文化から消えつつあるもののひとつです。これが茶道具となると高足のお膳があってとなるのですが、このような作は旧家には複数必ずあったものです。

納戸を探してみるとまずは輪島塗の銀吹の作品がありました。銀がだんだんと剥落してるのですが、なんとか修理する方法はないものかと・・。



さらには津軽塗の作品がありました。これは以前に投稿した津軽塗の蓋付碗とセットかな?



これらは今ではたいへん貴重な作品となりつつあります。



杉の弁当箱・・。



川連の木目を生かした粋な器ですね。



春慶塗の手あぶり・・、傷んでいる部分は私が緊急処置・・。



いつ頃から、我が家にあったものです。木を大切にしていた頃の貴重な作品です。



このような器が座敷にあり、親戚一同が会して酒を飲み交わす。そんな風景はもう戻ってこない。寂しい限りです。



銀吹の揃いの器・・、縁側には福寿草?? 春を待つ北国の祈りがこめられています。



よくある梨地のお盆・・、下手な蒔絵より豪華ですね。



これらはすべて木を大切の育んできた文化の作です。陶磁器とは別に日本の文化には木、漆器という技術が発達してきました。近年、引き出物などが少なくなり、ますます漆器も需要が少なくなってきています。木の文化が失われるときが、日本の文化の終焉といっても過言ではないかもしれません。

家内と大晦日は雪見酒・・。



鍾馗之図 無銘

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家内のお茶の先生から古田織部展のチケットをペアで頂きました。ところが当日、家内がすでにその展覧会に出かけていました



帰宅すると家内が「良かった~、桃山の茶道具ってすごいね!」だと・・・
仕方がない、一人で見てくるか~~


一昨日は同業者の社長たちと溜池のホテルで会食・・、車の話やら、骨董談義やらで大いに盛り上がりました。水素自動車の未来を予約した御仁がいる・・、なんと2年後の納車・・・
72歳で2歳の子ども、・・しかも3人目、・・負けた

さて本日は鍾馗・・・。

20年以上前現場に従事した頃、魔除けのつもりで部屋に鍾馗様の絵を飾っていました。盛岡の骨董店で見かけた無落款の掛け軸でぼろぼろで古いものですが、表具を改装して額に入れていました。幾つかの現場が大過なく終わらせることができたのもこの鍾馗様のおかげかもしれません。

鍾馗之図 無銘
紙本水墨軸装 軸先木製 合箱入
全体サイズ:縦1360*横480 画サイズ:縦530*横380



上記の鍾馗様の作品を見かけたとある方が欲しいと再三頼まれました。お世話になった方でもあり、渋々差し上げることにしました。都内の邸宅の玄関に飾ったそうですが、孫が怖がって困ったと言っていました。今はどうなているのでしょうか?



それ以降、機会あるごとに鍾馗様の作品は購入しています。御利益はそれなりにあったろうと思っています。



男というものは神様とか魔除けとかに意外と弱い・・。神棚も年末は飾りつけは男の仕事になる。



ついでに七福神も・・。



ついつい飾ったものが神様扱いとなる・・。



家々には古くから神棚があった。上に人が上がるのスペース・・、かつ家の中心、光の当たるスペース。もちろん向きも決まりがある。



古い家にはそれなりの風格がある。



神棚の周囲は広くとる。



神棚、仏壇を家に置かなくなってから、日本の家はおかしくなった。

「お~い、幸紀、起きてるか?」 「ん? パパ、どこから呼んでるの?」



おっと、これは酒の神



階段を上ったところにも神を祀る



これは天井裏にあった掛け軸・・、大津絵の初期の仏画??  まさかね~。こんな作品がたくさん・・・。



まだまだ布袋様や恵比寿様・・・、自分ながらよくもこれだけ祀ったものと・・。





年末年始にはあらゆる方向に神を奉り、拝むのもの・・、自分の力だけではなんともならぬものへの崇拝が謙虚さをもたらす。自分の足元を見つめて日々、真面目に実直に過ごすことの大切さを学ぶ。

波斯古陶 ラスター彩文字文瓢箪型徳利

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元旦は雪は降りませんでしたが、曇り空で新雪が10センチほど・・。



しかし、雲の隙間から初日の出が・・。



朝は間に合わせのおせち・・。器は自作の皿。



もちろん息子も一緒・・。朝陽を浴びて愉しそう。



本日の作品はラスター彩?? さすがにラスター彩の贋作はない??

