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花陽刻紋三足筆筒 古三田青磁 その6 

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昨日は札幌へ出張しました。営業所は新しいビルへ引っ越しており、道庁もあらたな顔を見せていました。現場周りでは、火力のシールドの現場の話などあらたな技術との出会いが愉しませてくれました。



夜遅く帰宅すると息子はまだ高熱・・。父親はうろたえるばかり・・、母は「平気よ」とばかり、高鼾。我妻はやはり太っ腹母ちゃんのようで・・・・・。

さて選挙が始まりますが、政治家というのはよくわからない職業?というのを再認識する選挙です。我々庶民が解るのは、消費税増税を先延ばしして、国債の評価が下がり円安が進んだということくらい・・。ま~、アベノミクスそのものには賛同しますが、中身と新味に欠けるという評価がなんとなくぴんときますね。

ふるさと創生はいいのだが、少子j高齢化対策という謳い文句はいいのだが、株安・円安はいいのだが・・・、だからなにがどうなった?? 選挙してる場合じゃないと思うのだが・・。いずれ政治家に対して大きな期待はしてはいけません。

本日はかわいらしい政治の・・、もとい青磁の作品。

青磁の産地などは実に多彩ですが、青磁の古いものは見極めが難しく、難解な陶磁器のひとつです。日本以外の青磁の作品などは正直なところさっぱりわかりません。日本では鍋島、伊万里、そして三田が青磁の代表格なようです。

花陽刻紋三足筆筒 古三田青磁
合箱
口径40*高さ84



江戸期の三田青磁の文具のひとつらしい作品です。ただし日本の作品でさえ産地の判別が難しいのに、その製作年代となるとまったくもってちんぷんかんぷん。

三田青磁の詳しい内容はリンク先を参考にしてください。



三田青磁ならなんでもよいというわけでもなく、やはり味のあるものがいいですね。ま~、骨董はすべからく味のあるものがいいのでしょうが、ここが価値観の相違のあるところで、味のあるというのが実に品のないものという御仁が多いのが骨董の世界。99%の骨董好きが自分の価値観がいいと思っているから厄介なのです。その99%が趣味が悪いところに骨董の難しさがあるようです。そういう小生もその中に入るようで・・・

さて、この作品はどうみても普段使いですね。机の上において鉛筆立てか今の箸立てだね

家内に曰く「線香入れにぴったりよ」だと・・・なるほど。さっそく仏壇前の経机に・・。いままであった線香入れは蓋置だったので、すこしさまになりました。最近仏具は相続税対象外というので、純金製のものが数多くありますが、それに比べると実に質素な仏壇ですね~。



かわいい箱に収まっています。 なんとなくロケットのようは三足型・・、はやぶさ??

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三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。

惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。

文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政10)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同12)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政(1854-60)頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治になつて三田陶器会社が設立され、1889年(明治22)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。

1922年有志が相寄って一窯焼いたのを最後に三田窯の煙はまったく絶えました。青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。

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さっぱり解らない青磁にあまり期待してはいけません。もとい政治には・・・ 線香入れでもいいから、使えるものが一番・・・。

清初呉須赤絵 福の字花草紋皿

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昨日は会社の同僚らの忘年会、素敵な女性二人に囲まれて、短い間にすっかり酔っ払ってしまいまいました。帰宅すると熱の下がった息子とバタンキューと熟睡・・。

故郷より毎年恒例の高校の忘年会を兼ねた同級会の連絡が入りました。いつもの店で、いつものの日時で、きっといつものメンバー・・。もう何回目だろうか? 高校卒業してからず~会っているメンバーなので、高校卒業以来から続いているように思われます。

先日は首都圏ふるさと会が都内のホテルで市長、議員はじめふるさとを代表するお歴々の出席で開催され、その会に出席したばかり・・、こちらには先輩の誘いでまだ2回目の出席です。60歳を過ぎると急にこういう会が増えるようですね

吉祥そのものの「福」と書かれた使い勝手のよさそうな皿です。明末から清初にかけての呉須赤絵の皿や鉢の作品もくつか蒐集できました

清初呉須赤絵 福の字花草紋皿
合箱
全体サイズ:口径182*高台径103*高さ44



古染付と同じように高台内が鉋で削った跡があることから明末に呉須赤絵より時代の下がった清初の頃の作品と思われます。高台の砂付もそれほど多くは見られません。



虫喰いの跡を金繕いしたようですが、これは賛否両論あると思います。このような欠点ともいえる点に美を見出した日本人の美意識はなかなかのものと思います。欧州や中国や韓国にはない優れた感性だと思います。



見込みか底にある傷も金繕いされています。砂付高台やこのような金繕いに美を見出すことはなかなか他の国には理解されていないように思いますが、このような美意識すら現代から未来に引き継がれていくのかどうか不安はありますね。



この作品の魅力は勢いよく書かれた「福」の字でしょう。この奔放さもまた・・。



多少、時代は下がっても、紋様に奔放さのある作品を選ぶのが呉須赤絵の収集と思います。時代が下がって虫喰いもなくきれいな作品は魅力に乏しいものです

このような日本文化を集約したのが茶の文化だと思われます、茶の文化だけでは決してないように思いますが、ひとつの有様だと思います。茶室を作ろうと思った動機もまた未来に、日本古来の文化を子々孫々に伝えたいものがあるからです。


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呉須赤絵 (ごすあかえ):焼き物としての呉須という名称は、現在の中国福建省から広東省にかけて生産された と思われる明中期以降の半磁器のことで、英語では“swatow ware”と呼ばれ 広東省仏頭(スワトウ)港から積出されたとされるが、呉須または呉洲の呼称の 語源は不明である。

呉須は本来、染付(青花)顔料のコバルトの意味で焼物の呉須とは 区別される。仏頭を輸出港とするこれらの焼物は、日本をはじめ東南アジア,中近東, ヨーロッパにまで送られ、明末・清初に景徳鎮で受注生産された古染付,祥瑞などに むしろ先んじて日本へ渡来し、茶陶としての用途に重宝された。器種は鉢,皿が多く、 染付,瑠璃,柿釉,白釉,五彩などがある。五彩のものを呉須赤絵と呼び、その華やかさ もからわが国では古来人気が高く、茶人の珍重するところである。

砂高台:焼き物で、高台の底に砂の痕(あと)が残っているもの。重ね焼きの際、器物どうしが溶着するのを防ぐために砂をまいたために生じる。朝鮮製の茶碗(ちやわん)などに多い。

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呉須赤絵の作品は多くなりました。一度集まった作品を並べてみようかな? 時代の違いがまた整理できるような気がします。



青手九谷 馬唐草紋大鉢

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陶磁器の世界に古九谷ほども魅力的な作品群はありませんが、贋作、写し、再興とその判別は素人には無理なようです。古九谷などの無傷な大皿があればかなりの高価な値をつけるものもあるようですで、ゆえに市場にはまず出てこないというのが常識のようです。

青手九谷 馬唐草紋大鉢
合箱
口径306*高台径180*高さ75



本作品を特定するには欲張ってまず古九谷か否かから始めましょう。

古九谷は生掛けで焼成されていて、色絵は技術的に試行錯誤していますから未完成で、その作風は決して洗練されたものではありません。古九谷の魅力は大胆で野性味のある構図と色使いで、色絵に力があることです。



それと古九谷の鑑定方法のひとつに器面を反射させ、その色絵の外周の縁に沿って虹彩を観察することがあります。色絵を塗りつぶしている青手以外の作品に用いられる鑑定方法です。色絵にブク(焼成中に生じた釉薬の泡)をを吹いているものがよくありますが、これは焼成温度を高く上げすぎたためです。色絵は700度から750度で焼かれるものですが、おそらく古九谷は800度くらいで焼いています。この800度で焼かれると上絵をのせている素地の釉薬も軟化してくるために、色絵の部分と反応して古九谷独特の虹彩現象となります。



本作品は虹彩は見られますが、裏面の緑釉の下に描かれた紋様は再興九谷の吉田屋窯に見られるもので古九谷にはないと思われます。ゆえに古九谷ではないと思われます。本作品は吉田屋のものか、明治期から戦前に大聖寺で焼かれた吉田屋の写しと絞れます。



青手九谷は緑釉を多く用いて赤を使用しないことからこう呼ばれ、素地も良質の磁石を使用したものと鉄分の多いやや質の悪い素地のものの 二手があります。交趾古九谷・ペルシャ手九谷とも証せられるらいしです。また白抜きが珍重されます、・・・・なぜでしょうかね?本作品は青手の九谷の作品の例に漏れず、四彩(緑、紺青、黄、紫)が用いられています。



高台内は「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘があります。



高台内には葉っぱのような紋様が描かれていすが、これは再興九谷によくみられるように思います。




また、古九谷の特徴である緑釉に泡状の釉薬のふくれがありますが、これは古九谷の大きな特徴と文献に書かれていますがどこまで信頼性があるかは解りません。



本作品は古九谷? 再興九谷? 明治期の輸出品? さ~、九谷の時代判定は難しいらしい。絵付けはよく出来ていますが・・・。やはり欲張らずに吉田屋の写しが妥当かな。

なんでも鑑定団には贋作が出品されていましたね。よく出来ている贋作らしいです。



下記の作品は再興九谷として掲載されていますが??



