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Channel: 夜噺骨董談義
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備前一輪花入 金重陶陽作 その5

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金重陶陽の茶器は飾って使ってみないとその凄さが解りませんね。備前もすでに焼成は計算しし尽されているようで、偶然性はないと言われていますが、だからこそ作者の精神性がよく出ますね。

備前一輪花入 金重陶陽作 その5(整理番号)
共箱
幅120*奥行き100*高さ190



最近の備前は金重陶陽の足元にも及んでいませんね。茶味というものが違うように思います。



箱書きひとつにも味が違う。



形にも媚びたところのかけらもない、この気概が違う。生き方が違う・・。今の若者よ、古き備前の凄さを知れ。




芦葉達磨図 小村大雲筆 その4

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3連休の日曜日には護国寺のお茶会に家内と二人で行ってきました。息子は家内の実家にてお留守番です。



朝早くからお茶会は盛況でした。月光院が修復されたところでの遠州流と表千家のお席と四席にて一服・・、遠州流は珍しくお濃茶でした。



お道具経験も愉しみながら、うら若き女性の着物姿も貴重・・、本当に若い女性は少ない。



本日の作品は「芦葉達磨図」です。

小村大雲が「私の曾おじいさんです。」という方からのコメントを頂き、びっくりしたことのある小村大雲の四作品目の登場です。箱もなく、題名も間違って売られていた作品です。



芦葉達磨図 小村大雲筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先鹿骨 合箱
全体サイズ:縦1910*横485 画サイズ:縦1140*横360



落款には「昭和八年□□ 大雲□」とあり、昭和8年、50歳頃の作と推察されます。

2014年2月~3月にかけて生誕130年記念展が島根県立美術館にて開催されました。

本図は「出山釈迦図」と題されていましたが、それは間違いで「芦葉達磨図」です。達磨が梁の武帝を訪れたものの教えの通じないことを悟って一本の芦に乗り、長江を渡って魏へ去ったという故事を描いたもの。しばしば禅林で描かれた画題です。

達磨が梁の武帝を訪れたものの教えの通じないことを悟ったという内容は下記の通りです。



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梁の武帝は仏教を厚く信仰しており、天竺から来た高僧を喜んで迎え、武帝は達磨に質問をします。

帝問うて曰く「朕即位して已来、寺を造り、経を写し、僧(僧伽、教団)を度すこと、勝(あげ)て紀す可からず(数え切れない       ほどである)。何の功徳有りや」
師曰く   「並びに功徳無し」
帝曰く   「何を以て功徳無しや」
師曰く   「此れ但だ人天(人間界・天上界)の小果にして有漏の因なり(煩悩の因を作っているだけだ)。影の形に随うが如       く有と雖も実には非ず」
帝曰く   「如何が是れ真の功徳なるや」
答曰く   「浄智は妙円にして、体自ずから空寂なり。是の如き功徳は世を以て(この世界では)求まらず」
帝又問う  「如何が是れ聖諦の第一義なるや」
師曰く   「廓然(がらんとして)無聖なり」
帝曰く   「朕に対する者は誰ぞ」
師曰く   「識らず(認識できぬ・・・空だから)」

帝、領悟せず。師、機の契(かな)はぬを知り

武帝は達磨の答を喜ばなかった。達磨は縁がなかったと思い、北魏に向かった。後に武帝は後悔し、人を使わして達磨を呼び戻そうとしたができなかったいいます。

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小村大雲:明治16年、島根県楯縫郡平田町(現出雲市平田町袋町)の穀物荒物商、小村豊兵衛とカメの長男として生まれる。明治30年に高等小学校を退校、翌31年両親の許可を得ず単身上京し、橋本雅邦の門や川端玉章の門をたたくが断られ帰郷、親戚会議で親の承認を得、広島で絵の修行をするが、訳あって脱門し、平田の鰐淵寺にあずけられる。

その後京都で修行し明治36年には山元春挙に師事する。大正元年(1912)島根の加賀浦で題材を得た「釣日和」が第6回文部省美術展覧会で第2科3等賞6席に入賞、以後3年連続入選、5年には「畫舫」が第10回文展で特選、以後も特選、無鑑査となる。8年第1回帝国美術展覧会で「推薦」にあげられ、永久無鑑査となり、以後ほぼ毎年作品を出品し、委員、審査員など歴任する。

昭和10年(1935)明治神宮に壁画「京浜鉄道開業式行幸図」が完成。13年、たまたま京都より平田に帰省中の2月20日、54歳の若さで急逝、平田極楽寺に埋葬される。名は権三郎、字は厳座、子荘と称した。別号は豊文・碧雲湖畔人・赤松子・豊瑞・豊花等有り。京都に出て都路華香に師事したのち、山元春挙の画塾早苗会に入門し画法を学ぶ。文展・帝展で受賞を重ね活躍する。昭和13年2月20日(1938)歿。享年54才。

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わが夫婦は今週は自宅の改修の打ち合わせなどでクタクタ・・・、息子は元気・・。



忘れ去られた画家 青緑山水図 野沢如洋筆

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仕事の関係で青森や秋田県に在住していた頃、野沢如洋の馬を描いた作品が欲しくて探し歩きましたが、結構いいお値段で当時の小生には買うに買えない値段でした。後日、席画のような馬の作品よりも「山水画の達人」としての評価が高いことを知りました。

青緑山水図 野沢如洋筆
絹本水墨着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦2195*横705 画サイズ:縦1207*横500



馬の絵とともに山水画の達人として知られる野沢如洋の作品の中で、本作品のように着色された本格的な作品は、水墨画の作品がが多い中で貴重だと思われます。円山派を加味した独自の山水画・・・、なんとなく解りますね。



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野沢如洋( のざわ-じょよう): 1865年~1937年。 明治-昭和時代前期の日本画家。青森県生。旧姓一戸、幼名は太郎、のち三千治、初号は仙蘭。父は弘前藩士。元治(げんじ)2年4月3日生まれ、郷士の画家三上仙年に師事する。




国が主催する日本画の展覧会をはじめとする多くの展覧会に出品し、上位の賞を得た画人であり、山水画の達人として知られる。その山水画は橋本雅邦や竹内栖鳳から高い評価を得、円山派を加味した独自の水墨画を展開した。



京都で今尾景年にまなび,日本美術協会展などに入賞。文展審査員に任命されたが辞退し,生涯反官展主義にたつ。山水,馬などの水墨画をえがき,「馬の如洋」とよばれた。昭和12年6月11日死去。



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ちょっとシミの状態が気になるので、資金に余裕のあるときに染抜き改装してみたいものです。



骨董というものはいつか欲しいと思っていると必ずやその機会に恵まれるものですが、諦めていると決して入手できないというものでもあります。ただ、どうしても縁のないものや作品群というものはあります。未だに野沢如洋の馬を描いた作品は入手する機会に恵まれていません。

備前壬三番叟 浦上善次作

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日本のサッカーは男女ともに意外に弱い・・、というか弱くなったように思います。スポーツは得意ではありませんが、ワールドカップのスタジアム建設にあたり、サッカーの試合はよく観ますので、その変遷は理解しているつもりです。

まず男子サッカーは外国人の監督というのが気に入らない。そろそろ日本人監督のほうがコミュニケーションがとれて、日本特有の組織力を生かした作戦を練りやすいように思います。また、選手の質が悪い、頭が悪い、体力がない・・、そもそもアジアでのクラブチームが勝てないというのが日本の弱さの象徴・・、世界で勝てるチームには今のままでは永遠になれない。

女子サッカーにおいては同じ監督を長く続けさせるべきではない。これは会社経営も同じ。アイデア力がなくなり、新鮮さが薄れる。同じ経営トップの会社は落陽の憂き目にあうのはいつの時代も同じこと。いまや女子サッカーはアジアで北朝鮮、中国、韓国に次いで第四位がいいとこ・・・。

備前壬三番叟 浦上善次作
共布・共箱
幅170*奥行80*高さ264



備前による動物の置物、陶像に第一人者による作で1992年(平成4年)、78歳の製作と推察されます。干支のものとして大量に作られた作品か否かよくわかりませんが、愛嬌のあるような、ゾンビのような見ていて面白いね、と感じれる作品です。



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浦上善次:1914年( 大正3 )~ 2006年( 平成18 )。岡山県重要無形文化財保持者。1929年より名工西村春湖に師事。動物の置物や陶像などを得意とし、備前陶彫の第一人者。牛を頂点とした動物の置物、陶像、レリーフを得意とする。



昭和4年、西村春湖に師事してヘラ技術を、同10年、北村西望に入門して彫塑を学ぶ。昭和13年から文展(日展)に3年連続人選して頭角を現し、フランスのル・サロン展で、金(48年)・銀(46年)・銅賞(45年)を受賞し、国際的作家になる。



