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Channel: 夜噺骨董談義
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三島海老紋様高台鉢

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昨日は護国寺のお茶会に行ってきました。家内が習っている遠州流の先生がお席を初めてもたれるということでお弟子の皆さんは猛練習のようでした。



あいにくの雨でしたが、お席は盛況で好評だったようです。



丁寧なお点前、席主自らのお道具の説明などもてなしの細やかさが好評の一因という評価のようです。



遠州流はいつでも人気のようです。雨の中にやってくる茶人は、まるで雨の日のゴルファーのよう・・・。

小生はお茶会の後で、耳の調子が思わしくなく、急遽帰宅し休日担当医に駆けつけました。航空性中耳炎?? やはり金曜日の医者はかなりのやぶ医者であったようです。的外れな治療に薬・・・ エアが通ったらだいぶ楽になりました。

本日の作品はお年寄りの多いお茶会を観ていたら、なにや海老の作品を投稿したくなりました。

三島海老紋様高台鉢
杉古箱入
口径278*高台径53113*高さ100



説明には「李朝中期」とありましたが、詳細は不明です。李朝と題すれば売れるからでしょうか? 



胎土の上の白い土を塗り、それを削って文様を出し、透明釉を掛けて焼くという三島手の技法で作られているようです。



海老は「ひげ長く、腰曲がるまで」という長寿をあらわす吉祥文様です。このような作品が李朝の三島手にあるかどうかは不明ですが、いかにも李朝三島でございますという作品よりは、実に面白い。



やや古そうな箱に入っていますが、さて制作年代、時期やいかに・・・・?



豪快で味があって、近代作としてもなかなかの優品ですね。



高台内のかいらぎも立派・・。






リメイク再投稿 その8 岩上鶺鴒図 伝橋本雅邦筆 その3

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最近、原稿を整理、制作する時間がなく、本日はあんちょこなリメイク・・・。リメイクもしていないかな? リンク先も古くなっている・・・
昨夜は大宮へ・・ということで以前の投稿のほぼそのままです。読まれたことのある方はご容赦願います。

ところで本ブログに訪問者数をもとに順位がつくようですが、獣医の対象となっているブログ数がいくつあるかというとなんと208万件以上あるようです。2000位ということは0.2%以内ということか・・・、アクセス件数が多いのやら少ないのやらよくわかりませんが、マイナーな投稿対象としては多いほうかもしれません。もうすぐ訪問者数で40万人、閲覧者数ですでに200万を超えました。我ながらよく続いていると思っていますが、作品が追いついているのも そろそろリメイクした原稿でも投稿しないと続かないかもしれませんね。それともそろそろ投稿を打ち切るか・・・

以下は前回投稿したときのまま・・・、リンク先は古くてリンクしていないものもあります。

昨夜は元同僚と現在の同僚と大宮で賑やかに牛タン・・。久しぶりで愉しいひと時を過ごしました。飲みながらも仕事の話・・??、噺はあっちへこっちへ・・、基本的には人の噺を聞いていない・・、相変わらずのにぎやかさ。

昨日のなんでも鑑定団は締めは酒井抱一の作品・・、もう少し贋作でもましなものを出品してもらいたいのですが・・、当ブログでも酒井抱一とその関係のある印籠(原羊遊斎・・この作品はブログからは公表を控えています)、愛弟子というか鞄持ちの鈴木其一を取り上げましたが、こちらのほうがためになる・・。

橋本雅邦の真贋は非常に難しいと言ってもよいでしょう。箱書きがきちんとしていたり、画集などに掲載されていると判断しやすいのですが、そのほかは子息の秀邦、川合玉堂の鑑定などが頼りですが、それも偽者が多いのです。

鶺鴒図 伝橋本雅邦筆 その3(整理番号)
絹本水墨軸装 軸先鹿角 所蔵箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横325*縦1010



箱書きに「明治32年□月 天松庵蔵」とあることから、明治32年頃の作品ではないかと推察されます。



当方でもこれはそうしないという作品は以前に紹介した下記の作品です。

鶴 橋本雅邦筆
紙本水墨軸装 共箱 軸先蒔絵 
全体サイズ:横377*1385 画サイズ:横276*縦606


山水画吉祥図など明治画壇に与えた影響は狩野芳崖とともに非常に大きい画家です。



なかなかありそうで真作は市場には少ないのが橋本雅邦です。



岩などを墨で滲ませて表現するするあたりの技法の高さはさすがです。



真贋はほとんどが落款と印章でわかりますが、よく出来た贋作もありますので特に印章の大きさも比べる必要があります。

  

他の参考作品との比較検証




思文閣墨蹟資料目録「和の美」第458号 作品NO3「旅人観瀑図」 評価金閣 180万





橋本雅邦:天保6年(1835年)生まれ、明治41年(1908年)没。享年74歳。狩野派画家。狩野芳崖と供に近代日本画の育ての親といわれる。雅邦は江戸木挽町の狩野家内に生まれ、幼名千太郎、のちに長卿と改め、秋園と号す。幕末社会の不安と狩野家の没落と家庭的な困難とで辛酸をなめ、50歳ころになって画名をあらわした。詳細は高名画家ゆえ他の文献を参照としたい。

はてさて意味深な「伝」・・・・・  本気になってリメイクする必要がありそうですね。  

牛之図 倉田松涛筆 その15

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いよいよ改修計画を実行に移す段階となりました。小生の収納庫のはずが、家内の茶室計画までに及び、限られた予算内でどこまで出来るかがポイントです。



男の隠れ家の第3弾・・・。第1弾は2年以上がかり・・第2弾は20年以上がかり・・・、第3弾はおそらくまだ1年がかり・・、まだまだきっと終わらない。男の隠れ家は際限なく夢が広がりますね。

青山に設計事務所があり、町田に住んでいる大学時代の同級生が設計を担当しています。昨日は工事関係者と現地立会いです。



小生の嫌いなコマーシャルは積水ハウス・・、人は寝て一畳、起きて半畳・・、マイホーム至上主義には夢はない。そもそもコマーシャルされる「もの」は人生にとっては有害と思って間違いない。衣食住に関して、人生に関して、人はもっと賢くなる必要がありように思います。

そうそう改修するために荷物の下見をしていたら家内がこんな壷を探し出してきました。



ヌヌ~~、なんだこれは?? 全体に灰釉が掛けられ、胴の上部には縄目紋様があります。胴の株にはなにやら窯印か何かの目印が・・・。



ともかく傘入かなにかにはなりそう・・

本日の作品は郷里に画家の倉田松涛です。死に際に鼻歌交じりに辞世の句・・、こんな豪傑が少なくなった。

倉田松涛は秋田出身の画家で平福百穂の父である平福穂庵に師事した画家です。師と同じように豪放磊落な性格でしられ、酒好きのようです。郷里が同じなので蒐集の対象画家の一人ですが、最近ちょっと値段が高くなりつつあります。なんでも鑑定団に出品されたことが原因かと思いますが、本ブログで紹介していることにも起因している?? 