この作品の出来は侮れないもと思います。古九谷などと称して売買しなければ、なかなかの作品です。こういう評価が大切で、真贋のみを評価するのは愚かなことです。

本ブログを呼んだ家内曰く「いい作品ね。」・・、なかなか見る眼があるようだ。そう、この作品は馬の描き方といい。侮れないものがあるように思います。

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青手九谷について 

古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。

市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。

現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。

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本ブログもなんだかんだと九谷の作品が多くなってきました。。もともとは九谷は小生は苦手なのであまり詳しくはないのですが・・。時代の分類は確証がありませんのであくまですべ「伝」ですね。

伝九谷青手 波ニ雲龍合箱
口径245*高台径90*高さ57

伝再興九谷松山窯 青手草花紋深皿古箱
口径313*高台径150*高さ58

青手九谷芭蕉文様鉢古箱入
口径160*高台径*高さ43

九谷庄三の作品

普段使いの器 その4

深厚釉花入 二代徳田八十吉作
高さ285*胴径130*高台径73*口径82 共箱入

豆皿 再興九谷吉田屋 
割補修有
口径115*高さ25


三代徳田八十吉の作品群もまた分類は九谷らしいですが、ちょっぴり抵抗がありますね。

花瓶 三代徳田八十吉全体サイズ:縦320*横幅170

彩釉壷 三代徳田八十吉作
胴径220*高さ220 共箱

三代徳田八十吉 その3


 






説色不老長春白鶴図 岡本秋暉筆 その3

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本ブログは基本的には骨董に関する知識のためのブログですので資料的な記載が多いのはご了解願います。

骨董の蒐集はすべての作品が本物とはいかないものです。すべての作品が最初から本物という人は、資金があって最初から信頼のおける美術商や信頼のあるお店から購入できる人でしょうね。人生と同じで最初からすべて正しいものばかりではなく、過ちを繰り返してどんどん良いものが集まってくるもののように思います。そして、人生と同じでなにが一番大切なことなのかが徐々にわかってくるものです。

残念なことにそのように進捗する人はほんの一握りの人だけのようで、何が一番大切かを知らずガラクタを集める輩が多いのです。さらにはほとんどの人は人生の大切なものを蒐集しようとすらしない・・・。

本日の作品は「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される岡本秋暉という画家の作品ですが、非常に偽物の多い人で、今でいう流行作家でしたので当時から贋作が多かったそうです。孔雀などの極彩色の花鳥画が得意で注文もここに集中したとのことです。

ただし、本作品は真作と断定してよいと思われます。鑑定箱書きよりも出来そのものからの当方の判断です。


説色不老長春白鶴図 岡本秋暉筆 その3
絹本着色軸装 軸先象牙 中原家旧蔵 玉木環斎並び渡辺華石鑑定箱入 布製タトウ入 
全体サイズ横580*縦2070 画サイズ横420*縦1215



新年のめでたい画題でもありますね。長寿を願った鶴の図です。



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岡本秋暉:生没年には諸説あり、文久2年没(1862年)、享年57歳で没したという説が有力です。名は隆仙、字は柏樹、通称祐之丞。号は「秋暉」、晩年は「秋翁」と号した。

小田原藩大久保侯の家臣で、画を大西圭齋、渡辺崋山に師事したといわれ、椿椿山とともに崋山十哲に数えられる。一説には、崋山とは絵画を通じた友人関係であり、師弟関係はなかったともいわれている。いずれにせよ、谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家である。

画風は沈南蘋によって日本に伝えられた明清画、円山応挙に代表される写生画、渡辺崋山、弟子である椿椿山によって描かれた崋椿系など、それぞれ画趣を想起させる作品、更には、伊藤若沖の動植採絵に描かれる奇想を彷彿とさせる作品を遺している。極彩色の花鳥画を得意とし、独特の濃密な作風は、南蘋派・円山派。崋椿系の影響を受けつつも一線を隠し、特異な趣きを持つ。

特に孔雀の描写には定評があり、「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称される。

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渡辺華石:1852-1930 明治-昭和時代前期の日本画家。嘉永(かえい)5年10月生まれ。渡辺崋山の次男小華にまなび,その死後,渡辺家をつぐ。山水人物画を得意とした。昭和5年11月6日死去。79歳。尾張出身。旧姓は小川。名は静雄。字(あざな)は規道。編著に「崋山画談」「崋山真蹟(しんせき)」。日本画家・渡辺崋山・椿椿山の絵の鑑定家。

   

箱書きには「秋暉出於南蘋□写生□花弁□毛□最此幅作老松□春□丹□筆力道□布□工□□□□生岩其為其臨□□美 華石渡邊題鑑 押印」とあり、化粧タトウには「岡本秋暉 説色不老長春白鶴図 華石渡邊□題鑑 押印」とあります。



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玉置環斎:画家。文政12年(1829)江戸生。通称清之進。画を戸塚茗渓の門に学ぶ。明治年間の人。鑑定箱書きには「甲辰之秋七十六翁環斎題記」とあり、明治37年(1904年)、玉置環斎が76歳の鑑定であると断定できます。また巻止めには「秋暉老人松鶴図 環斎老逸記 押印」とあります。

                                             
戸塚茗渓:(1809頃~54)名は榮之,通称・門吉。 高松藩留守居寄合。 江戸に住する。号は御茶ノ水畔に住んだことによる。(茗は茶のこと) 花鳥人物画に妙なり。谷文晃に端を発する関東文人画系に位置付けられる画家であると推察されます。

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中原氏(なかはらうじ):「中原」を氏の名とする氏族。安寧天皇の第三皇子である磯城津彦命が源流と言われている。はじめは十市首氏であったが、971年(天禄2年)に十市有象・以忠が中原宿禰姓に改め、974年(天延2年)に中原朝臣姓を賜ったことに始まった。 また、大和の国衆十市氏が中原氏を称していた。中原氏は十市県主に由来するともいえる。地下の中では上位であったが、公卿を輩出することは無く堂上にはなれなかった。中原氏は明法道、明経道を司る家系で、大外記、少外記を世襲職とする朝廷の局務家として長く続いた。また東市正を世襲し、京都の行政に深く携わった。中原師任(もろとう、始祖・有象(ありかた)の孫)の後、その子である師平流と貞親流の二つの血統に分かれ、特に貞親流からは中原親能のように鎌倉幕府と関係を持つ者も現れた。親能の養子となった中原師員の子孫は摂津氏を称し、鎌倉・室町の両幕府の実務面で活躍した。師平流からも中原師元(師尚、平清貞の父)などを輩出している。中原氏嫡流の押小路家は地下家筆頭の家として存続し、 明治時代には華族に列せられ、男爵となった。
本作品を所蔵していた「中原」との関係は一切不明です。

 


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本作品の特徴は鶴の奇異な足の構図とその表情でしょう。



奇異な表情ではありますが、作品そのものに迫力を与えています。



岡本秋暉の面目躍如たる堂々たる作品です。

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岡本秋暉 補足事項
岡本秋暉(1807~62):江戸芝に彫金家・石黒政美(まさよし)の次男として生まれる。母の実家で町医者だった岡本家に男子がなかったため、養子に入る。小田原藩士の養子となった秋暉は初め、宋紫石に師事し奥平藩のお抱え花鳥画絵師と言われる大西圭斎に弟子入りする。江戸屋敷に勤務するかたわら、藩の御殿を飾る障壁画を制作したり、また絵師として藩とは関係なく注文を受けたりした。鳥の羽根の美しさを描き出す秋暉の画風は、中国人画家沈南蘋の画風を学んで、南蘋の精緻な描写と華麗な彩色は江戸時代中期以降の日本絵画に大きな影響を与えた。また秋暉は渡辺崋山、椿椿山と親しく交わっていた。なお、秋暉と鵞湖には共通の知人も多く、面識があったものと思われます。秋翁は晩年の号。



大変にお酒の好きな人で逸話も多く、小田原の生んだもっとも誇るべき画家と言われ、幕末の記録も残ってはいるものの、その存在は伝説的で不明なことも多い。岡本秋暉の描く極彩色の花鳥画は、花鳥画の世界に於いて、他の追随をゆるさないとまで評価され、花鳥画の世界に多くの名品を残したが、生前からの評価も高かったため、江戸時代当時すでに、岡本秋暉の偽作を専門に手掛ける偽作者もいたと言う。




人付き合いはあまりせず、画業の妨げになると言って自ら出世を断つようにして制作へと集中をし、しかし、槍術、馬術では藩中で一位、ニ位の腕前と言われていた様子からも、多芸に秀でる、





天才肌の人だった推察される。清貧を通した岡本秋暉は二宮尊徳(金次郎・金治郎) との交友もあり、岡本秋暉が障子の隙間から観察して、二宮尊徳の肖像画を描いてゆく話しは有名である。



本秋暉は大西圭斎、渡辺崋山に学び、渡辺崋山の弟子「崋山十哲」の一人とも言われているが、正しくは谷文晁の弟子で渡辺崋山とは同門になる大西圭斎が師となり、渡辺崋山と岡本秋暉は友人の間柄であった。



渡辺崋山が国事に座して網駕篭で国元へと送られるさいに、事情を知り驚いた岡本秋暉は浅草海苔を掴むと、直ぐに家を飛び出し渡辺崋山の駕篭を追い掛け日夜走って追い付いた後も、面会が許されなかったために、さらに駕篭を追い掛けて東海道を下ってゆく話しは有名で、渡辺崋山と岡本秋暉の親交の厚さをいまに伝えている。岡本秋暉の花鳥画は人気も高く、日本は当然として海外の美術館へも多くの作品が所蔵されている。




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表具や軸先などにも気を使っている作品ですね。



未来に向けて伝えたい作品のひとつです。



岡本秋暉の本ブログに投稿した作には下記のものがあります。

岩上孔雀ニ牡丹図 岡本秋暉筆絹本着色金泥絹装軸 軸先象牙 渡辺華石鑑定箱 
全体サイズ:横563*縦1968 画サイズ:横431*縦1185

この作品は「若沖の鶏」、「光起の鶉」、「租仙の猿」などと並んで「秋暉の孔雀」と通り名で称され孔雀を描いた作品です。

松に鶴図 岡本秋暉筆絹本着色絹装軸修復時代箱入 
全体サイズ横672*縦1890 画サイズ横515*縦1265

この作品も鶴を描いた作品ですが、蒐集し始めた頃の作品ですが、なかなかの傑作と思っています。綺麗に撮れた写真ではないので、いつか再撮影して再投稿したい作品のひとつです。

