Quantcast
Channel: 夜噺骨董談義
Viewing all 3050 articles
Browse latest View live

芭蕉下清涼美妓図 大原呑舟筆 圓祥上人賛

$
0
0
週末は家内の実家にて過ごしました。最近、近所にゴルフの練習場がなくなり、家内の実家付近には幾つかの練習場があるので、練習場へ・・・。そう、近々滅多に行かないゴルフがあります。まだ今年で二回目・・。これで充分。

芭蕉下清涼美妓図 大原呑舟筆 圓祥上人賛
絹本水墨淡彩軸装 軸先象牙 巌谷小波鑑定箱
全体サイズ:縦2200*横710 画サイズ:縦1365*横560



なんとも奇妙な3人の組み合わせの作品です。鑑定箱には「大正辛酉(かのととり、しんゆう)三月」とあり、大正10年(1921年)の鑑定であり、巌谷小波が51歳の時の鑑定です。三重県の真宗高田(専修寺)の19世圓祥上人による賛、京都在住の画家大原呑舟の筆、箱書きは児童文学作家の巌谷小波の鑑定書の箱という作品です。圓祥上人が天保8年(1837年)に亡くなっていることからそれ以前の作で、大原呑舟が45歳以前の作と推察されます。大原呑舟の美人画は思いのほか評価が高いものです。



****************************************************

大原呑舟 :(おおはら-どんしゅう )1792〜1858年 江戸時代後期の画家。寛政4年生まれ。大原呑響の子。京都で四条派の柴田義董(ぎとう)にまなび,山水や人物を得意とした。大原呑舟は力強い筆致の山水画等をよくしたが、四条派の祖である呉春の門弟の中でもとりわけ人物画を得意とした柴田義董に仕えたため、人物画にも見るべきものが多い。安政4年12月29日死去。66歳。京都出身。名は鯤(こん)。別号に崑崙(こんろん)。作品に「美妓(びき)図屏風(びょうぶ)」など。作画と同時に当時の文雅の士と交わった。



****************************************************

真宗高田19世圓祥上人:8歳のころより外典、内典は円遵上人が教授せられた。細合方明に詩を教わる。『遊翰集』はそのころの作。聖人550年忌を前に、円遵上人は職を譲られたが、上人はすでに教学面での指導監督を委ねられていた。中興上人300回忌にあたり、嘆徳文を製し、祖師中興両上人報恩のため「悲嘆述懐讃」を1週間講ぜられた。紅葉堂の因縁譚も貴く、同木の聖徳太子像は、兼帯所太子寺に安置されている。『三部経』の刊行、『薑花集』、『緩御書』(円遵上人)の刊行下付、御尊父公へ『三帖和讃』を贈呈、称名をおすすめになった御書翰が残されている。在位文化8年(1811年)〜天保8年(1837年)
 
芭蕉の葉に書かれたこの賛・・、なんと読むのかな?  字体は好みではないと家内・・・。



「眸は秋、肌は雪???」




****************************************************

巌谷小波 :(いわや-さざなみ) 1870〜1933年 明治-昭和時代前期の児童文学作家,小説家。明治3年6月6日生まれ。巌谷一六の3男。硯友(けんゆう)社にはいり,小説「妹背貝(いもせがい)」などをかく。明治24年おとぎ話「こがね丸」が好評を得,以後童話に専念。「少年世界」編集長をつとめ,「日本昔噺(ばなし)」「世界お伽噺」などをまとめる。口演童話もはじめた。1911年に作った文部省唱歌『ふじの山』の作詩者としても知られる昭和8年9月5日死去。64歳。東京出身。本名は季雄(すえお)。筆名は別に大江小波。




****************************************************

大原呑舟の美人画には優しさがありますね。



帯には鳳凰紋・・。



団扇には竹・・・。



着物の柄は葡萄かな?



涼しげな一幅。


参考作品
Beauty sitting before a painted six-panel byôbû



大原呑舟の美人画は一見の価値があり・・。

波斯古陶 その1 三彩鳥絵鉢

$
0
0
昨夜は風邪気味の中、前の前の職場の同僚と浅草で鰻を・・・、とても美味しい・・・。飲み過ぎて帰宅後ダウン・・。歳ですかね・・、でも風邪がだいぶ良くなりました。

さて今回の閣僚人事・・、あまり期待が持てそうにないようです。女性を登用するのはいいですが、実績や苦労や実力がない人を登用するのはいかがなものだろうか? 会社の人事もそうですが、誤った人事は取り返しのつかないことになります。それを取り繕うたまにさらに誤った人事を行うと最悪の事態に陥ります。

誤った人事をしないためには常に部下の業務の実態をきちんと把握する必要があります。ともするといいことしか報告しない人が多い中でどう実力を評価していくかですね。

当たり前のことが当たり前にできなくなっていく・・、トップは孤立が常態化し、そのことを自覚していないのが一番怖い 組織というのは実に脆いものです。そうならないように・・・

さて本日は実に脆い器の登場です、

「波斯(ペルシャ)」の陶磁器と名のつく作品はいくつ投稿したのか?? 

当方のブログを検索してみると波斯の古陶器の作品はまだ未投稿のようです。軟陶で非常の柔らかいので扱いに注意を要するためにどこかに収納したままらしい。いったいどこだろう?? 手放した記憶がないのでどこかにあるはず・・・。


さて本日の投稿作品は最近入手した作品ですが、相変わらず取扱いには注意を要します。

ペルシャ古陶 三彩鳥絵鉢
合箱
口径180*高台径78*高さ75



このような発掘品は水洗いは禁物、もちろん水を入れてはいけません。ということは日常にはほとんど使えないということです。



紋様はかわいいので飾りにしか使えない。ただし非常に脆い・・。



購入の判断は絵付けの面白さがポイントになります。



ま〜、乾き物や菓子皿としての器として使えないこともない?



なにかいい使い道はないものかと思案中です。



波斯古陶磁器ものめりこむとかなり奥が深そうですですが、日常のものとしては使えないというのは大いなるマイナスポイントですね。



絵付けは稚拙ながら日本の伊万里や瀬戸絵皿のような力強さがあり、面白みのある作品群です。

***************************************

ペルシャ陶器:イスラム時代のペルシャ地域で作り続けられた陶器で有り、イスラム時代のメソポタミヤ地方やウズペキスタンはペルシャの政治圏、文化圏に含まれる事が多い為、この地域の陶器もペルシャ陶器の中に含められます。一般的に地域を広げ、イスラム時代の中東地域で作られた陶器を「ペルシャ陶器」と全般的に指しています。




11世紀末〜12世紀 この頃大量に中国の青磁、白磁が中東に輸入され、その影響を受けたペルシャ陶器ですが、ペルシャ陶器の精巧な技法や釉彩は、逆に中国 元の染付、釉裏紅を生み出したとも考えられ、元時代初めて使われた孔雀釉(トルコアーズ青釉)もペルシャ陶器の誇る青釉の技法を新しく生かした物で有ると言われている。




***************************************



5、6点にしかならない古波斯陶磁器ですが、近いうちの処分?? んん〜どうするか  

見かけは丈夫そうに見えても、実は脆い。器も組織も同じこと。脆いものは日常には使えない・・、故に常に強化してく必要がある。





忘れ去られた画家 舘岡栗山 「朝靄流筏図」

$
0
0
最近は週末に家内の実家に行くことが多いので、ブログの原稿をまとめる時間がなく、書き溜めた原稿も底を尽いてきました。もう少しまともな文章でとは思うのですが、業務もアフターファイブも忙しくなりつつあります。気ぜわしいこいうときこそ。このような作品を掛けてゆっくりしたいものですね。

本作品もまた今夏に帰省した際に馴染みの骨董店で購入した作品です。舘岡栗山のこの作品は木材業を営んでいた母の実家のある五城目の風景を描いたものとすぐに解りました。ちなみに父も木材業・・・。

手持ちの資金が少なかったのですが、無理をしても購入・・、蒐集とはその場の縁です・

朝靄流筏図 舘岡栗山筆
紙本着色軸装 軸先陶製合箱 
全体サイズ:横557*縦2015 画サイズ:横420*縦1212



舘岡栗山の作品はいくつか所蔵していますが、おそらく秋田の人でも知っている人は数少ないでしょう。



席画のようにさらりと描いた作品が多いのですが、そのような作品に見るべきものは少ないようです。きちんとした作品を蒐集すると面白い画家の一人です。



五城目に居た叔父がたくさんの作品を所蔵していましたが、子息が全部手放してしまわれたようです。



箱書きについてはよく解りません。


****************************

舘岡栗山:本名は館岡豊治。明治30(1899)年9月9日、秋田県南秋田郡馬川村高崎(現在は五城目町)生まれ。秋田師範学校を中退し、京都にて勉学。院展の近藤浩一路に師事。昭和8年、「台温泉」が院展で初入選。安田靭彦の指導を受ける。昭和12年春展、「雨後」が横山大観賞受賞。昭和40年、院展ニ20回入選をはたす。昭和42年、院展特待、無鑑査。秋田県にて日本画研究グループ「新樹社」設立。大正期、俳句雑誌「山彦」を主宰。昭和20年台初め、一日市町(現在は八郎潟町一日市)にて湖畔時報社設立。昭和27年、秋田県文化功労賞受賞。昭和45年、勲五等双光旭日章受賞。昭和53年10月16日死去。81歳。