最近入手しづらい作品群は源内焼、平福父子、そして倉田松涛らです。以前は数千円で購入できたものもあったのですが・・・。

倉田松涛についてはネットオークションにアラートしているのですが、それほど多くの作品は出品されていません。ただ一時期に人気が高くなったことがあり、贋作もありますので要注意です。

最近は本物とこちらで判断した作品が値段が急騰しています。どうもネットオークションの入札者に専門業者が多くなったようです。先日の東京美術倶楽部に展示されている作品にも、何点かネットオークションで落札された作品がありました。骨董自体が少しずつ値が上がり始めているかもしれません。

牛之図 倉田松涛筆 その15
紙本水墨紙軸装 軸先木製 合箱入 
全体サイズ:横400*縦2060 画サイズ:横330*縦1320

年始めの描き初めといった作品でしょうね。



落款の部分に「遊印 筆□□□気□□黒□痕乾 我□須□□春風畏牡丹 維時大正十四年 龍集□栄赤□□九睦月元旦 試毫於宗都□□之百三談□房楼一蕾□□□□ 松涛道者六十一□併題 押印」と署されています。大正14年(1925年 乙丑:きのとうし)の作と推察されます。この年に61歳というと年齢が合わない?数えらしい・・? こういうことはよくあることらしい。



睦月とは旧暦1月を睦月(むつき)と呼び、現在では新暦1月の別名としても用いています。睦月という名前の由来には諸説があるようですが、最も有力なのは、親族一同集って宴をする「睦び月(むつびつき)」の意であるとするものだそうです。最近は親族一同が集まることもなくなってきたように思いますが・・。



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倉田松濤:明治~大正期の日本画家。慶応3年(1867)生~昭和3年(1928)歿。秋田県出身。巽画会・日本美術協会会員。 幼い時から平福穂庵に師事。




特異な画家といわれ、匂いたつような濃厚な筆で一種異様な宗教画(仏画)をのこした。少年時代から各地を転々とし、大正期初の頃には東京牛込に住んだ。この頃より尾崎紅葉らと親交を深め、帝展にも数回入選し世評を高くした。



宗教画の他に花鳥も得意とし、俳画にも関心が高く「俳画帳」などの著作もある。豪放磊落な性格でしられ、酒を好み、死の床に臨んだ際にも鼻歌交じりで一句を作ったという逸話もある。落款「百三談画房」、雅号は「百三談主人」など。

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本作品は倉田松涛の作品としては凡作のように思いますが、思わず購入してしましました。



郷里の骨董店には帰省に際して毎回訪問しています。郷里の秋田では倉田松涛の作品は人気が高く、若いころには値段が高くまったく手が届きませんでした。そのことがトラウマになって見かけると購入していまいます。このようなトラウマ経験のある方は多いように思います。おもちゃ蒐集などはその典型のように感じますが・・。おもちゃや人形などのコレクターはどうにも理解できない・・。



トラウシ???  「牛のごとくまじめに一歩一歩着実に人生を前を向いて歩いていくこと、そうすりゃ、なにかいいことがあるのが。」

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その2

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昨日は都内の現場巡り・・。慌しく10近くの現場をみてきました。現場は百聞は一見にしかずですね。見て来て所長と話をしてきて、なにかを感じることが大切だと改めて思いました。張り切りすぎてまた耳の具合が悪くなり、夕方は耳鼻科に急行・・・ 明日には四国へ日帰り

本日の作品である呉須赤絵は洒脱さと古さが生命線だと思います。

明末呉須赤絵 花鳥紋菓子鉢 その2
金繕 合箱
口径240*高台径*高さ108



明末の呉須赤絵鉢で深鉢になっている作品の2作品目の登場です。



上記にリンクしている作品とほぼ同じ図柄で同時期に製作された作品ではないかと推察されます。違うのは高台内に本作品が釉薬が掛かってしるというこどです。



下記の写真の一作品目と比べると非常に似通っていいることがお分かり頂けると思います。




呉須赤絵鉢は日本で作られていた作品がほとんどであり、絵が模倣に域を出ずきれいすぎて、明末のような洒脱な作品が少ないと思われます。日本で製作された作品を明や清の時代の作品と思っている人が意外に多いようです。



本作品は明時代末期、中国福建省南部の漳州窯で焼かれた呉須赤絵の作品と思われ、欧米ではスワトウ・ウェアと呼ばれています。



本品は、花鳥や魚、動物の文様が色鮮やかで楽しい作品になっています。中国に残っているものは少なく、かえって日本・南洋・欧米にその品の残っているものが多いようです。



お茶会で賞翫される呉須赤絵の器物は赤玉香合・玉取獅子鉢・魁手鉢・呉須菊竹鉢・尾長鳥鉢・魚手鉢・骸麟手鉢・青呉須竜手鉢などで、大皿はそれ程顧みられないようです。きれいなものは時代が新しく、近年の模倣品も数多くあるようです。



この赤絵系統の作品は中国人の好みではないらしく、中国人の投機対象ではないようでそれほど高値ではありません。ただ、ありそうでないようで出来の良い作品は貴重かもしれません。



本作品は残念ながら大きく割れてようで、金繕いの補修跡があります。



その補修跡も洒脱に変える日本人好みの愉しさが本作品にはあります。そう、完全さを求める人生なんて窮屈なだけですよ。いろんな失敗や恥をかいて修正しながら生きていくのが愉しいものですよ。失敗せずに人の上に立つとろくなことにならない

さて、二つ揃いが出来ました。このような大きな鉢はなにに使おうかな・・・。



勢いにある筆遣い



釉薬の禿げが胴体部部にもあるという荒々しさ。



ひょうきんな鳥の表情。



すべてに楽しみを見出せるこの作風は日本独特の感性によるところが大きい。



このように普段使う器の中に美を見出す感性が日本から失われつつあると危惧するのは私だけでしょうか?