波斯古陶 ラスター彩文字文瓢箪型徳利
合箱入 
口径54*胴径125*高さ115



本物ならとても貴重な波斯古陶のラスター彩の作品なのですが、当方には未知の分野です



もともと売っているほうもラスター彩の作品とは思っていませんので2万円なり。お買い得???



口の部分や底に部分に補修があります。発掘した祭に破損したか、呼び継ぎした作品と推察されます。



口部分がもともとその作品のものか? もしくは途中の部分が欠損してるか? 補修した人が徳利に仕立てたもののように思います。紋様は文字? 手書きのなかなか粋なデザインです。



釉薬は光が当たると金色に輝きます。写真では解りにくいですが発色がとても綺麗です。



さて一献いかがかな。



前に所蔵していた方はおそらくラスター彩の作品と解っていたのでしょう。



「ペルシャ 徳利」ね~、ペルシャに徳利なんてあるのかな~

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ラスター彩(ラスターさい、Lusterware):焼成した白い錫の鉛釉の上に、銅や銀などの酸化物で文様を描いて、低火度還元焔焼成で、金属的な、金彩に似た輝きをもつ、9世紀~14世紀のイスラム陶器の一種。

メソポタミアの地が発祥とされるラスター彩は彩色も文様も変化に富み、その美しい発色の技法は極めて困難なものとされる。



ラスターとは英語で「輝き・きらめき」という意味で、この技法で作られた陶器は金色に近い金属的な輝きを放つことからラスター彩という名称が生まれた。ラスター(luster)とは、落ち着いた輝きという意味。

中国建窯(中国語版)の、曜変・油滴・禾目などの天目茶碗は、この影響を受けて作られ、ラスター現象が見られる。




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さて骨董市にいかな掘り出し物がありや、もしくはガラクタか。元旦の朝陽に当たり骨董は輝く。




薔薇 その3 福田豊四郎筆 その45

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現場の突貫が相次いでいます。二ヶ月以上前に警告を発していながら、現地確認しておらずのこの始末。現地を確認していないことが最大の問題であろうかと思いますが、事実が伝わらない会議より、「現地確認が第一」、「懲罰主義よりチームワークが宝」ということを忘れたツケは大きい。こうなっては我々はやれるだけを誠意一杯やるだけ・・

今年の年末年始は自宅に暖房器具を新設しました。何しろ吹き抜けのある居間が一番寒い。もともと暖房用にエアコン設置は20年以上前の新築時に計画はあったのですが、住宅建築請負業者の倒産、建築代金持ち逃げ騒動で資金がなく、いままで我慢してきました。ようやく所定の場所に設置しました。



吹き抜けは天井が高く明るくていいのですが北国では寒い。



ストーブの新しいものに交換しました。こどもが近づかないようにガード。



大晦日の朝はハタハタです。大好物で、とてもおいしいですよ。



大晦日は郷里の蕎麦を食べました。暖かい家で今年は年をを越せました。



さて、年末に帰省した祭に地元の骨董店にいつもの訪問・・。福田豊四郎の「薔薇」の作品が目に付いたのですが、すでに「薔薇」の作品は二作品所蔵してるので、ためらいがありました。ただ、付き合いもあり、和紙の描かれて今までの作品と違った感じがすることより購入・・。

薔薇 その3 福田豊四郎筆
和紙着色 色紙額装タトウ入 3号



福田豊四郎にしては珍しい描法です。



落款と印章は下記のとおりです。



それにしても安くなったものです。これで3万5千円。以前にお購入した「薔薇 その1」は12万でした。

福田豊四郎 薔薇 その1         



いつも述べることですが、「骨董品や美術品で得をしようというのは間違い」ということです。骨董はあくまで趣味。素人は金にはなりません。

古くから家にあるものを売ってお金を得ようとするのは「浅ましいこと」です。已むにやまれぬ事情以外で、古くからあったもんを売却しようとする人でまともな人間に会ったことがありません。そもそも自分で稼いだものではないので、価値基準がまったくわかっていません。