人生で大切なものは骨董と評しているわけでありませんよ。人生はいろんな経験をしてなにが大切なのかを学び、大切にすることを学ばなくてはいけません。不思議なことに先天的に理解している人もいれば、なんども過ちを繰り返して苦労して学ぶ人もいます。当然、私は後者・・・。






忘れ去られた画家 鳥山石燕図(下絵) 高橋廣湖筆 その3

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本画の下絵ではないかと思われる作品ですが、よく描かれています。ちょっと不気味な作品ですが・・・。

鳥山石燕図(下絵) 高橋廣湖筆
紙本水墨着色軸装 杉合箱 
全体サイズ:横950*縦2110 画サイズ:横810*縦1445



「鳥山石燕図」は仮の題名です。妖怪画を多く描いた鳥山石燕を描いたものではないかという推察によります。歴史画を得意とした高橋廣湖ですので、ほかの題材の可能性もあります。



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高橋廣湖:明治8年生まれ、明治45年没、享年37歳。山鹿市松坂町で画塾を営む浦田家の長男として生まれる。本姓は。浦田久馬記。



初め父に雲谷派の画の手ほどきをうけた。父の浦田長次郎(号観松堂雪長・雪翁)は城北地区の神社の絵馬にその名前を多く残している。また、弟の浦田四郎(号廣香・湖月)は八千代座の天井広告画の絵を描いた。のち犬塚松琴に南画を、さらに松本楓湖の安雅堂画塾に学び、松本楓湖の名の一文字をもらい、明治33年に「廣湖」と号した(別号に天鹿)。

東京の有名な名妓で女優の今紫(本名高橋こう)が熊本市の東雲座で公演中、廣湖は舞台上で華麗に舞う今紫の踊りを毎日通いスケッチしていた。その絵を見た今紫に才能を認められ、明治30年に上京して養子となり高橋家を継ぎ、今紫は物心両面から廣湖を支援し、本格的に日本画の勉強を始める。このことは当時の新聞に美談として掲載され話題をさらった。

巽画会結成に参加。仏画、美人画、花鳥画、山水画、風俗画など幅広いジャンルの優れた作品を手掛け、とくに歴史画に多くの秀作を残す。巽画会の重鎮として尾竹竹坡と並称され、「馬上の誉図屏風」(小島家所蔵)「少将伊衡」「都の春」は代表作。非常に才能豊であった。

明治40年、第1回文展出品予定作品「平重盛讒言図」が、凝り性の廣湖のため制作が間に合わず、期限切れで出品不能となったが、のちに東京市長となった後藤新平が埋もれるには惜しい作品と評し、個展を開催するために奔走した。個展は新聞のトップをかざるなど非常に好評で、皮肉なことに個展会場前の美術館で開催された文展を上回る人気となった。

伝統的な日本画を基本に西洋画の表現を加味した和洋折衷の画風が特徴で、日本画に新たに境地を見出すなど、名実ともに日本画壇で地位を築いた。

また早描きの技も得意とし、相撲のスケッチや挿絵が新聞に掲載された。

横山大観たちとともに活躍したが、旅先の大連で猩紅熱にかかり、帰宅後に惜しまれつつ明治45年(1912)、わずか37歳の若さで急逝した。日本画家で同じ郷土熊本出身の堅山南風の師でもあり、日展の重鎮として活躍した浦田正夫の叔父である。

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妖怪などが身の回りにいるという作品ですが、生きるということは魑魅魍魎たるものと思えば・・。



魑魅魍魎たるものに惑わせれて生きてはいけませんね。



欲望や憎しみや恨みといった感情が心の隙間に入り込んできても打ち消す強さが必要のようですが、最近、テレビで松本清張の作品の見すぎ・・・



この作品が下絵とすると本画はそのような作品になったのでしょうか? 無論、印章だけが高橋廣湖とする根拠ですから別の画家の可能性もあります。



下絵といえどもかなりの大きさの作品ですが、粗雑にされていたようで痛んでいた作品を後日、表具したように思われます。

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鳥山石燕:正徳2年(1712年)頃に誕生。姓は佐野、諱は豊房(とよふさ)。字は詳らかでない。船月堂、零陵洞、玉樹軒、月窓と号す。

狩野派門人として狩野周信及び玉燕に付いて絵を学び、また、俳諧師・東流斎燕志に師事した。安永5年(1776年)に著した『画図百鬼夜行』により、妖怪絵師としての地位を確かなものとすると、同年、続けて『今昔画図続百鬼』を刊行。さらに安永10年(1780年)には『今昔百鬼拾遺』を、天明4年(1784年)には『百器徒然袋』を世に出した(これら4作品は全て3部構成である)。主に鬼子母神に奉納された「大森彦七」のような額絵や、『石燕画譜』のような版本が著名であるが、錦絵や一枚絵の絵師ではなかった。しかし、フキボカシの技法を案出、俳人としても広く活動した。

また、弟子も多く喜多川歌麿や恋川春町、栄松斎長喜といった絵師や黄表紙作者を育てた。天明8年(1788年)、死去。墓所は台東区元浅草の光明寺。法名は画照院月窓石燕居士。

石燕の描く妖怪画は、恐怖心よりもむしろ微笑みや奇妙さを誘う作風が特徴。石燕の画業は後世にも多くの影響を与えており、石燕の手による妖怪をモチーフにして創作活動を行う者もいる。現代日本人の妖怪のイメージは漫画家水木しげるの画に拠るところが大きいが、その画も石燕の作品に取材したものが少なくなく、日本人の思い描く妖怪の原型は石燕の著作に端を発するといっても過言ではない。

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この作品の題材にほかのものがあると心あたりの方がいましたら、コメントをいただけるとありがたいのですが・・。

高橋廣湖の本ブログに投稿された他の作品は下記のとおりです。

鯉之瀧登 高橋廣湖筆絹本水墨淡彩軸装箱入 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横420*縦1050

たしかもう一点あったはずですが・・・。



もっと評価されるべき画家 楼閣山水・花鳥図円窓図双幅 狩野永祥筆

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江戸期の絵画の主流であった狩野派・・、その実態を知る人は意外に少ない。その狩野派の中でもなじみの薄い京狩野派ですが、とくに幕末の京狩野派のことを知っている人などはかなりの日本画の通ですね。

最近投稿しました狩野永岳によって、幕末に一時的に復興したしたようですが、その後は衰退したようです。本日の作品は永岳の跡を継いだ画家の作品です。

楼閣山水・花鳥図円窓図双幅 狩野永祥筆
絹本水墨・着色軸装 軸先骨 合箱 
全体サイズ:縦1820*横460 画サイズ:縦990*横340


 
花鳥図と山水図を円窓に描いた作品。狩野永祥の山水画の画力は特筆すべきものがあるという評価があり、細密画の花鳥画は幕末に江戸狩野派もまたよく描いた作品のようです。



双幅や三副対の掛け軸、その用い方に日本独特の文化を見出すこともありますね。家内曰く「単品でも飾れそう、リバーシブルだね」だと なんか違うじゃない



淡彩の水墨と着色、古来の日本画と長崎派・・、いずれも源流は中国からの影響があります。



かたや円窓、かたや団扇のよう・・。




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狩野永祥:(1810年~1886年)狩野永岳の養子で、京狩野家第10代。代表作は離合山水図押絵貼屏風 (静岡県立美術館)。



幕末から明治初期にかけて、様々な作品を描きました。画業の詳細は不明で同時代の狩野芳崖に比べ無名ですが、力量は芳崖に決して劣らないと評されています。

京都国立博物館において開催された特別展覧会「狩野山楽・山雪」展では、狩野永祥の「雲竜図・縮写図」が出品された。姓は堀内、号は山菴。狩野永岳に画を学び、父永信の後を嗣ぐ。明治19年(1886)歿、75才。

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狩野永信の跡を継いだ??? 京狩野家には10代が二人いる??? この辺の事情は調べてみないとよくわかりませんね。

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狩野永信(えいしん):江戸後期の画家。京狩野家10代とも称されるが詳細は不明。9代永岳の養子。号は玉円・山陽、字は交遊。天保頃(1830-1844)の画家。


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京狩野(きょうがのう):安土桃山時代末から明治期まで京都で活躍した画家の流派。豊臣氏滅亡後、狩野派のほとんどが江戸に下ったことに対して、京都に留まったため、京狩野と呼ばれるようになった。

初代狩野山楽、2代狩野山雪を輩出。また3代狩野永納は日本初の画伝書『本朝画史』を著した。豊臣秀吉没後、狩野家の大部分は徳川に仕え、徳川幕府を頼って江戸に下った。狩野宗家を含めてこの一派を江戸狩野という。しかし、秀吉の寵愛を受けた狩野山楽は、そのまま秀頼に仕えた。このため豊臣氏滅亡後、幕府から嫌疑を掛けられてしまうが、松花堂昭乗、九条幸家のとりなしによって恩赦を受け、そののちは九条家や本願寺の御用絵師として京都を中心に活躍する。

2代山雪以降、装飾的な桃山の画風を代々受け継ぎ公卿衆や寺社に仕えるも、幕府の手厚い庇護を受けた江戸狩野と比べるとその勢いに大きな隔たりがあった。また宮廷の御用を得ていたものの、土佐家、鶴沢家に続く家柄でその境遇には大きな格差があった。3代永納は山雪の遺稿を元に日本初の画伝書『本朝画史』を著したが、これは室町時代以来の狩野家の正系を主張する目的もあったようだ。

4代永敬は、近江日野の高田敬輔を指導。この高田敬輔の門下から、曽我蕭白や月岡雪鼎、島崎雲圃という近年評価の高い画家が輩出した。流派はしだいに低迷したが幕末9代狩野永岳の代に一時的に復興する。しかしそれも長く続かず明治を迎えると急激に衰退した。12代にて終焉となる。