昭和47年 フランス・ル・サロン無鑑査会員となる。昭和48年 岡山県垂要無形文化財保侍者となる。昭和57年 岡山県文化賞、紺綬褒賞をうける。外でも評価が非常に高く、多くの人々に愛されています。主な作品は、岡山新空港やJR伊部駅の陶壁など。紺綬褒章や勲五等瑞宝章など、数々の栄誉に輝く。



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骨董を投資として考えるのは絶対に損ですし、動機が不純です。あくまでも作品を愉しむという基本スタンスが私の蒐集です。



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三番叟(さんばそう):日本の伝統芸能。式三番(能の翁)で、翁の舞に続いて舞う役、あるいはその舞事。能楽では狂言役者が演ずる。元々「式三番」という名称は、例式の 3番の演目という意味で、「父尉」「翁」「三番猿楽」の 3演目を指すものであり、室町時代初期には「父尉」を省くのが常態となっていたが、式二番とは呼ばずそのままの名称が使われている。



古くは、その3番のうち 1、2番目は聖職者である呪師が演じたが、「三番叟」は 3番目の演目であり呪師に代って猿楽師が演じ、「三番猿楽」と呼ばれ、「三番三」とも呼ばれる。三番叟の舞は、揉ノ段と鈴ノ段に分かれる。前半の揉ノ段は、面を付けず、足拍子を力強く踏み、軽快・活発に舞う。後半の鈴ノ段は、黒式尉を付け、鈴を振りながら、荘重かつ飄逸に舞う。翁の舞が、天下泰平を祈るのに対し、三番叟の舞は五穀豊穣を寿ぐといわれ、足拍子に農事にかかわる地固めの、鈴ノ段では種まきを思わせる所作があり、豊作祈願の意図がうかがえる。



老体の神があらわれて天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祝祷する神事的な内容である。式三番のうちでも、翁以上に後世の芸能に影響を与えた。歌舞伎や人形浄瑠璃などに取り入れられ、また日本各地の民俗芸能や人形芝居のなかにも様々な形態で、祝言の舞として残されている。なお、三番叟の系統を引く歌舞伎舞踊や三味線音楽を「三番叟物」と言う。

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「天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祝祷する」という吉兆の作品、ゾンビというと失礼か

永らく同じ考えで経営やチームを率いているとトップはゾンビ化してくるもの、サッカー協会はそうなっているのではありませんか?

我が息子は昨日より歯磨き開始・・、私や家内にときおり噛みついてくるので一種のゾンビかも??



飛瀑之図 望月玉渓筆 その5

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体操世界選手権などの中国の対応、新聞記事に対する韓国の対応にいついての記事をみると福沢諭吉が「中国と朝鮮国は交流するに値しない国」と表現した意味がよく解ります。現在の中国と韓国の道徳レベルが低いのは眼を覆うばかり・・・、無論政府の誘導が大きいのでしょう。

最近、無謀にも家内と茶室を作ろうという企てをしております。協力者は大学時代の同級生で青山に事務所があり、家内と同じ町に住んでいます。予算が合わないのでどんどん構想がしぼんでいきますが、なんとかそれなりのものをと具体的な打ち合わせに入ります。

茶室の形式で一番抵抗があるのが水屋です。座って洗うというのは時代遅れ・・、棚も地震が来たらどうなるの・・。今の形式的な茶室にはこだわらないという方針ですが・・、はてさてものになるやら・・・・。

それゆえ最近はますます資金不足につき、これぞという作品が入手できていません。真作と解っていながら、お値段も格安と解っていながら、入手できないのははがゆいものです。とはいえ逆に作品を処分しないと

本日はそんな折、ちょとした資金で入手できた作品です。季節はずれですが、ご容赦願います。

飛瀑之図 望月玉渓筆
紙本水墨軸装 軸先 共箱
全体サイズ:縦1870*横610 画サイズ:縦1350*横580



望月玉渓は玉仙、玉川、玉泉、玉渓と続く望月派の五代目で、子息には玉成がいます。望月派は代々御所に出入を許された家系で、御用絵を描いてます。玉渓は花鳥画を得意とし、四条派を折衷したやわらかな自然描写に定評があります。




帝室技芸員の父・玉泉に学び、品格のある作品を多く世に出し、伝統的な大和絵の最後の人と言われています。驕らず謙虚で奥ゆかしく、高雅なる品位を保つその崇高な人柄の玉渓を作品とともに敬愛する人は多かったと伝えられています。


箱書きには「大正七年(1918年)初夏 望月玉渓題鑑」と記され、44歳の時の箱書きで「題鑑」とあることから、その前に描かれた作品であることが推察されます。

  

夏の暑くてどうしようもない時に、このような掛け軸を飾るのもまた一興・・・、中国、韓国の道徳レベルが向上してくるのを日本はじっくり耐えて待ちましょう。



龍之図 狩野惟信(養川院)筆

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昨日は取引のある会社の水戸工場で芋煮会・・、元の会社の同僚らも参加し晴天の清風のもとで盛会でした。



先日、銀行の方との食事会の時に、待合に飾られた数点の作品を私が説明したことがありました。銀行さんで蒐集された作品のようで狩野探幽三兄弟の作品がメインでしたが、最近になってその時の銀行の方から室町での展覧会のチケットが贈られてきました 今日にでも行こうかな。

説明はしたものの内容に不確かなこともあったのでこれを機に再度、整理してみました。狩野派という日本を代表する画家群を本当に理解している人は何人いるでしょうか?

龍之図 狩野惟信(養川院)筆
絹本水墨軸装 軸先鹿角 合箱
全体サイズ:縦1920*横590 画サイズ:縦1070*横440



落款には「養川法眼筆 押印(「玄之斎」の朱文白丸印)」とあることから天明元年(1781年)29歳以降から寛政6年(1794年)42歳で法印になるまでの間の作品と推察されます。



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狩野 惟信:(かのう これのぶ)宝暦3年10月15日(1753年11月9日)~文化5年1月9日(1808年2月5日)。江戸時代の木挽町(こびきちょう)家狩野派7代目の絵師である。

父は狩野典信で、子に狩野栄信がおり、鍬形斎が弟子だった時期がある。号は養川(法眼時代)、養川院(法印時代)、玄之斎。号と合わせて養川院惟信と表記されることも多い。

狩野栄川典信の長男として生まれる。父が築いた地位を順調に受け継いで、歴代の狩野派の絵師の中でも異例に早い出世を遂げる。明和元年(1764年)12歳で早くも奥御用を務め、父と同様10代将軍徳川家治や老中田沼意次に厚遇され、天明元年(1781年)29歳で法眼に叙せられる。寛政2年(1790年)父の跡をうけ、木挽町狩野家を継ぐ。更に寛政6年(1794年)42歳で法印となり、病死が続いた宗家の中橋狩野家を尻目に、奥絵師四家筆頭の地位を確たるものにする。

江戸城障壁画や京都御所関係の絵事を多く手がけた。文化5年(1808年)、56歳で死去。早い栄達の割に画風は大人しく、父・典信が推進した江戸狩野派の新たな展開に大きく寄与することはなかった。しかし、大和絵を良くし、温和で軽妙な筆致に持ち味がある。

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さて主たる狩野派の画家の作品はいったいいくつ本ブログに登場しているのでしょうか? 各段、系統だてて蒐集しているわけでもないので、偏りのがあって複数の作品がある画家もいます。この主たる画家には贋作が多く、かえって狩野派では主たる画家でなほうに掘り出し物が多数存在するようです。




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狩野派の系図
正信

元信

直信(松栄)
┣━━━━━┓
州信(永徳) 宗秀
┣━━━━━┓
光信    孝信
┃     ┣━━━━┳━━━━━━━┓
貞信   守信(探幽) 尚信      安信(宗家)
            ┃       ┃
           常信      時信
            ┣━━━┓   ┃
           周信  岑信  主信
            ┃
           古信
            ┃
           栄川院典信
            ┃
            養川院惟信・・・本作品
            ┃
            伊川院栄信
            ┃
           晴川院養信
            ┃
            勝川院雅信

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この基本的な家系図がそらで言えるくらいでないと狩野派は整理できないようです。私が注目しているのは狩野晴川院。




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狩野派:江戸時代の狩野派は、狩野家の宗家を中心とした血族集団と、全国にいる多数の門人からなる巨大な画家集団であり、ピラミッド型の組織を形成していた。