高く売りたい→裁判沙汰になる→買い叩かれる→弁護士だけが儲ける→悪銭身につかず というパターンです。

福田豊四郎 薔薇 その2



買うほうも同じ

安く買いたい→値切る→贋作をつかむ→スッカラカン

時間に伴う評価という事実はただひとつ、ただし骨董はある意味で麻薬です。売るほうも買うほうも正しい知識がないと身を滅ぼします。骨董の売買は寄付と思うのが常道、ゴルフでプレー代金を支払ったと思えばいい。

澄水 郷倉千靭筆 その3

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データの入ったままのデジカメを置き忘れてきました。む~、書き溜めた原稿もなくブログ続行のピンチ・・

昨日は賀詞交換会の会合のあと銀座の現場まで表敬訪問・・。しばし技術や現場談義。その合間に古田織部展へ・・、その後慌しく会社に戻り来客・・、お得意様と退職後の趣味の話。アフターファイブは埼玉で会合。忙しい一日?・・・

古田織部展はなかなかの作品揃いでした。その作品群は作ろうと思ってもなかなか作れるものではありませんね。加藤唐九郎の鼠志野を思い出しました。茶室の実物大もなかなか参考になりました。

本日は書きかけの原稿を投稿します。

澄水 郷倉千靭筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:縦1295*横578  画サイズ:縦368*横430



鮎かな???




知人宅に下記の作品があり、当時は絵画に詳しくなかった小生は「なんとなくいいな~」と思って、床の間に掛けられていた色紙程度の作品に見とれていました。今では本作品の行方は解りませんが・・。

鮎 郷倉千靭筆
紙本着色色紙軸装 軸先陶製 共箱題旧作 縦265*横237




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郷倉千靭:明治25年(1892)~昭和50年(1975)富山県射水郡に生れ、東京で没。本名は与作。大正2年東京美術学校を卒業。寺崎広業に指導を受けた。



後期印象派、とくにセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンに傾倒し、大正5年渡米。13年日本美術院同人に推挙。自然の一隅に目を向けた清新な自然観照が注目された。昭和7年帝国美術学校教授、同11年多摩造形芸術専門学校教授、また画塾草樹社を率いた。



昭和35年日本芸術院賞を受賞。翌36年インドへ渡り、仏教美術を研究した。昭和47年日本芸術院会員。堅固な写実を基盤にした緻密な画風で多くの作品を描いた。代表作は「山霧」。

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鮎を描いた作品は本ブログに幾つか投稿されています。

あmた郷倉千靭の他の作品には画帳に掲載された下記の作品があります。この作品については後日また・・・。



デジカメよ、早く戻って来い・・。

源内焼 その48 三彩蘇鉄貴婦人図皿

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病気や災害で大切な人を失った悲しみは基本的には誰も救えない。仕事仲間も友人も兄弟、親戚縁者も元気をつけることは出来ても根本的な悲しみや孤独から救えない。お金も名誉も地位もなにも力になれない、時間を味方につけながら孤独と戦う気力を糧にしていくしかない生きようがないものです。そういう悲しみの深い縁を人間は残念ながら高い確率でいつかは経験することになります。それゆえに日頃から本当に大切なことを小脇に抱えながら生きてことが肝要なのでしょう。そう本当に大切なものを小脇にかかえながら・・・。人の命を粗末にするようなニュースが多い昨今ですから余計にそういう気持ちを忘れないことです。

骨董などの趣味もまた基本的には救いにはならないものです。すべてがむなしく感じることを経験することになるからです。しかし、夢中になることを持つことは一時的にせよ悲しみを忘れさせてくれるものです。ただし仕事はいけません。