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鉢を狙う鳥の一瞬の緊張した瞬間・・。虫にとって平和な時が一瞬にして消える・・。














雪舟の技法を蘇らせた見事な小品、ただ一人描かれた人物に時の流れを感じさせる見事な佳作。



長い間の狩野派の沈黙を破った近代絵画の展開を見せ始めた作品といえます。再評価されるべき画家の一人であると思います。












鉄繪花瓶 浜田庄司作 その25

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息子ももうすぐで生まれて一歳になります。ハイハイが早くなり、どこに行くのにもついてきます。とてもかわいい?のですが・・。パソコンに向かってブログに投稿する原稿を書いていても、足元でズボンを引っ張る始末。拙い文章がますます時間がなく、脈絡なく投稿する羽目になっています。

知人から譲っていただいた作品以来、魅せられ続けている浜田庄司の作品・・。ただ未だに贋作が横行していて、たとえばネットオークションを見てみると、そのほとんどが贋作です。浜田庄司の作品はおおらかさと同時にその作品に隙がありません。形、箱書、印章、朱肉と判別の手立てはいくつかありますが、基本的に作品から感じるものが違うのです。

目新しい作品ではありませんが、よく見かける鉄絵花瓶を見てみましょう。

鉄繪花瓶 浜田庄司作 その25
共箱
最大胴径130*高さ276*口径106*底径105

使われている釉薬の味わいが違いますね。



解るかな~



裏面の鉄絵の味わいが違います。隙がない、熟練した筆捌き・・、修羅場をくぐった剣豪にあったよう・・。



堂々としたフォルム・・。



媚びたところが一切ない。沖縄やヨーロッパなどいろんな窯で経験したものが出ている。



作品には銘がないので共箱は一応重要・・、ただ経験を積むと不要・・。



底や口のつくりにも勢いがあり、隙がない。うっすらと指の跡。



このような美を理解できるのは、侘びさびを理解してきた日本人だけかもしれません。



経験も含めて、人とというものが違う。河井寛次郎と浜田庄司・・、この二人は日本が生んだ偉大な民芸家です。

よく見かける花瓶で、値段も手ごろになってきた浜田庄司の作品です。


糸目千筋溜塗小吸物椀十客揃

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仙台の義妹から電話あり・・、愛犬の「木米」が亡くなったとのこと。15歳か~、結構長生きしたほう、黒パグでなかなかかわいかった。いろいろとお世話になりました。とうとう、息子とは対面適わず・・、合掌あるのみ・・。

茶懐石には簡素な器がいいですが、少しは洒落たものが欲しい。そこで手に入れたのが本作品。溜塗が味があっていいですね。糸目と溜塗のコンビネーション・・、あるようでないかも・・。

糸目千筋溜塗小吸物椀十客揃
径84*高さ88



糸目:熟練の木地師によって、きれいな筋目がついているのが特徴です。この凹凸があるので、手に滑りにくく、持ちやすい形です。

溜塗:赤い漆の上に透漆をかける

千筋:細長い糸状のものがたくさんあることをいう語。あるいは経(たて)糸二本ごとに色の違う細い縞。




家内曰く「どうしたの? 急に懐石道具・・」だと。子育てで忙しくそれどころじゃないらしい?? でもこの碗を見るなり「いいじゃない、糸目は遠州流好みだよ。」だと・・。遠州流好み・・、どうしてそう流派により縛りがあるのだろうね~。これが茶道をつまらなくしている最大の原因。

飯碗や皿などは古いものが未整理のまま朱塗やら真塗やらたくさん郷里の蔵の中にあります。通常の休暇ではとても整理しきれない、ひと月くらいの休みをとってもきっとまだ足りない。リタイアししてのお楽しみ・・。そろそろ・・。

ついでに箸置・・。

輪島 漆光堂製 箸置十客揃
長さ250*高さ12



家内曰く「茶懐石には箸置は使わないわよ」だと・・。そういえばお盆の縁に箸の先を置いて、食事が終了すると音を立てて端を置く・・、それが食事終了の合図という変な風習が茶懐石にある



さて今日は朝から関東関連の現場への挨拶回りです。木米の写真を用意し仏壇に飾る準備は帰宅後です。黙祷・・。



一昨日、火葬が終わって仙台に埋葬とのこと、出張で仙台に行く時には墓参り・・・、ありがとう。ダイゴロウ(木米の兄貴分)、木米・・、君らは箸を置いたのか・・、飯はうまかったか?

真塗 高杯菓子皿十客揃

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先週は最後に関東圏内の現場への挨拶廻りでした。一日、挨拶回り後、大宮で一年の厄落とし・・。



本日の作品・・これは骨董品? ・・ではないようですが、ちょっと出来心で購入しました。茶室を作るのでちょっと家内への手伝い?で、懐石の道具を揃えようかと・・。家内曰く「こんなの使う?」だと

高杯というと仏壇にあげるなが~い足のついた菓子皿・・というイメージですが、実用的には足の短い安定したものがよいでしょうね。貴人用の高杯菓子皿のなが~い足が付いていますが、これは仏や貴人に対する敬う心の現われらしい。仏具としては日常的? すくなくとも我が自宅では常に使っています。

真塗 高杯菓子皿 十客揃
口径112*高さ86 木地漆塗



高杯は干菓子器に向いていますが、客が少人数のときや貴人の場合は、高台がついてたほうがなんとなく品がありそうでいいように思います。下手な蒔絵のあるものより真塗のほうがいいようにも思います。そう、塗物の蒔絵は最近の作ではいいものがなくなりましたね。絵の修行が足りないように思います。柴田是真のように徹底した絵の修行が蒔絵には必要のように思います。



家内曰く「贈答用の作品の需要が少なくなると、塗り物の作品の質が落ちてくる」・・、いろんな意味で贈答品の果たしていた役割が希薄になってきています。その代わりといってはなんですが、故郷納税のようなものの役割が地方の特産には必要になってきています。

先日の首都圏ふるさと会の会合でも「ふるさと納税のキャンペーンはどうなっている・」と聞いたら早速パンフレットを送ってきましたが、その特産品のカタログが非常にお粗末なもの・・。もっと地方の特産品をPRするやりかたを考えたほうがいい。寸法や使い方、同じ品物でも違う工房だと表現が違う 曲げわっぱの弁当箱がいいな~と思うとかたやMMの寸法、かたやmlの容量表示・・、いったいどっちが大きいの???



でもふるさと納税、おおいに利用しましょう。首都圏集中では日本は滅びますよ、地方創生は急務ですが、都会に住む我々にもできることから手をつけましょう。

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高杯(たかつき):椀形や皿形の器に脚がついたものをいいます。 高杯は、元は食物を盛る土器の下に木の輪の台を置いたもので、台も土器にして作り付けにしたものを土高杯といい、後には木製や塗物などになりました。またそれに倣った陶磁もあります。

『貞丈雑記』に「たかつきと云は、食物をもるかはらけの下に、わげ物の輪を置たるを云也。つきと云は杯の字也。土器茶碗などの類を、すべてつきと云也。かわらけの下には輪を置て、杯を高くする故、たかつきといふ也。大草流の書に、式三献の折敷高つき也とあるは、右の土器の下にわげ物を置く事也。今時如此なる物を、木にて作りて高杯と云も、かわらけの下にわげ物の輪を置て、高くしたる形をまなびて作り出したるなり。」とあります。

真塗:黒色の漆(うるし)で塗ること。また、その塗り物

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黒い漆器と赤い漆器・・・使い分けがいまひとつ解りませんね。葬式は黒、結婚式は赤、法事は赤・・・。茶懐石はなんでもありか?



赤い器は黒に赤をのせた根来のような塗が味わいがあっていいですし、木もしっかりとした厚みにあるものがいい。

日本人よ・・、日本古来のいいものを自信をもって使おうではありませんか。故郷を創生はすべては国民の足元にあるような気がします。

それとものづくりこそ日本の心であるのに、ものづくりの基本を忘れているように思います。

モノづくりは創意工夫、個でなく組織で、そして愉しく、モチベーションを昂揚して・・、責任回避、失敗は懲罰主義、下請いじめ、問題の先送り・・・これではものづくりの現場からひヒトがいなくなる。



忘れ去られた画家 舞美人図 池田焦園筆

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週末の土曜日は施設に居る母を訪ねてきました。元気そうでしたが、おばあちゃんやら看護師さんから幸紀はモテモテ・・。



「三都三園」と称する女流美人画家三人をご存知でしょうか。一応、画家の分野ではよく知られている言葉です。その三人の中ではもっとも早世しており、なんと33歳で亡くなっており、もっとも惜しむべき画家の一人です。

舞美人図 池田焦園筆
絹本着色軸装 軸先塗 鑑定箱 
全体サイズ:横552*縦2200 画サイズ:横415*縦1100



箱書については詳細は不明ですが、昭和20年晩春とあり、、まだ戦時中の箱書と思われます。

箱の表には「女流□□池田焦園先生舞美人□□」とあります。裏には「焦園池田百合子東京人本姓榊原池田輝方妻□□年方門美人画□□京都上村松園と双璧也 大正六年没享年三十二昭和二十年晩春 ・・・押印」 なんとも読みにくい字・・。

 

「京都上村松園と双璧也」と・・、たしかに当時はそのように高い評価を受けていたようです。




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紅葉紋様の着物のあでやかな逸品といえます。

池田焦園:(1886年5月13日 ~ 1917年12月1日)明治から大正にかけての女性浮世絵師、日本画家。本名池田(旧姓榊原)百合子(あるいは由理子)。夫も日本画家の池田輝方日本画家。水野年方、川合玉堂に師事する。