****************************


「横山大観賞受賞に院展特待、無鑑査」と侮れない画家ですが、ほとんど忘れ去られた画家と言っていいでしょう。郷里でもごくわずかの愛好家がいるのみです。出来、不出来のある画家ですので、よい作品を厳選することも必要です。

鬼萩手平茶碗

$
0
0
一昨夜は赤坂で気の置けない仲間と麻雀でした。そうまさしく「気の置けない」相手です。

「気の置けない」という意味について

***************************************

「気が置けない〜」は「気を使うことなく、気楽につきあえる」という意味です。しかし、しばしば誤用で「油断ができない」という意味にとられることがあります。

 これはまず、「置けない」をどのように解釈するかの違いから来ています。すなわち「置けない」を[可能]ととった場合「気を置くことができない」となり、何となくそこから油断できないというような意味にもとれてしまいます。しかし、この「置けない」は本来[自発]の意味で用いられています。[自発]とは「(特に〜しようとしなくても)〜してしまう」という意味です。したがって「気が置ける」は「(特に気を置こうとしなくても)気を置いてしまう」という意味になります。

 そして「気を置く」という表現の意味がもうひとつのポイントです。これは「油断をする」という意味ではなく「気を使う」という意味です。これと先ほどの[自発]の意味を合わせると、「気が置ける」は「気を使おうとしなくても気を使ってしまう」という意味になります。そしてさらに「気が置けない」はその反対の意味ですから「気を使おうとしなくても気を使ってしまうということがない」ということになります。したがって「気が置けない」は「気楽につきあえる」という意味になるわけです。

***************************************

言葉の意味は非常の難しいもので、気軽にブログなど投稿していいものかと思うことがあります。なにしろ時間のない中で書き溜めている原稿ですから、そう一つの原稿はものの10分程度で書きあげています。果たして正しい言葉の引用をしているかどうか不安になることがあります。

本日の作品についても同様で、本作品を鬼萩手という分類にするのがいいのかどうかは私には私には判断できかねています。

鬼萩手平茶碗
箱入
口径135〜145*高台径45*高さ50




「鬼萩手」という表現はいつのころから使われたかは不明ですが、萩焼の釉薬が梅花皮(かいらぎ)状に全体に出て荒々しい状態になったものを指すようです。




萩焼では土に荒砂を入れて作陶し、わら釉薬をかけて酸化で焼成する伝統的作風です。わら釉の荒々しさの風合いが魅力となります。



最近では三輪休雪の作品が有名ですが、三輪休雪の作品は釉薬が白ですが、本作品は枇杷色となっており、井戸茶碗の雰囲気が漂います。



目跡が見込みにもなく作為の強い作行から判断すると、近代になって作られたものと推察されますが、無銘であり詳細は不明です。



梅花皮:堅い粒状の突起のある魚皮のことで、蝶鮫(ちようざめ)の皮といわれるが,アカエイに似た魚の背の皮を言います。刀剣の鞘や柄の装飾に用いていますが、焼き物ではその皮のように釉薬がちぢれている状態のことです。井戸茶碗の見所(みどころ)の一つとして使われます。



フラッシュもよって白く撮影されたり、枇杷色になったりしています。抹茶用のお茶碗というよりは、唐津の平茶碗と同じように食器類として使ったほうが面白いようです。

誰にも相手にされてこなかった半端物、ようこそわがガラクタグループへ

そうそう最近は麻雀の調子は好調です・・誘ってくれる人が一段と少なくなりました


カメをもつ女 福沢一郎画 その3

$
0
0
今回の週末は家族三人とも風邪で体調不良となりました。喉の痛みに、咳、熱はほとんど上がりませんが、だるい症状が続いています。おまけにソネットのメール障害でメールが一切受信できません。さらに大切にしていた掛け軸が行方不明・・、憂鬱な状態から回避できず・・・・。

さて本日の作品・・。今年の夏の帰省でなにか面白い作品はないものかと物色したところ、本作品がありました。福沢一郎の当ブログでの三作品目の登場です。

カメをもつ女 福沢一郎画
油彩額装 右下サイン
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横*縦(6号?)



入手時には絵の具が剥落しており、誰も福沢一郎の作品だと思っていなかったようです。小生は子供の頃から福沢一郎の作品は家の階段に飾られていたので、すぐにわかったのですが・・。



入手時には作品が露出された額に収まっていたので、ガラスで保護された額に取り替えてあげました。前の所有者がそこまで好きならどうぞと小生にくれた作品です。こういうことはよくあることです

家内は「何が描いてあるの?}と首を斜めに・・・・、小生曰く「文化勲章を頂いた洋画家だぞ。」と・・・。

粉引手茶碗 鯉江良二作

$
0
0
本日は本ブログに初登場の鯉江良二のお茶碗です。気に入っているお茶碗です・・・、といいながらいったい幾つの気に入った茶碗があるのか数えてみたことがありません。ただほかで気に入ったお茶碗にお目にかかった記憶があまりないので、小生の好みは特殊なのかもしれませんね。

粉引手茶碗 鯉江良二作
共布・栞付共箱
口径135〜140*高台径65*高さ80



本茶碗の特徴は釉薬と彫りの外見の面白さでしょうね。



奇をてらったものではなく、実に堂々としたフォルムがいいですね。粉引特有の三日月は釉薬を掻き落としています。このことは賛否両論があろうかと思います。本来であれば、自然に釉薬を掛ける時に生じさせるのがいいのでしょう。



見込みに旨く三日月?ができています。



高台周りの景色も良好ですね。茶碗というものは真贋、時代考証もさることながら物自体の良し悪しをみることが大切なように思います。



見込みの面白さも大切です。



この茶碗の最大の見所はどこでしょうか? それは胴部分にある釉薬を掛けるときにできた指の跡です。実際に持ってみると非常に不自然で指に結構な力が要ります。中学生時代に鯉江良二はアルバイトにより右手指二本の第一関節を失っていますが、そのことによる影響かもしれません。指の跡を見たときの違和感が自分で茶碗を持ってみさせる気にさせました。



そのようなことを考えながら茶碗を愉しむと味わいもひとしおですが、逆さに持ちますのでこれは自分で購入した自分の茶碗でないとできないことです。

*****************************************************

鯉江良二(こいえ りょうじ、1938年 - ):日本の陶芸家、現代美術家。愛知県常滑市出身。アルバイトにより右手指二本の第一関節を失うが、「制作に支障はないが、就職では心を傷つけられた。このハンディを背負ったことが、ぼくの今の底力になっている。」と鯉江自身が語る。



タイル工場を5年間勤めた後、常滑市立陶芸研究所に入所するが、1966年に退所し独立開窯する。陶芸の決まり事のような既成概念にとらわれず、従来の常識を越えた作陶を展開された先駆者。伝統陶芸、前衛陶芸という言葉にこだわらない作風が特徴である。「マスク」や「土に還る」シリーズのように必ずしも焼成にもこだわりを持たない土のままの作品もある。反核を題材とした「チェルノブイリシリーズ」等の代表作を持つ。


*****************************************************



茶碗を自分で作陶してみないと理解できないことがたくさんあります。習っても覚えませんよ。自ら作陶に没頭してはじめて身につくものだと思います。茶碗の良し悪しを見極めるこは意外に奥が深いようです。お茶を嗜む御仁は数多くあれど、茶碗の良し悪しを見れる人は何人いるでしょうか? 