本日の作品は久しぶりに源内焼にお登場です。

源内焼 その48
三彩蘇鉄貴婦人図皿
合箱
径273*高台径210*高さ32

最近ネットオークションにて12万にて落札した作品。以前は3万程度で入手できた源内焼の作品ですが、最近は競り合うことが多くなり高くなりました。それでも骨董店で買うよりはまだまだ安いようです。



この大きさでこれほど状態の良い作品は珍しいと思います。七寸程度の皿で10万円程度が買値の相場だと思います。なんでも鑑定団では70万という途方もなく高い評価額で放映されていましたが、誰もそのような値段で取引はしていません。なんでも鑑定団の評価金額の10%が相場と思うのが正解ですね。売値はさらにもっと安いものです。



「さぬきの源内焼」(平賀源内先生遺品館企画展 財団法人平賀源内先生顕彰会出版)に作品NO24として同図、同じ大きさの作品が掲載されています。「貴婦人図」とありますが、桃が描かれており「西王母図」と題しても良いように思われます。



源内焼は柔らかく痛みやすいので保存箱に入れて保存することが必要です。本作品は保存箱に入れられていたので保存状態が良かったものと思われます。



源内焼を知らない人が本当に多いですね。古九谷と並ぶ名陶のひとつだと私は思うのですが・・。



虹彩の発色、型の精密さ、図柄の品の良さ、数の少なさ、・・。



家内曰く「ブログに投稿するからネットオークションで高くなるのよ」だと・・。ただしネットオークションは近代のまがい物も多いので要注意・・。


伝清初 赤絵金襴手雲龍文茶碗

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帰省した自宅の家のテーブルには自作の菓子器があります。母がいつも使ってくれていました。



仕事で秋田市に在住していた頃に保戸野窯で作った作品です。以前にも本ブログに投稿したことがあります。

菓子器を作ろうとその日に思い立ち、削りは心の赴くまま・・。



当時、仕事でかなり難しい局面になっていたので、休みだけは必ずとり大いに気分転換したものです。それが陶芸でした。

取手の周りには切手を貼って呉須をスプレー・・・ その場でのアイデア・・・。



稚拙であれ、手の赴くままに土を捏ねているともう無我夢中です。陶芸教室といいながらかなり自由に土や釉薬を使えたので自分のその場の構想で思い切ったことがやれました。



稚拙な技術ですので、土はすぐに固くなるので待ってくれません。設計図などありませんし、こちらも時間がないのでその場のアイデア勝負・・



釉薬もあっというまに掛けなくてはなりません。釉薬の掛け方・・、これが意外に難しい。ものづくりをする人はなにか別のものづくりに挑戦することは必要不可欠のように思います。必ず役に立つことを学ぶことができるように感じました。



出来上がりはとても稚拙なので、自分で使うか母が使うくらいですが、でも欲しいという方という奇特な方もいたのです

自作の作品はたくさんありますが、もっと今でも作りたいと思っています。仕事をリタイヤしたら思いっきり作りたいものです。リタイヤしたら打ち込めるなにかがないと退屈でしょうがない


さて、本日の作品は技量充分の作品・・。当方での問題はいつ、どこで作られた作品かということにようです。実に悩ましい・・。

「大明成化年製」と銘のある作品が中国陶磁器かと思ったら大間違いです。そのほとんどが日本の伊万里を中心とした作品です。出来のよい古伊万里の作品なら良いのですが、その多くが出来の悪い作品にまで著されています。

ただ中国陶磁器の書かれることも多く、その多くが中国の明中期の成化年間(1465~1487)に制作されたものではなく、清時代になって模倣された作品に書かれた作品がほとんどです。中国のものでも明らかな贋作と真面目に作られたものと大別できます。真面目に作られたものは最近の出来のごとくきれいなようです。

清初赤絵金襴手 雲龍紋茶碗
「大明成化年製」款 合箱入 
口径135*高さ80*高台径60



本作品は伊万里などの日本製か中国で製作されたものか判断に迷うところですが、欲目にみると銘の書き方、出来から判断して清初めに中国で明の金襴手を模倣して製作されたものではないかという推察ができます。