文展等諸種の展覧会に出品し、多くの賞を得た。烏合会会員。大正6年(1917年)没、享年33歳。明治、

大正、昭和初期の近代日本画において美人画のジャンルは絶頂期を向かえ、その中でも女流画家の活躍はめざましいものがあったが、「三都三園」とはそんな近代女流美人画家の代表的な3人を称しますが、京都の上村松園、東京の池田焦園、大阪の島成園がその3名で池田焦園があげられています。ただし島・池田とも松園にあやかって園の文字が使われたとのことです。

明治に始まる東京画壇の鏑木清方、池田輝方と池田焦園の夫婦などは浮世絵の美人絵を清新な時代感覚で蘇生させようとした画人達であり、伊東深水などに受けつがれて、これらの人々は近代美人画の主流となっていきます。

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実に興味深い話・・。

池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と池田輝方が失踪。この出来事の顛末は田口掬汀による連載記事「絵具皿」で万朝報に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれています。八年後、放浪生活から戻った輝方と結婚しましたが、両名ともに早く亡くなっています。




女流美人画家は恋多い。上村松園もしかり・・。未婚の母ですから・・。人生は悔いが残っても、悔いがなくても? 思い切り生きたほうがいい。順風満帆な人生は終わってみれば意外につまらないもの。


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池田焦園の補足説明

1886年(明治19年)5月13日、東京・神田雉子町に、榊原浩逸、綾子夫妻の長女として生まれる。下に一人の弟、三人の妹がいる。父浩逸は旧岸和田藩士であったが、慶應義塾で福沢諭吉に学び、彼の勧めによりアメリカ・ラトガース大学に留学して鉄道を研究、日本鉄道に勤務したのち、岩倉鉄道学校(現在の岩倉高等学校)の幹事となった人物。母綾子は実業家にして歌人でもあった間島冬道の娘で、和歌や書に優れていたほか、1876年(明治9年)ごろからは国沢新九郎の主宰する彰技堂画塾に入門、国沢のほか本多錦吉郎にも師事して洋画を学んだ経験を持つ。夫妻は鹿鳴館にも出入りしていた名士であった。



1893年(明治26年)4月に両国の江東小学校に入学、1895年(明治28年)には一家が麹町区富士見町に転居したため、富士見小学校3年に編入。この頃より草双紙の絵を石版に描き写すなどして画才を発揮し始める。1898年(明治31年)4月に女子学院(現在の女子学院中学校・高等学校)に入学、当時開明的とされた教育を受けるが、1901年(明治34年)、学業のかたわら15歳で日本画家・水野年方(1866-1908)の主宰する慶斎画塾に入門。蕉園の号は、上村松園に憧れる百合子に、松園に負けぬ美人画家になるようにと、師年方が与えた。入門翌年1902年(明治35年)ごろに「桜狩」を発表して画壇デビュー。この頃より同門であった池田輝方と相思相愛の間柄となり、学業を放棄。1903年(明治36年)からは、同門であった鏑木清方が主宰する研究グループ・烏合会に、村岡応東、吉川霊華(1875-1929)らとともに参加してさらに研鑽を積む。同年第9回絵画共進会で「つみ草」が、第10回の同会では「夕暮れ」が入選。



1903年(明治36年)師の立会いのもと、池田輝方と婚約するも、その直後に輝方は別の女性と失踪、この出来事の顛末は田口掬汀による連載記事「絵具皿」で万朝報に報じられ、広く話題となった。蕉園は悲しみのあまりしばらく作品制作から遠ざかったほどであったが、こうした経験がもたらした苦悩と、水野から学び受け継いだ浮世絵風の造形美が、独特の甘く感傷的な作風へと昇華されたといわれ、3年間のブランクの後、1906年(明治39年)に美術研精会に出品した「わが鳩」で研精賞碑を受賞、橋本雅邦に実力を認められる。1907年(明治40年)、21歳で東京勧業博覧会に『花の蔭』を出品して2等賞、同年秋に開催された第1回文部省美術展覧会(文展)では「もの詣で」で3等賞を受賞。




1908年(明治41年)の第2回文展には「やよい」を出品して3等賞を受賞。この年には師・年方が死去したため、翌1909年(明治42年)からは川合玉堂に師事し、鈴木華邨にも指導を受ける。こうした研鑽の甲斐あってか、この前後の数年間は彼女の全作品の半分以上が集中して生み出され、完成度の高い力作も集中する充実期となった。同年刊行の泉鏡花の『柳筥』の挿絵が知られており、同年の第3回巽画会展へは「帰途」、やはり同年の第3回文展に「宴の暇」、1910年(明治43年)の第4回展に「秋のしらべ、冬のまどい」、1915年(大正4年)の第9回展に「かえり路」を出品してそれぞれ3等賞、1916年(大正5年)の第10回展では「こぞのけふ」で特選を受賞し、1912年(大正元年)の第6回展第2科の「ひともしごろ」、1914年(大正3年)の第8回展の「中幕のあと」はともに褒状を受けた。1910年(明治43年)の日英博覧会には「紅葉狩」「貝覆」の二曲一双屏風を出品。1911年(明治44年)の第1回東京勧業博覧会へ出品した「夢の跡」では、「朦朧派」の影響の下、人物の目元などにぼかしをかける叙情的な表現が用いられたが、これは伊東深水、竹久夢二などの追随者を生んだ。

この活躍により、同様の動きを見せていた京都の上村松園とともに「東の蕉園、西の松園」「閨秀画家の双璧」「東西画壇の華」とされた他、のちには大阪の島成園を加えて「三都三園」と呼ばれたりもした。こうした一方で泉鏡花の『柳筥』『白鷺』の口絵を手がけ、徳田秋声の『誘惑』、雑誌「女学世界」「女鑑」「少女世界」「少女画報」などの挿絵も描いた。蕉園自身は泉鏡花の文学の熱烈なファンでもあり、1908年(明治41年)には彼を支持する人々の集まり「鏡花会」に参加。泉本人のほか、長谷川時雨との交友も盛んとなった。このほか観劇、邦楽などの愛好家としても知られた。




1911年(明治44年)、放浪生活から戻った輝方と結婚、輝方も蕉園同様に文展で受賞を重ね、夫婦で屏風や双幅を合作したりもして、「文展のおしどり画家」と呼ばれた。1914年(大正3年)には再興・第1回日本美術院展(院展)に輝方の「お夏」とともに「おはん」を出品しているが、これは二人のただ一回の院展出品となった。そのころには国民的名士として知られ、上流階級の夫人、令嬢を多く門弟としたほか、大正天皇の前で絵を描いてみせたりもし、作品は高値で買い取られた[4]一方、文展には多くの模倣作が溢れて識者の顰蹙を買い、私生活での行動までもが人々の興味の対象[5]となった。1916年(大正5年)の第10回文展での特選受賞は夫婦揃ってのものだったが、蕉園はこの翌年1917年(大正6年)に結核に倒れ、夫輝方の献身的な看病もむなしく、やがて肋膜炎を併発、同年12月1日、31歳で死去。犬養毅、当時の皇后宮大夫、文部次官など政、官界の要人、高村光雲、鏑木清方、徳田秋声、松岡映丘ら多くの美術人、門弟、愛好家たちが参列する盛大な葬儀が営まれ、谷中墓地に埋葬された。法名は「彩雲院蕉園妙観大姉」。夫の輝方も4年後の1921年(大正10年)に38歳で没した。弟子に、木谷千種、松本華羊、ポール・ジャクレーなど。

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鷺之図 柴田是真筆 その9

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鷺の図・・、本作品が贋作なら「詐欺」だね。なんという親爺駄洒落が出そうな作品・・。

鷺之図 柴田是真筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先本象牙 鑑定箱入
全体サイズ:縦2033*横577 画サイズ:縦1103*横433



落款には「行年八十一歳翁」とあり、明治20年(1887年)の作品と推察されます。

 

印章は晩年によく用いられた朱文白方印です。箱にある鑑定者「□堂 押印」については不詳です。

 

だいぶ痛んでいた作品を表装したものと推察されます。



席画のような作品ながらいい作品だと思います。



作品の前で幸紀も大はしゃぎ・・・。「いいじゃん」と言っているらしい。



改装した表具もなかなか・・。



龍・・・。



このような軸先はよくあります。



いい掛け軸は持った瞬間に軸の部分が重く感じる時があります。さ~て、本作品の真贋や遺憾・・、もとい如何?

秋江舟旅図 高倉観崖筆 その2

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グループ経営というホールデイング的な経営の考え方と独立採算という自立性の高い採算性の考え方は多くのケースで相容れないことが非常に多い。独立採算制というには、メリットが多くその経験を踏まえた人はその域を脱し切れないでいます。もっと広い視野で物事を考えることが必要なのですが、そこには寛容性と正しいホールデイング的な経営方針と実践が伴います。個々のばらつきが大きくなり、人材が不足し、コストが厳しくなったときには独立採算制というのはリスクが高い経営方針です。多角的で汎用性の高い組織運営のほうが適切のように思うのですが・・。何事もハードルが高いとやりがいがあるというもの

九州出身や九州にゆかりのある画家は非常に多い。一度、整理したものを見てみたいと思うのですがなかなかないようです。福田平八郎、田中一村、高山辰雄、青木繁、坂本繁二郎など枚挙にいとまがない。古くは長崎派、田能村竹田など江戸期に至っては九州抜きでは日本絵画史は語れない。私が九州出身なら愉しくて仕方がないのだが・・。

陶磁器にしても古伊万里、鍋島、薩摩焼、古九谷など実に豊富で、骨董の宝庫といえます。

ただし、贋作が一番多く、贋作にだまされるのも九州人が多いと聞いていますが、真偽のほどはよくわかりません。

秋江遡上図 高倉観崖筆 その2
絹本着色軸装 軸先骨 合箱
全体サイズ:縦2090*横660 画サイズ:縦1600*横520



朱文白方印「観崖」が押印されています。



中国の蘇州にある河口の風景と思われまが、詳しくは箱書きなどがないのでわかりません。



印象は文献にて確認済みです。高倉観崖には贋作は見たことがありませんが、一応確認は必要でしょう。大分のホームページに掲載されています



その1の作品は水墨画でしたが、今回の投稿作品は着色画です。一見異様に見えるのは川の流れを茶色で着色されていることによります。実際にこのように見える実写のように思えますが・・・??