仕事も趣味も何事も同じことで、熱くなって燃えるように学んだものはいろんな面で応用ができ、瞬時に理屈ではないひらめきを持つものです。そういう経験をした者でないと理解できません。今思うと仕事においてもそういう経験が出来ていることはとても良いことだったと思っています。

波斯古陶 その2 三彩彫紋様鉢

$
0
0
大切な人を失った時の悲しみは何事にも代えがたいものがあります。周囲の励ましや慰めもありがたいものですが、自分で乗り越えるしかにないのも現実です。震災にしても、病気にしてもその悲しみに変わりはありません。人間、ひとりになった時の空しさや寂しさに耐えきれるほど残念ながら強くはないのです。時間を味方にして、悲しみが和らぐのを待って、また生きなければならないのが人なのです。


それに比して骨董のすごいところのひとつに、人間の寿命を遥かに超えた年月を経て伝わっているということです。

ペルシャ古陶 三彩彫紋様鉢
合箱
口径198*高台径*高さ57



焼成は未熟で脆いのですが、フォルムに力強さがあります。



権力者に媚びることなく、欲もなく、日常に使われた器の素朴さもあります。



おそらく発掘品ですね。発掘されたときに割れたのか、割れて放置されていた作品なのかは判断が漬きかねます。



なんらかの文字が書かれていたり、番号のシールがあったり??? 



こういうもっともらしいのは贋作にも多くあります。はてさて本作品の氏素性や如何・・。



割れた部分を金繕いする・・・という代物ではありませんね。



どっかとテーブルの上に置いて・・、さて何に使おうか  

割れてもなお、脆くてもまた・・・、なにゆえお前は存在するのか?? 骨董に己を重ねて思いを馳せる時に己の小さを感じ入るものです。




備前耳付花入 藤原建作 その4

$
0
0
仕事は基本的に愉しくやることが肝要です。但し仕事の上での「愉しく」とはときに厳しく、ときに過酷で、ときに嫌になることあることも伴う愉しさです。夢があり、やりがいがあり、信念があることが大切です。それを社員にどう持たせるのかが、幹部の責任です。昇進でもなく、昇給でもなく、人生の上で大切なことは「愉しく」ですね。

さて、本日は観ていて愉しくなる作品です。



おっとこれは息子の写真です。作品はお馴染みの藤原建の作品です。

備前耳付花入 藤原建作 その4(一部未投稿)
栞・共布・共箱
口径102*最大胴径113*底径116*高さ263



備前焼の重要無形文化財「備前焼」の保持者(いわゆる人間国宝)には下記の5人がいます。

金重陶陽 1896年 - 1967年備前市伊部生まれ。
藤原啓 1899年 - 1983年備前市生まれ。
山本陶秀 1906年 - 1994年備前市伊部生まれ
藤原雄 1932年 - 2001年備前市生まれ。藤原啓の長男。
伊勢崎淳 1936年 - 備前市伊部生まれ。

本ブログでも山本陶秀以外はよく登場します。

しかしそれ以外に方でも当然、いい作品を作っている人はいます。同様以上の評価が高い作家の一人が「藤原建」だと思っている人は少なくないでしょうね。




人間国宝だから一番というわけではなはないですね。たとえば沖縄の金城次郎が人間国宝ですが、小橋川仁王や新垣栄三朗のほうがいい作品を製作しています。人間国宝の指定の前に亡くなったりするとなるべき人が指定されないことがあるようです。要はタイミング、というか運ですね。サラリーマン社会と同じですよ。昇進などというものは実力とは罰の次元で決まるものらしいです。仕事は「愉しく」です。



小生の備前焼の蒐集に影響を与えたのは叔父の収集品でした。磁器、陶磁器と収集を重ねた末に叔父は「最後は陶磁器は備前だね。」と言っていました。



運を天に任せながら火との戦いの備前焼・・、その肌にはすさまじい火力の跡が残っています。



人間の作為などが吹き飛ばしてしまう勢いがそこにはあります。これは「信念」という炎です。



ついつい集めていうちに同じような作品が集まってしまいました。こういうことはよくありますが。いいものに絞って残りは処分ですね。



底には掻き印があります。



蒐集にはいいものを厳選して集めることが必要です。そのためにはときおり処分も必要です。「身銭で買う、売る、そして勉強する」ことの繰り返しが必要です。これもまた信念・・・・






忘れ去られた画家 梅林山水図 児玉果亭筆

$
0
0
掛け軸というものを改めてチェックすると本当に贋作が多いものです。それほど当時は欲しい人が多く、贋作を描ける人がいるほど画家が多かったのでしょう。需要と供給もマッチングで偽物が出現するのでしょう。今はどんなに偽物が出現する状況なのでしょうか?

本日は今まで一幅は欲しいと思っていた児玉果亭の作品です。なかなかこれぞと思う作品がなく今回が初めての購入となりました。このようにあまり有名でなく、贋作の可能性の少ない画家の作品は非常に廉価で入手できます。数千円でいい作品が市場に溢れています。興味のある方はこの際に一幅いかがでしょうか?

梅林山水図 児玉果亭筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1975*横615 画サイズ:縦1295*横485



賛には「庚戌(かのえいぬ、こうじゅつ)秋日」とあり、明治43年(1910年)の作品で69歳頃の作と推察されます。印章は「士毅」の白文朱方印と「道広」の朱文朱方印の累印と賛上に「□中」と左下に「□□□□□□」の遊印が押印されています。賛全文は「・・・・果生士毅」とあります。残念ながら当方では解読不能・・。



掛け軸などは著名な画家ほど贋作が多く、かなり巧妙にできています。贋作をつかまない方法はどうもあまり有名でない画家の良い作品を購入するのが一番のようです。


*********************************

児玉果亭:天保12年1月29日(1841年2月20日)〜大正2年(1913年1月14日)は明治時代の文人画家。信州の生まれ。幼名を丑松。諱は道広、字を士毅。 画号に果亭・果道人・澹々齋・竹遷山房。晩年は果老生・果翁と号した。号の果亭は、張瑞図に私淑しその号である果亭山人に因んだと考えられる。

********************************




********************************

補足説明
果亭は信州渋温泉で生まれ育ち郷土愛の強い画家として知られる。祖父の要道は信仰心に篤く仏門に帰依し、道釈人物図を能く描いた。父常松は3男であったので分家して温泉宿に商いする雑貨商であったが文武両道に秀で剣道の達人であった。

幼少期の果亭は近隣より神童として知られ、ソロバンを得意とし絵や書を好んだ。佐久間象山は丑松少年が習字するところをみて将来モノになると賞めたという。また人から貰い受けた南画家日根對山の画帖を宝物のように大切にして常日頃模写に励んでいたらしい。




果亭は15歳になると佐久間雲窓に就いて本格的に画技を学んだ。毎朝4時に起きて隣村まで片道6里を歩いて通ったという。師雲窓は谷文晁の孫弟子にあたり沈南蘋風の花鳥画を得意とした。その後、興隆寺に参禅し畔上楳仙より漢学・経学・禅の指導を受ける。文人としての素養を培うとともに人生の指南役として楳仙を強く慕い、以降様々な形で楳仙の援助を受ける。





楳仙の勧めを受けて果亭は京都の田能村直入に入門。帰郷後に出品作が明治天皇の天覧に浴し、また絵画共進会など中央の展覧会で高い評価を得て画業は順風満帆となる。画室竹仙山房を結んで画禅三昧に過ごした。



果亭の下には菊池契月・小坂芝田・山本凌亭・青柳琴僊など多くの優れた門人が集まった。画友に長井雲坪・加藤半渓・寺崎廣業・町田曲江がいる。果亭は音楽を好み友人の長井雲坪より月琴を手に入れ酒宴などで弾じたという。ただし日清戦争が開戦すると戦地の兵士を思い娯楽の楽器を封じたという。また小林一茶を慕い、俳句も嗜んだ。俳号を花庭とした。

********************************



掛け軸の購入に際しては、表具がしっかりしていることで、購入後の負担を軽くします。表具が痛んでいると改装費用に作品の値段以上に費やすことになりかねません。表具師は作品を悪く言うことはありませんので、「いい作品ですね」といって上等な表具にしたがるものですから、信用しないことです。著名な画家、表具が痛んでいる作品などに手を出すと負担はかなり大きくなりますよ


備前草紋陰刻角水滴

$
0
0
数千円で買った備前焼の水滴です。

備前草紋陰刻角水滴
合箱
94角*高さ50



古備前」として売られていた作品です。そもそも「古備前」とは何? せいぜい江戸期までの作品を指すとすると、本作品は幕末頃であれば非常に近代備前に近い古備前と言えるのかもしれませんが、厳密には本作品は明治期であろうと推察され、評価には江戸期以前のものとは格段の差があろうかと・・・・。本来の古備前はもっと時代の古いものを指すようです。



このような様式は明治期の角徳利によくありますが、角水滴もまた数多く作られたのでしょうが、あらためて鑑賞すると愉しいものです。



さらりと彫られた洒脱な秋草紋様、火に任せてできた土の焼け・・、いい味が出ているね〜。



小粋な作品です。そうざらにはないと思うのですが・・。水滴を一輪挿しに用いる方もいます。



面ごとにあっさりとしているのがまたいい。さ〜この器、数千円なら買い得と思いませんか?