「奥絵師」と呼ばれる、もっとも格式の高い4家を筆頭に、それに次いで格式の高い「表絵師」が約15家あり、その下には公儀や寺社の画事ではなく、一般町人の需要に応える「町狩野」が位置するというように、明確に格付けがされ、その影響力は日本全国に及んでいた。

この時代の権力者は封建社会の安定継続を望み、江戸城のような公の場に描かれる絵画は、新奇なものより伝統的な粉本に則って描かれたものが良しとされた。また、大量の障壁画制作をこなすには、弟子一門を率いて集団で制作する必要があり、集団制作を容易にするためにも絵師個人の個性よりも粉本(絵手本)を学習することが重視された。こうした点から、狩野派の絵画は、個性や新味に乏しいものになっていったことは否めない。

奥絵師は旗本と同格で、将軍への「お目見え」と帯刀が許されたというから、その格式の高さがうかがえる。奥絵師の4家とは探幽(狩野孝信の長男)の系統の鍛冶橋家、尚信(孝信の次男)の系統の木挽町家(当初は「竹川町家」)、安信(孝信の三男)の系統の中橋家、それに狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)の系統の浜町家である(岑信は、狩野尚信の長男である狩野常信の次男)。探幽には初め実子がなかったため、刀剣金工家の後藤立乗の息子の洞雲(狩野益信、1625 - 1694)を養子とした。後に探幽が50歳を過ぎて生まれた実子である狩野探信守政(1653 - 1718)が跡を継ぐが、この系統からはその後見るべき画家は出なかった。

探幽には多くの弟子がいたが、中では『夕顔棚納涼図』を残した久隅守景(くすみもりかげ、生没年未詳)が著名である。守景は何らかの事情で狩野派を破門になり、後には金沢方面で制作したが、経歴について不明な点が多い。

前述のとおり、狩野家の宗家は、探幽の弟・安信の中橋家が継ぐことになった。安信の子の狩野時信(1642 - 1678)は30代で没し、その子の狩野主信(うじのぶ、1675 - 1724)が家督を継ぐが、この系統からもその後目立った画人は出ていない。都会的な画風で人気を博した英一蝶(はなぶさいっちょう、1652 - 1724)は安信の弟子であった。

奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、尚信の系統の木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信(1636 - 1713)、その子の狩野周信(ちかのぶ、1660 - 1728)と狩野岑信(みねのぶ、1662 - 1708)らが出ている。岑信は将軍・徳川家宣の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。このほか、狩野興以(? - 1636)は狩野家の血族ではないが、探幽ら3兄弟の師匠筋にあたる人物で、その功績によって狩野姓を与えられ、後に紀州徳川家に仕えている。

一方、京都に残って活動を続けた「京狩野」という一派もあり、狩野永徳の弟子であった狩野山楽(1559 - 1635)がその中心人物である。山楽は豊臣秀吉の家臣であった近江の木村家の出で、元の名を木村光頼と言った。京都・大覚寺宸殿の障壁画『牡丹図』『紅白梅図』が代表作で、金地に色彩豊かで装飾的な画面を展開している。山楽の娘婿で養子の狩野山雪(1589/90 - 1651)は、妙心寺天球院障壁画のほか、屏風絵などの現存作がある。樹木、岩などの独特の形態、徹底した細部描写など、狩野派の絵師の中では異色の個性的な画風をもつ。山雪の残した画論を、子の狩野永納(1631 - 1697)がまとめたものが、日本人による本格的な絵画史としては最初のものとされる『本朝画史』である。

木挽町家からは、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 - 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 - 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 - 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 - 1846)などが出ている。晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。

晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 - 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 - 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 - 1908)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。

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狩野派は形式的になりすぎたがゆえに国内外から過剰なほどに評価が低く見られています。浮世絵などに比べると格段に評価の違いが解ります。家元のような制度が自由奔放さを失わさせていくものです。日本の茶道もこのままでは廃れる一方でしょうね。日本の茶道の家元制は歴栄が古いようであたらしいものです。ま~、あと数十年で滅びるでしょう。



本日の作品の龍は狩野派の作品としてはよく描けているほうですし、龍をぼやかすことが多い中で、龍の体型?がほぼわかる面白い作品だと思います。印章や落款はよさそうです。

御衣図 西村五雲筆 その5

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昨日の日曜日は日本橋の美術館に向かいましたが、途中で東京美術倶楽部へ方向転換・・。



要は一流の骨董店の展示即売会のようなもので、なかなか見応えのある作品が、手にとって鑑賞できるところが素晴らしい。ただ、小生は幸紀と一緒なので、まったく見た気がしないのですがだいたいは解るものです。いいものはお値段もそれなりにするものと改めて実感・・、また本物が持つ品格や迫力もまた再認識した鑑賞でした。

さてそろ社の業績は今期も中間点を過ぎて業績が気になる頃です。常に新たな目標、達成点を修正を加えながら、社員間で共通認識を持つ時期と考えています。業績は上向きなのでモチベーションは上がってきていると実感できるので心強いかぎりです。

本日はちょっと女々しい画題の作品です。


御衣図 西村五雲筆 その5
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱 
全体サイズ:横474*縦1875 絵サイズ:横343*縦973



本作品は菅原道真の下記の詩に基づいた作品です。題にある「御衣」とは「恩賜の御衣」のことで天皇から賜った御衣を意味します。

去年今夜待清涼:去年の今夜 清涼に待す
秋思詩篇獨斷腸:秋思の詩篇 獨り斷腸
恩賜御衣今在此:恩賜の御衣は今此こに在り
捧持毎日拜餘香:捧持して 毎日餘香を拝す

訳:去年の今夜は清涼殿の宴で、お傍にはべらせていただきました。「秋思」という題で私が歌を詠んだこと…思い出すとはらわたが引きちぎれそうです。あの時、いただいた御衣は、今もここにございます。毎日捧げもっては、あの時の残り香を拝しております。



詩の作風は白楽天の影響が見られます。学問・詩歌にすぐれ、亡くなった後「天満宮」「天神様」として全国の神社でまつられました。この詩は配流先の大宰府で詠んだもの。去年と今年のあまりに大きな落差を歌っています。九月九日は「重陽の節句」、その翌日の十日に、宮中で詩会がもよおされたのです。そこで道真は帝(醍醐天皇)のリクエストに応じて見事な詩をつくった。
ムム、さすが道真であると。そこで御衣をたまわった。ははっ、ありがたきしあわせと。あれはつい去年のことなのに、今年は大宰府で寂しく過ごしている、その、あまりの落差。



ま~、女々しいと言えば女々しい・・出世や官位がそれほどこだわるべきものなのか? 現代にもそういう人は多いのですが、脱却しないと本当の幸せは見えてこないものと思っています。



さて菅原道真が詠んだ「秋思」とは下記の詩のことです。

丞相度年幾楽思:丞相年を度って 幾たびか楽思す
今宵触物自然悲:今宵 物に触れて 自然に悲し
聲寒絡緯風吹処:声は寒し 絡緯 風吹くの処
落葉梧桐雨打時:葉は落つ 梧桐 雨打つの時
君富春秋臣漸老:君は春秋に富ませたまい臣は漸(ようや)く老いたり
恩無涯岸報猶遅:恩は涯岸無く 報ずることなお遅し
不知此意何安慰:知らず この意 何くにか安慰せん
飲酒聴琴又詠詩:酒を飲み琴を聴いて また詩を詠ず




菅原道真といえば、「東風吹かば にほひおこせよ 梅の花 主なしとて 春を忘るな」の歌も有名ですね。都を去る時に庭の梅を見て詠んだとされます。



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西村五雲:明治10年京都に生まれる。本名源次郎。23年岸竹堂に師事する。26年日本美術協会第6回展で褒状を受け、30年と32年に全国絵画共進会で連続して四等賞を受賞する。 30年に師竹堂が没後、竹内栖鳳に師事する。33年新古美術品展で三等賞、36年には第5回内国勧業博覧会に「残雪飢狐」で褒状、40年第1回文展で三等賞と次々に受賞を重ねる。 明治45年画塾を設け、大正2年京都市立美術工芸学校教諭となる。大正9年帝展委員、13年市立絵画専門学校教授となる。 大正13年画塾を晨鳥社と命名、後進の指導に当たり新進作家を輩出する。 昭和8年帝国美術院会員、9年からは珊瑚会展、春虹会展、七弦会展などにも出品する。 昭和13年京都で没。享年62歳。




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同じものを画題とした下記の作品はずいぶん以前に処分済みです。

菅公恩賜之御衣 伝安田靭彦筆
絹本着色絹装軸箱入 軸先塗 
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横360*縦1060