この赤絵を引き継いだ日本人は奥田頴川でしょうね。彼については後日また・・・。




鍋島砧青磁三脚尺皿

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名古屋出張に際して昼休みを利用して熱田神宮へ安全祈願してきました。



神様には願い事などせず、ただただ感謝のみ・・。



有名な織田信長が寄進した塀。



祈願終了後は近くのお店で暇つぶし・・、もといひつまぶし。



うめ~・・・・・・・、明日は四国に日帰り出張です。どんな出会いがあることやら・・・。

本日の作品は青磁・・・。

伝鍋島砧青磁三脚尺皿
合箱
口径310*高さ90



鍋島青磁は美しい青磁釉を器の全体ないし一部にかけ、染付・色絵をほどこすこともあります。中国の砧青磁を手本とした青みがかったものと、交壇官窯青磁を手本とした緑がかった貫入(ひびに見える仕上げ)のものとがあります。



本作品は青みがかった作品ですが、製作年代、生産地はともに不詳です。



低い高台の外側に唐花様の足が三方につく鍋島青磁の足付皿と思われますが・・・?。鍋島焼は大きさに厳密な規格があるといわれていますが、この作品は口径がほぼ一尺という例外的な大きさです。



鍋島青磁の青みのある発色で底部を蛇の目状(じゃのめじょう)に削っており、胎土が出て茶褐色をしています。



鍋島の青磁なら1690年代から1730年代につくられた作品と考えられますが、近代作のものもあり、その検証は後学としましょう。




蕭条 西村五雲筆 その6

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週末の日曜日は改修工事の段取りなどの忙しい合間に銀行の方から頂いたチケットを利用して室町の美術館に・・・。



当然、家内と幸紀も一緒です。



幸紀は中でぐずるのが悪い癖・・、でも臆することなく鑑賞、鑑賞・・・・

本日の作品は東山御物とはいきません・・。

蕭条 西村五雲筆 その6
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横450*縦1995 画サイズ:横320*縦1160



蕭条(しょうじょう)と題され、蕭条は「ひっそりとしてもの寂しいさま。十一月の近づいたことを思はせるやうな-とした日。」という意味です。絵は梅雨時にも使えそう??




本作品の共箱は傷んだのであろうか、それとも改装の際にサイズが合わなくなったのか、別の箱に嵌め込んだ共箱となっています。このようなことは掛け軸の共箱によく見受けられます。箱の再製作には手間がかかり費用もかかるでしょうが、このようなことをしても作品を遺しておきたいという意思の現れでのあります。




掠れた墨で勢いよく描かれた竹に一匹のナメクジ? おっとカタツムリか・・、なんとも言いがたい雰囲気の作品です。



東山御物の作品群・・・、素晴らしい作品というよりも素晴らしい来歴の作品群といったほうがいいでしょう。

  

作品の出来というとその後の技術の向上を鑑みて、よく作品を評価する必要があろうかと思います。

舞女之図 狩野永悳立信(晴雪斎)筆

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本作品は狩野永真の作品として売られていましたが、これは間違いで狩野永悳のことで狩野立信の作品です。狩野派の作品は号まで理解ししていないと作者を間違えますので要注意です。

舞女之図 狩野永悳立信(晴雪斎)筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1600*横320 画サイズ:縦830*横230



落款には「永悳立信筆 押印(「晴雪斎」の朱文白長方印)」とあります。



狩野派の作品にはことのほか贋作が多く存在します。粉本(過去の作品を模写すること)や本物の印章を押印する機会があることが原因のようです。素人ではとても判別できるものではありません。狩野探幽の作品などは地方の旧家、料亭には必ずといっていいほどありますが、ほぼ100%贋作と思って間違いないと言われているほどです。この狩野派の贋作の流行?がそのまま掛け軸の贋作の多さになったとも言う人がいるくらいです。




狩野諸派の本格的なコレクションや展示会を見たことがありませんがどうしてでしょうね? 有名な画家の作品はあるのですが・・・?? 贋作の多さに関係あるかもしれませんね。 また形式的な画風となったことも・・・。

狩野派には狩野晴川院養信のように最近見直されている画家もおり、大いに再評価してもいいように思うには私だけでしょうか? 




幕末から衰退した画工群ですが、結局狩野派から派生した狩野芳崖、橋本雅邦、河鍋暁斎らが新しい日本の絵画を形成したことには相違なく、近代日本絵画のベースは狩野派にあります。

混沌とした現代日本絵画をみるにつけ、温故知新ではありませんが、古来の絵画のほうが魅力的だと感じるのも私だけではないように思います。 


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狩野 永悳(かのう えいとく、文化11年12月15日(1815年1月24日) - 明治24年(1891年)1月29日)は幕末から明治期の狩野派の絵師、日本画家。安土桃山時代を代表する絵師・狩野永徳と同じ読みであるが、無論別人である。狩野栄信の六男。兄に木挽町を継いだ長兄狩野養信、朝岡氏に養子入りし『古画備考』を著した次兄朝岡興禎、浜町狩野家を継いだ五兄狩野董川中信がいる。

江戸木挽町に生まれる。本名は立信、幼名は熊五郎、晴雲斎とも号した。狩野宗家中橋狩野家・狩野祐清邦信の養子となり、後に宗家中橋家第15代となった。嘉永元年(1848年)幕府御用絵師となり、安政4年(1857年)法橋、翌年法眼に除す。徳川家斉から徳川家茂までの4代の将軍に仕え、弘化年間の江戸城本丸御殿再建における障壁画制作[1]など、幕府御用を多く手がけた。

明治維新後も皇居造営の際に、皇后宮御殿御杉戸や小襖に多くの作品を描く。明治11年(1878年)に来日し日本美術の研究を始めたアーネスト・フェノロサに、古画の研究と鑑定法を教授する。甥の狩野友信と連書で、フェノロサに一代狩野姓を許し「狩野永探理信」の名を与えるなど、日本における美術史学の形成にも間接的に寄与した。明治17年(1884年)の第二回内国絵画共進会には審査員として「虎渓三笑図」を出品、銀賞を受ける。

鑑画会には古画の鑑定委員として設立当初から参加しているが、フェノロサの関心が新画工の育成に移ると次第に離れていく。明治20年(1887年)明治宮殿杉戸絵を揮毫し、同22年(1889年)臨時全国宝物取調局臨時鑑査掛となる。明治23年(1890年)10月2日帝室技芸員となり、「狩野家鑑定法ニ就テ」(『国華』12号)を著したが、翌年77歳で亡くなった。戒名は永悳院殿晴雪斎立信日善大居士。墓所は池上本門寺。

弟子に、一時は養子となった武内桂舟、同じく養子となり中橋狩野家16代当主を継いだ狩野忠信、鑑画会の中心画家として活躍した小林永濯、田中(狩野)永雲。また、川辺御楯も最初永悳に学び、河鍋暁斎は晩年狩野派を継承するため、永悳に入門し直している。

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狩野派の系図
正信

元信

直信(松栄)
┣━━━━━┓
州信(永徳) 宗秀
┣━━━━━┓
光信    孝信
┃     ┣━━━━┳━━━━━━━┓
貞信   守信(探幽) 尚信      安信(宗家)
            ┃       ┃
           常信      時信
            ┣━━━┓   ┃
           周信  岑信  主信
            ┃
           古信
            ┃
           栄川院典信
            ┃
            養川院惟信
            ┃
            伊川院栄信
            ┃
           晴川院養信
            ┃
            勝川院雅信