一丁前に古紙に包まれて、小箱に収められています。



机の上に置いておいて、ちょっと硯に墨を摺って手紙を・・、なんて高尚な趣味は小生は残念ながら持ち合わせていません。

古備前・・、本当の古備前・・・、こうご期待  たしたことはないと思うのです。この水滴のほうが数倍面白い。

壺屋焼三彩鉢 新垣栄三郎?作(作作者不詳)

$
0
0
沖縄だけでもいろんな陶器があり、これだと世界中にはとんでもない種類の焼き物が存在すると思わざる得ない。とてもとても小生の知力の及ぶものではないと痛感します。

壺屋焼三彩七寸マカイ 新垣栄三郎?作
鑑定箱
口径220*高台径92*高さ98



見込み部分より明らかに重ねて焼かれた作品です。高台内にも釉薬が掛けられており、見込みへの釉薬の流れが景色を豊かにしています。



高台は大きく沖縄のマカイの特徴を備えています。



高台脇には孔が開いており、壁掛け用に製作された作品でもあります。




銘は器には全くない無銘の作ですが、箱には「壺屋焼 新垣栄三郎作 鉢 印」とありますが、印章の詳細は不明です。



*************************************************

新垣栄三郎 :(あらかき-えいさぶろう) 1921年〜1984年。 昭和時代後期の陶芸家。大正10年5月1日生まれ。家は代々沖縄県那覇市壺屋(つぼや)で陶業に従事。浜田庄司,河井寛次郎にまなぶ。戦後,初等学校勤務ののち作陶に専念した。昭和46年琉球大助教授。昭和59年1月20日死去。62歳。台中師範卒。



*************************************************

沖縄は焼き物の明るさの原点があります。民芸運動で近代陶芸家や民芸家が影響を受けました。



この大きな鉢・・、あなたならそもそもと購入しますか?



お値段は5000円程度・・、いいものなのやらガラクタなのやらさっぱり・・


古黄瀬戸 彫草葉紋花口皿

$
0
0
ものづくりというものは常に新しいものに挑戦していないと、今やっているやりかたさえも陳腐化してくる傾向があります。今の現場の乱れはそこにあるような気がします。

さて、今日は朝一番で岩手県へ・・、昨夜は来年の新入社員の内定式・・、慌しい日が続きます。

本日の作品は「古黄瀬戸」と称したものの、江戸期以降の作である可能性があります。ただ、実にいい・・、実にいいと感じるのですがから、小生の感性もたいしたことはないのかもしれませんね

古黄瀬戸 彫草葉紋花口皿
合箱
最大幅240*高台径110*高さ47



古黄瀬戸という作品は「砂地に油を流したようなしっとりとした照りがあり、高台まですべて釉薬がかけられています。」というのが条件のようです。古黄瀬戸は室町時代から焼かれた黄色の釉調で古来茶人に珍重されました。



一般に、薄く造った素地に木灰釉を薄く施釉し、焼成された陶器です。菖蒲や秋草、大根などの線描、菊や桐の印花などに胆礬(タンパン 緑発色する硫酸銅)や鉄釉のこげ色が好まれます。 そして胆礬が裏まで写った抜け胆礬、写し胆礬と呼ばれるものは珍重されます。釉肌は、柚子肌で一見油揚げを思わせるものを油揚げ手と呼ばれ、明るい光沢のある貫入の入った黄釉で文様がないものをぐい呑手(六角形のぐい呑が茶人に好まれたから)とか、菊皿手(菊花紋、菊型の小皿が多いから)と呼ばれています。




油揚げ手は、向付、鉢などの食器に、ぐい呑手には、皿、向付、鉢、花生、水指、香合など茶道具に多くみられます桃山の黄瀬戸は、俗にグイノミ手・アヤメ手・菊皿手などに分けられています。



近代にその再現に挑戦した陶工も多くいましたが、一部の陶工を除きことごとく失敗しています。人はモノづくりには常に挑戦のですが、なにも新しいことばかりにだけではなく、過去のものにも挑戦しているのです。

********************************************************

補足

中国宋代の「青磁」をまねた瀬戸では「古瀬戸」という灰釉を焼いている。「青磁」は還元焼成だが、瀬戸の灰釉は酸化気味だったために薄淡黄色の透明性の強い釉薬となった。

印花壺や瓶子、天目茶碗、茶入などが二代・加藤藤四郎の「椿窯」で創世されたといい、平安時代末から室町の初期頃まで焼かれていた。

これが室町末期、美濃に伝わって「黄瀬戸」の源流となる。

黄瀬戸には「ぐい呑手」と、その後に茶陶として焼かれた「油揚手」又は「あやめ手」、さらに登窯で大量にやかれた「菊皿手」の三種類があるが、これらは昭和八年に加藤唐九郎著『黄瀬戸』が出版されて以来、唐九郎の分類が定着した感がある。
「ぐい呑手」は当時造られた「六角のぐい呑」の黄瀬戸釉が溶けてツルッとしていたから付けられたもの。肉の厚い素地で、火前に置いて強火があたり、いわゆるビードロ釉となった状態で、黄瀬戸釉が厚いところにはナマコ釉の現れたものが多く、これにはタンパン(胆礬=銅呈色の緑釉)はみられない。



 
柔らか味のある黄色の光沢の鈍い黄瀬戸の釉肌にタンパンという銅緑色と鉄褐色の斑点が発色していて、高台内には焼成時の台にコゲ目が残っている「油揚手」「アヤメ手」といわれる『黄瀬戸』が、桃山時代の美濃大萱の窯下窯、牟田ヶ洞、中窯、浅間窯で名品が多く焼かれた。鈍い光沢の油揚手は志野と同様、湿気のある穴窯焼成からえられた。

魯山人はしっとりとした肌が美しい油揚手の名品が焼かれた窯下窯を発掘した経験から黄瀬戸は特有の湿気がある穴窯で焼かれていたことを突き止めた。魯山人は自らの窯は湿気の少ない登窯であった。そこで黄瀬戸釉に灰が被らぬように匣鉢に入れた。しかも匣鉢を重ねる時、下のほうの匣鉢に泥状にした土だけをその匣鉢に入れて焼いたのだ。結果的に下の匣鉢から発する水蒸気を利用して艶が抑えられた黄瀬戸を焼成することができた。というように、湿気や序冷が「油揚手」を形成する。
古黄瀬戸には銅鑼鉢の形状が多いが銅鑼鉢は輪花とともに中国明代、交趾系の華南三彩に見られる器形。



井上家旧蔵のアヤメ文の輪花銅羅鉢は薄手で肌がジワッとした「油揚手」で窯下窯の名品といわれるもの。光沢の鈍い釉調と刻文のあるアヤメ紋様にタンパンがあるところから「アヤメ手」といっているが、『日本の陶磁第三巻』にはほかに蕪、露草、梅、菜の花、そして花唐草などがある。菊や桜、桐など日本の伝統的紋様は少ない。「大根」(相国寺の所蔵する黄瀬戸銅鑼鉢)は一点のみである。

タンパンとは胆礬という硫酸第二銅を釉に使用しているからで、表面に一面の黄瀬戸釉が掛り鉄褐色と銅緑色のタンパンの斑点が器物を抜けて裏面まで浸透したものを「抜けタンパン」といい茶人は珍重する。このタンパン、火前の強火では揮発してしまうし、光沢もでてくる。

この二種の黄瀬戸にも、利休と織部の好みが分かれる。比較的に淡雅な「ぐい呑手」は利休好みで、利休所持の立鼓花入・建水(銘大脇指)や旅枕掛花入(銘花宴)など古淡を好んでいる。一方、織部は変化の激しい光沢の鈍い「油揚手」を好んだ。

********************************************************

魯山人の何気ない黄瀬戸が高価なのは理由があるのですね。

ものづくりは常に創意工夫にて挑戦していないと、現在のやり方さえ質が落ちてくるものなのです。あらかたなものが標準化され、情報伝達のスピードの早い現代ではとかく創意工夫を忘れがちですね。でも本当に大切なものは標準化などされるものでないと思います。それは魯山人のごとくあらかたが信念と情熱だから・・。いつまで今の社員に伝えきれるのやら・・。

本作品・・、いずれにしても、箱もなく打ち捨てられるように売られていた作品ですが、いかようにしましょう?