当時の説明書が出てました。すっかり忘れていました。

********題名である「菅公」とは菅原道真のことであり、「恩賜之御衣」とは9月10日の題で詠まれた歌の内容による。歌は「去年今夜侍清涼 秋思詩篇独断腸 臣詩多述所憤 恩賜御衣今在此 捧持毎日拝餘香 宴終晩頭賜御衣 今随身在笥中 故云」である。訳は「去年の今夜清涼に待し,秋思の詩篇獨り 斷腸恩賜の御衣  今此こに在り捧持して 毎日餘香を拝す。」である。道真はこの詩作の後、二年にして世を去った。概略の意味は「9月10日:重陽後朝の宴。この作品は、去年の9月10日と今日の9月10日とを比べ、その差異の大きさを詠っている。去年今夜待清涼:去年の今夜にあたる九月十日の重陽後朝の宴に、清涼殿で、帝のお側近くにはべっていた。秋思詩篇獨斷腸:帝に褒められて、褒美として「恩賜の御衣」を賜ったが、一年後の今日は腸がちぎれるほどの非常な悲しみになっている。恩賜御衣今在此:詩作の褒美として帝から賜ったお召し物は、今でも、ここある。捧持毎日拜餘香:捧げ持って、毎日、残り香をかぎながら、帝の恩恵を思い起こしている。」である。落款・印章は資料に酷似しており、真作の可能性が高いが、真贋もまた後学の判断としたい。細やかな表現力が良い。********

官位・・、地位・・、栄光・・、会社の業績の中でモチベーションを保つものとは何なのか・・、考えてしまうこのごろです。

梅下老人之図 柴田是真筆 その6

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若い女性大臣については本ブログで投稿したように、非常に不適切な人事であると述べましたが、思ったより早く辞任になったようです。少子相の時になにもできない大臣と評したようにもっと適切な人の経済相になっていただきたいものです。人事はとても重要なことですが、それは政界も会社も同じことのようですね。人事の重要性は上司に徹底的に教え込まれた経験があります。

そんなニュースを見ながら週末も夜は幸喜が就寝後にお茶・・。



家内とお菓子は半分ずつ・・・、とても美味しいお菓子でした。



さて、今日から全国行脚・・、一便で広島へ・・・。

本日の作品の作者の柴田是真は著名がゆえに贋作も多い画家、漆工芸家です。本作品も通常なら席画程度の作であり、真贋が難しく入手するのをためらう作品でしょうが、小生は購入に踏み切りました。理由は鑑定箱書きです。通常は鑑定箱書きも贋作が多いので、あまりあてにはできないのですが、この箱書きは信頼できると判断しました。

梅下老人之図 柴田是真筆 その6
紙本水墨淡彩 軸先鹿骨 庄司竹真鑑定箱入
全体サイズ:縦2083*横 画サイズ:縦*横788



むろん購入理由は箱書きだけではありません。画風やタッチも判断対象であり、購入実績からの経験則による購入判断です。



本作品は梅の枝を剪定しようとしてるのでしょう。「桜切る馬鹿、梅切らぬ馬鹿」ということわざがあります。このことわざは、梅は管理上、「剪定しないといけないよ」と言う意味であって、梅の剪定の必要性を教えたものと思います。ただ世間で言われているように、桜は「ほったらかし」でよいと言う意味ではありません。桜には、テングス病など病気の他に、樹形をみだす徒長枝が発生するとのこと。これらを剪定することをおそれるあまり放置すると、病気の蔓延による衰退、他の桜への感染、後者は、放置の結果枯損することで枯損部位からの腐朽につながりそうです。

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庄司竹真は東京生まれの日本画家。名は余四郎。字は有敬。別号に可寛菴、精々軒等がある。柴田是真に師事し、絵画、描金、漆画を学んだ。昭和11年(1936年)没、82才。柴田是真の作品の鑑定を行っている。

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随分前に庄司竹真の箱書のある下記の作品を入手しております。まだまだ柴田是真を充分知らない時に購入したものです。

甲子之図 柴田是真筆
絹装軸紙本水墨鑑定箱入 
画サイズ:196*788

箱書きや落款、印章を他の作品と比較するのも掛け軸の骨董の愉しみのひとつです。

  

柴田是真の作品は贋作が多く、未だにこれらの作品の真贋は解っていませんが、ま~、いいではありませんか、愉しむのが一番。



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柴田是真は、幕末から明治時代に活躍した絵師・蒔絵師。文化4年(1807)に生まれ、蒔絵師古満寛哉に入門して蒔絵の技術を、文政5年(1826)には円山四条派の絵師鈴木南嶺に就いて絵画を学ぶ。居宅を「対柳居」と命名。以後、亡くなるまでの50余年間、この対柳居で数々の名品・秀作を制作した。和紙に色漆で描く漆絵も多数遺し、是真は下図を描くことにより、画期的な蒔絵・漆絵を生み出す。是真の号は、聖徳太子が遺したという「世間虚仮 唯仏是真」の偈に拠る。

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あと何年梅の花を愉しめるのか? そんな是真の思いが伝わるような絵ですね。梅の整枝や剪定の時期は、10月~1月頃に行うのが通例(夏もあるらしい)からその時期用の掛け軸かな。



高齢にて長女が誕生した柴田是真に我が身を重ね合わせる、そのような作品です。


リメイク再投稿 その6 備前 蓮葉盆 金重陶陽造

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最近忙しくて、作品の整理をする時間がありません。そこでリメイクした投稿・・・。ちょっとした期間の再公開作品です。

昨日は日帰りで広島でしたが、昼休み時間には頼山陽記念館に皆と一緒に見学しました。館長自ら説明していただきました。時間がなかったのでほんのさわり部分のみ・・・・・



説明によると頼山陽の現在市場に出回っている作品のほぼ100%が贋作とのこと 当ブログでは直接には頼山陽の作品を登校したことはありませんが、下記の作品が頼山陽に関連があります。

平田玉蘊燭坐図 柴田義董筆 伝頼山陽賛
絹本着色軸装 軸先合箱入
全体サイズ:縦1155*横333  画サイズ:縦375*横148

当然のことながら館長さんは平田玉蘊のことはご存知でした。

さて本日の作品の作者の金重陶陽についてはもはや説明不要でしょう。

リメイク再投稿 2010年5月10日掲載より

清水の舞台から飛び降りる気持ちで購入した初めての骨董での大きな買い物でした。

備前 蓮葉盆 金重陶陽造
共箱 
344*244*高さ44

20年近く前になろうか、仕事の関係で転勤が多く。盛岡に居た頃、時々立ち寄らせて頂く骨董店が市内にありました。西川さんという御夫婦で経営されている「古陶庵」という名のお店です。

そのお店で本作品を見せて頂き、「なかなか手に入りませんよ」と言われました。サラリーマンの私には非常に高価でしたが、一目で気に入りましたので、思い切って購入した作品です。

当時は作者である金重陶陽氏の名前もろくに知りませんでした。本作品は蓮の葉をモチーフにした盆状の皿で、裏には葉脈を表現し表裏を合致させ彫り込んでいて、縁の焼成は1ミリもないほど驚くほど薄いです。


金重陶陽は茶器で有名ですが、また細工物を得意とし、本作品の品格の高さには驚きました。作品に込められた祈りの念というか、備前にしてこの薄さは触るのさえ恐怖です。金重陶陽の面目躍如たる作品のように思えます。裏には「土、」(39歳~45歳まで使用)の刻銘があり、共箱に収められています。菓子皿として使うといいのでしょうが、破損するのが怖くて、未だに仕舞い込んだままです。


     

詳細は後日、再撮影後に投稿する機会があったならということにします。これほどの作品は金重陶陽の作品には類を見ないものです。

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金重陶陽:昭和42年没、享年71歳。人間国宝、岡山県出身。備前中興の祖、日本工芸会理事。細工物に長じ、雅味豊な茶陶をものにし、皿の重ね焼きで緋襷をとることにも成功した。しかし、陶陽の最も評価されるべき点は作陶姿勢であり、先祖と土に対する感謝の念、古備前を復興し、備前焼を再興し育て、後世に伝えるという責任感そのものであった。そして、その作陶姿勢を貫き通し、やり遂げたことが後世の人々に「備前の巨星」、「再興の祖」と称えられる真の理由である。

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盛岡の骨董店・・、今はどうしているのでしょうか? 今思うと本物ばかりではなかったようです。中途半端な値段でまがいものを買わされたこともありましたが、今となってはそれも勉強代です。

仕事で勤務した地方都市・・、仙台、山形、盛岡、秋田、八戸、青森、水沢と気持ちの整理もついたので一度ゆっくり散策してみようかと思います。骨董の思い出もすべての街にもありますが、本当にいろんなことがありました。早く自分の自由な時間を持ちたいと思うこの頃です。