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高倉観崖:日本画家。明治17年(1884)大分県生。名は孫三郎、通称は宏明。1901(明治34)年、京都市立美術工芸学校に入学して竹内栖鳳、菊池芳文、山本春挙等に学び、卒業後の1914(大正3)年、第8回文部省美術展覧会(文展)で「鴨川の春」が初入選。以後、文展には1916、18年にも入選。

数回にわたり中国に遊び、『蘇江所見』を出版した。また画のかたわら俳句もよくした。観崖は大正から昭和前期にかけて、京都や大分を拠点として、大分県美術会や国際温泉博覧会美術展等に出品した他、同郷の後輩である福田平八郎や幸松春浦、溝辺有巣等と交流をもち、福岡や愛媛で画会、個展を開催して近代日本画を描く一方、新南画風の作品を制作。昭和37(1962)年歿、74才。

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描き方を愉しむのは日本画鑑賞の愉しみです。



琳派のような滲みのある描き方・・。



波はやっぱり茶色かな~、実景・・??



新南画風??  掛け軸はガラス越しの美術館では充分に愉しめませんよ。自分で買い求めることが一番です。



骨董というものもホールデイング的に考えたほうがいい。日本画だけというコレクションは危険性が高い。日本画、洋画、陶磁器、漆器というジャンルに多角的にコレクションしたほうがいいというのが小生の考え方です。真贋の見極めだけを考えると危険性が高いのですが、収支から考えるとリスク分散できます。各々のエキスパートを集めれば真贋に対応もできます。骨董に限らずホールデイング的な考え方にはエキスパート育成が不可欠です。ただし小生は一人で蒐集しています




雪景山水図 宗重望筆

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先週の日曜日には選挙の帰りに家内に誘われて、近所の長屋門を見てきました。



昔はこの付近は大きなお屋敷がたくさんあったらしい・・。



わりとメンテされているようですが、物置になっているようでした。私ならもっとほかに利用していますが・・。単に古いまま遺すにはなにか違うように思います。



組織も同じですが、いつまでも同じままでは死んで行くのみ。常に変革が、活性化が必要です。文化財とかうしばりの指定の代物は邪魔くさい。

組織もそのまま順調だからといって何もしないとと大きなしっぺ返しがくるものです。しまいにはなぜこうなったんだろうと・・。

本日も九州出身の画家・・、というより対馬藩主の作品です。画技は余技であったらしい。本職は貴族院議員。

雪景山水図 宗重望筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横445*縦1890 画サイズ:横340*縦1175



下村観山が「彼(宗重望)が画を業としたのであれば、玄人はさぞ難儀するであろう。」と語っているほど画の才能に恵まれており、中国に渡航した事のある経験から、中国の風景を描いた山水画を多く残しています。



本作品は雪が沢山降り積もった描写が見事に描かれている作品で、雪の柔らかさを感じる事のできる描写も実に見事です。現在では宗重望(星石)の作品は貴重となっています。



賛には「遊印押印 白晩浮雲□正平 北風□□□□□ □□一松清□眊 □□杉□□□□ 星石仙史 押印」とありますが、ん~、読めないな~



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宗重望 (そう-しげもち):1867-1923 父親は対馬藩の最後の藩主・宗義達。第34代対馬藩主。明治-大正時代の華族。慶応3年7月27日生まれ対馬(つしま)(長崎県)府中藩主宗重正の子。日清(にっしん)戦争の際,対馬義勇団を組織。




明治31年宮内省式部職掌典,37年貴族院議員。伯爵。文人画に造詣が深く東京南画会に所属し、中央南宗画会会長をつとめた経験があるほど、南画に優れた才能を見せていましたが、本業は貴族院議員。得意としたのは山水画で、中国の山々から日本の山々まで多くの作品を残している。大正12年3月26日死去。57歳。号は星石。別号に白雲山樵、小雲山房主人、疎雨亭など。


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家内曰く「この作品、ブログに新たに投稿するの? 前に見た気がする。この構図は・・。」だと。鋭い、この構図は南画ではよくく画題ですね。



実によく描けていて、見ていて飽きがきません。



余技だからこそ描ける境地が南画にはあるという模範のような作品です。大切にしたい一幅です。



源内焼 その47 三彩陽刻草紋鉢

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忘年会続きです。昨夜が最終かな? 前の会社の同僚やら、今の会社の同僚やらがメインで、一昨日は家内のお茶仲間と夜噺茶会に参加しました。幸紀と小生が正客・・、ぐずって正客どころではありませんでした 同席の方々にはたいへんご迷惑をおかけしましたが、リンク先の家内が記述しているようにいいお席だったと思います。



本日は久しぶりに源内焼の作品の投稿です。

どうも源内焼の値段が高くなり、気軽に購入できなくなってきました。もともと地図皿などの人気のある作品は手が出なかったのですが、ちょっと大き目の作品や出来のよい作品は値段が高くなってきたように思います。

家内曰く「ブログに投稿するからよ。」だと・・

たしかにヤフーで「源内焼」で検索して、検索された画像を見ると、本ブログの作品が圧倒的に多いようです

値段が高くなっても、源内焼の人気が高まるならそれでいいと思いますが・・・・

ただ、ヤフーオークションを見てみると、源内焼とはまったく違う焼き物を多く出品されていて、これが源内焼かと勘違いされている方が多いと危惧しています。

源内焼 その47 三彩陽刻草紋鉢
合箱
径143*高台径83*高さ55

それほど大きな作品ではありませんが、どの図録にも掲載されていないので珍しいかも・・・。



緑釉を基調とした三彩の源内焼。内側の見込みの底の紋様が不鮮明で釉薬の剥げているのが難点です。

縁には陽刻の文様が全体に施されていますが、黒の釉薬が散在しているのも難点です。外側はシンプルに緑釉ですが、口縁に補修跡が見受けられます。



源内焼は平賀源内が中国からの輸入品であった「交趾焼」が高く売買されているのをみて、日本の通貨が海外に流出することを憂い、作陶を考案したと伝えられています。というより、いい商売になると思ったのではと・・・



浮世絵の鈴木春信の工房にて彫師に型の製作を依頼するという、日本独自のものづくりのアイデアが詰まっています。




売り先は大名や金持ちの商人というように、商売上手なところが多少、気にかかるところですが、それゆえ多くの作品が遺ったともいえます。もともと作品の数が少ないので、希少価値もあり、所蔵者が外部に出さなかったこともあり、古九谷のように知名度は高くないのが源内焼です。



本ブログで説明のとおり再興されましたが、再興されたものの技術があまりにも稚拙なため、同じく再興された九谷ほど知名度と人気が出ませんでした。



本作品は釉薬の剥げなどがあり、黒釉薬の飛びなどがあり、入手は数千円・・。購入時の写真は下記のとおりです。



痛んだところの補修は自分で行いました。とても柔らかい軟陶なので使い勝手は多少悪いのですが、面白い陶磁器群には相違ありません。



型での紋様もよく見ると緻密であり、底の部分は星型になっています。虹彩の発色もみられ、釉薬の眺めも古九谷同様の味わいがあります。



忘れ去られた画家 楊柳観音図 鬼頭道恭筆 その2

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週末は家内の実家から現場巡り・・。

コンビニ建設途中・・、事業主は我が息子。息子の代わりに現場監督。



午後からは補修工事の完了現場へ・・、街はクリスマス気分。



仕事ついでに、子どもを義母と義父が面倒をみてくれているので家内とお茶・・。



さて年末を迎えてなにかと慌しいこの頃です。仕事以外に帰省の準備もあり、年賀状もあり、忘年会もあり、相変わらずの子守あり・・・・、ブログの原稿の纏める時間がない 

そのせいかどうかわかりませんが、一日あたりの本ブログの訪問者数が250人になかなか復活しません。ま~、かなり専門的な分野のブログですから、文も稚拙ゆえやむ得ますまい

本日は仏画を得意とする鬼頭道恭の作品です。以前に弟子の奥村恭法の作品を投稿したことがあります。本作品はその奥村恭法が箱書をしている作品です。

楊柳観音図 鬼頭道恭筆
紙本水墨軸装 軸先木製塗 奥村恭法鑑定箱
全体サイズ:縦2050*横430 画サイズ:縦1200*横295



鬼頭道恭を知らない方も多いと思いますが、仏画を能くし、明治にはその第一人者となった画家です。意外にお値段も高い?? 仏画では他に山崎弁栄という画家もしますが、こちらはもっと評価が高いらしい・・。いずれも今では知る人ぞ知るという画家になっております。



軸の下の部分に墨が撥ねて汚したような跡があります。それゆえ廉価にて購入できましたようですが、これは表具の天地交換でうまく安く直ります。

本作品は鬼頭道恭の二作品目の投稿となります。

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鬼頭道恭:1840-1904 幕末-明治時代の日本画家。天保(てんぽう)11年生まれ。森高雅(こうが)に入門,京都に出,巨勢(こせ)派の北村季隆に仏画を,岡田為恭(ためちか)に土佐派の技法をまなぶ。郷里名古屋で仏画を専門とし,身延山(みのぶさん)久遠寺(くおんじ)六角堂内の装飾絵を完成した。明治37年4月15日死去。65歳。字は一斎、通称は玉三郎。

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奥村恭法:慶応元年愛知県生まれ、名は環次郎、没年不詳。鬼頭道恭に師事。道恭亡き後、仏画の第一人者と称せられ、各博覧会に出品して銀賞銅賞を受け、また褒章される。昭和10年には元老大家として中京画壇に重きをなした。