雨蛙之図 田中以知庵筆 その6

$
0
0
一昨日は岩手県三陸まで出張。一関から奇跡の一本松を車窓から眺めながら慌ただしく陸前高田から北上し宮古を経由し盛岡から帰京しました。復興は佳境にきているという感じですが、地域によって、その被害によって、進行具合には大きく差があるように思われました。

田中以知庵の作品は本作品で六作品目となります。

ひと作品は掛けておくのに欲しい画家の一人です。この程度の作品なら運がよければ二万円以下でネットオークションで購入できます。

雨蛙之図 田中以知庵筆
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1020*横380 画サイズ:縦255*横230



田中以知庵は別号に咄哉州・一庵等があり、箱書きにはその号にて記載されています。釈宗活について禅を学び、朝鮮半島に渡るなど数年にわたって求道的な生活を送っており、その飄逸な絵画世界を二匹の蛙にて表現された作品といえます。



日本の身近な自然をこよなく愛し、みずみずしく潤いのある画風で、鳥、草花、蛙、風景などを描いた以知庵芸術に接していると、忘れかけていた日本の美を取り戻した様な気持ちになります。



作品に箱書きなどをするのはいいのですが、やたら下手な字で書かれると上品な作品が生きなくなります。



箱書きは最低限に・・・。



所蔵印は巻き止や説明書など目立たぬように・・、作品に押印するのは論外です。



掛け軸の巻き方は品良く・・。



表具は作品にあわせるのがいいです。



軸先も象牙だけが軸先ではありません。



掛け軸の扱い方、愉しみ方を知っている人は少なくなりました。

******************************************

田中以知庵:日本画家。明治26年(1896)〜昭和33年(1958)。東京生。名は兼次郎、別号に咄哉州・一庵等。上原古年に画の手ほどきを受けたのち松本楓湖に師事し、巽画会・紅児会等で活躍する。速水御舟などともよく交友し1929年には小室翠雲の推薦により日本南画院同人となりその後は同展を中心に日展などでも活躍した。また、釈宗活禅師に禅を学び1912年には禅号として咄哉(州)を拝受、南画研究と禅修行の為に朝鮮半島に渡るなど求道的な一面をみせ、作品では詩情に溢れた花鳥、風景画を展開、晩年は風景画に独自の画境を拓き、飄逸な絵画世界を展開した。春陽会会友・日本南画院同人・日展審査員。昭和33年(1958)歿、65才。



******************************************

本作品と同じような蛙を描いた作品「朝露」という作品がインターネット上にありました。


復興も最大の焦点はどれだけの住民が戻ってくるのかということでしょうね。これといった産業をもたない地域は厳しい現実がああるようです。復興工事をしている人は使命感を持って積極的に仕事をしてました。

地域創生の必要性は本ブログでも繰り返し述べてきましたが、根の深い少子高齢化対策がなおざりですね。働く女性の推進をするなら、同時に少子化対策も行うべきでしょう。子づくり支援、たとえば託児所不足、体外受精支援、教育費用負担などは政府主導で思い切った施策が必要と思われます。少子高齢化対策を行うことは、20数年後には日本がなんとかなるという大事な施策です。託児所が足りない、子づくりにお金がかかる、教育費が払えない・・、若い世代の貧困化をもっとなんとかしなくてはいけません。これは地域創生とも繋がります。

さて、午後からは台風を出迎えるように神戸まで出かけます





白釉マカイ 古琉球焼

$
0
0
一昨日より大阪で同僚。元同僚らと食事会をしてゴルフ。台風の影響は一切なくちょっとリッチな週末を過ごしました。約半年ぶりの今年2回目のゴルフ、倶楽部選手権のためのピンポジションということで100を僅かに切れず・・・残念

本日の作品は野暮な雑器の多い琉球焼(壺屋焼)の作品群のひとつですが、そ中にはみるべき作品が多いのもまた事実です。ただし、それは昭和の半ばまでであり、その後の近代作の沖縄の陶磁器には評価すべき作品は存在しない。

白釉マカイ 古琉球焼
合箱
口径140*高さ65*高台径60



見込み部分より明らかに重ねて焼かれた作品です。高台内にもたっぷりと釉薬が掛けられており、胴への釉薬の流れが景色を豊かにしています。



高台は大きく、外から斜めに削られており、沖縄のマカイの特徴を備えています。



口縁は金繕いで補修され、大切にされてきたことが窺われます。このような茶碗として用いられるほどに上品なたたずまいを見せる器は古琉球焼には珍しい。ただし、同じような茶碗が複数存在する。



箱書には「粉引」とあるが粉引茶碗というよりも白釉茶碗としたほうがすっきりくる。



さて、抹茶用のお茶碗にはやはあり役不足ですね。でも普段使いの盛り付け用の器なら・・・。

秋景龍田川図 木島桜谷筆 その2

$
0
0
木島桜谷の作品は幾つかの作品を売却して、手元に残っている作品は「狗」という作品と本作品のみです。これから本格的に所有する作品の処分です。

秋景龍田川図 木島桜谷筆
絹本着色絹装軸 軸先練 共箱二重箱 
全体サイズ:横433*縦1958 画サイズ:横312*縦1110



竜田川(たつたがわ)は、大和川水系の支流で奈良県を流れる一級河川。上流を生駒川(いこまがわ)、中流を平群川(へぐりがわ)とも称する。古よりの紅葉の名所として名高い。



***************************************************



木島桜谷:明治10年生まれ、昭和13年没、(1877年〜1938年)享年62歳。京都うまれ。名は文治朗、字は文質。号は別に竜池草堂主人等がある。今尾景年に学び、初期文展には「若葉の山」「しぐれ」「駅路の春」「寒月」と次々と名作を出品し、京都画壇の人気を一気に背負った感があった。ただし、晩年は詩書に親しんで世交より遠ざかった。旧帝展審査員、帝国美術院指定。「しぐれず屏風」(文部省蔵)は代表作。円山・花鳥・人物・特に動物の描写に妙を得ている。



***************************************************

これからは紅葉の季節です。



北アルプスの紅葉は筆舌にし難い美しさです。やはり紅葉は高山になるほど美しさがあります。渓谷の紅葉の美しさも格別です。今年の紅葉は如何?



紅葉の画題に合わせて画題の表示にも一工夫・・。紅葉のちなんだ色紙があればもっとよかったですが・・。



痛んでいくモノたちにせめての贈り物・・、我ら死に絶えていく生きているものの義務であろう。次に所有する人の手元に渡っても恥をかかないように、大切にされるように・・。








明末呉須赤絵楼閣紋様青手鉢

$
0
0
そろそろ半年ごとの経営会議・・。物価上昇時には「赤字はとるな、赤字にするな、赤字にさせるな」の大原則が私の基本ですが、それでも赤字の部署は生じてきました。

中間期における当社に対する私の考えは、ひとつの部署の赤字が見込まれたら、早急に他の部署の目標値を上げてまで、会社全体の利益確保に努めなくてはならないということです。そのためには共同体としての社員の士気向上が必要であり、そのことにより士気を向上させることで業績が回復させるという目論見です。それが可能なように組織の編成替えをスピーデイに行う必要があります。

私は常々、会社は数年先まで見越した利益額で管理すべきと唱えてきましたが、どう利益額を確保するのかはフレキシブルに考えなくてはなりません。たとえば労賃高騰を控えては「労賃比率の高いSRCやRCの仕事はするな、労賃比率の低いSに徹底しろ」とか、またダンピング合戦に時には「他社設計は極力遠慮し、自社設計コンペで勝て」とか情勢に応じた対応が即時必要でした。皆が理解するまでは待っておられませんでした。

経営は状況によって向上するし、下落もする運がつきまとう魑魅魍魎たるモノ・・・、されば至極単純に考えるモノでなくては、即時社員に徹底することができません。企業が繁栄、持続するためには経営者はしっかりとしたポリシーを持たなくてはいけません。魑魅魍魎たるこの世の中、常に変化する情勢を乗り切る羅針盤が一番大切なモノです。これが一番必要なモノですね。

本日は魑魅魍魎たるものを・・・、このような図柄の作品が存在するの??