荒磯 平福百穂筆 その17

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物置改修にあたり種々の準備中・・、その手始めに棚を購入しました。



総檜でやたらと重いらしい・・、まだ私は見ていないので



気に入ったのは背面の明りとり・・。



この後ろの壁に窓をつける予定・・。



ちょっとした改修ですが、いろいろと愉しみたいものです。

本日はわが郷里の画家である平福百穂の作品です。

荒磯 平福百穂筆 その17
絹本水墨淡彩 絹装軸 軸先象牙 共箱二重箱
全体サイズ:横660*縦2340 画サイズ:横1380*横510



印章から大正6年前後の作品と推察されます。切手にもなっている有名な「荒磯(ありそ)(東京国立近代美術館蔵)」は1926年(大正15年 昭和元年)の製作ですから、その前に描かれた作品ではないかと推察されます。



わりと大きな作品で小さな床の間では高さが足りないかもしれません。



自然の一瞬の動きを実に清らかに表現してる作品だと思います。



海鵜を描いた作品であろうと思われ、本ブログで投稿された作品の中には同じような構図で池上秀畝の作品があります。

鵜 池上秀畝筆
紙本水墨淡彩 軸先象牙 堀田秀叢鑑定箱
全体サイズ:縦2145*横405 画サイズ:縦1250*横270




この作品は昭和15年以降の最晩年の作品と推察されますから、本日の作品のあとで製作された作品と思われます。ほぼ同時代に活躍した二人の画家の作品を比べられるには非常に興味深いものがあります。

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平福百穂:穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。が,14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。



16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。

素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。

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源内焼 その46 三彩伏虎羅漢図輪花皿

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一昨日は都内のホテルのパーティに出席後、雨なので家内を迎えにお茶のお稽古場へ・・・。



皆さんは間近に控えているお茶かに向けて猛稽古? 私と息子は気楽なものでお菓子を食べてお薄をいただくという優雅なひと時・・。



さ~、お菓子も食べたし、お茶も飲んだし、そろそろ帰るか~~

本日の作品は久しぶりに源内焼です。

源内焼 その46 三彩伏虎羅漢図輪花皿
合箱入
口径253*高台径*高さ38



掲載されている同型の作品には図録では「虎乗人物図皿」と題されていますが、正確には「伏虎羅漢図」と題した方が適切のように思います。源内焼の見込みの主題は中国古典を典拠とするものが多く認められますがそのひとつです。源内焼の特徴は人物の表情や細かな風景描写などを、色釉で細かに描かず、数種の釉色で塗り分けているのみですが、その代わりに型の模様は、非常にシャープな浮き彫りになっています。漫画チックな表情がまた面白いものです。



源内焼の特徴は人物の表情や細かな風景描写などを、色釉で細かに描かず、数種の釉色で塗り分けているのみですが、その代わりに型の模様は、非常にシャープな浮き彫りになっています。




さていつものように小汚い源内焼の作品の蘇生です。まずは家内が綺麗にします。



裏面も・・。



どうしてこんなに綺麗になるのかは家内だけの秘密です。



虎の髭まで明確になりました。綺麗になると古さがなくなると嫌う方もいるでしょうが、源内焼にはそれは通用しませんね。



参考作品 その1 同型 掲載作品(さぬきの源内焼掲載 作品NO21)
三彩虎乗人物図輪花皿
 口径253*高台径*高さ38




参考作品 その2 なんでも鑑定団出品作
三彩五鳥紋八稜皿
口径253*高台径*高さ38
評価金額 70万



さて我が家の虎はだ~れだ?





リメイク再投稿 その9  備前 跳馬 金重陶陽造 その5

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干支の作品であり、居間の飾り台の上に飾って楽しんでいる作品です。

2014年4月22日投稿 修正投稿

秋田市中通の県立美術館の新館長に、県工芸家協会会長の陶芸家平野庫太郎(くらたろう)氏(68)=同市=が就任した。」とのこと・・、平野庫太郎氏は本ブログの何度も登場してる方です。んん~、5月の連休に早速アポイント。

出来心で購入した「金重陶陽の作品??」。他の金重陶陽の所蔵作品はひとつをのぞき真作と判断していますが、金重陶陽も贋作の多い陶工の一人です。

家内が出産後、実家から久しぶりに帰宅し、この作品を観てびっくり・・、「ブロンズ?、えっ、備前!」「えっ、金重陶陽??」そう、金重陶陽である必要は全くないのですが、よくできています。

備前 跳馬 金重陶陽造 その5
桂又三郎鑑定箱 
幅150*奥行320*高さ235



金重陶陽が若い頃には細工物をよく製作したていたようです。この頃を「第1期」と分類するようです。

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第1期:細工物の名手(明治43年~昭和5,6年頃まで)

主に細工物を制作した時期。細工物を作る陶工は「でこ師」と呼ばれ、陶陽も22,3歳の頃すでに伊部を代表する「でこ師」のひとりとなった。明治29(1896)年、和気郡伊部村(現備前市伊部)で生まれているので、「土、」(39歳~45歳まで使用)の刻印が使用されたのは1935年以降であり、昭和10年(1935年)以降となる。細工物をまだ作っていたかどうかが、真贋の鑑定のポイントとなる。「土、」の刻印の細工物の作品は鶏の香合にも見られるように存在していますのであり得ないことではあります。

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「土」の刻印から昭和10年以降に製作したものと思われますが、真贋の判断には慎重を要します。細工物に「土」の刻印のある作品はたくさんあるようです。



さて本作品への売主の口上(売り込み時の説明)・・。

「本作品は金重陶陽が若い頃によく製作した細工物のひとつで昭和10年以降に製作したものと思われます。造形、表情、焼成そのどれを取っても素晴らしく、その圧倒的なまでの存在感にただただ陶酔するのみであります。その精悍な顔付きを見れば、目はまるで生きているかのような生命力を放ち、そして胴体は全身の筋肉が波打つような躍動感に満ち溢れ、今にも動き出しそうな程の完璧な造形美を誇っています。



水簸した土を用いたキメ細かな土肌は、じっくりと焼成されまるでブロンズのようであり、隆々とした筋肉の動きがより際立った勇壮な馬に仕上がっていますが、陶陽先生らしい細部の丁寧な処理により、他と一線を画す優美さと気品をも兼ね備えています。このように精緻な細工でありながらも窯疵一つ無い完璧な状態で存在しており、正に奇跡の逸品と言っても過言では無く、後世に残る陶陽先生の名品である。」




なんともは、立派な一物、もとい馬並みの口上・・、いや立派な口上・・・

箱は桂又三郎鑑定箱・・・・・・・。



箱書は真贋にはまったく関係がくモノだけを観ることが基本とのこと。

さて刻印を他の真作と比較してみました。



刻銘を拡大してみます。



真作の茶入の刻印との比較。



これが写真の限界ですが、。他の「蓮葉盆」の作品の刻銘と比べても同じような刻銘です。ここまでが素人の限界だね。

本作品の真贋や如何? 真贋は奥が深いね~。


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金重陶陽:昭和42年没、享年71歳。人間国宝、岡山県出身。備前中興の祖、日本工芸会理事。細工物に長じ、雅味豊な茶陶をものにし、皿の重ね焼きで緋襷をとることにも成功した。しかし、陶陽の最も評価されるべき点は作陶姿勢であり、先祖と土に対する感謝の念、古備前を復興し、備前焼を再興し育て、後世に伝えるという責任感そのものであった。そして、その作陶姿勢を貫き通し、やり遂げたことが後世の人々に「備前の巨星」、「再興の祖」と称えられる真の理由である。

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砧?青磁 陽刻蓮紋合子

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先週末は初めての蓼科にて泊りがけで社員の親睦ゴルフで、当方は三週間連続での週末休みがつぶれており、ブログの原稿の整理が追いつかないし、改修計画が進みません ただ設計の友人もまた街づくり?とかいってカンボジアに渡航中

ゴルフ好きは娯楽のようなものでしょうが、当方はゴルフは年に2回が普通・・・、仕事の延長のようでしかありません。今年はこれで3回ですので打ち止めです。

収穫は宿泊した施設の再考をしなくてはいけないと感じたことです。そのことを検討し、報告してきた社員がいないというのはさびしいかぎりです。問題意識や行動力に乏しい・・??。

さて青磁は龍泉窯の砧青磁が最高峰ですが、本日は砧系の色調である青磁の作品です。

砧?青磁 陽刻蓮紋合子 
古箱入
口115*高台径53*高さ42



本作品は砧が正しい分類なのか、はたまた影青に分類するのがいいのか、また別の分類なのかは当方には判断しかねるところです。売り先の説明は影青の青磁でしたが?