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席画のように描かれたような本作品。うまいな~と思うのもまた私だけではありますまい。


リメイク&アレンジ再投稿 福田豊四郎筆 三春駒など 

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おかげさまで本ブログの訪問者数が延べで40万人、延べ閲覧数が200万を越しました。

三春駒を題材にした福田豊四郎の筆によるもので、色紙に描かれています。福田豊四郎の三春駒を描いた色紙の作品は二点を所蔵していましたが、一点は誕生祝に差し上げています。本題材は子供が丈夫に育つようにとの願いがこめられたものです。

三春駒 福田豊四郎筆
紙本着色 小色紙
横180*縦212 額装タトウ入

福田豊四郎氏の三春駒の作品はもう一作所有していたので、こちらの作品を甥の子供の誕生祝に贈呈しました。甥も福田豊四郎氏の作品がほしいというのでちょうどよかったとも思っています。甥が福田豊四郎氏の作品をほしいというのもなにかの縁でしょう。私も父と友人であった福田氏の作品は、作品と出会った時に金額の都合がつけば収集しています。

もう一点の所蔵は母が福田豊四郎氏に描いて頂いた作品です。

三春駒 福田豊四郎筆
紙本着色 小色紙
横240*縦270 額装タトウ入



福田豊四郎氏は同じ題材を描いた作品を数多く遺しています。そのうちのひとつでしょう。父が亡くなった時には母が福田氏に依頼して、父がお世話になった方への御礼として色紙を描いて頂いたとのことです。その時の色紙が数点遺っています。私はまだ小学生か中学生になったばかりの頃のことです。

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三春駒:福島県郡山市西田町高柴(たかしば)(旧三春藩領)産の郷土玩具。起源は平安時代、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が蝦夷を攻めた際に、援軍として現れた馬群の伝説に由来します。この馬の姿を模して木馬を刻み、子供に与えたところ、いずれも健やかに育ったので子育て木馬(きんま)とよぶようになったと言われています。優れた形をしている木馬で、八幡馬(やわたうま)(青森県)、木下(きのした)駒(宮城県)と並んで「日本三駒」などとも言われます。土地では現在も木馬(きんま)とも言います。大小各種があります。1954年(昭和29)の午年には、年賀切手の図案に採用された。

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三春駒というと本ブログでお馴染みの源内焼にもあります。ただ下記の作品は江戸期のものではなく、明治期の再興の頃の作品です。香炉部分の蓋を潰して破損したのですが、なんとか補修できました。

源内焼 その20 三春駒香炉高さ184*尾含まない全長165*幅94



過去のものを大切にしてきたおかげかどうかはわかりませんが、わが息子も今年の午年は丈夫に育っており、もうすぐ生まれてから1年になります。



馬のごとくハイハイがうまくなり、後をついてくるようになり、いたずら盛りとなっております。



鮎之図 小泉檀山筆

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一昨日は前の職場のOB会の会合・・、昨日は新潟から長岡への挨拶回り・・。定年になると自分の故郷に帰る人が必ず何人かいます。人も魚も同じかも・・・。

鮎の図といえば小泉檀山という画家が思い浮かぶ人はなかなかの日本画に通の人でしょう。本ブログでも鮎を描いた作品はなんどか投稿していますが、小泉檀山の作品は今回が初めてです。

鮎之図 小泉檀山筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦*横 画サイズ:縦1085*横570



鮎を描いた作品は下記の作品のリンク先を参考にしてください。福田豊四郎の描いた作品も投稿されています。

清流(仮題) 田中以知庵筆絹本着色軸装 軸先象牙 
全体サイズ:縦1440*横653 画サイズ:縦446*横509



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小泉檀山:小泉 斐(こいずみ あやる)とも称される。明和7年3月(1770年)~ 嘉永7年7月5日(1854年7月29日)。江戸時代後期の画家。殊に鮎と猫は真に迫るといわれた。本姓は木村。幼名を勝、諱は光定、字を桑甫・子章とし、檀山・青鸞・檀森斎・非文道人などと号した。下野国の人。下野国芳賀郡益子(現在の栃木県芳賀郡益子町)に生まれる。父は鹿島神社神官の木村一正、母は片岡氏。



幼少より絵を好み、11歳で高田敬輔の門人島崎雲圃に入門。唐美人図・鮎図などを習う。師との関係から近江に頻繁に出向き、日野祭の山車の見送幕の製作などをしている。

30歳頃、那須郡両郷村(現在の栃木県那須郡黒羽町)温泉神社の小泉光秀の養子となり同社の神官を継いだ。立原翠軒に就いて経学や詩文を修め、その子立原杏所に画を教えた。また和歌、音楽を嗜んだともいう。

享和元年(1801年)に、甲斐守に任ぜられ従五位に叙される。50歳の時に黒羽藩主大関増業より城北の鎮国社宮司職を与えられ、その後は旺盛に画の創作を行った。

画は唐の王維を敬慕した。各地から門弟が雲集し30年もの間、画技を伝えたという。「小泉檀山門人録」には100名もの人名が記され島崎玉淵・宇佐美太奇などが育つ。高久靄も画技を受けたひとりという。




鮎図に猫が飛びついたというエピソードが伝わる。斐は立原翠軒の従者として寛政7年(1795年)に藤田幽谷などと吉原口から富士登山に成功している。このときを元に製作した「富嶽写真」は富岡鉄斎が富士図製作に携わるとき大いに参考にした。

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生まれたところに戻るのが敵わなくても、故郷を思う気持ちは変わらない。



地方の崩壊は都会に住んでいる人には理解できないだろうが、予想以上に大きい。


塗り物椀補修完了

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家内の実家の玄関に飾ってある菊の花。親戚の方が手入れをしていて、飾ってくれるらしい・・。



見事な菊の華・・、時期が来るともって帰るという・・・



菊の花でおもいだしたのが、漆の器・・。

自宅に古くからあり、母が大切にしていた輪島塗津軽塗の蓋付椀を補修を依頼して、このたび仕上げってきました。

母が「補修」とメモした紙と一緒に収納していたのを発見して、輪島と弘前の補修をしてくれる工房を探して依頼しました。

費用は下記のとおりです。

輪島塗の補修明細

①蓋  4 縁欠け           ¥ 6000
②蓋  5 縁欠け 内側塗り直し    ¥15000
③蓋  2 上面側面 部分修理      ¥2400
④椀  1 割れ修理           ¥3000
⑤椀  3 縁欠け            ¥6900
⑥椀  6 内側塗り直し        ¥12000
   ¥45300(送料別)→最終金額¥46,900