明末呉須赤絵楼閣紋様青手鉢
合箱
口径274*高台径165*高さ68



よく見られる「呉須赤絵楼閣山水印判手盤」の中央部分の楼閣山水部分、周囲は花文様の呉須赤絵の絵柄が描かれた珍しい作品で,青手と呼ばれるものと赤絵と呼ばれるものの融合した珍しい作例です。

 

17世紀初頭の中国明時代末期に広東省南部で制作された作品です。ただし、絵付が淡白なことより時代は明末より時代が下がり清初の可能性があります。



砂付高台の出来から中国での作品に相違ないでしょうが、この時代の差はかなりの評価の差を生みます。



それにつけてもこの融合は面白い。他の二作品と比べて展示すると面白いでしょうね

ひとつのものだけ見ていてもそのものは見えてこない。他のものを多く見てそのものが見えてくるようです。なにごとも同じです。そこから羅針盤が出来上がると思っています。仕事だけでなくいろんな趣味をもつことがこれからの経営者には必要です。

さて数年先の利益を見越す手立てを考えなくては・・・、おっと目先は大丈夫かな

ところで本ブログの訪問者のアクセスランキングなるのもは2000位台らしいのですが、ランキングに数えられるヤフーのブログの数は207万以上あるようです。ということは0.1%・・・、ランキングはあまり気にしていませんが、いい方なのか、低い方なのかはさっぱり解りませんね。念のために閲覧者が誰なのかは当方ではまったく解りません・・



太湖石蘭紋三田青磁角皿

$
0
0
今週は大学病院に三カ月に一度の検査・・、異常なしとのこと。次回からは四カ月に一度の検査となりました。血液検査でだいたいのことが解るので、一病息災というのが検査のたびに実感できます。ただ、検査のたびにドキドキしますね。亡くなった家内の時には何度も付き添いましたが、悪い検査結果にはなんとも筆舌に尽くしがたいものがあります。

人はいまある幸福に気がつかず、もっともっとと欲張ったり、私は不幸だと思いこんだりするものですが、今を愉しみ、今を精一杯生きてこそ価値のあるものだと思います。

人は悲しいかな、いつかは死ぬものです。少しでも世のため人のためと人の記憶や、死後に遺すモノが欲しいものです。はて私は何を遺せるのだろうか?

さて本日は、本ブログで何度か投稿された三田青磁の角皿です。

太湖石蘭紋三田青磁角皿
合箱
縦190*横188*高台径97□*高さ48



青磁の発色といい、紋様の気品の高さといい、三田青磁の逸品中の逸品です。龍泉窯の青磁をわが国で再現しようと試みたのが三田焼で、18世紀中ごろに現在の三田市で焼かれたのに始まるといわれます。



色絵などもあり京都の名工・欽古堂亀祐の指導により、型物を中心に優れた作品が量産され、龍泉窯にも負けないくらいの美しい青磁を焼くことに成功し「三田青磁」として名高く、日本を代表する青磁として全国的にも知られています。





*******************************************************

三田焼:兵庫県三田市三田の青磁。寛政(1789-1801)初年、三田の豪商神田惣兵衛は陶工内田忠兵衛(志手原窯小西金兵衛の弟子)の青磁焼成の悲願にほだされ巨額の資金を投じて陶業を助けることになり、天狗ヶ鼻に窯を築いました。これが三田焼の起こりであります。

惣兵衛は青磁研究のために忠兵衛を有田に遣わし、有田から陶工太一郎・定次郎を招いました。1801年(享和元)忠兵衛は香下村砥石谷において青磁の原石を発見し、文化(1804-18)初年には青磁の試焼に成功しました。

1810年(文化七)惣兵衛は京都の奥田頴川に指導を受け、その弟子の欽古堂亀祐を迎え、いよいよ青磁の製作は本格的になりました。文化・文政年間(1804-30)は三田青磁の最盛期でありました。しかし1827年(文政一〇)頃には亀祐が京都に帰り、1829年(同一二)に惣兵衛が没するに及んで、以来三田窯は次第に衰順に傾いました。天保年間(1830-44)には向井喜太夫がこれを譲り受け、安政{1854-六〇}頃には田中利右衛門がこれを継いだが業績振わず、明治に三田陶器会社が設立され、1889年(明治二二)にはその出資者の一大芝虎山がこれに専念しました。虎山の没後、有志が相寄って一窯焼いたのを最後に昭和8年に三田窯の煙はまったく絶えました。

青磁の上がりは天竜寺手調で、亀祐来窯以後細工物にも秀作が生まれた。種類には、香炉・茶器・花器・皿・鉢・文具、大物・動物置物などがあります。また呉須手写しも焼いています。

*******************************************************


箱書にある「平野やきもの博物館 館長植松隆蔵」についての詳細は残念ながら不明です。私のようなコレクターであったのかもしれません。私に遺せるものは・・。



*******************************************************

補足説明
三田焼の特徴である型物は京焼の陶工欽古堂亀祐(1765−1873)によってもたらされた技術によるところが大きい。「欽古作之 文化三玄夏」(1806)などの土型が伝わっている。欽古堂亀祐は京の名工奥田頴川の弟子であり、頴川門下として他に青木木米(1768−1833)、仁阿弥道八(1783−1855)、永楽保全(1795−1854)などが知られている。亀祐は道八、木米とともに頴川門下の三羽ガラスといわれ、互いにその腕を競っていた。

*仁阿弥道八については後日作品掲載予定。




寛政12年(1800)に神田惣兵衛は頴川のもとを訪れ、三田青磁焼成のため、しかるべき陶工を紹介してほしいと依頼したところ、選ばれたのが亀祐であった。一説によると木米の青磁焼成技術があまりにも「唐物写し」として名高く、木米の指導により三田青磁が唐物との区別がつかなくなることを憂えた頴川の判断によるともいわれる。そして翌寛政13年に今度は紀州藩から陶工派遣の依頼が頴川のもとに持ち込まれたときは木米が派遣されている。頴川にすれば木米の技量が三田青磁をつくりあげることで、木米の技術も固定化し、また技術力の増した三田青磁が中国産のものと紛れて流通した場合の責任を恐れたのかもしれぬ。当時粟田口で京の名工として名をはせていた頴川のもとにも三田青磁の評判は轟いていたにちがいない。

*******************************************************





*******************************************************

三田青磁か否かの検証

三田青磁は複雑で、豊かな造形や色調に魅力があって、型物成形の製品が多く、全体の出土量の3分の1を土型が占めているそうです。土型を用いた成形は、ロクロでは作り出せない複雑かつ巧妙な形のものを一つの型から数多く生産出来る。緑青色をした美しい釉調の青磁は、中国明代の天竜寺手青磁に似ていると、人々から讃えられた。三田青磁の魅力はその色の深さもさることながら、土型成型による多様性にあると考えられている。




判別の仕方
1.釉肌:単一な色目になってない事が重要です。濃い部分や、薄い部分が微妙に入り混じって、見た目に不安定感が漂います。近代の作品は焼成技術が高いので、焼成が難しい青磁とは言え、ほぼ均質に焼けてしまいます。古い物は、逆に不均質に焼けます。高麗青磁などのような例です。濃いとこ、薄いとこ、釉溜まりに釉切れ、磁肌だけで、微妙な変化が見受けられます。この“不均質さ”にこそ、品物の奥行きが生まれます。青磁に限らず、この奥行きが味を醸成していることがいい作品の条件です。

2.釉薬の色目:青ではなく緑っポイ色。これが三田青磁の典型的な色目です。ルーペで見ますと、大小の泡が絡み合うように混
在しています。この釉薬の中の気泡が、緑色に深みを与えます。

3.浮き模様:瀬戸製の三田青磁写し(時代はある)や、今出来の三田青磁はこの浮き模様がクッキリ見えませんが、三田青磁は模様が複雑で細かいにも関わらず、ハッキリ見えます。技術の高さは伺えます。

4.土味:写し物の三田青磁は、均一な色、ベタとした朱色っポイ土ですが、三田焼は朱色と白っポイ部分が交互に出ており、カリッカリに焼けてます。

*******************************************************

普段使いに手頃な大きさです。三田青磁のいいところはなんといっても武骨なほどの頑丈さですね。人も同じく無骨なほど頑丈なのが一番かもしれませんね。


*三田青磁の場合、時代的な古さより、三田青磁であるか否かが重要です。

古九谷青手波ニ雲龍

$
0
0
陶磁器ファンなら誰でも一度は入手したい作品群のひとつに古九谷があります。せめても再興九谷というのが願いでしょうが、市場に出回る作品は少なく高価で、しかも真作は非常に少ないようです。

古九谷の代表とされる青手九谷などは、現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷のその多くが明治期のものと推察され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多いようです。真作があったしてお値段も高嶺の花・・。

本ブログではそのような高値の花・・、もとい高嶺の花の作品には縁のないものばかりですが、ちょっと欲張ってその作品群について調べてみました。

古九谷青手波ニ雲龍
合箱
口径245*高台径90*高さ57



青手九谷は緑釉を多く用いて赤を使用しないことからこう呼ばれているようです。緑・黄・紫の三彩古九谷、緑・黄の二彩古九谷があるようです。



素地も良質の磁石を使用したものと鉄分の多いやや質の悪い素地のものの 二手があるとのこと。古九谷は交趾古九谷・ペルシャ手九谷ともいわれているようです。 また白抜きが珍重されるようですが、これは良質の磁石のものかな。



本作品は緑・黄色・紫の三彩古九谷で、鉄分の多いやや質の悪い素地のものに分類されます。高台には目跡がなく、高台内は「福」の字があったかどうか釉薬の焼けで判読不能となっています。無論、「福」の字がないものも古九谷にはあります。