青磁の文様のある作品は刻まれた筋に釉薬がたまり、そこだけ少し色が濃くなり、なんとも静謐にして艶かしい様相となります。青磁ではその文様が花の文様となり珍重されています。



本作品の産地および時代は不明ですが、濃い青の青磁はなかなか魅力的です。明か清朝? 景徳鎮?、



古い龍泉窯の砧青磁ならかなりの貴重品ですが、本作品は時代は古くともせいぜい明であり、清朝の可能性が高い龍泉窯の作品と推察しています。




合子なので、普段使いの薬味入にいいようです。古さもあり、きれいなので普段の茶会の香合にもいいかもしれません。家内は気に入ったようです。



砧青磁の謂れは以前に投稿して説明済みですし、本ブログの読者はご存知と思うので省略しますが、砧青磁はは中国の南宋前期時代、龍泉窯で焼かれた、やや濁りがあって青味の強い青磁釉の総称です。現代では青磁釉の組成に微量の銅化合物を添加することで、深みのある砧青磁釉が得られることが解明されているとのことです。模倣品が数多くあるようですので、高い値段での購入は素人は論外のようです。

古そうな箱入です・・、といってもおそらく明治期まで・・。



青磁は世界は美しいものですが・・。



骨董というのは常に存在価値というものを問わなくてはいけません。会社の機械、施設や部署も同じ、必要ならそれはコストに見合ったどういう価値観からが大切であり、きちんと説明責任を伴うものです。説明責任を果たせない人が多い

忘れ去られた画家 瑞祥 山元櫻月筆 その2

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仕事での全国行脚は東北、広島、横浜についで本日早朝より、大阪、名古屋に向かいます。4週連続週末休日なしなのでちょっとお疲れ・・・

「春汀」という画家をご存知の方は少ないでしょうし、後日「山元櫻月」という画家でもあるということを知っている人もまた少ないでしょう。最盛期以降は「画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。」ことが大きく起因していることもあるのでしょう。

瑞祥 山元櫻月筆 その2
絹本着色軸装 軸先欠損(後日取付) 共箱(初号春汀銘)
全体サイズ:横490*縦2200 画サイズ:横1300*横357



山元桜月(春汀)は富士の作品で著名ですが、本作品は吉祥図として白雉を描き、題は「瑞祥」とあります。




「瑞祥」とは「めでたいことが起こるという前兆のこと、吉兆、祥瑞」のことです。




日本の歴史に名を残す瑞祥動物と言えば、雉(きじ)であり、白い雉は古くから吉祥とされています。下記の「白雉改元」を参考にしてください。



号は「春汀」とあることから、昭和10年(1935年)46歳までの作品であることが推察されます。

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山元桜月:山元桜月は、明治22年(1889年)に滋賀県滋賀郡膳所町(現滋賀県大津市)で山元治三郎と庄子夫妻の三男として誕生した。父治三郎は山元家の入婿で、母庄子の末弟は近代京都画壇を代表する画家の一人山元春挙である。

治三郎夫妻は子宝に恵まれ、六男二女の子をもうけ、桜月は四番目三男として生まれ三郎を名付けられ、叔父である春挙は幼ない桜月の画才を見抜き、明治33年(1900年)桜月の入門を許し春汀の名を与え、以降厳しく実写の道を教えたと伝えられる。

桜月は才能を遺憾なく発揮し、大正3年(1914年)第8回文展において『奔流』が初入選し、以降文展・その後の帝展に連続入選を果たし、昭和3年(1928年)には帝展で推薦(無鑑査)と順調に地位を固めていった。

その後、昭和8年(1933年)師であり叔父でもある春挙が亡くなると、昭和10年(1935年)には名を春汀から桜月に改め、帝展を退会し画壇から一歩身を引くと共に画商とのつき合いも断った。



桜月が描く対象も一般風景から山岳画へと変わり、昭和14年(1939年)改組文展に『早春の芙蓉峰』を出品し、以降富士山を描き続け、翌15年(1940年)には山梨県の山中湖村に移住し、富士山の観察とスケッチに没頭した。

桜月が描く富士山の絵について、横山大観は「富士の真の姿を描いて行くのは桜月君が最もふさわしい画家」と評し、昭和30年(1955年)東京で開かれた桜月個展において川合玉堂は、多くの期待を持って個展を楽しんだと伝えられる。

桜月は自著『神韻』の中で富士山を描くことに対して「芙蓉峰と雲の調和は他の高山に比類なき美の極地」、「先変万化の景観は、宇宙の無限大と等しく意義を示す世界無比の神秘」と称し、また後年「富士山を見ていたらその崇高な姿に魅入られ、誰も戦争など思い寄らないだろう。そして心から平和のためには力を合わすようになる。」との信念から、富士を描いた作品を世界の指導者に対して数多く寄贈した。昭和60年(1985年)に死去した。享年97才。

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軸先はとれてなく粗末にされていたのですが、共箱に収められ古来から吉兆の図としていた作品ですので、きちんと修復し後世に伝えていくべき作品であろうと思います。当方で所蔵することになったのも何かの縁でしょう。




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白雉元年(650年)二月十五日:白雉改元。
 
この年二月九日、穴戸(あなと、後の長門、山口県北部)国司草壁醜経(くさかべのしこふ)が白い雉を捕らえ、孝徳天皇に献上した。孝徳天皇はこのことの意味を百済君豊璋(くだらのきみほうしょう、後の再興百済王、当時百済の人質として日本にいた)や僧みん(「みん」は「日」の下に「文」)らに問うたところ、一様に中国の故事からこれは瑞祥現象(大変めでたい印である)と答えた。




これをもとにこの日朝賀の儀式(元旦の儀式であり、朝廷の最大の儀式であった)のような盛大な儀仗を整え、左大臣巨勢徳陀古(こせのとこだこ)、右大臣大伴長徳(おおとものながとこ)以下の百官が四列に整列する前をこの白雉を乗せた輿を宮門の中に入れ、続いて左右大臣、百済君豊璋を始めとする百済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の人々に至るまで朝堂に参入、天皇と皇太子(中大兄皇子)にこの白雉をご覧いただいた。

百官を代表した巨勢徳陀古の慶賀の言葉に応え、天皇はこの瑞祥現象を記念して大化六年を改めて白雉(はくち)元年と改元することを告げ、またその雉を産した穴戸の住民の調(税)・労役を三年間免除した。

日本最初の公的年号である大化に続く二番目の元号「白雉」はこうして「白雉が出た。」という瑞祥現象を記念して制定された。こういった現象を記念しての改元は奈良時代を中心にこれ以降もよく見られるようになる。ただ元号そのものはこの孝徳天皇の崩御によって白雉以降、天武天皇の朱鳥(あかみとり)まで暫く途絶えることになる。(日本書紀)

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山元春汀は山元桜月のことであることと、めでたい吉祥の図であることから購入した作品ですが、そのようなことを知っていないと見落とす作品です。本作品は両方の軸先が欠損しており、軸先がいいものだったので他の作品の表装に用いた可能性もあります。作者や図柄の意図を理解していない所蔵者は、知らずにそういうことをしたのなら、あまりいいことはなかったでしょうね。骨董というものは不思議で、貴重な作品や由緒ある作品を手放すとあまりいいことはないようですよ。



家内に本作品が吉祥図だyほと説明したら、「ふ~ん、だから一文字は梅の図柄なんだ。竹と若松が描かれているから合わせて松竹梅なんですね。」だと、小生は気がつかなかった



掛け軸の整理が追いつかないので、しばらく本作品を今に飾っていたら、息子が掛け軸用の矢はずを振り回し、さも「そろそろ、飽きてきたのでほかの作品がいい。」とばかり・・・


忘れ去られた画家 河畔清遊図 庄田鶴友筆

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会社の業績というのは予断ならぬもので、常に改革と新たな目標設定が必要なものだと思います。経営者は時代の流れと周囲の状況からアイデアや経営目標を生み出し、社員のモチベーションを高めるべく経営を行う必要があるように思います。当たり前だと思うのですが、なかなか的を得た施策というものは生まれにくいもので、ちょっと間違うと社員のモチベーションを下げる結果にもなりかねないので慎重さも必要です

庄田鶴友という画家は私も本作品で初めて知りました。本作品は出来の良さを気に入って購入したものです。骨董はもともとその作品が自分のインスピレーションにあうかどうかで所有するかどうか決まるのが基本です。著名な画家とか、将来値段が高くなるからとかというのは邪道で、そういう欲が贋作を購入するという失敗を招きます 