10人揃いに器が艶も出てきれいに直ってきまいした。補修が必要でない残りの10人揃いと帰省したら比較してみようかと思っています。




津軽塗の補修明細
・椀と蓋・・・・・22組
・蓋・・・・・・・・1枚(サービス 無料)

1組単価 5,000円×22組     ¥110,000
消費税                  ¥8800   
送料                    ¥972
合計              ¥11,972



こちらは20人揃いで直しましたので、費用がかさみました。

座敷のある家には30人揃いの器が各種、家にあったものです。法事やお祝いには自前で揃えて使用したり、親戚同士で貸し借りして、近所の方の手伝いを伴って使ったものです。今ではそのような付き合いが無くなり、斎場で代行するようになりました。それとともに揃いの器も骨董市に並び、その数もどんどん少なくなりました。



地方の衰退の象徴のようにも考えられますが、私はそのような器もまた大切にしていきたいと思っています。冒頭の菊の花もしかり、近所づきあい、親戚づきあいがどんどんなくなってきていますが、根本は少子高齢化が最大の原因でしょうね。

手入れを続けた歴史を積み重ねる器は気高ささえ感じれるもの。



なにも対策を打てない政府・・・、消費税増税延期で総選挙??? 少子化対策予算も見送り?? なにもメッセージにない与党、だらしない野党など政治は国民を愚弄するにもほどがあるというもの・・。

今さらながら国民は政治に頼らない賢さ、したたかさが必要です。円高、株高、物価高など世の中の動きを一歩早く読み取る対応が必要です。

ただ、高齢者、小育て支援という弱者保護の施策は国の義務・・。

呉須赤絵花鳥紋火入 伝奥田頴川作 その2

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明末の呉須赤絵を忠実に再現したのが奥田頴川です。土そのものも彼の地から取り寄せたとか。虫食い、絵の奔放さは本歌を超えた芸術性の高いものです。本作品は高台内に銘が入っているので一応「伝奥田頴川作」としておきますが、非常に贋作が多いので要注意の陶工の一人です。

呉須赤絵花鳥紋火入 伝奥田頴川作
合箱入 
全体サイズ:口径100*高台径65*高さ85



頴川の作品の特徴は、底には砂が着いていることが多く、なすりつけられたようなドロドロした釉薬であり、やや青灰色を帯びた白磁釉は厚めに掛けられ、たまりが見られ、また一部掛け外しが見られる。さらに一部ではカイラギになっていることもある。頴川特有の筆の走りはあたかもその人だけのサインのように他人には真似ができないようです。



頴川は作品には殆ど銘を入れず、よほどの力作でないかぎり落款はないというのが原則です。箱書は皆無であるとのこと。

ただし、その特徴を掴んだ贋作が存在することも忘れてはいけません。村田寿九郎や頴川の門人の楽只亭嘉助らがうまいそうですが、完全には摸作できていないとのことです。




頴川の火入れは真贋含めてよく市場にはあったらしいですが、現在では市場では少なくなったようです。呉須赤絵の奥田頴川の本物自体が明末の模倣品というところが面白いですね。真作はともかく小汚い・・。

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奥田頴川の明らかな贋作・・・・・・・・・・なんでも鑑定団より
本物は「頴」という字の偏の上側が、“ヒ”ではなくなぜか“止”という形になっています。これは頴川の自己主張と思われますが、概して頴川の作品には落款のないものが多い。依頼品は“頴川”という落款を入れてしまったためにかえって贋作とバレてしまっています。全体に絵が下手すぎる。頴川の筆はもっと滑らかに奔放に伸びている。

ただ白磁の部分はやや青みがかった不透明感があり、高台の脇には砂付きをつけてあるなど本家の呉須赤絵によく似せておりそのへんはよく出来ている。花生けではなく、茶道具の一つで杓立。おそらく京都の工芸品の茶道具セットから分かれたものだろう。

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とにもかくにも奥田頴川、青木木米、野々村仁清らの作品の所蔵者は贋作なのに本物と思い込んでいるきらいがあります。奥田頴川の本物を美術館以外で見たことは私はまだありません。

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奥田頴川:宝暦3年生まれ~文化8年に没している(1753年~1811年)。本名を頴川庸徳といい,通称茂右衛門。縁あって質商奥田家を継承。ちなみに頴川は自分の旧姓である。祖先は頴川郡(現中華人民共和国河南省)の出身。京都で代々質屋を営んだ。

頴川も三十代まで家業を営むが作陶を志し,建仁寺内に開窯。研究の末、青華白磁(天啓染付)呉須赤絵、交趾焼等の焼成に成功する。京都に於いて不可能だった磁器を開発した。その作行きは中国民窯の自由奔放、豪放磊落さを写しだし完成の域にした。門下や影響を与えた陶工は、木米、仁阿弥、周平、欽古堂亀祐、三文字屋嘉介と多岐にわたる。当然、煎茶趣味に合致するところから大いに受けた。

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本ブログでも他に一作品を取り上げましたが、こちらも「伝」とご理解願います。奥田頴川としなければ実にいい出来のものだとは思っていますが、負け惜しみかな




初平起羊之図 その2 寺崎廣業筆 32

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年賀状の図案を考える時期となりました。羊・・・、「黄初平」などはいかがでしょうか。「物質界が、ある一側面からの物の見方によって定義づけられた、制約の多い特殊な世界であるという教えであろう。」という教えの画題です。

黄初平を描いた寺崎廣業の作品は2作品目となります。時代が大きく違うときの作品なので比べてみると非常に面白いですね。構図はよく似ています。




初平起羊之図 その2 寺崎廣業筆 32
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 共箱
全体サイズ:縦2055*横555 画サイズ:縦1115*横410



寺崎廣業筆の作品は32作品を数えることなりました。贋作の多い画家ですので、購入判断が難しいものです。平福穂庵、百穂も難しく、インターネットオークションには贋作が数多く出品されています。本ブログにある資料が参考になれば幸いです。

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「黄初平」は中国の古い仙人で、『列仙伝』や『芸文類聚』などの古書にその名を見ることができる。黄初平は15歳のとき、羊飼いをしているところをある道士に見込まれ、金華山という山の中に連れていかれたまま40年間も消息不明になった。のちに、彼の兄の初起が道士に遇って所在を聞きだし、初平と再会することができたが、道士によれば、いまだに羊飼いをしているはずの初平の周囲には一頭も羊が見あたらない。そこで、不思議に思った初起が問いただすと、初平は、「羊はいますよ。ただ兄さんには見えないのでしょう」と言って鞭を振るい、周りの白い石を叱って、石をことごとく羊に変じさせたという。修行を終えた仙人にとって、石は羊でもあり、羊は石でもある。