***************************************************

古九谷:大聖寺藩領の九谷村(現在の石川県加賀市)で、良質の陶石が発見されたのを機に、藩士の後藤才次郎を有田へ技能の習得に赴かせ、帰藩後の明暦初期(1655年頃)、藩の殖産政策として、始められるが、約50年後(18世紀初頭頃)突然廃窯となる。窯跡は加賀市山中温泉九谷町にあり、1号窯、2号窯と呼ばれる、2つの連房式登窯と、19世紀に再興された吉田屋窯の跡が残っている。「古九谷」と呼ばれる磁器は、青、緑、黄などの濃色を多用した華麗な色使いと大胆で斬新な図柄が特色で、様式から祥瑞手(しょんずいで)、五彩手、青手などに分類されている。祥瑞手は、赤の輪郭線を用い、赤、黄、緑などの明るい色調で文様を描いたもの。五彩手は黒の輪郭線を用い、青、黄、緑、紫などの濃色で文様を描いたものである。青手は、色使いは五彩手と似るが、素地の白磁の質がやや下がり、素地の欠点を隠すように、青、黄、緑、紫などの濃彩で余白なく塗りつぶした様式のものである。

これら「古九谷」と呼ばれる初期色絵作品群の産地については、戦前から1960年代にかけて「九谷ではなく佐賀県の有田で焼かれたものである」という説が主張されはじめた。有田の山辺田窯(やんべたがま)、楠木谷窯などの窯跡から古九谷と図柄の一致する染付や色絵の陶片が出土していること、石川県山中町の九谷古窯の出土陶片は古九谷とは作調の違うものであったことなどから、「古九谷は有田の初期色絵作品である」との説が有力となった。

東京都文京区本郷の大聖寺藩上屋敷跡(現・東京大学医学部附属病院敷地)からは大量の古九谷風の色絵磁器片が出土した。1987年以降、これらの磁器片の胎土を蛍光X線分析、放射化分析によって科学的に調査した結果、肥前産の磁器と九谷産の磁器が抽出された。その結果、伝世品の五彩手古九谷や青手古九谷と同様の磁器片は肥前産であると判断され、一方、分析結果から九谷産とみなされる磁器片は伝世の古九谷とは胎土、釉調、成形などの異なるものであると判断された。以上のような窯跡の発掘調査や出土品の化学分析などの結果から、従来古九谷と位置づけられてきた一群の初期色絵磁器は、その大部分が1640 - 1650年代の肥前産と考えられている。しかし、1998年、九谷古窯にほど近い九谷A遺跡から、古九谷風の色絵陶片が発掘されたことから、「複数の産地で同一様式の磁器がつくられていた」可能性を探るべきだとの意見もある。

***************************************************


青手九谷:(あおでくたに、あおてくたに)とは、石川県(加賀藩や大聖寺藩)で作られてきた九谷焼のうち、見込み(表面の模様)に青色を多く使った磁器のことである。青九谷ともいう。

青色といっても実際は緑色を呈しているし、磁器といっても一般に“半陶半磁”と呼ばれるように陶器のように見える。見込みには動植物・山水・幾何模様・名画などが描かれ、器の表裏を埋めつくす塗埋手(ぬりうめで)で盛り上げて作られ、華麗豪華である。高台(こうだい、底の脚)の中に、「角福」と呼ばれる二重四角の中に福の吉祥字のある銘を持つものが多い。

青手九谷は、加賀藩の支藩大聖寺藩九谷村で慶安年間(1650年頃)から作陶された古九谷と呼ばれるものの中にもみられ伝世されている。青手古九谷などと呼ばれている。青手古九谷は、赤色を全く使わないのが特徴であり、紫・黄・緑・紺青のうち三彩または二彩を使用し、作品全面を塗埋める技法が使われている。古九谷時代を通して作られた。

慶安年間とは関ヶ原の戦いから戦後50年にあたり、武士に代わって台頭した町人文化が自由闊達の風に花開いた時期である。また海外の文化・技術を積極的に取り入れた安土桃山時代の絢爛華麗な記憶が鎖国の中でもまだ残っていた時代でもある。 青手九谷はこうした時代背景をもとに作られ、写実精密緻密であるより大胆奔放華麗の作風であるといえる。空を飛び舞う兎あり、デフォルメの大樹あり、黄素地に鮮やかな竹松あり、四彩(緑、紺青、黄、紫)で色取られた百合ありと まさに大胆不敵とも見える意匠である。

古九谷は、発掘結果とその考古地磁気測定法による年代測定から50年後には作られないようになり80年後には完全に終わったとされる。ただし、伝世九谷の素地と同じものが古九谷窯からは全く発掘されないことや、前者に多くある目跡(窯の中で器同士の溶着を防ぐスペースサーの跡)が後者には全くないなどから、古九谷は九谷村で作られたものではなく、有田(伊万里)で作られたものとする説(古九谷伊万里説)が出された。これに対し、藩主の命を受けた後藤才次郎が修業した地である有田から素地を移入し、九谷で絵付けのみを行なったという説(素地移入説)が出され、古九谷伊万里説と素地移入説で論争が起こっている。

その後九谷焼は作られなかったが、文化年間(1804年以降)になり、古九谷の再興を目指して加賀藩により新しい窯が築かれ、その後明治期まで次々と新しい窯が作られ、合わせて「再興九谷」と称されている。再興九谷で最初に現れたのが「春日山窯」で、京都より青木木米が招聘され作陶が始まったが、木米の作風は赤や青を基調としたもので、青手古九谷の技法は見られない。その後再興九谷では一番の名声を博した「吉田屋窯」が古九谷窯跡地に作られた。大聖寺の豪商豊田伝右衛門が開窯しその屋号から命名されたものである。この吉田屋窯では日用品が多く量産されたが、古九谷同様高台に角福の入った青手九谷も多く作られた。赤を使わず塗埋手の技法を使うという青手古九谷の技法を用いたものだが、青手古九谷より落ち着いた濃さをもっている。全体として青く見えるため、青九谷と呼ばれ、後世これに倣った絵付けが多く行われるようになった。吉田屋窯はわずか8年で閉じられ、その後番頭であった宮本屋宇右衛門が「宮本窯」を開いたが、精緻な赤絵金襴の意匠が多く青手九谷は見られない。その後も「民山窯」「若杉釜」「小野窯」などが作られたが、嘉永年間(1848年以降)になって大聖寺藩松山村に著名な「松山窯」が藩の贈答用とするために始まり、吉田屋窯の意匠を継いで青手九谷が作られた。

以上のように古九谷、吉田屋窯、松山窯で青手九谷が作陶されたとするが、骨董として取引される青手九谷うち、古九谷では350年を経ているため多くが伝世されているとは考えにくい。吉田屋窯では購入時に日用品であるのに箱書きとしてその名を記したとは思われない。松山窯は官営であったため多くが作られたとは思われず、また全般に後世のように作者名が有ったわけではないため、結局伝世の青手九谷の真贋は決めがたいとされる。市場でこれら窯として取引される伝世品の多くが、次の明治以降のものである可能性が高いと思われる。

明治維新(1868年以降)で成った明治政府は、開国に沿って殖産興業を推進し伝統工芸品の輸出を奨励した。そのため九谷では各国の博覧会に出展し名声を得、多くを輸出した。明治前期には九谷焼の8割が輸出に回され輸出陶磁器の1位を占めるようになり、「ジャパン クタニ」のブランドはいやが上にも高まった。現存する半陶半磁を呈する骨董としての青手九谷の多くがこの時期のものと推量され、また明治前期に輸出された九谷が逆輸入されているものも多い。 青手九谷はその後も徳田八十吉などにより作られ、また現在も工芸品として金沢を中心として売られている。

***************************************************

青手九谷での特徴のひとつに緑の釉薬部分に気泡群が見られることです。



すべててにではありませんが、そのような作品がときおり見られます。



素地の悪いものの作品群があり、口縁などに鉄釉薬が塗られています。



ともかく豪放さからくる古格があります。



釉薬にあわせた補修の跡が見られます。




***************************************************

再興期:古九谷の廃窯から、約一世紀後の文化4年(1807年)に加賀藩が京都から青木木米を招き金沢の春日山(現在の金沢市山の上町)に春日山窯を開かせたのを皮切りに、数々の窯が加賀地方一帯に立った。これらの窯の製品を「再興九谷」という。 同じ頃、能美郡の花坂山(現在の小松市八幡)で、新たな陶石が発見され今日まで主要な採石場となった。これらの隆盛を受け、それまで陶磁器を他国から買い入れていた加賀藩では、文政2年(1819年)に磁器を、翌年に陶器を、それぞれ移入禁止にした。

***************************************************

さて、このような小汚いお皿・・・、あなたなら購入しますか?