これは仕事にも同じことが言えて、利益や功名心が先走ると結果的には大きな失敗をし膨大なる損失を招きます。会社での仕事は皆で、組織で行うのが基本です。個人プレーはたとえ成功しても評価してはいけません。功名心からの個人プレーは蔓延しないようにしなくはいけません。組織で仕事を行うためには「人の好き嫌いを仕事に持ち込むな」という私の基本理念があります。ちなみに最近のテレビドラマの風潮に個人プレーを高く評価するような傾向がありますが、若い人が大きな勘違いをしないようにしなくてはいけません。その仕事が周りからどう評価されているか、社の方針に合っているかどうか、説明責任を果たしているかどうかを確認するのは社会人としての基本です。

河畔清遊図 庄田鶴友筆
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 共箱
全体サイズ:縦1350*横650  画サイズ:縦440*横510



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庄田鶴友:明治12年(1879)~昭和23年(1948)。日本画家。明治12年(1879)9月28日奈良県柳生村生まれ。本名は常喜、別号は暁観。京都市立美術工芸学校絵画科を卒業後、山元春擧に師事する。



明治36年第5回内国勧業博覧会に『初冬』で褒状。明治40年第1回文展に『海辺』で入選、以後文展に入選を重ねる。明治43年京都市立絵画専門学校助教授となり、のち教授として後進の指導に尽力する。



春擧門下による「早苗会」に出品を重ねるとともに、大正8年井口華秋、池田桂仙、上田萬秋、林文塘らと自由な制作を目指して「日本自由画壇」を結成、定期展に出品を重ねる。昭和6年官展に復帰し、昭和8年帝展に推薦となり、文展・新文展で活躍する。



写生に基づいた山水画、風景画を得意とする。昭和8年帝展で推薦。京都市立絵画専門学校教授。昭和23年(1948)4月25日京都市で歿、68歳。



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波に揺られてのんびりしたいものです。



良きアイデアはちょっとした休息が必要・・・。

リメイク投稿 氏素性不明作品 古伊万里 藍柿花図大皿

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ず~っと、ソファの目の前に飾ってる作品です。本ブログに三度目の登場です。飾ってるのはいつ壊れてもいいような廉価な大皿・・、どこかの骨董市での衝動買い・・、果たしてこれは古伊万里?? 

大きな割れの補修跡があり、廉価で購入してきたもののひとつです。当方は古伊万里は蒐集対象ではないのですが、染付けの文様の出来の良さで購入することがあります。

古伊万里 藍柿花図大皿
口径314*高台径68*高さ56



「古伊万里」といってもこれもまたその分類は数多くあり、とても素人にはその判別は難しいもののようです。



このように大きく割れ、見込みには大きな窯傷のある作品・・、通常なら買わない人が多いでしょう。骨董市で目の前にこのお皿があったらいくらなら買いますか?

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古伊万里とは言っても幾つかの分類があります。それぞれの年代と特徴を纏めると下記のようになります。

初期伊万里:1610年くらいから焼き始められた伊万里の、創生期の作品を総称して初期伊万里と呼びます。器型が独特で、初期伊万里には特徴がいくつかあります。初期伊万里はその素朴で奔放な作風により、愛好するコレクターはかなり多いです。最近はだいぶ安くはなってきたようですが・・。

藍九谷(寛文様式):初期伊万里が完成してから約50年後の寛文時代に入ると、かなり洗練された物に進歩してきました。先ず高台が広くなり器型が薄くなりました。そして明らかに観賞用と思えるものが出来てきました。まだまだ伊万里など庶民の手に入る物ではありませんでした。製品の特徴は、深みのある濃い呉須(顔料)を用い、力強い筆でもって動植物、風景などを書き込んでいます。またダミ(塗りつぶし)を用い出したのも、この藍九谷の特徴です。中国では明から清へと変わり、その中国国内が混乱している間に、有田が急速に技術とともに、生産量を伸ばしていきました。更に、1659年から、オランダ東インド会社からの大量注文を取り付け、伊万里は最盛期を迎えます。



藍柿(盛期伊万里):藍柿とは、時代的に言うと、元禄を中心にして作られた染付けの最上手の器です。色絵・染錦もありますが、染付のものに限って使われる名称です。中には、染付でできたものに後で色をつけたものもあります。伊万里の歴史においては、最高技術をもって作られたものは、この元禄期を中心にできた染付けの器です。生地にしても、白い最高の土が使われています。よって、染付の色合も最高のものが出来るわけです。日本で初めて磁器が焼かれてわずか100年の少々の間に、ここまでのものができたとは、驚くべきことです。

元禄古伊万里:名の通り、元禄時代を中心に作られた伊万里を指します。同じ時代に柿右ェ門手と伊万里手があります。柿右ェ門手については、染付に限定しましたが、もちろん色絵柿右ェ門や染錦もあります。同じく、古伊万里にも、染付・色絵・染錦手とあります。 染付・染錦の品物はどちらかと言うと外国向けに作られた大きい品物が多く、柿右ェ門手と比べると、生地がねずみ色がかった感じがします。色絵の場合は、特に上手があり、俗に言う”献上伊万里”があります。



享保以降~文政年間までの伊万里:この時代、大量生産になってきます。そして、伊万里では、生産が間に合わずに、地方で伊万里焼きに似せた国焼ができてくるのですが、それは、もう少し後年になってからです。品物に関しては、今までの説明とは違い、現在でも食器として使えるような感じになってきます。柿右衛門手や元禄の古伊万里などは、値段的なこととか枚数があまり出て来ないことから、だいたい鑑賞用になっているのが現実です。しかし、宝歴を中心とした文化年間までの品物は、細かい品物(7寸皿・小皿・ナマス皿・猪口など)は、箱入り20枚とか、まだ手に入る事もあります。



天保時代を中心とした江戸後期の伊万里:文政年間以後天保あたりを境として、こまかい食器(七寸皿・ナマス皿・小皿など)は、今までと違い品物が品質的には落ちてきます。
この頃に、瀬戸焼を中心とする地方窯がたくさんできてくるわけです。図柄はしゃれた物もたくさん有りますが、裏の唐草の描き方などはそれ以前と比べると、雑になってきます。しかし、天保時代にはそれまでにない名品があります。尺五寸以上の大皿にたくさんあります。代表的な物は、日本地図皿(世界地図もあります)、東海道五十三次の皿、鶴丸の大皿などです。他にも、この時代には他の時代に無い、たくさんの図変わりの皿が存在します。コレクターの方なら、一度は手にいれたいものだと思います。

幕末~明治~現代の伊万里:天保以後幕末にかけて、染付も錦手も手(レベル)が落ちてくるのが目立ちます。その中でも上手(じょうて)と言うものもあります。明治にはいると、外国文化の影響があってか、作風ががらりと変わります。染付のやきものは、俗に言う、”べろあい”になって下手(げて)なものになります。中には文明開化の図で、特別高いものもありますが、全体から見るとほんの一部です。全体的に作風の中心は派手な錦手になります。白い部分がほとんど無いくらいに書き詰めた上手の錦の大皿や食器がたくさんあります。戦後に、これらのやきものはそうとうアメリカの方に売られていますが、明治後期から昭和の初めにかけて、上手のものは次第に少なくなってきます。現在はプリントになっていて、電気焼きの物が増えていると思います。(現代の柿右ェ門や今右ェ門などの窯は除く)百貨店などで売られている現代の焼き物の場合は、そこそこの値段が付いていますが、古美術的な価値はゼロと言って良いと思います。

大聖寺伊万里:大聖寺伊万里とは、主に江戸後期から昭和の初めにかけて焼かれた物で、加賀の大聖寺で焼かれたもののことです。当時、その大聖寺で上手の古伊万里を写して作られました。主に、錦手のものが多いですが、まれに染付もあります。時代は若いですが、古伊万里の上手を写しているので、良くできた良品が多いです。基本的に大聖寺伊万里は古伊万里(この場合元禄を中心にした物です)の上手錦手を写した物が多く、幕末~明治にかけてのものが、特に良いものができています。伊万里と大聖寺伊万里の見分け方と言っても、第一、時代が違いますので、染付や色の染料が質的に異なり、少々目の利く人であれば、一目見て分かります。伊万里と比べると、生地が柔らかく、伊万里と比べてアマ手の商品も多くあります。一番異なる点は、高台の土見せの部分が伊万里が丸く切ってあるのに対し、大聖寺伊万里は斜めに切っています。

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人が何らかの理由で打ち捨てたものを何らかの理由で買う・・、骨董とはほとんどがそういうものです。だから基本的には多くがリーズナブルな価格であるべきものだと思うのは蒐集側の論理でしょうね。

本作品は完品で、見込みの跡がなければ藍柿の優品としてまかりとおる作品かと思いますが、骨董も人もどこか欠点があるほうが愛嬌があっていいものです。完品なら私とは縁がなかった作品かもしれません。