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楊柳観音:(ようりゅうかんのん)は三十三観音の一。病苦からの救済を使命とする。右手に柳の枝を持つことにより楊柳観音と呼ばれる。この観音は画像に描かれる例が多く、絵画では座右の水瓶に柳の枝をさすこともある。絵画として描かれたものでは、高麗仏画の遺品が著名である。日本国内では、1391年(明徳2年)に寄進されたと伝わる鏡神社(佐賀県唐津市)所蔵の「絹本著色楊柳観音像」(国指定重要文化財、制作は高麗と推定)がある。



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人は自分、もしくは大切な人が病になった時にはときとして信心深くなるようですが、日頃から信心深いことが大切だと思います。




いつまでも自分も大切な人も健康だとはいかないのが世の常です。そのときの覚悟、そうなることを少しでも遅くするという心構え、そして現在の健常者という感謝の気持ちが祈りとなって、周囲の人を大切にすることとなるように思います。



夫や妻、果ては我が子まで殺害するような殺伐としたニュースが流れるこのごろですが、いま少し日本人は信心深くなる必要があるように思います。信心の証の為にも早めに天地交換したいと思います



信心の証となるひとつを実践することが殺伐とした東京というこの都会には必要なことのように思います。


リメイク再投稿 影青

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なんとなく本ブログを見直していたら、意外に「影青」と呼ばれる器の数が多いことに気がつきました。古いものや新しいものが混在している可能性がありますが、ちょっと整理してみました。すべての作品が現在は手元にあるわけではないので、ブログからの写真を転用しています。

常に蒐集作品は整理し、勉強していないと逆に蒐集の質が低下することすらあります。「買うべし、売るべし、休むべし(勉強するべし)」が骨董蒐集の大原則ですね。

「影青」というと最近は出光美術館に陳列されていた作品を思い出しますね。



東京美術倶楽部で開催される骨董店の中国陶磁器になども出品されていることがありますが、十数万くらいが相場のようですが、出来のよいものは少なく、出来のよいものはいかほどの値段かはわかりかねますが、かなり高いかも。

本ブログ掲載作品としては

影青刻花輪花皿合箱入
口径150*高台径450*高さ45



そもそも影青というものはなにか?

インターネットからの引用を羅列すると下記のように掲載されています。

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青白 (ちんぱい) ともいう。白色素地に淡青色の釉 (うわぐすり) をかけた白磁。素地に施した彫刻文様の彫り込み部分などに,釉が透明な青白色にたまってみえることによる名称。中国,宋代の江西省,景徳鎮窯で大量に作られており,その始りは宋代以前にさかのぼるといわれる。

淡青色を呈する白磁の一種。青白磁とも。宋~元代にかけて中国江西省,福建省,広東省一帯で多く焼かれているが,宋代景徳鎮窯の作品が特にすぐれる。文様のないものもあるが,一般に影青とは釉(うわぐすり)の下に美しい彫り文があり,その部分が影のように青く見えることからの名称。

中国宋代,江西省景徳鎮で焼かれ始めた磁器。白色半透明の薄い胎土にわずかに鉄分を含む透明の釉(うわぐすり)をかけたもの。模様部に釉がたまってほかの部分よりも青く見える。青白磁。白青磁。

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どうも彫りがあり、その部分が青く見える磁器らしい。

問題はその時代のを見解るかですが、次に時代の見分け方は??

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<北宋 青白磁の特徴> → 中国陶磁の鑑定と鑑賞 常石英明著 より

(1) 北宋朝がが北方民族に滅ぼされた時に、北宋朝の官窯、定窯に従事していた陶工達が景徳鎮に移住してきて作陶したと言われる作品です

(2) 土は景徳鎮近くのカオリンから算出され、含有鉄分が少なく純白で、耐火度が高いので薄作でも焼成中に歪んだりへたる事がなく姿が崩れず、古来中国随一の磁土と言われています

(3) 作柄は薄作で、碗、皿、鉢などは器を通じて向こう側が薄く見えるほどです

(4) 素地には簡単ですが、丁寧な陽刻、陰刻などが施されています
    多くは片切り彫りです

(5) 釉色は透明な微青色で、下地の文様の凹凸によって淡い青色は濃淡を異にしていて、全体的に非常に清涼感がみなぎり、いわゆる淡い雨過天晴色に近く、欧米の学者は古作の柴窯系であるとさえ論じています

(6) 器種は碗、皿、鉢、合子、水差し、小壷などの日常品から装飾品まであります

以上ですが、唐時代の青白磁は、後代のものに比較すると青味が少なく、柔らか味があり、やや厚造りで、おっとりしています。北宋時代の青白磁は紙のように薄造りで、しかも鋭さのある技術の冴えを示していて、素地には丁寧な陽刻、陰刻などが施されています。釉色は、透明な水色で、濃淡の差は少なく、調和がとれていて、清涼感と気品が溢れています

南宋時代にはいると厚造りになり釉色は透明度を欠き、丸みを帯びてきて鋭さがなくなってきます。

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これだって、真似る輩はたくさんいる・・、わかったようで解らないのが陶磁器の骨董。

なんでも鑑定団で「影青」の器に高値がついて、物議を醸し出しました。「そんなに高いはずがない。」と・・・・。これは北宋時代の作と断定したものからでしょうが、ちと高いかな。

時代が下がって南宋や元の頃になると安くなるようですが、50万はまだ高いと思いますね。

本ブログの下記の作品は南宋時代かな?

影青刻花碗 その2合箱入
口径176*高台径59*高さ69



下記の作品は完全に南宋時代・・??

影青刻花碗(宋時代)
口径182*高さ67



作品としての出来は完璧です。

この作品は白磁としての出来もいまひとつで、元の頃?

青刻花文輪花碗 その2箱入
口径151から154*高台径45*高さ43



下記の作品は汚れもひどく、最初は模倣品として投稿しましたが、どうも北宋の作品に近い出来ですね。発掘品かもしれません。

倣青白磁(影青)刻花文輪花碗→「倣」除去
化粧箱入
口径160*高台径49*高さ40



下記の作品は厚作りとなり南宋以降・・。

青白磁印花草花紋皿口径150*高台径57*高さ36



下記の作品もまた南宋以降の作品でしょうが、よく見かける作品群です。本ブログにも近似した作品が他にも投稿されています。

影青劃花輪花碗合箱入
口径115*高台径*高さ42



下記の作品群は近代作か?

影青陰刻草花文様輪花碗口径180*高台径*高さ50



下記の作品はもう薄いだけですが、このような器を影青の逸品と思っている人も少なくないようです。

青白磁草花文輪花鉢口径190*高さ64*高台径65

中国陶磁器は真作、贋作、模倣品などさまざまな作品が存在する魑魅魍魎たる作品群です。

いずれにしても使うのが愉しい










真贋考 浅絳山水図 二作品 釧雲泉筆 その14と15

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ベランダからの夕焼・・冬至・・・。



夕刻の一番星・・・・、この光景ももうすぐ見納めです。ひとつの住所に一番長く居たのが仙台かな・・およそ九年。今回は6年・・。



人間、ひとつの住所にながく留まってはいけません・・。

さて本日は久しぶり釧雲泉です。

一時期に南画の人気画家の作品はかなりの高値で取引されたようで、贋作が非常に多いようですが、その画家の一人が釧雲泉です。一時期・・?? といってもいつ頃なのかは不明ですが生前(江戸末期)から長くても昭和初期頃ではないかと思われます。

釧雲泉については「なんでも鑑定団」にも出品されていましたが、案の定、贋作でした。

当方のブログに投稿されていた作品もだいぶ整理されてきており、信頼性の高いものから順次、改装の必要な作品は改装し、信頼性の低いものは処分していますが、まだ宙ぶらりんな作品が若干残っています。真作のヒット率の低い画家の一人です。最初は知名度が低い画家と思い、それほど贋作はないように思っていましたが、真贋の判断が意外に難しい・・。

投稿していない作品の数も残り少なくなっていました。全体もそうですが・・。

浅絳山水図 釧雲泉筆 その14
紙本水墨淡彩緞子軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1860*横510 画サイズ:縦1120*横410



印章は「釧就之印」の白文朱方印、「雲泉」の白文朱方印が押印されておりいますが、当方の手元資料には印章の詳細がないので未確認です。



賛には「文化丙寅秋日 雲泉樵人」とあり、文化4年(1806年)47歳の秋の作と推察されます。



文化2年(1805)46歳のとき、大窪詩仏とともに信越に旅をし、越後の新潟に着いた頃の作品かと思われ、秋の霞む山と入り江の情景を描いた山水の作品です。



まだ検証できていないことが多くあるので、本作品もまた「伝」としておきましょう。



さて、本作品の真贋や如何??




この頃と同じ頃に描かれた作品は下記の作品を投稿しています。

浅絳山水図 江山肅雨 釧雲泉筆水墨紙本緞子軸装 軸先竹製 合箱
全体サイズ:縦1980*横637 画サイズ:縦1305*横530

よさそうな作品と思いますが、判断は慎重に・・。

さて本日は釧雲泉のもう一作品・・、こちらはどうも

山水図 伝釧雲泉筆 その15
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦*横  画サイズ:縦*横



なにやら真新しい感じがしますね。



どちらかいうと桑山玉洲のような作行きのように感じます。



本ブログのいいところは玉石混合???



でもこの作品、飾ってみるとそれなり・・。真作と並べてみると違いがよくわかりますが、単独だとこれで真作と思い込む御仁もいるようです。表具は改装??