物質界が、ある一側面からの物の見方によって定義づけられた、制約の多い特殊な世界であるという教えであろう。多くの画家が画題として描いている。

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本作品は「廣業」の白文朱方印が押印され、共箱には「」が押印されています。他の所蔵にも同じ印章の作品があります。




意味の深い画題ですね。ある側面からしか見ないと失敗するよという戒めでもありそうですね。人事などもそうですね。卒業大学、勤務の長い地域に重きを置いて昇進人事を決めていると大きな失敗をしますね。もっと人の力量に重きをおいて思い切った判断する必要がありますね。最近、つくづくそう思います。



骨董もそうですね。印章や落款にこだわっていると真の作品の良さを見失います。いいものはいいという本質的な作品の内面を観ることが大切なようです。


故郷の風景 福田豊四郎筆 その44

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週末は物置の改修の具体的な打合せになりました。2階などが荷物を移動し、残す物、捨てる物の選別をし、どの程度のスペースが要るのかなどが解ってくると打ち合わせも具体的になってきます。



先日投稿しました「リメイク&アレンジ再投稿 福田豊四郎筆 三春駒など」の投稿については、本作品と製作時期が同じ頃の作品と判断して、印章を調べていたことと関係しています。

故郷の風景 福田豊四郎筆 その44
紙本着色色紙額装タトウ入
画サイズ:縦270*横240 



どこの風景でしょうか? 私の郷里の米代川ではないように思います。市内を流れる長木川でもなく、福田豊四郎のふるさとである小坂とも違うように思われます。しかし、いずれにしても福田豊四郎の記憶には常に郷里の景色があったことに相違はなく、題名は仮に「故郷の風景」としました。



本作品の押印されている「豊」の白文朱方小印は小品に押印されるのが常であり、いくつか種類があるようにも思われます。どいうのは完全に一致する作品は真作どうしにも印章が一致するとは見られないことがあるからです。



インターネットオークションには滅多に出品されませんが、福田豊四郎の作品にも贋作があるので要注意です。画風などから相対的に判断することが重要です。印章や落款よりこちらのほうが重要な判断ポイントと思っています。



皆さんも自分の郷里や現住所の出身の画家や陶芸家を調べてみたらいかがでしょうか? 愛着が湧くものと思います。


伊羅保茶碗

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家内の実家の物置の改修に踏み切った大きな理由に庭の景色があります。庭の風情を味わうそんな場を作るのもひとつの目です。今回の茶室からは見えないようですが、寄り付きや広めの茶室予定の縁側からは見える紅葉です。



紅葉の中に研ぎこむとまた一段と面白い枝ぶり・・。



紅葉から空を眺めるとても綺麗です。紅葉は外からより中からがより一層、味わい深いものがありますね。



さ本日の作品が伊羅保茶碗かと訝る方もおられるでしょうが、本作品は分類するとどうも伊羅保茶碗らしい? です。瀬戸や灰釉という分類ではないようです。

伊羅保茶碗
合箱入
口径138*高台径64*高さ64



「伊羅保釉薬は李朝時代に作られ、鉄分の強い素地のため、表面がざらざらし、土灰釉(どばいゆう)で青色や黄色に微妙に変化しています。」とのこと。



伊羅保の名前は、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところに由来するとされています。



「鉄分が多い褐色の砂まじりの胎土で轆轤目が筋立ち、石灰の多い伊羅保釉(土灰釉)を薄く掛けしてあり、高台は竹の節、兜巾高台になっています。」とのこと。
特徴はたしかにそのままですが、いかにもわざとらしい?兜巾高台・・。



日本から注文された茶碗が多いが瓶や徳利も作られたようです。下に掲載の作品は徳利の参考作品です。

李朝伊羅保徳利
時代:李朝前期
寸法:高さ115*胴径75

 





参考作品の徳利と同じような釉薬ですが、本作品が李朝かどうかは不明ですね。見込み内に傷がたくさん見られますが、何だろう?



家内に見せたら「いまいちね」だと



収納のされ方は一丁前ですね。



端正で飾り気がないのが気に入ったのですが・・。



ま~、漬物入れくらいには使えるだろう



本当にお茶碗は難しい・・・。

母が所蔵していたお茶碗の中に伊羅保茶碗がありました。今もどこかの棚の中にあるはずですが、それは今回のお茶碗と違ったオーソドックスな伊羅保茶碗です。銘もなにもなく、箱も合わせで箱書きもなにもありませんが、もう一度検証してみようかと思っています。






リメイク再投稿 その9 六角花立 その2 浜田庄司作 その32

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一昨日は同列の会社の代表の方々と意見交換会を永楽倶楽部にて夕食会を兼ねて開催しました。なかなか有意義な集まりで、興に乗ってついつい痛飲・・・。

本日は久方ぶりに浜田庄司の作品です。

六角花立 その2 浜田庄司作 その32(整理番号)
共箱 
90*90*高さ196



本作品は浜田庄司の作品としては割と多い花入れの作品です。この花立にはいくつもの種類の釉薬や紋様の作例があります。写真にはありませんが赤絵の絵付作品などが一番評価が高いようです。

    

浜田庄司の釉薬の掻け具合といい、釉薬そのものといい、品格のよさは誰にも真似のできないものです。



同じような釉薬を使ったり、同じような形の造形の作品が出てきましたが、作品から受ける印象はまったく違うものでした。



多くの贋作がインターネットオークションなどに出品されていますが、本物の感触を味わっているとすぐに判別ができるものと思います。



浜田庄司に魅せられた一人としてきっと今後も浜田庄司を追い求めるでしょう。



そうそう、浜田庄司の作品には窯作品と本人作品があり、評価に大きな差がありますので、その区別も注意しなくてはなりませんよ。




清涼図 小早川清筆 その4

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掛け軸を蒐集の対象とするときには資金に余裕のある方は著名な画家の作品を集められることが多いですが、あまりに高価だと長続きしません。ちょっとグレードを下げた、好みにあう画家の作品を集めると以外に廉価で入手できるものです。

横山大観、伊藤深水、上村松園といった一流どころは贋作が多いので、きちっとした入手先で、それなりの代償を支払って集めるべき作品群ですが、当ブログに投稿されている「忘れ去られた画家」のような画家の作品群はいいものをチョイスできさえすれば、掘り出しものを入手することも可能なように思われます。本日、投稿する作品もそのような作品ではないかと期待していますが・・。

美人画で名高い?小早川清の4作品目の投稿となります。美人画はなかなか入手が難しい分野になります。美人画というだけで値段がちょっと高くなるからですし、美人画というとやはり特定の画家の作品に限定されるからでしょう。