達磨之図 伝寺崎廣業筆 その31

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先週末の土曜日は起工式・・、事業主の息子は神妙に神主さんの講釈を聞いていました。



本日はなんども本ブログに登場してる寺崎廣業の作品です。寺崎廣業についてはもはや説明はもはや不要でしょうね。

達磨之図 伝寺崎廣業筆
絹本水墨軸装 軸先鹿骨 合箱 
全体サイズ:横540*縦1970 画サイズ:横340*縦1360



寺崎廣業の作品で下記の作品の行方が分からなくなり、ここ数カ月悩みの種です。箱に入れて箱の修理に出したと思いきや、作品本体は預かっていないとのこと??? こちらの思い違いかとたいして広くないマンション内を家探しを数度・・、やっぱりありません

梅月想思図 寺崎廣業筆水墨着色絹本軸装 軸先象牙 二重箱共箱 
全体サイズ:横558*縦2030 画サイズ:横420*縦1210

本作品は一見すると寺崎廣業の作品ではないように思われる作風ですが、寺崎廣業の作品ならでは面白い作品のひとつです。



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達磨の没後には道教の尸解に類した後日譚が伝わるが、中国の高僧伝にはしばしば見られるはなしである。それは当時、北魏の使者として西域からの帰途にあった宋雲がパミール高原で達磨に出会ったというものである。その時、達磨は一隻履、つまり草履を片方だけを手にしていたという。宋雲が「どこへ行かれるのか」と問うた所「西天へと行く」と答え、また「あなたの主君はすでにみまかっている」と伝えたというのである。帰朝した宋雲は、孝明帝の崩御を知る。孝荘帝が達磨の墓を掘らせると、棺の中には一隻履のみが残されていたという。

 

「寺崎廣業」の白文朱方印は他の作品や文献とほぼ一致します。下の朱文白方印は珍しい印章ですが存在します。完全に確認していませんので作品は「伝」としておきます。

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整理していても作品を多く持ちすぎるのは考え物です。せいぜい数十点程度がいいかと・・、所在を忘れたり、解らなくなると結構イライラするものです。

私はそろそろ所蔵作品数を少なくしようかと思っています。引越しも間近となり気に入らない贋作や凡作?は破棄にて処分しようかと思います。あらかた処分となる????

山岳残雪図 川村曼舟筆 その3

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先月末は蓼科へ・・、学生時代に冬を含めて登山したことのある八ヶ岳を眺めながらの紅葉見物とゴルフに興じてきました。



登山をしたことのある人なら山々の美しさをあらためて素晴らしいと思った経験は一度や二度ではないでしょう。紅葉のあでやかさ、新雪と紅葉のコントラストの美しさの極み、雪山の気高さ、新緑のさわやかさなど下界では味わえないものです。ゴルフ場の景色と比較するのもおこがましいくらいの感動なのです。だから山に登るのですが・・。一度は日本アルプスを縦走しておくことは人生で必要なことだと思っています。人間なんざとるにたらないものと思うことさえありますね。

本日は九州へ日帰りです。残りは四国、北海道、北陸、東京となりました。

さて本日の作品はその山岳を描いた作品です。

山岳残雪図 川村曼舟筆
絹本着色軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:縦1885*横462 画サイズ:縦1155*横328



山元春挙に師事した川村曼舟は自然の美しさを繊細で洗練された感覚で表現した画家と評されています。自然の一瞬の美しさを捉える感覚に秀でています。



さてどこの山を描いたのでしょうか? 残雪といえば黒部? 槍ヶ岳や穂高、白馬、立山、・・・・。季節は5月の末頃か??



学生時代には休みといえばアルバイトか登山しかしていませんでせいたが、そのせいで親には心配かけてしまいました。そのせいもありロッククライミングと冬山はほんの少しでやめました。今回の御嶽で犠牲になられた方々のことを思うと胸がはりさけそうですが、山の怖さを改めて痛感する次第です。



美しさを求めるリスクは常につきまとうもののようです。とくにロープウェイなどで気軽に行ける山ほど多くの人が登山可能なのでリスク回避や対策が必要と思われます。

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川村 曼舟:(かわむら まんしゅう)1880年7月9日 ~ 1942年11月7日)は、日本画家。京都生まれ。本名は万蔵。山元春挙に師事し、1902年新古美術品展で三等賞、1906年京都市立美術工芸学校助教諭、1910年教諭。1908年文展で三等賞、1916年「竹生島」で特選、翌年「日本三景」で特選、1922年京都市立絵画専門学校教授、1936年校長(兼美術工芸学校長)。春挙門下四天王の一人と言われ、春挙歿後は画塾早苗会の指導者となり、また京都絵専・京美工校長として美術教育にも携わる。山川の美しい自然を洗練された感覚で詩情豊かに描き続けた。帝展審査員・帝国美術院会員。昭和17年(1942)歿、63才。

  

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所蔵した方らしい南村田氏については詳細は不明です。表具を行ったと思われる京都の岡墨光堂が現存します。
     

蛙之図 伝高橋草坪筆 その2

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先週末は家内の実家にて・・、小生が南京豆が好物ということで、家内の両親が今年は作ったらしい。採ってきて干して、剥いて、焼いて・・、大変な手間ですね。



本日の作品には「草坪雨 押印」と落款にあり、「草坪」の朱文白方印が押印されていますが、当方には高橋草坪の資料は乏しく、印章や落款の確認はまだできていません。ただ「お化けと草坪には会ったことがない。」と言われるほど高橋草坪の真作は少なく、贋作の多い画家として著名?です。



本作品についても真作云々というよりも、愉しい作品、愉しむ作品として鑑賞したほうがよいと考えて入手した作品です。欲を言うなら落款や印章がないほうがよかったと思っているくらいですが・・。

蛙之図 伝高橋草坪筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製塗 合箱
全体サイズ:縦1840*横340 画サイズ:縦1170*横260



二本差しの蛙・・、風刺画の絵のようでもありますね。刀が折れ曲がっている??

落款部分を入れないで切ってしまって無落款の額装の作品にいたい衝動に駆られますが・・・。



本ブログには蛙の作品は意外と多いと思います。蛙は「福に変える」、「無事帰る」など縁起物の画題でもあります。愉しい作品、愉しめる作品が多いように思えます。

雨蛙之図 田中以知庵筆

蝦蟇仙人 伝円山応挙筆



晩涼 西山翠嶂筆

緑釉竹二蛙細工香筒

蝦蟇仙人 寺崎廣業筆

蛙図清朝染付徳利

唐美人と蛙図 神原鳳章斎筆

夏炉冬扇 伊藤弥太筆

蛙の音楽隊 福田豊四郎筆

ユーモラスな蛙の作品を意識して集めた訳ではないので、蛙の作品にはユーモラスな作品が基本的に多いということなのでしょう。

蛙をテーマにした展示なども面白いかもしれまえん。どこかの美術館でも企画したら面白いと思うのですが・・。



伊羅保釉盤口瓶

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風邪気味での飛行機での九州への日帰り出張で耳がおかしい あわてて職場の近くの病院へ・・、なんと学会のため休診

それではとはじめての病院へ・・、なんと老夫婦のふる~い病院。大丈夫かなと思いましたが診察してもらって薬を頂いてきました

伊羅保釉盤口瓶
合箱入
口径65*胴径135*底径約100*高さ260



説明には「李朝前期」とありましたが、詳細は不明です。李朝前期・・・???



口周りに直しがあります。



伊羅保釉薬は李朝時代に作られ、鉄分の強い素地のため、表面がざらざらし、土灰釉(どばいゆう)で青色や黄色に微妙に変化しています。伊羅保の名前は、砂まじりの肌の手触りがいらいら(ざらざら)しているところに由来するとされています。



鉄分が多い褐色の砂まじりの胎土で轆轤目が筋立ち、石灰の多い伊羅保釉(土灰釉)を薄く掛けしてあり、底部分は胎土が見えています。



日本から注文された茶碗が多いのですが瓶や徳利も作られようですが、このような大きな瓶は非常に珍しいと思います。



釉はやや黒味がかった黄褐色、小石混じりの山土を用いて手強く、釉薬の景色が黄・青・赤と変化してるものを千草手(ちぐさ)といって至上品としており、二色が半面ずつ変化しているものを片身替りといいます。



小汚いですが存在感はありますね。



貴方ならこのような氏素性の解らぬ作品に食指を動かしますか?



今日の病院・・・、きれい好きの女性や神経質な人は待合室で帰ってしまったでしょうね。でも診察されてみないと、骨董では買ってみないと解らないことだらけなのです。
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