落款は真作に近いものがありますが、印章は若干の食い違いがありますね。

  

ただです・・、釧雲泉の作品としないでみるといい作品なのですよ。



さて、この違い・・解りますか。魑魅魍魎たるこの世界、真贋とは意外に奥が深いようで・・・。

骨董の真贋は人物と同じ。良かれと思って抜擢した人物が意外に贋物だったりね。そういう役職につけると以外に向いていなかったり・・。

役職が人を作るといいますが、それは次席になった時の表現だと私は思っています。トップははれるかはあくまでも資質。不器用でも人望を得る人物が真物らしい。やたら怒る、懲罰人事を繰り返す、現場を見ない、判断を自らしないは人望を得るどころではない。

古伊万里 藍柿右衛門白陽刻唐獅子輪花大皿

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我が家の14インチ以下のテレビ・・、来年の3月には見れなくなるらしい・・。さすがにこれではと思い、祭日にテレビを買いに出かけました。それほどテレビは見ないのですが、画面も見にくくなったので・・我が家はテレビも骨董品

テレビは意外に安くなっていました。40インチ程度でいい・・、子供には極力テレビは見せないようにしていますが、これがクリスマスプレゼント・・・??。

帰りに喫茶・・、美味しいワッフルに子供も大喜び・・。



ヨットとクリスマスツリーの前で記念撮影。義妹から頂いた洒落たショール、我が息子にはどうも似合わない



本日の作品は古伊万里・・、小生の蒐集対象外ですが、ちょっと気になっている作品です。

古伊万里 藍柿右衛門白陽刻唐獅子輪花大皿
合箱
口径300*高台径67*高さ50



ニューがあるのでそれほど高価ではありませんが、よく出来ています。中央の獅子?? 紋様と口にくわえた巻き物?から獅子らしい。



陽刻紋様・・、型からか?



裏には銘が・・。



これは古伊万里によくある意味不明の銘・・。柴田コレクションの資料から調べてみると面白いかと・・。



生掛けのようにたっぷりとした釉薬・・。



キズや釉薬の剥げはあるものの上品な作品です。藍柿右衛門、藍九谷の分類そのものがあやふやで、本作品をその分類に入れるのは抵抗のある見解もあろうかと思いますが、陽刻にこの大きさは非常に貴重であると思っています。



飾り皿にも普段使いにも使いやすい皿かと思います。冒頭のワッフルの盛り合わせなんてね。



藍九谷、藍柿右衛門と呼ばれる古伊万里の作品群は古伊万里の中でも一段格が上です。ちょっと上等な古伊万里をみてみませんか、骨董市などには滅多にありませんが、テレビのように一時期よりだいぶ安くなっています。

忘れ去られた画家 孔雀図 佐伯岸良筆

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今週の「なんでも鑑定団」に「大津絵」が出品されました。大津絵にも贋作があるという・・、まずは2枚つなぎの紙に描かれていること。これは長めの作品で知っていました。次に折り目が均等に入っている入るものは怪しいと・・、これは知らなかった。改めて本ブログの作品を見直す必要がありそう・・。それにしても大津絵の仏画は少ない・・。でも相変わらず「なんでも鑑定団」のお値段は高すぎる。その10分の1以下で流通取引されています。自分で売却すると良くわかりますよ。

本日は佐伯岸駒に始まる岸派の実力者の作品です。娘婿で2代目が実子の長男のため、忘れ去られていますが実力はこちらが上・・。

孔雀図 佐伯岸良筆
絹本水墨着色軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1915*横600  画サイズ:縦1110*横475




南蘋派風の濃彩豊かな作品で技量の確かさがうかがえる。孔雀を得意とした同時期の画家である岡本秋暉の影響が明らかにみられる。岸派2代目の岸岱の陰に隠れて目立たないが、技量は岸良が上と思われる。



同時期の画家と比較してみると非常に興味深い鑑賞が出来ると思います。本ブログでは数は多くありませんが、他の作品を検索したりして鑑賞するとより深く日本画を愉しめます。

ところでどうして孔雀と牡丹が対で描かれるかご存知ですか? ちょっと気になって調べてみました。

「雄々しく華麗な鳥「孔雀」、その姿から富貴の象徴とされる。九つの徳(忠・信・敬・剛・柔・和・個・貞・順)を持つとされ、宮廷にも欠かせない鳥であることから、現代まで様々な書画・吉祥図に用いられてきた。実際の絵画では、牡丹と併せて番いの孔雀が描かれることが多い、これは孔雀を陽(男性)・牡丹を陰(女性)の象徴として表し、交歓・和合の意を持ち、新婚の夫婦の部屋に飾られることも多い。」

なぬ?・・孔雀は男、牡丹は女・・、交歓、和合の意味・・、新婚の夫婦の部屋に飾るだと・・。む~、今は寝ている部屋に飾っているが ま~、牡丹が蕾だしね。


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岸良:(がんりょう)寛政10年(1798年)~嘉永5年3月19日(1852年5月7日))は、江戸時代後期の絵師。京都生まれ。旧姓濱谷、名は五郎、昌良、字を子良、号は画雲(楼)、乗鶴など。佐伯岸良(さえきがんりょう)とも。 人物画、花鳥画に優れた。

画歴はよく分かっていないが、若くして岸駒に学んだという。岸駒の長女・貞は、岸成と結婚し一女・春(岸連山妻)をもうけていたが、岸成が早世したため、後婿に岸良を迎えた。有栖川宮家に仕え、雅楽助を名乗る。岸派2代目の岸岱の陰に隠れて目立たないが、画技は確かで、お家芸の虎図だけでなく、南蘋派風の濃彩な写実画も良くする。

御所や高野山西門院の仕事もこなしており、岸岱と共に岸駒亡き後の岸派を支えた。室町四条南に住す。嘉永5年没する。戒名は画雲院殿良虎日猛居士。墓所は上京区の本禅寺。



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さらりと描かれており、南蘋派風の作品でありながら、さわやかささを感じます。



現在は掛け軸ではこのような作品は、二束三文で売られています。いい作品はもっと見直されていいと思います。もっと「なんでも鑑定団」で取り上げて欲しいものですね。

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岸岱:(がんたい)天明2年(1782年)または天明5年(1785年)~ 元治2年2月19日(1865年3月16日)は、江戸時代後期の絵師。岸駒の長子に生まれ、岸派の2代目として継承・発展させた。名は若い頃は国章、のち昌岱。字を君鎮。別号に卓堂、虎岳、紫水、同功館など。

父から厳しく画法を習い、画才が乏しいことを責められたという。文化5年(1808年)従六位下筑前介に任ぜられ、その翌年父岸駒とともに金沢城内に障壁画を描く。文政8年10月に正六位下に、天保7年(1836年)には越前守に進む。天保15年間(1844年)有栖川宮の代参として金刀比羅宮に参拝、奥書院の障壁画を制作を申し出、2ヶ月足らずで「柳の間」「菖蒲の間」「春の間」全てを完成させた。嘉永6年(1853年)従五位下筑前守に叙す。安政年間(1854年-1860年)御所造営に岸誠・岸連山・岸竹堂らと共に参加し、御常御殿二之間、御学問所中段之間、皇后宮常御殿御寝之間、御花御殿北之間の障壁画を担当した。墓所は上京区の本禅寺。

岸駒や呉春亡き後、長命だったことも手伝い、岸派の二代目として京都画壇に大きな勢力を築いた。『平安人物誌』には文化10年(1813年)から嘉永5年(1852年)の長期に渡って
掲載されている。その画法は岸駒の筆法を受け継ぎ、虎などの動物画を得意としつつも、四条派を意識した温和な作品や、伝統的な大和絵の画題や金地濃彩の障壁画など幅広い作
風を示す。金刀比羅宮の障壁画では、80年前に描かれた伊藤若冲の障壁画へのオマージュや宮への恭敬からか、敢えて自分の得意な画題を描かず、与えられた空間を最大限活かすように作画している。絵だけでなく文筆にも秀で、書籍の序なども手掛けた。弟子に、長男の岸慶、次男の岸礼、末子の岸誠、喜田華堂など。

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李朝粉引雨漏手小徳利

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今年も28日から郷里に帰省します。どうも大雪らしいです。電話したら「すでに1年分降りましたよ」

本日の作品は、徳利にはちょうどよい大きさと思って購入しました作品です。お酒はあまり強くないのでこの大きさが手ごろ・・。雪見酒で一献・・。これからはお酒を飲む機会も量の少なくなり、器に懲りたい心境です。

伝李朝粉引雨漏手小徳利
合箱
高さ110*胴径100*口径35*高台径67



李朝の粉引雨漏徳利というと徳利の王様と言われています。それだけに貴重でとても手に入る作品ではないので、「伝」としておきましょう。近代の模倣作品??

形はなにか油壷に似ていて、売られている時の説明も「油壺」・・。ただ油壺に使っているような汚れや悪臭はないようです。

出光美術館で見た作品が本ブログに掲載されています。




小説にも題名は忘れましたが、時折登場します。撫で回すように、いとおしみながら、李朝の雨漏り徳利で美味しい酒を味わう・・、雨漏手の徳利は日本酒好きの極致の作品らしい。

夜噺茶会には欠かせないお預け徳利にいいですね。お茶室完成の暁には夜噺茶会を・・。




普通はこんな小汚いものと思うものです。古九谷もしかり、大津絵もしかり、根来塗もしかり・・、打ち捨てられそうなものに美を見い出した日本人の感性は素晴らしいと思いますが、家内曰く「汚いね~」だって・・・

使い始めてそれほど経過しないのに、使うごとに変化していきます。



購入時(最初の写真)と比べると変化の具合がわかります。使った後、乾くとまた少し表情が落ち着きます。これを繰り返して景色ができていきますが、良き景色になるか否かは運。



遠州流の夜噺茶会のDVDを改めて見ましたが、前の宗匠の会話は茶装具を極めて人の会話ですね。通常では知識が・・、というより言葉が理解できないでしょう。最近なってようやく当方も普通に理解できるようになりました。まだまだ上品にとは・・。本作品のようなものか??



基礎知識がついてきたので、そろそろ本格的に茶道具を蒐集しようかと思います。茶道具といってもお茶碗や水指ではなく、懐石道具類です。資金調達は今までの作品をあらかた処分して・・・。

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