明時代の作品の模倣のようですが、真面目な作と思われます。金襴手という作品群に分類されるのではないかと思います。



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金襴手:赤絵,色絵などに金彩を加えたもの。色釉と金との配色が織物の金襴の趣に似ているところから,この名が出た。中国宋代に始り,明・清代に極度に発達,碗がもっと多い。この刺激により日本では江戸時代中期から作られ、江戸後期以降 京焼や 九谷焼で模作が試みられた。とくに 永楽保全・和全父子が名手として名高い。また赤絵の上に金彩が施されたものを赤絵金襴手といいます。

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最近の模倣作・・・・???  このようなくずした銘は書かないように思いますが・・・???




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大明成化年製の銘のある焼き物:本来は中国の明中期の成化年間(1465~1487)に景徳鎮の成化という釜で焼かれた製品に書かれているもの。後日に製作された模倣にも書かれる。日本の古伊万里と呼ばれる時代に焼かれた焼物にも「○○年製」と書かれたものが多数あるが、これは中国で焼かれた焼き物を手本として写しを行っていたため、銘も一つの模様と捉えた結果、日本の古伊万里にも「○○年製」と書かれた焼物が作られていた。 また、「○○年製」と書かれた煎茶碗は本場中国でも多数の偽物が出回っており、偽物はわざと汚して売られていたり、高台に砂をつけて焼かれたり、それらしく見せかけているのが特徴で、分かりやすい物は素人が見ても判断する事ができます。

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とにもかくにも出来が良いので、最終的には伊万里でも中国陶磁器でも当方としてはかまわないのです。当方の自作の作品とは大違い・・・。



清朝徳化窯 白磁貼花柳花紋筆筒

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書斎というものを持っている人はどれくらいにるのでしょうか? マンションのプランを見てみても主婦用のスペースはあっても、主用の個人用スペースは少ない。子供部屋ができると日中いない主のスペースは子供に奪われることとなるようです。書斎を持つのが男の願いから、夢になってきているようです。少なくともこどもが自立したあとは出来得れば書斎を持ち、こだわりの文具を並べて好きな本を読み、趣味に興じるようなスペースが欲しいものです。

書斎にこだわりの文具・・・、中国は文具を大切にしてきた文化をかつて持っていましたので、硯、墨、筆、文鎮などには逸品が存在するようです。その中のひとつに筆立てがあります。


清朝徳化窯 白磁貼花柳花紋筆筒
合箱
口径90*胴径115*底径95*高さ115



徳化窯の作品群では観音像のような仏像が代表格ですが、仏像はあまりにもありきたりなようなので、今回は筆立て・・・。

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徳化窯:中国,福建省徳化県にある磁窯。明・清代に盛んになり,俗に白高麗と呼ばれる白磁を焼いた。器肌は半透明で白玉のような感じがある。観音,羅漢,達磨などの仏像や人物像,神仙像が著名。急須,水注,煎茶器なども生産された。徳化窯白磁は、象牙白という愛称で、フランスでは中国白と呼ばれ、日本では白高麗(はくごうらい)とも呼び珍重されました。欧州では「マルコ・ポーロ・ウエア」ともよばれています。

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徳化窯の暖かみのある肌は、日本人のみならず西欧人にも人気が高いようです。 唐五代時期にその源を発する徳化窯の白磁の歴史は宋の時代に始まり、元の時代には世界各地へ輸出され、明の時代に仏像など芸術性あふれる作品が焼かれるようになると、景徳鎮と並び爆発的な人気を博し、世界の陶磁器に大きな影響を与えました。

本作品は一部に残念ながら欠損がありますが、それゆえ廉価で購入できました。徳化窯の作品群は当方ではまったく知識としてありませんので、お土産用にこのような作品がかなり流通しているのかもしれませんが、今までこのような徳化窯の作品は見たことがありません。



特に、その乳白釉はヨーロッパへと伝わり、ヨーロッパ陶磁に大きな影響を与えることとなります。まるで象牙をみるような、光沢のある白磁は象牙よりずっと純度が高く、またつややかなので、その魅力は汚れをしらない無垢の天使のような清艶な美しさがあると評されています。