清涼図(仮題) 小早川清筆 その4
絹本着色軸装 軸先蒔絵 合箱
全体サイズ:縦2160*横558 画サイズ:縦1255*横422

共箱ではありませんが、題名は「清涼之図」と箱表に書かれいます。御香の場面の図ですが、夏の作品として捉えたのでしょう。仮題としておきました。



着物の図柄など小早川清の作品としては珍しく細密に描かれた作品です。何かの展示会のために描かれた作品かもしれません。



本作品は絵の具の剥落が若干あり、また顔の部分に絵の具の変色が見れることから廉価であったかもしれません。現在は雑な箱に収納されていますが、太巻の箱にて保存すべき作品かと思われます。

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小早川 清(こばやかわ きよし):明治30年(1897年)~ 昭和23年(1948年)4月4日)は、大正時代から昭和時代にかけての浮世絵師、日本画家。鏑木清方の門人。福岡県福岡市博多に生まれる。初めは南画家の上田鉄耕に師事し、1915年(大正4年)に上京して、清方に美人画を学んだ。



小児麻痺による後遺症のため、左手一本で絵を描いた。「長崎のお菊さん」が、1924年(大正13年)の第5回帝展に初入選し、その後、長崎を題材にした美人画を描いて、続けて帝展において入選を重ねた。1933年(昭和8年)には、歌手の市丸を描いた「旗亭涼宵」が特選となっている。1936年(昭和11年)以降は、文展無鑑査となり、同年、文展招待展に「宵」を出品してからは、文展及び新文展に作品を出品した。その他にも、日本画会、青衿会などにも、会員として多くの作品を発表していた。



そして版画は、1930年(昭和5年)から1931年(昭和6年)に発表した「近代時世粧」シリーズが知られている。その中でも、ほろ酔・爪・化粧・黒髪・口紅・瞳などは著名で、また、艶姿・湯上がり・舞踊なども佳作とされている。清は、戦後にも数点、作品を発表しているが、やはり昭和初期の頃の作品に人気が集まる。また、清は、新版画の分野においても活躍している。代表作に「長崎のお菊さん」、「春琴」などが挙げられる。1948年(昭和23年)、東京都大田区の自宅で脳溢血により死去。享年52。



印章や落款はしっかりしています。

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詳細部分の写真を投稿します。



着物の柄にはなにやら仮名文字が・・。



左手一本で描いた作品・・。



着物の柄も丁寧に描かれています。



柄には何やら源氏物語??



御香の道具類は金、銀彩で盛り上がるように描かれています。



香箱・・、嫁入道具でったこともあり、富裕層の道具にはかなり蒔絵の手の込んだ作があります。



気になるのは着物の柄の人物。



なにか画題がありそうですが・・。



やっぱり源氏物語??



どなたか解る方・・・、家内曰く「ブログに掲載に投稿した作品があるわよ」だと・・。朝顔&若紫?? 調査中・・。





達磨図 伝下村観山筆 その2

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我が息子はハイハイが盛んで、行くところについてくるし、パソコンに向かって資料を作成していると、すぐ脇にくる始末・・。資料整理がすすみません 
達磨のごとくおとなしくしていることを願います。

実家の掛け軸の中に下村観山の「達磨」と題された共箱の箱のみがありました。中身の掛け軸がないので母に聞いてみたところ「身内の誰かが酒飲み代欲しさに中身の軸を抜き取って売ってしまったのかもしません。」とのこと。箱のみではという重いから、機会があれば下村観山の「達磨」の掛け軸を購入してみたいと思っていました。無論、共箱ではない作品をですが・・・。思文閣で売りに出されている作品を購入しようと思って連絡したところ、すでに売却済みだったこともあります。

さ~、本作品をその箱に入れる?? それは贋作製作行為のひとつか・・・ もともとはどんな作品だったでしょうか?

達磨図 伝下村観山筆 その2
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:横413*縦1785 画サイズ:横880*縦285



下村観山の画名を知っておられる方は多いと思います。横山大観らと茨城県五浦に引きこもり画業に勤しんだことは有名です。



下村観山は五浦の作家(横山大観・下村観山・菱田春草・木村武山)の一人・・・、ところで「五浦の作家」の経過は本ブログを読まれている方々はお分かりですね。下村観山は五浦の作家の中で技量一番の評価を受けています。



下村観山の達磨というと「面壁達磨図」が有名です。そのことについて・・。

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達磨は嵩山少林寺において壁に向かって9年坐禅を続けたとされているが、これは彼の壁観を誤解してできた伝説であると言う説もあります。壁観は達磨の宗旨の特徴をなしており、「壁となって観ること」即ち「壁のように動ぜぬ境地で真理を観ずる禅」のことのようです。これは後の確立した中国禅において、六祖慧能の言葉とされる坐禅の定義などに継承されてます。



大通2年12月9日(529年1月4日)、神光という僧侶が自分の臂を切り取って決意を示し、入門を求めたそうです。達磨は彼の入門を認め、名を慧可と改めました。この慧可が禅宗の第二祖です。以後彼によって、中国に禅宗が広まったとされます。

永安元年10月5日(528年11月2日)に150歳で遷化したとされています。一説には達磨の高名を羨んだ菩提流支と光統律師に毒殺されたとも。

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代々幸流の小鼓をもって紀州徳川家に仕える下村家に生まれた観山は、能や仏教など東洋の高い精神性を象徴する画題を好み、それらに関係した人物の肖像画を数多く描いています。この作品は、洞窟の中で面壁九年の修行を行う禅宗の始祖達磨を描いたもので、同じ主題の作品は、福井県立美術館、駿府博物館所蔵作品など数点が知られています。いずれも洞窟の岩壁につく草や苔を表現するため、制作途中で絵を立て掛けて、緑青の顔料を自然に流したと考えられる苦心の試みのあとがうかがわれます。なかでもこの作品は達磨の姿を中央に大きく描いており、旧来にない個性的な相貌を見せる達磨の崇高で求道的な表情に、座禅修行の厳しさを象徴させています。そこには、古画に根拠を求め、深い研究の上に自分なりの意趣を加える観山の作風が良く示されています。落款等より大正前期の制作とみられるが、この時期は大観らと共に日本美術院を再興、代表作の「白孤」「弱法師」を制作した頃にあたる。

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下村観山:明治6年生まれ、昭和5年没(1878年~1930年)、享年58歳。和歌山生まれ。本名は晴三郎。 藤島常興、狩野芳崖、橋本雅邦に師事。東京美術学校を第1回に卒業。明治27年同校助教授に就任。31年日本美術院創立に参加、正員となる。36年イギリスに留学、39年美術院の茨城県五浦(いづら)への移転に従う。40年、第1回分展審査院を務め、「木の間の秋」を発表。大正3年(1914)日本美術院を再興。6年帝院技芸員。8年帝国美術院会員に推されたが辞し、在野精神を貫いた。作品に「白狐」(大正3年)「弱法師(よぼうし)」(大正4年)など。