ただ、古九谷はきれいなものばかりではなく特に代表的な、というかもっとも魅力のある青手古九谷は小汚いものなのです。下手モノと称する部類に入るものです。非常に数は少ないと記しましたが、意外と掘り出し物はあるようです。

ところで古九谷はどこで作られていたのかという基本的な謎が残っていますが、おそらくは伊万里で作ったものに九谷で絵付けをしたという説が有力らしいです。なぜ短期間で製作しなくなったのかというと、九谷の大聖寺藩と鍋島藩に約束事があり、それは九谷では生産しないという約束ながら、九谷で生産したのでは?、最初は絵付けだけ、その後本体そのものも・・。

鍋島藩や幕府へのその発覚を恐れて急遽、廃窯にしたのではないかという説が説得力があるように感じます。秘密の製作ゆえ、あちこちで内緒で作られたものもあり、焼成も未完成、ただ絵付のデザインは一流・・。

芭蕉の北陸来訪が幕府のスパイという説もあります。骨董は想像力の世界・・、だから面白い






鉄砂唐草茶碗 瀧田項一作

$
0
0
本日の作品は何通かの手紙が箱の中に収められており、作品の由来がよくわかる作品です。

鉄砂唐草茶碗 瀧田項一作
共布・共箱 銘:渡部良三による
口径160*高台径63*高さ75



銘は「歸雲」と題されています。本作品については幾つかの書付が遺されており、瀧田項一と渡部良三のやり取りから本作品は、瀧田項一が会津若松市飯寺に築窯した初窯の作品(1949年 濱田庄司のもとで3年の修行後福島県会津美里町(旧会津本郷町)に独立築窯)で、30余年後の1989年(昭和64年)8月に瀧田項一に依頼して、箱書にて共箱、共布となったものです。




「歸雲」は杜甫の詩「返照」の「歸雲擁樹失山村(歸雲を擁して山村を失う」からの銘であることが解ります。:四川省成都から長江を下る時に山大谷の町、夔州での作品)



茶碗としての魅力はまだまだ・・。

瀧田項一はご存知のように浜田庄司を師としましたが、浜田庄司の生誕120年を記念しての寄稿に浜田庄司の言葉を記しています。

「私は陶技を学ぶのに10年を費やした。そして、それを忘れるのに20年を要し、ようやく自分の焼き物が作れるようになったと思う。」という言葉です。

理解に苦慮する言葉ですが、浜田庄司は「智識は借り物のごときものである。智識としてとめずすべてを租借吸収して、自分の体内の血液となり細胞となってすべてを忘れ去り、掌の先から滴り出るような仕事こそ、真の作品である。そしてようやくそれができるようにあったら20年もかかった。」と説明しています。



たしかな才能がみられるお茶碗ですね。

浜田庄司はさらに「形の無い所を見なければいけない。」と言われたそうです。古作の優れたものを観るとその外核だけを眺めているが、目に見える形を越えたものをみなけらばならないと・・。



茶碗というものはひとつ間違うとただの安っぽい飯茶碗か漬物入れ・・。

さらに浜田は「人々は木の花を褒めるが、根の深い部分に大切なモノが宿されていることを知らねばならないもの。」と・・。



作陶の中ででおそらく一番天性のものが影響するのはお茶碗でしょうね。常人では計り知れないなにかが・・・・。

***********************************

瀧田項一:(たきたこういち(本名は幸一)1927年~。栃木県烏山町(現那須烏山市)出身、東京美術学校で富本憲吉に学び、益子の濱田庄司に3年師事後、 福島県会津本郷の磁土を使い、白磁や色絵の作品で民芸に通じ、健康的な作陶の道を進む。著作出版多数。栃木県文化功労者。



***********************************

焼き物には二つの生命があると浜田庄司はいいます。

初めは窯から出たとき、次はその焼き物を持った人の使い方による・・。焼き物は人々の手の中で息づきながら、完成するものなのでしょう。決して投資などの対象ではありません。

人物図 伝平福百穂筆 羽田子雲賛 

$
0
0
男の隠れ家にある車庫に予算の関係で扉を未了にしておいたら、どうも近所で猫を大量に飼っているらしく、車庫内が匂ってくるらしいし、車にも祖蘇したり、足跡だらけにされるとのこと。そこで、今回入り口にシャッターを取り付けました。郷里の自宅に20年以上前に取り付けた私のアイデアのオーバースライダーです。下記の写真は20年以上前のもので故障ひとつありません。塗装は一度振り替えました。



オーバースライダーの表面に無垢の木の板を張り付けたもので、ビス跡が見えないようにしてあります。



今回は2台分・・。木目に見せたプリントもあるようですが、本物志向が一番。愛想のないシャッターにぬくもりを・・。予算もあるでしょうが、木の国である日本再生には自らが木を使うという姿勢が大切です。皆がコストダウン、廉価販売ばかり、ダンピングだらけが日本の山林をダメにしたのです。魁から始めよ??・・・。



全部で工事費は100万ちょい・・。評判は上々らしく、田舎にはこんなものはないと言われているらしい

さて得体の知れない掛け軸もあるもの・・。得体の知れない画題です??? これは平福百穂の真作か??  どうもしっくりこない・・・。

人物図 伝平福百穂筆 羽田子雲賛 
紙本水墨軸装 軸先象牙 合箱
全体サイズ:横400*縦1890 画サイズ:横290*横990



賛には「睿明花富貴(牡丹の花) 琅玕(暗緑色または青碧(せいへき)色の半透明の硬玉。また、美しいもののたとえ、美しい竹、美しい文章、佳文)書静竹 平安 子雲譲 押印(「専譲画印」の白文朱方印 「子雲」の朱文白方印)」とあります。どういう意味かな??



明治末頃(1912年頃)、平福百穂35歳頃の作品かと推察されます。



煙草を吸っている?? 何を描いた作品なのでしょうか?



********************************

羽田子雲:幕末・明治の真宗本願寺派の僧。東京築地本願寺宝林寺の住職。天保6年(1835)生。名は専譲。岡本秋暉の門に学び、画を能くした。明治末期寂、寂年未詳。



********************************


********************************


平福百穂:穂庵の第4子として明治10年(1877)角館に生まれた。本名を貞蔵という。13歳のころに父から運筆を習っている。父穂庵は常に旅に出て留守勝ちであったが,明治22年,身体をこわして帰郷し,しばらく家にいることになった。その時,筆の持ち方,座り方,墨の擦り方まで教えた。しかし翌年,父が47才のとき,脳溢血のために急逝し,その教えを受けることはかなわなかった。百穂は「上の兄3人が絵とは違う道を志していたため『一人ぐらいは父の跡を継いだらよかろう』という周囲の勧めもあって,絵を学ぶことになった」と述懐している。が,14歳の時,穂庵追悼秋田絵画品評会に出品した半切が激賞されるなど,父の画才を色濃く受け継いでいた。16歳で父の後援者・瀬川安五郎の支援の下,絵の修行のため上京,川端玉章の門人となる。玉章は穂庵と旧知の中であり,そのころ,四条派の第一人者で,東京美術学校日本画科の教授をしていた。ここで,後に盟友となる結城素明を知ることになる。東京美術学校で学び,画家としての地歩を築いた百穂は22歳の時,いったん郷里に帰り,郷里にあって絵の勉強をするかたわら,友人達と中尊寺などに遊んだ。素明の勧めもあって,2年後の明治34年(1901)に再び上京し,やがて中央画壇で頭角を現していった。活躍の主舞台は素明らと結成した「无声会(むせいかい)」であった。自然や人間を清新な感覚でとらえた作品を発表して注目された。明治36年ころから伊藤左千夫,正岡子規,長塚節,斉藤茂吉らと交友するようになり,アララギ派の歌人としても活躍している。大正期(1912-1925)に入ると百穂の画風はさらに多彩となり,文展に「七面鳥」「豫譲」(第11回特選),「牛」を出品した。昭和7年に母校・東京美術学校の教授に任じられている。しかし翌年10月,横手市に住んでいた次兄の葬儀の準備中,脳溢血で倒れ,同月30日に享年57才で亡くなった。




********************************

本ブログでは作品の真贋については当方から判断は下していませんのでご了解願います。よく読むと解るようにはしているつもりですが、真贋の解らないものは解らないとしてあります。間違いのあった投稿は非公開、もしくは訂正していくつもりです。

ま~、骨董の真贋なんざ、とるにたらないもの・・、目くじらたてるほどのものでもない。


Viewing all 3050 articles
Browse latest View live


<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>