徳化窯の白磁の特徴は、繊細な造形と透明感あふれる乳白色の美しさにあります。貫入のない滑らかな手触りは、徳化の地でしか採取できない細やかで粘り強い胎土の賜物だそうです。この胎土に純白釉を施すため、ガラスのような光沢の気品ある白磁が生まれます。

本作品はその白さに焼成時の焼けた跡が付き、まるで絵のような繊細な造形を醸し出しています。本体は手づくねのつくりがそのままという珍しい作り方で、日本人好みの山水画風に仕上がっています。稚拙なようで造形をみるとかなりの技術。徳化窯の型にはまったような仏像などのような味気のない作品群に比べて、非常に良い作行きだと思います。もしかしたら日本の作??

ともかく書斎の筆立てにいいかと考えての購入です。筆立てや線香立てなどのような単純な筒状の作品・・、あるようで良いものが意外に少ないようで20年かかってようやくひとつ目  今までは李朝の小壷・・。

青磁陰刻龍紋小食籠

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先日は新木場まで材料を調達に・・、半分は見学。



いろんな材料があります。もともと祖父や父や材木業であったので興味はありあり・・。



幾つかの候補は選定しましたが、あとはお値段次第・・。

さて本日の器は青磁の「食籠」・・・・、普段使いの器でちょっとリッチな気分なりたいものです。

青磁陰刻龍紋小食籠
合箱入 
幅122*奥行90*高さ70



いつの時代に作られたものかはわかりません。



陽刻が青磁の中に品良く浮きかがっています。



楊枝入、薬味入、香合・・、なににでも使えそうは重宝な小器です。ただの四角い器でないところがいい。



合わせ箱に入っていますので、伝世品などではなく近世の作品のようにも思われます。



「食籠」というと下記の作品に縁がありましたが、今は所在は不明です。

食籠 河井寛次郎作
共箱 
径167*高さ140*底径



2008年頃に思文閣に25万で売却された作品です。



幸紀もまた新木場にて材料選定・・、「遊ぼう」??? 



疲れたよ~


清初南京赤絵唐人文陶板

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雪国の風物詩のひとつに氷柱があります。屋根から雪と一緒に落雪すると非常に危険です。落とすのが子どもの頃の役目でした。



大きく前に落とすが安全です。



子供の頃、勉強がひと段落すると窓から手を伸ばして氷柱をとってひと舐めり・・、決して衛生的ではありませんでした。

本日は鍋敷??? と称して売っていた作品です。赤絵の皿の見込みだけ切り取った作品でしょう。周囲の部分は割れた??

清初南京赤絵唐人文陶板
合箱
口径130*高さ10



最近でいたように綺麗な作品です。稚拙な絵のようで稚拙でありません。



裏には銘はどはありませんが、それなりに古びています。本当に清初の作品? これは勘としか言いようが無いかもしれまえんね。



周囲の作りはお見事・・。



捨てるには惜しい作品をこのようにして遺したものでしょう。きっと日本人でしょうね。

源内焼 その49 三彩山水図紋小皿5枚揃

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今年の初詣は例年通りに郷里の氏神様をお参りしました。



街中を車で移動していたら街のビルの間の空き地に秋巨大な田犬???



例年通り墓参り・・、雪をラッセルして・・。



幸紀は寒そう・・・。

本日は愛らしい源内焼の揃いの小皿です。

源内焼 その49 三彩山水図紋小皿5枚揃
合箱
口径98*高台径61*高さ13



源内焼には珍しい口径10センチ以下の5枚揃いの小皿。釉薬が虹彩を発しており、江戸期の作品に相違にない。



購入金額は1万5千円。わりと廉価?なのは源内焼と解る方が少ないか、大きな皿の源内焼にのみ評価が集中しているせいかもしれませんね。



小さくて実に愛らしい作品です。



保存箱の片側が皮紐が切れていて無くなっていたので、革を購入してきて直しておきました。骨董を整理したり、保存箱を修理したり、ブログに投稿することは意外に体力や頭を使います

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