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雨のようなシミがあったようですが、染み抜きして改装しているようです。 真贋・・・?? じっくり調べることとして、今日はそういう野暮は話はなし・・。

飾 藤田喬平作

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今週もまた週末は友人の設計者と改修の打ち合わせ・・。

待合から見えるであろう以前に本ブログに投稿した見事な楓は今年は散りました。紅葉の渓流となって最後まで愉しませてくれました。



友人と目をつけている面白どころはいくつかあるのですが、そのひとつが古くからある野外のトイレ・・。畑仕事や庭の手入れの時に汚いまま使えるトイレらしい・・。



何がいいって・・・、この杉材ですよ。このままなんとか使いたい・・・。茶室に移築?? 否・、あくまでもこのまま・・

本日の作品は我が家のトイレにある置時計・・。

飾 藤田喬平作
共箱
径70*高さ60



藤田喬平がなにかの記念に依頼されての数モノかな?



多彩な大きめの作品は非常に高価ですが、これは廉価なものですね。



それでも使えそうなので購入しましたが、時計が故障で動きませんでした。そこでいつも時計の修理を頼むところへお願いしたところ、修理してくれて現在使用しています。



骨董という楽しみはこういうちょっと洒落た古いものを何気なく使うということですね。



共箱は無くさないようにしないといけません。

萬座(碧南?) 藤井達吉筆 その11

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昨夜は四者会談で深夜に帰宅すると息子が高熱・・、寝かせて添い寝するなどでこちらが寝不足と耳の調子が悪いのとでちょっとバテ気味・・・・。明日は北海道日帰り出張・・。

週末に夢中になって読んだ文庫本が「木暮荘物語」(三浦しをん著 祥伝社文庫)です。書店の店頭に並んでいますので読まれた方も多いと思います。性についての話題が多いのでちょっぴり刺激的かもしれませんが、娯楽としてはいい本ですね。共感できる部分や誰にでも経験あろうか思う?ところが随所に出てきますので面白いのでしょう。

さて冬になるとベランダから富士山がよく見えます。故郷と山が結びつく方は多くいるのではないでしょうか? 私の郷里の山は鳳凰山です。校歌にも必ず故郷の山の名前が入っていますね。



本日の作品は藤井達吉の痛んだ掛け軸です。

軸先はとれて表具も浮いてきており、箱もなく粗末に扱われていた本作品・・、はてさて改装する価値がありやなしや・・。近くの農家の方々が野菜を持ってきてくれた御礼に絵を描いて渡したという藤井達吉ですので、描いた作品の数は多数あったのでしょう。それゆえ粗末に扱われることも多く、今ではだんだん作品の数が少なくなってきたように思います。



萬座(碧南) 藤井達吉筆 その11
和紙水墨金彩軸装 軸先象牙 合箱 
全体サイズ:縦1065*横650 画サイズ:縦455*横590



本作品の落款には「無風子」と書されています。落款は無風庵という工芸家藤井達吉ゆかりの草庵があり、その名に由来するものでしょう。もともとは、若手作家育成のために、小原村(現豊田市)に建てられた工房ですが、後に瀬戸に移築され、現在はギャラリーとして活用されています。



印章は「達吉」と金彩文金彩長方印が押印されています。



巻止には「萬座 藤井達吉筆」、「宮川□□蔵」とありますが、宮川某氏について詳細は不明です。

描かれている風景は「万座」と称されていることから、万座温泉で有名な群馬県吾妻郡嬬恋村干俣(ほしまた)(旧国上野国)にある上信越高原国立公園内の標高1,800mの山岳風景を描いた作品?と思われます。

藤井達吉独特の心象風景より、珍しく実写に近い作品であるが、墨の味の深さなど達吉の創造性の深さが窺い知れる逸品といえます。



「碧南」とも題されていますが、これは愛知県にある地名で作品と何らかの関係はあるかもしれません。



思文閣のカタログにも藤井達吉の作品が掲載されていますが、共箱や弟子による鑑定がある作品ばかりです。本ブログに投稿されている作品のように真贋の保証のないものは打ち捨てられていくばかりなのでしょうか?



和紙が世界遺産のなりました。和紙の工芸に打ち込んだ藤井達吉が生きていたらきっと喜んだでしょう。彼が和紙の伝統技術に貢献した足跡は大きい。



修復するとよい掛け軸になるように思われます。このような痛んだ作品を拾い上げて修復するのも収集家の大きな役目のように思うのですが・・・。         

江戸期竹網代炭斗

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本日は早朝より北海道へ・・、むろん日帰り・・。これで今年の全国行脚は残すは関東方面のみ・・、ふ~。

我が家の水屋にはなにやらわけのわからないお道具類がたくさんあります。母が使っていた水屋で、小生はほとんど茶道のことは不案内ゆえ、「何に使うんだろうな?」的な疑問が浮かぶお道具があちこち??

そんな中に本日の作品のようなものもたしかにありました。時代がありそうで、細工が手のこんでいる割合に安かったので購入しました。

江戸期?竹網代炭斗
合箱
外径215*胴径265*高さ105



中には破れかけた古い紙があります。使っていた当時のままのようです。



なんか味があっていいですね。形もシンプルそのもの。なんという形でしょうね?



一応、収納箱が付いてきました。



夏用の炭斗? なんて書いてあるのかしら? 数千円での購入ですが高いのか安いのかさっぱりわかりません。

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炭斗(すみとり):亭主が客の前で炉や風炉に炭を組み入れる炭点前(すみでまえ)で用いる、炭を組み入れ、香合・羽箒・釜敷・鐶・火箸を添えて席中に持ち出す器のことです。 炭斗は、炭取とも書き、烏府(うふ)ともいいます。 炭斗は、多くは籠などの組物で、内張をしてそれに漆をかけたものが用いられます。

炭斗には、唐物と和物があります。

唐物炭斗は、藤、竹などで編まれた籠で、編み方は部分々々に変化をつけ精巧を極めたものが多く、藤と竹の交ぜ編み、棕櫚皮を編み込んだものなどもあります。 唐物炭斗は、籠以外には、漆器類や青貝入り、金馬(きんま)などもあります。

和物炭斗は、籐、竹、藤蔓、蓮茎(はすくき)などで、編み方は唐物よりざんぐりしています。 和物炭斗は、籠以外には、瓢、一閑張、蒔絵、曲物、指物などがあり、「冊屑箱」(さくずばこ)、「茶撰籠」(ちゃよりかご)、「散華皿」(さんげざら)、「箕」(み)、「炮烙」(ほうろく)などが用いられることもあります。

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